UWF余話 前田日明と長州力

 

 

「前田日明が語るUWF全史 上」P257〜258)には、「長州さんは昔はそんなことなかったんですけど、オレがイギリスから帰ってきたあと、何度か試合をやっているんだけど、オレが技をかけてもちゃんとしたセールをしてくれなくなっちゃったんですよ。なんか、オレを妙に意識して、オレの方が格が上だと言わんばかりに振る舞っていて。」とある。それを裏付けるような記事がある。

 

「週刊ゴング」1987年5月1日号 No.151

いま前田を最も危険にさせる相手は長州しかいない!

「今度、長州と戦うことがあったら借りを返す」――この“前田発言”の裏に隠された危険な構図

 

 まだまだ、くすぶり続ける“長州問題”…だが、長州らが、いずれは新日マットに登場してくるのは確実。そうなると対藤波戦、対猪木戦がクローズアップされるが、もう一つ…長州vs前田の“爆弾マッチ”も注目される。今、前田を燃えさせるのは長州しかいない!

(略)

 前田が長州のことを口にしたのは昨年秋に“長州、新日復帰”の噂が流れていた頃である。たまたま雑談中に長州の話題になった時、前田は、

「まあ…あの人には借りがあるからね。もし戻ってくるんだったら、その時はタップリと借りを返すよ」

 と驚くほど冷たい口調で語ったのが脳裏に残っている。

(略)

 “あの人には借りがある”…それは58年11月3日のシングル戦のことだと軽く考えていたが、それだけではなさそうだ。この特集記事にあたって過去のファイルで長州と前田の戦いを振り返ってみたが…そこにあったのは前田の悲惨な姿ばかり。

 “実力の違い”――というよりは、まったく相手にされていないのである。保存されているフィルムを見ると、タッグで常に維新軍団の連係でメッタ打ちにあっているのは前田ばかり…まともに一対一でやり合っているフィルムはほとんどなかった。

 「長州に、まともに相手をしてもらえなかった」――長州を語る時、前田の脳裏にはそんな苦い思い出が甦るのではないか?(略)

 

「週刊ファイト」1987年5月8日号

特別対談 手ぐすね引く前田藤原 長州よリングで待つ

 (略)

 前田 ま、長州さんもいろいろ問題を抱えているだろうけれど、1日も早く新日本のマットに上がって来て下さい。オレはリングで待ってますから。前に借りた借りはきちんと返します。(略)

 

 なお、実際の発売日はゴングが付日の2週間前、ファイトが1週間前であった。

 ゴングの記事は、前田本人よりもゴングの方に、長州との対立の構図(アングル)を強調して来るべき対戦を盛り上げようという意図が強かったかもしれない。しかし確かに、長州の新日復帰で期待が高かったのは、猪木や藤波戦よりも、この間に最も成長を遂げた前田との闘いではなかったか。先の話だが1987年10月5日、長州のテレビ朝日「ワールドプロレスリング」復帰戦の相手がコイントスで決められた際、藤波ではなく前田に決まれと思って見ていた記憶がある。

 UWF全史」にも書いてあるが、長州の復帰後は前田が怪我で休みがちで、更には「世代闘争」が始まって仲間になってしまい、2人が闘う構図はなかなかできなかった。「世代闘争」が中止されてようやく機会が訪れた時、ゴングには再び煽るような記事が出ている。

 

「週刊ゴング」1987年11月20日号 No.180

前田日明が日本マット界に警告!

(略)

――いよいよファン待望の前田−長州対決も、リーグ戦(※87ジャパン・カップ争奪タッグ・リーグ戦)と特別試合で実現しますが…。

前田 とにかく自分の好きなようにやる…今、長州戦について言えるのは、その一言だけだね。ただ、タッグだと、どうしても限界があるし、出来るならシングル対決の機会がほしいけど…。

(略)

  ――世代闘争も結局、ニューリーダーの分裂という形で終わってしまいましたね。

 前田 わけがわからないね、ほんとに。言い出しっぺ(※長州と藤波)同士でモメて終ってしまうなんて…。あの両国の叫びは何だったのかってことになるじゃないのただのスタンド・プレーと言われても仕方ないよ。

 (略)

 

 前田としては、長州に対して「面白くない」という生の感情が確かにあったとしても、それをアングルに生かすべく語ったのであろう。しかしそのことを「長州蹴撃」の故意の証拠とされるのは、納得が行かないであろう。

 

「週刊ゴング」1987年12月11日号 No.183

前田日明の無期限試合出場停止問題を追う

 (略)

 “喧嘩を売った”のは、明らかに前田の方であった。

 かねてから前田は、長州との対戦について聞かれると「あの人には借りを返す」「好きなようにやらせてもらう」と、物騒なコメントを吐いており、この対戦カードがこれまで避けられてきたのも「この二人が戦えば危険な戦いになる」という背景があったためであることは言うまでもない。

 (略)“事件”の発端となった前田のキックは、背後から顔面を襲うという、プロレスの暗黙のルールを超えた危険な“闇討ち攻撃”であり、それも「狙ってやった」ものであることは疑う余地がない。

 前田が試合後、コメントを求める報道陣に向かって吐き捨てた「見ての通りだよ」という一言が、それをはっきり表わしているといっていい。

 (略)

 

 もっとも、ゴングは翌週号(12月18日号、No.184)で「真の問題解決のためにも長州vs前田の一騎打ちは避けて通れない!」という記事を書いており、この事故さえもアングルに生かすべきだ、との考えだったのかもしれない。

 長州戦で前田がどのような意図で行動したのか、またどこまでが意図したものだったのかについて、UWF全史」で前田自身が語っているので、是非読んでみてほしい。なお、1984年のUWF」には、「狙って蹴ったことは明らか」とある。故意なら動機があるはずだが、動機については書かれていない。

 

 さて(話を戻すとして)、そもそも前田が「借り」に感じたという、UWF移籍前の前田に対する長州の敵意の感じられる態度は、一体どこから生じたものであったのか。それについてもUWF全史」において、一つの見方(それには猪木の思惑も関係している)が示されているが、ここでも一つ付け加えてみたい。

 

「前田日明が語るUWF全史 上」

P26)

 欧州王者となって帰国した前田は、蔵前国技館でカール・ゴッチをセコンドにつけて凱旋試合を行い、その前週に長州と引き分けたポール・オンドーフに圧勝。続いて第1回IWGPに出場し、毎週TV放送に出ている。さすがにすぐエースになれたはずもないが、少なくともエース候補生として結構な売り出し方をされたのである。

「維新軍の引き立て役」ともあるが、よだれを流しながらサソリ固めを耐えた長州戦(1983年11月3日、蔵前国技館)は、高く評価されたと記憶する。暮れのMSGタッグ・リーグ戦にも、藤波と組んで出場している。

 

1983.1-8テレビ放送視聴記録

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100111/

 

 もう少し詳しく述べる(上記ウェブページも参照されたい)。1983年4月15日の生放送中、セミファイナルの試合前に、ネクタイを締めた前田がリングに上がって帰国の挨拶をし、凱旋試合の相手に決まっていたポール・オンドーフと小競り合いをしているが、この時のオンドーフの対戦相手が長州なのである。長州−オンドーフ戦は9分53秒、両者リングアウトの引き分け。翌週22日の放送(試合は21日蔵前国技館大会)で、前田はオンドーフに3分36秒でピンフォール勝ち。ちなみにこの大会は「蔵前四大決戦」と称された(他はNWA世界Jr.タイガー・マスク対D・キッド、特別試合・猪木対M斎藤、WWFインター・長州対藤波)が、放送上は長州−藤波戦のみ翌週に回された(ただしこの試合がメインエベントだった)。

 このシリーズで長州は、藤波相手にWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取(4月3日蔵前)、防衛(21日同じく蔵前)と、評価を大いに高めたところであったが、それなのに(一方において)格下のはずの前田の刺身のツマのような扱いもされるというのは、納得が行かない所もあったのではないか。

 第1回IWGPにも長州は出場していない。前田の売り出し振りに危機感を覚えて、出る杭を打ちたい心境に駆られてもおかしくはあるまい。

 1983年11月3日“4対4”正規軍対維新軍(組み合わせはくじ引きで決定)において、前田に12分57秒レフェリーストップ勝ちした長州は、前田について「どんな形になっても、負ける気がしない」「ひとつひとつをとらえてみると、たしかに前田はいいものをもっているが、自分よりパワーのあるものにぶつかると、それは通用しない」「前田は俺と対戦していい勉強になったんじゃないの?」「週刊プロレス」1983年11月22日号、No.17)と、確かに見下すような態度であった。ただし、敵対する立場上おかしくはなかろうが。

ちなみに2人のシングル戦はもう一度ある。1984年2月12日のフィリピン・マニラ大会で、長州が5分21秒体固めで勝ち。「ゴング」(1984年4月号、No.226)には「長州対前田の一騎打ちは不意を突いた長州のラリアットが決まりカウント3つ。」とある。

 

 

 

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