UWF余話 高田延彦のUWF参加

 

 

東スポWeb

【高田延彦連載11】新日を離れユニバーサル、そして新生UWFへ

2016年12月28日 10時00分

https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/633341/

ダイナマイト・キッドとのタイトルマッチも決まっていた1984年6月。当時22歳の私は、猪木さんに認められ始めたことを実感しながら、新日本プロレスを飛び出してユニバーサル・プロレス(第1次UWF)に移籍しました。

 最大の理由は、体をぶつけ合って私を磨いてくれた先輩に「ユニバーサルに行こう」と誘われたからです。猪木さんや山本小鉄さんも大きな存在ではあるけど、やっぱり実際に手を差し伸べて厳しく磨いてくれた先輩がいなくなってしまうのは耐えられなかった。

 そのころの私にとっては「強くなりたい」という思いがすべてでした。だからその先輩から「行くぞ」と言われれば…。引っ張られたというか、体をぶつけ合って日々を共に過ごしてきた者同士の思いというものに、最後は「負けた」感じでした。

 シンプルに言えば「兄貴分が行くから俺も行く」ということ。ただ猪木さんがレスラーとして私を認め始めてくれた空気は伝わっていたし、半人前から一人前に足を踏み込みつつある私を視界に入れてくれているということは分かっていた。ですから苦渋の決断でした。

 

 

 高田は、藤原喜明と同時にUWFに入団した。だから文中にある「先輩」は藤原のこととも読めるが、「兄貴分」という表現はむしろ前田日明を思わせる。「誘われた」「先輩がいなくなってしまうのは耐えられなかった」は、入団時ではなく、もっと前のことなのかもしれない。その「先輩」の名前をあえて出していない所にも、意味があるのかもしれない。

 

 高田延彦「最強の名のもとに」(徳間書店、1993)では、UWFへ行った理由が次のように書かれている。

 

 言葉を換えるなら、猪木さんは理想の夢を与えてくれ、前田さんと藤原さんは現実の夢を与えてくれた。プロレスラーとして強くなるためにはどうすればいいのか。その武器とはなんなのか。ふたりはその道を具体的に示してくれたのだ。

 自分はもっと強くなりたかった。最強のプロレスラーになりたいと思った。その夢を実現するために、学ばなければならないものはたくさんある。藤原さんと前田さんから盗むことは、山のようにあったのだ。プロレスラーとしてもっと強くなるためには、ふたりについていくしかない。とことんくらいついていこう、そう思ったのだ。

 

 

前田と藤原と共に強くなりたい。それが最大の要因であったのだろう。

 1984年6月27日の藤原・高田UWF入団記者会見では、高田は次のように語ったと報じられている。

 

「週刊ファイト」1984年7月10日号       

 高田 移籍の第一の理由は前田さんがいるからですが、決定的だったのは藤原さんが移ると聞いたからです。藤原さんがいないと寂しいし、レスリングの目標もなくなります。

 ――移籍を決めたのは?

 高田 六月二十五日、藤原さんと話し合って決めました。

 

「週刊ゴング」1984年7月19日号 No.9

「自分が心からレスリングに対する考え方に共鳴している藤原さんのいない新日には残る気にはなれませんでした。25日に藤原さんから話を聞いて、すぐその場でUWF行きを決意しました。それに前田さんがいますからね」

 

 

藤原のUWF入団については、ターザン山本や更級四郎が、自分がUWFに言って引き抜かせた、というようなことを手柄顔で語っているが、それで決まるような単純な話ではない。また、高田も単純に藤原が行くから付いて行った、という話でもない。そこまでには複雑な経緯があった。これから見て行きたい。

 

 1983年、猪木のサイド・ビジネス(アントン・ハイセル)を原因として新日本プロレスにクーデターが起き、更にそれを遠因として翌年、2つの新団体が生まれた。UWFとジャパン・プロレスである。

 UWFは、クーデターで新日本を追放された新間寿が作った。当初は、新日本を辞めたタイガーマスク(佐山聡)の復活の場として報じられた。そして、裏の目的として猪木の移籍先とも噂された。

まだその動きが表に出る前、新間は次のように語っている。

 

「ゴング」1983年11月号

竹内 もしクーデターというか…その一派が企てた新団体設立が成功していたとしたら一体、新日本プロレスには何人のレスラーが残ったのかね。

新間 最悪の場合、猪木と坂口の二人だけになってしまったかもしれないね。ただ、それが成功したとしても前田や高田(伸彦)はおそらく猪木と行動を共にしたと思う。

 

 

 「週刊ファイト」に連載された次郎丸明穂「冒険者の魂 前田日明 青春アドベンチャーロード」は、のちの前田日明「パワー・オブ・ドリーム」(角川書店、1988)の原型となる前田の伝記。それらによると、前田は佐山とそのマネージャーのショウジ・コンチャの誘いでクーデター・グループ内のユニオン派(選手のプロダクション設立を目指す)に組みしたものの、別派の新団体設立の動きは知らなかったという(ファイトでは1987年3月13日号の第23話、同20日号の第24話)。前田日明「格闘王への挑戦」(講談社、1988)によれば、前田は猪木が社長を辞任した時に初めて、クーデターに山本小鉄(新団体派だった)が加わっていたことを知ったという。

高田は当時、猪木の付き人だったから、猪木に付いて行くと見るのも自然であるが、前田については、猪木よりも新間自身が影響力を行使し得ると考えていたのかもしれない(実際そうなった)。

ただし、物議をかもした佐山聡による手記(第4回、GORO」1983年12月8日号、小学館)には、猪木、坂口、荒川、藤原を新団体は除く、という話が出ており、新間がクーデター派の内情を、この時点でどこまで知って語っていたかは不明。むしろ、当時既に動き出していた新間が(実は)新団体に誘うべき人間として名前を出した可能性こそが重要であろう。

実際、前田、高田についてはその後も新団体に関連して名前が語られることがあった。

 

「東京スポーツ」1984年1月25日号

緊急レポート 虎は甦るか タイガー・マスク復活の深層海流 1

 (略)

 このあたりから佐山の“日本マット復帰”は全くないのか――という疑問を巡り怪情報が乱れ飛び始めた。@TBSが四月から佐山を中心としたNYの試合を放送するAマクマホーン氏の日本進出の布石となるB佐山は現在新日プロの小林邦昭、前田日明、高田らを連れて新団体をつくるetc……。

 

「東京スポーツ」1984年1月31日号

緊急レポート 虎は甦るか タイガー・マスク復活の深層海流 5

 (略)……これまでにも噂の段階で数人のレスラーの名前が出た。小林邦、前田、高田…。(略)

 当の小林は二十七日、名古屋で“核心”の部分を、こう答えた。

「個人的には佐山とは親交がある。過去、何度か気持ちを打診されたことはあるが、いまのところ考えていない。俺達には生活があるからね」と暗に佐山サイドからの接触があったことは認めたものの“移籍”?は否定している。

 もう一人、名前の出た前田は「ジム(タイガー・ジム)には遊びに行ったことはありますが、そんな話(引き抜きを指す)は一度も出なかった。ボクは、何かをやる時には後見人である、大阪の空手の先生にすべてを相談しなければならないんですよ。何もないから、相談のしようもないのが現実です」と無関心だ。高田にいたっては「全く寝耳に水」という。

 

 

 小林邦昭についてはあくまでも佐山との関係からのようで、新間と佐山側が決裂後は名前が出なくなるが、新間退陣後のUWFに佐山が参加する(1984年7月23・24日「無限大記念日」)頃にも、UWF参戦が噂された(「週刊ファイト」1984年7月24日号「週刊ゴング」1984年8月2日号)。ただし小林は結局、新日本プロレス興行(のちのジャパン・プロレス)に動いている。

 ちなみに、佐山が新日本に参戦中のダイナマイト・キッドにも声を掛けていた、という話もあった(「東京スポーツ」1984年1月26日号佐山 今月初め 宿敵引き抜き工作 キッドは断る」)。これに対し、新日本は「佐山サイドと手を結ぶとウワサされたダイナマイト・キッドとは「佐山とは関知しない」という契約書を取り交わし」たという(「ゴング」1984年4月号)。

 

 藤原がクーデター派に誘われなかったのは、猪木に近いと見られていたからであろう。荒川真については必ずしも猪木派でなくても、仲のよい藤原にすぐしゃべってしまうと思われたからか。藤原については、次のような話がある。

 

波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)

 タイガーマスクの新日プロ離脱を機に猪木を社長の座から引きずり下ろすクーデター事件が起こったとき、藤原は「バカなことを考えやがって。あいつらに何ができる」と鼻で笑ったという。

 (略)

 藤原は猪木に「社長、今こそチャンスです。もう1度団体を飛び出してボクらで新しい会社をつくりましょう」と言った。

 藤原はストロングスタイルを標榜するには不向きな連中が、大きな顔をして人気を博しているのが気に食わなかった。

 (略)

 もし猪木が首を縦に振っていれば、その後の日本マット界の歴史は変わっただろうが、猪木は「よし、やろう」とは言わなかった。猪木シンパの藤原が新日プロを飛び出してUWFに移籍した大きな理由の一つだったに違いない。

 

 

 藤原は「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)の中で、第一次UWFに移籍した理由を、クーデターの際には仲間から声がかからず、それなのに猪木からは「おまえも(クーデター派)か」と疑われ、自分が新日本では必要とされていないのかと思っていた所に、UWFの浦田社長から「あなたが必要だ」と誘われたから、と語っている。挙げられた事実一つ一つはその通りなのであろうが、実際の事情はもっと複雑で、猪木に対する感情も色々あった所を、わかりやすいように簡単に説明したのではなかろうか。

 

 クーデターの嚆矢は、タイガーマスク(佐山聡)による新日本プロレスへの契約解除通告である。これはカナダ・カルガリーで1984年8月12日(日本時間13日)に行われる予定のダイナマイト・キッド戦の直前であった。テレビ朝日の中継も予定されており、小林邦昭が急遽代打出場することが一度は発表されたものの、現地で修行中だった高野兄弟やヒロ斎藤もキッド戦も希望。付き人として同行していた高田を猪木が強く推薦して、最終的に高田対キッド戦が決定した。ただしキッドはスケジュール調整がつかず欠場し、高田はアーサー・フォーリーと「WWFジュニアヘビー級王座争奪戦進出者決定戦」を闘って勝利。猪木は試合前に背広姿でリングに上がり、相手のマネージャーを張り倒すアシストをした。(「東京スポーツ」1983年8月14日号、同16日号)。

 猪木は第1回IWGPでのKO劇からのカムバック前で、ロサンゼルスで高田をパートナーに特訓中の所、TV解説のためカルガリー入りしていた。前座レスラーに過ぎなかった高田の抜擢は、単なる「棚から牡丹餅」以上に、かなり強引なものとも見える。

 なお、ダイナマイト・キッドの欠場については、GORO」1984年1月12日号に佐山の言として「『タイガー以外とはやりたくない!』の一言を残してオレゴンに帰ってしまった」とある。

 8月19日(金)のTV放送(カルガリーからの中継)のカードは次の通り(「東京スポーツ」1983年8月19日号)。当日の新聞のTV欄にも高田の名前がある。

 

藤波辰巳vsドン・コロフ 

小林邦昭 ザ・コブラvsブルース・ハート デビーボーイ・スミス

高田伸彦vsアーサー・フォーリー

 

 面白いのは、東京スポーツは14日号では「ジョージ・高野」という名前を出していたのに、16日号では「ザ・コブラ」をあくまでも正体不明のマスクマンとして紹介していること。早くもタイガーマスクの穴を埋める方策を考え始めている印象もある。もっともコブラと高田のポジションは逆でもいいわけで、高田の抜擢にはやはり特筆すべきものがあろう。

 帰国後の新シリーズの開幕戦(8月26日)でも、高田はライバル・山崎一夫とのシングル戦を第6試合で組まれ、ハイライトがダイジェスト放送された(「東京スポーツ」1983年8月28日号)。

 猪木はクーデターによって社長を辞任し、経営権を失ったものの、リング上ではエースであることに変わりがなかったため、早々に権力を取り戻していたようである。「別冊ゴング」1983年11月号に、次のような記述がある。

 

 今、新日本プロレスはアントニオ猪木の「ハイセルは誰か(弟の啓介氏しかいない)に任せて、俺はプロレス一本に打ちこむ」という宣言で、再び全ての実権が猪木のもとに集まりつつある。

 (略)

 一時は山本小鉄→藤波辰巳のラインに移っていたマッチメーク権も今では猪木の承認を得ずしては行われない。(略)

 

 

 発売日からすると10月上旬以前の話であろう。ただし経営については、11月11日に社長復帰後もTV朝日に牛耳られて居心地はよくない所に、新間が付け込んでUWFに引っ張る隙はあった(少なくともあったように見えた)のかもしれない。

 

「別冊ゴング」1984年5月号には、「新日本プロレスのフロントを、いま体調不良でほとんど会社に顔を出さないアントニオ猪木に代わって切りまわしているのは副社長の坂口征二」とある。

 

「週刊ゴング」1984年5月31日号 No.2

 新日プロサイドはアントニオ猪木が“社長”といっても、猪木には代表権が与えられておらず、代表権を持っているのはテレビ朝日から出向している岡部副社長、そしてレスラー達も猪木派(藤原、高田ら)、山本小鉄派(藤波、永源ら)、維新軍団・長州派、そして中間派(坂口ら)に分かれており、坂口は副社長という立場上、猪木を立てているが、実際上は山本小鉄派に近いという者もいる。

 

 

 ただし、猪木の社長復帰を伝える「東京スポーツ」1983年11月13日号の記事には、「新日本プロレス代表取締役社長」とある。その後に代表権が外れたのであろうか。

 猪木の社長復帰には、TV朝日側から「クーデター派を処罰しない、新日プロから猪木の事業に金を出さない」という条件が付けられていたという(「月刊実話TIMES」1984年8月号、双葉社)。

 

 「週刊ゴング」で「猪木派」とされ、ほどなくUWFに参加することになる藤原、高田が、クーデターからUWF旗揚げまでの間に抜擢されてポジションを上げていたのは、(新間と裏で通じた?)猪木の意向…だったのかもしれない。ただ、もしそうだったとしても、事はよほど複雑であったろう。猪木自身の動向が、謎に満ちていたからである。

 藤原、高田の動向を中心に時系列で整理する。

 

1983年9月16日、TV生中継の大会で、セミファイナルに藤原が出場。木村健吾と組んでディック・マードック、バッドニュース・アレン組と対戦。セミ前は藤波辰巳、前田対長州力、キラー・カーン戦だったが、前田が試合前に襲われ負傷退場、猪木の指名で高田が代打出場。

 

1983年12月6日、大阪で藤原、前田、高田が座談会(「週刊ファイト」1984年1月17日号に記事掲載)。同夜、前田の母が転落事故で重症。多額の治療費が必要になったことが前田のUWF入りの一因となる。

 

1984年1〜2月、高田は「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」に参加。ただし1不戦勝を除いて全敗。この時点では出ること自体が抜擢だったか。

 

1月29日、剛竜馬が失踪。

 

2月3日、札幌での藤波辰巳対長州力のWWFインターナショナルヘビー級選手権試合戦の前、花道で藤原が長州を襲って負傷させ、試合不成立。藤原は「テロリスト」として名を上げる。

 

2月8日付の東京スポーツ1面で新間が新団体設立発言。

 

3月2日、ビッグファイト・シリーズ開幕戦を前田、ラッシャー木村が無断欠場。新団体入りが報じられる。

 

3月25日(日本時間26日)、ニューヨークMSGで前田がWWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦に勝利。試合後、UWF入りを正式表明。

 

3月30日、ビッグファイト・シリーズ第2弾開幕。TV生中継中のリング上で負傷欠場の猪木が挨拶の後、藤原がUWFの前田へ宣戦布告。控室にはR木村と剛が乱入していた。

 

4月3日、高田が渡米。「男の約束」があるとして、ロサンゼルスで特訓中の前田と合流。

 

4月11〜17日、UWFオープニング・シリーズに高田が全戦出場。藤原は最終戦の蔵前国技館大会にのみ出場、メインイベントで前田と一騎打ち。

 

4月19日、ビッグファイト・シリーズ第2弾最終戦蔵前国技館大会、正規軍対維新軍の5対5勝ち抜き戦に、高田は次鋒、藤原は副将で出場。

 

5〜6月、’84 IWGPシリーズに藤原、高田が参加。

 

そして、7月20日札幌でのWWFジュニアヘビー級選手権試合で、ダイナマイト・キッドに高田の挑戦が決定。高田を引き止めるための大抜擢だったのかもしれないが、その甲斐なく、高田は藤原と共に新日本を退団。

 

 遡って、高田の渡米、前田との合流について考えよう。これには伏線があった。高田のMSG出場問題である。

 

「東京スポーツ」1984年2月24日号(23日発行、No.8188)

ザ・タイガーの代役に高田指名 MS・G三月定期戦

マクマホーンJrが注目発言

【ニューヨーク発=カズ・高橋特派員】三月二十六日(日本時間二十七日)のWWF、MS・G三月定期戦は、ザ・タイガー(佐山サトル)に代わって新日本プロレスの若手ホープ、高田伸彦が出場!? これは二十日(同二十一日)WWFのビンス・マクマホーン・ジュニアがもらしたもので、すでに渡米中の新日プロ坂口征二副社長に対し、高田の出場要請を打診した模様――。

   × × ×

 マクマホーン・ジュニアは現地時間二十日の定期戦開始に先立ち「当初、予定していたザ・タイガーの出場が難しくなった。これはミスター・シンマ(元新日プロ取締役営業本部長、新間寿氏)から“タイガーは出場できない”と連絡があったためだ」と、注目すべき発言を行った。

 三月の定期戦に何としてもジュニアクラスの有力選手を出場させたい意向を持つマクマホーン・ジュニアが、有力候補として名前をあげたのが新日プロの高田伸彦だった。

 「前々から、イノキが将来性あるホープと、高く評価していると聞いていたため」と、マクマホーン・ジュニアは高田に白羽の矢を立てた理由を説明。

 これと平行して渡米中の坂口征二に対してもすでに口頭で出場要請を行った可能性がある。

 特にマクマホーン・ジュニアがジュニアクラスの有力選手を出場させようとするのは、三月の定期戦で、ジュニアヘビー級のタイトル戦を実現させたい意向があるとみられるからだ。

 WWFのスポークスマン役のアーノルド・スコーラン氏も「タカダが出るとしたら、ジュニアヘビーのタイトルがからんだ試合になるはず」とマクマホーン・ジュニアの発言を肯定しており、新日プロ側が高田の出場をOKすれば、三月の定期戦で、日本選手が出場するジュニアヘビー級のタイトル戦が実現することになる。

 

 

 佐山が3月にMSGでカムバックすると、それまでに新間も佐山自身も語っていたものの、中止となってしまった。TV朝日との契約をクリアできなかったためか、佐山のマネージャーのショウジ・コンチャが新間ともめたためか。坂口は1月28日の記者会見でかなり軟化した発言をしていたのだが(「東京スポーツ」1984年2月1日号、「坂口が佐山のMS・G出場 条件付き 容認」)。

 

 「週刊プロレス」1984年4月3日号には、「3月25日の定期戦には新日本の高田伸彦が抜てき、出場が決まっている。これは坂口、マクマホン会談で了承済み。」とある。坂口も一度はOKしたようだが、のちに撤回に動いたようだ。

 

「ゴング」1984年5月号

 もう一つ、注目されるのはビンス・マクマホンWWF代表が「3月26日には、前田と共に日本から高田伸彦がニューヨークにきてリングに上がり、ジュニアのタイトル戦を行なうだろう」と3月10日(日本時間11日)にロスアンゼルスで語ったことだ。

 高田が新日プロの選手としてMSGに上がるのか? それとも前田のように新日本プロを離脱してMSGに上がるか? 一部では「高田はテレ朝と契約していない」という噂もあり、成り行きが注目される。

 

「別冊ゴング」1984年5月号

 実は3月26日(アメリカ時間25日)マジソン・スクェア・ガーデンで高田伸彦とカルロス・ホセ・エストラーダのWWF認定ジュニア・ヘビー級王座決定戦というカードが組まれており高田はこれに出場する予定だった。

 カードを組んだのはWWF会長の新間寿氏であり、新日本プロ・フロントは事前にこれを察知、高田の渡米を引き留めた。高田はその後アントニオ猪木、坂口征二、山本小鉄、藤波辰巳らに説得されてニューヨーク行きを思いとどまり、新日本プロレス(というよりテレビ朝日)と二年契約を改めて行った。

 

 

 新間はWWF会長の権限で、新日本プロレスにあったWWFと名のつくタイトル(藤波のインター・ヘビー、キッドのジュニア・ヘビー)の返上を要求し、前田にMSGでWWFインターのベルトを取らせた。ジュニアについても同様のことを狙っていたようだ。エストラーダは、MSGにおけるWWFジュニア・ヘビー級初代王者決定戦で藤波が勝った相手である。

 

「週刊プロレス」1984年4月10日号に、「若手人気No.1の高田伸彦は、すでにUWF移籍が決定しているといわれ、前田明とロスで合流するという。これは前田自身の口から出た話だから、信ぴょう性十分。」とあった。高田の問題は、まだ解決していなかった。

 

「東京スポーツ」1984年4月5日号(4日発行、No.82)

高田 新日 謎の突発渡米 前田さんと『男の約束』と言い残して

猪木社長不可解な許可 ロス疑惑 前田と合流

 新日プロの若手最大のホープ、高田伸彦が三日午後五時二十分、新東京国際空港発のJAL62便で突然渡米、ロサンゼルスに向かったことが明らかになった。高田は二日の足利大会まで『ビッグファイト・シリーズ第2弾』に参加していたが、かねてから新日プロの坂口征二副社長に対し「前田さんと男として約束したことがあります。なんとか前田さんと話し合わせてください」と申し入れていたという。新日プロではA・猪木社長と相談の結果、急きょ高田の渡米を認めることになった。しかし、時期が時期だけにUWF旗揚げシリーズ参加のためロス特訓中の前田と高田の“合流”は、今後に新たな波紋を呼び起こしそうだ。

 (略)

『男の約束』とはUWF入りなのか

 (略)

 一つ考えられるのは三月二十五日(日本時間二十六日)高田は前田とともにMS・Gのリングに登場、ホセ・エストラーダと対戦が決まっていたのが、突然キャンセルになった。この時の高田のMS・G登場の裏にはUWF最高顧問の新間寿氏が動いていたともいうNY筋の情報もあり、今回、高田がシリーズ中に突然渡米。しかもUWFの主力選手である前田と米国で接触をもつことをストレートに見れば、UWFとの関係が強力な線となって浮かんでくる。高田の胸中に“前田とともにUWFリング出場”があり、これが二人の男の約束だったとすればおだやかではない。

 すでに新日プロと再契約を済ませている高田が、契約を破棄してまでUWFのリングに上がれるのか? 高田の今後の動きいかんでは当然、新日プロとしては阻止の行動に出るだろう。

 

 

「週刊ファイト」1987年4月17日号

次郎丸明穂「冒険者の魂 前田日明 青春アドベンチャーロード」

28話 暗雲に包まれたUWF

 (略)

 何かがおかしい。釈然としないまま、前田は特訓のためロサンゼルスに飛んだ。

 そのロスに、しばらくして日本から高田伸彦が訪ねて来た。ともに新間氏からUWFへ誘われ、2人でその件を話し合ってきたにもかかわらず、移籍を決心した動機を、まだ前田から聞かされていなかった。今や渦中でひとり悩む高田はどうしても前田の本心を確かめないではいられず、やむにやまれぬ思いでロスまで追いかけてきたのだが、高田の持ってきた日本のニュースが、逆に前田を苦悩させることになった。

 新日プロの選手とテレビ朝日の契約は3月31日で更改される。UWFに移籍した前田は、もちろん更新していない。

 ところが、高田自身を含む新日プロの全選手が契約更新を完了したというのだ。ということはつまり、誰ひとりUWFにはやって来ないわけである。

 そんなバカなことがあるわけはない。猪木を筆頭とする新日プロのほとんどがUWFに移るからというので、その先兵として自分が送りこまれたはずなのだ。

 「でも、猪木さんがテレビ朝日との契約書にサインしたから、自分も従ったんです」

 高田の言葉は、信じられない事実を物語っていた。

 

 

 なお、高田のTV朝日との契約は、正確には「更改」「更新」ではなく(移籍を防ぐための)新規契約である。

 

「月刊実話TIMES」1984年5月号、双葉社

「これまでテレビ朝日と契約していたのは、猪木、坂口、タイガーの3人だけでしたが、今度のことで、新日プロの全レスラーが契約を結びました」(神真慈・新日本プロレス広報担当)

 

 

 そう語っていた神真慈(のち新二に改名)自身もUWFに移るのだが、ギリギリまで新日本に残っていたようだ(同誌は前月7日が発売日。コメントは3月中のものか)。

 

追記2018.6.23

「週刊プロレス」1984年4月17日号 No.37

UWFへの対処を坂口征二副社長に聴く

(略)

坂口 (略)それにテレビ朝日がレフェリーを含む選手と1年契約を結んだ。昨年までは猪木さん、私に藤波、タイガーマスクだけだった。維新軍もテレビ朝日と契約した。(略)

 

 従来TV朝日と契約していたレスラーは4人だったと坂口が語っている。藤波の扱いがタイガーマスクより低かったとは考えにくいから、こちらの方が正しいのではないだろうか。

(追記終わり)

 

 

波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)

 このころ新団体への移籍を警戒した新日プロはあらためて選手と契約を結んだが、最後までサインしなかったのが前田を兄と慕う高田。

 高田は新間氏に「新日プロと契約するんじゃない。UWFに来い。猪木もそのうちUWFに来るんだから」と言われ、契約期限の最終日にも新間氏に請われて霞が関ビルディングのオフィスに同氏を訪ねた際、偶然、猪木から電話が入った。

 新間氏に代わってもらい猪木と話をすると、なにやら抽象的。ただ、猪木はいずれUWFへ行くようなニュアンスだと高田は受け取った。

 電話を切った高田が「藤原さんはどうです? 選手を育てるのは藤原さんしかいません」と言うと、新間氏は「わかってる。まかせておけ」と答えた。これで高田のハラは決まった。

 新間氏のオフィスを出て向かった新日プロ事務所で坂口副社長に「辞めます」と伝えると、思わぬ言葉が返ってきた。

「猪木さんがUWFへ移るというのは全くの事実無根だぞ。今も猪木さんは7階の会議室で天地神明に誓ってUWFへは行かないと言ったところだ」

 もう誰も信用できない。プロレス界はなんという世界なんだと訳がわからなくなった高田はポロポロ泣きながら、偶然、事務所に居合わせた藤原に「新日プロを辞めます」と言った。もうプロレスラーそのものを辞める気だった。

 動揺する高田を見かねた坂口が契約期限を1ヵ月延ばしたこともあって、高田は新日プロと契約。ただ「前田さんと男の約束があるので会わせてください」と頼み、渡米していた前田と合流し、カール・ゴッチ氏のもとでトレーニングを積んだ。

 

 

 高田は新間、猪木、坂口らの間で揺れ動き、悩んでいたようだ。

「週刊ファイト」1984年10月2日号によれば、藤原と高田の新日本プロレスとの契約は3月23日に交わされた由。

 

前田日明「パワー・オブ・ドリーム」(角川書店、1988)

少し遅れて、高田も日本からロスにやって来た。スパーリング・パートナーとして高田をよこしてくれるように、新間さんに頼んでおいたからである。

(略)

「でも、猪木さんがテレビ朝日との契約書にサインしたから、だからオレも従ったんです」

 猪木さん、新日プロに残るつもりなのか。何が何だがわからなくなってきた。

「それじゃあ、お前はどうしてシリーズの途中でここに来ることができたんだ」

「それがよくわからないんです。猪木さんが行けと言ったんですよ。UWFのオープニング・シリーズにも参加するように言われました」

 高田自身も困惑しきっているようだった。

 

 

「東京スポーツ」1984年4月10日号(9日発行、No.8226)

UWFの王者・前田が凱旋9日 謎の行動・高田 新日 も共に帰国

 

「東京スポーツ」1984年4月11日号(10日発行、No.8227)

今日の猪木⇒坂口会談で決定へ 高田のUWF出場期限つき許可

 

「東京スポーツ」1984年4月12日号(11日発行、No.8228)

男の誓い通った 高田UWF出場許可

 

「月刊実話TIMES」1984年8月号には、「オープニング・シリーズには、社長が裏切った後ろめたさもあってか、若手の人気者高田伸彦を貸し出し、“テロリスト”藤原喜明も特別出場させて協力した新日プロ」とある。TV朝日の生中継中に藤原がUWFへの殴り込みを表明したこと等は、リング外で敵対する団体とも思えなかった。「全日プロの米沢渉外部長がユニプロを“新日本第二軍”と笑った」(「週刊ファイト」1984年4月10日号)のも、むべなるかな、という感じ。

 

 実は旗揚げ前に既に水面下で、猪木が来ないUWFの存続を諦めた新間と、新日本プロレス、テレビ朝日の三者会談により、オープニング・シリーズ終了後のUWFレスラーの新日マット復帰と、UWFの興行会社化が合意され、覚書が交わされていた。その前提であれば、フジテレビはとっくの昔に手を引いていたのだからTV朝日がUWFのオープニング・シリーズを(一部でも)放送してもおかしくはなかった。猪木もR木村と闘いそうなムードを醸し出していた。

 しかし、UWFのフロントは新間の独断に反発。レスラーもグラン浜田以外は付いて行かず、孤立した新間が「プロレス界引退」を宣言して手を引き、UWFは独立独歩を始める。新日本ともここから真の敵対関係になった。藤原、高田が正式にUWFへ移籍したのはそうなった後で、それ故にそれは彼等自身の意思によるもので間違いなかろうが、彼等は前田やR木村、剛と違って新日本、TV朝日と契約を済ませていたこともあり、裁判沙汰になった。

 

「週刊ファイト」1987年5月8日号

次郎丸明穂「冒険者の魂 前田日明 青春アドベンチャーロード」

31話 藤原組、UWFに終結!(※「集結」を誤植)

 (略)そして浦田社長は、8月に予定している再スタートのシリーズ開始までに、他団体からどんどん選手を確保するつもりだったのである。

 浦田社長は前田に、誰が一番欲しいか、と尋ねた。

 「藤原さんです」

 一も二もなく前田はそう答えた。自分の理想とする格闘プロレスの夢は、もとはといえば、師匠である藤原から仕込まれたものだった。しかも、すでにオープニングシリーズの最終戦で、藤原とはその夢に近い試合を行うことができた。あの手応えをもっと大きく育てたかった。

 だが、前田には半分、無理強いはできない、という気持ちがあった。なぜなら藤原は長い下積みの末に、ようやく<テロリスト>としてトップイベンターに躍り出したばかりである。前田は間近で彼の苦節の時代を見続けただけに、現在の新日での地位を捨てて、苦しい経営を強いられているUWFに来ることを拒絶されてもしかたがないと思っていた。

 (略)

 しかも、藤原に同行して高田伸彦もやって来るという。前田にとって、これは予想外の喜びだった。

 浦田社長から希望の選手を問われたとき、前田はあえて高田の名前を出さなかった。というのも、ちょうど高田は新日プロでジュニアのスターの座を約束されていた大事な時期だったからである。それを振り捨ててUWFへ来てくれたことに、前田はいたく感動した。

 (略)

 

 

 前田は後年、次のように語っている。

 

前田日明ほか「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)

「(略)

 俺が新日本から放り出されたような形でユニバーサルに行ったとき、新日本の社員だった神と鈴木が『自分たちも辞めてついて行きます』って言ってきたんだよね。そしてあとから藤原さんも高田も来てくれた。そのとき、俺はめちゃくちゃ感激したんだよね。こんな俺ごときのためにって。この人たちのためなら死んでもいい。どんなことをしてでも守らなきゃいけない、真剣にそう思ったんですよ――」

 

「週刊ファイト」1984年7月31日号

 藤原喜明、高田伸彦両名の新日プロからのUWF移籍をめぐって契約違反などの論争が法廷(東京地方裁判所民事部)へ持ち込まれていたが、二十日、四度目の調停で和解が成立した。この結果七月二十日付で藤原、高田の両名は新日プロとの契約を解除、晴れてUWFの一員になったのである。

 藤原らに課せられたのは違約金ならびに損害賠償金(高田は損害賠償のみ)を支払うこと。また調停案では両選手に対し二十七日、北上市江釣子大会への出場を提案。(略)

 

昨日・今日・明日‥‥ファイト直言

 ☆…東京地裁が新日プロとUWFに示した和解案の中に『藤原は二十七日の北上大会に出場する』があった。北上といえば藤原の地元で、早くから藤原後援会が動いていた。ポスターにも藤原を大々的に取り上げている。新日プロにすれば、「どうしてくれる」とアゴを突きだしたくもなるが、それを勘案しての“大岡裁き”だったと思うのだ。

☆…それだけに、これは面白いことになったと思った。UWF側は、そうなった場合は……と事前に策を練り、相手は藤波か坂口、ルールは時間無制限一本勝負のデスマッチと決めて待ち構えていた。(略)

 

 

 井上義啓編集長も大いに期待した北上市江釣子大会“北上河原の決闘”(「ファイト直言」中の表現)が、どういうことになったのかは、波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)を読まれたい。

 新日本プロレスとの和解後、今度はTV朝日がUWFを訴えた。UWFは新日本に解約金を支払っていたものの、TV朝日はそれとは別に藤原、高田の契約金の3倍の違約金に、損害賠償金を加えて請求(「週刊ファイト」1984年10月2日号)。ただし残念ながらこの訴訟については、続報が見つけられず結果は不明。

 金子達仁「泣き虫」(幻冬舎、2003)に、高田がUWF移籍時に多額の支度金をもらって散財したことが書かれているが、新日本に引き止められた時にもそれなりの契約金をもらっていたようだ。ただし、新日本では月に20万円程のギャラだったのが、UWFでは50万円の月給になったというのだから、金銭面も移籍の誘引の一つにはなったであろう。

 

 

追記2018.6.13

 

「週刊プロレス」1984年6月7日号

今週の顔 Weekly Target <高田伸彦>

 ここ1年間でめざましい成長を遂げ、UWF旗揚げシリーズへの友情参加、4・19蔵前における5対5全面戦争への大抜擢…と、グリーンボーイから脱皮し、一段と脚光を浴びる高田伸彦。最近はTVマッチにも登場する機会が増え、リング上での顔つきもぐっと精カンになってきた―。

(略)

今回のIWGPから巡業にサンドバッグを持ち歩いて、パンチ、キックの練習を始めたのはシリーズ前のオフに前田さんの先生である大阪の田中正悟さんに指導をいただいたからなんです。(略)

 自分みたいな体の小さいレスラーにとっては、キックを本格的に覚えるということは、かなり戦力の上でプラスになりますし、佐山さんの言う「殴って蹴って倒して決める」という理想に僕も共鳴しているんです。まだ基本の繰り返しの段階ですけど、いずれモノにしてみせます。

(略)

キック技もどんどん使っていくし、次のジュニア・ヘビー級戦争では新しい高田伸彦のファイトをお見せしますよ。

15日、熊本市体育館で収録)

 

UWFへ移籍する直前の「’84IWGP」シリーズ、高田が試合前の会場での練習でサンドバッグを蹴っていたのはわたしも見たが、田中正悟の指導だったとは知らなかった。もちろん前田の紹介であろう。インタビューで佐山の名前を出して「共鳴している」と語るのも、当時としてはかなり大胆であったろう。

 

「週刊ファイト」1984年7月31日号

 ○…高田は去る四月二十四日から三日間、大阪に滞在し、田中氏からパンチ、キックの基本を教わった。そして自費でサンドバッグを購入。新日プロのIWGP中、巡業にずっと持ち歩いて練習を重ねていた。(略)

 

「週刊ファイト」1987年5月1日号

次郎丸明穂「冒険者の魂 前田日明 青春アドベンチャーロード」

30話 怒りの新日プロ合併案

 旗揚げシリーズを終え、前田はホッとした気分で大阪に戻った。手術した母親の脚の経過が良好なことは嬉しい報告だった。

 (略)

 さて、ひと息ついた前田にはニューヨーク遠征が控えていた。(略)

 

 前田の2度目のWWF遠征は5月。4月下旬は大阪にいて、田中正悟に引き合わせるためにも、高田に会っていたと考えるのが自然であろう。UWF旗揚げシリーズの後も、密接な関係が続いていたようである。

 

 

 

メニューページ「UWF余話」へ戻る