UWF余話 ごちゃごちゃ言わんと…前田語録

 

 

別冊宝島1126号「プロレス名言・暴言大全集」(宝島社、2005)

『ごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ、決まるまで』

昭和62年6月12日、両国国技館。長州力が提唱した世代闘争。藤波辰巳が「やるぞー!」と単純明快なマイクで参戦を表明する中、注目されたのが前田の出方。一応、大同団結には応じた形となったが、この発言からは軍団抗争よりも、あくまでも個人闘争を第一に考えたい、という主張が見え隠れする。世代闘争がわずか4ヶ月で破綻したのもわかるような気がする…

 

 ビデオを見るとわかるが、「ごちゃごちゃ言わんと」とは言っていない。文字起こしする。

 

 オイどうせやるんだったら世代闘争で終わらんとナ、誰が強いか、一番強いかネ、決まるまでやりゃあいいんだよ、決まるまで。

 

 当時の報道をチェック。

 

「東京スポーツ」1987年6月14日号(13日発行、No.9200)

「誰が一番強いのか決めればいいんだ」と前田が意思表明。

 

「週刊プロレス」1987年6月30日号、No.210

藤波より遅れてリングに上がった前田も「誰が一番強いのか決めればいいんだ」と意志表明 (※写真のキャプション)

 

「週刊ゴング」1987年7月3日号、No.160

 前田がマイクをつかむ。

「どうせやるんだったら、誰が一番強いのか、決まるまでやればいいんだ、決まるまで!」

 

「週刊ファイト」1987年6月26日号

 前田がマイクを掴んで「誰が強いのか、決まるまでやりゃいいんだよ」と叫ぶ。

 (略)

 UWF控室では事態の急展開に戸惑い気味の前田が「急だったので思わず“あんな”と大阪弁が出てしまった。ま、いい事じゃないですか。遺恨だの流血だの海賊だのはもういい。もっと早く方向転換すればよかった。1年も2年も前に。どうせやるなら最後に誰が残るのか、そこまでやりゃいいんだよ」と言って「藤原さんは(新旧どちらか)微妙なところだなァ」と困惑気味。

 

 前田は全国放送で大阪弁を使わないよう気を付けていたようだ。それでも出てしまったのは、発言が純粋なアドリブだったからであろうか。発言を「オイ」という呼びかけで始めているが、語尾が「終わらんとナ」となって「しまった」と思ったのであろう。「一番強いかネ」の語尾は標準語に戻している。だから「あんな」とは呼びかけていないのだが、興奮していて記憶も混乱していたのであろう。

 前田がこの発言をするまでの経緯、その時の心情、そして仲間内の反応について、「前田日明が語るUWF全史 上」(第四章)の中で前田自身が語っているので、是非読んでみてほしい。

 シリーズ後の6月21日、よみうりランドのフィールドアスレチックで行われた「UWFファンの集い」の際、前田はインタビューで次のように語っている(聞き手は宍倉清則記者)。

 

「週刊プロレス」1987年7月7日号、No.211

前田 世代闘争も大いに結構さ。それによって(プロレス界が)いい方向に行くのなら大賛成だけど、いまのところは何とも言えないな。なぜかっていうと、仮に世代が入れ代わったとしても、何年か先には、また同じ問題が持ち上がってくるわけでしょう。だから、いろんなことをゴチャゴチャ言うよりも、俺がリング上で言ったじゃない。

――「誰が一番、強いのか、やってみたらいいんだ」と。

前田 結局、格闘技なんて簡単なんだよ。誰が一番、強いのか…これに尽きるんだ。そうでしょ?

 

 この時の発言が、いつしかリング上のマイクアピールと混同されて流布するようになったのかもしれない。

 

 もう一つ、前田の名言として有名なものに「言うだけ番長」がある。これも世代闘争絡みの発言である。今や前原誠司代議士の代名詞となっていて、政治用語化しており、語源を知らない人も多いようだ。

 

「週刊プロレス」1987年11月10日号、No.230

1987・10・25ザ・両国ドキュメント

 (略)

腰痛のため、10・6月寒大会以後シリーズを欠場していた前田も両国に姿を見せた。尻すぼみになってしまった世代闘争に対しては、おもしろいコメントを残したが…

(※写真のキャプション)

 (略)

 この日も試合を欠場した前田は「いうだけいってケンカはしない番長」という言葉で長州を評した。(略)

 

 世代闘争は、猪木が同じ旧世代軍のマサ斎藤と巌流島で闘い(10月4日)、新世代軍の長州と藤波は仲間割れの上、この日(10月25日)猪木への挑戦権を賭けてシングル戦を行う等、結果を出さないままなし崩しに終了。負傷欠場中の前田は新しい流れには蚊帳の外で、フラストレーションが溜まっていたようだ。

しかし、前田の発言に関する週刊プロレスの記述は要領を得ない。

 

「週刊ファイト」1987年11月13日号

 このところ、学園祭でのレスラー講演がちょっとしたブームになっている。それもあって、10月31日には藤原が大東文化大学に、11月1日には前田と高田が中央大学に招かれ、それぞれ講演を行った。両大学ともに、会場にあふれんばかりのファンを集めたが、講演会というよりは「レスラーとファンのコミュニケーション広場」といった感じ。ただし、普段プロレス・マスコミを前にした時には絶対出てこないコメントが飛び出すので講演会は要注意。さて、どんな話が飛び出してきたか、それを紙上で再現してみよう。

(略)

 【第2部】会場のファンからの質問コーナー。(略)

 ――世代闘争も藤波、長州の仲間割れから、尻切れトンボになってしまいました。前田さんはどう思ってますか。

前田 せっかく両国で、この指とまれってやったのに、とまってみたらこれでしょ? 昔、オレの好きなテレビアニメで“夕やけ番長”っていうのがあったんだけど、あの人(長州)は実際、“ゆうだけ番長”じゃないかな。(拍手)

 

前田は漫画ではなくアニメを見ていたようだ(豆知識)。ファイトの「ゆうだけ」というひらがな表記は、掛け言葉であることを意識したものであろう。

 

「総合格闘技」のルーツは、競技自体については古代ギリシャのパンクラチオンまで遡れるものと思うが、言葉としては前田日明が使って広めたものと言われている。「前田日明が語るUWF全史 上」(第二章)には、前田がその言葉をいつ頃、どのような意味で使い始めたかが書かれている。

ただし、同書出版後にわたしが調べた所では、時期についてはもう少し遡れるようだ。

 

「ゴング」1983年8月号、No.218

“期待の新星”前田日明が持つ次期エースへの可能性

(略)

「プロレスは格闘技だ。寝技や関節攻めはもちろん必要です。だが総合格闘技なのだから空中技、特に人間で手よりも強い足を使った蹴り技が相手をKOする強力な武器となるはずです。僕は、僕のプロレスを確立したい。猪木二世ではなく前田一世……猪木さん、馬場さん、鶴田さん、藤波さん、全部勝負したいですね。先輩でも師でも、この道を歩く限りは乗り越えていかなければならない。僕は武道の目でプロレスをとらえています」と前田はいってのける。

 

英国から凱旋帰国して参加したIWGP終了後の6月のインタビューでの発言。わたしの記憶では、月刊ゴングの実際の発売日は、発行日の前々月の末頃(25日?)だったように思う。

 

「別冊ゴング」1984年1月号、No.175

新日本プロレスの過激な15人に聞く

(略)

 ――“前田は自分よりパワーのある人間には勝てない”という長州発言については?

前田 これは僕の大きな課題の一つです。“技は力の中にあり”というように、これからの時代は外人も大型化しているからパワーをつけねば。最近の外人は力だけでないので技だけでは対抗できません。僕の一つの目標は6年後…30歳での完成です。プロレスを総合格闘技として強さを追求していきたいですね。

 

 

「週刊ファイト」1984年8月28日号

 プロレスは総合格闘技であって猪木の延髄斬り、馬場の16文キックなどが空手をアレンジしたものであることは周知の事実。

 

 1984年8月13日、UWF道場で前田、高田が田中正悟と行った打撃練習を取材した記事中の一文。マスコミでもこの用語を使い始めたという例だが、その広がりは大分遅かったという印象で、1980年代に前田の発言以外で使われることは滅多になかったのではなかろうか。

 

 

「週刊プロレス」1985年1月22日号

佐山聡 高千穂遥 新春熱血対談

(略)

高千穂 佐山さんが今の、いわゆるキックを主体とするスタイルを考え始めたのは、どの辺からなんですか。

佐山 キックボクシングのジムに通い始めた頃でしょうね、新日本で関節技を覚えて、コレは確かに強いわけですよ。格闘技というのは最後は絶対関節技か絞めですよ。ところが、その前に何があるかというと、立ち技があるわけですよ。

高千穂 ようするに、ダメージを与えておくということですね、暴れないように。

佐山 格闘するときは、黙って向きあって組みあうわけがないんですよ。その前に何があるかというと、パンチ、キックの打の世界なんですよ。打の世界を覚えないかぎり、総合格闘技はできるわけがない、と思ったんですよ。

 

 佐山は新日本プロレス退団後、目指すものとして「新格闘技」を提唱。第1次UWF入団後、それが「シューティング」という名前に変わる。いずれにせよ、「総合格闘技」という言葉を使っていた印象はないのだが、概念の共有はしていたようだ。

 

 

「週刊ファイト」1985年6月11日号

前田 実際、台湾では禁じ手がほとんどナシの武術大会が恒常的に行われているんですよ。顔面その他への突き、蹴り、肘打ち、膝蹴り、投げ技、関節技、頭突き…とにかく目や急所以外なら、どこをどう攻めてもいいルールです。

 写真を見ると選手の鼻が潰れているんです。鼻へ頭突きをしているのもありました。この競技はフルコンタクト功夫、擂台賽(らいたいさい、擂台はリングの意)というんですが。

 ――前田選手の理想は、そんな試合を行うことですか。

前田 自分の理想は総合格闘技ですから、近いですね。人に見せることよりも、自分が強くなるための試合といいますか…。

 

「週刊ファイト」1986年1月7日号

前田vs高田 新春“激白”対談

(略)

前田 もっとシビアになるんじゃないか。パンチならパンチだけ、キックならキックだけという選手が多かったから。オレ達は総合格闘技で、何でも攻撃できるんだし…。

 

「週刊ゴング」1986年7月3日号、No.109

「プロレスというのは、総合格闘技でなければならないと俺は思う。つまり、蹴ればキックボクサーを上回り、投げでは柔道家を上回り、関節の極め合いではサンビストを上回る…それが理想のプロレスラーの姿であるべきなんです。ところが現在のプロレスは、エンターテイメント的な方向へ進みすざている。(略)

 今日の試合は、やってみなければわからないが、いい試合を見せる、ということよりも、プロレスの総合格闘技としての奥深さをとことん追及するような戦いをやりたいと俺は思ってる。シビアな戦い方をすれば、プロレスにはとてつもない広がりがあるっていうことを今日のリング上で示したい」

 

上記は1986年6月12日、大阪城ホールでの藤波辰巳戦(IWGPリーグ戦)前の記者団とのインタビューでの発言。

次いで、同年10月9日の異種格闘技戦に向けたUWF道場でのトレーニング時の発言を紹介する。

 

「週刊ゴング」1986年10月23日号、No.125

「ともかく普段と変わらないよ、練習にしても取りたてて変わったことはやってないし…。たまたま相手がニールセンだから格闘技戦の名称になってるだけ。全て平常心で行くよ。プロレスは総合格闘技、その自負に賭けて…プロレスラーの誇りに賭けて戦いますよ」

 と頼もしい言葉で締めくくってくれた前田。(略)

 

「ゴング格闘技」1987年8月号

前田日明独占連載手記!最終回

(略)

 ところで、ファンの中にはシュートボクシングや空手のある流派との“異種格闘技”を期待しているような人も多いと聞きます。格闘技ブームならではの意見といえるでしょう。

 その件に関して、自分はこう思うのです。

 シュートボクシングや空手の諸流派が、総合格闘技をめざしていることは事実です。その努力に対しては、自分も敬意を払うにやぶさかではありません。

 しかし、プロレス、本来の呼び名であるプロフェッショナルレスリングは、そのルーツそのものが総合格闘技。改めて他の格闘技と優劣を競うものではないと思うのです。どちらが優秀だとか、そういう問題ではなくして……。

 だから、他の格闘技と合流する気持ちは全くありません。

 ただ、いい技術はどんどん取り入れていきたいと思っています。そして、そのための技術交流なら、喜んで参加させてもらうつもりです。

 

「格闘技通信」1988年7月1日号、No.20

Evolutional Pro-Wrestling 前田日明◎手記

 (略)プロレスはもともと総合格闘技である。総合というからにはパンチ、キックを含めあらゆる攻撃があって当然である。UWFは、そうした総合格闘技たるプロレスの原点に立ち帰り、本物のプロレスがどれほどすごいものかを再現、再興していこうというわけである。

 (略)

 とにかく、自分はUWFによってある意味で新しい(本当はプロレス本来の姿を追求する)プロレスを創造し、衰退しかかったプロレスに活を入れていくつもりである。総合格闘技として、誰もが納得して見てくれる偽りのない本物のプロレスを確立し、メジャー・スポーツにしていきたいと思う。(略)

 

 この前田の「手記」(実際には聞き書き)は、第2次UWFの旗揚げ戦(1988年5月12日)の翌日にまとめられた(ということになっている)もので、1984年のUWF」でも取り上げられている。

 

 ここまで用例を読んでいただければおわかりのように、総合格闘技とは組み技と打撃を総合した格闘技、という意味で、初めはむしろプロレスの特性(あるいは本質)を表す言葉であった。プロレスとは別の新しい格闘技を目指した佐山は、だからその言葉をあまり使わなかったのかもしれない。

それがはっきりプロレスと対立する概念として広まるのは、1990年代以降のことである。

 

大仁田厚が創設したプロレス団体・FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)は、1990年1月7日に「総合格闘技オープントーナメント」、1991年11月20日から12月9日にかけて「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催した。「総合格闘技」と銘打ったプロの大会は、実はこれらが初めて?

 

 

 

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