第4章 ユニバーサル

 

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。)

 

4章 ユニバーサル

 

追記2017.6.24

P104〜106)

 プロフェッショナルであるマンテルは、試合を盛り上げようとベストを尽くしたものの、興奮した日本人のベビーフェイスは、観客を喜ばせることよりも、むしろ自分を強く見せることに夢中になっていた。

 そして最悪の瞬間がやってくる。

 マエダのスピニング・ヒールキック(フライング・ニールキック)がモロに顔面に入った、とマンテルは自伝の中で回想している。

《その一撃で俺は失神し、目からも口からも、そして鼻からも出血した。もし私が経験の少ないレスラーであったなら、マエダが俺にシュート(リアルファイト)を挑んできたと考えたに違いない。たとえストリートファイトでも、俺がこれほどまでにこっぴどく痛めつけられたことなど一度もなかった。

 その後のことは、マエダが俺をピンフォールしたことも含めて、何ひとつ覚えていない。覚えているのは、試合後の俺が若い日本人レスラー数人とレフェリーに支えられながら控室まで戻ったことだけだ。

(中略)

 ホテルまで戻るバスの中では、ずっと頭がガンガンしていた。急いで残りのスケジュールを確認すると、俺とマエダとの試合は組まれていない。心からホッとした。

(中略)

 ケーシーは、呆れ顔で言った。

「バカ言ってるんじゃないよ。ヤツらには最初から試合を盛り上げるつもりなんかないのさ。ほとんどシュートグループじゃないか!」

「どういう意味だ?」

「ヤツらは普通じゃない。80%がシュートで、ワークは20%だけだ。彼らは(観客を楽しませるためではなく)相手を叩きのめすためのトレーニングを積んでいる。パンチやキックを使って、試合を可能な限りリアルに見せようとしているのさ。マエダにボコボコにされたくせに、お前にはそんなこともわからないのか?」

 (中略)いま思えば、もし私がマエダの意図に最初から気づいていれば、あのような試合にはならなかった。最初からリアルファイトとわかっていれば、私が勝つことも可能だったはずだ。(後略)》(『The World According to Dutch』)

 

 ビデオを見ればわかるが、前田のきつい攻撃はニールキックだけ(顔に当たって口の中を切っている。ただしフィニッシュはジャーマン・スープレックス・ホールド)。マンテルは自分で立ってすたすた歩いてリングを降りている。旧UWF旗揚げ戦のメインを語るために、他であれほど引用している週刊プロレス等の専門誌ではなく、(翻訳が正しいとすれば)間違いだらけのマンテルの自伝をわざわざ引用するのは、前田が一番悪く書かれているから、としか思えない。

上記引用文の冒頭「興奮した日本人のベビーフェイスは、観客を喜ばせることよりも、むしろ自分を強く見せることに夢中になっていた。」は、引用でなく柳澤自身の筆になる部分だから、マンテルのせいにはできない。柳澤自身の責任による誤りである。

個人的には、試合が盛り上がりに欠けた要因はヒール役のマンテルの力量不足(知名度不足もあったろうが)であり、むしろ前田が一方的にマンテルを攻め倒した方がよかったのではないかと思う。

シリーズ第3戦(4/14下関大会)のメインイベントで2人は再戦し、ニールキック(当時の週刊プロレスの表記では「レッグ・ラリアート」)から体固めで前田が再び勝利している。マンテルの自伝に前田戦は1試合だけのように書いてあるのは、再戦があったのならそこでやり返さなかったのか、と言われないためであろうか。第2戦はメインでラッシャー木村に負け、第4戦はセミ・ファイナルでボブ・スイータンと組んで木村・剛竜馬組に負け(木村がマンテルをピン)、最終第5戦は第4試合で剛に負け。外人組では当初エース扱いだったのかもしれないが、段々ランクが下がって行った印象で、結果は全敗。

ちなみにスコット・ケーシーは木村、剛、マッハ隼人にシングル3連敗を喫した後、第4戦でやっと前田と対戦(メインで負け)。最終第5戦でマッハ隼人に雪辱して何とか1勝を上げた。旧国際プロレス勢を「シュートグループ」と感じたのだろうか。

(追記終わり)

 

P110)

 もし、前田がUWFに移籍せず、新日本プロレスに残っていたらどうなっていたか?

 長州力率いる維新軍の引き立て役をさせられていた前田が新日本プロレスのエースとなるまでには、恐ろしいほどの時間がかかったはずだ。いや、その日が永遠にこない可能性も充分にあった。

 しかし、実際には25歳で新団体のエースとなったのだ。新日本プロレスでくすぶっていた前田日明の運命は、新間寿に“騙されて”UWFに移籍したことによって開かれたのである。

 

1983.1-8テレビ放送視聴記録

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100111/

 

 上記ページに書いたが、欧州王者となって帰国した前田は、蔵前国技館でカール・ゴッチをセコンドにつけて凱旋試合を行い、その前週に長州と引き分けたポール・オンドーフに圧勝。続いて第1回IWGPに出場し、毎週TV放送に出ている。さすがにすぐエースになれたはずもないが、少なくともエース候補生として結構な売り出し方をされたのである。

「維新軍の引き立て役」ともあるが、よだれを流しながらサソリ固めを耐えた長州戦(1983年11月3日、蔵前国技館)は、高く評価されたと記憶する。暮れのMSGタッグ・リーグ戦にも、藤波と組んで出場している。

 

P123)

 3選手を囲んで、改めて結束を誓い合おうという小さな集まりに、伊佐早はひとりのゲストを呼んでいた。

『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめていたイラストレーターの更級四郎である。

 

 以下、更級四郎の談話に基づく記述が続く。あらためてインタビューしたのであろうが、その多くがKamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009.1.3、No.130)のインタビュー記事「ケーフェイを超えたUWFの真実」(聞き手 堀江ガンツ)に既に載っている。つまり後追い取材であるが、引用元以外の参考資料は一切示されていないため、知らない人は特ダネと勘違いするであろう。双方の異同を読み比べると非常に興味深い。

 なお、更級四郎が第1次UWFのブレーンであったと最初に公にされたのは、Kamipro」編集部編著「生前追悼 ターザン山本!」(エンターブレイン、2008)のインタビューであろうが、こちらはそれほど詳しいことは書かれていない。

 

P127)

 最後に更級は「ここが勝負だと思って、藤原喜明さんを引き抜いてくれ」とUWFの伊佐早に強く求めた。

 

Kamipro」(No.130)

更級 そしてしばらくして、伊佐早さんから連絡が来て「引き抜きに協力してほしい」と。そこで名前を挙げられたのが佐山さんと藤原さん。

――これは当時から格闘技路線でいこうという中でビックアップされたんですか?

更級 いや、そういうことじゃなくて、前田さんの意向ですね。(後略)

 

 どっちなのか。

 

追記2017.6.24

 ちなみにターザン山本も、自分が藤原引き抜きを提言した、と書いている(「暴露 UWF15年目の予言」世界文化社、1999)。

 しかし藤原は、旗揚げシリーズ最終戦に新日本から派遣されて出場した選手なのだから(ちなみにメインイベントの前田戦を裁くレフェリーとしてタイガー服部も派遣された)、UWFに引っ張ろうと発想するのは自然なことで、皆が手柄争いをするような話でもないと思う。

(追記終わり)

(P114)

 しかし、藤原が新日本プロレスのリング上で脚光を浴びることは決してなかった。単純にルックスの問題である。藤原は強いレスラーだが、スター性がなく、客を呼ぶ力を持っていなかったのだ。

 

P129)

 しかし、道場でいくら強くても、藤原は売れるレスラーには決してなれない。そう見ていた猪木は、藤原を世話係、身辺警護役、道場破り対応係として使った。何年経ってもリング上でのポジションは上がらず、当然、給料も極めて安かった。

 

別冊宝島179号「プロレス名勝負読本 あの日、リングに奇跡が起きた!」(宝島社、1993.6.22)

正規軍×維新軍<五対五>勝ち抜き戦●84年4月19日○蔵前国技館

幻のカウントスリーでみる「わかりたいあなたのための“序列・格”入門」(岡村正史)

 

(前略)しかし、前年秋のシリーズで突如、テレビマッチのセミファイナルに木村のパートナーとして起用された藤原は、ディック・マードック、バッドニュース・アレン組(このシリーズの外人最強タッグ)を敵に回してヘッドバット一本で大善戦をするという活躍を見せた。テレビでしかプロレスを見ない一般視聴者からすれば、見たこともない前座レスラーが実力派外人を蹴ちらした(結局はセオリー通りマードックのブレーンバスターに沈む)場面は“異様な光景”であったに違いない。

 しかし、マニア層から見れば、「藤原はほんとうは実力があるのだが、あえて前座に甘んじている実力者」との評価が確立していたわけで、「ようやく藤原の“格上げ”をやるのかな」という感じで受け止められたものだ(84年2月の札幌では、藤波の対戦相手だった長州をリングに向かう花道で襲撃するという不可解な行為に出て、藤原はテレビに出るレスラーに組み入れられた)。

 

 長州襲撃事件後、藤原は前座を脱し、「テロリスト」として売り出し中であった。この日は正規軍の副将として出場している。文中にある「マニア層」の評価は、村松友視「私、プロレスの味方です」(注)で定着したものと思う。地方の中学生だったわたしですら、藤原をそういう目で見ていた。「マニア層」の範囲はそう狭くはなかったはずである。

 藤原が選手として最初にテレビ放送に出たのはゴッチ戦(1982.1.1)ではなかろうか。ただし一瞬だった記憶。

 

追記2018.6.3

(注)

 村松友視の出世作となった「私、プロレスの味方です」(情報センター出版局)は、「ワールドプロレスリング」の放送で紹介され、相当売れたようだ。次々に続編が出て3部作になった(下記)。今は顧みられることも少ないように思うが、当時はプロレス・ファンに大きな影響力があった。

「私、プロレスの味方です」(1980年6月)

「当然、プロレスの味方です」(1980年11月)

「ダーティ・ヒロイズム宣言」(1981年7月)

 藤原について、第1作では特に触れられていない。第2作でも「六時半の男たち」という章の中に少し書かれているのみ。第3作では「岩のような前座、藤原喜明の世界」という一章が設けられ、猪木が認める前座の実力者として好意的に描かれている。わたしの記憶にあったのもこの本の記述だった。よって、上記文中の「私、プロレスの味方です」という書名は記憶違いでした。「ダーティ・ヒロイズム宣言」に訂正します。

(追記終わり)

 

 

P137)

 テレビ初登場となったこの試合を契機に、21歳の若者の前にはタイガーマスクの後継者という路線が敷かれていく。

 (中略)

 しかし、青春のエスペランサは、華やかな舞台を用意してくれた新日本プロレスを捨てて、マイナー団体のUWFに走った。

 

 UWFに来る前の状況を、前田と藤原に関しては冷遇されていたかのように書いているが、なぜか高田伸彦についてだけ、新日本プロレスでの売り出しぶりを強調している。

 

波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)

<藤原がメーンイベンターに満足していたのなら新日プロから離れて行きはしない。チャンピオンになりたいのなら高田はサンドバッッグを巡業に持ち込みはしなかった。

 猪木のプロレスがどうであるかではなく、自分のプロレスをやりたかった――それが藤原、高田UWF移籍の全てである>(『週刊ファイト』84年7月10日号)

 

 井上義啓編集長の文章である(この頃のファイトは実家にあり、手元にないので孫引きを許されたい)。

 

追記2017.6.24

 週刊ファイト1984年7月10日号より、直接引用する。

 

解説 プロレス・ルネッサンスへの同意

 昨年十二月、大阪・ナンバの「角力茶屋」で藤原、前田、高田の三人に話し合ってもらった。本紙読者ならおぼえておられるだろう。

 このとき、前田は、「外人レスラーが文句ばかり言うので、思い切った攻めができず、ゴッチさんから教わったプロレスが生かされていないのが残念です」と唇を噛んだ。高田は黙っていたが、藤原も前田と同意見で、「真のプロレスとは何か――それを考え、プロレスの原点に戻るべきだ」と、本紙I編集長提唱の「プロレスルネッサンス」に全面的に賛成した。

 奇しくも、この三人が、今回の電撃移籍で一つにまとまった。座談会をやった当時、こんな発展の仕方をするとは夢にも思わなかったが、この座談会を本紙が行っていたため、今回の藤原、高田UWF入りの背景が即座にのみ込めた。

 ゴッチ流のプロレスをリング上に生かし切ろう――それはすぐわかるのだが、隠された真の理由は、プロレスの原点に戻りたいという格闘技者としての熱望だったと思える。

 (中略)

 “テロリスト”藤原は、ひどく実体とは違う。やむなくそうなってしまったのだが、「メーンエベントでも藤原らしいプロレスをやれ。テロリストは藤原とは異質のものである」との本紙論調を、ここで思い出していただきたい。「メーンエベントに出場できるようになったのに、なぜ藤原は新日プロを去ったのか」「高田はJ・ヘビー級王座が目前なのになぜ?」とのファンの疑問に対する答えがこれだ。

 藤原がメーンエベンターに満足していたのなら新日プロから離れて行きはしない。チャンピオンになりたいのなら高田はサンドバッグを巡業に持ち込みはしなかった。

 猪木のプロレスがどうであるかではなく、自分のプロレスをやりたかった――それが藤原、高田UWF移籍の全てである。

 

 特に署名はないが、波々伯部さんが言うのだから井上義啓編集長の文章なのであろう。自分を「I編集長」と書くぐらいは普通なのであろう(「I編集長の喫茶店トーク」というシリーズ記事もあった)。

UWFを応援していたのは週刊プロレスだけではない。

(追記終わり)

 

 

 

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