柳澤健「1984年のUWF」について(追記5)

 

 

※ このウェブ・サイト「柳澤健「1984年のUWF」について」内の他の各ページに、2017年9月3日に追記をしました。その追記分だけをまとめたのがこのページで、同時にアップします。9月3日以降にこのウェブ・サイトを初めてご覧になった方は、このページを読む必要はありません。

 

 

第1章       リアルワン

 

P33)

 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。カール・ゴッチは、短期間の例外を除いて前座レスラーの域を出ず、当然ギャランティもわずかなものだった。

 

流智美「やっぱりプロレスが最強である!」(ベースボール・マガジン社、1997)に、「ゴッチがアメリカでトップ・レスラーの名前をほしいままにしたのは’61年から’66年にかけての約6年間」とある。

 

 「61年から’66年にかけての約6年間」以外は、ではゴッチはずっと前座レスラーであったのか、というと決してそうではない。渡米初年の1959年には既にメインエベンターになっている。

 

Cardboard Clubhouse

Wednesday, April 12, 2017 And In This Corner …

http://cardboardclubhouse.blogspot.jp/2017/04/and-in-this-corner.html

 こちらのページ(中程)で、1959年シンシナティ・ミュージック・ホールにおけるプロレス興行の新聞広告の切り抜きが紹介されている。

 上が12月12日、メインはカロル・クラウザー(ゴッチ)対ルフィ・シルバースタイン。

 下は11月28日、メインはルー・テーズ対カロル・クラウザーのインターナショナル選手権。これが恐らくテーズとゴッチの初対決。

 これらの大会については、WrestlingData.comに記録がある。

http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=336953

http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=336958

 

 “Sport Record”(Dayton Wrestling Club Edition)は、オハイオ州デイトンにおけるプロレス興行の新聞形式のプログラム。1960年3月29日号では、“Karol Krauser Returns after Short Absence”と題して、写真入りのトップ記事でカロル・クラウザー(ゴッチ)の復帰を知らせている。背中の怪我の後、数週間ドイツで養生していた由。ただし帰米前には欧州で試合をしたとも。確かに1960年1月ないし2月、ベルギーのアントワープで“The American Masked Man”と対戦する“Karel Istaz”ないし“Carl Istaz”の名が大書されたポスターが残っている。

 プログラムによれば、この日はメインでスウィート・ダディ・シキと組み、ジョニー・バレンド、マグニフィセント・モーリス組と対戦している。

 

下って1967年は、ロサンゼルス地区のWWAでマイク・デビアスと組んでタッグ王者だった。セス・ハンソンさんがTwitterで当時の新聞広告や記事を紹介している。

 

Seth Hanson‏ @SethHanson1982 2017年7月9日

https://twitter.com/SethHanson1982/status/883858307341070337

1967年7月8日、カリフォルニア州サン・バーナーディーノ、ビクター・リベラ&ニック・ボックウィンクルvsマイク・デビアス&カール・ゴッチ他。

 

Seth Hanson‏ @SethHanson1982 2017年8月6日

https://twitter.com/SethHanson1982/status/893885085925224449

1967年8月5日、カリフォルニア州サン・バーナーディーノ、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラvsマイク・デビアス&カール・ゴッチ、ミスター・モトvsザ・ブッチャー(ドン・ジャーデン)他。

 

50th state BIG TIME Wrestling

http://www.50thstatebigtimewrestling.com/1968-02-07.html

エド・フランシスがプロモートした黄金期のハワイのプロレスを紹介するサイト。

 1968年2月7日、ゴッチはメインイベントでケン・ホリス、ロッキー・ハンターと組んでジョニー・バレンド、リッパー・コリンズ、カーチス・イヤウケア組と対戦。

 

http://www.50thstatebigtimewrestling.com/1969-06-11.html

1969年6月11日。ゴッチは前座で金剛山(日本人ギミックのハワイアンらしい)と闘った後、負傷したドリー・ディクソンの代打でメインにも出場。ニック・ボックウィンクル、ペドロ・モラレスと組んで、イヤウケア、ゴリラ・モンスーン、ロッキー・モンテロ組と対戦。

 日本プロレスでのコーチ業を終えて帰米後はハワイで専ら軽い試合に出ていたようだが、いざとなればこのようにスター選手を左右に従えての堂々のメインエベンター振りが写真にも見て取れる。

 

 

P35〜36)

 その後、ゴッチは6年ぶりにアメリカのリングに復帰した。上がったリングは意外にもニューヨークのWWWF(のちのWWE)。ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。

 

ゴッチのWWWF入りは1971年。「6年ぶりにアメリカのリングに復帰」とは一体どういう計算なのか。前述のようにハワイ・マットには1969年まで上がっているし、北米大陸に限っても1967年はWWAのタッグ王者。細かいことはどうでもいい、と考えているなら、初めから「久々に復帰」とでも書いておけばいい。

ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。」との記述も正しくないようだ。WWWFでの活動の記録は、探しても「カール・ゴッチ」名のものしか出て来ない。WWEの公式サイトでも、タッグ王者の系譜にある名前は「カール・ゴッチ」であって「ピエール・レマリン」ではない。

 

WWE.com Title History World Tag Team Championships

http://www.wwe.com/classics/titlehistory/worldtagteam

 「1970-1979」の「See More +」の所をクリックで、次の記載が出る。

 

 Karl Gotch & Rene Goulet  DEC 6,1971 - FEB 1, 1972 57days

 

Greenfield Recorder, MA Monday, January 3, 1972

 A WINNER-TAKE-ALL rematch, plus an appearance by new world tag team champions Karl Gotch and Rene Goulet get the 1972 big time wrestling season off to a roaring start Saturday evening at the Springfield Auditorium.

 (後略)

 左下隅の記事。新しい世界タッグ王者、カール・ゴッチとレネ・グレイが登場、と告知。

 

確かに、当時の日本の月刊誌「プロレス&ボクシング」や「ゴング」に、ゴッチがピエール・レマリン名でピッツバーグやトロントで活動している、との記述がある。しかし、その両地区の試合記録にゴッチの名もレマリンの名も見つからない。当時ピッツバーグではジート・モンゴルがプロモーターとなり、ブルーノ・サンマルチノをエースとしてWWWFの選手も使いつつも独自に興行を打っていたようだ。仮にゴッチがレマリン名で出場していたとしても、米国ではピッツバーグ限定だった可能性がある。サンマルチノは失冠して身軽になっており、ニューヨークはWWWF王者モラレスに任せて地元ピッツバーグを中心に軽めのスケジュールをこなしていたようだ。

 

Steel Belt Wrestling

Pro Wrestling in Buffalo, Pittsburgh, and Cleveland

Steel Belt Wrestling: An Overview

http://www.steelbeltwrestling.com/?p=7

The Pittsburgh Territory”のくだりを参照されたい。

Pittsburgh – 1971

http://www.steelbeltwrestling.com/?p=105

 ピッツバーグ(ペンシルバニア州)での1971年の試合記録。ただしこれで全てかはわからない。

 

Bruno Sammartino

From Wikipedia, the free encyclopedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Bruno_Sammartino

Studio Wrestling–Pittsburgh (1959–1974)” のくだりを参照されたい。

 

Gary Will’s Toronto Wrestling History (Internet Archive)

1971 RESULTS: Whipper Billy Watson's final year

https://web.archive.org/web/20120517074153/http://www.garywill.com:80/toronto/1971.htm

 トロント(カナダ・オンタリオ州)での1971年の試合記録。トロントはWWWFとは別のテリトリー。また、フランス語圏ではなく英語圏。

 

 「ピエール・レマリン」というリングネームは、元々はゴッチが北米に渡った当初(1959年夏〜秋)、往年のフランス系ベルギー人レスラー、コンスタン・ル・マランの甥としてカナダのフランス語圏モントリオール地区のマットに上がった時に使用したもの(「レマリン」は英語読み。ゴッチはベルギー人だがフランス系ではないのでこれはギミック)。ペッパー・ゴメスやボブ・ナーンドルと組んでボルコフ兄弟と闘ったカードでは、メインイベントに出場している。

 WrestlingData.comの1971年の記録は、5月まで(国際プロレス)と8月以降(WWWF)の間が空白になっているが、その間にモントリオール地区に昔の名前で出ていたようだ。6月7日ケベック州シャウィニガン大会の新聞広告に“Pierre Le Marin”(ピエール・ル・マラン)の名前がある(L'Eco du St-Maurice、1971年6月2日)。

 

9章 新生UWF

 

 次のインタビューを読めば、当時の段階で前田の目指していたものがよくわかるのではないだろうか。前田は既存のプロレスを決して否定していなかった。

 

「週刊ゴング」1988年8月11日号 No.217

☆巻頭核心インタビュー

先週号の“天龍UWF発言”に前田が返答… 天龍さん 俺はプロレスをこう考える!

<聞き手/本誌・小佐野景浩>

 

 ――それにしても、いろいろUWFは論議の対象になりますからねえ。

前田 会社でやっている以上は今のプロレス・ファンを魅きつけなきゃいけない部分もあるよね。でも、このままでは満足できないんだよ。俺が本当に問題にするのは、プロレスと聞いて、すぐに「八百長だ、ショーだ」っていう人達。プロである俺達は、そういう人達に対して、どういう答えを出さなきゃいけないかっていう部分でUWFはやっているから。俺達が自負しているのは、今のプロレスを拒否する人達に対してのプロレス界の切り札であるということですよ。だから、今のプロレスを応援している人には「ありがとう。これからも応援して下さい」だけで何も言うことはないの。「今のプロレスは偽物ですよ。UWFは本物だから、UWFだけ見て下さい」っていうつもりはサラサラないんですよ。自分達がやっていきたいのはUWFっていう下地を守っていきながらプロレスを拒否する人達に、どういう風にオトシマエをつけるか。それが問題なんです。

 ――アメリカン・スタイルも否定はしない…。

前田 どんなスタイルも命賭けですよ。アメリカン・スタイルだって受け身の取り方一つ間違えれば死ぬんですからね。故意にボディスラムで頭から落とそうとする奴もいてそれで自分の受け身の技術で頭引っ込めて、体回して受け身を取ることもあるんだからシビアですよ。ただ、ここで考えなきゃいけないのは、今までプロレスを応援してきてくれたファンの中にも、その他大勢のような、プロレスをうとんじる風潮が出てきて、プロレス人気が落ちてきていることね。ファン自体もプロレスをナメたような見方してるでしょ、ハッキリ言って。ファンにナメられたら駄目ですよ。だから、もっと打ち出さないと、攻めていかないと。業界内のマニアだけを相手にしてるんじゃなくて、プロレスを拒否する人達をターゲットにすることによって、プロレスをうとんじるようになったファンを帰すことができるし、引っ張れるんですよ。

 

10章 分裂

 

 UWF入り前後に船木がどのようなことを考えていたのか、何を悩んだのか。当時の専門誌紙より引用する。

 

「週刊ゴング」1989年4月6日号 No.250

イギリスの船木優治に緊急インタビュー「俺がUWFを選んだ理由」

<聞き手=本誌・小林和朋>

 

船木(中略)

 俺、昔の社長の試合が大好きなんです。大木戦とか、ロビンソン戦とか…男の意地と意地をぶつけ合って、お互い胸を出してやり合うような試合が…。試合前は“ぶっ殺してやる”という気持ちでリングに上がって、戦い終った後は、勝っても負けても涙を流して抱き合えるような…そんな試合がUのリングで出来れば、と思ってます。

 

■巻頭緊急レポート

船木優治が遂にUWF入りを宣言 3月27日…次なる移籍者が動く!

(前略)

 最大のポイントは、ファイト・スタイルの問題だ。具体的に言うと、UWFスタイルの中に溶け込んでしまったら、船木のレスラーとしての無限の可能性が閉ざされてしまうのではないかという不安の部分だ。

 だが、船木はUWFスタイルの問題について、こう語っている。

「いろんな人の話を聞いてると、最近のUWFの試合は旧UWFの試合に比べると、つまらなくなったという声が多いんですよ。日本に帰ったら全部ビデオを見て、自分なりに研究しようと思ってますけど、行く以上は“船木がきてUWFの試合がグッと面白くなった”と言われるような、今までのUWFとは違ったカラーを出していくつもりです。初めのうちは、あまり蹴りも使わず、レスリングで勝負しようと思ってます」

 さらに「新日プロで使えなかった骨法の危険な技」や「自分で考えた新型スープレックス」も、どんどん使っていくという。

 

「週刊ファイト」1989年4月13日号

船木独白「どうしてもUWFで闘いたい」

 

 道場破りや異種格闘技戦だけでなく、いつもの試合でもサブミッション主体の緊張感あふれる闘いがしたい。そう思うとやはりUWFだった。

 

「週刊プロレス」1989年 緊急増刊 4月29日号 No.311

 ヨーロッパでは雑誌のグラビアでしか見たことのなかった新生UWF。いったい、船木の目には、どう映ったのだろうか…。

「ひとこと、疲れましたね。今日は、俺、観客のひとりとして見ましたから、その立場から言わせてもらえれば、疲れました。俺は(観客を)疲れさせないようにしたいですね。もちろん、ただ面白ければいいというんじゃなくて楽しませなければいけないと思うんです。あれでは、女の人とか楽しめないんじゃないかナァ」

 

「週刊ゴング」1989年5月4日号 No.254

正式にUWF入りした船木優治に巻頭直撃インタビュー

<聞き手=本誌・小林和朋>

 

 ――日本に帰ってからUWFの今までのビデオも見たと思うけど、印象的だった試合は?

船木 札幌の前田−高田戦、大阪の高田−バックランド戦、徳島の高田−山崎戦…この3試合は面白かったですね。3つとも高田さん絡みの試合ですけど(笑)。ただ、全体的な印象としては、キックボクシングみたいなイメージが強いですね。ババババッと蹴ってボーンと倒れるっていうシーンが多いし…。正直言って俺の理想とするプロレスとは、ちょっと違いますね。でも、俺と鈴木が入ったことで、試合のスタイルは変わっていくだろうし、必ず違ったカラーの試合を見せます。それじゃなきゃ、なんのために俺が入ったかわからないでしょ?

 それと俺、あの試合中のシーンとした重苦しい雰囲気って好きじゃないんです。お客が真剣に試合を観てるっていうのはわかるけど、グランドの攻防でも常に「頑張れ!」とか声援が飛ぶような試合を俺はやりたいですね。以前、武道館で藤波さんが剛竜馬と戦った時のようなムードが最高です。

 

「週刊ファイト」1989年5月25日号

船木優治 5・4大阪球場 UWFデビュー戦を振り返る

 

 ――ところで、5・4大阪球場の試合で藤原選手と船木選手には厳重注意とのことですが、現行UWFルールについては?

 船木 初めて試合を見る人には難しいんじゃないですか。例えば相撲とかボクシングなら、初めて見た人にも分かるでしょ。土俵から出るか、手や足をついたら負け。あるいはノックアウトとか判定とか。

 ――ま、プロレスにはグラウンドでの攻撃とかパンチ以外に蹴りや関節技などさまざまなバリエーションがありますからね。

 船木 それだけプロレスは格闘技として奥が深いんです。だから、どうしても細かくなるとは思いますが、ファンより先にルールだけがどんどん進んでしまうと、とっつきにくくなるでしょ?

 

「週刊ゴング」1989年6月1日号 No.258

5・21バックランド戦まで秒読み! 船木優治に直撃インタビュー

<聞き手=本誌・小林和朋>

 

 ――どんな技が出てくるか…今後の試合が楽しみですね。

船木 あと、ドロップキックをどういう形で復活させるか、今考えてるんです。このままじゃ鈴木に取られちゃうし(笑)。鈴木も工夫してるけど俺は、もっと華麗に見せたいし、たとえば強烈なスープレックスを決めて相手がフラフラとなった時、自分からロープに飛んでドロップキックをやるとか…。

 ――ロープに飛んで…。

船木 はい。よほど相手がグロッギーになってないと、よけられちゃうかもしれないけど…。でも、ロープに飛んで勢いをつけた方が威力は倍増しますからね。あと、蹴られてロープ際にきた時、ロープの反動を利用して反撃に出るとか…。UWFといえども、“ロープの反動を使ってはいけない”とルールに書かれてるわけじゃないし、俺は相手を倒すために、ロープの反動を有効に使っていきますよ。あと、従来のプロレス技でも、やられて痛い技はどんどん使っていきます。マック・ローシュの試合でもラリアットやボディスラムが出た時、お客さんが沸いてたし、ルールの面で引っかからない範囲で、いろんな技を出していこうと思ってます。

 

「週刊ファイト」1990年6月1日号

5・21UWF NKホールの全景 意外!船木バックランドに反則負け!

 

 「何でこうなんですかね。一生懸命やると絶対に反則になる。リングに上がった時にはルールが頭の中にあるんです。でも試合が始まってしまうと、男と男の対決でしょ。ルールは吹っ飛んでしまう。リングでカーッと怒るとダメなんですかね。イヤになってくるな。オープンルールで試合が出来ないですかね。窮屈ですよ。体が大きくなったのに、小さいシャツを着せられているみたい」。

 UWF初の反則負けを宣告された船木はガックリ。肩を落としたまま開口一番、こう言った。何をどうすればいいのか、UWFのルールに拒否反応がハッキリ出ている。

 

本紙の目 ルール把握には時間がかかる 消化しきれていないことは確か

(前略)

 旧UWF時代、ルールは佐山1人で考案したようなもの。佐山がどんどんルールを進化させ、その分、他の選手はついていけずにギャップが開いた。現在のUWFルールは旗揚げからのメンバーが1年間かかって、試合を行いながら築いた。この4月から参戦した藤原、船木、鈴木らとはギャップがあって当然だ。

 試行錯誤を続けながら、ルールを把握した旗揚げメンバーと違い、いきなり現行ルールで闘ったのなら、窮屈に感じるのもムリはない。これは船木だけでなく、NKホールに詰めかけた観客の大半が同じ感覚を持ったに違いない。

 (中略)

 次に、船木のマッチメークに関して、もう少し配慮がされていたなら、違った結果が出たかも知れない。

 UWFマットデビュー戦は藤原。共に新生UWF初登場でルールがきちんと頭に入っていない。バックランドしかりである。船木の相手が旗揚げ以来のメンバーだったなら、こうもルールでもめることはなかっただろう。

 (後略)

 

マット界舞台裏 ★編集部談話室★

 (前略)

 C 旧UWF時代からルールによる規制があり過ぎると、面白みを損なうと言われていたけれど、同じ壁にぶち当たったとの印象だな。

 D 歴史は繰り返すっていうけれどホント奇妙なものだ。今の船木の主張はかつて前田が佐山に対して行っていたのに似ている。

 B しかし、旗揚げメンバー同士による試合はルールが支障をきたすってのがないだろ?十分にファンを魅了してきたし、船木も慣れれば本来の力が発揮出来ると思うのだがね。(後略)

 

「週刊ファイト」1990年2月22日号

船木 長期欠場はコヤシだ

 

 ―― 以前、「理想のプロレスが見えてこない」と言ってましたが、おぼろげながらでも見えてきました?

 船木 頭の中でもう一息だ、もうちょっとだと思うんですが、なかなか難しいですね。オレは気が多いから、いろんなスタイルをやりたい。飛んだり跳ねたりってのもやりたいし、サブミッションもやりたい。かといってやりたくてもできないし……プロレスラーを続ける限り、永遠に理想のプロレスが完成することはないんじゃないですか。でないと、オレのプロレスが固まってしまうし……。とにかく、今はありとあらゆるプロレスが見たい。プロレスに限らず、タイソンの試合なども見たい。

 

「週刊ファイト」1990年4月26日号

船木 鈴木に勝つ 4・15博多追跡

 昨年9・6長野以来、7カ月ぶりにリングに上がった船木は一大決意で対鈴木戦に臨んだ。トレードマークのハチマキ、カラーショートタイツ、おまけにシューティングシューズさえつけなかった。「レスリングだけで勝負する」。この思いは鈴木も同じ。2人は試合でスパーリングそのものを行ったのだ。UWFの原点を試合で演じた船木と鈴木。この試合は彼らにとって一つの実験の場だった。

 

「週刊ファイト」1990年10月11日号

船木 直撃インタビューPART2

 

 ――UWFへ移籍して2年半が経ちましたが、UWFは想像していた通りでしたか?

 船木 味をしめるとUWFの方がいい(笑い)。ケガの欠場から復帰してから味をしめ始めました。ヨーロッパで想像していたのとは少し違いますが……。

 ――ヨーロッパで思い描いていたのは“夢”だったんでしょうか。

 船木 そうですね。オレは写真でしかUWFを知らなかった。あの時、思い描いたUWFは今から思うと子供じみています。

 

 

 

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