「真説・佐山サトル」(7)アナザー・タイガー対前田

 

 

 

黒字田崎健太「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男」(集英社インターナショナル、2018)からの引用。文章中、敬称は略します。

 

 

「週刊ザ・プロレス」1985年9月19日号 No.142

前田相次ぐ謎の行動

大阪では異例の反則負け そして後楽園大会を欠場

 (前略)

事の起こりは、9・2大阪大会、Aリーグ公式戦対スーパータイガー戦。前田が「反則」で負けたところから“事件”は始まった。前シリーズ、タイガーを破っている前田は、2連勝を狙ってゴングが鳴ると同時に突進した。左右の張り手を浴びせ、組み合うとヒザ蹴りをぶち込み、ヒジ打ちを顔面に突き入れる。藤原に惜敗、優勝するにはあと1敗も許されない――そんな思いが前田にはあったのか、凄まじいまでの闘志だ。タイガーが蹴りを飛ばしても一歩も引こうとはしない。そして、またパンチ気味の張り手を連発する。

スタンディングポジションで戦うのは不利と見たか、タイガーはグラウンドに持ち込むが、前田の巨体をもてあまして崩し切れない。戦況は前田勝利で進みつつあった。ところが、とんでもないハプニングが起こった。前田のヒザ蹴りが、タイガーの下腹部にくい込んだのだ。「金的です」タイガーのアピールにレフェリーの空中は「故意みたいだった。その前に一回軽い金的があったし、故意じゃなくても急所に入ったら試合は続けられないよ」と前田の反則負けを申告した。

 

 

「週刊ファイト」1985年9月17日号

前田の蹴り急所見舞う 最初から異様なムードが…

 (前略)

 ゴングが鳴って向かい合った途端、前田は左のパンチを出した。無論、こぶしは握られていない。平手だ。続いてパンチ。いずれも適格にS・タイガーの顔面をとらえた。

 S・タイガーも同じくパンチを放つが、前田はヒザ蹴り、パンチ、投げでS・タイガーを圧倒した。再びパンチの連打。前田はS・タイガーの顔しか狙っていないようだ。すぐにS・タイガーの顔面は真っ赤に腫れ上がった。

 さらにヒジ打ち、パンチ。ようやくS・タイガーがミドルキックを連発したが、前田は動じない。頭を押しつけるようにして前進する。S・タイガーのキックが全く効かない。これには観客も「ヒエーッ」と驚きの声を上げた。

 しかし観客が声を上げたのはここまで。後は異様な試合のムードにひっそりと静まりかえった。

 アームロック、ジャパニーズレッグクラッチをロープに逃れたS・タイガーに、またも前田のパンチが飛ぶ。左右のストレートパンチ、ヒザ蹴り、ヒジ打ち。一段とS・タイガーの顔は赤く腫れ上がった。

 ひたすら頭をつけて前進する前田を突き放してローリング・ソバットを放ったS・タイガーだったが、バランスを崩して倒れてしまった。そこへキックを打ち込む前田。

 倒れたS・タイガーに上乗りになった前田だが、攻め手がない。

 逆に上乗りになったS・タイガーも全く攻められなかった。一分、二分と時間が過ぎていく。

 S・タイガーがアキレス腱固めを決めたが、これも全く効かない。逆に前田にアキレス腱固めを決められ、ロープへ逃れた。再び四つんばいになった前田のバックをとったS・タイガーだが、やはり攻め手がない。

 前田がヒザ蹴りを狙った。股間を押えて引き下がったS・タイガーはレフェリーにクレーム。ここでゴングが鳴らされ、前田の反則負けが宣せられた。

 (中略)

 またレフェリーの空中は「故意みたいなカンジやったからな。ま、故意というよりも金的じゃ続けられんでしょう」と、状況を説明した。しかし急所蹴りが直接的な原因ではなく、このまま続けていれば危険過ぎる。あるいは試合にならないと判断したからではないか。手を握らないパンチで攻撃することはルール違反ではない。もっともストレートパンチ、あるいはパンチがこめかみに当たった場合は反則となる。だが、レフェリーの注意もなかったのでルール内で闘われたのも確かである。

 

 

 293〜302ページで田崎は、1985年9月2日、高石市の大阪府立臨海スポーツセンターにおけるスーパー・タイガー(佐山)と前田の試合について書いている。佐山は、前田の挑発に対して自分は攻められなかったのではなく攻めなかったのだ、と言っている。

佐山は、試合の数年後に次のように語っている。

 

 

「フルコンタクトKARATE」(福昌堂、1989年10月号、No.32)

 

 あの日の前田は、とにかく変だった。最初からケンカをしかけてきた。もちろん、プロレスをやるつもりでリングに上がってた俺は、ワケがわからないよね。その間も前田は「辞めてやる、辞めてやる」なんてつぶやきながら、つっかけてくる。

 1年後には、前田をエースに立てようという路線もあったし、今ここで辞めてどうなるわけでもないから、俺は前田をリングの上で鎮めようと務めた。向こうはケンカのつもりでやってるから、振りも大きいし、じきに息も上がりはじめた。しかし、前田を説得することはできそうもなかった。レフェリーの方に目を向けても「お手上げ」という感じだった。

 そうこうしているうちに、前田の蹴りが急所の近くにとんできた。俺が“急所打ち”をアピールして、試合は終わった。――これが、俺と前田の“ケンカ試合”の顛末だ。

 

 

 「攻められなかった」でも「攻めなかった」でも、どちらでも同じではないか。

 あえてプロレス界の隠語「シュート」を基にした「シューティング」という名称を使い、「プロレスを忘れて下さい。僕たちがやろうとしているものはプロレスとは違うものです」(※)と豪語していたのは他ならぬ佐山である。そのくせ実際に試合でシュートを仕掛けられると「落ち着け」と言うのみで闘えず、当たっていない「金的」をアピールして試合を終わらせる。更には、再戦が組まれると団体を離脱。

 「佐山は口だけ。いざとなると逃げる」当時、そう感じたのはわたしだけであろうか。

 

  1985年2月26日に放送されたTBSのニュース番組「テレポート6」での発言。ソースは「週刊プロレス」1985年3月19日号

 

 

 それまでUWFで行なわれて来た、佐山が提唱する所の「シューティング」は、シュートではなかった。それをわたしは、この一戦によって知った。

 今になって佐山は、シュートはやっちゃいけないことだった、とさえ言っている。

 

P305)

 佐山はこう言う。

「臨海の試合の後、みんなが前田の味方をしたんですよね。レスラーだけじゃなくて営業とかの社員も。前田がやったことを考えれば普通は反対ですよね。あんなことやっちゃいけないという話になる。(後略)」

 

 

「【格闘技&プロレス】迷宮Xファイル」(芸文社、2004)

前田日明VS佐山聡 文=波々伯部哲也

 

(前略)緊張感漂う後楽園ホールに姿を現した前田は、リング上からファンに欠場を詫びた。(中略)

 前田がフロントや選手、そしてファンにも大歓声で迎えられたのは、佐山が旧UWFでの居場所を失ったことを意味していた。旧UWFは10・9&10・20後楽園開催を発表、しかも10・9後楽園では前田vsS・タイガーの再戦。物議を醸した9・2高石での前田の闘いぶりが“容認”されたに等しかった。

 

 

 レスラー、社員だけでなく、ファンも前田の味方だったのではないか。戸惑いや心配はあっても、前田を非難する声があっただろうか。

「週刊ゴング」は、次のように辛辣に書いている(一応フォローもあるものの)。「逃げた」という表現が適切かどうかは賛否があろうが、当時のムードを知ってもらうために引用する。

 

 

「週刊ゴング」1985年10月24日号

今度は佐山急病で突如中止されたUWF無限大記念興行

その背後の“隠された真実”を探る!

佐山は前田戦から逃げたのか? そしてUWFはどこへ行く?

 (前略)

 9日の前売券が「猛烈な速さで売れた」のも、この試合の背後にある異常なムードが決闘好きのUWF信者の心理を、強く刺激したからに他なるまい。

 そこへ持ってきての突然の佐山の病気、試合の中止である。この報を聞いたとたん、あるプロレス評論家は、こう口走った。

「佐山の奴、逃げたな」

 だが、逃げた、と断定することは、佐山に対して失礼であろう。(中略)

(中略)だから“殺し合い的試合”を決して好ましいとは思っていなかったろうが、逃げるほどヤワではあるまい。

 佐山が体調を崩していたことは事実のようだ。(後略)

 

 

「週刊ファイト」1985年10月15日号

マット界舞台裏 ◎編集部談話室

 (前略)

 D シューティングをめぐる考え方、イデオロギーの違いさ。そこへもってきて佐山が体調を崩した。どうにもやれないとなって後楽園大会は中止された。そんなにドロドロしたものはないと見る。

 C いや、その見方は甘い。佐山にしても、前田がどんな手でくるかと“10・9”後楽園を恐怖していたはずだ。恐怖というのがオーバーなら疑心暗鬼と言い換えるがね。やはり、とことん話し合い和解し合っていないのが元凶さ。

 

 

P299〜300)

「そもそも(亀の体勢になった前田を)本気で攻めてませんでしたよ。本気で攻めたら、色んな技がいっぱいある。UWFのルールだと、亀の状態は蹴りを受ける可能性がある。ぼくは顔面への蹴りを得意としていました。ゴングが鳴ってから狂ったように(腕を振り回して)来た。それで突然、亀のポーズになって、“取れるならば取ってみろ”って、そんなの分かるはずがないですよ 」

 佐山の指摘通り、亀の体勢は蹴りに対して無防備である。

 

 

 映像を見ない人は真に受けてしまうかもしれないが、狂ったように腕を振り回して来た、という表現には語弊がある。前田の張り手は当たっているし、内実はともかく見た目には冷静な様子である(むしろ冷酷というべきか)。

スタンドから唐突に亀の姿勢を取ったわけでもない。前田が亀の姿勢を取ったのはグラウンドでの流れの中でのことである。亀の相手に打撃を加えるにはルール上、体を一旦離さねばならず、亀になっている方にはその時に立つチャンスがある。そもそもグラウンドの体勢にある相手の顔を蹴ること(首から上への当て身技)は、ルールで禁じられていた。

 要するに佐山は、UWFのルールなどもう覚えていないのだろう。確認もせず、その言を真に受けるのが問題である。別項で検証したように、田崎はUWFのルールを調べずにこの本を書いたようである。

 

 

P298)

 佐山の蹴りには「プロレス用」とそうでないものの二種類がある。見た目はあまり変わらないが、衝撃は全く違う。前田との試合で使った蹴りは前者であるという。

「ガチンコの攻め方じゃないですから、距離とか関係ないんです。一発も(真剣には)入れていない。本当に蹴ったというイメージは全くないですね。ただ、ローリングソバットだけは一発行きました」

 

 

二種類の蹴りがある…とは大層な言い方である。この試合で佐山は何度か、蹴りを放って跳ね返され自分の方が倒れているが、それはどちらの蹴りなのであろう。それともそれは第三の蹴りなのであろうか。

 一発行った、と佐山が言っているローリングソバットだが、不思議なことに効いたように見えるものは一つもない。それどころか「週刊ファイト」が書いているように、一度はやはり自分の方が倒れてしまっている。

 

 

P301)

 一つはっきりしていることは、前田は試合を放棄し、佐山はなんとか成立させようとしたことだ。

 

 

 これは逆であろう。是非はともかく、これも試合である。続ける意思を失ったのは佐山。

田崎はプロレス=筋書きの決まった芝居としか思っていないから、こんなことを言うのではないか。

 試合が終わった直後、ある客が「きたねえぞ! 佐山!」と野次を飛ばしていた。「反則」で無理やり試合を終わらせたのは、前田ではなく佐山だった、ということがわかったのであろう。

 

 試合後、前田が「責任を取ってオレは辞めます」と言ったことについても、田崎は何やら疑問を投げかけているが(P302)、せっかくインタビューをしていながら前田の心境を分析できていない。

しかも、それで別にかまわないと思っているようだ。しかし、先に出た他の本に、田崎の疑問への答えが既に出ている。

 

 

UWF世紀末読本」(日本スポーツ出版社、1999)

前田日明 インタビュー○熊久保英幸 構成○稲垣収

 (前略)

前田 (中略)「辞めてやる」っていうよりも、リング上でそういう試合をやったら責任を取らなきゃいけないと思ったから。やったらいけないことをやったらね。みんなが佐山を御輿にかついでいるのに、「じゃかましい」って御輿から引きずり降ろしたわけでしょ、あの試合って。だからみんなが一生懸命やってることを妨害してるってことじゃない? そんなことしたら、やっぱり責任取らなきゃいけない。で、あの時点で、「みんなは生活のために佐山聡を選ばなきゃいけないだろう」と思ったし、俺自身。「でも佐山さん、違いますよ!」って俺がやったことで、「ああ、そういうことを言っちゃダメなんだ、やっちゃダメなんだ」って気づいてくれればいいな、って思ってね。(後略)

 

 

佐々木徹「無冠 前田日明」(集英社、1998)

 

「(前略)

 俺は本気で、あの一戦を最後にプロレスをやめるつもりだった。というのも、新日本に入門して以来、さんざん先輩たちから“私闘”はいけないと言われ続けてきたんだ。観客の見ている前で“私闘”を仕掛けたら最後、プロレス界にはいられないぞ、とも言われ続けてきた。もちろん、俺だって先輩たちから注意されなくても、プロのレスラーとして観客の前で“私闘”を仕掛けたら、この世界にいられないと十分理解していた。

 反則負けを告げられた瞬間、これですべてが終わったなと思った。佐山さんとあんな試合をしてしまったのだから、もう他の選手も社員も“俺とは一緒にユニバーサルを続けられないと考えているはずだ”と勝手に思い込んでいたよね。だから、藤原さんに『やめます』と言ってすぐに大阪に帰ったんだ」

 (中略)

 ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。周囲の人間たちから「佐山の暴走をなんとか止めてくれ」と頼まれた前田は、なぜプロレスの世界にいられなくなることを理解していたのにもかかわらず“私闘”を仕掛けたのか。当時、周囲の人間たちは誰も前田にプロレスをやめてもらいたいとは思っていなかったはずだ。それなのにプロレスをやめてもいいと決意するような“私闘”を仕掛けてしまった。いくら“強迫観念”に駆り立てられていたとはいえ、そこまで思い込むような“私闘”の選択ではなく、もっと前向きな行動がとれなかったのだろうか。

「表現が適切ではないかもしれないが、当時の俺は特攻隊のような気分だったんだ。俺が決意の“私闘”を仕掛けることで佐山さんの目を醒まさせたかったんだよ。結果、俺が身を引けばすべてが丸く収まるのではないかと考えていた。

 つまり、ユニバーサル・プロレスの将来を考えた場合、知名度からいっても俺より佐山さんをトップに据えたほうが展開は広がると思ったわけ。で、俺との“私闘”によって目を醒ました佐山さんと他の選手や社員が一緒に力を合わせてがんばればうまくいくんじゃないかと思っていたんだ」

 しかし、藤原をはじめとする他の選手たちは、佐山を選ばずに前田を選んだ。(後略)

 

 

佐山の離脱後、第1次UWFは崩壊した。佐山はプロレス界と決別し、総合格闘技としての「シューティング」育成に専念。一方、前田らは新日本プロレス復帰を経て、第2次UWFを旗揚げし、ブームを巻き起こした。その成功の源は、佐山の理念を換骨奪胎したところにある、と柳澤健も田崎も言いたいようだが、彼等にはある視点が抜け落ちている。

それは「強さ」である。

 

 

竹内宏介「異種格闘技戦の世紀末 プロレス最強神話は終わった」(日本スポーツ出版社、1999)

 

(前略)この試合こそ前田にとっては佐山に現実を知らしめるための一種の制裁マッチであった。「戦いは理論じゃない!」と、いう自分の主張を示すために前田は己の格闘本能のおもむくままの妥協無き戦いを仕掛けた。前田vsS・タイガー戦は18分57秒、前田の反則負けという結果で唐突に終わった。この試合に関しても前田、佐山…それぞれに言い分はあるようだが、これを出し抜けに見せられたファンは“強い前田”“守勢に徹したタイガー”と、いう印象を残した。そして、結果的にこの試合がUWFという団体の方向性を佐山色から前田色に大きく変える歴史的な分岐点となった。

 (中略)10月には前田vs佐山の和解? マッチも予定されていたが、それが実現しない段階で佐山は正式にUWFからの退団を表明し、UWFそのものも蓄積された赤字で団体として身動きが取れない状態となり、崩壊への道を辿る結果となった。

 ここにUWFの第一章は、その幕を閉じた。だが、歴史の上でこの崩壊は“UWF最強神話”誕生に向けてのプロローグに過ぎなかった。本当にUWFがプロレスの最強神話を脅かす存在としてジワジワとプロレス界を侵食し始めて来たのは、この直後からであった。

 S60年12月6日、新日本プロレスの東京・両国国技館大会の会場に現れた前田、高田、藤原、山崎、木戸の5人は業務提携という形で新日プロのリングに戻る事となった。

UWFにおける1年半が何であったのかを証明するために新日本のリングに上がります」

 リング上でアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳(辰爾)、木村健吾らを前に高らかに、そう宣言した前田。今にして思うと、この一言はまさにプロレス界に対するUWFの宣戦布告であった。UWFにおける1年半の戦いの中では常に佐山や藤原のら後塵を排して来た前田が本当の意味でUWFを代表するエースとしてクローズアップされて来たのは、この時からであった。

 

 

 竹内の言うように、そもそも前田は第1次UWFにおいては、戦績上は3番手か4番手に過ぎなかった。それが新日本プロレスに参戦する際には、藤原、木戸を差し置いてエースとして振舞っている。こうしたことは、普通ならファンが受け入れない。それが受け入れられたのは、前田が佐山との闘いのみで「強い」とファンに認められたからであろう。

マッチメイク権を握られた新日マット上でも、UWF勢は「強さ」を見せ続けた。特に前田は、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシュート・マッチや、ドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦といった試練を逆にバネにして化けた。前田は「強い」と思われたからこそ支持されたのである。

一方、佐山はプロレスを真剣勝負ではないと批判し、シューティングが正しい、とは言えたけれど、プロレスラーよりシューターの方が強い、とは(少なくとも1980年代には)言えなかったのではないか。

プロ修斗になかなか客が来なかったのは、地味とか詰まらないということ以前に、強いと思われなかった(客に強さがわからなかった)からではないだろうか。

プロ格闘技にファンが求めるものは、第一には「正しさ」よりも「強さ」であろう。

 今はともかく、少なくとも1980年代までは、プロレス・ファンもそうであった。プロレスに(競技的な)強さとは別の価値観が認められるようになったのは、1990年代の大仁田厚の成功以降であろう。

 ジャイアント馬場はNWAの権威を、アントニオ猪木は異種格闘技戦とIWGPを根拠に、共に「世界最強」を張り合ったし、国際プロレスでさえ「デスマッチならラッシャー木村」と言い得た。それが1980年代までのプロレスであった。

プロレスの試合では本当の強さがわからない、と思い始めたマニアの、シュートに強いのは誰なのかを知りたい、という心理を、UWFは利用して人気を得た、とも言えようか。

 バーリ・トゥードが知られる1990年代以降、総合格闘技がプロレスを「強さ」で(実質だけでなくイメージとしても)凌駕し、プロレス界は別の価値観も求め始めて多様化が進んだ。

総合格闘技の中でもPRIDEがブレイクしたのは、「1/60億の男」(人類最強)を決める闘い、というコンセプトに説得力があったからであろう。

 

 

 高石市での試合に先立つ1985年7月25日、大田区体育館で、もう一つのタイガー対前田戦があった。伏線的な意味合いも感じ取れて非常に興味深い。田崎がこの試合に触れていないのは残念である。

 

 

「週刊ファイト」1985年8月6日号

前田、快心の勝利 S・タイガーを押しまくる

 (前略)

 ゴングが鳴るなり、前田は突進した。S・タイガーはヒザ蹴りを放つが、前田は両手でブロックする。そのまま押し倒した。ロープ。同じ展開が繰り返される。キックを放つ距離がとれないS・タイガー。無理な体勢から繰り出したミドルキックは、前田に抱えられ投げ飛ばされる好餌となった。そのままV2アームロック→クロックヘッドシザース→腕ひしぎ逆十字と連続して攻める前田。

 逆片エビ固めをロープに逃れたS・タイガーは再びキックを放ったが、またしても抱えられて投げ飛ばされた。糸口が掴めない。それな感じのS・タイガーだ。

 長い密着してのグラウンドが続いた。上にいるのは前田である。離れ際を狙う。S・タイガーの活路はそれしかない。立ち上がったS・タイガーは右ミドルキックを二発ぶちこんだ。決して悪い蹴りではない。しかし前田は動じるどころか、二番目の蹴り足を掴まえまたも強引なスープレックス。しかもS・タイガーの頭をマットに叩きつけた。

 おかしい。頭を抱えながら前田のグラウンド攻撃を耐えるS・タイガーはそう思ったことだろう。試合時間は十分を過ぎている。それなのに攻撃らしい攻撃は何一つしていない。

 前田もスタミナを消耗した。やがて棒立ちになったところをタイガードライバーで投げられた。腕ひしぎ逆十字から裏十字へと移行するS・タイガー。初めて前田が迎えたピンチだ。苦し気なうめき声を発しながら、どうにかロープに逃れた。これを機にS・タイガーはペースを取り戻すだろう。そう思われたが、キックする足が伸び切らないうちに前田にタックルで倒された。V2アームロック、アキレス腱固めをロープに逃れるS・タイガー。カウント7のダウンもとられた。

 間合いがとれない。致命的だ。いつもの三分の一もキックを放っていないだろう。ローリング・ソバットも空を切った。左ミドルキックを放ったS・タイガーだったが、またも抱えられた。ここで何らかの手は打たなくてはならない。S・タイガーは逆の右足で前田の後頭部を狙った。しかし、これを読んだ前田は首を落としてかわす。空を切ったS・タイガーの体がリングに落ちた時、前田はガッチリと逆エビ固めを決めた。

 予想だにしない結果だった。勝敗を言っているのではない。ほぼ一方的にS・タイガーが押し切られた内容が、だ。むしろ、なぜこれまで前田はS・タイガーに勝てなかったのか。そう疑問を持たせるほどの圧勝だった。(後略)

 

 

 佐山はキックを封じられ、タイガー・ドライバー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ)から腕ひしぎ十字固めでロープ・ブレイクを一度取った以外は、見せ場がなかった。前田はこれまで適わなかった相手にやっと勝ったのだが、それにしては格下相手のような完勝で、フィニッシュも蹴りをすかしてそのまま決めるという救いのない形だった。

高石市での再戦では当然、佐山は雪辱を果たさなければいけなかった(リーグ戦の星取り勘定から言っても、佐山は星を落とせなかったであろう)所を、前田に「シュートがやりたいならやってみろ」「力で勝ちを取ってみろ」と挑まれたのである。

 

 

荒井勉&格闘技探検隊「わしらは格闘技探検隊」(エスエル出版会、1989)

 

十一月十七日、スーパータイガージムで、佐山サトルは何を語ったか……以下にまとめて掲載します。(中略)

「ジムの選手には、言ってるんですよ。UWFの時のボクの真似をしちゃダメだよって。ボクは、UWFを、最終的に本物の真剣勝負にしようとしたんです。それで、ボクと浦田サンが中心になって進めていたんですけど、途中で、みんなから反発を食いまして。結局、最後まで、プロレスをやっていたんです。

 (中略)

 ボクは、UWFにいた当時からジムをやっていたわけなんですけれど、ジムの練習生に、シューティングは真剣勝負だ、って言っておいて、ボクがUWFで正反対のことをやる……そんなことは、ヤッパリできませんよね。そんなこともあって、ボクはUWFをやめたんです。(後略)」

 

 ※初出は「月刊・格闘技探検隊」1988年12月号の由。

 

 

大田区でも高石市でも、佐山戦で前田はルールを破っていたわけではない(金的も当たっていない)。佐山がそれ程に真剣勝負をやりたかったのなら、せっかく前田がその気になっていたのだから、高石ででもその後の後楽園ホールででも、前田とルール内の真剣勝負をやればよかったではないか。しかし実際には、佐山は闘わずに去り、その後も自分では真剣勝負をやることがなかった。

 

 

 

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