第8章 新・格闘王 /第9章 新生UWF

 

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。)

 

8章 新・格闘王

(P248〜249)

 この試合を目撃したマスクド・スーパースターは、前田日明は最悪のレスラーだと証言している。

《(前略)

 私に言わせれば、マエダは男じゃない。マエダはアンドレに「バックステージで一対一でやりたい」と申し入れるべきだった。

 マエダはアンドレと離れた距離を保ち、ケガを抱えていたアンドレの足を蹴って破壊した。

 アンドレはマエダをつかまえようとしたが、できなかった。身体のコンディションが悪く、うまく動けなかったからだ。当時、アンドレの健康状態は良くなかった。

 アンドレ戦以前から、私のマエダに対する印象は良くなかったが、試合後は最悪なものになった。》(DVD『マスクド・スーパースター 流星仮面 栄光の軌跡』)

 

 シュートを仕掛けたのはアンドレの方である。スーパースターの批判は全くの筋違いで、難癖に過ぎない。なぜ引用するのか。

 

追記2017.6.24

P250〜251)

前田日明との試合後、新日本プロレスは必死にアンドレのご機嫌をとった。

「ビッグファイター・シリーズ」の最終戦は5月1日の両国国技館である。それから、IWGPリーグ戦がスタートするまでの2週間、アンドレには沖縄で休養してもらい、費用は全額新日本プロレスが負担することにした。

アンドレをアメリカに帰してしまえば、戻ってこないかもしれないと考えたからだ。

フロントの努力の甲斐あって、アンドレは5月16日から6月20日まで行われた第4回IWGPリーグ戦に出場してくれたものの、以後、新日本プロレスのリングにアンドレが上がることは二度となかった。

世界中どこでも稼げる超人気レスラーにとっては、不愉快な思いをしてまで新日本プロレスに固執する理由はひとつもなかったのだ。

 

「週刊ファイト」1986年5月6日号

沖縄特訓でゼイ肉落とし 大巨人

猪木しぶ〜い顔

 アンドレ・ザ・ジャイアントが何と沖縄でトレーニングするという。「IWGPシリーズ」は五月十六日、後楽園ホールで店開き。五月一日の両国大会が終了した直後アメリカへは帰らず、五日から沖縄でトレーニング、十四日の前夜祭に舞い戻ってくるというから驚く。一体、アンドレは何を思って沖縄特訓に突入するのだろうか。

 

 翌週5月13日号で報じられた前田戦より先に、アンドレの「沖縄特訓」は公表されており、無関係なのは明らか。こじつけはやめてほしい。

次期シリーズ「IWGP」では猪木にギブアップ負け(6/17)、タッグながら前田との再戦を組まれる(5/30前田・藤原対アンドレ・スヌーカ、両者リングアウト)等、新日本もアンドレのご機嫌をとる一方でもなかった。その後アンドレが新日本に来なくなったのは、前田のせいではなく、WWF(現WWE)の世界戦略の都合ではないか。

週刊ファイトの井上義啓編集長は「今年で幕を下ろす 猪木−アンドレ戦」と書いており、アンドレの新日本離脱は既定路線を匂わせる。その後のアンドレは、新日本の許可を得て米国でもマスクマン(ジャイアント・マシン)になった後、ヒール・ターンしてハルク・ホーガンと抗争。翌年のレッスルマニア3でホーガンにピンフォール負け。WWEの世界戦略に大いに貢献した。確かにその後、新日本で試合をすることはなかったが、猪木30周年セレモニー(1990年9月30日)でリングには上がっている。だから「新日本プロレスのリングにアンドレが上がることは二度となかった」も誤り。

 

「週刊ファイト」1986年5月27日号

昨日・今日・明日‥‥ファイト直言

今年で幕を下ろす 猪木−アンドレ戦

(前略)

 ☆…IWGPにおける猪木とアンドレの勝負は今年でさいごだろう。来年の話をすれば鬼が笑う。アンドレは今年一杯と見て沖縄特訓に出かけたはずなのに、ブラウン管で見たアンドレには何もなかった。時代は移り変わる。(中略)

 ☆…アンドレの沖縄特訓がどうであったかを問うのは愚かである。それより、何かを残したかが問われる。プロレスラー25周年の一九八六年に、猪木がどうアンドレと闘って二人の抗争に幕を引いたか。繰り返すが、二人の闘いに来年はない。

 

 柳澤は、シュートを仕掛けたのは誰かの指示ではなくアンドレ自身の意思であると(根拠も示さずに)書いているが、もしそうなら団体側には迷惑な話で、ご機嫌をとるどころか普通ならペナルティを科すような事案である。気を使っていたとすれば、それは新日を去るに際して長年の功に報いるとか、あるいはその前に猪木との決着戦に臨んでもらうためのインセンティブといったことだったのではないか。いずれにせよ前田戦とは関係あるまい。

 

追記2017.7.12

「東京スポーツ」(東京スポーツ新聞社)より、前田対アンドレ戦前後の情報を時系列に沿って整理する。

 

1986年4月26日号(25日発行、No.8852) 

大巨人、沖縄で秘特訓 5月1日シリーズ終了後、初の日本居残り 5・16開幕IWGP王座へ異常執念

 

1986年4月27日号(26日発行、No.8853)

これがIWGPの全容だ 猪木も予選から出場 アンドレと同グループ

(※IWGP公式リーグ戦での前田対アンドレ戦が消滅。5月30日広島県立体育館での前田・藤原組対アンドレ・スヌーカ組の特別試合が発表される。)

 

1986年4月29日(28日発行、No.8854)

前田、大巨人急きょ一騎打ち

 大巨人、前田の一騎打ちが、急きょ二十九日の津大会で実現!! 前田の念願でもあり、またファンの悲願でもあった夢のカードが突然現実のものとなった。二十七日、新日プロが明らかにしたもので、新日プロのマットに旋風を巻き起こしたUWF殺法が、どこまで世界の大巨人に通用するか、見逃せない一戦となる。

 次期『IWGPチャンピオンシリーズ』では、ジャイアントがAグループ、前田がBグループにと分かれる。五月三十日、広島大会の特別試合タッグマッチで対戦するものの、シングルで激突するには、両者が決勝戦に勝ち上がらなければならず、ファン悲願のこの対決は実現が危ぶまれていた。

 だが、今シリーズ外人勢とのシングル対決で、前田は大巨人戦への道を開いたのである。コーレイ、ブラウンを一蹴し、スーパースターとはリングアウトで引き分けに終わったが、好勝負を演じた。この実績が認められ、前田はジャイアントに挑むことになったのだ。

 (後略)

 

1986年5月1日号(30日発行、No.8856)

大巨人試合放棄 20分過ぎ突然“ストライキ” 前田烈火

(※4月29日の試合を1面で報じる。)

 

1986年5月14日号(13日発行、No.8867)

大巨人独占激白 沖縄キャンプを本紙が直撃

(前略)

――それではBブロックの前田については?

ジャイアント あのガキは新日プロのリングにキックボクシングをしにきてるのか!! あんなファイトに俺がまともに相手できるか(四月二十九日の津大会の謎の戦意喪失事件をさす)。レスリングで勝負できん奴など、俺はレスラーとして認めん!

 ――しかし、あの攻撃でだいぶ太モモにダメージを負ったようだが…

ジャイアント 無用の心配をするな。毎日、ウエートトレでパワーアップしている。ここにきて疲れもだいぶとれた。だが、そんなことより、新日プロのフロントは何だ!! 沖縄はスバラシイとうまいこといいながら、毎日毎日雨ばかりじゃないか。これは新日プロの陰謀だ。俺に目いっぱいトレーニングをされるのが怖いから、こんな雨の時期(沖縄は現在、梅雨)を選びやがったんだ。

 (後略)

 

 門馬忠雄記者のレポート。「国際プロレス時代以来なんと十年ぶり」にサインを引き受けたりと、機嫌はよかったようだ。

(追記終わり)

 

(P254)

 世界最高の人気レスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントに不快極まりない思いをさせた上に、新日本プロレスの看板レスラーに重症を負わせて欠場に追い込む。(後略)

 

 これは引用ではなく地の文である。自分から仕掛けて返り討ちにあったアンドレが「不快極まりない思い」をしても自業自得ではないか。

 

追記2017.7.12

(P254)

 10月9日の両国国技館大会で、前田はドン・ナカヤ・ニールセンという日系三世のアメリカ人キックボクサーと異種格闘技戦を戦うように命じられた。

「ニールセンは、新日本プロレスから前田をKOしろと命じられているのではないか?」

 疑心暗鬼に陥った前田は、試合前、6時間に及ぶ練習に打ち込み、体重は106kgと通常より10kg近く絞り込んだ。

 だが、実際には前田の取り越し苦労に過ぎなかった。

 ニールセンは「試合を盛り上げてくれ。早いラウンドでのKOはダメだ」と言われていた。そもそもニールセンは前田より20kgも軽く、パワーは及ぶべくもない。もし、前田を本気でつぶすつもりなら、それなりの相手をぶつけたはずだ。前田とニールセンの試合は、通常の異種格闘技戦以外のものではなかったのだ。

 

 当時の新日本プロレスが、前田と体重の釣り合うどんな「それなりの相手」を連れて来られたというのか、具体的に名前を上げてほしいものである。「試合を盛り上げてくれ。早いラウンドでのKOはダメだ」との記述は、次の記事から取ったのだろうが、出典を明かさないのはそれを読まれたくないからだろうか。しかし、「早いラウンドでのKOはダメ」は「遅いラウンドはシュート」を暗示していると思うのだが、では「通常の異種格闘技戦」はシュートであるということでいいのだろうか?

 

kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2005年10月31日発行、No.92)

格闘技人気の源流はこの男にあり!

前田日明と激闘をくり広げた“伝説の男”をタイでキャッチ!!

ドン・中矢ニールセン

聞き手&撮影/橋本宗洋 通訳/上杉HG 構成/堀江ガンツ

 

――こういうことをなぜお聞きしてるのかというと、べつに暴露話をしてほしいわけじゃなくて、ドンさんと前田さんの試合が他の異種格闘技戦と比べてとてつもなく緊張感があったからなんですよ。前田さんが異様に殺気立っていたことも含めて、普通のプロレスとか、プロレス内ビジネスとしての異種格闘技戦とは違ったものがあったんじゃないかと。前田さんは当時の新日本プロレスでは異分子で、ドンさんとの試合は「降りかかった火の粉」だったと。

ニールセン なるほどね。確かに「ここでこうやって、その次はこう」と流れを決めたわけではなかったね。ボクが言われたのは「試合を盛り上げてくれ」っていうことだけ。

――あ、その程度ですか。

ニールセン うん。だから緊張感があったんじゃないかな。それから、あの試合では1Rにボクのいいパンチが入ったのを覚えてるかい?

――覚えてますよ。前田さんもインタビューで「普通、いきなり顔面パンチを狙ってこないでしょ。あれは俺じゃなかったら倒れてますよ」と言ってます。

ニールセン あれはKOできそうなパンチだったね。だけどセコンドに「アーリーノックアウトはダメだ」って言われたりして、そういうところで、キックボクシングとプロレスリングのスタイルの違いがあったけれど、自分の中ではキックボクシングをやっているときと同じ気持ちだったよ。

――格闘家としての前田さんの印象はどうでした?

ニールセン ん?大きくて、強い人だったな。でも反応がちょっと遅かったね。

――キックとかパンチはどうでした?

ニールセン UWFとムエタイのキックは違うでしょ。ボクとの試合でも、彼のキックはUWFスタイルだった。だからボクは心配する必要がなかったね。でも、この試合のあと、マエダのスタイルが認められたんでしょ。

――と同時に、ドンさんも日本で認められましたよね。新日本のリングでキックの試合をしたり。藤原(喜明)戦、山田(恵一)戦では見事に勝利して。

ニールセン ああ、でもあれはビジネスファイトだよ(あっさり)。

――ビジネスファイトというと……。

ニールセン ビジネスファイトはビジネスファイトでしょ。

――わかりました(笑)。(中略)

 

――ところで、ご存知ないかもしれませんが、新日本の永田というプロレスラーが、PRIDE王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルと闘って無策で敗れたことを、前田さんが批判したんですよ。それに対して永田選手はドンさんと前田さんとの試合を揶揄したんです。自分とヒョードルの試合と、前田vsニールセンはジャンルが違う、というような感じで。

ニールセン まあ、そのナガタって選手がどう感じようと、それは彼の自由だよ。ボクは気にしないね、昔の話だし。20年前のことでいちいち目くじらを立てたってしょうがないよ。ただボクが若い頃だったら、ブッとばしていたかもしれないな(笑)。

 

 

追記2018.6.3

 2017年8月15日、ドン・中矢・ニールセン逝去。享年57歳。謹んで哀悼の意を表する。

ニールセン最後のインタビューが、「逆説のプロレスVol.9 新日本プロレスvsUWF「禁断の提携時代」マット秘史」(双葉社、2017年8月11日発行)に、「前田戦は結末の決まっていない「リアル・ビジネス・ファイト」だった!」と題して掲載されている。インタビューでニールセンは、「(前田)をKOしちゃいけなかった」と語っており、kamipro紙のプロレス」(エンターブレイン、2005、No.92)での「「アーリーノックアウトはダメだ」って言われた」から微妙に証言が変わっている(「早いラウンドでの」という限定に触れていない)。また、ニールセンがKO勝ちした藤原喜明戦、山田恵一戦についても、前田戦同様に「リアル・ビジネス・ファイト」と称している。

 前田の印象については次のように語っている。

 

――実際に対戦してみて、前田選手のファイターとしての力をどう思いましたか?

ニールセン マエダは身体も大きいし、パワーもあるプロレスラーだった。だがキックボクサーではなかった。だから、彼の打撃は、私たちキックボクサーの打撃とは違ったね。

――前田選手のほうが体重がかなり重かったですが、彼の蹴りより自分の蹴りのほうが強烈だった、ということですか。

ニールセン 違うタイプの蹴りだったね。

――20キロ以上体重が重い前田選手のキックを受けて、ダメージはありましたか?

ニールセン いや、なかったね。さっきも言った通り、試合の後、私は六本木に踊りに行ったくらいだから(笑)。

 

 こう語ってはいるものの、実際にはレガースを着けた前田のローキックに尻餅をついたり、インローに顔をしかめたりしている。「週刊ファイト」1986年12月19日号のインタビューでは、前田との再戦について聞かれてこう答えている。

 

 「そのつもりだ。今度闘えば勝つ自信はある。この前はサブミッションを十分研究できていなかったことと、マーシャルアーツでは禁止されている足の内側へのキックを受けて負けてしまったが、同じ手は2度と食わない。1Rで倒すつもりで向かっていく」

 

 彼のキックはUWFスタイルだった」(「紙のプロレス」)とは、レガース着用のことを言っているのかもしれないが、「違うタイプの蹴り」(「逆説のプロレス」)とは、足の内側へのキックを指していたのかもしれない。それにしても具体的な説明は避けた上「ダメージはなかった」とも語っており、率直に答えているようで自分の弱みは見せていない。時の経過と共に、自分のプライドを守る方向に発言が変遷している印象を受ける。

 

「週刊プロレス」1986年10月28日号 No.169

 初めてベールを脱いだニールセンのファイトは、1年3カ月前のビデオのものとは打って変わっていた。それもそのはずだ、前田がサブミッションを仕掛けると、その瞬間ロープに飛びつく、しかも反撃しながらだ。

 試合後の談話によると、ニールセンは3カ月も前からロスのジェット・センターで、初レスラー用のカリキュラムをこなしていたという。あの逃げ方はベニー・ユキーデから習ったものだそうだ。

 1R、左のストレートが前田の顔面を直撃する。この一発で戦意を喪失しかけ、試合後2時間も、前田は記憶が途切れることになる。

 3カ月前からトレーニングに励んだニールセンと、2週間前に試合の存在を知らされた前田、このハンディは計り知れないほど大きかった。

 

「週刊ゴング」1986年10月31日号 No.126

前田のプロレスは凶器だった ドン・ナカヤ・ニールセン

(前略)

 アメリカで俺は俺なりにプロレスを研究してきた。ロスでプロフェッサー・タナカに教え込まれた。しかし前田のプロレスは全く別のプロレスだった。奴のプロレスはプロレスではない。奴のは凶器だ。今、思い起こせば4ラウンドで右足をやられた。(後略)

 

準備してたニールセン <WKA認定スーパー・フライ級王者> ☆ユキ堀内

 ニールセンは1カ月前からビデオでよく研究していたようだね。ロープへ逃げるところなんか、その成果ですよ。前田は2週間前に対戦相手を知らされた、というから、前田苦戦の原因はそこじゃないですか。

 前田は、大きい者とスパーリングをやっていないので、相手のパンチをよけきれない。キックに幻惑されて不用意にパンチをくったね。でも、4ラウンドにヒザの内側を蹴ったのは非常に効いたらしい……ニールセン本人が言ってましたよ。(後略)

 

私は格闘家・前田日明の素質にホレ込んだ <新格闘術・黒崎道場師範> 黒崎健時

(前略)

 この試合の勝敗を決めたのは、4Rに放った前田のニールセンの膝の内側を狙った低いキックだ。これでニールセンはガクッときた。あの瞬間ニールセンは本当の意味での戦意を失ったのだ。あとの1Rは意地で戦ったようなものだ。

(後略)

 

「格闘技通信」1988年10月号 No.23

アメリカに本物のキックを根付かせてみせる!

ユキ・堀内をはじめ“革新派”が語るキック、ムエタイ事情

写真・リポート 上野 彰(本誌・北米通信員)

 アメリカで活躍する日本人キックボクサー、ユキ・堀内。渡米して8年、元日本フライ級チャンピオン。今も現役としてリングに上がる36歳のファイターである。

(中略)

堀内 WKAのルールというのはヒジ、ヒザはもちろん、時にはローキックまでダメで、おまけにフット・パット(足の防具)を付けることを選手に求めている。ISKは下半身へのキックを禁じている。これは自分達の目からみればキックではなくアメリカン・マーシャルアーツでしかない。(後略)

 

 少なくともWKAで闘っていた前田戦当時のニールセンは、ローキックがあまり得意ではなかったのではなかろうか。しかし、プロレスラーに少しでもキックで遅れを取ったとは、プライドに賭けて言いたくはなかったのではないか。

(追記終わり)

 

 

(P260)

 1987年11月19日の後楽園ホールでは、サソリ固めの体勢に入った長州の目の付近を前田が蹴り、長州の目はたちまち腫れ上がった。狙って蹴ったことは明らかであり、事態を重く見た新日本プロレス上層部は即座に無期限の出場停止処分を科した。

 現場の責任者である坂口征二は、記者たちに処分の理由を次のように説明した。

《プロレスのルールを破ってはいけないのと同じで、レスラーの仲間のルールを犯してケガを負わせた。》(『週刊ゴング』1988年1月23日号)

 プロレスが格闘技ではなく、相手を傷つけないために様々な工夫が行われていることについては、アントニオ猪木が率直に語っている。

《パンチや肘打ちにしても、打ち場所が問題だ。パンチならナックルではなく、拳の横の部分、肘なら鋭角なところからズレた部分を使って打つというのが暗黙のルール。》(『週刊プロレス』1988年2月16日号)

 

次に原典から猪木のコメントを端折らずに引用する。

 

「週刊ゴング」1987年12月25日号、No.185

「今回の問題でプロレスの新しいルールの確立という問題が出てきた。俺自身、これまで超えるか超えないかのギリギリの線でやってきた。パンチや肘打ちにしても、打ち場所が問題だ。パンチならナックルではなく拳の横の部分、肘なら鋭角な所からズレた部分を使って打つというのが暗黙のルール。このあたりの問題は来年に向けての大きな課題になってくると思う」

 

猪木が言っているのは事件を踏まえたルールの整備、明確化の話。同時に「前田のカットプレーが反則なら猪木のパンチはどうなんだ」という問いへの回答(ナックルでは打っていない)でもある。

肘についてはあまり知られていないが、新日本プロレスでは鋭角的な攻撃は反則(注)。昔も山本小鉄がTV解説で、直角に曲げて打つのは反則、と言っていたように記憶する。

猪木の発言の趣旨を理解しようとしてできないのか、それとも理解しようともしていないのか、都合よく切り取って趣旨を変えてしまっている。

更に問題なのは引用元が全然違うこと。「週刊プロレス」1988年2月16日号ではなく、「週刊ゴング」1987年12月25日号、No.185が正しい。わざと辿り着けないようにしているのではあるまいが、誰も引用元まで確かめる者はいないと高を括っているのか。

 なお、坂口のコメントも引用元が違っている。「週刊ゴング」1987年12月11日号、No.183、が正しい。ちなみに1988年の「1月23日号」はそもそも存在しない(近いのは「1月22日号」)。

 

(注)

新日本プロレス プロレスリング競技者規約

http://www.njpw.co.jp/rule

第三章 競技者の禁止事項

第一条

.爪先でのキックはいかなる箇所にも許されない。肘、膝の鋭角的攻撃も許されない。

 

追記2017.6.24

P269)

 『ワールドプロレスリング』は1988年4月から火曜午後8時のゴールデンタイムを離れ、土曜午後4時からの枠に移った。

 

テレビ朝日のプロレス中継は、ゴールデンタイムを離れる前は、金曜→月曜→火曜(悪名高き「ギブUPまで待てない!」)→月曜(いずれも午後8時)と変遷していた。火曜から土曜へ移ったというのは、だから誤りである。

(追記終わり)

 

9章 新生UWF

 

追記2017.6.24

P288〜290)

 『格闘技通信』1988年7月号には、旗揚げ戦を終えたばかりの前田日明の手記(実際には聞き書き)が掲載されている。

 新生UWFの方向性を示す所信表明演説ともいえるもので、大変興味深い。

 (中略)

 「UWFは真剣勝負をやっている」と、前田が手記の中で書いているわけではない。

 (中略)

 しかし、その一方で、この手記が読者を一定の方向に誘導していることは間違いない。

 「誰もが納得して見てくれる」「偽りのない本物のプロレス」「総合格闘技」。これらの言葉を文章にちりばめることによって、「UWFは真剣勝負をやっている」という印象を読者に与えようとしているのだ。

 

UWFは真剣勝負をやっている」と、前田自身が語った証拠を探したけれど見つからなかったのであろうか。「誘導していることは間違いない」「印象を読者に与えようとしている」と決め付けているかどうか。例えば「総合格闘技」という言葉になじみのある人が当時どれだけいたか。「プロレス」という言葉がややもすれば「やらせ」という意味で使われる、現在の視点からこの文章を読んでは誤るところもあろう。

そもそも「手記」とあるが、実際は違う。

 

昨日の睡眠時間は3時間。しかしなぜか疲れが感じられない。

まだ気持ちの高揚が続いているのだろう。

いまの気持ち、いろんな人たち、みんなに「ありがとう」といいたい。

こんな朝、迎えられるなんて、オレは……。

※これは翌13日、前田日明に「語って」もらったものです。本人の了承のもと、「手記」という形で発表させていただきます。

 

このように始まる「手記」だが、失礼ながらこのような状況で前田がどれだけ理路整然と語れようか。誰かはわからないが、文章のまとめた人の関与も大きいのではないか。よって、本人の「手記」であるからという理由で、特別に重要視する必要はないと思う。

UWFの方向性について前田は他の媒体でも語っている。

 

「週刊ファイト」1988年5月5・12日合併号

前田が語る 新生UWF構想の全貌 独占!!旗揚げ直前 ザ・ロングインタビュー

(前略)

 ――リング上に絞るとどうなります?もちろん、旧UWFの延長上にあるわけですが、旧UWFはある部分で行き詰っていましたね。

 前田 UWF独自でやった最先鋭のものを求める実験とは別に、今のプロレスもプロの技術を持った人間がやりようによってはもっとよくできるという気持ちも強い。それも求めたい。両輪だね。

 ――つまり二つの方向性を求める……。

 前田 でも、こちらからこの試合はこっちの方だとか言う必要はない。それはファンが勝手に考えればいいことだし……。

 ―― 一つの試合の中で、その二つが見え隠れすることもありうると……。

 前田 1試合の中でゴチャゴチャになることもあるだろうし、第1試合は完全に右の試合、第2試合は左の試合とか、ある日は3試合とも右の試合だったという場合もあるだろうね。

 (中略)

 前田 格闘技にあるのは攻めと防御だけ。受けの凄みを発揮するにしても思いっ切りやらなきゃ、客はついてこない。ハンパじゃない蹴りやパンチ。それならファンも「なるほど、レスラーは鍛えているな」って思う。天龍さんがやっているじゃない? ハンセンやブローディ相手に。あれが正当な受けの凄みだよ。

 ――前田選手も受けの凄みを出せる自信があるでしょ?

 前田 オレは天龍選手ほど頑丈じゃないから、やってみないとわからない。あの人だからできるというのがあると思うよ。

 

もっともUWFの段階で目指すものが実現できたとは限るまいが。後に前田は次のように語っている。

 

「週刊ファイト」1995年7月13日号

――前田選手はUWF時代から現在のリングスのようなものを目指していたんですね。

前田 と言うか、UWFはプロレスの原点回帰。それはもうできちゃったから、そのあと何が来るんだろうというとリングスしかなかった。

 

 前田以外の選手の言葉も紹介する。

 

「週刊ファイト」1989年2月23日号

山崎一夫の格闘講座

プロレスと格闘技は別物なのか もっと昔のレトロプロレスに戻そう

(前略)

 つまり、プロレスは格闘技にも芸能にも入らない、一つの独立したジャンルであるという点で、とらえ方が一致していたように思えた。これはプロレスを「ジャンルの鬼っ子」と称した村松友視氏の影響が大きいと思うのだが……。

 ボクの考えは違う。もちろん格闘技のジャンルにプロレスは含まれる。

 (中略)

 先頃、プロレス週刊誌等でよく目についた全日本プロレスの宣伝コピー。「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」を初めて目にした時、誰かが雑誌で指摘していたが、ボクも「じゃぁ、プロレスとは何なんだ」と思った。

 ひょっとすると馬場さんは「プロレスは格闘技である」と思っているかもしれない。しかし、あのコピーからは「プロレスと格闘技は異質」とのニュアンスしか感じとれなかった。それほど、今のプロレスは、レスリング以外で見せる部分が大きくなり過ぎた。でなければ、あのコピーで、プロレスが格闘技かどうかなどの論争は起きなかっただろう。

 それを“本来”の形に近づけようというのが、UWFであり、前田さんや自分らの主張だ。もちろん、どっちが“本物”だとか言っているのではない。

 全日プロでは「オールディーズ・バット・グッディーズ・レトロ」を企画してジョナサンを呼び、好評を博したという。

 同じレトロでも、プロレス自体を「もっともっと昔のレトロプロレスに戻そうじゃないか」――これがUWFなんだ。

 

「週刊ファイト」1988年12月15日号

高田延彦 あくなき挑戦者

 ――その他のテレビ番組などでも、やたらと“ほんもの”とか“真剣勝負”というフレーズが出てきて、それが反感を買っているようなところもあるけど……

 高田 うん、でもいまの時代はやってる方が“オレたちを見てくれ”という時代じゃなくなってきているから。昔は人気スポーツといったら、野球とか相撲だけだったでしょ?だからファンもそれに集まっていたけど、いまはおもしろいものがいっぱいあるんだから。ラグビーだっておもしろいし、F1なんてすごく盛り上がってる。もう勝手に選んで勝手に散らばってる時代でしょ?だからいくら“オレたちは本物だ”とか言ったところで、1回見てみて「なんだ、つまんねェな」となったらもう来なくなっちゃうんだしね。

 ――そうだね。

 高田 今の世の中、見る方の買い手市場じゃないけど、見る方の選択権が強いから、とにかく、講釈いわずに1回見て下さいでいいんじゃないですか。山ちゃんが言った通りで、全日本がおもしろい人は全日本、新日本が見たい人は新日本、三つとも見たかったら三つ見ればいいんです。(後略)

 

「週刊プロレス」1988年6月21日号 No.262

6・11札幌を前に高田延彦が爆弾発言!!

(前略)

――メジャーになりたい、という部分のことですが。

高田 ああ! その気持ちは強いですね。どんなに強くても、うまくても、メジャーになれないっていうのは、俺はイヤなんです。どこの世界にもいるじゃないですか? 日本一とかいっても、表には出てこれないっていう…。もちろん本人がよければ、それでいいんだけど、なんか俺はイヤなんです。

 プロレスにしても同じことで、とにかくメジャーなレスラーになりたい。だから俺、UWFを選んだんです。

(中略)

――そういえば、山崎選手も「東京ドームでやれるように…」という希望を話していましたね。

高田 東京ドームといえば、マイク・タイソンがいい例です。あの観衆のなかで専門的に見ているマニアは何人いると思います? ほとんどの人は「すごい迫力だ」って、それだけですよ。たとえ遠くにいる客にも伝わるものがあるわけでしょ、タイソンには。

 野球でも相撲でもラグビーでも、技術的な部分で見ているのは少ないと思いますよ。女の子なんて、ルールも知らないで見ているわけでしょ? でも何か、ひきつけるものがあるわけですよね。そういう部分で俺はメジャーになりたいんです。

――かつての旧UWFのようにグラウンドが中心になると…。

高田 絶対にメジャーにはなれないです。でも、そこのところが一番、難しい。マニアも離してはならないし、底辺も広げたい。その両方をつかまなければメジャーになれません。

 

「週刊ファイト」1989年1月5・12日合併号

検証 前代未聞の一大ブーム UWF徹底解剖 猛爆パワーの秘密

(前略)

他団体との兼ね合いを配慮 何も言わなくてもファンはついてきた

(中略)

 旧UWFはその成り立ちから絶えず追い詰められている緊張感があった。今にも崩壊しそうな危機感から、ともすれば妄想めいた被害者意識があった。加えて他団体との違いを強調しないことには崩壊必至。これらがUWFの過激な他団体批判となって表れた。しかし、これは信者と呼ばれる熱狂的ファンを作ったが、反面、新日ファンの反感を買った。UWF拒絶反応だ。だが、新生UWFには他団体を攻撃する必要はない。何も言わなくてもファンはついてきたのである。

 

 前田も高田も山崎も、他団体との比較が批判につながらないよう慎重に言葉を選んでいたようであった。それがファンの態度にも反映したようだ。次に引用するのは新UWF旗揚げ戦の解説であるが、こういう記事にこそ「慧眼」という言葉を贈りたい。

 

「週刊ファイト」1988年5月26日号

どこまで広げられるかファン層 減った過激ヤジ 旧UWFと同じ道を歩んではならない

解説

 新生UWFは明らかに旧UWFとは違うファンを掴んでいた。会場のムードは旧UWF時代の「折れ!」だの「殺せ!」だのの殺バツなヤジも少なく、女性ファンの姿が多く目についた。

 (中略)

 考えられる理由は二つ。テレビ放送のなかったに等しい旧UWFはあくまでもマイナーで、試合を見たファンの数は限られていた。それが新日プロマット参戦によってテレビに登場。初めてUWF勢の闘いぶりやレスラーの個性にひかれて、ファンになった。

 もう一つが、前田が言うように「現在のプロレスに落胆した反動で、期待を寄せる」ファン。海賊亡霊だの、ビッグバン・ベイダーだの、やたらとチビッコファンをターゲットにしたかのような新日プロ。その方向性にガッカリしたファンがUWFに救いを求める形で足を運んだ。

 (中略)

 旧UWFもこのようなファン層でスタートした。ところが、あまりに先鋭的、求道的になったため、プロレスらしい華やかさを求めたファンのUWF離れを起した。

 その結果、会場はUWF信者あるいはプロのファンを自負する観客によって占められ、「折れ」だの「殺せ」だの殺バツなヤジが横行した。大票田であるファンが締め出された形。これでは収容人数1万人以上の大会場は満杯にはならない。

 新生UWFは旧UWFと同じ道を歩もうとは考えていない。有明コロシアムや大阪府立体育会館、東京ドームなどを満員にできる団体を目指している。それには絶好のファン層を得てスタートを切った。

(後略)

 

「週刊ファイト」1988年6月2日号

★走査線上のファイター達★(文中、M=MAKOTO、T=竹内義和)

(前略)

 T UWFにとって一番怖いのは、一部マニアの勘違いだと思う。ハッキリ言って、UWFはプロフェッショナルレスリング(プロレス)なんですからね。

 M そうそう。UWFは、空手家でもキックボクサーでもないんです。前田―山崎戦はどちらもフラフラでしたでしょ。あれはお互いが限界まで相手の技を受けてるからです。空手もキックも、相手の技を受ける事はないし、受けて耐える肉体も作ってないんです。

 T UWFは、プロレスの究極をめざしてるんですよ。攻めはブローディ以上、受けは天龍以上、スピリットは猪木以上のものをね。

 M シュートをやろうとしてるわけではないんです。あくまでプロフェッショナルレスリングの完成がUWFの目標なわけ。そこをファンはわかってあげてほしいですね。

 

MAKOTO」は現在の北野誠。竹内義和と共にABCラジオで「MAKOTOのサイキック青年団」という番組をやっていた由。ただしお二人とも当時は関西でしか知られていなかったのではないか。ファイトではとても真面目にプロレスを語っていた印象。

 

P296〜297)

「マエダとの試合は、自分のファイターとしてのキャリアの中でも、最も難しい試合だった」

 と、ジェラルド・ゴルドーは振り返る。

「(前略)

 プロレスは難しいから私も敬意を表するが、マエダには言いたいことがある、

『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ。

(後略)」

 

 ゴルドーが怒っている(らしい)前田の発言は、一体いつなされたのであろうか。試合直後でさえ、前田はゴルドーに対して勝ちを誇るようなことは言っていない。仮にどこかで前田がそのようなことを語ったとして、それがどうやってゴルドーに伝わったのか。本書中のインタビューは、Q&AのQ(問)を省いてA(答)だけをまとめており、質問に煽りや誘導があっても読者にはわからない。また外国人の発言は、翻訳によって大分ニュアンスが変わり得る。誰かがゴルドーに裏を取りに行けば、かなり違う話が聞けるかもしれない。

 

「週刊ゴング」1988年9月1日号 No.220

「右目に1発もらったら塞がっちゃうと思ったから無意識のうちにガードが高くなってしまってボディとかに結構もらっちゃったね。手強い…パンチもキックも重くて、ガードの上からでも重いよ。(関節技を)ある程度、知ってるみたいで、逆に締めを食ったのは自分自身、ショックだったね。3Rでアキレス腱を決めなかったら、やられていたかも…。準備期間が長くて、神経がスリ減ったし、今回は自分自身、勝つことだけしか頭になかった」

 と、報道陣に囲まれて試合を振り返る前田。(後略)

 

「週刊ファイト」1995年3月9日号

 大成功を収めたリングス・オランダ旗揚げ興行。ヨーロッパ進出に向け、しっかりとクサビを打ち込んだ印象を残した。(中略)旗揚げを終えた前田をパリでキャッチ。2・19オランダを総括してもらった。

 (中略)

 ――ドルマン軍団の他にルッテンがいる、ゴルドーがいる。ウィルヘルムも来てましたね。彼らと話をしましたか?

 前田 したよ。ゴルドーは「今度はいつ、オレと試合をやってくれる?」って聞いてきた。

 ――何と返事を?

 前田 「そのうちやろう」と答えておいた。ゴルドーって何か抜けてるんだよね。(後略)

 

 後年でも悪口めいた?発言はこの程度のもの。リングスでは「ドルマン軍団」が幅を利かせていて、自分が重用されなかったという不満がゴルドーにあったのかもしれない。

 

「週刊ファイト」1985年3月19日号

昨日・今日・明日‥‥ファイト直言

コメントを正確に伝えないと大喧嘩

(前略)「金が必要だったし、ここは日本だから、わざと手加減してやった。そしたら攻め込まれて負けてしまったんだ」といった発言はレスラーなら十人中九人までが口にする。だれだって負けた試合を「全力をあげて闘ったんだが、相手の方が強かったので負けてしまった」とは言わない。こんな話は、ちょっと考えればわかりそうなものである。それを暴露すれば、とたんに真実と信じ込まれる。中には本当の話もあるが、すべてがそうだとは限らない。(後略)

 

 井上義啓編集長の文章。時代を超えて通用しよう。こういう反論を許さないために、もう一方の当事者に裏を取る(取れなくとも取ろうとする)ことが大事なのだが、柳澤はしようとしない。

 

P307)

 新生UWFのスタイルは、佐山がユニバーサルで作り出した“シューティング・プロレス”そのものだ。レガースもシューズもルールも、1か月に一度、大都市のみで興行を行うというやり方も、すべてユニバーサルの時に佐山が考え出した。だがいま、前田日明は、佐山のアイデアを丸ごとパクり、新生UWFを真剣勝負の純粋な格闘技と詐称している。

 多くの人々が前田の言葉を信じた。新聞も雑誌もテレビも広告も、あろうことか『格闘技通信』『ゴング格闘技』などの格闘技雑誌までもが、UWFを真剣勝負の格闘技と報じた。

 その結果、UWFは大ブームを巻き起こし、佐山のシューティングは、UWFの劣化版のように見られてしまった。コピーに本物が追い詰められたのだ。佐山にとっては、まことに厄介な事態であった。

 

 シューティングをUWFの劣化版、と見た人がいたのだろうか。別のものと見ていただけではないか。シューティング(修斗)がブームを起さなかったのは、UWFとは関係がなかろう。UWFがなくなっても、修斗にブームは起きなかった。その代わり今も修斗は続いている。目指すところが違った、でいいではないか。

 雑誌が何を取り上げるかは編集方針次第。「ゴング」には月刊誌時代はボクシング、キックの記事があったし、「フルコンタクトKARATE」もかつてはプロレスについても(UWF以外も)少しは書いていた。そもそも柳澤の理屈ではプロレス専門誌も否定されよう。

 

追記2017.7.20

 

「週刊ファイト」1987年1月2日・9日号

一般マスコミからホットに注目されたUWF

(前略)

 そのきっかけとなったのはやはり前田−ニールセン戦。あの試合は本来“猪木祭り”の添えものに過ぎなかった。それが、前田が身をもってUWFのポリシーを実践したため、終わってみると前田とUWFの人気を一気に高めることになった。

 面白いのは、プロレス専門誌がそろって前田を中心に据えた総合格闘技誌を創刊したこと。猪木さえもプロレスの枠の中で誌面から一蹴された。このことはファンの間に様々な波紋を投げかけているが、ことUWFに関する限り、わが意を得たりといった新傾向。

 

 独立前、まだ新日本と業務提携している頃に、UWFの人気が「格闘技通信」や「ゴング格闘技」の創刊を可能にしたのである。格闘技雑誌がUWFを扱ったことを、当時の状況を無視して今更難じることはナンセンスである。その少し前まで、「格闘技」と言えばアントニオ猪木、という時代であった(梶原一騎の「四角いジャングル」を見よ)。前田を扱うかどうかではなく、猪木を扱わないかどうかが問題となる時代であった。

(追記終わり)

 

UWFは真剣勝負をやっている」と、前田が手記の中で書いているわけではない。」(P290)から「新生UWFを真剣勝負の純粋な格闘技と詐称している。」へは飛躍しすぎであろう。結局、「詐称」の証拠を上げられていないので、単なる誹謗になっている。

 

追記2017.7.20

 1988年11月3日、中央大学の学園祭での講演会で、前田と山崎は次のように語っている。「詐称」の反証は、探せば出て来る。

 

「週刊ファイト」1988年11月17日号

 続いては「UWFだけが本物だというテレビの報道(プライム・タイムなど)が納得できません。冗談じゃないという気持ちです」との過激な質問。前田は「こっちは真剣で、向こうは違うなどと言うつもりはない。オレはプロレスが好きなんです。だから自分のやっていることに愛情とプライドを持ちたい。プロレス全体の将来のためにやっています」と熱弁。大きな拍手を受けた。また山崎も「どれが本物なんて関係ない。好きなものは好きなんです。オレはこれがいいと思うからUWFでやっている。新日本の人も全日本の人もそう思ってやってるはず。キミも自分の好きなものを応援すればいい」とキッパリ。

 

追記2017.9.3

 次のインタビューを読めば、当時の段階で前田の目指していたものがよくわかるのではないだろうか。前田は既存のプロレスを決して否定していなかった。

 

「週刊ゴング」1988年8月11日号 No.217

☆巻頭核心インタビュー

先週号の“天龍UWF発言”に前田が返答… 天龍さん 俺はプロレスをこう考える!

<聞き手/本誌・小佐野景浩>

 

 ――それにしても、いろいろUWFは論議の対象になりますからねえ。

前田 会社でやっている以上は今のプロレス・ファンを魅きつけなきゃいけない部分もあるよね。でも、このままでは満足できないんだよ。俺が本当に問題にするのは、プロレスと聞いて、すぐに「八百長だ、ショーだ」っていう人達。プロである俺達は、そういう人達に対して、どういう答えを出さなきゃいけないかっていう部分でUWFはやっているから。俺達が自負しているのは、今のプロレスを拒否する人達に対してのプロレス界の切り札であるということですよ。だから、今のプロレスを応援している人には「ありがとう。これからも応援して下さい」だけで何も言うことはないの。「今のプロレスは偽物ですよ。UWFは本物だから、UWFだけ見て下さい」っていうつもりはサラサラないんですよ。自分達がやっていきたいのはUWFっていう下地を守っていきながらプロレスを拒否する人達に、どういう風にオトシマエをつけるか。それが問題なんです。

 ――アメリカン・スタイルも否定はしない…。

前田 どんなスタイルも命賭けですよ。アメリカン・スタイルだって受け身の取り方一つ間違えれば死ぬんですからね。故意にボディスラムで頭から落とそうとする奴もいてそれで自分の受け身の技術で頭引っ込めて、体回して受け身を取ることもあるんだからシビアですよ。ただ、ここで考えなきゃいけないのは、今までプロレスを応援してきてくれたファンの中にも、その他大勢のような、プロレスをうとんじる風潮が出てきて、プロレス人気が落ちてきていることね。ファン自体もプロレスをナメたような見方してるでしょ、ハッキリ言って。ファンにナメられたら駄目ですよ。だから、もっと打ち出さないと、攻めていかないと。業界内のマニアだけを相手にしてるんじゃなくて、プロレスを拒否する人達をターゲットにすることによって、プロレスをうとんじるようになったファンを帰すことができるし、引っ張れるんですよ。

 

(追記終わり)

 

 「佐山のアイデアを丸ごとパクり」ともあるが、佐山がUWFのために考えたことを、残された者が続けるのに何の支障があるのか。用具もルールも、選手達の実践による試行錯誤によって進化して行った。旧UWFにおけるそれらの「実験」は佐山のためにもなったのではないか。そして、新生UWFでは佐山以外の人達によってそれが続けられた。

 

「週刊ファイト」1985年7月16日号

公式ルールの波紋 各選手で異なるシューティング理論 理想と理想の激突!!

(前略)

 今回のルール決定においても、ほとんど佐山一人の手で作り上げてしまった。時折、疑問を投げかけ、前田あたりが「ここは、こうしたらどうですか」などの意見を述べたに過ぎない。

 

 若干ながら前田らの意見も入っていたようだ。そもそも「シューティング・ルール」ではなく「公式UWFルール」だから、第2次UWFがそのまま使っても問題はなかろう。ただし実際にはかなり変えている。

 

「週刊ファイト」1985年7月23日号

ルールを通して見たシューティング UWF「格闘熱帯ロード」開幕

(前略)

 真新しいシューズが届けられた。ルール上の“キック専用シューズ”である。これまで使用していたシューズには問題があった。試合中、脱げそうになるのだ。それに足首の保護上にも難点がある。それを強烈に思い知らせる事件が起こった。前田の負傷→欠場だ。先の「格闘技オリンピア」開幕戦、“5・18”下関大会で前田は高田と対戦した。その試合中に、右足首ジン帯切断という重症を負った。

 前田はくちびるを噛みしめて「オレのミステークだ」と語ったが、試合中、シューズが何度も脱げそうになったのが最大原因だった。

 

公式UWFルール

2章競技用具

第3条       シューズ

1)UWF認定のレスリングシューズ、あるいはキック専用シューズ(スネから膝下全体を覆ったもの)を付ける。

 

 UWFの段階ではシューズとレガースが一体のものとして扱われていた。新生UWF のオフィシャル・ルール(1989年5月4日付のものを参照)では、シューズ、レガース、ニーパッドがそれぞれ材質、形状、重さを細かく規定されている。

 

8章 試合

 第30条 当て身攻撃使用規定

 (1)当て身攻撃で相手の首から上に対し、頭突き、ナックルや手甲によるパンチ、肘打ち、膝蹴りなどは使用してはならない。

 (2)当て身攻撃で下腹および、関節部への攻撃は行ってはならない。

 (3)UWF認定のキック専用シューズ以外をつけてファイトする時は、キック攻撃を行ってはならない。

 

 旧UWFでは上記のように、特に首から上への打撃が制限されているが、新生UWFでは顔面パンチが禁止で、頭突きは許されている。ただし肘打ちは全面禁止、膝蹴りはニーパッド着用が条件。新旧ルールともポジションに応じた更に細かい規定があるが、ここでは触れない。

 他に新旧ルールの相違点としては、ロストポイントの扱いがある。旧ルールでのロストポイント(ダウンとロープ・エスケープの回数)は、リーグ戦において勝敗ポイントが同点だった選手間の順位付けにのみ使用されるものだったが、新ルールにおいては試合の勝敗に影響するものになっている。つまり、ダウン1回ないしロープ・エスケープ3回でロストポイント1となり、それが5になるとTKO負けになる(5ノックダウン制)。また時間切れの場合、ロストポイント3以上の差で判定勝ちとなる。1988年9月24日から実施されたこの制度は、新生UWFとその後継団体の試合の大きな特徴となった。

 なお旧UWFでは、A・Bリーグの人数・構成(専属選手と招待選手)、試合形式、年間のシリーズ数やシリーズ・試合の間隔、シリーズ優勝や年間優勝、UWF実力NO1タイトルの制度等が、公式ルール内できっちり定められた。営業社員もルールに反発したというのはそのためである。新生UWFにおいては興行に関わる規定はルールにはない。

 

追記2018.6.3

第一次UWFのルールにも前田らの意見が入っていたことについて、山崎一夫はインタビューで次のように語っている。

 

G SPIRITS」(辰巳出版、2010.8.1、Vol.16)

――後に佐山さんは“シューティングのルールを150条ぐらい作ってあった中から、プロレスに見合うものを抜粋した”と言っていました。

「その辺の細かいルールの話は僕にはわからないですけど、佐山さんが土台というより、そこには前田さんもいたし、藤原さんもいたし、どちらかというと、僕なんかは前田さんの意見の方が多かったんじゃないかなって感じでしたけどね」

――それは意外ですね。

「ルールを作るのにしてもそうですけど、当時は実験の繰り返しでしたよね。ルールによって試合に緊迫感も出るし、選手の身も守るわけで。(略)」

(追記終わり)

 

追記2017.7.12

(P306)

 ユニバーサル(第1次UWF)を退団したのち、リアルファイトの総合格闘技を志す若者たちを集めて自らのシューティングを再スタートさせていた佐山聡は、9月11日に後楽園ホールで開催されたアマチュア・シューティング興行のなかで、UWFを次のように評している。

≪関節技というのは、極まれば、完全に極まって逃げられないものです。絶対に逃げられません。ロープに行けるとかそういうことも、まず100%、あり得ません。これが真剣勝負です。本当のね。なぜ僕が真剣勝負と言わなくちゃいけないんだろうとも思いますけど。≫(『格闘技探検隊』1988年10月号)

 

(P307)

 だからこそ佐山は「関節技は一瞬で極まる。ロープに逃げることなどありえない」と、格闘技のことを何も知らない観客に説明しなくてはならなかったのである。

 

「週刊ファイト」(新大阪新聞社、1989年11月16日号)

――前田選手も佐山選手も好きなんですが、自分も格闘技をやる人間として、関節技を決められて試合が終わらないのが不思議なんです。決められてからロープに逃げたり、ロープブレークの後に試合が続行されたりという……。

前田 関節技は決まったら終わり。でも同じレベルの者同士が闘ったら、関節技を決めるのがとても難しいということ。

 

「フルコンタクトKARATE」(福昌堂、1989年10月号、No.32)で佐山がプロレス批判を行った後の11月4日、早稲田大学での前田の講演会での質疑応答。

「極まったら逃げられない」が真ならば、「逃げられるなら極まっていない」がまた真。論理学の初歩。

佐山が代表を務める日本プロシューティングが主催した「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン1995」(4月20日)では、中井祐樹に腕拉ぎ十字固めを掛けられたクレイグ・ピットマンが、中井を持ち上げて抱えたままロープまで逃げたが、これもフェイクだと言うのだろうか。

時期が違う(よって佐山への反論ではない)が、藤原も似たようなことを言っている。

 

「週刊ゴング」(日本スポーツ出版社、1986年5月29日号、No.104)

「激談!前田日明VS藤原喜明」

藤原 俺がひとつだけ言っておきたいのは、この前の試合でマスコミに“藤原の関節技は効かない”って書かれただろ。ちょっと見方がおかしいんじゃねえか。いいか、出した技が毎回出すたびに100%決まるわけがないんだよ。お互いプロ同士が闘っているんだから、そう簡単に決まるわけがない。勝負っていうのは一つの技が完全に決まればそれで終わりなんだよ。その一回のためにいろんな技を繰り出していくんじゃねえか。(後略)

 

(追記終わり)

 

(P315〜)

「リングス・オランダ」の看板がいまも掲げられるアムステルダムノード(アムステルダム郊外の町)の道場でドールマンに話を聞いた。

「マエダとの試合はヤン・プラス(メジロジム・アムステルダム会長)が持ってきた。UWF関係者が全日本キックのカネダ(金田敏男会長)に相談し、カネダがヤンに連絡した、と理解している。

 2試合契約。リアルファイトということだったが、契約後まもなくヤン・プラスから電話が入り、『お前が負けを受け容れない限り、試合はできない』と言われたんだ。

 リアルファイトを望んでいた私は不服だったが、仕方なくフィックスト・マッチ(結末の決められた試合)を受け容れた。

 (後略)」

 

「紙のプロレスRADICAL」(ワニマガジン社、2005.4.25、No.85)

「リングス・オランダ総帥が語る前田日明! クリス・ドールマン」(現地取材・写真/瀬戸川伸明、構成/堀江ガンツ)

 

ドールマン (前略)…今度はオールジャパンエンタープライズのミスター・カネダ(全日本キックの金田会長と思われる)から電話があって、「前田という人間がいるんだが、『真剣勝負』してくれないか」とのことだった。『真剣勝負』でなら、ということでそのオファーを承諾したのさ。(中略)

――UWFというスタイルはどう思いましたか?

ドールマン とても気に入った。キックに関しては長い間練習してなかったので、キックの練習を再び始めなければならなかった。キック以外にも様々なスタイルに対応しなければいけなかったし、オールラウンドな力が要求された。とても好きなスタイルだった。しかし、UWFもショーであったことは認めなくてはならない。

――つまり、厳密に言えば真剣勝負ではなかったと。

ドールマン YES。当時としてはフリーファイト(総合格闘技)の完成度が高かったと思うが、リアルファイトではなかった。これはヤマザキと闘ったときのことなんだが、観客を喜ばすために、彼も俺もサンボ着を着て試合をした。89年11月(29日)のトーキョードームだった。(後略)

 

 「1984年のUWF」とは違って前田戦ではなく、山崎戦について語っている。

 柳澤健は、試合がシュートであったかにこだわりを持っているようだが、それならなぜU-COSMOSをその観点から検証しないのか。

 

追記2017.6.24

 上記で(後略)とした部分を続けて引用する。

 

そのときUWFの代表がこう言ったんだ、「DON’T KICK! DON’T WIN!」つまり「もし勝つとしても最初の2ラウンドで勝負を決めるな。最初の2ラウンド(1ラウンド5分)で、もし山崎が君の足を痛めることができなかったら、あるいは彼が君を倒すことが出来なかったら、その後は山崎を倒してもいい」とね。だから俺は10分はとにかく投げ技だけを使って試合を組み立てたんだ。彼は強烈なローキックを主体に俺を蹴りまくってきた。それはとても効いたさ。寝技を組み入れたが、すぐにブレークさせられ、その度に蹴りをいれられた。とにかくどんなことをしてでも10分持たせる必要があったんだ。そして3ラウンド腕を速攻で極めて勝利した。

 

(追記終わり)

 

 前田については次のように語っている。

 

――その後、あなたは前田選手と共にUWF、リングスで活動してきましたが、前田選手とはどうして懇意になれたのですか?

ドールマン もちろん何度も対戦したということが根底にある。それも真面目で紳士的な闘いだった。リング上での彼はいつも尊敬に値した。一度ヒザが相当悪かったときでも、ファイターとしての姿勢は変わらなかった。彼は本当のスポーツマンだったと言える。リング外でも信頼が置けた人物だ。彼をトラブルメーカーと呼ぶ向きもあるようだが、俺はそうは思わない。素顔のマエダは物静かな男で、いつも考えてから発言する男だった。俺も同じタイプだと思うが、多くの人間が彼に対し否定的な発言をしたり、裏切り行為をしたのならば、それに対し怒り、その怒りを素直に見せるのかもしれない。(後略)

 

 

 

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