UWF余話 前田−アンドレ戦の謎

 

 

フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第29回

https://nikkan-spa.jp/1035393

 

 1982年6月、当時36歳のビンス・マクマホン・ジュニアは、父シニアからWWF(現WWE)親会社を買い取ったが、このバトンタッチは1983年12月まで公にされなかった…とある。

 もっとも日本では、WWFはビンス・マクマホン・シニアの陣頭指揮の下、米国東部限定の興行団体を脱して全米制圧に乗り出した。更には日本進出まで目論んでいる…と、その死去(1984年5月まで)まで報じられ続けた。

 

「週刊プロレス」1984年1月31日号

(略)マクマホンの日本進攻作戦は、すでに時間の問題とさえいわれている。

 マクマホンとの年間のブッキング契約をかわしている新日本プロレスが、この件について抗議すると

「わたしは全然知らない。仕事のことは息子にまかしているので、わからない」

 とマクマホンはのらりくらりと逃げている。これがマクマホンの手であり、何か都合の悪いことが起こると「息子がやっているので…」といって事実を否定する。

 この手でマクマホンにごまかされたのは、ジム・バーネットやボブ・ガイゲルなど大物プロモーターも含まれており、マクマホンの二枚舌を知らないものは、現在誰もいないといわれている。

 

 代替わりが名実ともに本当だったとすれば、「息子にまかしているので、わからない」はごまかしではなく本音だったのかもしれない。ただしホーガンの自伝(邦訳「ハリウッド・ハルク・ホーガン ハルク・ホーガン自伝」エンターブレイン、2003)を読むと、少なくともすぐに全権が委譲されたわけでもないようである。ボブ・バックランドからホーガンへのエース交代をシニアに認めてもらうためにジュニアが苦心したことが書かれている。

 なお、WWFの日本進出については、WWF会長だった新間寿の思惑も絡み、UWFの誕生に関係して来ることなのだが、いずれ機会があれば詳しく書くこととしたい。

 ビンス・ジュニア体制になったWWFは、新日本プロレスに対してもシビアでビジネスライクな態度を取るようになった。

 

「東京スポーツ」1985年9月6日号(5日発行、No.8659)

坂口『WWF問題』の真相明かす

 現在WWF(V・マクマホーンJR代表)との契約は、今年の九月いっぱいまで残っているが、どうやら新しい契約は結ばないことになりそうだ。

「こちらの要求(H・ホーガンの長期参加など)と向こうの要求(選手派遣、契約金問題)が合意に達しませんでした。採算を度外視しても取引をするべきか? ということです」(坂口副社長)。

(略)

 暮れのタッグ戦を『MS・G』から『IWGP』に変更したのも契約が切れるためだが、来年以降については未定だ。(略)

 

 この「IWGPタッグ・リーグ戦」に、新日本はアンドレを個人契約で呼ぶつもりで発表もしていたが、その後キャンセルされてしまった。

 

「週刊ファイト」1985年10月29日号

 十八日、新日プロが発表した「IWGPタッグ・リーグ戦」出場チームの中からアンドレ・ザ・ジャイアント、アドリアン・アドニスの二人の名前が抹消されていた。いずれもWWFの契約レスラー。二人とも口頭ではあったがIWGPタッグ参戦を坂口に約束して帰国した。

 (略)

 ジャイアントは自分の力を過信していた。オレの言うことならマクマホンの息子は何も言えない――そう思っていた。

 ところが、バーネットを通してであれ、直接会談であれ、「新日プロへ行くのならWWFでは使わない」と高飛車に出た。ジャイアントはあわてて「IWGPタッグ」キャンセルを通告してきた。現在のジャイアントはオールマイティーではないのだ。

 

「週刊ファイト」1985年11月26日号

マット界舞台裏 ◎編集部談話室

 A 話は変わるけど、マクマホンJRは汚い手を使うね。ジャイアント、アドニス、ヘラクレス・フェルナンデスの来日にストップをかけてIWGPタッグをぶっ壊そうとした。マスクド・スーパースターにも「新日プロへは行くな」と言っている。新日プロが契約更改を蹴ったものだから実力行使に出たんだが、少なくとも長年にわたった友好関係を保ってきた相手にすることじゃないよ。(略)

 

 WWF側にも、「今アメリカはレスリングウォー真っ盛りで、レスラーが何人いても足りない状態」(「東京スポーツ」1985年9月6日号より、坂口の発言)という言い分はあったろうが。ただしこの頃にも、WWFの日本進出の噂が出ている。

 それまでのアンドレは、WWF以外のNWAでもAWAでも、自分の好きな所に行って荒稼ぎできたかもしれないが、WWFが全米で興行をするこの頃になると、さすがにもう自分だけで好きなようにスケジュールを決めることはできなくなっていたのである。

 柳澤健「1984年のUWF」には、翌1986年4月の前田日明戦で不愉快な思いをしたため、アンドレがその後新日本マットに上がらなくなった、とあるが、そのストーリーが如何に陳腐なものかお分かりいただけるのではなかろうか。

 1986年暮れの「ジャパン・カップ争奪タッグ・リーグ戦」でもアンドレの特別参加、ブルーザー・ブロディとのシングル戦が発表されたものの、映画の撮影が終わらない、との理由(腰痛悪化の噂もあり)でやはりキャンセルになっている。1987年5月の「IWGP」参戦が報じられたこともあったが、これも実現せず。ただしアンドレ自身には、新日本にまた来る意思はあったようだ。

 

「週刊ファイト」1987年1月16日号

 ジャイアントは昨年、4月の「ビッグ・ファイターシリーズ’86」から“IWGP”まで連続出場したが、坂口は言明はしなかったものの、新日プロでは今年も2シリーズを通しての出場を計画しているようだ。

 「アンドレの体調がどんなものか。それ次第では“IWGP”の全日程に出場という可能性もある。本人もそれを望んでいるようだったし、4週間大丈夫だ、と何回も念を押していたよ。(略)」

 

 さて、1986年4月29日の前田−アンドレ戦が決められた経緯とテレビ放送に関する事情について、ゴングが次のように書いている。

 

「週刊ゴング」1986年5月29日号、No.104

ザ・問題点 前田=アンドレ戦がTVから消された謎

(略)

 “第一の謎”は、2日前になって急遽、この一戦が決定したこと。シリーズ開幕前から「今シリーズ最大の注目カード」と注目を集め「最終戦の5・1両国国技館で実現か?」と予想されていた前田−アンドレ戦だが「次のIWGPで行なわれる予定なので、今シリーズでは組まない」(開幕戦での坂口副社長の発表)ということであった。

 それが津大会で急遽、実現の運びとなったのは、やはり「TV視聴率のテコ入れ」のため以外には考えられない。

 一つの背景として、IWGPの2リーグ制実施のため前田−アンドレのリーグ戦での激突がなくなった(アンドレはAグループ、前田はBグループ)ことが挙げられるが、それにしても、これだけのビッグカードを前宣伝なしに近い状態でやるということは「津大会の観客動員アップ」を狙ったものでないことは確か。

 実際、試合前日の28日発行のTスポーツ紙で「前田−大巨人、急きょ一騎打ち」と小さく報じられただけで、当日、詰めかけたファンの大半は会場に着くまで前田−アンドレ戦を知らなかった。

 この日はTVの録画撮り…それもシリーズ・オフ中の5月9日放映分とあって、ただでさえ低調気味な視聴率の“ダウン現象”(前回のオフの4月4日放映分は7・9%)を防ぐためには、“強いカード”を持ってくるのが最良の策。

 そこで「IWGPリーグ戦での対戦がなくなった」「対マードック戦で前田が予想以上に“いい試合”をやった」こともあり、津大会での前田−アンドレ戦が急遽、決定されたものと思われる。

 (略)

 前田−アンドレ戦が予想以上の長期戦…それも“接点無き平行線の戦い”になったことで、試合終了後、テレビ朝日の松岡勝プロデューサーは「展開のあまりない部分をカットして放送することになるかもしれない」と語っていた。

 これは確かに頷ける。試合後も含めて約30分…一向にヒートアップしない膠着状態の試合を長々と放送しても、マニアはともかくとして一般のお茶の間ファンにとっては「面白くない」とチャンネルを変えられてしまう可能性があるからだ。

 だが、最終戦の5・1両国大会終了後、テレビ朝日サイドのコメントは次のように変った。

5対5勝ち抜き戦が、通算タイムで一時間を超える長い試合になったため、放送では猪木、上田組vsアンドレ、若松組のタッグマッチを最初に持ってきて、5対5を2週に分ける。16日(※正しくは9日)放映分は両国大会と津大会のドッキングになるわけだが、前田−アンドレ戦は全面カットして津大会のメインエベントであった猪木、藤波組vsマードック、スーパースター組のタッグマッチを放送することになると思う」(前出の松岡プロデューサー)

 この言葉通り9日(※正しくは2日)放映の「ワールド・プロレスリング」の次週予告では、前田−アンドレ戦のテロップは遂に流れず、16日(※正しくは9日)当日の番組でも、やはり前田−アンドレ戦は完全に無視された。「TVのために組まれた」はずのビッグカードが「TVから消された」のだから、これはやはり大きな“謎”なのである。

「放送時間の都合」といってしまえばそれまでだが、ファンの関心度から考えて猪木組vsマードック組のタッグマッチの方をカットするという手はあったはずだし、前田−アンドレ戦をダイジェスト版で放映することも出来たはず。

 やはり“謎”を解く鍵は、問題の試合そのものにあるようだ。

 (略)

 結果的に「ノーコンテスト」という判定によって大巨人は、「試合放棄」という不名誉な敗北から逃れることが出来たわけだが、会場のファンは“大巨人神話の崩壊”を目撃した。

IWGPを前にして、その主役の一人であるアンドレの、こんなぶざまな姿を放送し、全国のファンの前にさらけ出すわけにはいかない」

 テレビ朝日関係者は、こう結論を下したのではないだろうか。

 

 つまり、シリーズ最終戦5/1両国大会を翌日5/2に放送し、翌週5/9には先に収録しておいた4/29津大会の試合を放送する予定であったが、実際には次のようになった。

 

 5/2 猪木&上田vsジャイアント&若松

新日軍vsUWF 5対5勝ち抜き戦(前編)(以上、5/1両国大会より)

 

 5/9 新日軍vsUWF 5対5勝ち抜き戦(後編)(5/1両国大会より)

猪木&藤波vsマードック&スーパースター(4/29津大会より)

 

 津大会から2試合、ではなく1試合のみを放送する場合に、メインイベントの猪木の試合を選ぶのは、(前田の試合はセミファイナルだし、同時に放送される両国の試合の方には前田が出て猪木が出ないこともあって)不自然ではないけれど、珍しくもないタッグ戦よりも、内容に問題さえなければ前田−アンドレ戦を流したかった所ではあろう。

 かなり後になってから試合映像が出回った時に、地方局で間違って放送されたものの録画だ、という噂があったが、収録(4/29)から放送予定日(5/9)まで大分余裕があって編集やテープの送付を急ぐ必要がなく、更に1週間前(5/2)には放送されないことが決まっていたのだから、間違うこともなかったと思う。そもそも、話題になった試合なのだから地方で見た人がいれば当時から話が出るはずだ。内部の関係者から流出したものではなかろうか。

 

 

 

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