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UWF余話 小鉄と坂口と新日クーデター |
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(文中、敬称は略します。) (1)クーデターの理由 今から40年前の1983年夏、新日本プロレスの猪木社長・坂口副社長・新間専務体制は、クーデターにより山本小鉄、望月和治、大塚博美の3代表取締役「トロイカ体制」に変わった。大塚、望月両氏はテレビ朝日からの出向者であった。 翌1984年、UWFとジャパン・プロレスという2つの新団体が、新日本プロレスから派生する。その遠因がこのクーデターであった。 クーデターが起きた主要因は、猪木のサイド・ビジネス(アントン・ハイセル)にあったと言われている。 竹内宏介「新日本プロレス 今、そこにある危機!! 続・新日本プロレス事件簿(改定補充版)」(日本スポーツ出版社、2002) だが、資金調達に苦慮し始めた新間氏が、新日本の選手たちのギャラの中からも定期預金、積立の名目の金をキープし、それを一時的にハイセルの運営資金に流用し始めた事で、それまで鬱積していた選手達の不満と不安が一気に爆発した。それがS58年8月のクーデター未遂事件である。 「新日プロの売り上げの大半がハイセルに注ぎ込まれている。このままハイセルの赤字が増え続けたら新日プロも連鎖倒産に追い込まれる」 そういう噂が物凄い勢いで選手や社員たちの間を駆けめぐった。これは結果論だが、この時代、新日本が月並みの経営状況だったら、あるいはここまで問題がエスカレートしなかったかも知れない。S56年からの好景気がS58年5月の『IWGP』開催で、そのピークを迎えていた事が逆に大きく災いした。連続満員記録を更新しながらもギャラアップは微々たるもので、試合以外の活動で得る収入(CMやサイン会)などの明細も不透明だった事で、ますます選手たちの心は疑心暗鬼に落ち込んでいった。 さすがに「売り上げの大半がハイセルに注ぎ込まれている」というようなことはなかったろうが、選手を通じて新日本の金がハイセルに流れていたようだ。 「週刊現代」1983年9月24日号 しかし、レスラーたちは納得していない。 「彼らは給料の二割くらいを定期預金されちゃうんです。そのカネはブラジルに流れている。また、去年の売り上げが約二十億円もあるのに、ギャラアップは微々たるもので、その分はブラジルに流れていると彼らは見ている。もしアントンハイセルが倒産したら、新日プロも連鎖倒産するんじゃないかという危機感を持っているのです」(前出の事情通) 「中堅選手のギャラに帳簿上一万円上乗せして、それを上層部にバックさせるんです。私が知っているだけで三人のレスラーがそうされている。そうした数百万円のカネはハイセル資金に流れています」(事情通) 「週刊平凡」1983年10月13日号 クーデター軍の参謀格を務めたA氏の証言。 (中略) 「試合のギャラはたしかに契約どおり選手に支払われていた。しかし、ハイセルに出資しろと、かなりのギャラを吸い上げていたらしい。タイガーマスクや藤波辰巳のような有名選手はいいとしても、若手レスラーは3万円出資させられるとタバコ銭くらいしか手元に残らない」(A氏) ここでは「出資」と言っているが、実際は社債の購入だったのではないかと思う。 「新日本プロレス 10大事件の真相」(宝島社、2015) 新間 1億2000万円の社債を発行したよ。レスラーを含めた社員、家族、プロモーター、後援者らに30万円、40万円といったようにお願いした。(中略)坂口さんなんか、自分の家を担保に入れて、金をつくってくれた。藤波には私が奥さんの実家に行って、3000万円借りたもん。 (中略) 新間 ただし、その1982年は興行の成功もあって、レスラーを含めて社員のボーナスは年6回にしたんだ。従来の夏、冬の2回に4回プラスしているのよ。つまり、ほぼ毎シリーズごと出していた。(中略)新たに年4回、それぞれ5万から20万の金額で出すことになったんだ。 山本(※ターザン山本) 社債と並行してボーナスですか。 新間 それなんだよねえ。「ボーナスもらっても嬉しくねえよ、プラスマイナスゼロじゃん」という意識が生まれちゃった。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」(宝島社、2019) 坂口さんや藤波だけではない。主力の4選手はこんな協力をさせられた。たとえば1試合5万円の契約を結んでいる選手がいたとする。すると会社が、経理上は1試合7万円のギャラにアップさせたうえで、2万円を天引きし、ハイセルの資金に回す。合意の上での話とはいえ、選手たちからすれば「会場はいつも客で埋まっているのに、会社は何を考えているんだ?」という話になる。 大塚は当時の営業部長で、クーデターの首謀者の一人と目されていた。後のジャパン・プロレス社長。 クーデターの原因としては、選手のギャラ(ファイトマネー)の問題も大きかったろう。 「週刊プロレス」1984年5月22日号 短期集中連載@ 手記 クーデターの汚名をぬぐい去る時がきた 大塚直樹 加えて選手にとってはギャランティという非常に切実な問題がありました。 社長は「会社の経営状況が良くなるまで、もう少し我慢しろ」と口をすっぱくして選手たちにいっていましたが、実はその頃から新日本プロレスの営業成績は急激に向上していきました。 特に一昨年は新日本プロレス始まって以来の売り上げを記録したのです。各選手が自分の手元にいくらギャラが入るかを期待したのは、いうまでもありません。プロスポーツ選手にとっては、ギャランティの高さこそが自分自身の価値観を決めてくれる唯一のものであるのは、どのプロスポーツ界でも同じことです。 しかし58年度の契約更改の際、前年度と同額のギャラの選手が数人出てしまったのです。これは彼らのプライドを著しく傷つける結果を生み出しました。 大塚は35年後には、ギャラアップがなかった選手を「数人」ではなく「ほとんどの選手」と言い直している。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」 この年(※1983年)春の契約更改において、ほとんどの選手は「現状維持」を提示されたが、これは選手たちの怒りを爆発させる引き金になった。「これだけ観客が入っているのに、さすがに現状維持はないだろう」という不満である。 「週刊現代」1983年9月24日号 たしかに、レスラーたちのギャラも問題である。タイガーで一試合当たり■万円、藤波で■万円。それも二年間アップなし。ところが副社長だった坂口は今年、一気に■万円アップで■■万円にするなど上に厚く下に薄い分配法も、今度の造反のタネになったのである。 ※原文では■に(それぞれ異なる)数字が入っているが、わたしが隠した。 大塚も「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」にタイガーマスクの当時のギャラを書いているが、週刊現代の示した金額と符合している。しかし一方、大塚の示す坂口のギャラ(猪木も同額)は、週刊現代におけるアップ前の金額に等しい。これはどう考えたらよいであろうか。 1983年の坂口のギャラアップが「今度の造反のタネになった」とのなら、大塚がこれを知らないのはおかしい。1982年以前のギャラを書いているのか、それともアップ分は即ハイセルに流れるので、実質ないに等しい、という理屈なのか。 しかし、坂口(及び猪木)のギャラが実際にアップしたかどうかに関わりなく、そうした噂が流れて造反の誘因になった、ということが重要であろう。 猪木や新間のように、ハイセルへの金集めで選手や社員達に直接迷惑をかけたという話は、坂口に関しては聞かない。それでも坂口までクーデターの標的とされたのは、猪木と共に自分だけ大幅にギャラアップした…と見られた…からかもしれない。 もっとも社長を退任して1レスラーになった猪木、退社まで余儀なくされた新間と違って、坂口は副社長の座こそ降りたものの、渉外担当として取締役には残っており、処遇には違いがあった。 空前の好景気のただ中にあった新日が、なぜ選手のギャラを上げられなかったのか。ハイセルの他に原因はなかったのか。 「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」によれば大塚は、当時の日記に次のように書いていた、という。 <昭和58年6月30日(中略)その日の株主総会の話になる。19億8000万円売上げて、繰越金750万円、株主配当なし、こんな馬鹿な経営は考えられない、もういやだ、やめて何かしようと、彼(※加藤一良・営業部次長)も同じ意見だった。(後略)> そして、大塚が山本小鉄に相談した所から、クーデターへ繋がる動きが開始されたのである。 しかし大塚は、「新日本プロレス 10大事件の真相」の中で、当時自分が接待交際費を年間2500万円使っていた、と語っている。これは1982年度の売上高の1.26%に当たる。下記サイトによれば、交際費支出の平均は売上高の0.3%とのことである。 アセントリード株式会社 交際費について考えてみる https://www.ascentlead.co.jp/blog/499/ なお、大塚は「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」では、2000万円と書いている。売上の3%まで許可されていた、ともあるが、これは放映権料や物販、広告の収入を除いた、純粋な興行収入だけに対する比率かもしれない。 営業部長が2000万〜2500万円なら、専務取締役営業本部長(新間)は一体どれだけ使っていたのだろう。営業の金遣いの荒さが、利益が少ない原因の一つではなかったか。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」 新間さんは抜群に仕事ができる人だったが、それは新日本が潤沢な経費使用を認めていたからこそ発揮されていた側面があった。 一応、新間の反論も紹介する。 新間寿「アントニオ猪木の伏魔殿〜誰も書けなかったカリスマ「闇素顔」」(徳間書店、2002) 山本は選手たちの危機感をあおって、同調者を募っていった。反乱分子は年間20億円の売上げがありながら2000万円の利益しか上がらないことを追求したが、考えてもみてほしい。IWGPという巨大イベントを仕掛けるために2年という準備期間を要し、その間海外へ遠征したりと、莫大な経費を使っていたのである。ちなみに、翌年のIWGPは経費がかからなかっただけに、大きな利益を生んだ。 「週刊現代」1983年9月24日号 猪木の談話 「(前略)選手は、手に入るカネしか考えないから、自分のギャラが売り上げに対して少ないと思う。が、観客動員を高めるためにはカネがいる。外人のギャラもある。新間が外国へ足繁く行く必要だってあった。しかも一つの興行の売値は三百万円と決まってるしね。そうそう儲かるわけがない。(後略)」 「新間が外国へ足繁く行く」のはIWGPの準備のためだったかもしれないが、わざわざ名前を出して言う所に、責任転嫁の意味合いを感じなくもない。が、確かに金は使っていたのだろう。 交際費については金額の大きさもさることながら、この時期は特に、使途も重要。新日本プロレスのため以上に、ハイセルのために使われてはいなかったか。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」 ハイセルが金銭を借り入れた会社の商品を、新日本の選手や社員、プロレスマスコミ幹部が半強制的に買わされるということもあった。長野県・蓼科にあった別荘「蓼科ソサエティ倶楽部」の230万円もする会員権は幹部社員から順番に購入依頼が回ってきたし、その後も18万円する磁気マットレスや、健康泡風呂マシンが売りつけられたことを覚えている。 これは個人が買う話だが、会社も買っていたかもしれないし、ハイセルに金を出した外部の人達に、新日本の金で接待が行われていたかもしれない。 「磁気マットレス」はジャパンライフを思わせる。クーデターで新日本を追われた新間が就職した詐欺会社である。 「週刊ファイト」1990年11月15日号 I編集長の喫茶店トーク (前略) どこの団体だったとは言いませんけど、15年も前に、税務署から私のところに電話がかかってきた。「井上編集長への協力依頼費として200万円計上されているんですが、お受け取りになりましたか」って。 いまでも200万という金は大きい。まして15年前だ。私にすれば、目をむく大金です。すぐピンときたけど、そんな大金受け取っていませんとは言えない。そこで「大入りのときにはウチのスタッフにも大入り袋が出ますし、その他、車代だ、食事代だ、といったものを全部合わせるとそのくらいになるかもしれない」――と口から出まかせを言った。大入り以外、もらった記憶がないものですから……。 ひどいもんですね。みんな団体からかなりの金をもらっていると思っているかもしれないけど、1円ももらっていませんから。 1975年頃には、使途を偽った金の使い方もあったようだ。1980年代はどうだったか。 車代ということでは、ターザン山本「「金権編集長」ザンゲ録」(宝島社、2010)によると、1983年に新間が追放されるまで、新日本プロレスでは記者会見の度にマスコミに5千円のお車代が配られていたという。蔵前国技館等でのビッグマッチが満員になった時の大入り袋も同額だったという。 5千円の車代と大入り袋の話は、波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)にもあるので間違いなかろう。ただし波々伯部は、テレビマッチが満員になると大入り袋が出る、と書いている。その方が出る頻度が高そうである。 「週刊プロレス」1984年5月22日号 短期集中連載@ 手記 クーデターの汚名をぬぐい去る時がきた 大塚直樹 さらにこうした不安の中で、自ら自嘲気味に“新間金策”と称した新間さんからのハイセルのための資金調達が実に様々な形で、私たち営業マンに押しつけられることになったのです。 いくつかの例をあげましょう。 まず一番多かったのは、入場券販売の押しつけです。これは新日本プロレスの興行以外、例えば国際プロレス(当時)や黒崎道場の試合の入場券が100枚200枚、さらに様々な政界パーティー券の押しつけが5枚10枚という単位であったのです。(後略) これは国際プロレスや新格闘術(キック)のプロモーターにまでハイセルへの資金提供を頼み、見返りにその入場券を引き受けたということであろう。新日本の営業マンにライバル団体の切符を売るよう専務取締役が命じるのは、会社に対する背任行為ではないか。 |
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(2)造反者それぞれの思惑 クーデターについて語っている当事者は、まずは大塚直樹、次いで佐山聡(タイガーマスク)、クーデターを行われた側として新間寿。 他の人の証言は少ないが、なくはない。 「週刊平凡」1983年10月13日号 山本小鉄の証言。トロイカ体制下の9月29日取材。 「タイガーマスクがいう“不明朗な金銭問題”というのは、たとえば『ハヤブサ・エイジェンシー』です。これはタイガーマスクのサイン会などリング外の活動をマネジメントするトンネル会社ですが、いくらやってもギャラがタイガーマスクのもとへ入ってこない。ほかの若手レスラーにも同じような不満が溜まって、それが私のところへ集まってきたというわけなんです」 「タイガーとは1か月ぐらい前に連絡取ったのが最後でした。“山本さん、会社はうまくいってますか”と心配しているので、“だんだんよくなっているよ”と答えたんです。とにかく復帰してもらいたいですよ。手をついてもいいからもどってきてもらいたい。10年に1度出るか出ないかの選手なんです。そういう選手をこのまま埋もれさすのは、わたしとしてはさみしくてねえ」 「猪木さんが社長を降りたからといっても、やっぱりオーナーは猪木さんだという気、ありますよ。それなのに権力抗争だなんて……」 これだけである。しかし同志とも言うべき望月和治が、同じ記事中でやや詳しく語っている。 「テレビ朝日が新日本プロレスの経営権を握ろうなんて、思ってもいませんよ。今度だって、もしテレビ朝日がなんとかしてほしいのならば教えてくれと、テレ朝の役員に聞いたんです。そしたら、それは新日本プロレスの社員として考えろ、といわれたんですよ。それで私はアントンに“ハイセルをやめるか、新日本プロレスの役員を辞めるか”と迫ったわけです。 猪木さんの一連の個人事業は、事務サイドから見れば心配の種ではあったけど、経営努力によって乗り越えられるものでした。しかしハイセルの負担は大きすぎました。けっしてクーデターなんかじゃありません。私たちはただ、新日本プロレスを常道にもどそうと思い、再建まで修復作業をしているだけです」 「タイガーは新日本プロレスを浄化しようという気持ちだったんです。彼の投じた一石は正しかった。結果的に、新日本プロレスの改革がなされたわけですからね」 「もともと新日本プロレスを分裂させようとか、特定の人が猪木さん、新間さんに代わって権力を握ろうとか思ってやったことではないわけですし、アントンは創立者でもあり、新日本プロレスの顔であることに変わりはありません。彼はリング上では大天才のレスラーだし、アントン・ハイセルさえきちんとしてくれればまた経営陣にもどってほしいと思っています」 「タイガーがいまでも純粋な気持ちを持っていて、天使のような気持ちでテーブルについてくれれば、話し合いに応ずるつもりです。タイガーはいまでも身内と思っているし、個人的にはなんの恨みつらみもないわけですから。ただ、これまでのいきさつで、世話になった人がいれば、なかなか縁は切れないでしょうがねぇ」 望月については、新間が次のように書いている。 新間寿「さらばアントニオ猪木」(ベストブック、1993) (前略)テレビ朝日からきてくれた役員の望月さんという人からも、土地を担保に一億何千万円かの資金を用立ててもらったことも……。 大塚直樹は次のように書いている。 「週刊プロレス」1984年6月12日号 短期集中連載C 手記 クーデターの汚名をぬぐい去る時がきた 大塚直樹 その席で再び弘中さんから、 「望月さんという常識的な考えを持つ人のもとで、営業の大塚ラインの協力を得て、会社を正常化したいという強い気持ちがあるのだが…」 と告白されるのですが、(中略) しかし、その場でお互いの結論が出るはずもなく、この日の話し合いを契機に本社7階の会議室で望月、弘中、安西、加藤、永源、大塚(博美、当時副社長)、そして私の7人で、ちょっとお盆時期で暇だったこともあり、前後して、毎日のように話し合いが行われることになります。 望月はクーデター前は常務取締役総務部長。弘中勝巳は資金部長、安西光弘は経理部長、加藤一良は営業部次長。 これらの人達は皆、新日本プロレスの状況に危機感を持ち、何とかしなければと思っていた。その共感が糾合されてクーデターに繋がったのだったが、何とか、と言っても具体的に何をするかの考えは人それぞれで、そのために結束が乱れ、クーデターは一時成功したにもかかわらず、勢いを失って鎮圧される。 山本小鉄は、大塚直樹らと話し合って猪木・坂口抜きの新団体設立(エースは藤波)を考えたが、旗揚げ資金を集められず、望月・大塚博美と組んで内部改革に切り替え、猪木降ろしのクーデターを実行した。彼は終始一貫して戦闘的で、猪突猛進したので周りが付いて行けなくなった感はある。大塚からは「暴走」と言われたが、小鉄側から見れば大塚は変節者となろう。 大塚直樹は元々は退社、独立して興行会社を作ろうと考えており、小鉄らと話し合って新団体設立を目論むに至ったものの、猪木降ろしのクーデターには賛同しなかった。大塚の作ろうとする会社が、自らレスラーを抱えない限りは、既存の団体(とりあえずは新日本)から興行を買わねばならない。その可能性も常に考えていたせいか、大塚は小鉄らと組む一方で、敵であるはずの猪木や新間にもいい顔をしようとしていたように見える(「団結誓約書」を作った造反組の会合の後で新間に会いに行く、クーデター実行日の朝に一人で猪木に会って進言する、等々)。 大塚はクーデターで代表取締役になった小鉄を、誓約を破って個人的利益に走った、と非難するが、猪木を降ろすなら誰かが後任にならねばならないし、取締役でなければ代表取締役になれない(小鉄と違って大塚や藤波は取締役ではなかった)。そもそも猪木は降ろさない合意があったのに強行したのであれば非難に値しようが、それが個人的利益に走ってのものかはまた別問題であろう。 見方が変われば、大塚もまた非難を受ける側の立場となる(下記はその例)。 「GORO」1983年12月8日号 クーデターを起こし、しぶしぶ会社を去った人、何回も辞表を出したり引っこめたりした人が、新しい興行会社を作り、新日本プロレス(北海道・四国の一部と年に数回の後楽園)の下請けをすることになったのは、何とも不明朗でわけがわからない。 新日本プロレス上層部の良識派が、 「昔ならクーデターを起こした連中は全員銃殺刑だ。それを下請けまでやらせるとは、おたがいよほど弱みを握り合っているのだな」 と、ささやいているほどだ。 大塚には、「クーデター」(=猪木降ろし)は小鉄が暴走してやったことで、自分は加担していない、という思いがあるようで、それは週刊プロレスに寄せた手記の「クーデターの汚名をぬぐい去る時がきた」という題名にも現れている。しかし大塚の目論んだ新団体設立も、新日本への立派な造反ではあろう。大塚が独立して作った「新日本プロレス興行」が、良い条件で新日本の興行を扱えたことに、上記のような非難の声が上がるのも仕方ないだろう。それらの声も影響してか、新日本と大塚の会社との間にはすきま風が吹き始め、やがて大塚は全日本プロレスに乗り換え、長州力らを引き込んで「ジャパン・プロレス」を誕生させる。 佐山聡(タイガーマスク)は、ギャラや結婚の問題で新日に嫌気がさしていた所に、新団体に誘われた。しかし大塚らに不信感を抱き、引退宣言をしてフライング気味に新日を辞め、独自の動きをしている(彼もまた「クーデター」には加担していないことを強調する)。その理由を「GORO」に寄せた「独占手記」で次のように言っている。 「GORO」1983年12月8日号 8月に入り、大塚さんが、僕(※佐山)に、もう営業も全員辞めます、ほらこの通り、と言って辞表を並べてみせた。しかし、辞表は3通しか見えなかった。そのことをSさん(※佐山の個人マネージャー・曽川庄治)に言うと、 「やっぱり良識派のU(※上井文彦)とY(※吉田稔)は、納得していなくて辞表を出していないんじゃないか」 といって、直接ふたりに電話して確めることになった。 その結果、意外にも、大塚さんから新団体の話が営業の人たちに持ち出されたのは、僕たちに誘いかけるずっと前だったことが判明した。 その内容は、 「アントンハイセル(注・猪木がブラジルに設立した飼料会社で超赤字経営といわれる)が潰れる。そうなると新日本も潰れる。だから、潰れる前にみんなで出て、新しい理想の団体を作ろう。それに、もう藤波さんも、長州さんも、タイガーも、山本さんも、永源さんも同意してくれている」 というものだったという。 僕も、長州さんなども、“同意”の返事どころか、アタックもされる前に、こういうことを言っていたわけだ。ふたりは、新日本が潰れてプロレスの灯を消してはいけないと思い、また主力レスラーも出ると聞かされ、それなら、ということで同意したという。話が全然ちがう。 本当にレスラーのためのクリーンで理想の団体――本当にそうなのだろうか……?僕の胸からは警戒心がふくれあがってきた。 佐山は新団体設立の動きとは一線を画し、曽川、営業の吉田・上井、そして藤波と共に、選手のプロダクション(ユニオン)を作ろうと計った。大塚直樹らには不信感を抱いていたが、望月らの内部改革派とは通じていた(引退宣言をした佐山が、マスクとチャンピオン・ベルトを返上した相手は小鉄と大塚博美であった)。 藤波は、全ての派閥に繋がっていた。そのせいで裏切者のように言われることもあるが、彼なりに自分が結節点となって各派の仲を取り持とうとしていたのだと思う。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」 猪木さんは、まるで自分自身がその場にいたかのように、私や小鉄さん、佐山の発言や動きを詳細に語り始めた。内容の70%は、私が知る事実と合致していた。 誰かが、猪木さんに報告している。最後に、猪木さんが言った。 「もう、全部藤波から聞いてるからよ」 (中略)藤波は「タイガーとショウジ・コンチャに騙された。猪木さんが新しい団体に行かないと聞いて、話を断った」と猪木さんに語ったという。(後略) これはクーデター決行後のことであるが、後段のタイガーに騙された云々という話は、さすがに信じがたい。猪木から離れるために作る新団体に、猪木が行くわけがない。 これは、藤波から聞いたとして猪木が大塚に語った話である。どこまで信じていいのか。不明瞭な藤波の話を猪木が勝手にそう解釈しただけかもしれないし、猪木が大塚と藤波を離反させようとして話を盛ったのかもしれない。 後年の社長時代の藤波は猪木のイエスマンだったかもしれないが、飛龍革命の際は猪木と真剣に闘っていた。この時もそこまで卑屈であったとは考えにくいのだがどうであろうか。 「GORO」1984年1月1日号 何よりも失敗だったのは、大塚(※博美)副社長が今回のもめ事をテレビ朝日上層部に話してくれ、この日夜、僕(※佐山)たちの話を聞いてくれることになっている、と藤波さんに言ってしまったことだ。 大塚副社長は、もしユニオンを作るならテレビ局側は道場や事務所の面倒までみるでしょう、と言ってくれていた。僕たちも、テレビ局に一切のお膳立てをしてもらうことに異存はなかった。(中略) テレビ朝日上層部との話し合いに、藤波さんもそれは良いことだと来ることになった。僕たちもより多くの主力選手が来てくれた方がいいと思っていた。一方、U(※上井)さんは電話で大塚(※直樹)さんから、横浜の初会合(3日)から僕たちの動きを藤波さんを通して知っていたと聞き、興奮してとにかく大塚さんに会ってくると出ていった。会談場所のホテルへ行く前、待ち合わせ時間ぎりぎりに、大塚さんと会ってきたUさんが、藤波さんといっしょに現われる。 「大塚さんの言うことは疑わしい点もあるが、つじつまは合うようだ。大塚さんとも話し合ってください」 ぎりぎりになって、Uさんまで変わってしまった。正直言って焦ったが、時間がなく、テレ朝側と会談に入る。そこでUさんは、大塚さんたちの新団体のことも言ってしまう。絶対秘密のはずの会談は大塚さん側に筒抜けだったのだ。翌日、大塚さんは、藤波さんやUさんに聞いて参加メンバーはみんなわかっている、話し合いの結果はどうなったのか、とテレ朝側に連絡。絶対の秘密が翌日にはもうバレていることで、僕たちは信用を無くし、単なる仲間割れのように思われてしまった。 ここに至って僕は一切から身を引くことにした。(後略) この話が、大塚側から見るとこういうことになる。 大塚直樹「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」 <夕方急に藤波が事務所に来る。「いろいろとあったが私の考えは、はじめから変わっていない。7月14日札幌のときと同じ、いままでのことはかんべんしてほしい」と頭を下げ、これからテレビの人たちと会う、話の内容はすべて伝える(という)> <上井も、7Fに伊藤と一緒に来て、「こんな考え、行動をした私を許してまた、皆の仲間へ入れてくれるのですか」という。もちろん、お前は身内なのだからと受け入れる> このとき佐山と曽川は、新しいプロダクションを作り、テレビ朝日にバックアップしてもらうという交渉を進めていた。この日、上井と藤波は、佐山、曽川らタイガー一派とともにテレビ朝日側の幹部と交渉に臨んでいる。 夜になって、家に帰ると上井、そして藤波からも電話があった。上井の話は次のようなものだった。 「プロダクションの話をしましたが、私と藤波さんはタイガーやショウジ・コンチャ(※曽川)と考えが違うので、うまくいきませんでした。曽川はやはり、自分の地位の確約を求めてきました」 そして、曽川からも電話がかかってきた。こちらは正反対の内容である。 「今日、テレビ局と話し合ったよ。すべてうまくいっている」 翌8月19日、テレビ朝日の岡田プロデューサーより電話があった。 岡田さんは言った。 「大塚さん、結局ね、昨日の話はウチが、タイガーを取るのか、それとも猪木さんを取るのか、はっきりしてくださいという話だったんですよね。いま、局長たち上のほうが話をしていますから……」 クーデターはテレビ朝日が猪木側について失敗に終わったため、初めから無謀な企てだったとも言われるが、もしクーデター側が一致団結し、藤波、長州、タイガーマスクが揃っていたら、どうだったであろうか。テレビ朝日専務取締役の三浦甲子二の鶴の一声でクーデターは鎮圧された、とも言われるが、彼にしても新間を復権させるまではしなかった。クーデター側がタイガーマスクを復活させられるならば、少なくともテレ朝の現場レベルでは、クーデター体制の許容も考えられたのではないか。 「別冊ゴング」は次のように伝えている。まだクーデター後のトロイカ体制が続いている頃である。 「別冊ゴング」1983年11月号 テレビ朝日の岡田一茂ディレクターは熱烈な「タイガーマスクの理解者」だが「あきらめていませんね。とにかくリングに戻し、もう一度ブラウン管にのせたい。事実、僕はタイガーと何度も会っているし、いろんな話をしている。僕の感触はタイガーが一般マスコミにいっていることとはちがう。かれは戻ると思いますよ。時間はかかるかも知れませんが、カムバックはすると思います」と熱っぽく語っている。 「別冊ゴング」1983年11月号 (前略)レスラー達のファイトマネーは今度の「騒動」を機として一万円から五千円アップした。レスラー達にとっては「いい騒ぎ」であった。 「実話TIMES」1984年8月号 11月11日の新日プロの臨時株主総会で、32%の株主であるテレビ朝日の尻押しによって猪木、坂口は正副社長に返り咲いたが、この日に正式に解任された新間氏は、 「新間を辞めさせる、クーデター派を処罰しない、新日プロから猪木の事業に金を出さない、この三つがテレ朝側の条件だった」 とテレ朝からの出向役員である岡部(※政雄)副社長に、猪木同席のうえではっきりと言われた。(後略) 猪木・坂口が復権して新日クーデターは結局は失敗に終わったものの、選手のギャラアップとハイセルの切り離しという所期の目的は果たした、とも言えよう。 しかし、その代償として新日本プロレスは結束力を失ってやがて分裂し、弱体化した。その後も新日本には好不況の波が発生するが、1980年代前半の人気を超えることは未だにできていない。 ※新日本プロレスの株式の保有比率は、猪木・新間・倍賞美津子47%、テレ朝32%、その他20%だった由(「週刊平凡」1983年10月13日号)。新間の持ち株がその後どうなったのかはわからない。 追記2023.9.28 クーデターは失敗し、復権した猪木に皆がひれ伏した…のかというと、そうでもなかったようだ。猪木の権力は制限されており、猪木が不満をかこっていたからこそ、新間が作ったUWFへの加担が噂された。 「週刊ゴング」1984年5月31日号 新日プロサイドはアントニオ猪木が“社長”といっても、猪木には代表権が与えられておらず、代表権を持っているのはテレビ朝日から出向している岡部副社長、そしてレスラー達も猪木派(藤原、高田ら)、山本小鉄派(藤波、永源ら)、維新軍団・長州派、そして中間派(坂口ら)に分かれており、坂口は副社長という立場上、猪木を立てているが、実際上は山本小鉄派に近いという者もいる。 「週刊ゴング」1984年7月19日号 昨年の8月のタイガーマスクの離脱に端を発し、いわゆる「クーデター事件」が起こって以来、新日本プロレス内部には様々な派閥ができ、アントニオ猪木は「社長」の座を保っているものの、代表権のない取締役であり、実質的には「浮きあがった存在」になってしまっている。 実際に、社長業を果たしているのは現場(プロレス企画宣伝)に関して坂口征二副社長であり、会社内部(総務、経理関係)においてはテレビ朝日から出向いている岡部副社長である。 アントニオ猪木は新日本プロレスの大きな看板、シンボルという存在になってしまっているのが実情だ。 だが、藤原と高田は、アントニオ猪木の直系であった。アントニオ猪木に心酔し、猪木が生きる座標とまでいっていた藤波辰巳は、昨年のクーデター以来、猪木に距離を置き、山本小鉄、坂口征二と一つのラインを形成しており、今はこのラインが新日本プロレスの主流派といってよい。 藤波が少しだけクーデターについて語った記事がある。東スポのフィルターがかかっていて例によって要領を得ないが、眼光紙背に徹してフィルターの向こうにある真実を逃さずとらえようとするのが、プロレス・マニアの習いではなかろうか。 「東京スポーツ」1984年2月28日号 緊急激載 崩壊『猪木軍団』<1> 「新日プロができてから十二年、俺は猪木さんの下でプロレス哲学を叩き込まれてきた。猪木さんの進む道を踏襲していれば安心なんだ。それで俺の人生に狂いが生じることは絶対にあり得ない、と思い込んでいた。ところが、昨年四月、フト自分を振り返ってみた時、重大なことを見落としていることに気がついたんだ。俺の上に、いつも立っているべき猪木さんがいないんだ。猪木さんの後光の中で何も考えずやってきた自分に背筋が寒くなってきたんだ。一時は、このまま引退しようかとも考えた。何かをやらねば、と海外への脱出も試みた。が、結論は出なかった。そこへ起こったクーデター事件は、俺にはっきり“もし猪木さんがいま突然消えてしまったらどうするんだ”を直接的に教えてくれた。まるでハンマーで頭をブン殴られたようなショックも受けた。俺達全員が新日プロの今後を考えなければならない時にきていたのだ。が、最も肝心な部分の解明がされないまま年が明けてしまったんだ」 (中略) 藤波が絶対に犯してはならない猪木の聖域。そこへ足を踏み込まざるを得ない苦痛が、その当時の藤波を金縛りにしていたのかもしれない。もがけばもがくほど、藤波にのしかかる猪木との十五年の絆はギシギシ音をたてて崩れてくるのだ。 猪木の聖域――プロレスラー猪木が持つ、もう一つの顔、猪木のプライベートゾーンである。 1983年4月、造反した長州に藤波は連敗。裏では契約更改でギャラが据え置かれた時期でもあり、藤波は退社して大阪の義父と仕事をしようかと思っていた、と大塚直樹に語ったという(「クーデター 80年代新日本プロレス秘史」)。藤波は不出場だったIWGP(5〜6月)の期間は海外に行っていた。次のサマーファイトシリーズは、IWGP決勝でKOされた猪木が欠場したものの、藤波対長州の抗争とタイガーマスク人気で、観客動員、TV視聴率とも落ちなかった。猪木抜きでもやれる、という自信が、新会社設立の謀議を後押ししたようだ。 「ザ・プロレス」1983年5月4日号 悲壮決意 4・21長州とのWWFインタヘビー奪回戦敗れれば 藤波『新日離脱する』 アメリカ再修行も “ドラゴン”藤波辰巳が悲壮な決意を固めた。4・3決戦、長州に敗れWWFインタヘビー王座転落。試合中、右ヒザジン帯も損傷し欠場を強いられる二重の屈辱を味わった。「ヒザの状態がまだ……」の藤波だが、21日の再戦では「絶対ベルトを取り返す」。掛け声だけの必勝宣言ではない。「21日、奪回に失敗したら、新日プロを離脱する」とまでいうのだ。 「東京スポーツ」北海道版1983年8月7日号 猪木不在シリーズ驚異の成果 “外圧”集中!のり切った藤波 新日プロ サマーファイト・S徹底総括 ファイト、観客動員、TV視聴率を斬る うれしい誤算 フロント 33戦して満員26戦 TV視聴率も24.8%獲得 大阪決戦 (中略) ◇藤波の証言「自分自身では、決してそんなことはないと思っていても、やはり心の片隅に“猪木さんさえいれば”という甘い考えがあったことは確かですよ。これまで、途中欠場はあったが、それと今回のこととは、根本的に違いますからね。ヘタをすれば、このまま猪木さんは永遠にリングに立てなくなるんじゃないか……そう考えるともう居ても立ってもいられない気持ちになりましたよ。自分が大ケガしたとき以上の危機感でした」 新日クーデターの総括は、竹内宏介の次の文章…これに尽きると思う。 竹内宏介「新日本プロレス 今、そこにある危機!! 続・新日本プロレス事件簿(改定補充版)」(日本スポーツ出版社、2002) 結局、この事件に真の首謀者は存在しなかったのだ。それぞれ自分なりの野心は多かれ少なかれあったとしても…この事件にかかわった者全員が自分の将来に不安を持ったからこそ決起しざるを得ない状況に立たされたのである。そして、その不安の原因を作ったのは『アントン・ハイセル』なる赤字会社であり、その資金調達のために新間氏が手掛けた強引なまでの金策であった事は疑う余地もない。 |
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