1916.7 三宅太郎が伊藤徳五郎に挑戦

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

Nippu Jiji / 日布時事 [The Nippu Jiji], (Honolulu, HI)

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1916.07.26 Page 3

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●三宅太郎氏

伊藤師範に挑戰

     ▼無論應ずるならん

三宅太郎氏は南加を始めフレスノスタクトン等にて頻りに白人レスラーと闘ひ未だ曾つて敗を取らざる日本柔道家なるがスポート社會の事情に通ぜる者は是迄三宅氏の闘へるレツスラーに餘り著名なる人を見ざるが何れにしても連戰連勝の事なれば其伎倆如何なるか桑港同胞は未だ同氏の試合を見ざるを以て判定に苦しみ居たるに同氏は今回伊藤師範に向かつて挑戰し來りたり其書面には

謹呈 酷暑の候愈々御精健御勇闘之段奉大賀候

謹而茲に不遜不禮を顧みず貴下に對し柔道試合を申込むの光榮を得度く一書を呈上仕候是即ち聲名隆々たる貴下に懇請して武道の指南を享受せんとの一念燃ゆるが如きものあればに候此儀御賢察被下度候

    試合條件

一、場所 櫻府バーフアロー公園

一、時日 八月十日より十五日迄

   但し貴下の御指定に御委托申候

一、勝負條件 是又貴下の御指定に委し可申候

一、経費負担 同上

以上の條件を以て御示教を仰度伏て御乞願申上候、追て委曲に關する御協議は該試合御應諾の上御下命有之度奉願上候右貴下の御許諾を仰申候 早々頓首

 七月廿三日   三宅 太郎

伊藤徳五郎殿貴下

とありたりと曾つては講道館の有段者が何人なりとも三宅氏に相手たるべしと宣言したる事もあれば伊藤師範も無論應戰するなるべく斯くして兩雄相闘ふ事とならば眞に面白き取組を見る事なるべし

 

 

 櫻府=サクラメント

 

 

新世界 Shin Sekai, 1916.07.27 Page 3

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●先名二段挑戰

▼三宅氏に回答督促

目下櫻府滞在中の柔道家三宅太郎氏伊藤五段に對し愈々仕合の申込みを發せりとの説あるは既報の如くなるが元來當沿岸には伊藤氏の門弟乃至同門の後進者頗る多く日本武藝家の仕合 一方に門弟乃至所謂弟子存する際は先づ其の門弟乃至後進者と一應手合せするが古來不文の憲法たるを以て曩(さき)に三宅氏伊藤師範に挑戰の意を漏すや伊藤氏講道館在館當時教を受けたる二段先名助一氏逸早く三宅氏に對し挑戰したるも三宅氏は之れに回答せず羅府を出發し住所不定の旅館に就ける爲め先名氏は漸く時機を待つ事としたるが今回三宅氏櫻府滞在中且つ愈々伊藤氏に仕合を申込むの意を發表せるを聞き先名二段は在桑友人に全権を委し之を仲介者として三宅氏に再度挑戰状を送り其の試合回答を促したりと云へば三宅氏にして眞に伊藤氏と仕合の意あらば勿論順序として先名氏との間に一と勝負を見るなるべし

▲仕合條件 先名氏對三宅氏仕合條件は

一、場所時日は三宅氏の自由

二、勝負審判は日本柔術他流仕合勝負審判法の模範たる武徳會柔道勝負法に據る

三、委細は三宅氏應諾の上協定し仲介者は委細協定上兩方の爲め相當の奔走に任ず

と云ふに在り

 

●アド、サンテル

 名前の訴訟

    ▼本物のサンテルより

米國のスポート社會にてアド、サンテルと言へば何人も知らざる者なき盛名を得るに至りたるが此アド、サンテルが實名はアドルフ、アーネストと言ふ者なる事も大抵の人は知り居れり然るに今回正直正銘のアド、サンテルなる者が欧羅巴より帰りて今のサンテルのマネージヤーに向ひ自分の名前をアーネストが用ふる事は自今中止せらるるやうにとの訴訟を起したり而して此本物のサンテルが語る所によれば自分は元レツスラーにて其時のマネージヤーは即ち今のサンテルのマネージヤーなるが自分は其後欧羅巴に行き劇場に現はれて興行をなし居たり然るにアーネストのマネージヤーは戰争の爲自分が米國に帰らずと思ひてにや此名をアーネストに附して頻りに試合をなし居れり余はアーネストに向つてトラブルを起さんため此訴訟を起すには非ず只彼が實名アーネストを用ゐたらば夫にて可なり其理由は自分が米國に來りて劇場に現はれんとするも事情を知らぬ劇場の人々は自分をレツスラーなりと思ひ誤りて大に営業に差支を生ずるため此訴訟を起す次第なりと語れりと

 

 

 真偽や如何? アド・サンテルの前には、ジョージ・サンテルや、グレート・サンテルと名乗る人もいましたが…。

 

 羅府=ロサンゼルス

 桑港=サンフランシスコ

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1916.07.29 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19160729-01.1.7&e=------191-en-10-tnw-1-----------

 

サクラメント

●三宅氏伊藤氏に再挑戰 在櫻中の三宅柔道家は伊藤五段に櫻府に於て試合を挑戰したるに伊藤氏は先名二段をして戰はしめ自ら戰はざらんとし白人の誰彼を撰ばず戰ひつつある伊藤氏が三宅氏の申込みに應ぜざる模様あるより三宅氏は再び公開状を發して伊藤氏の所決を促すと同時に先名二段の試合を拒絶したりと

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1916.08.02 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19160802-01.1.7&e=------191-en-10-jan-71-----------

 

スタクトン (一日)

●三宅柔道一行 は當地試合を終へ本一日愈々桑港に乗込み伊藤五段に直接試合を申込む由

 

 

 日本の雑誌「柔道」2巻11号(柔道会本部、1916)に、吉田興山は次のように書いています。

 

 

之の挑戰状に對して、伊藤五段は、三宅は興業師的な男なれば、戰ふを好まずと言つて之れに應じない。所が三宅側ではよし興業師的とするも、それなれば伊藤がサンテルと戰つた時は立派な興業ではないかと遣り反して居る。

 

 

実際、伊藤も三宅と同様に、サンテル戦の後もレスラーやボクサーとの試合を続けます。それでも三宅とは闘いませんでした。

三宅はサンフランシスコには行ったものの、方針を転換することとなります。

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1916.08.28 Page3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19160828-01.1.3&e=------191-en-10-jan-171-----------

 

●三宅氏拒絶す 滞桑中なる柔道家三宅太郎氏に對し曩(さき)に引分けとなりたるサンテル氏より昨日試合の申込ありたる處三宅氏は目下或る事を計畫中なればとの理由の下に右要求を拒絶したり

 

 

 望んでいたはずのサンテル戦を断ってまで、三宅がやりたかったこととは?

 

 

 1916年9月、三宅はハワイ(布哇)に現れます。

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1916.09.12 Page 4

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19160912-01.1.4&e=------191-en-10-tnj-1-----------

 

◎柔道三段三宅氏來

英國では女學生までが柔道

をやつてゐると同氏は語る

今朝着のマトソニア號で柔道三段の三宅太郎氏が來布したが三宅三段は往訪の記者に向つて語る『余は岡山で生れたのであるが大阪で育ち十六の時から柔道を始めた、英國へ渡つたのは恰度二十二歳の時であるが爾來今日に至る間日本には一度も帰つたことがない、尤も余のホームは英國にあるのである、英國からは獨逸、西班牙、ホーランド、佛國等にも行つた、併し総體に強いのは先づ露西亞人と獨逸人で

▲拳闘になる と英國人や米人も随分強いのがある、英國ではオツクス、フオールド大學、劔橋(けんぶりつち)大學、チヤータハウス大學、ヰーチン大學等の學生に柔道を教授したが仲々熱心で今では初段位の手を持つてゐる者も尠くない、倫敦では女學校の生徒二十一人にも柔道を教へた、女學生と云つても仲々活發で柔道でも普通の運動だと心得て居るから男も同じ事である、英國で柔道の盛んなことはこれに依つて見ても明らかであるが小さい子供迄も

▲柔術といふ 言葉を覺へて柔術とは恐いものだと意識してゐるやうである、これは谷唯雄といふ柔道家が二十年も英國に在つて柔道を吹き込んだ勢であらうが英國では日本の皇族の名を知らない者でも谷と云つたら柔術家として誰でも知つてゐるやうな有様である、余は米國には約二ヶ年滞在してゐた、併し米國人は未だ柔道をいふものを知つてゐないから従つて英國人程趣味を持つてゐない桑港では例のサンテルと試合をしたがサンテルといふ男は相撲の心得もあれば柔道の心得もあるので

▲實際強い男 である、余は今迄柔道で敗を取つたことはないがサンテルとの試合では遂に引分けに終つた、此のサンテルと云ふ男は純獨逸人で躯は小さいのだが頭があると見へて全く怪力を持つてゐるといふより外は無い、純獨逸人と云へば日本人たる余に對して敵愾心を持つて居はしないかといふに決して敵愾心なぞといふ事は微塵も無いのである、元來スポートには國境が無いといはれてゐるだけあつて人種的の敵愾心は先づない、恰度余がサンテルとの勝負で引分けに終つたといふので或る夕刊新聞ではこの勝負は始めから

▲八百長だと 書き立ててゐたがこれは柔道の何物を知らない者のいふことで余としてはサンテルと引分けに終つたのも決して八百長でも何でも無い、サンテルとは引分けとなつてゐるのでこの十一月桑港で決勝試合をやることになつてゐる』云々、尚三宅三段は上陸後直ちに小林旅館に投宿したが當地には約ニ三ヶ月滞在の上今月中には外人力士等と勝負をする筈である

 

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1916.09.13 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19160913-01.1.5&e=------191-en-10-tnj-1-----------

 

●川勝氏は柔道の五段

三宅氏とは舊知の間柄だが

今では到底勝負は出來まい

三宅氏を三段と虚傳したのは前田五段乎

世界的柔道家三宅太郎氏が昨日來布したことは本紙上詳細に報じて置いた通りであるが當地新設の住友銀行主任たる川勝正之氏も柔道に掛けては五段といふ剛の者で氏の語る處に依れば氏は中學校三年の時から柔道を始め高等學校から京都の大學に居る間學校の方と武徳館とで錬り上げ住友に入つてからも續けて柔道をやり今では五段の腕を磨いたのだそうだが氏は三宅氏の來布を聞き記者に語つて曰く

▲三宅氏とは 同年輩ではあるし同じ大阪であるから逢つたら知つてゐる間柄であるかも知れぬ、恰度新聞に出た三宅氏の話に依れば谷幸雄が廿年も英國にゐて今では柔道家として英國に名を轟かせてゐるといふがこの谷君とは余が高等學校時代に勝負をして引き分けに終つたことがある、今三宅氏と勝負をして見ろと云つても余は茲二年間は銀行事務の方に追はれて稽古も怠つてゐるしそれに三宅氏なぞは世界中を柔術で歩く剛の者だから

▲到底勝負は 出來ない併し一度やつてゐるから柔道の心得は決して失はれないやうな譯です』云々、川勝氏が三宅氏の舊知(きゆうち)であるとは奇縁だと今朝道で出くわした三宅太郎氏にこの旨を告げると三宅氏は想ひ出したやうに語る『そう云はるれば川勝氏とは武徳會で屡々逢つたやうに記憶する余と勝負をした覺えはないが逢つたら慥(たし)か舊知といふことが分るに違ひない、今の前田五段や谷君や川勝氏とは武徳館で一緒に落ち合つた連中であるから是非川勝氏に逢つて見たいものだ余が柔道三段とは米國の新聞でも書いたが全く余は

▲三段では無 い、前田五段も余の後輩で實は柔道の段なるものは講道館で鑑定するもので余はそんな鑑定を受けた譯では無し三段位に見られては聊さか迷惑を感ずる次第である、併し余を柔道三段の如く云ひ觸(ふ)らしたのは全く前田五段の奸策かも知ない』云々

 

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1916.09.15 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19160915-01.1.5&e=------191-en-10-tnj-1-----------

 

●柔道の武者修行

三宅太郎氏興味ある経験を語る

小林ホテルに滞在中の三宅柔道は興味ある武者修行談を語る『余と伊藤五段とは或る感情の上の衝突で睨み合ひのやうな有様であるがこの伊藤五段は頗る卑劣な男で余がサンテルとの最初の試合で指を痛め五月(※正しくは六月か)三日に第二回目の勝負をやることになってゐた處

▲伊藤五段が 先にサンテルと勝負をしたこれには深い事情があるのでそれ以來益々感情の行違ひとなり余は桑港新世界社長の勧めで伊藤五段に挑戰したけれ共伊藤は余の挑戰に應じない要するに伊藤との行違ひは勝負をすれば事済みとなる譯だが伊藤が余の挑戰に應じない處は實際卑怯な態度ではあるまいか、大陸では講道館の連中が團體を作つてゐるが海外に出てゐる以上講道館も何もあつたものでは無い海外ではよろしく

▲日本の柔道 として白人を相手に強い處を見せればそれでいいのである、だから余は強ひて日本人より勝負をするよりも白人を相手にすることを望んでゐるのである、伊藤五段なんかに較べるとサンテルは全くゼントルマンである、余が倫敦に居つた時にはオツクスフオールドで大きな家を借り受け日本の畳を百十畳敷き詰めて稽古場としてゐたが稽古に來るのは英國の華族や金持ちの連中で

▲五百人以上 に教授をした余が面目を施したのは巴里で國際相撲大會の開かれた時で恰度その當時は武侠世界の畫伯小杉未醒氏が巴里に居つたが八ヶ國の相撲選手百八十人の内で余は二番の位置を得ることが出來た、抑(そもそ)もこのトーナメント(所謂日本の相撲)は柔道とは大ひに異つてゐるのであるがこの時柔道が非常な助けとなつたチヤンピオンシツプを得ることが出來なかつたのは實に残念で最後にモリスデリヤスといふ男との勝負は一時間四十秒かかり

▲不幸にして 敗を取つた次第であるが日本人として国際相撲大會に二番目の成績を擧げたといふので到る處から毎夜のやうにフラワーを贈られ金にすると五十弗に達する花を外國人から受けた時には流石に得意でした』云々

 

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1916.09.25 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19160925-01.1.2&e=------191-en-10-tnj-1--img---------

 

布哇未【一日限り】曾有の

柔道大試合

□柔道家三宅太郎(百七十斤)對レツスリング、チヤンピオン、フランク、カナエ(二百斤)

□時間制限なく無條件にて三番勝負

□外に番外として尚武館師範北山彌次郎(百四十斤)對エアレキサンダー(百六十斤)藤井新兵衛(百五十斤)對ジエー、マーク(百五十斤(三十分間に三回勝負

來る九月三十日(土曜日)午後八時半場所はスケイチングリンク(フオート街とべレタニア街 元日本相撲のあつた所

□入場料五十仙特別席一弗及び二弗□御來観の上御聲援を乞ふ

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1916.10.02 Page 3

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●三宅太郎氏布哇撰手破る

=喉締め二回腕からみ一回敵は立つ能はず

當夜入場者日白人五千に達 空前の人氣=

桑港より過般の便船にて布哇に來りたる柔道家三宅太郎氏は土曜三十日夜ホノルル市に於て布哇レツスリング撰手フランク・カエエといふ二百斤の剛の者と一切無條件にて試合ひを爲し非常なる人氣なりし、兩士登場するや三宅氏攻勢に出で喉締めを以て二回共二分間にて敵を破り三回目に二十五分闘ひ腕がらみを以て最後の勝利を占め五千の日白人入場者より大喝采を受けたり(布哇特置員特電)

 

 

三宅は結局、この年はサンテルと闘うために米大陸に戻ることもなく、翌1917年までハワイに落ち着いてレスラーやボクサーと闘っていましたが、この間に米大陸では、サンテルに大きなチャンスが訪れていました。

 

 

 

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