柳澤健「1984年のUWF」(文庫版)について

 

 

2020年、柳澤健「1984年のUWF」の文庫版が出版された。批判を受けて単行本からどう修正されたのか(あるいはされなかったのか)を検証する(敬称略)。

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、単行本が2017年刊、文庫が2020年刊)からの引用。下線は異同箇所を示す。下線を引いたのはわたしで、原文に下線はない。)

 

 

序章 北海道の少年

(単行本 P21)

 試合開始早々、船木は掌底を次々に繰り出して高田をリングに這わせた。レフェリーの空中正三はダウンを宣言、リングアナウンサーがダウンカウントを数え始める。

 10カウントがコールされた時、高田はコーナーポストに寄りかかったままだった

 当然、船木に勝利が宣言されるはずだったが、意外にもレフェリーの空中は試合を続行させた。

 観客は騒然となった。

 

(文庫版 P24)

 試合開始早々、船木は掌底を次々に繰り出して高田をリングに這わせた。レフェリーの空中正三はダウンを宣言、リングアナウンサーがダウンカウントを数え始める。

 だが空中レフェリーはなぜかカウント8で止め、試合を続行させた。高田はコーナーポストに寄りかかったままだったにもかかわらず。

観客は騒然となった。

 

 

 ダウンして「10カウントがコールされた」のに試合が続行されれば、それは観客も騒然となろう。もちろんそんな非常識なことはあり得ないので、そう書いたことへの批判は当然で、柳澤も直さざるを得なかったのであろうが、「10カウント」を「8カウント」に直している。ビデオを見ればわかるが実際はカウント「9」なので、これこそ「なぜか」と問いたい。数も数えられないのか。

 観客が騒然となったのは、第一には試合開始早々高田が船木にあわやKOされそうになったこと自体が驚きだった故で、柳澤が誘導したいようにUWFの非常識な裁定に驚いてでは必ずしもなかろう。

 

 

「週刊プロレス」1989年8月29日号、No.334

 しかもダウンカウントはナイン。高田はファイティング・ポーズを取らず、コーナーを背にして、ボウ立ちになっている。

 ボクシングなら、これで高田はKO負けを取られても、しかたがないように見えた。高田、最大のピンチである。

 

 

 

第1章       リアルワン

(単行本 P33)

 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。カール・ゴッチは、短期間の例外を除いて前座レスラーの域を出ず、当然ギャランティもわずかなものだった。

 

(文庫版 P35)

 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。カール・ゴッチがメインイベンターだった時期は短く、当然稼ぎ出したギャランティもわずかなものだった。

 

 

 「ゴッチは前座レスラーではない」との批判を受けて修正したのであろうが、言い換え程度で意味があまり変わっていないし、「なれるはずもない」と言いながらメインイベンターだったことを認めてしまっているので、矛盾が明らかになっている。

 ゴッチがメインイベンターだった時期は短くはない。これが事実なので、そもそも(この章自体)論旨が成り立っていない。

 ゴッチは北米に渡った1959年(1960年ではない)、早くもルー・テーズとタイトルマッチを闘っている(11月28日シンシナティ、リングネームはカロル・クラウザー)。

 

 

 

6章 シューティング

(単行本 P217)

1981年にデビューしたタイガーマスクは日本のマスクマンの元祖だ。

ミル・マスカラスやドス・カラスに代表されるメキシコのマスクマンは存在したものの、日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて。(後略)

 

(文庫版 P229)

1981年にデビューしたタイガーマスクは日本のマスクマンの代表的な存在だ。

ミル・マスカラスやドス・カラスに代表されるメキシコのマスクマンは存在したものの、日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて。(後略)

 

 

タイガーマスクは日本のマスクマンの元祖」という明らかな誤りを訂正。ただその後の「日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて」という記述は放置。第一次UWFの同僚でマスクマンの先輩、マッハ隼人のマスク(メキシコのトップと同一)は芸術的ではない?

 

 

 

8章 新・格闘王

(単行本 P250〜251)

前田日明との試合後、新日本プロレスは必死にアンドレのご機嫌をとった。

「ビッグファイター・シリーズ」の最終戦は5月1日の両国国技館である。それから、IWGPリーグ戦がスタートするまでの2週間、アンドレには沖縄で休養してもらい、費用は全額新日本プロレスが負担することにした。

アンドレをアメリカに帰してしまえば、戻ってこないかもしれないと考えたからだ。

フロントの努力の甲斐あって、アンドレは5月16日から6月20日まで行われた第4回IWGPリーグ戦に出場してくれたものの、以後、新日本プロレスのリングにアンドレが上がることは二度となかった。

世界中どこでも稼げる超人気レスラーにとっては、不愉快な思いをしてまで新日本プロレスに固執する理由はひとつもなかったのだ。

 

(文庫版 P263〜264)

新日本プロレスはもちろんアンドレのご機嫌をとった。

「ビッグファイター・シリーズ」の最終戦は5月1日の両国国技館である。それから、IWGPリーグ戦がスタートするまでの2週間、アンドレには沖縄で休養してもらい、費用は全額新日本プロレスが負担することにした。

アンドレをアメリカに帰してしまえば、戻ってこないかもしれないと考えたからだ。

アンドレは5月16日から6月19日まで行われた第4回IWGPリーグ戦に出場してくれた、以後、新日本プロレスのリングに上がることは二度となかった。

世界中どこでも稼げる超人気レスラーにとっては、不愉快な思いをしてまで新日本プロレスに固執する理由はひとつもなかったのだ。

 

 

アンドレは前田とのシュート・マッチの後、シリーズ終了後も帰国せず、沖縄で休養してから次シリーズに参加した。柳澤はこれを、前田戦で不愉快な思いをしたアンドレが、次シリーズに来ない恐れがあったため、ご機嫌をとりつつ日本にとどめる目的で新日本プロレスが招待したと書いていた。

 その箇所の冒頭の一文が修正されている。

 

 

(単行本 P250)

前田日明との試合後、新日本プロレスは必死にアンドレのご機嫌をとった。

 

(文庫版 P263)

新日本プロレスはもちろんアンドレのご機嫌をとった。

 

 

 ほとんどの読者には、この修正の意味は不明であろう。実はアンドレの沖縄行きは、前田との試合が決まるよりも先に決まっていたことで、つまり前田戦とは無関係なのである。それを指摘されたため訂正を余儀なくされたが、訂正を最小限にとどめることで当初の論旨を何とか維持しようとしている。当初の筋書き通り読むことは本当は誤読になるのだが、読者に誤読させることを狙っている。言い訳のための姑息な修正である。

 その後アンドレが新日本で試合をしなかった(猪木30周年セレモニーでリングには上がっている)のも、WWF(現WWE)の方針等が理由で前田戦のせいではなかろう。

 

 なお、シリーズの日程については、6月19日にIWGPの決勝が行なわれたものの、翌20日にも「追撃戦」として興行が行なわれ、アンドレも出場している。

 

 

(単行本 P260)(文庫版 P274)

 1987年11月19日の後楽園ホールでは、サソリ固めの体勢に入った長州(※文庫版では「長州力」)の目の付近を前田が蹴り、長州の目はたちまち腫れ上がった。狙って蹴ったことは明らかであり、事態を重く見た新日本プロレス上層部は即座に無期限の出場停止処分を科した。

 現場の責任者である坂口征二は、記者たちに処分の理由を次のように説明した。

《プロレスのルールを破ってはいけないのと同じで、レスラーの仲間のルールを犯してケガを負わせた。》(『週刊ゴング』1988年1月23日号)

 プロレスが格闘技ではなく、相手を傷つけないために様々な工夫が行われていることについては、アントニオ猪木が率直に語っている。

《パンチや肘打ちにしても、打ち場所が問題だ。パンチならナックルではなく、拳の横の部分、肘なら鋭角なところからズレた部分を使って打つというのが暗黙のルール。》(『週刊プロレス』1988年2月16日号)

 

 

 ここも手付かずで修正がないが、最後の猪木のコメントは、引用元が全く違う。「週刊ゴング」1987年12月25日号が正しい。単純なミスだとすれば、指摘があっても直さないのは不審。

元記事を読めばわかるが、猪木が言っているのは前田による長州蹴撃事件を踏まえたルールの明確化の話。同時に「前田のカットプレーが反則なら猪木のパンチはどうなんだ」という問いへの回答(ナックルでは打っていない)でもある。「相手を傷つけないために」ではなく、反則にならないように「ギリギリの線でやってきた」と言っているのを、柳澤は都合よく切り取って趣旨を変えてしまっている。訂正をしないのは、引用元を確認されたくない(更にはこの部分の問題には触れられたくない)からだ、という疑いさえ禁じ得ない。

 

 

「週刊ゴング」1987年12月25日号、No.185

「今回の問題でプロレスの新しいルールの確立という問題が出てきた。俺自身、これまで超えるか超えないかのギリギリの線でやってきた。パンチや肘打ちにしても、打ち場所が問題だ。パンチならナックルではなく拳の横の部分、肘なら鋭角な所からズレた部分を使って打つというのが暗黙のルール。このあたりの問題は来年に向けての大きな課題になってくると思う」

 

 

 

10章 分裂

(単行本 P333)(文庫版 P351)

 最初のきっかけは、1989年8月13日の横浜アリーナ大会だった。

 メインイベントとして行われた前田日明対藤原喜明の勝者には、カーセンサージャパンから日産シーマが贈られることになっていた。メーカー希望小売価格約500万円という高級車である。勝利者賞の目録をリング上で受け取ったのは藤原喜明を破った前田日明だったが、実際には社用車として主に鈴木専務が送迎用に使った。

 当然だろう。プロレスの勝利はあらかじめ決められているのだし、しかも前田自身はポルシェに乗っていたのだから。しかし、前田は「選手がもらったクルマに、どうして鈴木が乗っとるんや?」とイチャモンをつけた。

 

 

スポンサーから勝利者賞として贈呈された高級車を、社用車として使っていた鈴木浩充UWF専務に、前田が選手の車なのにとイチャモンをつけた、という記述は、文庫版でも修正されずそのままある。実はこの車は贈呈ではなくUWFの買い取りで、前田と相談して前田が「事務所で使ってもらう」と公言することにした、と鈴木の著書「ありがとうU.W.F.」(MIKHOTO出版、2018)にある(実際そう語った前田のインタビュー記事もある)。元々、悪意のある噂話程度のものを、裏も取らずに書いているものと推測していたが、あり得ないこととはっきりしても(柳澤は文庫版のあとがきで鈴木の著書を好意的に紹介しているので読んでいるはず)、なお訂正しない。そうまでして前田を悪く言いたいのか。

 

 

「週刊ファイト」1989年9月7日号

 ――8・13横浜の勝利者賞、ニッサン・シーマは、もう手に入りました?

 前田 いや、まだ。でも凄いよ、あの車。特別仕様で、今乗っているポルシェ928より速い(笑い)。

 ――2台とも乗りこなすんですか?

 前田 2台持っていても何だから、普段は事務所の方で使ってもらおうかと思っている。選手の用事があるでしょう? 例えばどこかのホテルで対談だとか……。今、選手の送り迎えに使っている事務所の車はちょっとみすぼらしいから(笑い)。それでオレが必要な時にはオレが使って…。

 

 

(単行本P340)

 U-COSMOSは巨額の赤字を出したのである。

 

(文庫版P358〜359)

 U-COSMOSは数千万円の利益を出したものの、11月の興行だったために利益を使う時間もなく、税金で半分持っていかれてしまった、と関係者は証言している。

 

 

 関係者の証言、と曖昧な書き方をしているが、ソースは前述の鈴木の著書である。柳澤はソースに当たってほしくないのかもしれない。鈴木は一夜の興行で利益が1億円を超えた(数千万円ではない)、と感慨深げに書いている。鈴木も信用ならない書き手ではあるが、元UWF営業社員の川ア浩市も「ドーム大会が赤字だったという印象はない」と語っている(「証言UWF 最後の真実」宝島社、2017)。柳澤が転向した今、U-COSMOSが赤字だった、と主張する人はこの世から消えたのではないか。税金を取られるのも利益があってこそで、その成功を否定できる材料はない。

 この一文の後には「急速に悪化しつつあるUWFの経営…」と続く(文庫版も変わらない)のだが、その主要因たるべきドーム大会が実は黒字だったと明かしてしまった以上、論理は破綻してしまっている。この章自体、論旨が成り立たないのだが、柳澤は自ら目を覆い耳を塞いでいるのであろうか。

 

 

 以上は、2020年3月15日のTweetよりまとめた。

https://twitter.com/tentaQ4/status/1239160236012785665

 

 

柳澤は、「ゴング格闘技」2017年4月号のインタビューで、次のように語っている。

 

「私の本が出ると、そこかしこに間違いがあるって言い立てる人が必ず現れます。指摘は正しいこともあるけど、ほとんどは細かいことで、全体のパースペクティブに関わるものではない。(後略)」

 

 (第2次)UWFは儲かっていない。フロントがそう言っても選手は信じず、フロントに不信感を持つ。その対立の果てに、UWFは分裂にまで至る。そして、その際正しかったのはフロントであって、前田達は間違っていたのだ。なぜなら、UWFブームの象徴とも言うべき東京ドーム大会(U-COSMOS)ですら、実は大赤字だったのだから…。

 柳澤が描いたストーリー(柳澤流に言えば「パースペクティブ」?)はこうであった。誰もが成功と思っていたU-COSMOSが、まさかの大赤字であったという意外な暴露を痛快に感じ、それがUWF崩壊の遠因の一つとさえなったという運命の暗転に感慨を覚えた読者が、本書を評価した気持ちもわかる。その絶妙なストーリーが、虚構であったという点に目をつぶれば…。

 U-COSMOSは大赤字だった。ソースも示さずそう書いていた柳澤は、文庫ではしれっと「利益を出した」と書き直す…立脚点を失ったストーリーは、しかしそのままに。「急速に悪化しつつあるUWFの経営…」と続けるが、そこにもはや根拠はない。

 そもそも赤字と書いたソースを柳澤は示せるのか?内実を知る者に聞いても黒字としか答えようがないし、外見には大成功としか思われていなかった。U-COSMOSは赤字、そう言い切れた人間が、柳澤以前にどこにいたのか?

 前田はフロントに対して横暴であった。その証拠の一つが、勝利者賞の高級車のエピソード…しかしそれもソース不明の言いがかりである。

柳澤にはもっともらしいストーリーの構築こそが大事で、真実を追究しようとする姿勢はなかったのではないか。

 

 

 

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