「日本国紀」について(2)フロイスかザビエルか

 

 

 

黒字百田尚樹「日本国紀」(幻冬舎、2018)からの引用。文中、敬称は略します。

 

 

 第五章 戦国時代

  キリスト教の伝来

P149〜150。第1刷、2018年11月10日発行)

 

 戦国時代の後半に日本にやってきた宣教師たちは、一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆している。それらは手紙や日記などに記されているが、最も有名なのは、前述のルイス・フロイスが書き残したものである。そこにはヨーロッパのインテリ(フロイスは文才豊かで教養もある人物だった)の目を通して見た当時の日本人の姿がある。彼が本国のイエズス会に書き送った中から、日本人に言及したところをいくつか紹介しよう。

「この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々であり、日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません」

「驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません」

「窃盗はきわめて稀です。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいます」

 善良で、親しみやすく、名誉を重んじ、盗みを憎む――これが十六世紀の日本人の姿であった。もっとも、あくまでヨーロッパの人々から見て、ということであり、絶対的な基準があるわけではない。(略)

 

 

 ここにおいて文面を紹介されている手紙は、フロイスではなくザビエルのものであると、インターネット上において指摘されていた。

 

 

Twitter モーメント

『日本国紀』フロイス⇔ザビエル混同箇所

https://twitter.com/i/moments/1069746768173133824

 

 

 増刷時に、「ルイス・フロイス」が「フランシスコ・ザビエル」と修正された。指摘が正しかったと著者・出版社が認めたことになる。

 

 

P149〜150。第8刷、2019年1月20日発行)

 

 戦国時代の後半に日本にやってきた宣教師たちは、一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆している。それらは手紙や日記などに記されているが、最も有名なのは、前述のフランシスコ・ザビエルが書き残したものである。そこにはヨーロッパのインテリ(ザビエルは文才豊かで教養もある人物だった)の目を通して見た当時の日本人の姿がある。彼が本国のイエズス会に書き送った多くの手紙の中から、日本人に言及したくだりをいくつか紹介しよう。

「私がこれまで会った国民の中で、キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません」(ピーター・ミルワード著『ザビエルの見た日本』より、以下同)

「(聖徳に秀でた神父の日本への派遣と関連して)日本の国民がいまこの地域にいるほかのどの国民より明らかに優秀だからです」

「日本人はとても気立てがよくて、驚くほど理性に従います」

 優秀で気立てがよく、理性的で、盗みを憎む――これが十六世紀の日本人の姿であった。もっとも、あくまでヨーロッパの人々から見て、ということであり、絶対的な基準があるわけではない。(略)

 

 

太字部分が修正箇所(太字による強調は引用者=わたしによる。原文にはない)。修正は第5刷で行われた由。

 

 

論壇net

https://rondan.net/5459#i-3

2018.12.02

『日本国紀』、無断転載箇所を第5刷にて大幅改竄

3 ザビエルとフロイスの混同箇所

 

 

修正は人名を正しく改めるにとどまらず、(これはそうあるべきことだが)出典を明記するようにした上、紹介する手紙の文章が大きく変わっている。これはなぜなのであろうか。

 手紙の文章は、修正後は元にあった「驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません」に相当する部分がなくなっており、内容は明らかに後退している。それでもそうせざるを得なかった事情があるはずである。

 

 一つ考えられるのは、「フロイスではなくザビエル」との指摘に対し、本当にそうなのかを自分で確認できず、改めて確実な典拠を探して「ザビエルの見た日本」を見つけてそこから引用した所、直接の典拠が変わった上に取り上げられる大元の手紙自体がそもそも別のものになったため、思いのほか違う文章になってしまった、ということである。

 なぜ自分で確認できなかったのか、という点については、文献ないしウェブ・ページを典拠として手紙の文章を記述したものの、資料の整理・管理に問題があってどこから引いたかわからなくなっていた、ということが考えられる。

そもそもフロイスとザビエルの取り違えが、元々は単なる勘違いだったとしても、校閲や編集者のチェックを素通りしてそのまま出版されてしまったことも、同じ事情(資料管理の不備)を思わせる。

 

 第二の仮説として、次のようなことも考えられる。直接的にはインターネット上のウェブ・ページが典拠であり、それがどこかはわかっているのだが、更にその先の典拠(大元の手紙を訳出した日本語文献)がそのページに記載されておらず、確認ができなかったため、改めて確実な典拠を探して「ザビエルの見た日本」を見つけた。元の典拠とは違うので、文章が変わってしまうが受容した。

 

第三の仮説。直接的にはウェブ・ページが典拠であり、更にその先の典拠(大元の手紙を訳出した日本語文献)もわかってはいたものの、孫引きだけして原典には直接当たっていなかった。修正に当たって慎重に直接原典を確認する必要を感じたものの、すぐ入手できなかったため、すぐ入手できた「ザビエルの見た日本」からの引用に切り替えた。

 

 第四の仮説。典拠(大元の手紙を訳出した日本語文献)が何かを知っていた、あるいは改めて調べて知ったものの、「日本国紀」1〜4刷は出典を示しておらず、著作権法(第48条)違反を問われる恐れがあると、改めて認識した。今更典拠を記すだけではそれまでの非を認めたものととられかねないので、これを別の引用元からの引用にそっくり置き換えることで、問題を指摘される恐れのある文章を暗々裏に削除した。

 

 以上はあくまでも仮説であり、著者側の正しい証言がなければ証明も反証もなし得ないことではある。しかし、わたしは他の理由を考え付かない。

 

初刷りにおけるフロイス(実はザビエル)の手紙の文面について、その典拠を探した。(書き手の作業的に)依拠が直接か間接かはわからないが、訳文の大元は次のものであろう。

便宜上、文毎に番号を付す。

 

P149〜150)

@ 「この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々であり、日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません」

A 「驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。

B 彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません」

C 「窃盗はきわめて稀です。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいます」

 

 

河野純徳・訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡3」東洋文庫(平凡社、1994)

 

 書簡第九〇

   ゴアのイエズス会員にあてて

 一五四九年十一月五日 鹿児島より

 (略)

 12 日本についてこの地で私たちが経験によって知りえたことを、あなたたちにお知らせします。

 第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。

 

 

 太字部分が「日本国紀」@Aに相当(太字による強調は引用者=わたしによる。原文にはない)。

 

 

ペドロ・アルーペ、井上郁二・共訳「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻」岩波文庫(岩波書店、1949)

 

 書翰 第二七(EP.90)

        ゴアの全會友宛

        鹿児島にて、一五四九年十一月五日

 (略)

 14 彼等は侮辱や嘲笑を默つて忍んでゐることをしない。(略)竊盗は極めて稀である。死刑を以て處罰されるからである。彼等は盗みの惡を、非常に憎んでゐる。大變心の善い國民で、交はり且つ學ぶことを好む。

 

 

 太字部分が「日本国紀」BCに相当(太字による強調は引用者=わたしによる。原文にはない)。

 

 

 つまり、「日本国紀」にはフロイス(実はザビエル)の言として、2つの文献に基づく訳文が混在していた。しかも「日本国紀」は「@」、「AB」、「C」という単位で鍵括弧で括っていたのだが、実際には@Aが連続していて、ABは離れている上に訳者が異なる。やはり資料がきちんと整理されて活用されていない印象を受ける。

 

 上記2つの文献は、共にシュールハンマー、ヴィッキ編「聖フランシスコ・ザビエル書簡・文書」第1、2巻(イエズス会歴史研究所、1944−1945)を基にした訳書である。「書簡第九〇」と「書翰 第二七(EP.90)」は同じ手紙である(「EP.90」がシュールハンマーの付けた書簡番号である)。

@〜C全ての文について、いずれか片方の文献のみから訳文を引くことが可能である。それなのに、手間暇を掛けてそれぞれの訳文のいい所取りをした、ということであろうか。

 

 参考にそれぞれの文献の、「日本国紀」に典拠として採用されなかった訳文を示す。

 

 

ペドロ・アルーペ、井上郁二・共訳「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻」岩波文庫(岩波書店、1949)

 

 書翰 第二七(EP.90)

 

 12 そこで私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によつて識ることのできた日本のことを、貴兄等に報告したい。先づ第一に、私達が今までの接觸に依つて識ることのできた限りに於ては、此の國民は、私が遭遇した國民の中では、一番傑出してゐる。私には、どの不信者國民も、日本人より優れてゐる者は無いと考へられる。日本人は、總體的に、良い素質を有し、惡意がなく、交つて頗る感じがよい。彼等の名譽心は、特別に強烈で、彼等に取つては、名譽が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問はず、貧乏を恥辱だと思つてゐる者は、一人もゐない。

 

 

太字部分が「日本国紀」@Aに相当(太字による強調は引用者=わたしによる。原文にはない)。

 

 

河野純徳・訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡3」東洋文庫(平凡社、1994)

 

 書簡第九〇

 

 14 〔日本人は〕侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人びとではありません。(略)この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。

 

 

 太字部分が「日本国紀」BCに相当(太字による強調は引用者=わたしによる。原文にはない)。

 

 

 しかし、別の推論も成り立とう。2つの文献の訳文は、それぞれがインターネット上の多くのウェブ・ページに引用されている。その何れかから、それぞれを引いて来た可能性がある。

 たとえばウィキペディア「フランシスコ・ザビエル」の記事にも、@Aに当たる文章が「聖フランシスコ・ザビエル全書簡3」から引用されている。

 

フランシスコ・ザビエル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 まずこれを見つけて、他にももっとないか、と検索して、「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」の訳文のBC相当箇所も見つけた、ということが考えられる。

 

 

れんだいこの言語学院

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/senkyoshireportco.html

来日宣教師の日本レポート考

 更新日/2017(平成29).6.11日

 

 

 たとえば上記のページには、「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」の、@〜C相当分の訳文が引用されている(なお、「聖フランシスコ・ザビエル全書簡3」の、@相当分の一部もある)。

 

 著作権法上の解釈を試みれば、ザビエルの手紙は著作物であり、その和訳もまた著作物である。著作者以外がその文章を一部でも複製するには条件を要する。

 複製は「既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製すること」(注1)。再製は完全同一でなくてもよい。変形と言えるほど異同があれば複製ではなくなるとしても、「他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させ」(注2)る限りは、それは翻案(著作物の翻訳、編曲、変形、脚色、映画化等)となる。引用の要件を充たす複製は引用として著作者の許諾なしに行えるが、翻案は許諾がなければできない(引用より要件が厳しい)。

 「日本国紀」1〜4刷におけるザビエルの手紙の部分は、原文を和訳した2つの出版物とそれぞれ表現に同一性が認められる。若干の異同があるが変形と言える程度ではない。複数の和訳を比較すれば特徴が違い、誰が訳しても同文になるようなものではない。これを引用と考えれば、著作権法第48条により「出所の明示」が義務付けられ、違反には罰則がある(第122条)。これは親告罪ではない(第123条)。

 もちろん法律の解釈は最終的には裁判所の責任である。しかし、疑いを覚える者は作品の評価を下げざるを得ないだろう。

 

(注1)

昭和50年(オ)第324号 昭和53年9月7日 最高裁判所第一小法廷判決

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53243

 

(注2)

昭和51年(オ)第923号 昭和55年3月28日 最高裁判所第三小法廷判決

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53283

 

 

 

著作権以外の問題としては、細かい話をすれば、「ゴア」はインド西海岸の都市(ポルトガル領インドの首都にしてイエズス会のアジア宣教の拠点)なので、「本国のイエズス会に書き送った」も誤りと言えようか(Twitterで既に指摘あり)。

 そもそも、「本国」がどこを指すのかもはっきりしない。イエズス会総長はローマにいたが、イエズス会東インド管区の本部はリスボンにあった(注)。ザビエル自身はバスク人でナバラの出身である。

 

(注) 松田毅一・監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集 第T期第1巻」(同朋舎、1987)の「解題」(松田毅一)G、IDページ。

 

 

 この手紙(EP.90)が書かれたのは、ザビエルが鹿児島に上陸(1549年8月15日)して3か月程の時点である。ここに美点を上げられているのは、日本人というより薩摩人である、という視点もあるようだ。

 

 

鹿屋体育大学附属図書館

学術研究紀要 第23号(2000年3月)

http://www.lib.nifs-k.ac.jp/nii/cat5286/21-40/23.html

児玉正幸,大坪 壽

幕末薩摩の倫理的風土についての研究 : 薩摩武士気質とその教育的土壌

pp.33-40  23-33.pdf

 

 

 もっとも、薩摩は山がちで貧しいため人々は海賊として働きに出る、とフロイスは「日本史」に書いている(松田毅一、川崎桃太・訳「日本史6 豊後篇T」普及版(中央公論社、1981)P72)。

 

 

「日本国紀」に「戦国時代の後半に日本にやってきた宣教師たちは、一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆している。」とあるのもどうであろうか。宣教師にも色々な人がいたし、彼等の見た日本人にも色々な人がいたろう。

 

それらは手紙や日記などに記されている」ともあるが、手紙はともかく、当時の宣教師の「日記」が残されているとは寡聞にして知らない。

 

 

松田毅一、エンゲルベルト・ヨリッセン「フロイスの日本覚書」(中央公論社、1983)

 

第五章 日本とヨーロッパの風習の相違について

P176)

 その一方、ヨーロッパ人のうちで、日本人に接した人びとの日本人観もまた大きく二つに分れたように思われる。だが、私たちの知る限り、フランシスコ・ザビエルや、ニエッキ・ソルド・オルガンティーノのように絶大な好意をいだいた人は非常に少なくて、十六世紀の終りから十七世紀に入ると、彼らのほとんどは日本人に反感をもったようである。イタリア人はオルガンティーノが典型であるが、ポルトガル人やスペイン人と異なって、日本人に好意を寄せる傾向があったように思われるが、そうともいえず、(略)ヴァリニャーノもしだいに日本人を嫌悪し軽蔑したことは既述のとおりである。一六一八年に着任した日本イエズス会巡察師のポルトガル人フランシスコ・ヴィエイラは、日本人を「けだもの」とか「野蛮人」と悪罵し、フロイスの後輩で、彼とは比べものにならぬほどの日本通になったポルトガル人ジョアン・ロドゥリゲス・ツヅ師は、一五九八年二月に長崎からローマのイエズス会総長に宛てた書簡のなかで、日本人は天賦の才に乏しく、天性優柔で動揺しやすい国民である、としたためている。

 

 

松田毅一はフロイス「日本史」の翻訳で名高い歴史学者。1992年のNHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」の監修もされた由。

 

 「フロイスの日本覚書」に、「一般的に彼の日本人観は好意的というよりも絶讃に近い感を抱かしめるものがある」(P42)と書かれたザビエルにしても、次のような文章も残している。

 

 

河野純徳・訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡3」東洋文庫(平凡社、1994)

 

 書簡第九六

   ヨーロッパのイエズス会員にあてて

 一五五二年一月二十九日 コーチンより

 (略)

 15 (略)〔山口から京都へは〕二ヵ月間の旅程でした。私たちが通った所でたくさんの戦があったために、途中でいろいろな危険に遭いました。ミヤコ地方のひどい寒さや、途中で出会ったたくさんの盗人のことについては、ここでは話しません。

 (略)

 50 (略)日本や他の地方で今まで私が会った限りでは、中国人はきわめて鋭敏で、才能が豊かであり、日本人よりもずっと優れ、学問のある人たちです。

 

 

河野純徳・訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡4」東洋文庫(平凡社、1994)

 

書簡第一一〇

   ローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父にあてて

 一五五二年四月九日 ゴアより

 (略)

 5 (略)日本人は外国人を軽蔑し、とくに神のことがよく分かるまでは、神の教えを説くためにやって来た人を〔軽蔑します〕。日本の僧侶は、宣教師をつねに迫害します。また諸大学へ行く者は、その旅の途中、たくさん盗賊がいますから、ミサ聖祭を捧げるために必要な物を持って行くことができないと思います。(略)

 

 

 ザビエルがこれらの手紙を書いたのは、既に日本を離れており、中国へ行こうとしていた時であった。ザビエルには、これから宣教しようとする人々を良く見る(言う)傾向があったのかもしれない。

 

このように一部を抽出してそこのみを語れば、「日本国紀」とは別の主張もなし得よう。

 誰某がある時こう言った、と個別に語るのと、それを一般化するのは別のことである。一例をもって安易に一般論を語るのは危ういと知るべきであろう。

 

 盗人にしても、ザビエル自身が身近に体感する経験をしたようである。戦国時代だから治安がよいはずもない。

 「日本国紀」C部分の記述にも問題があるとTwitterで指摘がある。

 

 

GEISTE @J_geiste

https://twitter.com/J_geiste/status/1063511384397307904

『日本国紀』に史料改竄の可能性が浮上

 

1枚目 聖フランシスコ・ザビエル全書簡第3巻P97

2枚目 日本国紀P150

元のザビエル書簡では、日本人は窃盗への罰が重く窃盗が少ないとされている。これが『日本国紀』では赤線部分が省略され、とにかく窃盗を憎んでる善良な日本人スゴイ、という形となっている

11:17 - 2018年11月16日

 

 

 盗人は死刑にする、という部分を省いていることを問題視している。少なくとも省いた箇所に「(略)」と入れるべきではあったろう。

 

松田毅一・監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集 第V期第1巻」(同朋舎、1997)における東光博英の訳では、「(当)地は、数ヵ国で若干の盗人がいるくらいであり、これは、盗人を見出すと盛んに処罰して一人も生かしておかないからである。彼らはこの窃盗の悪癖を甚だしく嫌悪する。」(P43)となっている。

この訳では、死刑を恐れて盗人が少ない、という解釈すら超えて、盗人は皆殺されてしまうので少ないのだ、とさえ読める書き振りで、日本人は善良だから盗人が少ない、という印象はこれでは生まれない。どの訳文を採用するかも大きな意味を持つことが知れよう。

 

 

「十六・七世紀イエズス会日本報告集 第V期第1巻」

 

 一五五一年九月二十九日付、コスメ・デ・トルレス師が、

 山口の市からインドのイエズス会の修道士らに(書き送った)書簡

P77)

 (略)彼らは一レアルを盗んだかどで(盗人を)殺すが、これが一セイチルであれ、百万レアルであっても同様である。というのも、彼らの言によれば、一つの籠を作る者は、機会と道具があれば百の籠を作るからである。(略)

 

 

 東インド巡察師ヴァリニャーノは、日本人の短所として「軽々しく人を殺すこと」を挙げている(注)。盗みに厳しいのは善と言えても、そのために小額の盗みでも殺してしまうのは、(少なくとも現代的な感覚では)人命軽視の悪とも言い得る。一つの視点のみから、単純に善悪を語れるものではない、ということであろう。

 

(注)「日本要録」(別名「日本巡察記」1583)。訳は松田毅一「南蛮史料の発見」(中央公論社、1964)P186より。

 

 

 

 修正後のザビエルの手紙の記述については、改めて別ページに書く予定。

 

 

 

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