序章 北海道の少年 /第1章 リアルワン

 

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。)

 

 

 柳澤健の最新作は、筋書きに合う資料だけを連ねる偏りがあって、結果として佐山聡を持ち上げ、前田日明を貶めている。以下に検証する。

 

序章 北海道の少年

P21)

  試合開始早々、船木は掌底を次々に繰り出して高田をリングに這わせた。レフェリーの空中正三はダウンを宣言、リングアナウンサーがダウンカウントを数え始める。

 10カウントがコールされた時、高田はコーナーポストに寄りかかったままだった。

 当然、船木に勝利が宣言されるはずだったが、意外にもレフェリーの空中は試合を続行させた。

 

 1989年8月13日、第2次UWF・横浜大会のセミファイナル。

さすがに10カウントがコールされたらゴングが鳴らされる。ビデオを見ればわかるが実際は、高田が立ち上がったところでカウントは9で止まっている。

 

「週刊プロレス」(ベースボール・マガジン社、1989年8月29日号、No.334)

 しかもダウンカウントはナイン。高田はファイティング・ポーズを取らず、コーナーを背にして、ボウ立ちになっている。

 ボクシングなら、これで高田はKO負けを取られても、しかたがないように見えた。高田、最大のピンチである。

 

 ボクシング並みの厳格なルールの適用が必要である、との意見ならわかるが、「10カウント行ったのに試合続行」と書くのは嘘である。

 

 

1章 リアルワン

 

追記2017.6.24

P31)

 カール・ゴッチはルー・テーズに勝るとも劣らない強者だが、ふたりの間には決定的な差が存在していた。テーズの妻であるチャーリーは、亡き夫とカール・ゴッチの違いを次のように評している。

《カールはプロフェッショナル・レスリングのリアリティに決して飛び込んで行かなかった。カールにとって、レスリングは誇りであり、コンペティション(競争)だった。でも、ルーにとって、レスリングはビジネスだった。レスリングは、チケットを買ってくれる人の汗でできているのよ。》(『Wrestling Observer』2007年8月6日号)

 

 チャーリー夫人は30も年下の後妻で、テーズやゴッチの全盛期を直接に知る人ではない。夫といっしょにリングに上がっていたザ・シーク夫人のような人とは違う。「テーズ曰く」と付けなければこの考察も価値が限定されよう。

(追記終わり)

 

P33)

 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。カール・ゴッチは、短期間の例外を除いて前座レスラーの域を出ず、当然ギャランティもわずかなものだった。

 

 この記述はステレオ・タイプそのものだが、「短期間の例外」と留保をつけているところに、鵜呑みにしているのではなく知っていてわざと書いている印象を禁じ得ない。

流智美「やっぱりプロレスが最強である!」(ベースボール・マガジン社、1997)に、「ゴッチがアメリカでトップ・レスラーの名前をほしいままにしたのは’61年から’66年にかけての約6年間」とある。6年は短くない。以下も同書よりまとめる。

 

1959 北米へ渡る

1961 NWA世界王者パット・オコーナーに挑戦

1961 初来日、ワールド・リーグ戦参加

1962 ドン・レオ・ジョナサンから(オハイオ版)AWA世界王座奪取

「ジョナサンに勝ってから、セントルイス、シカゴ、フロリダ、シスコの4地区にレギュラーでサーキットできるようになり、ファイト・マネーも10倍以上になった」(ゴッチ談)

1963〜1964  NWA世界王者ルー・テーズに10度挑戦

1966 再来日

1968〜1969 日本プロレスのコーチに

 

追記2017.9.3

 「61年から’66年にかけての約6年間」以外は、ではゴッチはずっと前座レスラーであったのか、というと決してそうではない。渡米初年の1959年には既にメインエベンターになっている。

 

Cardboard Clubhouse

Wednesday, April 12, 2017 And In This Corner …

http://cardboardclubhouse.blogspot.jp/2017/04/and-in-this-corner.html

 こちらのページ(中程)で、1959年シンシナティ・ミュージック・ホールにおけるプロレス興行の新聞広告の切り抜きが紹介されている。

 上が12月12日、メインはカロル・クラウザー(ゴッチ)対ルフィ・シルバースタイン。

 下は11月28日、メインはルー・テーズ対カロル・クラウザーのインターナショナル選手権。これが恐らくテーズとゴッチの初対決。

 これらの大会については、WrestlingData.comに記録がある。

http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=336953

http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=336958

 

 “Sport Record”(Dayton Wrestling Club Edition)は、オハイオ州デイトンにおけるプロレス興行の新聞形式のプログラム。1960年3月29日号では、“Karol Krauser Returns after Short Absence”と題して、写真入りのトップ記事でカロル・クラウザー(ゴッチ)の復帰を知らせている。背中の怪我の後、数週間ドイツで養生していた由。ただし帰米前には欧州で試合をしたとも。確かに1960年1月ないし2月、ベルギーのアントワープで“The American Masked Man”と対戦する“Karel Istaz”ないし“Carl Istaz”の名が大書されたポスターが残っている。

 プログラムによれば、この日はメインでスウィート・ダディ・シキと組み、ジョニー・バレンド、マグニフィセント・モーリス組と対戦している。

 

下って1967年は、ロサンゼルス地区のWWAでマイク・デビアスと組んでタッグ王者だった。セス・ハンソンさんがTwitterで当時の新聞広告や記事を紹介している。

 

Seth Hanson‏ @SethHanson1982 2017年7月9日

https://twitter.com/SethHanson1982/status/883858307341070337

1967年7月8日、カリフォルニア州サン・バーナーディーノ、ビクター・リベラ&ニック・ボックウィンクルvsマイク・デビアス&カール・ゴッチ他。

 

Seth Hanson‏ @SethHanson1982 2017年8月6日

https://twitter.com/SethHanson1982/status/893885085925224449

1967年8月5日、カリフォルニア州サン・バーナーディーノ、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラvsマイク・デビアス&カール・ゴッチ、ミスター・モトvsザ・ブッチャー(ドン・ジャーデン)他。

 

50th state BIG TIME Wrestling

http://www.50thstatebigtimewrestling.com/1968-02-07.html

エド・フランシスがプロモートした黄金期のハワイのプロレスを紹介するサイト。

 1968年2月7日、ゴッチはメインイベントでケン・ホリス、ロッキー・ハンターと組んでジョニー・バレンド、リッパー・コリンズ、カーチス・イヤウケア組と対戦。

 

http://www.50thstatebigtimewrestling.com/1969-06-11.html

1969年6月11日。ゴッチは前座で金剛山(日本人ギミックのハワイアンらしい)と闘った後、負傷したドリー・ディクソンの代打でメインにも出場。ニック・ボックウィンクル、ペドロ・モラレスと組んで、イヤウケア、ゴリラ・モンスーン、ロッキー・モンテロ組と対戦。

 日本プロレスでのコーチ業を終えて帰米後はハワイで専ら軽い試合に出ていたようだが、いざとなればこのようにスター選手を左右に従えての堂々のメインエベンター振りが写真にも見て取れる。

(追記終わり)

 

追記2017.6.24

P35〜36)

 その後、ゴッチは6年ぶりにアメリカのリングに復帰した。上がったリングは意外にもニューヨークのWWWF(のちのWWE)。ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。

 

週刊ビッグレスラー(立風書房、1984年11月8日号)

熱筆コラム 黄昏の一杯とアメリカン・プロレス  安達史人(評論家)

 (前略)ただ、12チャンネルでアメリカのプロレスを放映していてそれはかかさずみていて、それが隠遁生活のまえなのかあとなのかはっきりしないにもかかわらず、この番組でみたカール・ゴッチの勇姿だけは今も鮮やかに記憶している。ストロング・スタイルとか、そんな激しいものでなく、ゴッチは頭から相手を馬鹿にして、うしろ足をひょこひょこけあげるような、何かの踊りを踊りつつ、相手のレスラーをやっつけるというぐあいで、しかし印象は強かった。(後略)

 

 ゴッチはその気になればフランス人を演じ、ショーマン・スタイルで闘うこともできた、ということであろうか。件の東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組は、田鶴浜弘さんが解説者を務めた「プロレス・アワー」と思われる。

 

追記2017.9.3

ゴッチのWWWF入りは1971年。「6年ぶりにアメリカのリングに復帰」とは一体どういう計算なのか。前述のようにハワイ・マットには1969年まで上がっているし、北米大陸に限っても1967年はWWAのタッグ王者。細かいことはどうでもいい、と考えているなら、初めから「久々に復帰」とでも書いておけばいい。

ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。」との記述も正しくないようだ。WWWFでの活動の記録は、探しても「カール・ゴッチ」名のものしか出て来ない。WWEの公式サイトでも、タッグ王者の系譜にある名前は「カール・ゴッチ」であって「ピエール・レマリン」ではない。

 

WWE.com Title History World Tag Team Championships

http://www.wwe.com/classics/titlehistory/worldtagteam

 「1970-1979」の「See More +」の所をクリックで、次の記載が出る。

 

 Karl Gotch & Rene Goulet  DEC 6,1971 - FEB 1, 1972 57days

 

Greenfield Recorder, MA Monday, January 3, 1972

 A WINNER-TAKE-ALL rematch, plus an appearance by new world tag team champions Karl Gotch and Rene Goulet get the 1972 big time wrestling season off to a roaring start Saturday evening at the Springfield Auditorium.

 (後略)

 左下隅の記事。新しい世界タッグ王者、カール・ゴッチとレネ・グレイが登場、と告知。

 

確かに、当時の日本の月刊誌「プロレス&ボクシング」や「ゴング」に、ゴッチがピエール・レマリン名でピッツバーグやトロントで活動している、との記述がある。しかし、その両地区の試合記録にゴッチの名もレマリンの名も見つからない。当時ピッツバーグではジート・モンゴルがプロモーターとなり、ブルーノ・サンマルチノをエースとしてWWWFの選手も使いつつも独自に興行を打っていたようだ。仮にゴッチがレマリン名で出場していたとしても、米国ではピッツバーグ限定だった可能性がある。サンマルチノは失冠して身軽になっており、ニューヨークはWWWF王者モラレスに任せて地元ピッツバーグを中心に軽めのスケジュールをこなしていたようだ。

 

Steel Belt Wrestling

Pro Wrestling in Buffalo, Pittsburgh, and Cleveland

Steel Belt Wrestling: An Overview

http://www.steelbeltwrestling.com/?p=7

The Pittsburgh Territory”のくだりを参照されたい。

Pittsburgh – 1971

http://www.steelbeltwrestling.com/?p=105

 ピッツバーグ(ペンシルバニア州)での1971年の試合記録。ただしこれで全てかはわからない。

 

Bruno Sammartino

From Wikipedia, the free encyclopedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Bruno_Sammartino

Studio Wrestling–Pittsburgh (1959–1974)” のくだりを参照されたい。

 

Gary Will’s Toronto Wrestling History (Internet Archive)

1971 RESULTS: Whipper Billy Watson's final year

https://web.archive.org/web/20120517074153/http://www.garywill.com:80/toronto/1971.htm

 トロント(カナダ・オンタリオ州)での1971年の試合記録。トロントはWWWFとは別のテリトリー。また、フランス語圏ではなく英語圏。

 

 「ピエール・レマリン」というリングネームは、元々はゴッチが北米に渡った当初(1959年夏〜秋)、往年のフランス系ベルギー人レスラー、コンスタン・ル・マランの甥としてカナダのフランス語圏モントリオール地区のマットに上がった時に使用したもの(「レマリン」は英語読み。ゴッチはベルギー人だがフランス系ではないのでこれはギミック)。ペッパー・ゴメスやボブ・ナーンドルと組んでボルコフ兄弟と闘ったカードでは、メインイベントに出場している。

 WrestlingData.comの1971年の記録は、5月まで(国際プロレス)と8月以降(WWWF)の間が空白になっているが、その間にモントリオール地区に昔の名前で出ていたようだ。6月7日ケベック州シャウィニガン大会の新聞広告に“Pierre Le Marin”(ピエール・ル・マラン)の名前がある(L'Eco du St-Maurice、1971年6月2日)。

(追記終わり)

 

 

追記2018.6.3

tvofyourlife.com

Memories Of Studio Wrestling

 Studio Wrestling In Pittsburgh - The 1970's

 http://www.tvofyourlife.com/sw70s.htm

… It is rumored that Gotch & Bruno didn't get along so Gotch never appeared on the Pittsburgh shows.

 

(前略)ゴッチとブルーノの折り合いが悪かったためゴッチはピッツバーグの興行に決して出なかったと噂される。

 

1971年にカール・ゴッチがピエール・レマリンを名乗ったのは、やはりピッツバーグではなくモントリオール地区限定だったのではなかろうか。

(追記終わり)

 

 

 

メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る