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終章 バーリ・トゥード /あとがきにかえて |
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(黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。) 終章 バーリ・トゥード (P385) “200パーセント男”とは「高田さんが出るまでもない。俺がやります。ヒクソンには200パーセント勝ちますよ」と安生が豪語していたことからつけられたニックネームである。 鈴木健「最強のプロレス団体 UWFインターの真実」(エンターブレイン、2002) 結局、書状を送った特別招待枠の選手は誰ひとりトーナメントには出てこなかった。前田さんに関しても、結局は不参加ということになってしまった。それで「’94プロレスリング・ワールド・トーナメント」の開幕戦で安ちゃん(安生洋二)の不満が爆発してしまったんだ。 「前田は第2次UWFで終わった選手。いまやれば100パーセント以上、200パーセント勝てる!」 あの時にこういう発言をしてしまったんだよね。 こちらが先(1994年4月)。元UWF戦士達の確執については興味がないのか。 追記2017.6.24 「週刊ファイト」1988年8月4日号 アキラの明日 前田白書 ’88 文・次郎丸明穂 29
格闘技戦のルールは難しい メジャー化への制約 オープンルール 暗さと残酷さだけに (前略) 「本当に雌雄を決しようと思ったら、道場でロープブレイクなんか無しでやるしかないんだよね。お互いの技術をフルに生かせる形でね。でも、そうすると闘争に近いものになってしまう。お客さんに見せるもんじゃなくなっちゃうんだ」 なぜ、お客に見せられないのか。残酷になるというのも理由のひとつだが、それよりも地味になるからなのである。 ロープブレイクを失くし、グラウンドもフリーとしたときの試合を想像してもらいたい。 リングの端っこ、エプロン際になっても寝技の攻防が続いている。しかも、防戦に回った方は、きめられまいとして、ひたすらムキになる。 つまり、闘っている本人同士は必死でも、観客にとっては何だかわからない団子状態を見せられることになってしまうのである。 これでは興行として成り立たない。一部の好事家の中には、そういう試合こそ見たい、と目の色を変える人もいるだろうが、あまりオシャレとはいい難い。やっぱりスペクテータ・スポーツらしい爽快感を、見る人に与えなければならないのだ。 それに加えて、メジャー化のための制約もある。有明はニッポン放送の参入によるビッグイベント。各方面の企業にとっては、スポンサーになるメリットがあるかどうかをチェックするだろうし、同時に今後のテレビ放送の可能性を占う試金石の意味も持つ。 そういうコマーシャリズムが何をいちばん嫌うか。それは、暗さと残酷さである。 (後略) 書き手は前田のブレーンだった人。かぎ括弧の中は前田の発言。「有明」は8.13有明コロシアム大会「真夏の格闘技戦 The Professional Bout」で、ジェラルド・ゴルドーとの異種格闘技戦のルールが決まった際の記事。ヴァーリ・トゥード(当時はまだ日本で知られていなかったが)に対する前田の態度は一貫していたと言ってよいのではないか。 「週刊ファイト」1995年9月21日号 (前略)格闘スタイルを追求するが、前田はアルティメットスタイルには懐疑的だ。「ストリートファイトと同列でスポーツの持つエンターテインメント性がない」とまで言い切る。だから、前田はリングスをエンターテインメントの総本山であるラスベガスで試してみたい。プロボクシングのヘビー級と同様に、「リングスも激しさの中に華がある」ことを証明したいのだ。前田が頑固にアルティメットを拒む理由はここにある。 (追記終わり) |
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あとがきにかえて 前田がプレイヤーとしてシュート競技をしなかったと言うなら、それは(キックのコステロ戦を除けば)佐山も同じであろう。佐山が第1次UWFでしていたことを、前田はリングスまでしていた、というだけのこと。 第1次UWFを元に、第2次UWFができ、そこからリングス、Uインター、パンクラスが派生し、それらとの関わりの中でK-1、PRIDEも生まれた。その流れの中で佐山が身を置いたのは第1次UWFだけである。その真価は、そこからシューティング、修斗、掣圏道、リアルジャパンプロレスという流れで評価されればいいのではないか。 前田のリングスは、今は活動を休止しているが、リングス・ネットワークを作って世界に総合格闘技を広め、人材を輩出した。 両者ともプレイヤーとしてはプロレスラーの評価をすればよい。総合格闘技との関わりにおいて佐山をプランナーとして評価するなら、前田もオーガナイザーとして評価されてよいのではないか。 しかし、前田の魅力は本来、違う面にあったはずである。 |
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「Kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009.1.3、No.130) 安生洋二こそUWFの理念を最も忠実に実行した男である 堀辺正史 (聞き手 堀江ガンツ) 堀辺 前田日明人気というのは、ただ単にリング上で強いとか、トップレスラーであるということじゃないんですよ。いざとなったら、危険な一線を越える闘いをするんじゃないかということへの期待感と、その純粋性みたいな部分がファンを魅了し、前田幻想を生んでいたんです。 ――アンドレ・ザ・ジャイアント戦や長州力の顔面襲撃などから、セメント、シュートも辞さずのイメージが前田幻想を支えて、スポーツを超えた強者のイメージを作り上げてましたからね。 堀辺 そして、その前田の危険なイメージがUWF人気の根底でもある。ルールを整備してスポーツとして行ないますとしながら、ルールを飛び越えてしまうという危険なイメージを持っている。その両輪が前田人気、UWF人気を引っぱっていた。だから、安生のような行動を前田日明は最も期待されていたし、ファンもそういう男だと思って前田に心酔してきたわけですよね。でも、実際に彼がリング外でやっちゃったのは、格闘技記者とかパンクラスの社長みたいな一般人でしょ? 「安生のような行動」とは、ヒクソンへの道場破りのこと。結局、前田のことは批判しているのだが、その人気の分析は的を得ていると思う。 個人的には、UWFで自分より小さい日本人相手にちまちまと関節技をやっている前田を見て、もったいない感じがしたのである。当時、新日本プロレスにはベイダーやビガロといった、でかくてパワフルで動きのいい「恐竜パワー」(週刊ファイト井上義啓編集長の流行らなかった造語)が次々と来襲していた。前田が彼らとスケールの大きい、ダイナミックなプロレスをしてくれたらなあと思ったものである。 その点、リングスは前田の相手が外人ばかりなのがよかった。 追記2017.6.24 「シリーズ逆説のプロレスVol.8 新日本プロレス アントニオ猪木「罪と罰の闘魂最終章」」(双葉社、2017)における前田のインタビューによれば、新日の若手時代にサイレント・マクニーという選手とシュート・マッチを行った由(1979年4月2日)。かつては素人が思うよりも垣根は低かったのかもしれない。1994年8月20日、リングス横浜大会で前田とツハダゼ・ザオールというグルジアの選手の試合を見たが、ザオールの腰投げで前田が頭から落ちるなど地味ながらシュートっぽい試合であった。前田はこの試合で肋軟骨を骨折。 (追記終わり) メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る |