柳澤健「1984年のUWF」について(追記2)

 

 

※このウェブ・サイト「柳澤健「1984年のUWF」について」内の他の各ページに、2017年7月12日に追記をしました。その追記分だけをまとめたのがこのページで、同時にアップします。7月12日以降にこのウェブ・サイトを初めてご覧になった方は、このページを読む必要はありません。

 

 

8章 新・格闘王

P250〜251)

前田日明との試合後、新日本プロレスは必死にアンドレのご機嫌をとった。

「ビッグファイター・シリーズ」の最終戦は5月1日の両国国技館である。それから、IWGPリーグ戦がスタートするまでの2週間、アンドレには沖縄で休養してもらい、費用は全額新日本プロレスが負担することにした。

アンドレをアメリカに帰してしまえば、戻ってこないかもしれないと考えたからだ。

 

 「東京スポーツ」(東京スポーツ新聞社)より、前田対アンドレ戦前後の情報を時系列に沿って整理する。

 

1986年4月26日号(25日発行、No.8852) 

大巨人、沖縄で秘特訓 5月1日シリーズ終了後、初の日本居残り 5・16開幕IWGP王座へ異常執念

 

1986年4月27日号(26日発行、No.8853)

これがIWGPの全容だ 猪木も予選から出場 アンドレと同グループ

(※IWGP公式リーグ戦での前田対アンドレ戦が消滅。5月30日広島県立体育館での前田・藤原組対アンドレ・スヌーカ組の特別試合が発表される。)

 

1986年4月29日(28日発行、No.8854)

前田、大巨人急きょ一騎打ち

 大巨人、前田の一騎打ちが、急きょ二十九日の津大会で実現!! 前田の念願でもあり、またファンの悲願でもあった夢のカードが突然現実のものとなった。二十七日、新日プロが明らかにしたもので、新日プロのマットに旋風を巻き起こしたUWF殺法が、どこまで世界の大巨人に通用するか、見逃せない一戦となる。

 次期『IWGPチャンピオンシリーズ』では、ジャイアントがAグループ、前田がBグループにと分かれる。五月三十日、広島大会の特別試合タッグマッチで対戦するものの、シングルで激突するには、両者が決勝戦に勝ち上がらなければならず、ファン悲願のこの対決は実現が危ぶまれていた。

 だが、今シリーズ外人勢とのシングル対決で、前田は大巨人戦への道を開いたのである。コーレイ、ブラウンを一蹴し、スーパースターとはリングアウトで引き分けに終わったが、好勝負を演じた。この実績が認められ、前田はジャイアントに挑むことになったのだ。

 (後略)

 

1986年5月1日号(30日発行、No.8856)

大巨人試合放棄 20分過ぎ突然“ストライキ” 前田烈火

(※4月29日の試合を1面で報じる。)

 

1986年5月14日号(13日発行、No.8867)

大巨人独占激白 沖縄キャンプを本紙が直撃

(前略)

――それではBブロックの前田については?

ジャイアント あのガキは新日プロのリングにキックボクシングをしにきてるのか!! あんなファイトに俺がまともに相手できるか(四月二十九日の津大会の謎の戦意喪失事件をさす)。レスリングで勝負できん奴など、俺はレスラーとして認めん!

 ――しかし、あの攻撃でだいぶ太モモにダメージを負ったようだが…

ジャイアント 無用の心配をするな。毎日、ウエートトレでパワーアップしている。ここにきて疲れもだいぶとれた。だが、そんなことより、新日プロのフロントは何だ!! 沖縄はスバラシイとうまいこといいながら、毎日毎日雨ばかりじゃないか。これは新日プロの陰謀だ。俺に目いっぱいトレーニングをされるのが怖いから、こんな雨の時期(沖縄は現在、梅雨)を選びやがったんだ。

 (後略)

 

 門馬忠雄記者のレポート。「国際プロレス時代以来なんと十年ぶり」にサインを引き受けたりと、機嫌はよかったようだ。

 

 

(P254)

 10月9日の両国国技館大会で、前田はドン・ナカヤ・ニールセンという日系三世のアメリカ人キックボクサーと異種格闘技戦を戦うように命じられた。

「ニールセンは、新日本プロレスから前田をKOしろと命じられているのではないか?」

 疑心暗鬼に陥った前田は、試合前、6時間に及ぶ練習に打ち込み、体重は106kgと通常より10kg近く絞り込んだ。

 だが、実際には前田の取り越し苦労に過ぎなかった。

 ニールセンは「試合を盛り上げてくれ。早いラウンドでのKOはダメだ」と言われていた。そもそもニールセンは前田より20kgも軽く、パワーは及ぶべくもない。もし、前田を本気でつぶすつもりなら、それなりの相手をぶつけたはずだ。前田とニールセンの試合は、通常の異種格闘技戦以外のものではなかったのだ。

 

 当時の新日本プロレスが、前田と体重の釣り合うどんな「それなりの相手」を連れて来られたというのか、具体的に名前を上げてほしいものである。「試合を盛り上げてくれ。早いラウンドでのKOはダメだ」との記述は、次の記事から取ったのだろうが、出典を明かさないのはそれを読まれたくないからだろうか。しかし、「早いラウンドでのKOはダメ」は「遅いラウンドはシュート」を暗示していると思うのだが、では「通常の異種格闘技戦」はシュートであるということでいいのだろうか?

 

kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2005年10月31日発行、No.92)

格闘技人気の源流はこの男にあり!

前田日明と激闘をくり広げた“伝説の男”をタイでキャッチ!!

ドン・中矢ニールセン

聞き手&撮影/橋本宗洋 通訳/上杉HG 構成/堀江ガンツ

 

――こういうことをなぜお聞きしてるのかというと、べつに暴露話をしてほしいわけじゃなくて、ドンさんと前田さんの試合が他の異種格闘技戦と比べてとてつもなく緊張感があったからなんですよ。前田さんが異様に殺気立っていたことも含めて、普通のプロレスとか、プロレス内ビジネスとしての異種格闘技戦とは違ったものがあったんじゃないかと。前田さんは当時の新日本プロレスでは異分子で、ドンさんとの試合は「降りかかった火の粉」だったと。

ニールセン なるほどね。確かに「ここでこうやって、その次はこう」と流れを決めたわけではなかったね。ボクが言われたのは「試合を盛り上げてくれ」っていうことだけ。

――あ、その程度ですか。

ニールセン うん。だから緊張感があったんじゃないかな。それから、あの試合では1Rにボクのいいパンチが入ったのを覚えてるかい?

――覚えてますよ。前田さんもインタビューで「普通、いきなり顔面パンチを狙ってこないでしょ。あれは俺じゃなかったら倒れてますよ」と言ってます。

ニールセン あれはKOできそうなパンチだったね。だけどセコンドに「アーリーノックアウトはダメだ」って言われたりして、そういうところで、キックボクシングとプロレスリングのスタイルの違いがあったけれど、自分の中ではキックボクシングをやっているときと同じ気持ちだったよ。

――格闘家としての前田さんの印象はどうでした?

ニールセン ん?大きくて、強い人だったな。でも反応がちょっと遅かったね。

――キックとかパンチはどうでした?

ニールセン UWFとムエタイのキックは違うでしょ。ボクとの試合でも、彼のキックはUWFスタイルだった。だからボクは心配する必要がなかったね。でも、この試合のあと、マエダのスタイルが認められたんでしょ。

――と同時に、ドンさんも日本で認められましたよね。新日本のリングでキックの試合をしたり。藤原(喜明)戦、山田(恵一)戦では見事に勝利して。

ニールセン ああ、でもあれはビジネスファイトだよ(あっさり)。

――ビジネスファイトというと……。

ニールセン ビジネスファイトはビジネスファイトでしょ。

――わかりました(笑)。(中略)

 

――ところで、ご存知ないかもしれませんが、新日本の永田というプロレスラーが、PRIDE王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルと闘って無策で敗れたことを、前田さんが批判したんですよ。それに対して永田選手はドンさんと前田さんとの試合を揶揄したんです。自分とヒョードルの試合と、前田vsニールセンはジャンルが違う、というような感じで。

ニールセン まあ、そのナガタって選手がどう感じようと、それは彼の自由だよ。ボクは気にしないね、昔の話だし。20年前のことでいちいち目くじらを立てたってしょうがないよ。ただボクが若い頃だったら、ブッとばしていたかもしれないな(笑)。

 

第9章   新生UWF

(P306)

 ユニバーサル(第1次UWF)を退団したのち、リアルファイトの総合格闘技を志す若者たちを集めて自らのシューティングを再スタートさせていた佐山聡は、9月11日に後楽園ホールで開催されたアマチュア・シューティング興行のなかで、UWFを次のように評している。

≪関節技というのは、極まれば、完全に極まって逃げられないものです。絶対に逃げられません。ロープに行けるとかそういうことも、まず100%、あり得ません。これが真剣勝負です。本当のね。なぜ僕が真剣勝負と言わなくちゃいけないんだろうとも思いますけど。≫(『格闘技探検隊』1988年10月号)

 

(P307)

 だからこそ佐山は「関節技は一瞬で極まる。ロープに逃げることなどありえない」と、格闘技のことを何も知らない観客に説明しなくてはならなかったのである。

 

「週刊ファイト」(新大阪新聞社、1989年11月16日号)

――前田選手も佐山選手も好きなんですが、自分も格闘技をやる人間として、関節技を決められて試合が終わらないのが不思議なんです。決められてからロープに逃げたり、ロープブレークの後に試合が続行されたりという……。

前田 関節技は決まったら終わり。でも同じレベルの者同士が闘ったら、関節技を決めるのがとても難しいということ。

 

「フルコンタクトKARATE」(福昌堂、1989年10月号、No.32)で佐山がプロレス批判を行った後の11月4日、早稲田大学での前田の講演会での質疑応答。

「極まったら逃げられない」が真ならば、「逃げられるなら極まっていない」がまた真。論理学の初歩。

佐山が代表を務める日本プロシューティングが主催した「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン1995」(4月20日)では、中井祐樹に腕拉ぎ十字固めを掛けられたクレイグ・ピットマンが、中井を持ち上げて抱えたままロープまで逃げたが、これもフェイクだと言うのだろうか。

時期が違う(よって佐山への反論ではない)が、藤原も似たようなことを言っている。

 

「週刊ゴング」(日本スポーツ出版社、1986年5月29日号、No.104)

「激談!前田日明VS藤原喜明」

藤原 俺がひとつだけ言っておきたいのは、この前の試合でマスコミに“藤原の関節技は効かない”って書かれただろ。ちょっと見方がおかしいんじゃねえか。いいか、出した技が毎回出すたびに100%決まるわけがないんだよ。お互いプロ同士が闘っているんだから、そう簡単に決まるわけがない。勝負っていうのは一つの技が完全に決まればそれで終わりなんだよ。その一回のためにいろんな技を繰り出していくんじゃねえか。(後略)

 

10章 分裂

P337〜339)

 1988年4月にヨーロッパ遠征に出かける以前から、すでに船木は将来有望な若手として、旗揚げ直前の新生UWFから移籍の誘いを受けてきた。

 ドイツでもオーストリアでもイギリスでも、船木は神新二が毎週送ってくる『週刊プロレス』を楽しみに読んだ。UWF関連の記事を読み、写真を見た船木は、UWFがリアルファイトであると信じた。UWFならば実力だけで上に行ける。そう考えた船木はUWF移籍を決意する。

 ところが、実際に移籍してみると、UWFは船木が考えていたようなリアルファイトの格闘技団体ではなかった。“格闘技の技を使ったプロレス”(『船木誠勝の真実』)に過ぎなかったのだ。

 (中略)

 堀辺はこの時期の船木について、次のように語っている。

≪(前略)

 こちらが「前田を倒せ」というと、船木の表情がくもり、精神的な負担をおっていった。それは前田を倒すことが、むずかしかったり怖いからではなく、プロレスだからやれない。そうこうしているうちに私と船木との関係は、どんどん気まずいものになっていった。

 私としては、骨法を単にレスラーのステイタスをあげるための衣装や道具として使うのならやめて欲しい。ウチのワザは飾りじゃないんだ。骨法は実戦第一主義。最後に船木には言いましたよ。「ウチにきている意味はないね」と。そうしたら彼はやっぱり前田をとった。(中略)「Uイズム」は前田にもなかったし、船木にもそれはなかった。みんな幻だった。≫(『週刊プロレス』1991年2月12日号)

 

 上記引用文の後半(≪≫の間)は、週刊プロレスの孫引きになっている。最後の「(中略)」は、わたしではなく柳澤が自著に週刊プロレスから引用する際に略した部分である。あらためて原典より引用する(なお、週刊プロレスの原記事は、骨法の堀辺正史師範と山本隆司編集長の対談形式となっている。柳澤本では、間に入った山本の言葉を特に何の断りもなく削って、堀辺の言のみをつなげて引用している所がある)。

 

山本 それはUにとって、非常に象徴的な話ですね。

堀辺 私が考えていた「Uイズム」といわれるものは、実際にはどこにも存在しなかった。皮肉なことに「Uイズムの申し子」といわれていた船木によって、それが証明された。面白いことには、ウチの道場にきていた時は、船木は負けることが多く、こなくなった途端に勝ち続けていった。Uイズム」は前田にもなかったし、船木にもそれはなかった。みんな幻だった。

 

UWFでの船木の試合の勝敗は、骨法への当てつけか嫌がらせ、とでも言いたいのだろうか。もしそうだとすれば、いささか被害妄想気味ではなかろうか。

対談の前段では、藤原がSWS入りし、船木と鈴木も付いて行くかもしれない、と当時の状況について語り合っており、UWFに肩入れしてSWSを叩いていた山本編集長としても裏切られたような気持ちになっていたかもしれない。対談はそのようなムードの中で行われた。

 骨法を辞めた理由や入団前のUWF観について、船木自身は次のように語っているのだが、柳澤は知らなかったのだろうか。

 

Dropkick』チャンネル

【総合格闘技が生まれた時代】船木誠勝「俺は真剣勝負がやりたかったわけじゃないんです」

2014-08-11 19:59

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar597913

 

――その頃の骨法には廣戸(聡一)さんと最上(晴朗)さんという指導員がいらしたんですよね?

船木 あ、そうです。あのふたりが本当に強かったんですよ。

――初期骨法はそのふたりが本当に凄かったという話を皆さんおっしゃるんですね。

(中略)

――船木さんが海外修行に行ってるあいだにそのふたりは骨法をやめられて。

船木 それで俺も通うのをやめたんですよ(笑)。

――あ、そうなんですか(笑)。

船木 あのふたりがいなくなるとレベルがぜんぜん違ったんですよね。

(中略)

船木 残っても新日本に居づらくなるので、UWFに移ったほうがいいなと思いました。でも、UWFに行ってみてわかったんですが、あそこまで格闘技寄りになってるとは思いませんでした。自分はちょうど海外に行っていたのでUWFの映像が見れてなかったんですよ。『週プロ』や『ゴング』に載った試合写真しか見れてなかったですけど。蹴って投げて極めるだけのスタイルになってるとは思いもしませんでした。

――船木さんが格闘技の世界に飛び込みたかったんじゃなくて、行ってみたら格闘技スタイルになっていたという。

船木 そうなんです。自分はたしかに強さは強さで求めてましたけど、スタイルを格闘技にするという発想はなかったです。

――新生UWFの頃って船木さんがイライラしたり、苦悩しているイメージあったんですけど……。

船木 はい。してましたね(苦笑)。

――それはもっと格闘技に振り切りたくてイライラされていたじゃなかったんですか?

船木 そうじゃないんです。UWFが格闘技スタイルに寄りすぎちゃってて最初から「?」マークがあったからなんです。それでUWFのときに骨折して半年くらい休んだことがあったんですけど。そのときにボクシングのビデオをいっぱい見たり、骨法を飛び出して小林千明さんという東洋太平洋のチャンピオンにボクシングを習ってました。そうしてるうちに、UWFをやるのであればもっと格闘技に近づけないとダメだと考えたんですね。

 

【検証「1984年のUWF」】船木誠勝「えっ、そんなことが書かれてるんですか? それは全然違いますよ」

2017-05-03 16:11

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1258245

 

船木 自分は15歳のとき新日本プロレスに入門したんですが、当時の前座はギリギリの試合というか、なんの筋書きもなくやってたところはあるんですね。

――内容的にはフリースタイルだったわけですね。

船木 そこから外人レスラーと戦うようになって、海外修行に行けば完全に向こうのスタイルに合わせなきゃいけないんです。

――船木さんはヨーロッパ武者修行でプロレスを勉強されたわけですよね。

船木 それで帰国してから新生UWFに参加したんですけど、その頃のUWFはスポーツ的な方向に行こうとしてたんですね。だから凄く戸惑ったんです。自分はプロレスをやろうとしたんですけど、UWFはスポーツや格闘技の方向に向かってる。せっかく新しいプロレスをやろうとしてたんですけど、凄く先に飛んじゃってるなって。

――『1984年のUWF』では船木さんが「UWFがリアルファイトであると信じた」「ところが、実際に移籍してみると、UWFは船木が考えていたようなリアルファイトの格闘技ではなかった」「船木はプロレスに過ぎないUWFに失望した」と書かれてるんですね。

船木 えっ、そんなことが書かれてるんですか? それは全然違いますよ(苦笑)。UWFは格闘技やスポーツとして打ち出していましたよね? 

――はい。

船木 自分はその流れについていけなかったんですよ。

――船木さんはUWFがあまりにも格闘技的であることに驚いたということですか。

船木 はい。だからボブ・バックランド戦でコーナーポストからドロップキックを出したりしてその流れに抵抗したんですよ。

――「プロレスをやりたい」というメッセージ的なアクションだったわけですね。

 

 このWeb記事の有料部分には、船木が骨法を辞めた理由も詳しく書いてある。柳澤本の記述を船木自身が否定している。是非読まれたい。

 

 

P339〜340)

 1989年11月29日、UWFはついに東京ドームに進出した。大会名は「U-COSMOS」である。

 旗揚げからわずか1年半での東京ドーム大会は、6万人もの大観衆を集めて大成功に終わった、と一般には報じられている。

 ところが実際には、実券が売れたのはせいぜい1万枚から1万5000枚程度。残りは招待券を大量にばらまいて、無理矢理に客席を埋めた。閑散としたスタンドは、UWFの満員伝説に大きなダメージを与えると考えたからだ。

 

「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)

7章 「崩壊」の目撃者たち 証言 川ア浩市

「(前略)

 また、このドーム大会のために、『週刊プレイボーイ』が大キャンペーンをやってくれたり、これまで以上に世間にUWFをアピールすることに成功したので、興行収益以上の意味があったと思いますね」

 

「俺たちのプロレス VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017)

証言04 川ア浩市

川ア ドームのカード発表ともなると、週プロは一番に出したいじゃないですか。でもそのときは、月曜発売の週刊プレイボーイで毎週1カードずつ発表していくというキャンペーンをやったんですよ。1回ならまだよかったんでしょうけど、毎週ですからね。専門誌としては載せなきゃいけないんだけど、一般誌の数日後になってしまうとので山本さんからしたら歯がゆかったでしょうからね。

――UWFは一般メディアからの食いつきがよかったですしね。

川ア 専門誌も当然立てないといけなかったんですけど、あの頃の週刊プレイボーイは発行部数も多かったし、中吊り広告でバーン!と出してもらうとかメリットは大きかったですから。(後略)

 

週刊プレイボーイ創刊23周年記念企画」の一環として、「UWF東京ドーム決戦WPB特別席に300名ご招待」の応募券がWeeklyプレイボーイ」(集英社)24巻44〜51号(1989年10/17、24、31、11/7、14、21、28、12/5各号)に掲載。「※今回プレゼントする特別席は一般発売の席とは異なります。」ともあり、招待券は引換券ではなく席番号のある実券のようだが、このキャンペーンをぎりぎりまで引っ張った(最後の12/5号の応募締め切りは大会前日の11/28当日消印有効となっている)ことからしても、なるべく多くの動員をかけるために「WPB特別席」の選に漏れた人に引換券を送ったのかもしれない。

なお、カードの発表順は以下の通り(その試合に出場するUWF選手のインタビューも掲載)。

10/24(45号)安生対チャンピア・デヴィー(チャンプア・ゲッソンリット)

10/31(46号)高田対デュアン・カズラスキー

11/ 7(47号)藤原対クレン・ベルグ(その後、レオン・フライに変更)

11/14(48号)前田対ウィリー・ウィルヘルム

11/21(49号)鈴木対モーリス・スミス

11/28(50号)山崎対クリス・ドールマン

 

11/14号と11/21号には、週刊プロレスと同じメガネスーパーの広告が載っていた。よく探したわけではなくたまたま目に付いただけなので、他の号にも掲載されたかもしれない。

 

 

 

メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る