柳澤健「1984年のUWF」について(追記6)

 

 

※ このウェブ・サイト「柳澤健「1984年のUWF」について」内の他の各ページに、2018年6月3日に追記をしました。その追記分だけをまとめたのがこのページで、同時にアップします。6月3日以降にこのウェブ・サイトを初めてご覧になった方は、このページを読む必要はありません。

 

 

第1章       リアルワン

 

tvofyourlife.com

Memories Of Studio Wrestling

 Studio Wrestling In Pittsburgh - The 1970's

 http://www.tvofyourlife.com/sw70s.htm

… It is rumored that Gotch & Bruno didn't get along so Gotch never appeared on the Pittsburgh shows.

 

(前略)ゴッチとブルーノの折り合いが悪かったためゴッチはピッツバーグの興行に決して出なかったと噂される。

 

1971年にカール・ゴッチがピエール・レマリンを名乗ったのは、やはりピッツバーグではなくモントリオール地区限定だったのではなかろうか。

 

 

第4章       ユニバーサル

 

別冊宝島179号「プロレス名勝負読本 あの日、リングに奇跡が起きた!」(宝島社、1993.6.22)

正規軍×維新軍<五対五>勝ち抜き戦●84年4月19日○蔵前国技館

幻のカウントスリーでみる「わかりたいあなたのための“序列・格”入門」(岡村正史)

 

(前略)しかし、前年秋のシリーズで突如、テレビマッチのセミファイナルに木村のパートナーとして起用された藤原は、ディック・マードック、バッドニュース・アレン組(このシリーズの外人最強タッグ)を敵に回してヘッドバット一本で大善戦をするという活躍を見せた。テレビでしかプロレスを見ない一般視聴者からすれば、見たこともない前座レスラーが実力派外人を蹴ちらした(結局はセオリー通りマードックのブレーンバスターに沈む)場面は“異様な光景”であったに違いない。

 しかし、マニア層から見れば、「藤原はほんとうは実力があるのだが、あえて前座に甘んじている実力者」との評価が確立していたわけで、「ようやく藤原の“格上げ”をやるのかな」という感じで受け止められたものだ(84年2月の札幌では、藤波の対戦相手だった長州をリングに向かう花道で襲撃するという不可解な行為に出て、藤原はテレビに出るレスラーに組み入れられた)。

 

 長州襲撃事件後、藤原は前座を脱し、「テロリスト」として売り出し中であった。この日は正規軍の副将として出場している。文中にある「マニア層」の評価は、村松友視「私、プロレスの味方です」(注)で定着したものと思う。地方の中学生だったわたしですら、藤原をそういう目で見ていた。「マニア層」の範囲はそう狭くはなかったはずである。

 藤原が選手として最初にテレビ放送に出たのはゴッチ戦(1982.1.1)ではなかろうか。ただし一瞬だった記憶。

 

(注)

 村松友視の出世作となった「私、プロレスの味方です」(情報センター出版局)は、「ワールドプロレスリング」の放送で紹介され、相当売れたようだ。次々に続編が出て3部作になった(下記)。今は顧みられることも少ないように思うが、当時はプロレス・ファンに大きな影響力があった。

「私、プロレスの味方です」(1980年6月)

「当然、プロレスの味方です」(1980年11月)

「ダーティ・ヒロイズム宣言」(1981年7月)

 藤原について、第1作では特に触れられていない。第2作でも「六時半の男たち」という章の中に少し書かれているのみ。第3作では「岩のような前座、藤原喜明の世界」という一章が設けられ、猪木が認める前座の実力者として好意的に描かれている。わたしの記憶にあったのもこの本の記述だった。よって、上記文中の「私、プロレスの味方です」という書名は記憶違いでした。「ダーティ・ヒロイズム宣言」に訂正します。

 

 

第5章       無限大記念日

 

P164)

 選手たちの入場テーマ曲やコスチュームについてアドバイスしたのは、『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめるイラストレーターの更級四郎だった。

 荘厳かつスリリングな『ワルキューレの騎行』(リヒャルト・ワーグナー作曲)を藤原喜明の入場テーマ曲に選んだのは、東京藝術大学出身のアーティストだったのである。なんとわかりやすい話だろう。

 

 「4章 ユニバーサル」(P122〜125)には、新間寿がUWFを退陣後の1984年6月1日、更級四郎が伊佐早企画宣伝部長によってUWF関係者の夕食会に呼ばれ、UWFへの協力を依頼されて応諾したことが記されている。ところが、UWFオープニング・シリーズの4月17日蔵前大会で、既に藤原喜明の入場曲として「ワルキューレの騎行」が使われているのである(「週刊プロレス」1984年5月8日号)。更級は、まだ新間寿のいた旗揚げ時からUWFに関わっていたのか、それとも藤原の入場曲を選んだ、というのが嘘なのか。

 また、新間寿・桜井康雄・竹内宏介共著「リングの目激者」(都市と生活社、1983)の表紙イラストを、新間の部下の伊佐早が更級に頼んだのが、両者の繋がりの始まり、とある。Kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009、No.130)のインタビュー記事「ケーフェイを超えたUWFの真実」では、そのイラストの謝礼が破格の高額だったことについて、更級が「要するに新しい団体に協力してくれよってことだったみたいなんです」と語り、聞き手も「その当時から、新間さんがUWF旗揚げに動いていて、それに協力してもらうための“手付金”みたいな意味合いですか。」と話を合わせている。しかしその本の出版は、新日本のクーデターよりも前、新間が新日本の中核にいて新団体など考えるはずもない頃なのである。嘘であろう。

 

8章 新・格闘王

 

 2017年8月15日、ドン・中矢・ニールセン逝去。享年57歳。謹んで哀悼の意を表する。

ニールセン最後のインタビューが、「逆説のプロレスVol.9 新日本プロレスvsUWF「禁断の提携時代」マット秘史」(双葉社、2017年8月11日発行)に、「前田戦は結末の決まっていない「リアル・ビジネス・ファイト」だった!」と題して掲載されている。インタビューでニールセンは、「(前田)をKOしちゃいけなかった」と語っており、kamipro紙のプロレス」(エンターブレイン、2005、No.92)での「「アーリーノックアウトはダメだ」って言われた」から微妙に証言が変わっている(「早いラウンドでの」という限定に触れていない)。また、ニールセンがKO勝ちした藤原喜明戦、山田恵一戦についても、前田戦同様に「リアル・ビジネス・ファイト」と称している。

 前田の印象については次のように語っている。

 

――実際に対戦してみて、前田選手のファイターとしての力をどう思いましたか?

ニールセン マエダは身体も大きいし、パワーもあるプロレスラーだった。だがキックボクサーではなかった。だから、彼の打撃は、私たちキックボクサーの打撃とは違ったね。

――前田選手のほうが体重がかなり重かったですが、彼の蹴りより自分の蹴りのほうが強烈だった、ということですか。

ニールセン 違うタイプの蹴りだったね。

――20キロ以上体重が重い前田選手のキックを受けて、ダメージはありましたか?

ニールセン いや、なかったね。さっきも言った通り、試合の後、私は六本木に踊りに行ったくらいだから(笑)。

 

 こう語ってはいるものの、実際にはレガースを着けた前田のローキックに尻餅をついたり、インローに顔をしかめたりしている。「週刊ファイト」1986年12月19日号のインタビューでは、前田との再戦について聞かれてこう答えている。

 

 「そのつもりだ。今度闘えば勝つ自信はある。この前はサブミッションを十分研究できていなかったことと、マーシャルアーツでは禁止されている足の内側へのキックを受けて負けてしまったが、同じ手は2度と食わない。1Rで倒すつもりで向かっていく」

 

 彼のキックはUWFスタイルだった」(「紙のプロレス」)とは、レガース着用のことを言っているのかもしれないが、「違うタイプの蹴り」(「逆説のプロレス」)とは、足の内側へのキックを指していたのかもしれない。それにしても具体的な説明は避けた上「ダメージはなかった」とも語っており、率直に答えているようで自分の弱みは見せていない。時の経過と共に、自分のプライドを守る方向に発言が変遷している印象を受ける。

 

「週刊プロレス」1986年10月28日号 No.169

 初めてベールを脱いだニールセンのファイトは、1年3カ月前のビデオのものとは打って変わっていた。それもそのはずだ、前田がサブミッションを仕掛けると、その瞬間ロープに飛びつく、しかも反撃しながらだ。

 試合後の談話によると、ニールセンは3カ月も前からロスのジェット・センターで、初レスラー用のカリキュラムをこなしていたという。あの逃げ方はベニー・ユキーデから習ったものだそうだ。

 1R、左のストレートが前田の顔面を直撃する。この一発で戦意を喪失しかけ、試合後2時間も、前田は記憶が途切れることになる。

 3カ月前からトレーニングに励んだニールセンと、2週間前に試合の存在を知らされた前田、このハンディは計り知れないほど大きかった。

 

「週刊ゴング」1986年10月31日号 No.126

前田のプロレスは凶器だった ドン・ナカヤ・ニールセン

(前略)

 アメリカで俺は俺なりにプロレスを研究してきた。ロスでプロフェッサー・タナカに教え込まれた。しかし前田のプロレスは全く別のプロレスだった。奴のプロレスはプロレスではない。奴のは凶器だ。今、思い起こせば4ラウンドで右足をやられた。(後略)

 

準備してたニールセン <WKA認定スーパー・フライ級王者> ☆ユキ堀内

 ニールセンは1カ月前からビデオでよく研究していたようだね。ロープへ逃げるところなんか、その成果ですよ。前田は2週間前に対戦相手を知らされた、というから、前田苦戦の原因はそこじゃないですか。

 前田は、大きい者とスパーリングをやっていないので、相手のパンチをよけきれない。キックに幻惑されて不用意にパンチをくったね。でも、4ラウンドにヒザの内側を蹴ったのは非常に効いたらしい……ニールセン本人が言ってましたよ。(後略)

 

私は格闘家・前田日明の素質にホレ込んだ <新格闘術・黒崎道場師範> 黒崎健時

(前略)

 この試合の勝敗を決めたのは、4Rに放った前田のニールセンの膝の内側を狙った低いキックだ。これでニールセンはガクッときた。あの瞬間ニールセンは本当の意味での戦意を失ったのだ。あとの1Rは意地で戦ったようなものだ。

(後略)

 

「格闘技通信」1988年10月号 No.23

アメリカに本物のキックを根付かせてみせる!

ユキ・堀内をはじめ“革新派”が語るキック、ムエタイ事情

写真・リポート 上野 彰(本誌・北米通信員)

 アメリカで活躍する日本人キックボクサー、ユキ・堀内。渡米して8年、元日本フライ級チャンピオン。今も現役としてリングに上がる36歳のファイターである。

(中略)

堀内 WKAのルールというのはヒジ、ヒザはもちろん、時にはローキックまでダメで、おまけにフット・パット(足の防具)を付けることを選手に求めている。ISKは下半身へのキックを禁じている。これは自分達の目からみればキックではなくアメリカン・マーシャルアーツでしかない。(後略)

 

 少なくともWKAで闘っていた前田戦当時のニールセンは、ローキックがあまり得意ではなかったのではなかろうか。しかし、プロレスラーに少しでもキックで遅れを取ったとは、プライドに賭けて言いたくはなかったのではないか。

 

 

9章 新生UWF

 

第一次UWFのルールにも前田らの意見が入っていたことについて、山崎一夫はインタビューで次のように語っている。

 

G SPIRITS」(辰巳出版、2010.8.1、Vol.16)

――後に佐山さんは“シューティングのルールを150条ぐらい作ってあった中から、プロレスに見合うものを抜粋した”と言っていました。

「その辺の細かいルールの話は僕にはわからないですけど、佐山さんが土台というより、そこには前田さんもいたし、藤原さんもいたし、どちらかというと、僕なんかは前田さんの意見の方が多かったんじゃないかなって感じでしたけどね」

――それは意外ですね。

「ルールを作るのにしてもそうですけど、当時は実験の繰り返しでしたよね。ルールによって試合に緊迫感も出るし、選手の身も守るわけで。(略)」

 

 

10章 分裂

 

「週刊ファイト」1990年10月11日号

船木 直撃インタビューPART2

 

 ――UWFへ移籍して2年半(注)が経ちましたが、UWFは想像していた通りでしたか?

 船木 味をしめるとUWFの方がいい(笑い)。ケガの欠場から復帰してから味をしめ始めました。ヨーロッパで想像していたのとは少し違いますが……。

 ――ヨーロッパで思い描いていたのは“夢”だったんでしょうか。

 船木 そうですね。オレは写真でしかUWFを知らなかった。あの時、思い描いたUWFは今から思うと子供じみています。

 

(注)正しくは1年半。

 

 

 

メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る