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第5章 無限大記念日 /第6章 シューティング |
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(黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。) 第5章 無限大記念日 追記2017.6.24 (P164) 選手たちの入場テーマ曲やコスチュームについてアドバイスしたのは、『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめるイラストレーターの更級四郎だった。 荘厳かつスリリングな『ワルキューレの騎行』(リヒャルト・ワーグナー作曲)を藤原喜明の入場テーマ曲に選んだのは、東京藝術大学出身のアーティストだったのである。なんとわかりやすい話だろう。 「ワルキューレ」は新日時代に前田の入場曲として使われたのが先なので、転用とも言えよう。フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」に使われていたので、子供のわたしでも耳になじみがあった。ちなみに「スパルタンX」は、三沢光晴よりも先に上田馬之助の入場曲として使われている。 追記2018.6.3 「第4章 ユニバーサル」(P122〜125)には、新間寿がUWFを退陣後の1984年6月1日、更級四郎が伊佐早企画宣伝部長によってUWF関係者の夕食会に呼ばれ、UWFへの協力を依頼されて応諾したことが記されている。ところが、UWFオープニング・シリーズの4月17日蔵前大会で、既に藤原喜明の入場曲として「ワルキューレの騎行」が使われているのである(「週刊プロレス」1984年5月8日号)。更級は、まだ新間寿のいた旗揚げ時からUWFに関わっていたのか、それとも藤原の入場曲を選んだ、というのが嘘なのか。 また、新間寿・桜井康雄・竹内宏介共著「リングの目激者」(都市と生活社、1983)の表紙イラストを、新間の部下の伊佐早が更級に頼んだのが、両者の繋がりの始まり、とある。「Kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009、No.130)のインタビュー記事「ケーフェイを超えたUWFの真実」では、そのイラストの謝礼が破格の高額だったことについて、更級が「要するに新しい団体に協力してくれよってことだったみたいなんです」と語り、聞き手も「その当時から、新間さんがUWF旗揚げに動いていて、それに協力してもらうための“手付金”みたいな意味合いですか。」と話を合わせている。しかしその本の出版は、新日本のクーデターよりも前、新間が新日本の中核にいて新団体など考えるはずもない頃なのである。嘘であろう。 追記2017.7.30 (P165〜166) UWFの最高顧問に就任したカール・ゴッチも来日して、全10戦のシリーズすべてに同行。若手をトレーニングして、リング上で挨拶した。 それでも、「ビクトリー・ウイークス」の観客動員は決して好調とはいえなかった。 8月29日の高崎市中央体育館、30日の岡谷市民会館、31日の古河市体育館の観客動員はいずれも振るわず、9月2日の戸倉町綜合体育館の観客席はさらに閑散としていた。 その夜、戸倉温泉の旅館で小さな事件が起こった。巡業に同行していた更級四郎の部屋に、突然カール・ゴッチが現れたのだ。 「相変わらず絵を描いているの?」 更級はゴッチの似顔絵を週プロに描いたことがあり、ゴッチはそれを覚えていたのだ。 ゴッチは何かを言いたそうだったが、通訳が不在でうまく伝わらない。 ゴッチが去ってしばらくすると、高田伸彦が「更級さん、ゴッチさんが一緒に風呂に入ろうと言っています」と呼びにきた。 『週刊プロレス』のカメラマンが前田と高田が師匠ゴッチの背中を流している写真を撮り終えると、前田と高田とカメラマンは風呂を出た。 残ったのはゴッチと更級、そして通訳の3人だけだった。 ゴッチは更級の目をまっすぐに見て、深刻な顔で言った。 「このままでは、UWFがつぶれるのは時間の問題だ。サヤマをエースにしないといけない」 「週刊プロレス」1984年9月25日号、No.60 意外 無類の話し好き神様ゴッチ 逃げ回るUWFの弟子たち (前略) ジョークを連発するユーモアたっぷりの性格で、なにしろ一度ゴッチにつかまると3時間ははなさない。そのため佐山、前田、藤原らは、なるべくゴッチから理由をつけては逃げようとする。巡業中、ゴッチは外人と行動を共にするので日本人側は会場でしか顔をあわせない。 ところが、9月3日、この日は外人が長野県上田市、日本人が戸倉町でそれぞれ試合がなくオフ。のんびりしていた矢先の午前10時半、ゴッチが戸倉町の若の湯旅館にやってきた。 この若の湯旅館は温泉があり、温泉好きのゴッチがわざわざ上田から足をのばしてきたのだ。驚いたのはゴッチの弟子たち。 さっそく前田と高田のふたりが玄関に出迎え、温泉に案内、ゴッチの背中を2人がかりで流し始めていった。来日前、足の先を手術したゴッチにとってここの温泉はよほどきくのか、気持ちよさそうに湯につかっていた。(後略) 「週刊ファイト」1984年9月18日号 スポット ○…九月三日、UWFはオフで選手はのんびりしたものだが外人ホテルに投宿していたゴッチが日本人宿舎の温泉へつかりに来た。風呂を済ませロビーでくつろぐゴッチの姿を見て、昼ごろ目ざめた前田と高田はあわてて「グッド・モーニング・ゴッチさん」と挨拶。ところがゴッチは時計を見て「ノー、グッド・アフタヌーン」。「昨日午前四時ごろまで高田とプロレスについて話してたんですよ。ホント」と前田は必死に弁解をしたが、受け入れられない。結局、風呂へ入ってゴッチの背中を流すことで、ごきげんを取り結ぶことになったという次第。 9月2日の夜、ゴッチが上田に投宿していれば戸倉温泉の更級の部屋を訪れることはあり得ないし、前田と高田がゴッチの背中を流したのは2日の夜ではなく3日の昼。ゴッチがわざわざもう一度風呂に入ったのは、あくまでも前田らとの絵作りのためではないか。更級と話をするため、というのは無理がないか。「週刊プロレス」(10月9日号、No.62)には前田、高田がゴッチと共に湯船に漬かる写真も掲載されており、2人がゴッチの背中を流しただけで風呂場を出たということもない。そもそも、風呂場の撮影には週プロだけでなくファイトもいた。 柳澤の記述を真に受けるわけには行かない。少なくとも相当の脚色、ないし創作が加えられているのではないか。語り手のはずの更級自身も、柳澤の記述を一部否定している。 「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017) 長野県の戸倉町総合体育館(84年9月2日)での試合後、旅館の風呂場で更級がゴッチに「サヤマをエースにしないといけない」と言われたという話は語り草となっている。 更級 あれも、違うんだよ。独り言みたいにゴッチさんが僕に言うんですよ。「サヤマしか客を呼べないんだよねえ」って。だいたい、なんで「一緒に風呂に入ろう」って言ってくるのかわからないでしょ。そんなところで聞いてりゃ、いくら僕がバカだとしてもわかるじゃない。「フロントに『サヤマをエースにしろ』と言ってくれないか」ということなんだろうと。(後略) 前田日明は「当時、ゴッチさんに通訳をつけたことなんか1回もなかったんだよ?」と語り、このエピソードに疑問を呈している(「KAMINOGE」Vol.67、2017年7月6日発行、東邦出版)。 (追記終わり) (P178〜179) 「『週プロ』以外の記者は、みんなUWFをバカにしていましたね。たとえば前田さんと高田さんが、記者たちの前でスパーリングの形をやって記者たちに話をする。自分たちは原点に戻ったプロレスをやりたい。ガス灯時代の、格闘技だった頃のプロレスをやりたいと熱心に話す。記者たちはうんうんと彼らの話を聞くけれど、道場を一歩出た途端に『前田は何を言ってるんだ。10年早いよ』とバカにしている。UWFの扱いはそんな感じです。 記者たちが話を聞きに行くのは猪木さん。ちょっと前なら新間(寿)さん。彼らの言ったことをそのまま書く。情けない話ですけど、記事を書けば車代が出ますからね。佐山や前田の話を書いたって一銭にもならない。(中略) 僕はフリーだから関係ないけど、山本隆司さんや、編集長の杉山頴男さんには当然誘惑がくる。でも、当時の『週プロ』は一切拒否していた。団体から接待を受けたら書けなくなっちゃうから。山本さんは貧乏なのに、誘いを断って編集部にまっすぐ帰り、徹夜で原稿を書いた。山本さんが本当に頑張っていたことは、もっと広く理解されるべきだと思います」(更級四郎) ターザン山本「「金権編集長」ザンゲ録」(宝島社、2010) 新日本プロレスの記者会見に出入りするようになり、驚いたことがあった。それは記者やカメラマンに、茶封筒に入った5000円札が配られていたことだ。(中略) 大入り袋はともかく、記者会見に出席するだけで5000円というのは、ちょっと他のスポーツでは考えられない話。しかし、私はそれを固辞しようという気はサラサラなかった。もし、ここで自分だけ拒否すれば、他社の記者が困るし、何より空気を読まないヤツだとみなされて取材に支障をきたす。ただ『ゴング』を発行する日本スポーツ出版社の竹内宏介さんだけはカネを受け取らなかったと聞いた。 新日本が記者会見で現金を配っていたのはもちろん、マスコミ対策費である。 第2次UWFでも、1989年11月29日の東京ドーム大会「U-COSMOS」の際に、神社長から協力の謝礼として10万円を受け取ったことが書かれている。 SWSに関連してはもっとひどい。 波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)にも、SWSハワイ合宿の際に週刊プロレスの記者だけが10万円の「弁当代」を受け取った話が書いてある。 |
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第6章 シューティング 追記2017.6.24 (P217) 1981年にデビューしたタイガーマスクは日本のマスクマンの元祖だ。 ミル・マスカラスやドス・カラスに代表されるメキシコのマスクマンは存在したものの、日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて。(後略) 元祖は国際プロレスの覆面太郎(1967年。後のストロング小林)である。そのマスクは芸術的ではなかった、と言いたいのかもしれないが、では旧UWFの同僚でマスクマンの先輩、マッハ隼人は?そのマスクはメキシコのトップと同じものであったのだが。 「G SPIRITS」(辰巳出版、2013.5.5、Vol.27)は、「マッハ隼人が愛した「赤ラメのチカナ・タイプ」」と題してそのマスクを写真で紹介。メキシコのマルティネス製で、親友のサングレ・チカナからもらったものだという。「国際のデビュー戦を始め、初の後楽園ホールでのTVマッチなど重要な時にそれを被った」とある。マッハは1975年にメキシコに渡ってプロレスラーになり、1979年に国際プロレスに凱旋帰国している。 (追記終わり) 「Kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009.1.3、No.130) 更級 (前略)そうやってリアルに見せることに苦労してるとき、前田さんが僕のところに来てね「先生、俺、2部に落ちてもいいですよ」って言ってきたんです。 ――えっ!? 確かに一度、前田日明がBリーグに落ちたことがありましたね。あれは自分から申し出たんですか! 更級 大変なことだよ。普通にしてたらエースなのに、自分から2部に落ちるっていうんだから。前田さんはわかってたんだよね。エースである自分でも、少し気を抜けばBリーグに落ちてしまうっていうところを見せれば、UWFの厳しさやリアリティがアピールできるって。 ――自分が犠牲になって、UWFを確立させようとしたってことですよね。凄いなあ。 更級 それだけUWFのために必死だったんだよ。だから、そのあと高田さんが初めて山ちゃん(山崎一夫)に負けたんだけど、これは高田さんも前田さんの姿を見て、リアリティのためにはやらなきゃダメだ、と思ったんだろうね。僕はこれでうまくいくと思った。ところがね、今度は佐山さんが高田さんに負けたんだけど、その前の藤原さんとの試合で肩を脱臼して、肩のケガが原因で高田さんに負けたっていうストーリーにしちゃった。それはダメだろうって思ったよね。だって前田さんが2部に落ちてやってるのに、自分はケガっていう、エクスキューズをつけるって、それはないでしょう。 ――佐山さんの脱臼って、藤原さんがアームロックで脱臼させて「友だちの腕を折ってしまった……」って涙するやつですよね?あれは脱臼してなかったんですか? 更級 してないと思いますよ。 ――そうでしたか(笑)。 更級 あれはないと思ったな。もちろん佐山さんには言わないけどね。リング内はレスラーの自由だから。でも、あれを見て前田さんも高田さんもガッカリしたと思う。前田さんは何敗もして2部に落っこちて「練習不足だから負けた。また一からやり直す」ってマスコミにもコメントしてるのに、ケガかよって。そのケガも、藤原さんの関節技でケガしちゃったってことになってる。だから佐山さんの考えとしては、藤原さんの顔も立つし、自分の顔も潰れないって思ったんじゃない?でも、それじゃまるっきり従来のプロレスと同じだから。 (P222〜224) 控室の藤原は「折ってやろう、とは思ってなかった。友達を傷つけるなんて」と涙にむせんだ。 しかし、実際には佐山の左肩は脱臼などしていなかった。 「藤原さんも、やっぱり目立ちたいんです。だからこそ、『友達の肩を折ってしまった』なんて言う(笑)」 このように証言するのは、当時UWFのブレーンだったイラストレーターの更級四郎である。 (中略) 数日後に、後楽園ホールで高田さんとの試合があった。 佐山さんは肩にテーピングをして出てきましたね。高田さんは勝ったけど、すごくガッカリしていました。そりゃあそうでしょう。『本当は自分のほうが強いけど、ケガをしていたから負けた』と佐山さんに言い訳をされたんですから。佐山さんにはそういうところがある。負ける時には、あらかじめ理由を作っておくんです。やっぱりスターですからね」(更級四郎) (中略) そんな佐山に、更級はリーグ戦を提案した。選手たちを1部のAリーグと2部のBリーグに分け、Aリーグ最下位の選手はBリーグに落ちるという仕組みだ。 負けても失うものが何もないUWFにリーグ戦を持ち込むことで、降格の悲しみと昇格の喜びを生み出そうとしたのである。 「ほかのレスラーにBリーグに落ちてくれなんて、僕からは言えません」と佐山に断られた更級は、自ら前田日明に会いに行った。 「僕から前田さんに言いました。あなたや佐山さんが優勝したのでは誰も驚かない。でも、あなたや佐山さんが、意外にも1勝くらいらいしかできなくてBリーグに落ちれば、大変な話題を呼びますよ、って。 前田さんは即答しました。Bリーグに落ちてもいい。UWFを存続させるためだったら何でもやります、と。この人はいいなあ、と思いました。UWFが一番苦しい時に、前田さんが自分を犠牲にして頑張ったことは忘れられるべきではないと思います。 (後略)」(更級四郎) 前田のBリーグ落ちは、更級の提案なのか、前田が自分で言い出したのか。 藤原戦のケガが元で佐山が高田に負けたエピソードも、語り口のニュアンスが大分違う。 |
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追記2017.6.24 更級四郎が旧UWFでの2リーグ制導入と前田のBリーグ落ちを進言したとあるが、前田がBリーグに落ちた事実はない。層が薄くて2リーグ制は機能しなかった。高田は2度もBリーグに行くとされながら行かず仕舞い。Bリーグ廃止で山崎がAに上がったのみで入れ替えはなされず。 ・格闘技ロード公式リーグ戦 順位 1木戸 2藤原 3タイガー 4前田 5高田 6山崎 7空中 8マッハ 順位決定戦で高田に勝った前田まで4人がAリーグ入り(他に外人招待選手2名)とされたが、外人選手を1人にして結局高田もAに。 ・第1回公式リーグ戦(Aリーグ)順位 1藤原 2タイガー 3前田 4木戸 5高田 6キース・ハワード 日本人の最下位・高田と、Bリーグ1位・山崎(他は外人選手のみ)とで入れ替えのはずだったが、Bリーグは廃止となり、第2回リーグ戦は山崎を含めた日本人6名で行われることに決定。 「俺たちのプロレス VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017) 前田 (前略)佐山さんは一銭も出してない。「選手の面倒は俺が見る」って言うならいいよ。でもそれはしないで、「試合は月1回にしよう」「2リーグに分けよう」って、日本人選手は6〜7人しかいないんだよ?(笑) どうやってやるんだよ。 ――最後にはA・Bリーグ制になっていましたが、実際厳しそうでしたね。 前田 当時の状況では実現不可能みたいなことばっかり言うんだよ。(後略) (追記終わり) 「Kamipro」には柳澤健が書いていない内容もある。例えば次のような。 「Kamipro」(No.130) ――では、佐山さんは演者として天才でありながら、マッチメイクの才能もあったわけですね。自分がプロレスの天才だから、どうしても自分が目立つように持っていってしまうというか。 更級 それにリング上でもリング外でもトップをやるには、経済力があるか、あるいはホントに強くないとほかの選手がついてこないんですよ。で、結局は前田さんにしても、藤原さんにしても、佐山さんがそれほど強くないのはわかってるわけ。 ――えぇ!? そうなんですか? 更級 だっていままでずっと道場でお互いにスパーリングをやってるんだから。そういうことが選手はわかってる。でも、佐山さんはプロレスの天才だから、強く見えるんだよね。それが複雑だった。でも、ゴッチさんは「佐山をエースに」ってずっと言ってました。そうじゃなきゃお客が入らないから。自分が強いけど客を呼べないレスラーだったから、そのへんはわかってたんだろうね。でも、選手間に不満はあったと思うよ。 メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る |