1919.5.14 アド・サンテル 対 三宅太郎

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

 

 

 

Morning Oregonian. (Portland, Or.), May 08, 1919, Page 14

https://oregonnews.uoregon.edu/lccn/sn83025138/1919-05-08/ed-1/seq-14/

(中央列一番下)

 

Wrestlers Meet at Yakima.

 YAKIMA, Wash., May 7.―(Special.)―Ad Santel, light heavyweight champion wrestler, and Taro Miyake, Japanese champion of the world, will wrestle here on May 14. Santel weighs 183, and Miyake, 169 pounds. J. I. Kimura, head of the Japanese-American association, has guaranteed a $900 purse, according to the announcement.

 

レスラー達が立ち合うはヤキマにて。

 ヤキマ、ワシントン州、5月7日。…(特電。)…アド・サンテル、軽重量級王者レスラーと、三宅太郎、日本式世界王者は、この地にて5月14日にレスリングしよう。サンテルは体重183ポンド、そして三宅は、169ポンドである。発表によれば、J・I・木村、日米協会長が、900ドルの懸賞金を保証している。

 

 

 Morning Oregonian. (Portland, Or.), May 16, 1919, Page 17

https://oregonnews.uoregon.edu/lccn/sn83025138/1919-05-16/ed-1/seq-17/

(左から2列目上部)

 

JAPANESE ATHLETE DEFAULTS

Wrestler at Yakima Declines to Try

Catch-as-Catch-Can Style.

 YAKIMA, Wash., May 15.―A wrestling match between Taro Miyake, Japanese, and Ad Santell last night at the Yakima armory ended in a row, after Miyake had won the first fall jiu jitsu style, and the second, catch-as-catch-can style, had been awarded to Santell by default. The third fall, which was to have been at jiu jitsu, was abandoned. When Miyake refused to wrestle the second fall, Santell struck him. The referee gave the Japanese ten minutes to decide whether he would go on. Miyake declined, and the fall was given to Santell.

 

日本人運動家が棄権

レスラーはヤキマにて掴める様に掴め式の試合を拒絶

 ヤキマ、ワシントン州、5月15日。…三宅太郎、日本人と、アド・サンテルとの間のレスリング試合が昨夜ヤキマ練兵棟にて騒動の内に終わったのは、三宅が柔術形式の一本目を勝ち取り、そして掴める様に掴め式の、二本目が、棄権によってサンテルに与えられた後であった。柔術で行なわれる事になっていた、三本目は、中止された。三宅が二本目を闘う事を拒否した時、サンテルは彼を殴打した。行司はその日本人に彼が続けるかどうかを決めるために十分間を与えた。三宅は断り、しかしてその一本はサンテルに与えられた。

 

 

 

1919年5月14日、ワシントン州ヤキマにて、サンテルと三宅が5度目の対戦。

柔術形式の1本目は三宅勝ち。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの2本目は、三宅の棄権によりサンテル勝ち。その際にサンテルが三宅を殴るトラブルがあり、柔術で行なわれるはずの3本目は中止になりました。三宅にダメージがあったためかもしれません。

 

 

新世界 Shin Sekai, 1919.05.17 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19190517-01.1.3&e=-------en-10--1-----------

 

 ●サンテル對三宅

    ……試合は喧嘩で終る

三宅太郎氏は何處の試合でも兎角綺麗の勝負が出來ない、だから??でも悶着が絶えない、勝つても負けてもスツパリとした勝負がどうも出來ない、此間オクデンの試合でも日本人は非常に惡口を言つて居るにヤキマの試合も遂サンテルと喧嘩になつたらしい

△英字新聞への電報で見ると、最初三宅が柔術でワンフオールを取り、次にキヤチアス、キヤチキヤンの型でやる筈の處を三宅が拒絶した爲、サンテルは三宅を擲(なぐ)つたとある、契約はどうなつて居たか知らないが、三宅のやらないのは何の爲であつたらう、契約の不完全か三宅の文句附けか、サンテルが之を毆つたと言ふは、甚だ面白からぬ出來事である

△日本人の試合は何時も文句が出て困る、試合は或る意味に於ける喧嘩だ、其手をしては此手を出してはナンて言ふのは見苦しい、向ふが封じた手を出したらコツチもやるなぞと云ふ態度で無くてはならぬ、喧嘩師はどつちからでも闘つてやると云ふ決心が必要だ、試合事に敵の手を彼是言ふは丁度支那が山東問題に抗議すると同じやうに見へて面白くない

△ヤキマから我社への特信に見るとスポ―ケンでも既に三宅對サンテルの試合をなし、是も無勝負の様に終つた、三宅の試合には兎角無勝負や一勝一敗の結果が多い、之が世人の非難を受ける点だ、伊藤師範でも高橋二段でも負けは負け、勝は勝、其間何人にも疑點を挟ませない

△ヤキマの試合は、日本人の方でも後援會が出來、米人の方でもサンテル後援會がたち、随分油の乗つた試合であつて、三宅も必ず決戰すると誓つたのだそうだ、夫れにどうした事か二度目に試合を拒絶した、サンテルが怒つて之を毆つた。そして三宅がやらないからフオールはサンテルの物、一勝一敗で中止となつた者だと

▽サンテルも桑港附近ではやれない、ドリームランドのシユーラーが飽迄反對して居る、夫(それ)で北の方で三宅とやつた者らしい、北の方だから兩人の試合に相當の見物もあつたらうが桑港附近では観客の方が眼が肥えて仕舞てゐてダメだ

 

 

 

 記事の右側には三宅の写真もあります。

 三宅が棄権して負けたのはあくまでも2本目で、3本目は中止の扱いのため、結果は1勝1敗の引分けということのようです。

 また、スポケーンでは「無勝負」だった、とあり、3月4日の試合では、両者とも一本も取れなかったものと思われます(ただし判定で三宅が試合に勝利したことは既報の通りです)。

 

 1919年、依然としてプロモーターとの不和が続いていたためサンフランシスコ界隈で試合ができなかったサンテルは、米国北西部や山岳部で闘いながら、日本遠征を模索し始めていました。

1920年、サンテルはようやく、サンフランシスコ・マットに復帰します。しかし、彼の前には、サンテル不在のサンフランシスコで看板選手となっていた「黄金のギリシャ人」、ジム・ロンドスが立ちはだかります。

 

 

 

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