UWF余話 「Uはお前だ」ターザン山本

 

(文中、敬称は略します。)

 

波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)

 

 井上譲二さんはよく「編集長、ジャンボを引き止めなかったのは失敗でしたね。ジャンボがいなければ『週プロ』はできてませんよ。できたとしてもここまで脅威にはならなかったでしょう」と言っていた。すでに触れたが、「ジャンボ」とはターザン山本さんの『週刊ファイト』所属時代のあだ名。つまり、『週刊ファイト』を辞めてベースボール・マガジン社に入った山本さんを引き止めていれば、の意味だ。

 (中略)

『週刊プロレス』は《タイガーマスクが消える…?》と表紙にうたった83年8月9日付創刊号からスクープを連発。タイガーマスクの新日プロ離脱後、マスクを脱いだ後ろ姿と初めてのインタビュー記事を掲載した。

 その号を手に取ったI編集長はパラパラとめくっただけで、「肝心なことには『答えられない』ばっかりで内容が何もないじゃないか」と一笑に付した。しかしタイガーマスクがマスクを脱いだ後ろ姿とインタビューが掲載されただけでも、ファンにとってはセンセーショナルだった。I編集長の、こんなものが売れるわけがないとの予想に反し、『週刊プロレス』のこの号はバカ売れした。

 何々が起こりましたという事実や選手のコメントを書き連ねる書き方が主流になり、「プロレス記者が発表ものだけを書くサツ回りと一緒になっちゃ、面白くもなんともない。プロレスは創り出すもんなんだからね」と言うI編集長は、時代の移り変わりと自分は老兵という意識を強めた。(後略)

 

鈴木庄一・菊池孝監修「1945〜1985激動のスポーツ40年史E プロレス」(ベースボール・マガジン社、1986)

私の事件簿「いつか、サツ回りの記者と同じになっていた自分」井上義啓(週刊ファイト)

 

 週刊プロレス(昭和58年9月13日号)が、新日プロから離脱したタイガーマスクの単独インタビュー記事を載せた。

 具体的なのは何もない。「猪木さんの悪口は言いたくない」「今は理由が言えない」……。要するに“何”もなかった。

<こんなインタビュー記事“どうにもならん”じゃないか>

 そう思った。そこにあったもの――それは、単にタイガーマスクが語ったという事実のみである。

 後日、私は読者のかっさいを知る。私の受けたショックは大きかった。<見出しも取れんようなインタビューがこんなに強いのか!>

 力道山はすでに遠い存在であった。それがくるくる回りながら豆粒のように小さく消えていく。

<サツ回りの記者と同じになってしまったのだ>

『プロレスにつくりものは要らないんだよ』

 古ぼけたプロレスという積木の箱からこんな声が聞こえてきた。

 プロレスは日を追うにつれて、特殊社会の色合いを消していく。見たままをズバッと書いても文句を言わないというありふれたマスコミの姿勢が、少しずつ近づいてきた。

 それを果たしたのは名も知らぬ他社の若い記者でありカメラマンである。

<お前らのような者達に、プロレスが書き切れてたまるか!>

 その自負が敗北した夜であった。

 

 名も知らぬ他社の若い記者」…井上編集長は、それが誰かを本当は知っていながら、そう書いたのだろうか。「ファイト」育ちの山本は、井上を師と仰いでいた。

 山本自身は、次のように書いている。

 

竹内宏介・山本隆司「『週刊ゴング』VS『週刊プロレス』激闘の30年史 プロレス雑誌大戦争!」(芸文社、1999)

 

『週刊プロレス』を立ちあげた時点で、初代タイガーマスクだった素顔の佐山聡氏とめぐり合ったことが、私の運命を決めた。

 新日本プロレスを飛び出した佐山氏は、ショウジ・コンチャなる人と行動を共にしていたが、このコンチャ氏はみるからに相当いかがわしい人だった。でも、佐山氏はそのコンチャ氏のことを「お父さん!」と呼んでいた。その二人がある日、深夜、杉並区堀ノ内のアパートにいた私に会いにきて「味方になってくれないか? 味方になってくれたらそっちにタイガーのことは独占取材させる」というのだ。早い話、取り引きである。こういうことは私には初めてのことである。私はこの取り引きには迷わず「乗ってみよう」と決めた。

 (中略)

週刊誌とスキャンダリズムは、切っても切れない関係にある。『ゴング』には新日本プロレスを敵にまわして、佐山氏をとるような度胸はない。この時から私は、団体やレスラーを敵にまわすことがあっても、自分がこうと思ったことはやっていくんだと腹を決めていた。それによって私の立場が悪くなったり、居づらい思いをすることがあっても、それは自分が選んだことだから仕方がない。

 自分の運命として割り切る。

 私は未来を感じそれを予感させるものには、たとえ今、力がなくてもそれに投資し共犯したいという誘惑にかられやすいのだ。初代タイガーマスクを捨てた佐山氏に、私はなんらかの未来を感じていた。そうでなければあんな危険な賭けはしない。

 この予感は当たった。

 とにかくその後の佐山氏の歩みを見ていただければ、歴然としている。彼はやることなすことがすべて前衛なのだ。というわけで佐山氏を選択した私の考えは、今でも間違っていなかったと思っている。(後略)

 

 プロレス・マスコミ界の一方の雄、「ゴング」の竹内宏介は、山本について次のように書いている。

 

竹内宏介「異種格闘技戦の世紀末 プロレス最強神話は終わった」(日本スポーツ出版社、1999)

 

 S59年4月17日、東京・蔵前国技館において行なわれたユニバーサル・レスリング(旧UWF)の旗揚げ『オープニング・シリーズ』最終戦における前田日明と藤原喜明の時間無制限1本勝負は凄絶かつ不可解な戦いであった。(中略)

 試合後、マイクを摑んだ前田は観客に対して「どうだ、見たか! 10年前はこういうプロレスをやっていたんだ。これが格闘技なんだ」と、叫んだ。だが、観客の大半はまだ十分に、その事を理解してはいなかった雰囲気だった。我々、取材陣に関しても“前田の1人よがり”と、いう見方をしていた人が多かった。かくいう私もそんな1人だった。のちになって「あの試合こそ前田が理想とした戦いの原点だった」と、解説する事は簡単だが、この時の試合から、そこまで感じ取れたファンも取材記者もいなかったように思う。

 だが、そんな中にただ1人、前田に対して突拍子もない質問をした記者がいた。『週刊プロレス』誌の山本隆司氏である。前田の周囲を取り囲んだ各社の記者たちが、いつもの試合後の会見のようなたわいのない質問を浴びせている中で、山本氏がポツリと「今日は何回ぐらい決められた?」と、前田に質問したのである。今ならこの質問の意味は誰でも分かると思う。だが、この時代はまだ“決める”と、いう言葉は一般化されていなかった。この当時“決める”と、表現すれば…それは“相手からフォールを取る事”ぐらいの解釈しかなかった。

 だが、山本氏の質問の真意は“何回ぐらい藤原に関節を決められたか?”と、いう事だったのだ。この質問に対して前田は初めて嬉しそうな表情を見せながら「4回ぐらい腕が折れる寸前までいったね」と、答えた。こんなやり取りは、それまでの選手と取材記者の間では絶対に交わされた事のないやり取りだった。私はそのやり取りを側で聞いていて自分の知らない分野のプロレスが、すでに始まっていた事を知らされた。

 

 

 第1次UWF(旧UWF)は、クーデターで新日本プロレスを追われた新間寿が設立した団体である。初めはタイガーマスク(佐山聡)の復活の場として、後には猪木の移籍先として噂されたが、旗揚げしてみるとそのリングには、佐山も猪木もいなかった。フジテレビでの放映も断念された。

当ての外れた新間は新日本プロレス、更には全日本プロレスへの合流を図るが、他のフロントと、グラン浜田を除く選手達はそれを拒否。孤立して身を引いた新間と入れ替わるように佐山の参加があり、真の独立団体として再出発したのが1984年7月23・24日、後楽園ホールでの「UWF無限大記念日」であった。

 竹内は新間と親しく、そのリークを元に「ゴング」は一連の流れを報道していたが、新間の狙い通りに事が進まなかったため、結果的にその報道は誤報の非難を浴びた。一方「週刊プロレス」は反新間派と佐山につき、その後もUWFを応援する立場となる。

 ショウジ・コンチャが、竹内のいる「ゴング」の取材を拒否したため、「無限大記念日」でのタイガーの試合を「ゴング」はリングサイドで撮影できなかった。その対抗策として竹内は、全日本プロレスに誕生する「2代目タイガーマスク」(三沢光晴)のスクープ写真を、同大会を報じる号の表紙に持って来た。ここら辺りの雑誌間の戦いは、前記「『週刊ゴング』VS『週刊プロレス』激闘の30年史 プロレス雑誌大戦争!」に詳しい。

 

 ターザン山本の「週プロ」を革新派とすれば、「ゴング」は保守派…そのような見方もされたが、言い変えれば左翼と右翼。「ゴング」には「シュートもプロレスの内」というような昔気質の思考もあり、必ずしも穏健保守ではなかったろう。

 「ゴング」が焚き付けて、新格闘術の黒崎健時師範が「真剣勝負と言うなら我々と闘え!」と、佐山に刺客を送る、という話もあった。わたしはこの時にロブ・カーマンの名前を初めて知った(「ヒットマン」候補として)。

 

「ゴング」1985年5月号

 その黒崎師範が「佐山らはオレたちのシューティング、他団体のプロレスは違うとか! 前田らが猪木の体をズタズタにするとかいっているのを聞いて、何を若僧がホザくのか! 頭に血が昇った、そんなに強いんなら一丁お手合わせを願いたいものだ」と、タイガー潰しに名乗り出た。

 (中略)

 この種の異種格闘技はルールにおいていつも問題になり、それが原因で実現しないことが多いもの。その点を黒崎師範は、「ルールは“目潰しと金蹴り以外なんでもOK”だ」というのだから、シューティング路線のUWF・佐山も、断る理由はないだろう。

 

 黒崎師範はUWFの浦田社長と会い、「対戦要請書」も送ったものの、UWFは回答せず。新日本プロレスの坂口副社長が「ウチが代わって挑戦を受ける」と語る(「週刊ゴング」1985年4月18日号)、という謎展開もあったが、結局何事もなく終わったようだ。

 

 第1次UWFは経営難で崩壊するが、その直前に佐山と前田の対立が顕在化したのが、1985年9月2日の高石市臨海スポーツセンターにおけるスーパー・タイガー(佐山)と前田の試合である(同年7月25日の大田区体育館における同カードの試合も、伏線的な意味合いも感じ取れて非常に興味深いのだが、ここでは触れない)。

 プロレス・マスコミの2大巨頭が、この試合についてそれぞれ次のように書いている。

 

竹内宏介「プロレス最強神話は終わった」(日本スポーツ出版社、1999)

(前略)この試合こそ前田にとっては佐山に現実を知らしめるための一種の制裁マッチであった。「戦いは理論じゃない!」と、いう自分の主張を示すために前田は己の格闘本能のおもむくままの妥協無き戦いを仕掛けた。前田vsS・タイガー戦は18分57秒、前田の反則負けという結果で唐突に終わった。この試合に関しても前田、佐山…それぞれに言い分はあるようだが、これを出し抜けに見せられたファンは“強い前田”“守勢に徹したタイガー”と、いう印象を残した。そして、結果的にこの試合がUWFという団体の方向性を佐山色から前田色に大きく変える歴史的な分岐点となった。

 

「格闘技通信」1988年10月1日号(No.23)

2つのU.W.F 新生UWFは旧UWFを超えるか!? 山本隆司

(前略)旧UWF末期に起こった佐山と前田の対決。“急所蹴り”が話題になったが、あれも旧UWFが運動体であったからこそ、起きた事件だった。

 佐山はあの事件の前後から、旧UWFを去る決意を固めていた。前田は旧UWFという組織を守るために、やむにやまれず佐山に決闘を仕掛けた。

「佐山が残るか、自分が去るか」の闘いである。これが旧UWFの運命を決めた最大の闘いだったといえる。結局、佐山が去り、前田が残った。

 

UWFは佐山が言ってシュートの団体にしようとしたはずなのに、実際にシュート・マッチになると逃げる。佐山は口だけ。前田は勇気があり、強い」当時のファンはそう感じて、前田の株が上がり、佐山の株は暴落したのではなかったか。少なくともわたしはそう思った。その後すぐ佐山がUWFを去ったことも、逃げたという印象を与えた。

 

 

佐山がUWFを離脱した直後、彼を著者とする「ケーフェイ」(ナユタ出版、1985年10月25日初版発行)という本が出版された。佐山の語る本文の前後に、山本の文章が前文、後書き的に掲載されている。

 

私は佐山聡を“視た”――@

(前略)この本で、佐山はシューティングとプロレスの違いを徹底的に論じている。シューティングがプロレスとはジャンルを別にするものであるなら、プロレスと比較する必要はない。

 しかし、それをあえて比較している。そこには佐山の特別な気持ちが読みとれる。あるとき、佐山は私に向かって「もう、生き恥をかくのはいやだ」といったことがある。

 彼はプロレスラーという肩書に本物の自身をもてなくなっていた。本当の意味のプライドを持つには、プロレスとは違ったものを創造するしかない。佐山は以上のような考えからシューティングを宣言した。

 私はマスコミの立場からプロレスについて、いろいろな希望や要求を持っているが、プロレスラーの側からプロレスそのものを改革しようとした人間は佐山ひとりしか知らない。(後略)

 

 これは前文である。しかし、佐山の語る本文においてもそうなのだが、ここに言う「シューティング」とは、第1次UWFのリング上でプロレスラー達が行っていた試合のことを指しているのである。これはそれらの文章が、佐山の離脱前に書かれたものであるからであろう。

 佐山はプロレスの仕組みを暴露し、対比して「シューティング」を持ち上げているのだが、それは自分が去ったUWFの試合を指しているのである。これではプロレス界から無駄に恨まれるばかりで、佐山にメリットがない。

 この本は実際には、「週刊プロレス」でイラストレイターとして活動していた更級四郎が、山本の語ったことを元に書いたものだという。佐山自身は出版に反対していた(田崎健太「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男」集英社インターナショナル、2018)というのも、むべなるかなという感じであるが、「著者」が本気で拒否すればさすがに出せなかったはず(佐山名義でなければ出す意味もなかったろう)で、いかにも佐山らしい無責任さではある。

 

私は佐山聡を“視た”――A

 (前略)

 佐山の考えかたは、完全に異端児のものである。なぜなら、佐山と同じ生きかたをしているレスラーは、ほかに誰もいなかったからだ。それはUWFでも同じ結果を招きつつあると、私は考える。(中略)

 自身がリングに上がることの意味をなくしつつあるとき、佐山はさらにデカいことに目を向け始めた。シューティングをプロとして成り立たせる前に、“アマチュア・シューティング”の確立を考え始めたことである。

 (中略)

 佐山聡は、昭和の嘉納治五郎をめざしてシューティングの組織づくりに燃えているのだ。それはUWFという興行団体のなかではできないことであり、本気でそれを実現さすつもりなら、ジムのほうに全力を傾ける必要があるかもしれない。

 シューティングのプロ化は、シューティング・ジムの全国組織ができたうえで考えても、けっして遅くはない。そして佐山の夢は、そうしてできあがったシューティング協会の事務局長になることだという。

 (後略)

 

後書きでは佐山のUWF離脱を前提とした書き振りになっているのは、ここだけギリギリの所で差し替えたのではなかろうか。

 

佐山と袂を分かち、新日本プロレスに復帰した前田らUWF勢は、マッチメイク権を握られた新日マット上でも、「強さ」を見せ続けた。特に前田は、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシュート・マッチや、ドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦といった試練を逆にバネにして化けた。前田は「強い」と思われたからこそ支持されたのである。

まだ新日本と業務提携している頃のUWFの人気が、「格闘技通信」(べースボール・マガジン社)「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)といった格闘技雑誌の創刊を可能にした。ただ「格闘技通信」は佐山の対談記事を連載したり、シューティングにも好意的であった。「週刊プロレス」にも、ベースボール・マガジン社が後援した1986年度全日本サンボ選手権大会に佐山が出場すると言われた辺りから、佐山とシューティングの記事が増え出した。山本と佐山の蜜月は、この頃はまだ続いていたのかもしれなかったが――。

 

「週刊プロレス」1985年10月29日号

――するとUWFの選手たちを、佐山さんはどう評価するのですか。

「彼らはトップから若手にいたるまでプロレス界最高のシューターたちだと思う。こんな団体、世界でもUWFだけでしょう。最近、他団体との業務提携の話もあるそうですが、プロレス界最高の技術集団としてはその腕を見せるべきだと思いますね。ボクは今後プロを目指す過程でのアマチュアスポーツ“シューティング”の世界に帰りますが、UWFには決して悪感情など持っていない。頑張って欲しい気持ちで一杯です。(後略)」

 

 UWF離脱直後は、このようにUWFにエールを送っていた佐山だが、第2次UWFがブームを起した頃には、暴露も含めて激しい批判を行っている。

「フルコンタクトKARATE」1989年10月号(No.32)の「パンクラチオンへの道 もうプロレスを真剣勝負と呼ばせない」という記事において、佐山は次のようなことを語っている。

・新日本プロレスでデビュー前に勝ち負けをはじめとするプロレスのシステムを聞かされ、先輩への尊敬の念も吹きとび、全てが滑稽に見えるようになった。

・思いっきり殴っているかのように、痛くないように殴れるのがベストのレスラー。

・試合に台本はないが、結末は最初から決まっている。

 そしてUWFに関しては、次のように語っている。

 

 だが、俺がUWFを去ると、入れかわりに、ジムのインストラクターが数人、ジムから出ていった。中にはプロレス入りした者もいる。それまで、俺は、ジム生には、プロレスの全てを教えてきた。真剣勝負がやりたいのならリングでの俺を絶対に真似するなとも言った。

 結局、彼らは、俺の言う真剣勝負の考えについてこれなかった。スポーツはシジアな世界で、相手に勝つためには、練習しかない。多く質のいい練習をした者が勝つ。

 これに対して競技性の無いプロレスは、楽だ。一見、メジャーに扱われるし、ギャラも悪くない。一度、その世界の味を知ったら、地味でつらい真剣勝負をやることがばかばかしくなるのも当然だ。

 現在の真剣勝負をうたうプロレスも、真剣勝負らしさのニオイをただよわすプロレスにすぎない。

 (中略)

 ただ、俺のプロレスとの“闘い”は、まだ続きそうだ。というのも、未だにプロレスと真剣勝負を同格に扱うマスコミが存在し、何も知らないで“だまされる”ファンがいるからだ。

 (中略)特に、格闘技ブームと呼ばれた時期辺りからは、一部格闘技雑誌の現状はひどいね。

 

 同年10月19日、佐山は世話になったはずの「格闘技通信」他の格闘技雑誌に、取材拒否を通達。これに対して、同じくベースボール・マガジン社が出版する「週刊プロレス」の宍倉次長は、1989年11月14日号(No.347)の「編集部初25時」において、次のように反論した。

 

 だから、私は思いました。「自分の所よりもUWFの方がはるかに注目を浴び、メジャーへの道を進んでいるので、悔しくて仕方がないんだな」と。

 (中略)

 私がいいたいのは次のことだけです。佐山氏よ、2度とUWFを、そしてプロレスを語らないでほしい。自分の信じた道を突き進むのは大いに結構。ならば、ひとの足を引っ張るようなことはやめてください。ただ見苦しいだけです。

 

当時、「週刊ファイト」(新大阪新聞社)に「UWF Uという名の遺伝子」という連載記事があった。1989年9月14日号における同連載の第44回は、「佐山のプロレス批判」と題し、出たばかりの「フルコンタクトKARATE」における佐山の主張を批判する内容であった。

 

 (前略)佐山はシューティングという新しいジャンルの格闘技を確立しつつあるのに、なぜプロレスを意識する必要があるのか?

 自らの信じた道を一直線に進んでいけばいい。彼はプロレスを捨てた人間である。それなのに佐山は後ろを振り返ったり、脇見運転をしてプロレスにちょっかいを出す。

 ほとんど“今更”という感じである。プロレスはプロレス、シューティングはシューティングと、なぜ考えられないのか? 佐山がプロレスを意識しているうちは、シューティングの発展はない。

 (中略)観客にとって真剣勝負は面白いものとは限らない。たしかに真剣勝負は価値のあるものかもしれないが、お金を払って見に行くこととは結び付かない。

 この点を理解していれば、佐山はプロレスやUWFを意識しないだろう。あるいは観客がいっぱいにならないことも苦にしない。柔道やアマレスを考えれば、すぐ理解できることである。

 佐山はシューティングを柔道やアマレスのようにすることが目的だったのではないか?その柔道やアマレスは興行においては、プロレスやUWFには逆立ちしてもかなわないのだ。

 

この「Uという名の遺伝子」は、「週刊ファイト」1988年10月27日号から1989年10月26日号まで、約1年間に全50回、1ページを丸々使って連載された。第2次UWFがブームの当時に第1次UWFを振り返るという内容で、執筆者は名前を伏せられていたが、実は当時「週刊プロレス」編集長として飛ぶ鳥を落とす勢いだった山本であった。

 

 山本はここにおいて佐山と袂を分かち、前田らの第2次UWFを取ったのであろうか? しかし「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)によれば、山本は1988年8月13日の有明コロシアム大会時点で、UWFを見限っていたと言う。

しかし、客観的には、そうは見えていなかったのではなかろうか。

例えば、新日本プロレスの長州力は、山本のインタビューで次にように語っている。

 

「週刊プロレス」1990年11月27日号

長州 Uについては、中国(ハルビン)で話したよな。

山本 朝までですか?

長州 そうだ。いくらオレが狙いを定めて、Uを撃っても弾丸が届かないんだ。なぜだかわかるか? (中略)

長州 なぜ、オレの撃った弾丸がUに届かないのか、ある時、その理由に気が付いた。お前がUの前にバリヤーを築いていたからだ。届かないはずだよな。

山本 ボクがバリヤーを?

長州 そう、この意味は大きいぞ。山本、Uはお前なんだよ。あれはお前が作ったんだよ。

山本 ……。

長州 原子爆弾(核兵器)の原理を考え出した科学者と同じだ。Uの原理を考え、そのUを宣伝したのは山本、お前なんだ。

山本 でも、Uを運営したのはボクではない。距離をおいて成り行きを静観する。これがボクの立場です。その意味でいうと、Uはある瞬間からボクが描いていた軌道を、大きくはずれていった。その時、Uはボクの中で終わっていた。無責任な言い方かもしれないが、そうなんです。

 

 山本の中で、UWFが終わったという「ある瞬間」とは、しかし読者は(長州も?)ごく近い過去と捉えていたのではないか。この当時UWFはフロントと選手間の内紛が明るみに出て、末期症状を示していた。

 しかしそれが1988年の8月(第2次UWF旗揚げからわずか3か月後)であるのなら、その後2年以上も山本は、自分の中では終わったコンテンツを読者に対して持ち上げ続けたことになる。

 後年、山本は長州に「Uはお前だ」と言われたことについて、高山善廣へのインタビューの中で、自ら次のように語っている。

 

ターザン山本「Uはオレだ Uはお前だ!」(新紀元社、2002)

高山 新日本の道場では、「U」の理念はもとからあったんだろうけどね。ただスポットライトを浴びてないだけで。

――道場という日陰の世界というかね。その素晴らしさを理屈付けしてファンに紹介したのがボクですよぉ。

高山 だから長州さんに「Uはお前だ!」と言われちゃうんだよ。

――アレは気持ちよかったねえ。敵が一番、ボクのことをわかってるんだよ。

高山 長州さんは敵だったの? 「Uはお前だ!」と言われた時は、まだ仲がよかったでしょ。

――仲はよかったけど、微妙な緊張関係があったんですよぉ。「Uはお前だ!」と言うことで、「お前のことは認めているから、オレの懐に入って来い」というメッセージだったんですよぉ。

高山 それを拒否したんだ?

――ボク自身「そうなるとマスコミとしておしまいだ」と思ったからね。そりゃ、長州さんの立場からすると怒るのは当然ですよぉ。

高山 それで、思いっ切りリキラリアット(取材拒否)を食らったわけね。

 

 

 ちなみにこの本については、フリーライターの柳澤健が次のように語っている。

 

「ゴング格闘技」2017年4月号(No.298)

格闘技から見たUWF 柳澤健、3万字超インタビュー 堀内勇=文

 

「やっぱりターザンは本当に素晴らしい編集者。『Uはオレだ Uはお前だ!』っていう本があって、アイディア一発のやっつけ仕事で、1ヵ月もかけずにでっちあげた本なんだけど(笑)、『U』というものが観客の心の中にある、ということはタイトルで示されている。もしターザンに私くらいの根気があれば、私が本を書くことはなかったでしょうね」

「(中略)Uは(インタビュアーの)堀内さんや中井さんや平さんの心にある。だから『Uはお前だ』っていうのは本当に名言だと思います。私もこの本にサインを求められると『Uはお前だ』って入れさせてもらってます。完全にパクリですけど(笑)」

 

 柳澤は、少なくともこの時点では「Uはお前だ」の語源を知らず、山本が言い始めたものと思っていたのではなかろうか。しかし「Uはオレだ Uはお前だ!」には、長州が言った、と書いてあるのである。柳澤は読んでもいない本を褒めているのだろうか(シェーン・ダグラスの試合を見ずに褒めていたリック・フレアーの話を髣髴とさせる)。

 柳澤はこのインタビューでも、その著書1984年のUWF」の中でも、驚くほどに山本のことを称揚している。自分がプロレスに疎いため頼りにしたのであろうが、その分、何でもうのみにしてしまってはいまいか。ちょうどUはオレだ Uはお前だ!」の中で、高山が語っていたように。

 

高山 世間は、山本さんのことをプロレスマスコミではトップの人間というように紹介をするでしょ。それで、あまりプロレスを知らない人が、ターザン山本が言っているから「プロレスってこうなんだ」とうのみにしちゃうのが、彼ら(※長州力、前田日明)は嫌なんじゃない。『週刊プロレス』や『週刊ゴング』を読んでいる人は「ああ、ターザンがまた言っているよ」とわかるけどね。

 

山本は、「「金権編集長」ザンゲ録」(宝島社、2010)という本を出版。SWSを「金権プロレス」と批判しながら、自分は全日本プロレスの馬場夫妻から金をもらい、後には和解したSWSの田中社長からも金をもらっていたこと等を自ら暴露し、プロレス・ファンに衝撃を与えた。この本の「あとがき」に次のような文章がある。山本と柳澤は、実の所どういう関係なのであろうか。

 

 感謝したい人がいる。元『週刊ファイト』編集長の井上譲二氏と、文藝春秋の元編集者でライターの柳澤健氏だ。

 彼らは、私の才能を最後まで信じてくれ、ある部分では自信を失なっていた私を叱咤激励し、今回の本を書くことを薦めてくれた。(後略)

 

 

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