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UWF余話 「ほとんどジョーク」更級四郎 |
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(文中、敬称は略します。) 前田日明「真格闘技伝説」(ピンポイント、1994) 1985年(S60)前田日明●26歳 (前略)ルールの確立、ランキング制、リーグ制……UWFのよき理解者で、イラストレーターの更級四郎さんが発案した壮大なアドバイスを佐山聡さんは語った。そのこと自体は素晴らしいことだったけど、その前にやるべきことが山積みされていたんだよ。現に、俺達は日々のチャンコ代にも困っていたんだ。(中略) UWFは、全員の合作だった。みんなが協力し合い、試行錯誤しながら創り上げたのがUWFだ。シューティング構想は、ほとんど“ヒョウタンから駒”で出来たものだったし、リーグ制だってイラストレーターの更級四郎さんがアイデアを出してくれたんだよ。 「週刊プロレス」の読者投稿コーナー「ほとんどジョーク」でイラストを描いていた更級四郎が、第一次UWFのブレーンだったことは、その当時は一般に全く知られていなかった。その後も上記の前田の証言があったぐらいだと思うが、2000年代に入ると、更級が自ら語り始める。 ・ターザン山本「『泣き虫』に捧げる永久戦犯」(新紀元社、2004) 内の山本との対談 更級四郎(「ほとんどジョーク」)「高田側にも暴露する理由が何かあったと考えるべき……」 ・「Kamipro」編集部編著「生前追悼
ターザン山本!」(エンターブレイン、2008) 内のインタビュー ターザンの盟友が語る共犯関係 更級四郎「『ケーフェイ』は僕が書いたんですよ」(聞き手 堀江ガンツ) ・「Kamipro 紙のプロレス」(エンターブレイン、2009.1.3、No.130) 内のインタビュー ケーフェイを超えたUWFの真実(聞き手 堀江ガンツ) ・柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017) ・前田日明ほか「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017) 内の鼎談 3人の黒幕が語る「UWFと『週刊プロレス』」全内幕 証言 更級四郎 杉山頴男 ターザン山本 上記の出版物から、その証言を検証する。 1.
新日本プロレスとの関わり 「生前追悼 ターザン山本!」(2008) 更級 (前略)最初に関わったのは、新日本なんですよ。佐山さんがタイガーマスクとして全盛時代の話ですけど、新間(寿)さんの代理の人から電話があって、「新日本プロレスが会場で売るパンフレットの表紙を描いてくれ」と。 ――『ザ・レスラー』や『闘魂スペシャル』ですね。 更級 そうです。それで、お金も凄くよかったんで、引受けたんですよ。(後略) 「Kamipro」(2009、No.130) 更級 (前略)まだ新間(寿)さんが新日本プロレスにいる頃、新間さんが本を出すことになって、その表紙イラストを描いてくれっていう依頼が僕のところに来たんです。でも、断るつもりだったんですよ。新間さんってあんまり評判がよくなかったから(笑)。 ――まあ、当時は一番ブイブイ言わせてた頃でしょうからね。 更級 ただ、新間さんの下にいた新日本の伊佐早(敏男)さんという人が一生懸命話してくるし、僕を伊佐早さんに紹介した人がベテラン記者だったから、その人の顔を立てて話だけは聞いたんです。そしたら、僕が渋ってるのはお金だと思ったのか「お金は精一杯の額を用意してます。50万円でどうでしょう」って言うんですよ。イラスト1枚ですよ。 ――イラスト1枚で50万円って、それは破格ですね! 更級 僕がそれまで書いた本の表紙イラストって、一番高くて20万円だからね。「そんなにもらえないよ」って言ったんですよ。そしたら「もうこの額で予算を組んでますから」って言うんで、ビックリしてね。それでお金が良かったことと、紹介者の顔を立てるために引き受けたんですよ。で、なぜこんなに破格のお金を僕に払ったかというとね。要するに新しい団体に協力してくれよってことだったみたいなんです。 ――なるほど。その当時から、新間さんがUWF旗揚げに動いていて、それに協力してもらうための“手付金”みたいな意味合いですか。 更級 うん。(後略) その本が都市と生活社から出版されたのは、新日本プロレスから新間が追放されるクーデター(1983年8月)よりも前、新間が新日本の中核にいて、新団体など考えるはずもない頃である。 報酬が高かったこととUWFとは関係がないのに、更級は記憶の中で無理やり結び付けているようである。 「1984年のUWF」(2017) 1983年3月に刊行された『リングの目激者』は、新間寿、『週刊ゴング』編集長の竹内宏介、『東京スポーツ』デスクの桜井康雄の共著だ。 この本の表紙イラストを更級に依頼したのが、当時新間の部下として新日本プロレス企画宣伝部にいた伊佐早だった。 「僕は一度、伊佐早さんからの依頼を断ったんです。猪木さんと新間さんには興味がない。本も読みたくないって」(更級四郎) だが、伊佐早は諦めなかった。読まなくてもいいから描いてほしいとしつこく頼み、ついに更級を口説き落とした。イラストの謝礼は50万円。これまでに単行本の表紙イラストを描いて受け取った最高額が20万円だったから更級は驚いた。 まもなく新日本プロレスのオフィシャルマガジン『闘魂スペシャル』の表紙イラストの仕事を依頼され、新日本のスタッフとも話をするようになった。 更級が新日本プロレスの大会パンフレットの表紙にイラストを描き始めたのは1982年の前半(「闘魂スペシャル」の前身「ザ・レスラー」)で、「リングの目激者」よりも先である。 ただしこの箇所は、著者の柳澤健が更級によく話を聞かずに、「Kamipro」等から自分で雑にまとめたのかもしれない。 「『週刊ゴング』編集長の竹内宏介」ともあるが、竹内が「週刊ゴング」の編集長だったことはないし、そもそもこの当時「週刊ゴング」はまだ発刊されていない(ただしこのミスも柳澤の責任であろう)。 2.
UWFに関わる経緯 「生前追悼 ターザン山本!」(2008) 更級 それで新間さんや前田(日明)さんが先兵隊みたいなかたちで最初にUWFへ行ったんですけど、何かあって、UWFは新日本から切り捨てられちゃったんですよ。 ――第2新日本のはずが、フジテレビも獲得できず、そのまま捨てられてしまった。 更級 当然、前田さんなんかは「話が違う。冗談じゃない!」って怒ってましたよね。そのとき新日本からUWFに来ていた新間さんの下にいたIさんという人が、もともと僕の『闘魂スペシャル』の原稿受け取り係で、この人と上井(文彦)さんという人から電話がかかってきて。「もう猪木さんは関係ない。自分たちでUWFを続けていきたい」と言うんですよ。 ――新日本には戻らず、“流産”したはずのUWFを続けよう、と。 更級 そして「ついては、新日本のこれからの選手を引き抜きたい。そうしたら新日本は年寄りばかりになってダメになるから」って言うんです。 ――なるほど。それは理にかなってて、新日本に対抗するにはいい考えですね。若手選手だと、そんなに引き抜きにもお金がかからないだろうし。 更級 で、「引き抜くために、更級さんに選手を説得してほしい」って言うの。 ――更級さんがUWFの選手引き抜き係ですか! 「Kamipro」(2009、No.130) 更級 僕が聞いた限りは、最初、UWFは新間さんが作って、猪木さんがそのあと来て、フジテレビで放送するはずだったのが、結局、テレビがつかなくて、新日本から切り捨てられちゃったんですよ。先兵隊で行った前田(日明)さんとか、フロントの伊佐早さんらにしてみたら「冗談じゃない!」ってなりますよね。 ――会社命令でUWFに行ったのに、切り捨てられたわけですからね。 更級 そしたら、伊佐早さんからまた電話がかかってきて「もう猪木さんは関係ない。自分たちでUWFを続けていきたい。若い選手を根こそぎ引き抜いて、新日本をぶっ潰したいから、引き抜きに協力してほしい」って言われたんですよ。でも、会社一つ潰すのに協力できないでしょ? ――そりゃそうですね(笑)。 更級 だから最初は断ったんですよ。ところが一週間ぐらいしたらまた電話があって「どうしても会いたい」って、タクシーで迎えに来ちゃったんです。それで前田さん、ラッシャー木村さん、剛竜馬、それから浦田社長をはじめとしたスタッフが食事している場所に連れていかれたんです。 「1984年のUWF」(2017) 6月1日、UWFは東京・飯田橋のホテルグランドパレスで再び記者会見を開き、帰国直後の前田、木村、剛の3人が「これからもUWFで戦っていく」と表明した。 (中略) 記者会見が終わったあと、新宿の焼き肉店でUWF関係者による夕食会が開かれた。 参加したのは前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬のレスラー3名。そして、浦田昇社長、伊佐早敏男企画宣伝部長、吉田稔営業部長らフロント数名。 3選手を囲んで、改めて結束を誓い合おうという小さな集まりに、伊佐早はひとりのゲストを呼んでいた。 『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめていたイラストレーターの更級四郎である。 (中略) UWFに移った伊佐早から更級のところに電話がかかってきたのは、1984年5月の終わり頃だったはずだ。 「新間さんはいなくなった。自分たちでUWFを続けていきたい。でも、このままなら路頭に迷ってしまう。どうか協力してください。『週刊プロレス』で大きく扱ってください。ウチにはカネも何もないけど、できることはなんでもやりますから」 更級がUWFの3選手を囲む夕食会に呼ばれたのは、それから1週間後のことだった。 (中略) 「前田さん、協力するよ。前田さんたちが脚光を浴びれば、『週刊プロレス』だって得するんだから」 (中略) こうして更級四郎のUWF救済計画がスタートした。(後略) この夕食会の模様は、「週刊プロレス」1984年6月19日号のカラーページに写真付きで紹介されている。 「証言UWF 最後の真実」(2017) WWFの選手は来ない。フジテレビは放送しない。客は入らない。オープニング・シリーズを終え、UWFに見切りをつけた新間は、UWFの選手が新日本へ再び上がれるように話をつけている。(中略)しかし、このプランは頓挫した。新日本から移籍していたUWFの伊佐早敏男(広報宣伝部長)が、この計画をぶち壊す目的で情報をリーク。それを週プロが記事にしたことで計画は中止を余儀なくされ、新間はUWFを離脱することになった。 山本 シリーズが終わった瞬間に新間さんはUWFを新日本に戻そうとしたけど、その動きに対して杉山さんは「帰させん!」と話を全部潰し、UWFを新しい団体として存続させるよう戦ったんですよ。 杉山 そのとき、海外にいた前田が泊まってるホテルを聞き出して電話したんだよ。なにをしゃべったかあまり覚えてないんだけど、「UWFを新しい団体として続けさせたい」と、それだけは覚えてる。それまで前田のことを全然知らなくて、そのときに初めて前田の声を聞いた。 山本 週プロが新間さんの計画にストップをかけて、杉山さんが「UWFを応援しますよ」という形になった。俺、その攻防が一番面白かった。そばで見てて杉山さんの情念は凄いと感じてた。 (中略) 更級 伊佐早さんからのリークっていうのは僕は知らなかった。(後略) 「杉山」は当時の「週刊プロレス」編集長・杉山頴男。ここに語られたのは、6月1日の記者会見(及びその夜の食事会)の前の動きである。 当時、「週刊ゴング」は竹内宏介が新間とツーカーの仲だったため、新間の主張に沿ってUWFの動きを報じた。一方「週刊プロレス」は反新間派のフロントにつき、選手達の残留、UWF存続に動いた。 更級は自分では言わないが、その動きも独自のものというよりは、こうした「週刊プロレス」の方針に沿ったものだったのではないか。書かれているものを読む限り、杉山の方が更級より始動が早いようである。 |
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選手引き抜きへの協力 「生前追悼 ターザン山本!」(2008) 更級 それで、選手に対して移籍の決断を促すときに僕が呼ばれて「どっちにいても同じだから。やる気があるなら、新しいことをやってみない?」っていう話をしてね。そんなことをしていたら、けっこう集まってきたんですよ。 ――藤原さんや高田(伸彦)さんが移籍してきましたよね。 更級 新日本から佐山さんのジムに移ってた山崎(一夫)さんも来てね。(後略) 「Kamipro」(2009、No.130) 更級 そしてしばらくして、伊佐早さんから連絡が来て「引き抜きに協力してほしい」と。そこで名前を挙げられたのが佐山さんと藤原さん。 ――これは当時から格闘技路線でいこうという中でビックアップされたんですか? 更級 いや、そういうことじゃなくて、前田さんの意向ですね。UWFに残ってくれたエースの前田さんのために引き抜こう、と。佐山さんは当時、タイガーマスクとして大スターで、二人とも前田さんの兄貴分でしたからね。(後略) 「1984年のUWF」(2017) 最後に更級は「ここが勝負だと思って、藤原喜明さんを引き抜いてくれ」とUWFの伊佐早に強く求めた。 「名の通ったレスラーはいらない。ファンはどんな試合をするかわかってる。UWFが藤原さんを引き抜けば『どうして藤原なんだろう?』と、みんなは疑問に思う。そこで週プロの山本さんが『藤原は新日本プロレスの道場主だ。UWFは新日本から精神的な支柱を引き抜いてしまった』と書く。みんなはなるほどと思うはずだよ。でも真の狙いはそこじゃない。UWFは新日本プロレスとケンカをする。アントニオ猪木よ、文句があるんだったら言ってこい、という毅然とした態度で立ち向かってほしい。伊佐早さんたちがビビっていたんじゃ僕らも応援できない。藤原さんには『一番強いアンタが必要だ』と言って引き抜いてくれ、と僕は言った」(更級四郎) 「証言UWF 最後の真実」(2017) 更級 (前略)そのときに「ある人物を引き抜いてもらいたい。じゃないと、週プロは応援できないよ」とも言ったんです。それは、藤原喜明のことなんだけど。 (中略) 当時のUWFには、前田のほかにラッシャーや剛、浜田といった面々が在籍していたが、次第に陣容は変化した。そして、UWFは格闘技寄りのスタイルへと変貌を遂げていく。“藤原引き抜き”を提案した時点で更級は、のちのスタイルを想定していたのだろうか。 更級 いや、そうじゃなくて藤原が一番強いとされてたんです。それから、新日本のなかで一番彼が嫌われてたんです。暗いから。とくに藤原と前田の新日本での関係性を考えたわけでもなかった。 山本 僕は「藤原を引き抜くことは新日本の金玉を引っこ抜くことだから、新日本は空洞化するよ」って言ったんです。だって新日本のアイデンティティは道場にあるんだから。表はエンターテインメントだけど、道場のトップは藤原だよと。(後略) 藤原引き抜きを言い出したのは誰なのか。時と共に、発言が変わる。自分の役割を大きく言うようになって行く。 ちなみにターザン山本も、自著では自分が藤原引き抜きを提言した、と書いている(「暴露 UWF15年目の予言」世界文化社、1999)。 しかし藤原は、高田と共に旗揚げシリーズに新日本から派遣されて出場した選手なのだから、UWFに引っ張ろうと発想するのは自然なことで、皆が手柄争いをするような話でもあるまい。勿体ぶった「ある人物」などという表現は滑稽ですらある。わたし自身も当時、藤原、高田のUWF入団には「やっぱり」と感じて全く驚かなかった記憶がある。 ※藤原、高田のUWF入りについては、そもそもなぜその前に新日本から派遣されたのか、という所から複雑な経緯がある。下記にまとめているのでよろしければご高覧を。 UWF余話 高田延彦のUWF参加 http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW180602/ 4.
入場曲の選曲 「『泣き虫』に捧げる永久戦犯」(2004) 山本 更級さんは第一次UWFとの関係が強く、所属選手の入場テーマ曲を選んだんですよね? 更級 前田日明がロシア民謡の『ポーリュシカ・ポーレ』で、藤原喜明がワーグナーの『ワルキューレの騎行』、そして高田延彦がレイ・コニフ・シンガーズの歌っている『ハッピートゥギャザー』だった。そのあたりを選んだのはオレかな。 「1984年のUWF」(2017) 選手たちの入場テーマ曲やコスチュームについてアドバイスしたのは、『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめるイラストレーターの更級四郎だった。 荘厳かつスリリングな『ワルキューレの騎行』(リヒャルト・ワーグナー作曲)を藤原喜明の入場テーマ曲に選んだのは、東京藝術大学出身のアーティストだったのである。なんとわかりやすい話だろう。 更級が名を挙げた曲で、その後も使われ続けたのは藤原の「ワルキューレ」だけであろうが、それは本当に更級の選曲なのであろうか。 「ワルキューレ」は新日本プロレス時代に前田の入場曲として使われたのが先なので、転用とも言える。フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」に使われていたので、子供のわたしでも耳になじみがあった。 「週刊プロレス」1984年5月8日号 観衆は“藤原コール”の大合唱で、テロリストの登場を待った。入場テーマ曲は、ワグナーの楽劇「ワルキューレ」だった。 映画「地獄の黙示録」で使われ有名になった曲である。(後略) UWFオープニング・シリーズ最終戦、4月17日蔵前国技館大会の記事である。藤原がまだ新日本プロレス所属だったこの時点で「ワルキューレ」が使われていることは、ビデオでも確認済み(ちなみに前田は「ポーリュシカ・ポーレ」ではない)。更級が伊佐早にUWFへの協力を依頼されたという夕食会よりもずっと前である。更級は、まだ新間寿のいた旗揚げ時からUWFに関わっていたのか、それとも藤原に「ワルキューレ」を選んだのは別人なのか。 |
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ゴッチの佐山エース論 「『泣き虫』に捧げる永久戦犯」(2004) 更級 (前略)今、新日本プロレスで活躍されている上井(文彦・執行役員)さんは、当時第一次UWFのフロントだったんですけど、興行権を売るさいに「佐山が出るかどうか、それ次第ですよ」って言ってましたね。特に地方では客が来ないって。 山本 我々にとって第一次UWFというのは非常に魅力的であるわけだけど、いざ客を入れるとなると、佐山という名前を出さないと特に地方興行がもたないということですね。 更級 ゴッチさんもそう言ってたからね。 山本 えっ、ゴッチさんも! 更級 はっきりオレに言ったよ。一緒に風呂に入っているときにね、 山本 風呂の中で(笑)。ゴッチさんと更級さんのツーショットは無茶ですよ。 更級 「今はしょうがない。佐山で売るしかない」ってね。(後略) 「Kamipro」(2009、No.130) 更級 それにリング上でもリング外でもトップをやるには、経済力があるか、あるいはホントに強くないとほかの選手がついてこないんですよ。で、結局は前田さんにしても、藤原さんにしても、佐山さんがそれほど強くないのはわかってるわけ。 ――えぇ!? そうなんですか? 更級 だっていままでずっと道場でお互いにスパーリングをやってるんだから。そういうことが選手はわかってる。でも、佐山さんはプロレスの天才だから、強く見えるんだよね。それが複雑だった。でも、ゴッチさんは「佐山をエースに」ってずっと言ってました。そうじゃなきゃお客が入らないから。自分が強いけど客を呼べないレスラーだったから、そのへんはわかってたんだろうね。でも、選手間に不満はあったと思うよ。 「1984年のUWF」(2017) 8月29日の高崎市中央体育館、30日の岡谷市民会館、31日の古河市体育館の観客動員はいずれも振るわず、9月2日の戸倉町綜合体育館の観客席はさらに閑散としていた。 その夜、戸倉温泉の旅館で小さな事件が起こった。巡業に同行していた更級四郎の部屋に、突然カール・ゴッチが現れたのだ。 「相変わらず絵を描いているの?」 更級はゴッチの似顔絵を週プロに描いたことがあり、ゴッチはそれを覚えていたのだ。 ゴッチは何かを言いたそうだったが、通訳が不在でうまく伝わらない。 ゴッチが去ってしばらくすると、高田伸彦が「更級さん、ゴッチさんが一緒に風呂に入ろうと言っています」と呼びにきた。 『週刊プロレス』のカメラマンが前田と高田が師匠ゴッチの背中を流している写真を撮り終えると、前田と高田とカメラマンは風呂を出た。 残ったのはゴッチと更級、そして通訳の3人だけだった。 ゴッチは更級の目をまっすぐに見て、深刻な顔で言った。 「このままでは、UWFがつぶれるのは時間の問題だ。サヤマをエースにしないといけない」 それまで、UWFのメインベンターは日替わりだったが、ゴッチは佐山聡のスーパー・タイガーを飛び抜けたエースにすることが最善の策だと考えたのだ、 佐山が誰よりも強いから、ではない。佐山が誰よりも客を呼ぶ力を持っていたからだ。 レスリングの強さと、観客を会場に呼ぶ力が別物であることを、ゴッチは自らの体験から知り尽くしていた。 「証言UWF 最後の真実」(2017) 長野県の戸倉町総合体育館(84年9月2日)での試合後、旅館の風呂場で更級がゴッチに「サヤマをエースにしないといけない」と言われたという話は語り草となっている。 更級 あれも、違うんだよ。独り言みたいにゴッチさんが僕に言うんですよ。「サヤマしか客を呼べないんだよねえ」って。だいたい、なんで「一緒に風呂に入ろう」って言ってくるのかわからないでしょ。そんなところで聞いてりゃ、いくら僕がバカだとしてもわかるじゃない。「フロントに『サヤマをエースにしろ』と言ってくれないか」ということなんだろうと。(後略) これも毎回、言うことが違う。「1984年のUWF」が最も描写が詳しいが、だから正確なのかと言うとそうではなく、かえって嘘が混じってしまっている。 9月2日戸倉町での試合後、日本人選手はその地の温泉旅館に泊まったものの、外人選手は次の興行地である上田市に先乗りしてホテルに泊まっており、ゴッチはそちらにいたのである。ただし翌日がオフであったため、ゴッチは戻って来て温泉に入ったが、それは3日の昼であった。風呂場での取材には「週刊プロレス」だけでなく「週刊ファイト」もいたし、前田、高田がゴッチと共に湯船に漬かる写真も撮られており、2人がゴッチの背中を流しただけで風呂場を出たということもない。前田日明は、当時ゴッチに通訳をつけたことは一度もない、とも語っている(「KAMINOGE」Vol.67、2017年7月6日、東邦出版)。 少なくとも「1984年のUWF」の描写には、相当の脚色、ないし創作が加えられているのではないか。更級にすら「違う」と言われている。 そもそも、更級とゴッチが2人きり(あるいは通訳も交えて3人だけ)になる場面があったのかどうか、それさえ疑わしくなって来る。 2.
2リーグ制の導入 「Kamipro」(2009、No.130) 更級 (前略)そうやってリアルに見せることに苦労してるとき、前田さんが僕のところに来てね「先生、俺、2部に落ちてもいいですよ」って言ってきたんです。 ――えっ!? 確かに一度、前田日明がBリーグに落ちたことがありましたね。あれは自分から申し出たんですか! 更級 大変なことだよ。普通にしてたらエースなのに、自分から2部に落ちるっていうんだから。前田さんはわかってたんだよね。エースである自分でも、少し気を抜けばBリーグに落ちてしまうっていうところを見せれば、UWFの厳しさやリアリティがアピールできるって。 ――自分が犠牲になって、UWFを確立させようとしたってことですよね。凄いなあ。 更級 それだけUWFのために必死だったんだよ。だから、そのあと高田さんが初めて山ちゃん(山崎一夫)に負けたんだけど、これは高田さんも前田さんの姿を見て、リアリティのためにはやらなきゃダメだ、と思ったんだろうね。僕はこれでうまくいくと思った。ところがね、今度は佐山さんが高田さんに負けたんだけど、その前の藤原さんとの試合で肩を脱臼して、肩のケガが原因で高田さんに負けたっていうストーリーにしちゃった。それはダメだろうって思ったよね。だって前田さんが2部に落ちてやってるのに、自分はケガっていう、エクスキューズをつけるって、それはないでしょう。 ――佐山さんの脱臼って、藤原さんがアームロックで脱臼させて「友だちの腕を折ってしまった……」って涙するやつですよね?あれは脱臼してなかったんですか? 更級 してないと思いますよ。 ――そうでしたか(笑)。 更級 あれはないと思ったな。もちろん佐山さんには言わないけどね。リング内はレスラーの自由だから。でも、あれを見て前田さんも高田さんもガッカリしたと思う。前田さんは何敗もして2部に落っこちて「練習不足だから負けた。また一からやり直す」ってマスコミにもコメントしてるのに、ケガかよって。(後略) 前田がBリーグに落ちた事実はない。それなのに更級の脳内には、落ちた際の前田のコメントまで存在しているようだ。聞き手が話を合わせているのも気味が悪い。 2リーグ制は実力主義を明示する仕組みとして更級自慢のアイデアのようで、更級がゴーストライターを務めたとされる佐山の著書「ケーフェイ」においても、「シューターはA・Bリーグに分かれた。このシステムをキミは本当に理解しているか?」という一章を設けてその意義が力説されている。しかし実際には、層が薄過ぎて2リーグ制は機能しなかった。高田は2度もBリーグに行くとされながら行かず仕舞い。Bリーグ廃止で山崎がAに上がったのみで入れ替えはなされず。 「1984年のUWF」(2017) そんな佐山に、更級はリーグ戦を提案した。選手たちを1部のAリーグと2部のBリーグに分け、Aリーグ最下位の選手はBリーグに落ちるという仕組みだ。 負けても失うものが何もないUWFにリーグ戦を持ち込むことで、降格の悲しみと昇格の喜びを生み出そうとしたのである。 「ほかのレスラーにBリーグに落ちてくれなんて、僕からは言えません」と佐山に断られた更級は、自ら前田日明に会いに行った。 「僕から前田さんに言いました。あなたや佐山さんが優勝したのでは誰も驚かない。でも、あなたや佐山さんが、意外にも1勝くらいらいしかできなくてBリーグに落ちれば、大変な話題を呼びますよ、って。 前田さんは即答しました。Bリーグに落ちてもいい。UWFを存続させるためだったら何でもやります、と。この人はいいなあ、と思いました。UWFが一番苦しい時に、前田さんが自分を犠牲にして頑張ったことは忘れられるべきではないと思います。 (後略)」(更級四郎) 前田のBリーグ落ちをあからさまに事実として語ることはされなくなったものの、「自分を犠牲にして頑張った」という表現からは、更級がそれを未だに事実と思い込んでいる可能性はある。 また、前田のBリーグ落ちは前田自身ではなく更級が提案したことに変わっている。 「証言UWF 最後の真実」(2017) 更級 前田さんと道場で会ったから「AリーグとBリーグをつくろうかと思ってるんだけど、どうなんだろうねぇ」って言ったら、前田さんのほうから「俺、(Bリーグに)落ちます」って。僕は説得なんてしてませんよ。これって、凄いことですよ。前田さんだから言えた言葉だと思ってます。 再び、Bリーグ落ちを前田が自分で言い出したことに戻っているが、(この場合は)更級は言うことがぶれているのではなくて、「1984年のUWF」において柳澤が自分の言ったことを書かず、筆を曲げていることにやんわり抗議しているようにも見える。 3.
「ケーフェイ」 「真説・佐山サトル」(8)ケーフェイ http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW181124/ こちらをご覧下さい。 意外な人物が、人知れず黒幕として、大きな役割を果たしていた…皆が大好きな話である。 ただし更級の場合は、発言の矛盾や事実関係の疑いもあり、全てを鵜呑みにはできない。場合によって本の著者や編集者、インタビュアーの責任もあろうが。 メニューページ「UWF余話」へ戻る |