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「真説・佐山サトル」(5)UWF無限大記念日 |
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黒字が田崎健太「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男」(集英社インターナショナル、2018)からの引用。文章中、敬称は略します。 (P250〜251) UWFを新しい格闘技への“つなぎ”として使うことに浦田は賛成してくれたという。ショウジ・コンチャに代わる理解者を見つけたと、佐山は頼もしく思っていた。 七月二三日、後楽園ホールで『無限大記念日』と題した大会が行われた。佐山は高田と組んで藤原、前田組と対戦している。佐山にとっては約一年ぶりのリングだった。 『東京スポーツ』ではこの試合を一面で報じ、「ザ・タイガー」としてマスクを被った佐山が空中に飛び、ダイビングヘッドバッドをしようとする姿が大写しになっている。タイガーマスク時代と比べると派手さは減ったが、パイルドライバーなどプロレスの技で観客を沸かせた。佐山は観客が何を求めているのか、きちんと理解していた。 この試合の結果は、藤原が高田をジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォール。なお、「UWF無限大記念日」は7月23日だけでなく翌24日も行われており、ザ・タイガーはセミファイナルに出場、マッハ隼人をジャーマン・スープレックス・ホールドで下している。 「UWF無限大記念日」については、前田がことあるごとに前日のスパーリングの話をしているので、ぜひ佐山の反論を聞いてみたかった所。 |
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「週刊ファイト」1986年1月7日号 新日プロのレスリングを変えてみせる“問題提起”がUWFの使命なんだよ 決戦前夜何を思う 戦士・前田vs高田 新春“激白”対談 前田 (前略) しかし状態的には無限大記念日の時よりマシや。あの時も無限大記念日でこけたらUWFは終わりやな、言うとったから。 高田 そうですね。“とにかくリングへ上がろう”、“上がったら何とかなる”と言いあっていましたね。 前田 前日みんなでスパーリングをやっていても、何も答えが見えなかった。ぶっつけ本番だったよな。具体的なスタイルは何もなかったんだから。 高田 ボク、昨日、無限大記念日のビデオを見たんですよ。 前田 あ、オレも。 高田 えらく、無限大記念日とUWFの末期とは違うなあって思いました。こんなに変わるもんかなあって感じですね。 前田 あの時は誰も何も持っていなかった。佐山さんでさえそうだったから。だから“どうしよう”って。あの時点ではあの試合にしかならなかったな。藤原さんがペースメーカーになってなんとか試合にはなったというのが本当のところ。(後略) |
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佐々木徹「無冠 前田日明」(集英社、1998) 「あの時、ユニバーサルの闘いの方向性をリアルな格闘スタイルにしようと話し合って決めていたけど、不安はあった。(中略) だから、後楽園大会の前日に藤原さん、佐山さん、高田が道場に集まり実際にスパーリングをやって感触を確かめてみようとなったんだ。でも、これがうまくいかなかった。ロープに飛ばずグラウンドで相手と密着しての関節技の攻防を展開しようとしても、お互いに膠着状態が続いてしまう。イメージ的には、初期のアルティメット大会の攻防を思い返してもらうとわかりやすいかもしれない。初期の大会では参加した選手のほとんどがグラウンドの状態になるとなす術がなくなり、お互いに抱きつくような感じで膠着してしまっていた。そのような攻防が道場で繰り広げられていたんだ。 これでは、会場に足を運んでくれたファンに胸を張って見せられる攻防ではないと、みんなで頭を抱え込んだよ。 特にショックを受けていたのは佐山さんだった。新日本プロレスを辞めて自分でタイガージムを起こし、シューティングの基礎を築き上げていたのにもかかわらず、いざ試合形式になると、まったくその技術が活かされないんだから。スパーリングが終わって茫然とたたずむ佐山さんの姿を今でもはっきり思い出すことができる。 それで、これではどうしようもないとなって藤原さんがこう言ったんだ。 『やはり、プロレスを無視した上で百パーセント“ゴッチ流”の格闘術だけで試合を構築するのには無理がある。ところどころに従来のプロレスのエッセンスを取り入れないとファンは納得しない』 (中略)」 (中略) もうひとつは、佐山聡の焦り。シューティングの創始者である佐山にとって、あの日のスパーリングは満足できるものではなかった。というより、実践しようとした闘いのスタイルが、その時点でまだ机上の空論だったことが証明されてしまったのだ。プライド高き天才・佐山にとっては屈辱だったはずだ。 (中略) 浦田は言う。 「佐山君が次々に新しいアイデアを打ち出して強引に実現させようとしたのは、無限大記念日の前日に道場で行なわれたスパーリングのせいでしょうね。あの時、佐山君は描いていた理想の闘いを繰り広げることができなかったと聞いています。ですから、余計に意固地になって自分の理想を他の選手にも強制したんじゃんないでしょうか。自分が考える環境さえ整えば、必ず理想とする闘いのスタイルが実践できると考えていたんだと思います。要するに、自分の考えを押し通すことで、あの日のスパーリングのみじめな姿を払拭できると思い込んでいたんですよ」 浦田昇は第1次UWFの社長だったが、後に佐山に請われて修斗のコミッショナーとなる人物。当時の佐山に対して思いのほか厳しい物言いである。 田崎は修斗について書いた下りに、浦田の名をほとんど出していない。 メニューページ「田崎健太「真説・佐山サトル」について」へ戻る |