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UWF余話 1976年のアントニオ猪木 |
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「1976年のアントニオ猪木」は読んでいなかったが、「1984年のUWF」について調べている過程で、「1976年の…」にもUWFについて書かれていることを知った。例えば次のような。 柳澤健「1976年のアントニオ猪木」(文藝春秋、2007) 子供たちが大きくなり、さらに金が必要になると、ドールマンは新日本プロレスで働けないかとルスカに相談し、ルスカは坂口征二にドールマンの希望を伝えた。 だがその直後、第2次UWFを立ち上げたばかりの前田日明がドールマンに声を掛けてきた。前田は選手のブッキングを頼みたい、オランダのファイターを大量に呼びたいと言う。ドールマンがUWFを選んだのは当然だったが、ドールマンが新日本とUWFを両天秤にかけたことに激怒したルスカはドールマンと絶縁した。 (略) 97年には素晴らしい出来事が起こった。(略) 猪木のオランダ訪問によって、断絶していたルスカとドールマンの関係は10年振りに修復され、ルスカはドールマンが主催するリングス・オランダの大会に勝利者トロフィーのプレゼンターとして上がるようになった。 |
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しかし、ドールマンが第2次UWFに参戦時、ルスカと絶縁した、というのは真実ではない。 「週刊ファイト」1990年1月18日号 1989年12月16日(現時時間)、アムステルダムのコップス・ジムでドールマン率いるオランダ軍団が合同トレーニング、ルスカも参加。ドールマン宅での取材も近所に住むルスカが急遽加わり対談形式に。 「週刊ファイト」1990年1月25日号 ドールマンがルスカ−前田戦を提唱。 「週刊ファイト」1990年2月1日号 前田が安生と共に渡蘭し、1月20日(現地時間)コップス・ジムを視察。ルスカも前田と対面。 |
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ルスカとドールマンが絶縁したのは、第2次UWFの立ち上げの時ではなく、その崩壊の時で、ドールマンが新日本と「両天秤にかけた」(と、ルスカに見えた)団体は、前田日明の新団体、後のRINGSであったようだ。 元K−1王者ホーストが死去前日に見舞った最期の姿、ウイリエム・ルスカの知られざる晩年 週プレNEWS / 2015年2月20日
21時0分 https://news.infoseek.co.jp/article/shupure_43882/ その後、間違いに気付いて直したかと思い、「完本 1976年のアントニオ猪木」(文春文庫、2009)も確認したが、直っていなかった。 「1976年の…」には次のような記述もある。 いわゆる第2次UWFのルールは場外乱闘やロープワークを排除し、フォールによる3カウントは廃止し、ギブアップもしくはKO、5度のダウン、3度のロープエスケイプは1回のダウンに算定されるというものであり、佐山が作ったものとほとんど変わりはなかった。 場外乱闘やロープワークはルールによって排除されたわけではないし、3秒間のピンフォール決着はルールにあったし、5ノックダウン制(5度ダウンすれば負けになる)は第1次UWFにはなかった。佐山が作った(厳密に1人だけで、ではないが)第1次UWFルールとの違いは、「前田日明が語るUWF全史 下」(第六章)に書いてあるので読んでみてほしい。 メニューページ「UWF余話」へ戻る |