1919.1.18 アド・サンテル 対 高橋精造

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

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Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

Yuta Nippō / ユタ日報 [The Utah Nippo], (Salt Lake City, UT)

Kororado Shinbun / コロラド新聞 [The Colorado Shimbun], (Denver, CO)

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1914.12.25 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19141225-01.1.2&e=-------en-10--21-----------

 

 柔道極意速成教授

  希望者は直接面談を乞ふ

 桑港ポスト街一五三〇樂々館内

電話 ウエスト二八六〇 高橋精造

            (講道館二段)

 

 

 桑港=サンフランシスコ

 

 伊藤徳五郎がサンテル戦の前に練習した相手の中に高橋二段の名がありましたが、彼は伊藤が来る前から、サンフランシスコで柔道を教えていました。

 伊藤−サンテル再戦の前に、インド人(アメリカインディアンか)選手のバザンターに勝利した試合(1916年5月17日)は、以前に紹介しました。その際、既に「サンテル、三宅とも試合せんと準備中」と書かれています(当時、三宅太郎はサンテル戦を巡って伊藤と対立関係にありました)。

この試合については、日本の雑誌「柔道」4巻2号(柔道界本部、1918)に吉田興山が「往年加州で高橋二段が、印度人レスラアとの對戰に敵が餘り亂暴な動作をしたので、上から首締めと見せ掛けながら膝頭で水月を當てて勝つた事があつた」と書いています。

他流試合に向いたタイプの柔道家だったのではないでしょうか。他にも以下のような試合の実績があります。

 

 

 

紐育新報 Nyū Yōku Shinpō, 1915.12.25 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=nys19151225-01.1.3&e=-------en-10--1-----------

  ●柔道終に勝つ

 

サンテル−野口戦後の1915年12月9日、サンフランシスコにてギリシャ人「ブツコス」との柔道試合、三回戦に首絞めで勝ち。

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1916.12.03 Page 9

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19161203-01.1.9&e=-------en-10--21-----------

●高橋二段試合引分

 

 1916年12月1日、カリフォルニア州メアリーズビルにて「バツサンター」と再戦し、引き分け。

 

 

 1917年7月5日、カリフォルニア州サクラメントにて三宅太郎がサンテルと再戦をしましたが、その前に高橋は三宅の練習相手を務めています。

 

 

 

コロラド新聞 Kororado Shinbun, 1917.11.20 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=cos19171120-01.1.3&e=-------en-10--11-----------

●昨夜撃劔開場

  ▲近く柔道の道場をも開く

(前略)シヤイアンより高橋二段をも招聘すべき方針なりといふ。

 

 

 1917年、高橋はカリフォルニア州を出て、ワイオミング州シャイアンを経てコロラド州デンバーに行ったようですが、この間アイダホ州レックスバーグで試合もしたようです。

 

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1917.11.28 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19171128-01.1.3&srpos=19&e=-------en-10--11--

 

  ●高橋二段の仕合

先日加州より愛州(アイダホ)に赴きたる講道館二段高橋精造氏は東京工業學校出身にして巴桑大博覧會當時場内にて柔道を紹介し爾來屡々加州に於て白人レツスラーを相手に競技したるも未だ一回も敗を取りし事なき剛の者なるが來る三十日愛州レツキスバーグに於て同州の撰手チヤーターと競技すべく決定し尚ほ當日の全収入の十パーセントは米國軍事費中に寄附する由なるが何れ當地に於ても名ある相手を得次第競技すべく來鹽(らいえん)すべしと

 

 

 鹽(塩)湖府=ソルトレイクシティ

 

 サンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋博覧会)は、1915年2月から12月まで行なわれた由。

 

 

 高橋はこの後、デンバーを拠点に米国山岳部の各地で白人レスラーと試合を行ない、連戦連勝します。

 

1918.1.23     ユタ州ソルトレイクシティ 「クリストファソン」に裸締めで勝ち

1918.2.20 ユタ州マグナ ギリシャ人「ヂヨン・カラー」に逆手、首絞めで勝ち

1918.3.6 ユタ州オグデン 米国オリンピック選手「ヂヨン・ハイエル」と対戦。絞め技で勝ったらしい

1918.4.12 ユタ州オグデン 米人ライトヘビー級王者「ヂヨージ・ネルソン」を送り襟締めで失神させて勝ち

1918.4.30 ワイオミング州ケメラー(Kemmerer) ロシア人「ゼツプ」の腕を折って勝ち

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1918.05.03 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19180503-01.1.3&srpos=24&e=-------en-10--21-

 

●全勝の高橋二段

 ゼツプを挫く

    ▲卅日キヤマ市に於て

去る卅日ワイオミングキヤマ市に於ける露人ゼツプと全勝の高橋二段の仕合は白人四分五厘邦人五分五厘の割合にて三百餘名の観客ありたるが例に依り前座として白人レツスリング及邦人柔道各一組宛の仕合ありて後愈々ゼツプ對二段の本勝負に入るやゼツプは頸を縮めて警戒怠りなく甚だムツツリしたる取口にて二段は數回投げ付け其裡に敵手の隙を捕へんとせしも規定時間廿分間は既に來り遂に第一回は至極平凡なる引分けに終る斯くて十分の休憩後第二回戰に入るやゼツプは敵易しと計り組付くや否や電光の如く二だんは敵の左腕に逆を取りて放たず敵も亦之を堪えてもぎ取らんと強力を入るる瞬間ポリツと音してゼツプの肘關節の骨は無惨にも露出し終に彼は三度び起つ能はず軍扇は全く高橋氏に擧がれり

 

 

1918.5.22 ユタ州ヘルパー ギリシャ人ピーター・プルスコを絞めで失神させて勝ち。試合前には短銃で脅されたと言う

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1918.05.24 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19180524-01.1.3&e=-------en-10--1--img---------

 

●短銃に脅嚇され

 高橋二段怒る

去る二十二日の夜ヘルパーに於て高橋二段對希臘角力プルスコの仕合がある約一時間計り前相手のプルスコは破漢体の同國人二名を伴ひ高橋氏の室に至り今夜の試合に負けて呉れと申込んだので二段は其んな馬鹿な事が出來るか苟くもプロフエツサーの名譽に關すると二言となく彈ね付けると今度は其破漢体の二名が向きになつて其んなら何うか分けを取つて遣つて呉れ若し之も聞かぬとあれば此れだぞ、と威猛高かにピストルを取り出し二段の返答如何にと嚇したるも、二段は少しも驚からず、分けを取る伎倆があつたら分けにして見ろ、四の五の言はずに万事マツトの上を見ろと叱り付くれば破漢等も止むなく退き下がりたるもイザ仕合時間が來ると、プルスコは米國角力でなければ遣らぬと言ひ出し、観客は入場料返せと騒ぎ出し、結局柔道と角力と各一番づつを遣り三番目も米角國角力を取る事とし第一番を柔道と決め漸くプロスコも之を承諾し、マツトに上がるや否や激怒せる二段は釣込足にて彼を倒し渾身の力をこめて抱ひ込みの手にて絞め付ければ相手は僅か一分間以内にて絶息し種々介抱後蘇生したるも殆ど夢中の態にて第二回などは思ひも寄らず全く勝利は高橋氏の手に帰せりと

 

 

1918.5.27 ユタ州ガーフィールド 「フイリツプ・ヂヨーダン」に腕の逆で勝ち。「ラツセル」なる飛び入りにも腕の逆で勝ち

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1918.06.17 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19180617-01.1.3&srpos=26&e=-------en-10--21--

 

●二段の競技は

   ▲エバンストンに變更

去る十五日ワイオミング州ラツクスプリングに米國流角力にて仕合すべかりし高橋二段は先週同地へ乗込んで居つた處が同市は前年ボツキシング仕合があつた時非常な紛擾を起した前例に鑑み同市長は其れ以來斯かる競技を禁止してゐるので今度の試合に随分力コブを入れた白人が再三歎願したが何うしても許可されず遂に此仕合は中止となつた其代り廿日に

   ▲エバンストンで

     仕合ふ事に決定▼

した、高橋君は常に云ふてる他流仕合であらうと乃至は負けやうと勝たうと其んな事に頓着せずに仕合なければ今日より尚ほ進んだ科學的の柔道を發見する事が出來ぬ斯ういふ方針で自分は何流とでも仕合する又従來我が柔道家でボキシングと仕合したものは極めて成績惡く前年米國軍艦の選手と我柔道家と東都で勝負をした時も我柔道家は一度び鉄拳を喰つて氣絶して了つたと云ふ有様自分は今度新聞に廣告してボクサーを見付け之に對する防禦術を發見したいと思うナーに數回死んで見なければ奥儀は發見されぬと意氣常に壮烈である

 

 

 高橋は実際、後にボクサーと異種格闘技戦を闘ったり、自らボクシング戦を試みたり等しています。

 

 

1918.6.20ワイオミング州エバンストン 「デモー」にレスリング(ピンフォール)、柔道(逆手)で連勝

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1918.09.11 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19180911-01.1.3&e=-------en-10--1-----------

 

 ●高橋二段の近況

先日シヤイアンに於て自働車の過失にて軽傷を負ひたる高橋二段は平癒後格州傳馬市に出で目下同地の英字新聞に廣告を以て世界に於けるヘビーウエーの何人とも闘はんと挑戰しつつあるが殊にアー、ルキヤドツクとたたかはん事を希望し元氣頗る旺盛なりと云ふ

 

 

1918.9.27 コロラド州デンバー ロシア人「コンスタンチン・ロマノフ」に判定勝ち

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.01.04 Page 8

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190104-01.1.8&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

  ソートレーキ

 

  ●高橋對サンテル

   ▼新春の大試合は傳馬にて

高橋講道館二段は去月中旬傳馬にて白耳義(べるぎー)角力ハリーデニスを倒したるにより豫て同試合の勝者に挑戰し置きたるサンテルは愈々新年早々高橋氏と同市に於て仕合ふ事となれりサンテルは沿岸にて曾て伊藤五段を敗れる快力あり多少柔道も心得居る男なれば同地の同胞は皆力瘤を入れ同試合の期を待ち居れりと二段は同試合後傳馬(でんばー)を引き揚げ再び當市に來る豫定なりと云ふ

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.01.14 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190114-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

  ◆高橋二段と

  サンテル試合

    來る十八日山中部にて

    △是も危ない勝負

日本から來た柔道家の内で一番成績を得て居るは講道館の二段高橋精造氏である氏は前に桑港佛教年會の道場で教授して居たから同胞が善く知つて居る加州に居つた頃は先輩が頻りに強敵と争つて居た爲高橋氏には善い敵と組み敷く機會が無かつた

△タツタ一度 プスコスと言ふ希臘のレスラーと闘つて見事に喉締めで勝つた事は好角家が今尚記憶して居るプスコスは三流四流のレスラーではあるが太平洋沿岸一時は名を成した男だ此男老巧の武者で力も高橋氏よりは強かつたが何の苦もなく高橋氏に負けた

▲高橋は其後 インターマウンテン地方で連戰連勝をして居る其内で相當に名の賣れて居たのはセツプ、ネルソン、クリストフアーソンなぞ言ふ連中があつたが是等は一般レスラーの社會から見ると大した者らでは無し勝ても餘り威張れる方では無いが高橋氏のレコードに光彩をそへたは有名な

▲ロマノフ を負した事だロマノフの弟は平凡だが兄はサンテル級のレスラーで技術の千變萬化はサンテル以上と思ふ位である而しサンテルの方がねばり強い事頭の働きの利く事練習の積んである所がロマノフ以上で従つて勝もサンテルの方に多い高橋氏が今度サンテルと山中部で試合ふと言ふ事は大した強敵と言はねばならぬ

▲サンテルは 伊藤と一勝一敗少くとも太平洋沿岸には及ぶものがない三宅太郎氏も遂に破られた程の男だ高橋氏が之に勝てたらば確かに柔道のために氣を吐くものだ近來芝居氣を以て途方もない強敵と試合をする者がチヨイチヨイ聞えるが高橋氏は眞面目の人だから無論斯ることは無いと信ずる又試合つても格別の不釣合とは思はないさて此勝負はどうなるか見ものである

 

 

 「近來芝居氣を以て途方もない強敵と試合をする者」とは、マリン・プレスチナと闘った三宅太郎を指すのでしょうか。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.01.22 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190122-01.1.2&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

 ●サンテル日本行

太平洋沿岸に匹敵する者なきレスラー、アド、サンテルは日本に赴き相撲及び柔道家と伎倆を比べん爲め遠からず渡航せん計畫にて夫々準備中なりとの説あり

 

 

 サンテルの日本行きはこの頃既に計画があったようです。

 

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1919.01.20 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19190120-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10--21-----------

 

●サンテル對

  高橋氏引分

   △十八日傳馬にて

サンテルと云へば中西部以西に於けるライト、ヘビーの米國角力チヤンピオンとして知られたる斗りでなく彼は柔道を解し居る点に於て米國力士中恐らく一番だらうと日本柔道家間には評判ある嘗ては伊藤師範を氣絶させ二度目に伊藤氏の爲めに復酬氣絶させられた以外三宅柔道家も沙港の酒井四段も皆負けてるそして彼は未だ柔道の眞價が充分解せぬから近く日本へ行つて著名な柔道家と試合をする程に氣込み先づ其前に米國の日本柔道家を倒して了はなければならぬと云ふので加州より當地方に懸けて未だ負けた事のない講道館二段の高橋精造君が先日傳馬 にて

 △ロマノフと勝負

を争つた晩電報を以て此試合の勝者に挑戰すると申込んだので同試合は遂に引分けとなつたけれどもロマノフは嘗てサンテルと試合つたこともあるので高橋氏が應戰する事となり去る十八日の夜同市ベーカー座に於て愈々兩者の試合は開始された譯であるサンテルは体量百八十五斤身長六尺で筋骨は逞ましく發達し而も其の技倆軽快なる事普通レツスラーの到底及ぶ處でなく一般同地方同胞は到底高橋氏が勝ち目がないと悲観しながらもドシドシ後援に押しかけ多數の入場者があつたが高橋氏は一般の豫期に反して強く常に優勢であつたけれどサンテルは始終守勢を取つて警戒し遂に既定のニ十分宛三回引分けを取るに至つたとの電報昨朝本社へ到着した何れ詳報を俟つて再報することとせん

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.01.23 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190123-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

 ◆高橋とサンテル

     及びサンテル日本行

▽高橋二段がアド、サンテルと傳馬(でんばー)で分けの勝負をなした事は其節電報にあつた通りであるが、昨日其試合振りを支社から通社してよこした、同好家の爲、否々只に夫のみならず柔道對レスリングと言ふ問題の爲に趣味があるから一寸紹介して置かうと思ふ。

△見物人は日白人約千三百名と言ふ大入り、さしものベーカー劇場に空席が無かつた、彌次隊應援隊の騒ぎも凄じい者だつた、ゴングが鳴ると兩人の試合は始まつた、高橋二段は、講道館一流の擲げ業で以て、擲げたの云々云々、夫で以て先づサンテルの度膽(どぎも)を抜かうと言ふ戰畧であつたと見へる。

△大向ふの喝采は大した者で、何となく心強い感があつたがやがて組打となると兎角サンテルが上になり暫らく捩ぢ合つて居る内に高橋は辛うじて敵の腕の逆をとると見るや曳(えい)と計りに萬身の力を集中してグーツと撚つたサンテルの腕も折れてはしまはぬかと滿場總立ちとなつた

△敵もさるもの呼吸を窺がつてグイト引いたサー大變猛虎の鎖りを離れたやうな者で飛附いて來るが否や高橋を絞めて來た大力無雙のサンテルが一生懸命に絞めるのだから堪らない高橋も稍々(やや)苦悶に見へたがゴングが鳴つて休憩時間が來た

△第二回目の試合には高橋又も敵の逆をとつたが苦もなく抜けられたサンテル又々喉絞めにかかつて來た而しお互ともホールを取る事が出來なんだ斯くして暫時休憩第三回目の試合となり相方様々の手を出したが無勝負で終つたとの報である若し是だけの手であつたとすれば少々疑問が起らざるを得ない正直の高橋二段金銭に慾の無い高橋氏だから是でもさうかと信じられる誰かのやうな興行師なら何故にトーホールが出來なんだか聞かねばならぬ

△夫は先づ夫としてサンテルは愈々日本に行くさうだ行つたら日本の相撲界柔道界を沸かす事だらうレスリングスタイルになら日本に勝てる相撲が幾人あるか勝てる柔道家が何人あるか面白い事になるだらうと思つて居る

 

 

 誰かのやうな興行師」とは三宅太郎を指しているのでしょうか。三宅には、引き分けや曖昧な決着の試合が多いことを以って八百長を疑う声がありました。

 あるいは欧米で長く興行界に慣れ親しんだ三宅の言動が、一部の在外邦人にどこか嫌われる所があったのかもしれません。

 

 

 

ユタ日報 Yuta Nippō, 1919.01.24 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=ytn19190124-01.1.3&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10--21-----------

 

●大試合詳報

     ▲一時間の奮闘引分

     ▲再試合は先方拒絶

去る十八日夜傳馬ベーカー座にて行ひたる高橋二段對サンテルの大試合は勝負付かず遂に引分けとなりたり此日朝來田舎よりの人出甚だ多く白人側の看客も打混りてベーカー座は滿員となる程の盛況を極め従來になき大入りにて何れも手に汗を握りて今夜の勝負如何にと待ち受け早きは一時間以前より入場したるものありき

前試合としてアンダーソン對ウヰリスの拳闘及び福井對加藤の柔道ありて後高橋サンテルは破るるが如き拍手に迎へられてマツトに立りサンテルは同階級の中では世界無雙の角闘家程ありて筋肉の發育美事にて小兵ながらも百八十斤に餘る血氣の若者見るからに雄々しく高橋二段の敵としては一見したる所六分の強味を覺えしむ高橋二段も此勝負は彼れがタイトルを定むる分け目の試合故日頃の攝生宜しきを得てロマノフと戰ひたる時よりは元氣一段充實して鬼をも拉しがん元氣を示したり

  ▲第一回戰雙方共

斯道の秘術を盡し高橋二段はロマノフの時と異り稍攻勢に出で數回敵を投げ組みつ敷かれつ立派な業を示しつつ隙を得て腕の逆を取り金剛力を揮ひて締めたるも強力無雙のサンテルは危機一髪の間に之を戻して却つて喉締めの攻勢に出で總立ちとなりたる観客にアツと言はせたり

  △第二回戰も前回

と同じく高橋は腕の逆及び喉締めを試みたるも効なくサンテルは得意のシザーホール及び喉締めの秘術を盡して戰ひたるが遂に勝負なし

  △第三回戰にては

サンテルも獅子奮迅の勢にて攻勢に出で如何にもして勝敗を決戦とし例のシザーホールにて頭部を締めたるも剛情我慢にては名代の高橋なればサンテルの得意の技も功を奏せず却つて高橋に腕の逆を一回喉締めを一回捕られてあわや采配は高橋に上るよと見えしがサンテルも去るもの遂に苦境より脱して再び始めの立ち業に返りたる内ニ十分の規定の時刻來りて引分けとなりたり斯くて待ち受けたる高橋對サンテルの試合は勝負なくして終りたるが今回の高橋の態度は至極立派にてサンテルとも言はるる勁敵を向ふに廻はして斯程の業を試みたるは一千餘名の看客何れも滿足せり

サンテルはリンコルンに向け本日出發する筈なるが同地にてジヨンフレスクと試合の約束ありと猶決勝戰につき高橋二段よりサンテルに申込みたるが當分の間試合を拒みたりとの事なり

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.02.04 Page 6

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190204-01.1.6&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

  デンバー

●高橋サンテル

 試合に就て

  デンバー 大神紫郎

記者足下、去る廿三日發行御紙三面に高橋對サンテルのデンバーに於ける仕合の御報道中末段左の意味の數行を見ました

 若し是だけの手であつたとすれば少々疑問が起らざるを得ない正直の高橋二段金銭に慾のない高橋氏だから是れでもさうかと信じられる誰かの様な興業師なら何故にトーホールが出來なかつたか聞かねばならぬ

以上の(…不明…)質問でもないのは勿論であるが實際當夜の仕合を目撃せずして單に此の報道のみを見た讀者は自ら記者同様一種の疑惑を懐く事と思ふ此れは當地の通信簡に過ぎたのと引分と云ふ結果のみを重視する當方からの誤解なるを思ひ以下重複の繁を厭はず該仕合の詳細を述べ結果は引分に終りたるも當夜の兩勇は相異れる立場より互に必勝を期し堂々死力を盡して戰へる兩氏の名譽の爲に特に當夜審判の一人として立合ひたる余が敢て此稿を綴つた所以です

  仕合詳細

第一回、高橋氏最初膝車と巴投とで甘(うま)くサンテルを投げ付けたが敏捷なる彼れは直ちに立ち上つて却而袖からみで高橋氏を巻き込んだ手練は誠に御手ぎはであつた然かし高橋は此機を利用して倒れ乍らに敵の襟首を後より握り兩足を敵の胴にからみ首〆に攻めた此時流石のサンテルも見る見る顔色變はり既にマツトを叩くかと観衆も一時片唾を呑んだが敵もあるものヂツト堪へつつ左手にて胴にからまる高橋の足を握り右手にて襟にからまる高橋の手を持ち上げつつ滿身の力を込めて振ひ立つた有様は實に雄々敷武者振であつた暫らく揉み合ふ内サンテル素早く高橋の足を抄はんとして果さず第二の巴投見事に極まつて高橋氏を押へ付け頻りに首〆を試みたが高橋は巧に顎を落して之を防ざ機を見出して敵の腕を手猿(?)に取つた此時も九分通り迄は極まつたのであるが剛力無双のサンテル克く堪へつつ高橋の込めたる力の少しく倦みたるを窺ひ捕はれたる手の方面に体を捻ぢ廻しつつハネ起きて再び元の位置に復した之れより約四分間捻ぢ合揉み合の裡に規定のニ十分は來た

第二回、サンテルは初回の苦戰に高橋氏の蔑(あなど)るべからざるを覺(さと)れるものか自重して容易は攻めず高橋氏も大事を採つて動かず兩者は暫し睨み合の態に見へたがかくては果てじと高橋巴投を試みしが極まらずさしつたりと見る間にサンテルは体の崩れたる高橋の上に掩ひかぶさりたる儘又も首に攻め來りたるも高橋氏は常に兩足を敵の内腹に當てて防禦に努めつつ隙を狙ひて敵の左手逆を取つたが之れも充分極まらぬ間に振りはなされ暫らく揉み合ふ内上になつたるサンテル(…不明…)高橋氏の胴を挟み首を攻め(…不明…)ルリと自体を一回轉じて逆に押へ込みながらストラングルホールドを試みた此時豪情我慢の高橋は危く敵の術中に陥りつつも静かに堪へたり(續く)

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.02.05 Page 9

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190205-01.1.9&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

  デンバー

●高橋サンテル

 試合に就て (二)

  デンバー 大神紫郎

高橋は機を見て之れを破り立ち上つて腰投に敵を倒し再び首締を試みて果さず却而(さて)敵の左腕に右足を挟まれたが元來足効の上に如何なるトーホールド(トーホールドに四種あり)も効力なき高橋氏には何等の痛痒を與へず兎角する内如何なる隙や見出しけん高橋は敵の右腕を逆に取つた間一髪のタイムの合圖は心惡かつた

▲第三回 兩勇立ち上るやサンテル素早やくも飛び込んで高橋の兩足を抄はんとせしが巧に逃げられ再び袖がらみを試みて果さず却而高橋の腰車に見事に投げられ首に巻き付かれたる兩手を拂ひのけつつ又もストラングルホールドに高橋を苦しむ此の時も用意周到なる同氏は常に兩手を以て自己の襟首を握りつつ堪ゆる事數分機を見て起き上るや巴投を以て敵を倒し首を攻めたるも強力のサンテルに捻じ返へされ又も不利の地位に陥りたるを見る間に敵の右手首は高橋の兩足に挟まれ稍々暫らくは自ら有利の地位にありながら施すべき術なく流石業士のサンテルも當惑せる面持なりしが隙を窺ひ挟まれたる右手を抜くと同時に又もクルリと廻轉して高橋の首を攻めたが此時早やくも後方に廻りたる高橋は敵の襟首を左手に握り右手を以つて敵の右腕の逆を取りつつ右足を添へて極めに樹つた時惜しくも規定の時間になつた、かくして此仕合は引分に終はつたのである

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.02.06 Page 8

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190206-01.1.8&e=01-01-1918-31-12-1919--en-10-tnw-1-----------

 

   テンバー

●高橋サンテル

 試合に就て (三)

   デンバー 大神紫郎

▲以上當夜の仕合によつて兩者の實力を比較するに業とヘツドウオークとは慥(たし)かに高橋氏サンテルに優り体力と力量とは前者は遥かに後者に及ばざるものがある而して兩者共自己の長短を能く辨(わきま)へ自己を護りつつ敵の弱點を捕ふる伎倆に至つては兩者相伯仲の間にあるから廿分宛三回位の仕合にては容易に其の短所の爲めに見苦しき敗駆を取るものではない當夜サンテルの危地に陥入りたる事前後四回其内二回共剛力と我慢とで克く是れに堪へた後二回はタイムの來た爲めに救はれたのである一方高橋氏は二回危地に陥入つたがヘツドウオークと我慢とて切り抜けたのである

▲當夜の仕合振にては一見高橋氏に六分の強味があつた様だが同氏は仕合前に十分の練習を積んで居るに反しサンテルは長途の旅行に疲勞したると頓(とみ)にハイエンベーシヨンの當地に來たなぞの不利もあつたので今回の仕合の成績のみを以て俄かに彼れの實力を公言する事は出來ないが要するに柔道勝負としての實力は五分五分と見るが至當の判定である而かも勝敗を決するものは一つに當夜の運であらうニ三回の終りに於いて二度迄も逆を取りながら時間に制限せられて敵の甲を手に得ざりし高橋氏は慥かに當夜の運に托かつたのである

因に仕合後高橋氏より再三決戰仕合を申込みたるもサンテル何を咸じてか終に承諾せずしてポートランドに去つた彼れが當地を發つ前余に語つた處によれば高橋は豫期以上の強敵である今後萬一彼れに敗るれば従來の金看板に傷が付く殊に渡日前の今日此頃は一層自重せねばならぬのだそーだ之れに關して態々ロスアンゼルスの某氏より今回の仕合には是非とも必勝を期せとの電報をサンテルに送つたそーだが果して然るか(終り)

 

 

 

 高橋はその後、三段に昇段しますが、外国人レスラーとの闘いを続け、サンテルとも再戦しています。ハワイではボクサーとも死闘を繰り広げています。その段位以上に他流試合で力を発揮する柔道家だったようです。

 1928年、高橋がシアトルにおいて殺人罪の嫌疑で収監された、との報道がありました(ハワイ報知、同年1月13日号)。今の所その真偽は未確認ですが、この後その活躍を報じる記事も見つかりません。何があったのでしょうか。

 

 

 

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