1919.4.3 伊藤徳五郎 対 テッド・タイ

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

Ōshū Nippō / 央州日報 [The Oregon News], (Portland, OR)

Zaibei Nihonjinshi / 在米日本人史, (San Francisco, CA)

 

 

 

 アド・サンテル対三宅太郎の5度目の対戦について書く前に、久々に伊藤徳五郎の動向を記しておきます。

 1916年、南米からサンフランシスコ(桑港)に来てサンテルと闘った伊藤は、1917年にはロサンゼルス(羅府)に移り、道場で柔道を教えながら、盛んに興行に出て白人レスラーと闘っていました。

 その様子は、雑誌「柔道」(柔道会本部)や、「冒険世界」(博文館)、「武侠世界」(武侠世界社)により日本にも伝えられています。

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1919.04.04 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19190404-01.1.5&e=-------en-10--1--img---------

 

   雑 報

●柔道衣を用ゐず

 勝つた伊藤五段

   羅府に於ける昨夜の試合

   當市出身選手タイ氏敗る

▲陸軍相撲教官 としてメツキリ名を擧げたポ市出身のレスラー選手テツド、タイ氏と嘗つて當地に道場を持つて居た講道館五段伊藤徳五郎氏とは昨夜加州羅府に於て大評判の試合をした、一方はサンテル其他の大選手等を負かした伊藤氏、他方はミドルウエートのレスラーとして日の出の勢ひあるタイ氏の事とて同地

▲日白人間 に大人氣であつた其試合の第一回は米國流のキヤチアズキヤチキヤン角力にてマツトに兩肩を付ける迄闘ふ事、第二回は双方柔道衣を着て參つたと云ふ迄争ふ事になつた、タイ氏は此勝負に勝てば愈々

▲西部地方の チヤンピオンたる肩書を得、且つ桑港のオリンピク倶樂部なる米國有數の運動倶樂部に教師として招聘されるのであるから多數の弟子を相手に最近羅府に於て稽古を勵げんで居た

▲伊藤師範 の方では柔道衣を着る第二回目は無論タイ氏を眼中に置いてないが、何しろ強力の彼れを裸かでレスリングの相手としなければならぬので第一回の試合には十分に用心をして居つた、尤も伊藤師範はポ市に在つた當時にレスリングも拳闘も名教師に就いて學び拳闘の方は當地選手としての免許迄持つて居る諸藝兼ね備へた達人である

▲昨夜前坐の面々 レスリングの試合あつて後此兩虎は拍手に迎へられリングの中に現はれた、タイ教官の方では得意のトーホールドやハンマロツクの手を以て師範を苦しめんとしたが師範は柔道衣なき相手を得意の投げにストラングルホールドに依つて相手を押へ

▲僅か六分二十九秒 を以てタイ氏の兩肩をマツトに据ゑ付け之れを破つたので観客総立となつて場内割るる許(ばか)りの騒ぎであつた

▲相手は逆手 に捻ねられたる爲め負傷し第二回の柔道試合をなす勇氣もなく試合中止となり行司は伊藤師範の全勝を宣して日本人観客は萬歳を唱へたと

 

 

 ポ市:オレゴン州ポートランド

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1919.04.06 Page 6

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  ロスアンゼルス (四日)

 

 ●伊藤師範大勝

  ▲僅か六分間で引下がる

伊藤師範對白人力士タイとの眞劍勝負の仕合は三日夜オリーブ街と七街なるアスレチツク倶樂部大運動場に於て擧行されたるが観覧者は上流の白人の外は全部同胞にて無論白人の方多數にして八時前既に滿員の光景を呈し二千五百人に達し最初伊藤師範の門弟なる日白人の柔道仕合三組あり愈々双方より伊藤氏及び好敵手タイの現はるや日白人観覧者より伊藤タイの呼聲を浴せかけられマツトの中央に兩勇の握手を交換するや伊藤師範の立ち業美事に敵を幾回となく打ち投げ恰も手玉に取るが如き態度なりしが敵もさる者仲々強者にてよく伊藤氏と闘ひたるが時こそ熟したりけん伊藤氏の猛然打ち倒れたる敵に乗りかかると見るや忽ち敵は伊藤氏に油断さするの手段なりしにやマツトを叩き敗戰の意志を示せるより伊藤氏は未だ咽喉締めにも行かざるに不審とは思ひしもマツトを叩き居る者を何時までも押へ置く譯けにもならず少し其の手を緩めんとせしに敵は此の時こそと忽ち態度一變し伊藤氏の足を捕へトーホールドに出でんとせしより伊藤氏カツトばかりに怒り一息に左手の逆を取り金剛力にてしめたる爲めさすが大言壮語せるタイも到底叶ふべくもあらず脆くも僅か六分間と幾秒かにて大敗したる次第なるが観覧者には誠にあつけなき勝負にて白人間より誰れの勝利なりやと大聲を擧げたる位にて審判官は伊藤氏の勝利なりと宣言せるを聞くや同胞側は勿論白人側よりも大喝采をなせるも遂に敵は逆を取られたる左手の痛みに堪へず第二回戰をなすの勇氣なく引き下りたるが敗将も其のまま下がるも男らしくなしと思ひけん近き内に是非復讐戰を挑み無料にて観覧せしむべしとの言葉を後にすごすごと仕度所へと引き下りたりと云ふ

 

 

 ロサンゼルスにおける対戦。レスリング・ルールでの一本目、伊藤がピンフォール勝ちした際に、腕を極められて負傷したタイは、双方柔道着をつけて行われるはずの二本目を棄権。混合試合に勝利した伊藤は、裸体でも強かったようです。

 タイは後にも、柔道着をつけない試合を三宅太郎と闘っています。

 

 

1922.3.22 三宅太郎 対 T・タイ

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW140223/

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.05.19 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190519-01.1.3&e=-------en-10--1-----------

 

●黒人拳闘家の渡日

     伊藤師範 世話にて

黒人拳闘家世界のチヤンピオンとして有名なるヂヤツクヂヨンソン氏は今回柔道師範伊藤徳五郎氏の世話にて渡日せることに決定したが渡日の上日本内地を巡行すを目的にて今夏當地より出發すべく當地に於て仔細旅程を取定むべしと

 

 

 當地」はサンフランシスコ。しかしジャック・ジョンソンが来日したとは聞きません。

 

 伊藤徳五郎は1919年冬から1年弱、かつて自分が道場を開いたワシントン州シアトル(沙港)に行っています。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.12.22 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19191222-01.1.2&e=-------en-10--1--img---------

 

  伊藤師範

   闘 は ん

    ウヰリアム氏と

先日當地を経由して沙港に行きたる伊藤師範は同地第一街のクリスタルブルガに於て桑港のアル・ウヰリアム氏と仕合をなす事に決し居る由ウヰリアムは體量二百斤舊(もと)桑港オリンピツク倶樂部のレスリング師範を勤め又軍隊のレスリング教官をもなし居り現に桑港に體育場を所有し柔術レスリング其他の運動を教授し居る強力者なるが伊藤師範の敵には非ずとの評判あり

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.12.27 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19191227-01.1.7&e=------191-en-10-tnw-11-----------

 

  シヤトル(廿ニ日)

 ●伊藤師範負傷

伊藤師範は道場にて劇(はげ)しき稽古中一昨夜誤つて脚部の關節を折り今夜の試合を爲す能はず試合は自然延期となれり東條ドクトルの語る處に依れば關節に血潰の滲溜(ざんりう)しあるが爲め二週間後ならざれば試合するまでには恢復せざるべし去れば試合は正月十日頃となるべし

●三宅太郎挑戰 三宅太郎はベリングハムより電報を以て伊藤師範に對して挑戰したり

 

 

 この時の三宅の挑戦は、ちょうど伊藤が怪我をした時で間が悪かったようです。

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1920.03.24 Page 6

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19200324-01.1.6&e=-------en-10--1--img---------

 

●本夜の仕合

  伊藤五段とウヰリアム

本夜沙港第二街クルスタルブ―ルに於ては伊藤五段及オリンピア倶樂部角力撰手ウヰリアムとの仕合ある筈なるが伊藤五段の百五十五斤に對しウヰリアムは二百十八斤の大兵肥満の好闘士だと云ふ。仕合の結果を早く知らんとする讀者諸君は夜の十二時頃

▲ミカドクラブ へ行けば沙港より特電があるから勝負を直ぐ知る事が出來るであらう

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1920.03.29 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19200329-01.1.3&e=-------en-10--1--img---------

 

   沙港通信

●伊藤師範勝つ

    △敵手第回戦に負傷

伊藤師範對アル、ウヰリアムとの仕合は昨夜クリスタルブーロ館で催された兩勇士が観客の拍手に迎へられてマツトの上で戰闘開始の禮として握手したのが九時十五分であつた

△第一回戰 互に先手を制せんものと手先の小競合分餘ウ氏巴投をかけたるも師範巧に逃れて立上るや此度の師範の巴投見事に極つてウ氏はリングサイドに投付けらる夫れより寝業に移り兩々秘術を盡して力戰闘観客片唾を呑んで勝敗如何と手に汗を握る斯くて上になり下りなりて轉々する際師範の横捨身極まつてウ氏リングサイドを越えて轉て落ち其拍子に側の椅子にて肋胸部を打ち自ら起つ能はず時未だ時間に達せるころも師範は之の敵手の負傷を氣の毒に思ひて十五分間のタイムを與へ勝負なしとして第一回戰を終る此間十二分

△第二回戰 ウ氏は負傷の爲めに意氣阻喪せるの躰なりしも全身の勇を鼓して戰を排む寝業入つて轉々中師範の腕挫逆十字極つてウ氏降伏す此間三分餘

△第三回戰 第一回戰の負傷と第二回戰の敗衂(はいじく)とのためにウ氏の意氣悄沈言ふばかりなく師範の釣込腰にて亦巴投にて連續的に投飛ばさるること兩三回第二戰同様腕排逆十字にて師範の勝となる此間三分で十時過ぎに終つたが第二第三回の勝負は寧ろ飽氣ない程であつた入場者は千五百名で其内九分九厘までは日本人であつた因に師範は來る日曜日本館ホールに於ける柔道大会を濟した後ポ市を経て羅府に帰任の筈である

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1920.04.01 Page 5

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●伊藤五段全勝す

    二回共ヴアンスの敗

先般沙港の仕合に見事に勝を制したる伊藤五段は本日英領バンクーバーの仕合に於ても亦優勢を占め第一回は柔道着の儘十五分間にて腕の逆をとりて勝、二回目は双方共柔道着を脱ぎて闘ひ僅かに五分間にて手首の逆十字で伊藤五段大勝観客多數あり

 

 

 この試合では一本目が柔道着をつけての闘い、二本目が裸体のレスリングでしたが、伊藤がストレート勝ちしました。

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1920.04.20 Page 5

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●大成功の柔道大會

シアトル柔道第十三回大會は昨夜日本館ホールで擧行されたが久し振りであつたのと伊藤師範の熱心な努力とで來観者千三百餘人に達し未曾有の盛會であつた勝負はプログラム通りに進行し當夜の呼者であつた吉村ドクトル対松本勝氏の仕合は一本々々にて結局引分となり某有志寄贈の賞品日本刀は來年の大會まで預かることとなつた師範と住友銀行支店長川勝四段との講道館五つの形及び古式の形があつて閉會したのは十二時十五分前であつた(沙港支社通信)

 

 

 

央州日報 Ōshū Nippō, 1920.07.19 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=osn19200719-01.1.5&e=-------en-10--1--img---------

 

●伊藤五段大勝

      拳闘對柔道勝負

タコマに於て去る土曜日夜ヘビーウエートの拳闘手ヂヨー、ボンズと仕合ひたる伊藤師範は第一回引分第二回右腕逆二分半第三回第四回二分宛にて何れも左腕逆にて大勝したるが観衆約千九百名なりし旨同氏より本社宛電報ありたり

 

 

 タコマはワシントン州の町。腕の逆で勝っているので、ボクシング試合ではなく異種格闘技戦だったようです。

 

 

BoxRec Joe Bonds

https://boxrec.com/en/proboxer/010578

https://boxrec.com/media/index.php/Joe_Bonds

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1920.10.12 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19201012-01.1.7&e=-------en-10--1--img---------

 

  ローサンゼルス (十日)

 

●伊藤五段帰羅 昨冬よりシヤトル道場に滞在中なりし伊藤徳五郎氏は一昨日帰羅従前の通り羅府道場に於て子弟の陶育に勉むべしと

 

 

在米日本人史 Zaibei Nihonjinshi, 1940.12.20 Page 558〜559

Author: Zaibei Nihonjinkai Jiseki Hozonbu/ 在米日本人會事蹟保存部

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=znh19401220-01.1.631&e=-------en-10--1--img---------

 

   沙港道場及び有段者會

沿革 在米日本人の分布經路は、先づワシントン州シアトルより發して、漸次南下し今日の状勢を示しておるが、柔道界の發展も同樣在米柔道々場の設立されたのは沙港を以て嚆矢としておる。シアトル市に柔道々場が始めて設立されたのは、一九〇八年(明治四十一年)二月で、日本講道館柔道が北米合衆國に進出し、道場を設けて一般年に柔道修業の道を開いた最初である。道場はシアトル道場と稱し、北部地方の中心道場として支部道場十二ケ所を有し、太平洋沿岸に於ける有力道場である。 創立以來二十四ケ年 の星霜をし、現在四段、三段、二段、初段の百數十名の有段者を出し、名實共に充實した道場である。六年前現在の土地建物を購人、道場の所有財として疊八十五疊敷き、沿岸第一の大道場たるの威容を示しておる。創設者は講道館現七段伊藤コ五カで自ら師範として四ケ年道場員指導の任に當り後全米の武者修業に出かけた留守中は、澤保太カ現四段が師範となり、其後に鈴木乾二五段、鈴木英太郎五段、白仁恭四段、横山四段が夫々ヘ授し現在は熊谷康之六段、宮澤保太カ四段、柴田政太カ四段が其衝に當つておる。(後略)

 

 

 

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