1918.12.18 三宅太郎 対 マリン・プレスチナ

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

Ōshū Nippō / 央州日報 [The Oregon News], (Portland, OR)

Yuta Nippō / ユタ日報 [The Utah Nippo], (Salt Lake City, UT)

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1917.12.12 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19171212-01.1.5&e=-------en-10--1-----------

 

●三宅太郎對

センプラコス

    △當地では久振の試合

▲愈々來る十七日の月曜日夜アリオンホールで日本柔道家三宅太郎氏と希臘生れの白人力士センブラコスとの大試合があると云ふポ市にも六七年前には伊藤師範對ワトソン又は松田對オカノーなどと色々の試合があつて柔道熱が中々旺盛、佛教年會に柔道場を作り福田、山本、大坪君等が初心の者を相手に指南をしたものである

▲榮枯盛衰は時の運で其後何時となく柔道場も物置場と變り柔道も一向に振はなくなつたが沿岸の地の諸市に於ける同胞間には相變らず盛んである特に伊藤師範が南米より帰り三宅太郎が東部より來り坂井四段京野二段が相次いで渡米してから一層柔道熱は勃興して對白人との試合も沙港桑港櫻府羅府等にはあり其の勝負如何は在留同胞の血を湧かしたものである

▲が然し央州の同胞は徒らに新聞で讀み又は人の話に聞くのみで眼前に龍虎の闘を目撃して力拳を入れ日本の誇りとする柔道なるものが白人力士に對して如何なる妙技を發揮するかを知る機會を得なんだ此の點に就ては沿岸の内でポ市は獨り退け物になつた感があつた

▲然るに數日前希臘力士のセンプラコスと云ふ男が當市に現はれて三宅太郎氏に挑戰状を送り中に立つた笠岡の世話で十七日夜試合する事となつた三宅氏はサンテルと羅府では一時間十五分櫻府では二時間十五分闘つて二度共引分けとなり先頃沙港の勝負に於ては運拙く敗を取つたが白人力士にかけては経験もあり中々の強の者である

▲三宅氏の體量は目下百六十八封度センプラコスの體量は百九十封度孰れが勝つか負くるか勝負は時の運とは云へ三宅氏に七分の強味はあるとは専らの評判である因に三宅氏は今日より白人ワイエムシーエーの道場に於て日白人有志の者を相手に稽古に取懸ると云ふ事であるから暇のある人は行つて見る可しである

 

 

央州=オレゴン州 ポ市=ポートランド 沙港=シアトル 桑港=サンフランシスコ 櫻府=サクラメント 羅府=ロサンゼルス

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1917.12.15 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19171215-01.1.5&e=-------en-10--1-----------

 

●五面餘滴 月曜日夜アリオン座の三宅對センプラコスの大試合入場券は既に大部賣れたが地方から態々見に來る人も澤山あると云ふ

▲三宅柔道は講道館の段はない種々の流儀を交ぜた自己流であるが英拂等を巡行して白人試合には大部馴れて居る英國には白人の妻あり子もあるそうである▲センプラコスの稽古を見るに是れも中々強そうで一筋縄では行かぬ男らしい

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1917.12.17 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19171217-01.1.5&e=-------en-10--21-----------

 

●三宅對プラコス

 大試合は今晩

      △アリオン座にて

柔道家三宅太郎對希臘力士センプラコスの試合は愈々今晩七時より第二街オーク角のアリオン座にて興行する筈なるが條件は孰れか一方が負くる迄闘ふとの事にて尚試合前に小試合數番ありと

 

 

 左下に広告もあります。

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1917.12.18 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19171218-01.1.5&e=-------en-10--1-----------

 

●三宅大勝

    △昨夜の試合は

 段違いの勝負

▲三宅對センプラコスの試合は昨夜アリオンホールで興行された三宅は當沿岸でも伊藤師範に次ぐ強の者と云はれておる若し沙港の試合でサンテルに勝つたならば今頃は日の出の勢ひで大に得意になつておる可きであるが前二回引分けを取つて居ながら沙港で負けた爲に敗軍の将兵を語らずで又頗る人氣も落ちた

▲センプラコスは白人レスラーとしてまだ名はないが今ポ市の白人力士の中でも彼を負かすだけの者はあるまいと思はるる兎に角プロフエシヨナルの力士で彼がワイエムシーエーで稽古して居る所を見た人は其の力量の強いのに驚いた位である彼は櫻府で京野二段に勝つた強の者である

▲故に此の兩者が愈々マツトに立つ迄は孰(いづ)れが勝つか負くるかは何人も豫想は出來なかつた唯同胞の人情から三宅に勝たせたい三宅が勝つ可き筈であると贔負目からの獨断はあつた

▲が然し愈々數分間揉み合つた後は勝は三宅にあるものと略(ほぼ)判つた三宅には綽々餘裕がありプラコスも三宅の力に會つてはレツスリングの手に施し様がなかつた三宅も屡々見事に相手を投げて大向ふの喝采を得たがそう容易にマツトを叩かせる事は出來なかつた

▲兩人は暫らく揉合ひ壓合ひ上になり下になり離れては又組み占めつ占められつ團子の如くマツトの上を捏(こ)ね廻つたが互に勝敗を決するに至らず其中に如何なる隙やありけん下に押へられたフラスコが延す腕を逆に取りて上向けに股に挟みて反りたれば何かは以て堪まるべきプラコスはマツトを叩き第一回の勝負は三宅の勝となれり此の間十二分

▲休憩十五分を経て再び取組み第一回の如く互に揉合ひ勝ちは既に三宅氏のものと決まりて見えたるもそう早く勝負を付けては餘りに呆氣なく高い木戸を拂つて雨の降るのも厭はず観に來たお客に濟まずと思ひたるか三宅氏は何度も勝つべき機會はありたるも程よく敵をあしらひ三十分程闘ひたる後終に喉占めにて軍配は三宅に擧つた

▲勝負の決は三回勝負にて孰れか負くる迄十二時迄は時間に制限なしと云ふのであつた審判官は柔道は福田六右衛門氏レツスリングの方はワイエムシーエー體育教師ガーラツク氏

▲本試合の前に餘興番組として玖村對佐藤の柔道取組ガーラツク對某白人のレツスリングの型及び大坪對新井等の試合あり孰れも喝采を博した観客の數は四百餘であつた

▲八百長ではない

▲昨夜の試合は八百長であると云ふ噂が試合の前からあつた然し是れは他人の事は何時も惡く言ひたい奴の虚言で決してそんな馬鹿な事はない三宅とプラコスが遇ふたは今回が初めてでプラスロは是迄四回日本人の柔道家と試合しまだ嘗て敗を取つた事はなく先頃櫻府で京野二段と取組んだ時も腕占めとかいふ手で勝つたそこで三宅も大した事はあるまいと當市迄來て三宅に試合を申込んだのである

▲然し脆くも三宅に負けたがプラスコは悲しい事にはまだ柔道着をつけては経験が足りない占められる機會はあつても是れを施こす術を知らない故に昨夜も試合が濟んだ後レツスリングだけで取組むなら千弗賭けてもよいと辯解して居つた

●三宅氏慰勞會 岡山縣人及有志者は今晩正六時三宅氏大勝の祝旁々南京樓に慰勞會を開くべしと

 

 

 12月17日、ポートランドにおけるセンプラコスとの柔術試合は、一本目は腕拉ぎ十字固め、二本目は咽喉絞めで、三宅が勝利しました。

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1917.12.27 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19171227-01.1.5&e=-------en-10--1-----------

 

 ●再び試合

      △三宅對パーカー

      △正月五六日頃

三宅太郎に破れたるセンプラコスはザヤンバルクといふレツスラーを引張り出して五百弗の賭にて三宅に仕合を申込み三宅は直(すぐ)に快諾を與へたるに如何にしたものか其後何等の通知なく一向音沙汰なければ三宅は大に怒りプラコスの不都合を詰(なじ)りたるにプラコスも力士として大に面目を失する譯なれば好き相手をと探す内フと思付きたるはミネヤポリス市にパーカーといふ二百五封度六尺二寸の強の者ありヘビーウエートのチヤンピヨンとして其の名近隣に轟く怪力士あるに思ひつき直に電報にて交渉したる所オーライとの返事來りたれば正月四五六日頃アリオン座の都合を見計りて愈々取り組む事となり笠岡氏請元となりて諸準備に取懸れり試合の夜は本勝負の前にセンプラコスが一時間を限りて飛入り力士の三人抜きを見する由尚婦人同伴の方は野球と同じく婦人だけロハなりと日の決定次第追つて報導すべし

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1918.01.08 Page 5 (央州=オレゴン州)

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19180108-01.1.5&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10--11-----------

 

 ●三宅再び勝つ

   △昨夜の試合

昨夜アリオン座に行はれたる三宅太郎對パーカーの試合は諸人の期待と違ひて過般のセンプラコスよりも脆くパーカーは二回共三宅に敗れたり兩回共プラコスが最初負けたる同じ逆の手にて三宅は勝ちたるがパーカーは六尺以上の大男にて腕も長く咽締めを施こすは不便なりしと見ゆ一回目は八分二回目は十六分四十秒なりき三宅氏の云ふ所に依ればパーカーはプラコスよりは力もあり大男にて取扱ひにくきも柔道にかけては毫も経験なきものの如しと素人目にはプラスコの方強味ありそうに見えたり試合に先(さきだ)ちサンテルの支配人と三宅の紹介者との間に挑戰に關する言合ひあり三十日間有効なる試合の口約束をなしたるもサンテルは目下市俄古にあり果して實現さるるや否やは未定なり

 

 

 サンテル−三宅戦の口約束あるも試合未定、サンテルはシカゴにあり。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.01.11 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19180111-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

 ●三宅サンテル試合

   ▼目下交渉中なりとか

四五日前ポートランドに於て白人レスラーと闘ひ大勝を得たる三宅太郎氏に對し更にサンテルの支配人より最後の勝負を決せん爲試合の事を申込みたりとの事なるが場所は桑港か羅府に於てせんとの事なるも目下サンテルが市俄古(しかご)に滞在中故同人帰桑の上萬時事を決すと

 

 

 結局、この時はサンテル−三宅戦の話はまとまらなかったようです。

 サンテルがシカゴにいたのにも事情があったようです。

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1918.05.20 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19180520-01.1.5&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10--21-----------

 

ロスアンゼルス (十八日)

 

●サンテル來羅か 日本柔道家と仕合をなしたる以來日米人間に名をなしたるサンテルは近々當市に來り今後當地方にて一旗擧ぐるの計畫にて之れが手始めとして先づ伊藤師範に決戰を申込むべしと

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.06.11 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19180611-01.1.2&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

●サンテル試合不可能

    ▼シーラーと不和にて

一時米國レスリング社會を賑はしたるアドサンテルも東部にをけばカドツク・ルイス・ステカー等の支配人がトラストを造つてサンテルに試合せしめず止むなく又桑港に帰り強敵を探がして闘はんとするもドリームランドのシーラー氏と不和なる爲興行を催す相談にのらずサンテルは爲に敵なきに苦しみ空しく髀肉の嘆をなしをれりと

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.11.27 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181127-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

●ザンテル闘はん

暫くレスリング社會に遠かり居たるアドサンテルは近々試合をなす好機來るべしとの事なるが其理由を聞くに同人はドリーム、ランドリンクのシユラー氏と不和にて試合出來ず東部に行きて一流のレスラーと闘はんとするも彼等は多くツラストとなりて受附けず止むを得ず髀肉の嘆をなし居たるものなるが今回プレスチナと稱するトラスト外のレスラー對手選ばず試合ふ事となりカトラーもテーラーも同人と試合をなすを以てサンテルも亦試合をなし得べしと

 

 

 ステッカー戦の完敗によって人気が落ちたからか、サンフランシスコのプロモーター、シュラーと不和となったサンテルは東部進出を目論むも、当時プロレス界を牛耳っていたと言われる「トラスト」に阻まれて、思うように試合ができなかったようです。

 記事にある「トラスト・バスター」ことマリン・プレスチナが、西海岸・サンフランシスコに来ますが、サンテルとの試合は交渉がまとまらなかったようです。

 サンテルは翌年、中西部のコロラド州デンバーで、講道館の高橋精造二段と闘うことになります。

 

 

「トラスト」については、次のような記事があります。

 

Harrisburg telegraph. (Harrisburg, Pa.)  March 09, 1918, Page 11

https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn85038411/1918-03-09/ed-1/seq-11/

(右から3列目下の方)

 

Plistina to Start War on "Wrestling Trust"

プリスチナが「レスリング・トラスト」に対する戦争を始める

 

 New York, March 9.—Joseph C. Marsh manager of Marin Plistina, aspirant to the heavyweight wrestling title, to-day declared war on the "wrestling trust."

 "Plistina will guarantee to throw Earl Caddock or Wladek Zbyszko twice in 90 minutes, or any other man in the world, the best two out of three falls, for a substantial side bet," said Marsh. "The wrestling trust is trying to freeze Plistina out of championship competition, and we hope to force a showdown."

 Marsh formerly managed the late Frank Gotch, undefeated wrestling champion of the world.

 

 ニューヨーク、3月9日。…重量級レスリング選手権に野望を抱く、マリン・プリスチナの管理人ジョーゼフ・C・マーシュは、今日「レスリング・トラスト」に宣戦布告した。

 「プリスチナが保証しようはアル・キャドックないしウラデック・ズビスコを90分内に二度倒す事、或いは世界の他の如何なる男も、二本先取の三本勝負で、双方相当な金を賭けて、」マーシュは語った。「レスリング・トラストはプリスチナを選手権試合から締め出そうとしており、我々は無理にでも対決する事を望んでいる。」

 マーシュはかつて不敗のレスリング世界王者、故フランク・ゴッチを管理していた。

 

 

 

 1919年2月には、元レスラーのベンジャミン・F・ローラーが「身体文化(フィジカル・カルチャー)」誌3月号への寄稿で「トラスト」を告発。コミッションを創設して業界の浄化を、と主張しました。

 1919年4月、「身体文化」誌のオーナーである出版人ベルナール・マクファデンは、プレスチナを後援して、彼の挑戦試合用の賭け金に充てるために25000ドルを提供しています。

一方、指図に従わないレスラーを排除する「トラスト」の黒幕として名前を上げられたニューヨークのプロモーター、ジャック・カーリーはしかし、「トラスト」の存在を否定。そのアイデアは成功した彼のビジネスを損なわせるために目論まれたものと主張しました。

 ニューヨーク州では1911年にはボクシング・コミッションが活動を始めており、これがプロレスをも管理するアスレチック・コミッションに発展。1921年には、元グレコローマン王者のウィリアム・マルドゥーンがコミッショナーに就任し、改革に乗り出します。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.09.04 Page 9

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19180904-01.1.9&e=01-01-1918-31-12-1918--en-10--1-----------

 

  ロスアンゼルス (二日)

 

●伊藤氏に試合を申込む 今回プレスチナと稱する者伊藤五段に柔道試合を申込み來れり同人は當年二十九歳身長六尺体量二百十五斤と云ふも其實二百五十斤位の巨大なる体格の上幼年よりレスリング社界に人となり今はアイオワ州に於て同人の右に出づるもの無しと云はれ斯界の大選手カドツク始めステツカー、ルイス及びズビスコの四人に對して千五百弗を賭けて勝負を申込む程の豪のものにて伊藤氏が目下アスレチツク倶樂部にて多數白人を教え居ると聞きかかる柔道の達人と勝負を試みんとて申込たる次第なりと伊藤氏起つや否や未定の由なり

 

 

 プレスチナは西海岸に来ました。日本人は伊藤が応じず、三宅が闘うことになります。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.05 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181205-01.1.3&e=-------en-10--1--img---------

 

 柔道何う乎

   レスリングが復活した

    =強い男プレスチナ

▽野口自稱八段を腹の下へ入れて揉みつぶし、伊藤五段を氣絶させ其後伊藤氏に仇をとられたサンテルが、ズビスコ、ステカー等には小供扱ひにされ、上には上があるものだと思つたが、此頃の桑港スポート社會はレスリングで割れるやうの騒ぎをしたのに、下らぬ事から全く中絶されて仕舞つた。

▽然るに今回陸軍の爲のベネフイツト興行でマリオン、プレスチナと言ふ偉ら者と、サンテルを此前一度負かした事のあるチヤレー・カトラーとが一昨夜試合した、プチスチナは自ら天下無敵を傲(ほこ)つて居り、過般もステツカーと二時間半も戰つて引分けとなつたと言ふ人だから強い事は今更でない

▽カトラーとても一流のレスラー随分面白い勝負を見せるだらうと七時半頃にはドリーム、ランドが滿場立錐の地が無かつた、前勝負が終つて九時頃から試合が始まつた、カトラーの方が太い事大きい事遥かにプレスチナに優つて居つたが、其術に於ては到底プレスチナの敵では無かつた。

△プレスチナは何んなホールでも手當り次第に出て來る、頭を敵の頤の下に押しつけそして兩手がカトラーの首を絞めると、カトラーは恰も背骨まで折られて仕舞(しまふ)やうの風になり、ロープに倒れかかるプレスチナは敵の背に跨がりて兩手で頬口から絞つける、それでもホールを取りさうであつた。

△ハマロツクでもハーフネルソンでも手當り次第にホールを取りさうに見へた、斯くしてカトラーは散々に苦しめられたが彼も亦さる者容易には負けなんだ、カトラーはヘツト・ロツクを幾度もかけ是にはプレスチナの喉が絞つて仕舞ふかと見へたが逃して仕舞つた、斯くして第一ホールはダブルリスト・ロツクでプレスチナに勝たれ次いで十分間の休みがすみ再び大試合となつたがヘツド・ロツクで又プレスチナの勝となつた、前のタイムが一時十一分後は廿五分間

△サンテルにも勝つ能はざりし柔道はプレスチにかかつてどうだろうか、ロマノツフは高橋二段が破つたが伊藤五段か三宅太郎か一つプレスチに試合つて見る事は出來まいか大分長くやらぬで一つ大にやらして見たいものだ

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.10 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181210-01.1.3&e=-------en-10--1--img---------

 

●危ない試合だ

      三宅太郎氏と

      プレスチナの勝負

近來米國のレスリング社會で無敵の勇者と呼ばれて居るマリン、プスチナと柔道家三宅太郎氏と十二月十八日にバンクーバーで試合をするとスポート、ニユースは報じたが此試合は三宅太郎氏に取つて實に險呑千萬の試合である

△三宅太郎氏 はサンテルと戰つても勝てなんだロンドスには赤子の手をひねるやうにやられたドムーランドの試合には組附いた計りでロンドスが三宅氏の頭を自分の腹へ當てグーツと引寄せた計りで三宅氏の背骨は危く折れんとした事があるプレスチナはそれ所の話では無い

△一寸頭でも 敵の胸へついたらスーツと敵の頤へもつて行き頸を締めて仕舞ふ腕を取つたら逆にマツトへ腕で押へて仕舞ふ後ろに廻つた敵の頤を兩手でつかまへ直ぐ締めつける千變萬化のホールが取れる人だ前チヤンピオン、ステカーと二時間半試合つて勝負つかなんだ豪の者だ之に對し三宅太郎氏が試合をするとは

△其度胸には 驚く而し其代りには頸の骨も腕の骨も十分錬(きた)えて行かぬと險呑千萬であるサンテルなぞは迚(とて)も々々プレスチナの敵では無い此間サンテルが二時間だけの制限で試合ひを申込んだが降参する迄の試合ならしてやらうと頭から噛みつけた位の男だ三宅氏が之に勝つたら先づ米國で恐ろしいものは無いと言つても善い位だ

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.12 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181212-01.1.2&e=-------en-10--1--img---------

 

●三宅太郎氏の

 敵は又々勝つ

     プレスチナの大勝利

本月十八日バンクーバーに於て三宅太郎氏と試合をする契約をなしたりと云ふマリン、プレスチナとジヤツキ、テーラーとのレスリング試合は一昨夜ドリームランド、リンクに行(おい)て行はれたる第一回は二十三分二十七秒にてテーラーはプレスチナの爲にヘツド、ロツクを以て破られ第二回目は一時三分にてダブル、リスト、ロツクの爲又々プレスチナに勝を得られたり過般プレスチナに破られたるカトラーも一昨夜負けたるテーラーも共に米國一流のレスラーなるが斯くも無造作に破られたるを見ればプレスチナは確かに米國のチヤンピオンたる資格あるものにて之に對し三宅氏の闘ふと言ふ如きは随分危險千萬の事にて大なる怪我にて?でもなくばとは桑港日本人同好家達の風評なり

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.16 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181216-01.1.3&e=-------en-10--1--img---------

 

●三宅太郎試合

     ▼晩香坡にて明後日

米國無敵のレスラー、マリン・プレスチナと三宅太郎氏との大試合は愈々明後日の夜晩香坡(ばんくーばー)にて擧行せらるる事となりたり殆んど土つかずの連勝力士が日本人に負けたとありては夫こそ一大事件なるを以てプレスチナも小敵と見て侮らず注意をなすべしとの事なるが十に一のベツチにても滅多に三宅氏に負くる如き事なかるべし

 

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1918.12.17 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19181217-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1918--en-10--1-----------

 

 ●晩香坡市で

  三宅大試合

  ▲カトラーさへも敗つた

    プレスチナを相手に▼

現今天下無敵と傲つてるプレスチナに向つて三宅講武館四段は挑戰快諾を與へ明夜バンクーバー市のローヤル劇場で勝負をする事となつてるが三宅柔道家は敵はぬ迄も全力を傾注して奮戰すると云つてる意氣丈は蓋し壮なりと云はうか勝負は時の運で三宅が負けるか勝つかは豫言は出來ぬが此プレスチナには伊藤五段も挑戰に應じなかつたのでプレスチナの強いことほレツスリング界で知られ天下無敵と威張つても可い丈けの實力を備へてる力士だ先年桑港で彼の

  ▲九段坂下にでも……

住んでたらしい野口自稱八段を腹の下で揉み潰し一度は伊藤五段を氣絶させ又三宅をも氣絶させたサンテルを子供扱ひにしたカトラーを二時間餘で屈服させた程の強の者だサンテルを屈服させる事を出來なかつた柔道がプレスチナに勝てるか何うかは疑問だが柔道に向つてプレスチナがサンより強いか何うかが見物であると云ふので大分晩香坡在留民の血を沸かしてるとの事だ

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.24  Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181224-01.1.2&e=01-01-1918-31-12-1918--en-10--11-----------

 

◇三宅は大出來

    強敵と引分とは

 ▽天下無敵のレスラー・マーリン・プレスチナと三宅太郎との試合が晩香坡であると發表された時桑港同胞間のスポート同好家の間では三對八のベツチでも三宅の方へ賭けやうとする人は無かつた、一對五十位まで言ひ出した者もあつたが夫(それ)でも三宅の方へは御免だと言つて居つた

 ▽然るに豈に圖(はか)らんや、引分けとなつたとは夫こそ三宅の大出來であつて、確かに男を上ぐること數十層である、晩香坡からの通信を見ると同夜の人氣は非常な者で流石のローヤル座は爪も立たぬ有様であつたと、前座の事は暫く措いて仕舞の模様を見ると

 ▽レフリーは藤田氏とデヴンポート氏之に當り愈々稽古着姿の兩勇者がステーヂに立つと滿場の喝采は破るるばかり、試合はニ十分三回でフイニツシ迄と云ふのだから見堪へは確かにある立ちあつた様子を見ると敵手は膂力頗る偉大、それに長腕を利用して咽喉締にかかり三宅の苦心も察せられたが三宅は得意の

 ▽足技を利用し幾度か危機を脱し又屡々巴投が綺麗に入つたときなど白人も思はず感嘆の聲を放つた、兎角攻勢はプレスチナの方に有利に見へたが三宅が之を外すこと巧妙、又耐久力は驚くばかりで第一回は分(わけ)、斯くて十分の休憩後第二回、又第三回遂に全然分(わけ)となつたが邦人をハラハラさせたのはプレスチナがトー・ホールドで三宅を攻めた時で

 ▽三宅の腕(※足?)は折れて了(しま)ひはせぬかと危ぶまれた位、夫を巧に外した時はホツト息をつかせた、三宅が下に爲つて敵の咽喉締に出たときプレスチナの顔面忽ち紅を潮し上下で締め乍らの對抗は壮観を極めた、三回目にレフリーが後二十秒、十秒、五秒と叫び遂にタイムの聲が掛つて分と決つた時は日白双方ともに大喝采を浴せかけ賑かに閉場と爲つたのが十一時過であつた

 

 

 双方着衣の柔術試合で、引分けをほめられるべきは、三宅よりもむしろプレスチナの方ではないでしょうか。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1918.12.29 Page 8

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19181229-01.1.8&e=-------en-10--11--img---------

 

   シヤ―トル (二十一日)

 

 ●プ氏坂井四段に挑戰

三宅とバンクーバーにて試合し引分けとなりたるプレスチナは千弗のボンドを積んで阪井四段に挑戰し來りし由沙港あたりではこんな芝居に引つ掛りて興行師の獲物になる愚人は一人もなしと風評し居れり

 

 

 プレスチナは三宅戦の前後に、伊藤徳五郎、坂井大輔にも挑戦するも、試合には至らなかったようです。

 

 

 

The Duluth Herald, March 22,1919

 

DULUTH WRESTLING FANS TO

SEE TRUST BUSTER IN ACTION

NEXT FRIDAY AT AUDITORIUM

Marin Plestina Will Wrestle Sanders, Only Heavy-weight Obtainable.

Pupil of Farmer Burns; Was Gotch's Wrestling Partner.

 

ダルースの好角家が闘うトラスト・バスターを見るべきは次の金曜に公会堂にて

マリン・プレスチナが闘おうはサンダース、招き得る唯一人の重量級。

ファーマー・バーンズの弟子は、ゴッチの稽古相手なりき。

 

 … Marsh and Plestina have acrossed America twice during the past eighteen months, the latter meeting and defeating every wrestler who has dared to face Plestina on the mat. As an extra inducement of these trips they have offered $1,000 for any fall any wrestler wouled secure from Plestina. Plestina has not lost a fall in three years and during that time he has met Joe Stecher, Ad Santell, … Taro Miyake, world's champion jiu-jitsu wrestlier; Plestina meeting tha Jap at his own style. … 

 

 (前略)マーシュとプレスチナは過去十八か月の間に米国を二度横断し、後者はマット上でプレスチナと対面する勇気のあった如何なるレスラーとも立ち合って打ち負かした。これらの旅の特別な誘引として彼等はプレスチナから如何なるレスラーが取った如何なる一本にも1000ドルを提供した。プレスチナは三年間一本を取られたことがなくその期間に彼が立ち合ったのはジョー・ステッカー、アド・サンテル、(中略)三宅太郎、柔術世界王者。プレスチナはその日本人とその独特の形式で立ち合った。(後略)

 

 

 左上の記事。その右下には、プレスチナが「レスリング・トラスト」を踏み付ける漫画があります。

 ダルース(Duluth)は、ミネソタ州北東部の都市です。

 

 

 

メニューページ「柔道征服 アド・サンテル」へ戻る