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「真説・佐山サトル」(6)虎のマネー |
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黒字が田崎健太「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男」(集英社インターナショナル、2018)からの引用。文章中、敬称は略します。 (P292) 前田の話によると貴方は月三〇〇万円以上貰っていたそうですねと訊ねると「いやいやいや、そんなはずはないでしょ」と苦笑いした。 「一〇〇万でした。(前田と)同じです」 佐山は自分の口座をきちんと確認したことはないとも言った。 「まともに貰ったのは最初の何ヶ月だけで、(給料を)カットされていたはずです。本当にちゃんと貰っていたかどうかは定かではないですね」 (中略) 「ぼくは自分の貯金を切り崩しながらやっていました。そんなに貰っていたら、貯金を崩さないですよ」 前田はブッカーでもない一同僚レスラーだから、佐山の報酬については本人の方が確かな証言者だ…一般的にはそれが道理であろうが、こと佐山に限ってはどうであろう。 そもそも、収入が足りずに貯金を切り崩していた、という人が、自分の口座を確認もしない、ということがあるのだろうか。確認しなければ「本当にちゃんと貰っていたかどうかは定かではない」のも尤もで、カットされていたかどうかもわからないだろう。 過去に興味がなく、記憶もはっきりしない上、元々が金銭に無頓着で、当時としても自分の収入を把握していなかった人が、聞き手に合わせてフィーリングで答えているのではないか。 別のインタビューでは次のように語っている。 「Gスピリッツ」Vol.44 2017年8月5日発行 佐山聡 「旧UWF」と「シューティング」を語る 小佐野景浩、和良コウイチ=聞き手 ――コンチャ氏と決別して、佐山さんは8月4日に旧UWFへの入団を発表しましたが、実際の契約はどういう形だったんでしょうか? 「浦田さんに“ジムもやりますから”と話しての入団でしたね。ギャラは試合給だったか月給だったかは憶えてないんですけど、正式な入団だったのは間違いないです」 ギャラについて記憶が曖昧な様子である。 当時、新日本プロレスは試合給で、シリーズが終わる毎に現金で支給されていたというが、第1次UWFはどうだったのであろうか。試合給か月給か、銀行振込みか現金払いか。月給で現金払いもあり得ようし、人によって違った可能性もある。 現金払いなら口座を確認しなくて済むかもしれないが、ちゃんともらっていたかどうかは記憶に残りやすいようにも思う。 「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017) 上井文彦 「『海外UWF』と書かれた水色の給料袋を忘れたことがない」 85年2月、UWFのスポンサーに“ペーパー商法”で有名だった豊田商事の子会社がつくことになる。かぎりなくブラックな金で、社員に給料が出ることになったのだ。これはUWFにとって一筋の光明だったのか。 「光明ですよ! 私は『海外UWF』と書かれたあの水色の給料袋を忘れたことがない。うれしかったな、『給料や!』って。(後略)」 語り手の上井は第1次UWFの営業社員。「給料袋」という以上は、現金で給与が支払われていたように思われる。もちろん、社員とレスラーでは違うかもしれないが。 次のような証言もある。 「週刊ファイト」1989年4月20日号 UWF Uという名の遺伝子 連載25 スーパーアイドルの生き様 S氏は新日プロと同じく佐山の商品価値に目を付け、UWFから佐山へ誘いがくると、S氏はUWFに対して厳しい条件を出した。 それでもUWFは佐山が欲しかったため、その条件をのんでいる。後に佐山はこう述べている。 「ボクがあんなに高いギャラをとっていたんだから、UWFが崩壊しても仕方がなかった……」 UWFが佐山を獲得した理由――それは佐山のネームバリューからくる観客動員の期待感である。(後略) 「S氏」とは当時の佐山のマネージャー、ショウジ・コンチャこと曽川庄治。 なお、この「Uという名の遺伝子」は、「週刊ファイト」1988年10月27日号から1989年10月26日号まで、約1年間に全50回、1ページを丸々使って連載された。第2次UWFがブームの当時に第1次UWFを振り返るという内容で、執筆者は名前を伏せられていたが、実は当時「週刊プロレス」編集長として飛ぶ鳥を落とす勢いだった山本隆司(ターザン山本)であった。 「G-スピリッツ」Vol.44 2017年8月5日発行 ――ところで、当初のザ・タイガーというリングネームは、佐山さん自身で考えたんですか? 「いや、それもコンチャです。コンチャが何を考えていたかはわからないけど、僕を全日本に2億円で売るという形でした。一説には1億円とも言われていたけど、最終的には2億円という話が出ていたようですね。ただ、そういう当時の政治的なことは僕には全然わかりません。真面目にコンピューターに齧りついて、ルールを作ったりしていたので」 これもどこまで正確な話かはわからないが、何より大事なことは、佐山自身が、当時の自分の価値が億単位であったことを疑わずに語っていることであろう。 「新日本プロレス10大事件の真相」(宝島社、2015)において、当時、新日本プロレス興行の社長だった大塚直樹が、「2500万の契約金を出せば佐山が全日本に上がるっていう話になったんです」と語っている。佐山の言う1億ないし2億円は、契約金、試合の出場料、テレビの放映権料等の全てを含めた金額、と考えれば、矛盾はしない。もちろん、2500万円でも大変な金額であるが。 佐山の獲得には、全日本プロレスよりも日本テレビが乗り気だったようだから、コンチャが億の金を求めた相手は日本テレビだったかもしれない。佐山が新日本プロレスを辞めた直後の話だが、「週刊ファイト」1983年9月13日号に次のような記述もあった。 T・マスク 動きいぜん微妙 記者座談会 (前略) D タイガーが動いたとしてもそれは日本TV所属じゃないかな。かつて、柔道王のアントン・ヘーシンクが日本TV所属で、全日プロからギャラが出ていなかったのと同じシステムを取るんじゃないかと思うんだ。 結局、全日本プロレス、日本テレビは佐山を獲らず、三沢光晴を二代目タイガーマスクとして売り出した。 まだ佐山が新日本にいた頃(1983年2月)だが、新団体に1億円で引き抜きをかけられた、という話もあった(「東京スポーツ」1983年5月25日号、24日発行、No.7955)。この新団体の黒幕は、漫画「タイガーマスク」原作者の梶原一騎である、と噂されていた(※)。 佐山を動かすには億単位の金がいる。そう当時は思われていた、と言えるのではないか。 ※ユセフ・トルコは著書「プロレスへの遺言状」(河出書房新社、2002)で、その噂を肯定している。「テレビ局もフジテレビでほぼ決まっていた。」という。UWFもフジテレビで放送する前提で作られたが、梶原一騎の元秘書、川島茂(UWF取締役、かつてタイガーマスクの後援会を主催)が、フジとの交渉窓口だったとのことで、関連性がうかがわれる。 |
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「週刊ファイト」1984年11月13日号 S・タイガー逆告訴 11月2日曽川氏(元マネジャー)を業務上横領で 無限大記念日のギャラをピンハネ 佐山は次のように言っている。「曽川さんからはワンマッチ五十万円なので、マネジャー料、必要経費を引くと四十万円になると言われ信用していた。ところが確かめてみるとワンマッチ百万円。これでは一試合五十万円、二試合で百万円ごまかされていたわけ。(中略)」 (中略) しかし、前記の「無限大記念日」ギャラ支払いに関しては、領収書もUWFが持っているので、佐山に一試合のギャラは五十万円と偽ったこと、四十万円しか払われなかった事実は動かないとして、この件だけを取り上げ、横領罪で訴えることにしたという。 1984年7月23・24日、後楽園ホールでの「UWF無限大記念日」で、佐山はザ・タイガーとしてカムバックした。その時にUWFが払ったギャラが、一試合100万円だったというのだ。 単純計算で、仮に年100試合なら1億円。200試合なら2億円である。佐山がコンチャに言われて納得していたという、一試合50万円でもその半分である。 これが正式に入団した途端、月給100万円(年1200万円)になったのなら、かなりのダウンである(※)。 「ギャラは試合給だったか月給だったかは憶えてない」という発言を考え合わせると、佐山の記憶にあった「一〇〇万」というのは、月給ではなく最初の試合給の額なのではないか。 また、仮に月給100万円だったとして、それでは足りないほど、当時の佐山は金を使っていたのだろうか。前田によれば、社員と違って選手の給料はちゃんと出ていた、というのだが、佐山にはカットがあったのだろうか。 貯金を切り崩して生活していた、というのは、UWFを辞めた後の記憶ではないだろうか。 佐山が初めから参加していれば、フジテレビは予定通りUWFを定期放送したかもしれないし、「無限大記念日」もテレビ東京が放送する話があった。当時、佐山の価値はそれ程に大きかった。UWFに入る前は、ギャラが一試合1万1千円に過ぎなかったという前田(P233)と、佐山が同じギャラということがあったろうか。 ※スーパー・タイガーとして正式入団後、佐山がUWFで出場した試合数は、1984年8月から1985年9月までの14か月間で80試合。この間の報酬が月給100万円で1400万円だったなら、一試合当たりに換算すれば17万5千円。「無限大記念日」のギャラが初登場のご祝儀相場だったとしても、やはり下がり過ぎではなかろうか。 選手のギャラが試合給ではなく月給なら、固定費になり、佐山理論により試合を減らして行く程に、一試合当たりのコストは上がって行く。 |
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ところで、社員の給料に未払いがあったのに「なぜ社員に手を差し伸べようとしなかったのか」という問いに、佐山は「知らなかった」と答えた(P291)、と書いて、それで済ませているが、経営難で皆が苦しんでいるのに、それを知らないのならそのこと自体、無情の証であろう。 田崎は「前田の佐山に対する怒りは誤解から始まっている。」(P293)と書いているが、社員や他のレスラー達の生活や気持ちに無関心な、「UWFの経営には全く関心がなかった」(P292)人間が、団体の方向を決めて行くことに憤りを感じることが、理由のないことなのであろうか。 前田と佐山の対立を「誤解」や「佐山を快く思わない人間」のせいにすること自体が、読者を誤解に導こうとするものなのではないか。 「週刊ファイト」1989年9月28日号 UWF Uという名の遺伝子 連載46 「前田・佐山事件」の真相 そうした状況のなかでとりわけ佐山批判を集中的に行ったのが営業部の面々である。「試合数をもっと増やすべきだ。試合を3週間に5試合と限定されたら、経営が成り立たない」と主張した。 UWFイズムを実証するためにも3週間に5試合という考え方は正しかったのだが、それでは団体が運営できない。営業サイドからみると、佐山理論は机上の空論か、それとも絵に描いたもちに等しかった。 これに対して佐山はノーと言い張った。頑として営業サイドの主張を受けつけない。ここで妥協し試合数を増やしたら、UWFはUWFでなくなる。佐山にはそういう読みがあった。 だから妥協しなかったのだ。その証拠に「もし、自分の考えが受け入れられない場合は、UWFを去る」と述べたという。この発言はUWFのフロントとレスラーを刺激した。(中略) (中略)一つだけ言えることは、佐山がきわめて冷静だったことである。 いや、冷淡といった方が当たっているかもしれない。何に対して冷淡だったかというと、UWFの存亡について無関心だったのだ。佐山はスーパータイガー・ジムで生徒にシューティングを教えていた。 そちらの方が本職だったのだからUWFには愛着が薄かった。早い話、佐山は“二足のわらじ”をはいていたのだ。UWFがつぶれてもジム経営はそのまま継続できる。 他のレスラーやフロントに比べると、この点では気分的に楽だった。フロントはUWFが崩壊すると、路頭に迷ってしまう。レスラーも他団体のリングに上がるしかない。 彼らにしてみると、佐山は限りなく優雅に見えたのではないか? 自分のこれからの運命と佐山のそれを比較したら、憎しみしか沸いてこなかったはずだ。 佐山はUWFの基礎理論を残してUWFを去った。たしかに佐山はUWFにはアルバイト感覚でリングに上がっていた。これは本人も認めているので責められても仕方があるまい。(後略) メニューページ「田崎健太「真説・佐山サトル」について」へ戻る |