第2章 佐山聡 /第3章 タイガーマスク

 

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。)

 

2章 佐山聡

P51)

 1970年代半ば、すでに総合格闘技を構想し、実現に向けて歩き出した18歳の青年がいたということだ。青年の部屋には「真の格闘技は、打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」と大書した紙が貼られていた。

 天才としか言いようがない。

 佐山聡以前に、そのようなことを考えたプロレスラーはひとりもいなかったのだから。

 

 オール・イン・レスリングというものがあった。

 

1911 オール・イン=パンクラチオン=柔拳試合?

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW110206/

 

boxing wrestling.Nat Pendleton .

http://www.youtube.com/watch?v=VVsoQuxD0Ac

オリンピック銀メダリストからプロレスラーになったナット・ペンドルトンの“You Tube”動画。3:30過ぎからボクサーとスパーリングしている。

 

 

3章 タイガーマスク

P75)

 新日本プロレスのファンは、中学生から成人男性が中心だったが、タイガーマスクは小学生や主婦を含む幅広い層に受け容れられた。

『ワールドプロレスリング』の平均視聴率は20%を超え、新日本プロレスの大会には都市部はもちろんのこと、地方会場にも多くの子供達が押し寄せ、超満員が続いた。

 

 当時のブームはタイガーマスク1人で起こしたものではない。猪木がエースとして健在だったし、長州ら維新軍の存在も大きかった。TV放送はタイガーマスクの出ない週はあっても猪木の出ない週はなかった。

中学生だった1982年に見に行った仙台大会、タイガーマスクは出なかったが満員であった。

 

小佐野景浩「昭和プロレス維新」(日本スポーツ出版社、2000)

 (前略)新日本プロレスは昭和56年夏頃から「新日本ブームだ」と言われるほどの黄金期を迎えていた。猪木、藤波、タイガーマスク、維新軍団、次代のエースとも言うべき前田日明の凱旋帰国…と、まさに新日本は最強軍団にふさわしい陣容でビッグマッチを連発していた。

 

竹内宏介「続・新日本プロレス事件簿(改定補充版) 新日本プロレス 今、そこにある危機!!」(日本スポーツ出版社、2002)

「世間ではプロレス・ブームなどと称しているが、今のブームは単なるプロレス界全体のブームではない。新日本プロレスのブームなのだ」

 S56年9月23日、東京・田園コロシアムに超満員13500人の大観衆を集め、推定総売り上げで5千万円の収益を上げた新日本プロレスの新間寿取締役営業本部長は自信満々に胸を張って、そう豪語した。

 このS56年という年は新日本が業界の頂点に立つべく勝負をかけた年だった。同年5月、全日本プロレスの常連トップ外人だったアブドーラ・ザ・ブッチャーを札束攻勢で引き抜き、これを突破口にしてタイガー戸口(キム・ドク)、ディック・マードック(故人)を相次いで全日本から引き抜き、旗揚げ当時からの宿命のライバル団体であった全日本を一気に壊滅状態にまで追い込むための強行作戦に出た。

 (中略)

 さらにこの年の4月には劇画のヒーローだったタイガーマスク(初代=佐山聡)を現実のリングにデビューさせ、空前のブームを引き起こした。猪木、坂口、藤波、長州に加えてタイガーマスク人気で少年ファンの獲得にも成功し、夏の『ブラディ・ファイト・シリーズ』あたりからは全国各地で連続満員記録を次々と更新し、その勢いは誰にも止められない状態にまで到達していた。

 

P77)

 ニューヨークのプロレスファンは、梶原一騎原作のマンガやアニメのことなど何も知らない。コミックのキャラクターではなく、佐山聡の作り出したスタイル自体が強い説得力を持っていたのである。

 すでにサトル・サヤマはメキシコで、サミー・リーはイギリスで大きな人気を獲得していた。佐山聡が作り出したプロレスは、世界中で通用したということだ。

 1980年代初頭にそんなことができたレスラーは、佐山聡のほかにはただひとり、アンドレ・ザ・ジャイアントだけだろう。

 佐山聡はアンドレと並ぶ、世界規模のプロレスラーだったのである。

 

 アンドレと2人だけ、は過賞であろう。各テリトリーのトップ・レスラーの挑戦を受けて回るのが仕事であったNWA世界王者(当時ならハーリー・レイス、リック・フレアー)に失礼。軽量級のタイガーマスクは、人気はあっても日米ではメインイベンターではなかった。

 

 

 

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