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1917.7.5 アド・サンテル 対 三宅太郎 |
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HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES 邦字新聞デジタル・コレクション Hoji Shinbun Digital
Collection Japanese Diaspora
Initiative https://hojishinbun.hoover.org/ Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA) Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA) 新世界 Shin Sekai, 1917.04.26 Page 8 ワツソンビル ●レスリング 別項廣告の如く土曜日二十八日午後九時より當地オペラハウスにてデビスコート對三宅太郎のレスリングある筈なるがデビスコートは本日當支社を訪問し前回サンノゼにて大敗し今回は雪辱戰なれば是非とも勝利を得たしと力味(りきみ)居たり レスリング、とありますが、双方着衣の柔術試合だったようです。サンノゼの雪辱戦、というデビスコートの発言からも、そう考えられます。 広告は同日の「新世界」9ページにあります(華村=ワトソンビル)。 新世界 Shin Sekai, 1917.04.26 Page 9 新世界 Shin Sekai, 1917.05.01 Page 8 ワツソンビル ●勝負中止 三宅太郎氏對デビスコートの試合は見物多からず人氣引立たぬ様子なりしも第一回戰に於てデビスコート始終上より首〆めを試み三宅氏よく足にて防ぎニ十分を過ぎて勝負なく引分けとなる之れよりさき三宅氏は風邪の氣味にて腰部の疼痛甚しき模様なりしも第二回戰となり稽古着に手を掛くるよと見る間もなく巴投げにて二百三十封度(ぱうんど)の大兵を中空に半圓を畫(えが)きてドタンとマツトに落とし電光石火襟深く引把(ひきつか)みしかば首締め見事に極りてデビスコート失神状態となる其間僅かに五秒時かくて第四(※二?)回戦了りしも三宅氏の疼痛甚しく審判官より勝負中止を宣言せしは十時十分なりき 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.05.01 Page 7 ワツソンビル(廿九日) ●柔道試合引分 三宅太郎對デビスコートの試合はニ十分間宛(づつ)三回勝負第一回は無勝負なりしが三宅氏背部に負傷第二回目は僅か半分間内に咽喉締にてデビスコート絶息自失三宅氏の勝なりしが此の時三宅氏の負傷痛み激しく第三回目は中止観客案外少數なりしが試合は好評三宅氏は數日中神開教師宅に滞在特に靑年の爲め柔道を懇ろに指南しつつあり 4月28日、ワトソンビルに於ける三宅対デビスコートの柔術試合再戦。一回戦は時間切れ、二回戦は三宅が首締めで一本取ったものの、三回戦は三宅が腰痛のため棄権し、試合は引き分けとなったようです。 腰痛の原因について、「新世界」は風邪のためとしていますが、「日米新聞」は一回戦で負傷したと書いています。 レスリング試合に続き、柔術戦でも三宅はデビスコートに苦戦した様子です。客入りは今一つだったようです。その町に邦人がどれだけいるかにもよったのかもしれません。 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.05.10 Page 7 ワツソンビル(八 日) ●茶話會 九日前デビスコートと試合して喝采を博せる三宅柔道家は其後毎夜佛教會堂階下にて靑年の爲め特別の厚意を以て熱心に柔術指導の任に當られしが一兩日中に桑港へ帰るに付(つき)今夕同氏の爲め靑年相寄りて茶話會を開きて感謝の意を表すべしと この頃の三宅は、サンフランシスコ(桑港)を拠点としてワトソンビル、フレズノ、サクラメントといった周辺都市を転戦していたようです。 新世界 Shin Sekai, 1917.05.05 Page 7 フレスノ ●三宅柔道試合延期 來る五日市公會堂にてロマノフ力士と試合の筈なりし三宅太郎は腰部負傷のため該試合は延期となり其の代り次週中サンテル對バツセル(伊藤師範と戰たる希臘人)の角力ある筈 三宅は腰痛が癒えず、予定されたロシア人レスラーとの試合を延期せざるを得ませんでしたが、代替試合をサンテルが行う、という所に、2人の関係がうかがわれます。 三宅が米大陸帰還以来、2人は共にサンフランシスコを拠点としていました。2人の間で再戦は既定路線であり、その時機を見計らっていたのではないでしょうか。3月には三宅-デビスコート戦のレフェリーをサンテルが務めたこともあったようです。 この記事の段階では違っていますが、結局サンテルの相手はロマノフになります。 新世界 Shin Sekai, 1917.05.07 Page 7 フレスノ ●サンテル試合日確定 アド、サンテル對ロマノフ(三宅と試合の筈なりし力士)の試合は愈々十日木曜夜市公會堂に於て開催する事と確定せるが兩力士とも斯界の剛者なれば頗る興味を惹き居れり 新世界 Shin Sekai, 1917.05.12 Page 7 フレスノ ●サンテル勝つ サンテル對ロマノフの試合は十日夜市公會堂に於て擧行されたるが二時間に亘る試合の結果サンテルはトー、フオルにて一度勝利を得たり尚二回目は時間の都合にて勝負を中止せリ この後の三宅の動向を、概略のみ記します。 腰痛が癒えたのか、三宅は5月25日、サンノゼにおいてロマノフと柔術試合を行いました。1、3回戦は時間切れだったものの、2回戦では首締めでロマノフを失神させて勝利。復調をアピールしました。 6月2日には、サンオンにおいて四度目となるデビスコート戦を闘っています(デビスコートは5月25日サンノゼでは前座試合に出場していました)。1、3回戦は時間切れだったものの、2回戦では相手を降参させ、試合に勝利しています。 6月16日、三宅はサクラメントにおいてロマノフと再戦。1回戦は時間切れでしたが、2回戦でロマノフが倒れた際に肩を骨折したため、そのまま勝利。観客はわずか80余名と不入りでした。 |
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新世界 Shin Sekai, 1917.06.20 Page 6 サクラメント ●三宅對サンテル試合 ▲獨立祭當日當市に於て 白人角力界の流行兒アドサンテル對柔道家三宅太郎との競技は愈々來る七月四日エル街オーデトリアム會館にて行ふことに十八日双方契約書を取換したる由にて總収入の四割は興行人受取り残額の六割を競技者にて頒ち勝者はその四分三敗者は残額を受取る筈なりと 新世界 Shin Sekai, 1917.06.22 Page 6 サクラメント ●三宅柔道の稽古 來る七月四日サンテルと競技を爲す柔道家三宅太郎氏は目下盛んに高橋柔道を相手に稽古中なりといふ 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.06.24 Page 3 ●サンテル三宅闘はん 例の人氣力士サンテルは三宅太郎氏が櫻府に於て露國相撲を倒したるを機とし立合ひを申し込みたるを以て來月四日獨立祭を期しサクラメントに於て兩名雌雄を決する事となりたりと サンテルと三宅は、ようやく再戦に合意しました。初戦は引き分けに終わっており、いつか決着をつけたいとは互いに思っていたのでしょうが、この相手に勝って勢いを取り戻したいという両者の思いが、この時期にこそ一致した、ということかもしれません。 場所がサクラメント(櫻府)になったのは、不入りだった三宅-ロマノフ戦での損失を穴埋めするためでしょうか。試合日が独立記念日という所にも、プロモーターの意気込みが感じられます。 高橋二段は、かつては伊藤徳五郎側にいて三宅とは敵対した時期もあったはずですが、どういう経緯かこの頃には協力する立場になっています。 伊藤徳五郎は、この頃にはロサンゼルスに行っていて、レスラーとの試合をしばしば行っています。 新世界 Shin Sekai, 1917.06.25 Page 3 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170625-01.1.3&e=-------en-10--1--img--------- ●三宅サンテル試合 曾て羅府に於いて引分を取りたる三宅太郎對サンテル戰は來る七月四日櫻府に於てタイムを制限せずに最後までの勝負を行ふ由なり 羅府=ロサンゼルス 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.06.25 Page 6 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170625-01.1.6&e=-------en-10--1--img--------- サクラメント (廿四日) ●三宅とサンテル 柔道家三宅太郎も力士アドサンテルも共に早や在留邦人の間に有名の人々であるが來る四日の獨立祭の夜當市エル街オーデトリアムで愈々時間無制限に勝負の結着を見るまで試合する事となつたので評判は一層八釜敷(やかましく)なつた三宅氏も敵手が敵手だから今度は餘程要心して居るものと見えて毎朝ヨーロー側の砂地を七哩宛(づつ)走り夜に入ればオーデトリアムで高橋二段を始め白人力士等を相手に下稽古をして居る昨日當社に來ての話では足に豆が出て痛いとの事であつたが夫れでも元氣は頗る旺盛らしかつた 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.06.29 Page 6 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170629-01.1.6&e=-------en-10--1--img--------- サクラメント (廿八日) ●三宅の試合變更 來月四日の獨立祭に三宅對サンテルの試合ある筈なりしが未だ市廳(しちやう)より許可状を取り居らず本日の市政委員會にて可否を決すべき筈なるが多分祭日の試合は許さぬ事となるべけれは翌五日と變更すべしと云ふ 下に広告もあり(試合日は4日のまま)。 新世界 Shin Sekai, 1917.06.30 Page 6 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170630-01.1.6&e=-------en-10--1--img--------- サクラメント ●三宅對サンテルの試合 ▼七月五日に延期す 白人角力界の流行兒アド、サンテルと柔道家三宅太郎氏との試合は來る四日の獨立祭當日エル街オーデトリアム會館(ほーる)にて爲すべき事と決し三宅氏は其後熱心に稽古を勵み居るが當市にては獨立祭當日此の種興行物を許さざる規定となり居るを以て止むを得ず翌五日の夜に競技することとしたり この日の広告では試合日が5日に直されています。 新世界 Shin Sekai, 1917.07.05 Page 3 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170705-01.1.3&e=-------en-10--1--img--------- ●三宅對サンテル 今夜サクラメントに於て試合をなす筈なるが柔道衣を着てのミキスマツチならば三宅氏に勝ち目あるやも知れざれど相互裸体となり米國流のレスリングならばサンテルの勝ちは無論なりと多數の評なれど試合して見ざれば無論確とは言へざる事なり 異種格闘技戦に使われる「ミックスド・マッチ」という言葉は、当時からあったようです。 |
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新世界 Shin Sekai, 1917.07.07 Page 6 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170707-01.1.6&e=-------en-10--1--img--------- サクラメント ●三宅對サンテル試合は引分となる ▼二時間奮闘に勝負決せず ▼臨場の警官中止を命ず 三宅サンテルの試合は既報の如く五日午後九時よりエル街オーデトリアム會館にて開始さるることとなり多數の観客は開始前より押掛け先づ印度人角力選手バサンダ對白人角力選手デスモンズとの角力あり最初三十五分間にてバサンダの勝ちとなり五分間休息して更らに立ち上がつたるが僅か三分にしてバサンダの勝ちを占むる處となり喝采裡にリングを下るや當夜呼びもの三宅對サンテルの角力とはなりたり時に十時十五分過ぎにて兩者とも時間に制限なく勝負を決すべしと宣言し滿場破るるばかりの拍手に迎へられ龍攘虎搏の闘ひは開始されたるが兩者とも秘術を盡して闘ふこと二時間の長きに及ぶも勝敗を決する能はず兎角するうち臨場の警官は時既に十二時を過ぐ市の規則として十二時後競技を許さず中止すべしと催主に向つて命令を下したるより催手側にても理の當然に抗辯し得ず然らば二時間に達するまでタイムを與へよと迫り遂に聴許して十二時を過ぐ十五分まで奮闘したるも決することを得ず止むなく引分けとなりたりされど観客は最初の宣言と齟齬すれど何等異議を挟まず満足して帰途に就きたりと 日米新聞 Nichibei Shinbun,
1917.07.07 Page 6 https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170707-01.1.6&e=-------en-10--1--img--------- サクラメント (六日) ●三宅氏對サンテル勝敗決せず ▼二時間闘つて終に引分 アド・サンテルと三宅柔道とは曩(さき)に羅府で試合して引分けとなつたが今度は時間無制限で勝負の着くまで遣ると云ふ約束で昨夜當市エル街のオーデトリアムに試合した九時開場先づ印度人のバサンダとウードランドのデスモンズと云ふ兩力士が取組んで之は二度共バサンダの勝となり夫れから十時十五分になつて愈々當夜の主人役たるサンテルと三宅との試合が始まつた始める時にサンテルはニ十分宛の試合で二度勝つた者が勝者と云ふ極めだと思つて居るとの事であつたが主催者は時間無制限で勝負の着くまで遣る筈だと主張しサンテルの支配人デビスコートを呼んで時間押問答の末サンテルも夫れなら夫れで宜しい最後まで闘はうと云ふ事になつた此時見物人の拍手は湧くが如きものがあつた而して愈々立ち合ふや互に立ち業の施すべき餘地も無く組んで轉んで上になつたり下になつたりして居たけれども双方共に乗ずべき隙が見出せなかつたものと見え十二時十五分過ぎまで二時間に渉る龍驤虎撃の大活動を遣つたが勝負が着かなかつた其時臨場の警官は此の試合の許可状(ぱーみつと)に七月五日と書いてある十二時を過ぎれば早や六日だから之れ以上継續させる譯には行かぬと故障を唱へ出した夫れで終に勝敗未決の儘立ち別れとなつた當夜の観客約千人何れも骨鳴り肉躍つて見て居るに疲れて仕舞つた勝負は假令(たとへ)決せられずに別れても彼れ丈け遣れば遺憾は無いと云ふ説に一致した闘士は何れも稽古着から流るる如く汗を絞つた双方共に能く彼(あ)れまで我慢したものだと不思議の位である 双方とも着衣の柔術試合で時間無制限一本勝負であったようですが、警官の指示でまたも引き分けに終わりました。 20世紀後半、ニューヨーク市のマジソン・スクエア・ガーデンでのプロレス興行においても、市条例の消灯時間に達したことにより試合の制限時間前でも引き分けとして興行を終わらせる、ということが時々ありました。 デビスコートはサンテルのスパーリング・パートナーだった、とのことでしたが、彼の地元で行われたこの試合では、サンテルのマネージャーを務めていたようです。 三宅とサンテル、真の決着戦は、この後カリフォルニア州の外で行われることになります。 メニューページ「柔道征服 アド・サンテル」へ戻る |