1916.2.5 アド・サンテル 対 伊藤徳五郎(2)

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

 

 

新世界 Shin Sekai, 1916.02.13 Page 10

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19160213-01.1.10&e=------191-en-10--1-----------

 

□□ 研 究 思 索 □□

伊藤五段對サンテルの仕合

▼専門的見地より観たる批判

――伊藤氏後援會員々員と沙港道場員に呈す――

二月五日夜ドリームランド、リンクに於ける伊藤五段對サンテルの仕合は伊藤氏の失と云ふ事に終つた是非伊藤氏に勝たせ度いと云ふ希望が熾烈であつた丈け同氏に對する同情の深きに比例して一般の落膽は甚だしいやうに見える、中に少數者は柔道の前途に失望して仕舞たもないではない、併し我々之れから世界を雄飛しやうとする國民として一二の蹉跌にヘコタレて仕舞はれやうか、我れに不完全な點あつたら之を改良せねばなるまい此の意味で此の批判一篇を認めて伊藤氏後援者とシヤトル道場の諸君に呈す

順序として當夜の試合の概略から記さうならば兩氏式(かた)の如く握手終つて立ち合ふやサンテルは純乎たる保護体に構へ伊藤氏も大事を取て左保護体に近い構をしたが間もなく攻勢に移り小手試めしに二回膝車を試みる兩度共相手は素早く身を立て直し第三回目に伊藤氏が蓋(おほ)ひ被さるを引き外し之れを馬乗状に跨ぎ伊藤氏仰向になる拍子に兩脚で腰を挟み其の兩足を伊藤氏の尻の邊で組みせ巧みに伊藤氏の腰と脚部を浮かし渾身の力を右手に寄せ左手の逆を取ろふとするが効ないので更に右肱(ひじ)で伊藤氏の鼻と唇を兩々ならずグイグイと押し付け、前腕で耳房を逆に殺ぎ拳と肱で頬骨を押し或は兩拇指の爪を咽喉笛の邊に突立てやうとする

▲審判の抗議 此の場合レフリーの一人たる京野二段は肱を用ふる事に抗議したサンテルは之れはレスリングに在る術と云ふ口實の下に一度は抗議を拒だ

契約には肱で突く事を禁じてる之れは柔道の當身を封ずるの精~からであるが、突くと押すは程度問題であるが單に左云ふ事もあると云ふので之を使用し得るならば當身も之を明文に的確に現はして居らぬ以上は之を使用するも可なる筈である一体勝負の規約の精~は力と術を試むるので暴を闘すにない

サンテルも遉(さすが)に忸怩たるものある如く拒みはしたが自らは再び之を用ふる事なかつた

サンテルは流汗淋漓渾身ユデタコの如くなつたが遂に上になつてると云ふ以外に出で得(えず)して此の状態で五分計を費しニ十分の規定の内残り四分の聲が縣ると共に伊藤氏は脚を兩三度振つて苦もなくサンテルの固めを脱して仕舞ふた、四分三分では相互に足勞れ損をするのみであるので相引きに分れ休憩する

▲第一回引分 一方が敗意を表するを以て勝負を定むる規定に據つて第一回は引き分け公平に見てサンテルは力が強いが伊藤氏の術は堂に入つてる、若し此の場合に孰(いづ)れに勝ち目があつたかと云ふなら必ずしもサンテルになかつたと云ふのは第一上になつては居たものの敢て伊藤氏を負し得なかつたが下にウマク組み敷れて居た伊藤氏は遂に力も強く体量も重く体格も大きい相手の固めを最後にイト手軽に崩してる、第三にサンテルは珍らしく汗まみれになつてるのに至つて汗ばむ伊藤氏は普通の稽古の時程汗ばんで居らなかつた

伊藤氏は鼻腔が固疾で稽古の時は常に口を開いてる、之が爲め稽古の時にも頗る呼吸短い人の様に想像されてるのに此の時は此の事なかつた

勝ち目負け目は別としてサンテルが比較的勞し伊藤氏が案外勢を経済し貯蓄し得たかの様に思はれてあつた

▲決戰に入る 第二回に入つては伊藤氏は更に積極的構へをし相手も更に猛烈の度を加へ來つた例の如く小手試みの軽い膝車を試みてる内に相手は金剛力を出して左で浮き落を試みたさしもの伊藤氏も稍々(やや)引廻はされた氣味あつた、其の強力衆人をして一驚を喫せしめたが次いで蹌踉とした足を直ちに踏み占め得意の膝車で之を倒し伊藤氏が上より蓋(おほ)ひ被さると敵も去る者電光石火の如く身を交し之が爲め伊藤氏は又も下に組まざるを得なかつたが其の右足相手の腹を支ふるか早く巴投で相手を頭越しに投げ追ひ討に自身も逆にモンドリ打ち返つて相手の背に負ひ被さつた、相手としては最早後から喉締めに會ふの外ない相手は兩手を突いて起き上たが伊藤氏は兩脚を其の胴に絡み離れず左手で相手の左肩越しに相手の襟を取つて小供が背負はれてる形を示した、サンテルは頻りに頸を警戒してたが伊藤氏は右手を浮し之を突き入れる隙を覗(ねら)つたがサンテルは稍(やや)前に屈み折り返へし略(ほぼ)百度の角度で伊藤氏を負ふた儘後にヒツくり返り伊藤氏の背がマツトに付く拍子に後頭の部を打ち付け脳震盪を起し其儘失~する、斯くとも知らぬ相手は直ちに兩脚で伊藤氏の頭を挟むと無意識に失~してる伊藤氏は其の左手を上に曲げ相手の脚の間に差し入れ頸に添ひ之を保護しやうとしたが意識がないので手は間もなく垂れ下り其の腹部緩い大波動を示したので初めて其の喪~してる事が知れて勝負を中止し醫士より以上勝負を継續するのを禁ぜられたので勝負を放擲しサンテルの得と宣言されたのである

▲研究問題 背に負はれた際伊藤氏は最後の窮策として相手が後に引つくり返へるを豫期してあつたかと思はれる、恐らくは之を豫期し其の左手で相手の重量を利用し苦もなく咽喉が締められるのを待つたかと思はれるが此の不測の怪我に會ふたに就き専門上後に至つて見るとニ三の遺憾がある之れは専門家の研究を要する問題と思ふ

一、此の際に伊藤氏の頭に落ちた重量はサンテルの百八十斤に伊藤氏の百四十五斤合せて三百二十五斤の重量であつた伊藤氏としては前に之れ丈けの重量を抱いて足を離し略々(ほぼ)百度の角度を畫いて引つくり返つて見た経験ある筈ない

二、右手を相手の體から離して居つたのが此の災難を惹き起す源因でなかつたろふか

三、右手も相手の咽喉が締る締らぬに拘らず相手の肩越しに其の身に着いて居たら兩人後向きに倒れる拍子にグツト締め場合に寄つては咽喉締めが利いたかも知れぬ、少くも兩手を抱き占むる拍子に頭は優に浮し得たかと思はれる

四、右手を離してた結果伊藤氏の右胸は相手から離れ身体を稍々ひねつて居た形にあつた

五、右手を離してた結果左腕丈けで其の身を支ふるに十分でないので身体がズリ下り重心が尻に在つて身を浮し又は交す上に全然障害となつたではあるまいか

▲結局如何 仕合は伊藤氏の放擲で伊藤氏の失と宣言された併し果してサンテルが勝つたであろふか、勝負の眞精~から云ふならば日本ならイタミ分けとして改めて取り組を行ふた上でなければ勝負が付いたとは云はれぬ、假に勝負あつたとして更に全局に就いて仔細に検分するならばサンテルの勝つたのは伊藤氏が頭を打つたからである、頭を打つたのは伊藤氏の過失と云ひ得てものはサンテルの術が秀れて居つたからとは云はれぬ、若し伊藤氏にして倒れてもハヅミで頭を打たなかつたら何うであつたろふ、左うなると總体の仕合ひ振を比較して見なければならぬ、總体から見て尤も多く否な徹頭徹尾相手を投げて居たのは力の強い體の大きい且つ重量の多いサンテルであつたろふか、軽かつたが伊藤氏が前後通じて五回相手を投げてるに敵は一回も伊藤氏を投げ得なんだ、更に寝業に就いて見るならば體の少ひさい軽い力弱い相手を組み敷き而もサンテルが遂に相手を負すの術を施し得なかつたに反し伊藤氏は利かぬ乍らも将(は)た結局倒れる拍子に頭を打つ結果に終つたとは云ひ相手に咽喉締幾回か試みやうとしてる殊に完全に抑ひ込んだ相手の固めも解いて之を脱した斯う見て來るとサンテルとしては伊藤氏の頭を叩くか眼球を潰すか兎角怪我させて伊藤氏の術から脱れる外に手段がないやうである之れを尋常の道に據り敵を悩し得た伊藤氏に比して猶ほ我等は日本の柔道の価値に絶望して然ろふか敗軍の将兵を談らず漫りに時の運に對し死んだ兒の歳を數ふるの愚を敢て仕度くない併し我等は『失』と云ふ空虚な一言の爲めに千萬言を要する事實を没却して自棄するの要はない、我等は依然として柔道の価値に信頼し得ると信ずる、専門的に観て先日の仕合に關し猶ほ幾多云ふて見たい點あるが煩瑣に過ぐるので概要に留め置く。

――萬里風耬――  

 

 

 伊藤徳五郎と柔道を弁護しようという思いが強く、公平に見ているとは言い難いとしても、試合の経過が最もわかる記事として紹介しました。

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1916.02.09 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19160209-01.1.3&e=------191-en-10--51-----------

 

●返憤慨

▲又もサンテルを相手に

野口八段が脆くも強力サンテルに打ち挫(くぢ)かれ邦人の憤慨は極度に達しドウしても復仇試合をしやうと人選し紐育の三宅氏との話しもあつたが結局

▲信用ある伊藤師範 と決定して勝負があつた處不幸之れも敗を取つた信用と實力のある伊藤師範ですらあの通りだモウ如何なる柔道家も迚(とて)もサンテルには敵し難いと邦人は何れも衷心より諦めて一人として憤慨するものがない退いて體力を養成しやうと皆眞面目になつて來た是れ迄

▲柔術家の過大の誇 を深く恨んで居る講道館の加納先生が欧米を漫遊して帰國のときでも柔道に敵する世界の武術はないと謂ふて居た桑港の邦人も其時は信じたが今は深く之れを疑ふに至つた邦人間にても講道館連中のものは自ら世界最強の武術と信じ居れば今回の敗は

▲恨みは骨髄に 徹して居る布哇(はわい)よりシアトルへ着した講道館の四段で酒井大助氏は是非サンテルに對する復仇戰をなし柔道に對する會稽の恥辱を雪ぎたいとの希望を以て其試合がしたいと知人へ申込んで來た同氏は體量百七十パウンド年齢は二十八歳である何れ知人よりサンテルに申込をなす筈だが之れをしてよいか悪いかい目下研究中である

 

 

 野口清から数えれば第四の男。打倒サンテルに新たに名乗りを上げたのは講道館四段、名は正しくは「坂井大輔」です。

 

 

 

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