・自宅から僅か1時間半。
我が家から最も近いロケ地が、この蒲郡・竹島です。
前回訪ねたのは2年前、春一番を思わせる風の強い寒い日でした。
しかし、近くの里山へ登山後の訪問であった為、滞在時間も短く、竹島を一周する体力も気力もありませんでした。
さて、今回はじっくりと「彼岸花」竹島・ロケ地を徹底解剖した〜いと思います。
が、・・・・いきなりでなんですが、この竹島ロケ、あまり資料がなく詳細は不明です。(爆)
このロケが行なわれた1958年の小津さんの日記が、なぜかほとんど残って無いのです。
ロケに関する記述は。
1958年1月10日 午後出社 ロケ先打合せ
1月14日 ロケ出発
9.10白山 軽井沢吹雪 3.23高田着 雪なし・・・・。
雪なし? これは製作中止となった「浮草物語」のリメイク「大根役者」のロケでしょうか?
いったいこの蒲郡の地で、いつロケが行なわれたのでしょぅか?、素人が調べれる手立てはほとんどありません。
で、代わりにと言ってはなんですが最近出版された貴田庄氏の「小津安二郎文壇交友録」から引用します。
1956年に小津さんは尊敬する志賀直哉や里見クたちとこの蒲郡竹島の地を訪れています。
氏曰く。
「小津さんにとって”彼岸花”は、里見や志賀、そして、さらには野田たちとの楽しかった旅の思い出を封じ込めた作品と見なせる」
「その楽しかった記憶が例のクラス会のシーンに投影された」
と言う事なのだそうです。
この竹島と言う地は、古くから全国屈指の保養地として多くの人々に親しまれてきました。
特に明治末期に建てられた料理旅館「常磐館」からの眺めは格別なもので、大正・昭和にわたり多くの文人たちに
愛されました。
最初に常盤館と竹島を取り上げたのは、菊池寛の「火華」と言う作品だそうです。
その後、志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、川端康成、井上靖・・・・などの手で次々に作品に描写され
その名は、文学のゆかりの地として全国に知れ渡り現在にいたります。
しかし、残念ながら常盤館はその後取り壊しとなり、その跡地には「海辺の文学記念館」があるのみです。
ここで思い出すのが「東京物語」の尾道の存在です。
かの地も、多くの文士たちに愛され、そして尊敬する志賀直哉の存在によって、小津さんの特別な場所となったと考えられます。
この人の文学への憧れ、文学コンプレックス?も相当なものなのかも知れません。
つまり映画の中でクラス会の開かれた竹島の宿とは、この常盤館をモデルにしているのではないか、と言う事です。
ちなみに小津さんは、伊勢松阪へ帰省の際、わざわざ途中の桑名の船津屋で宿泊した記録が日記に残っています。
あれも明治から昭和にかけて活躍した当時の人気小説家 泉鏡花への憧れなのでしょうか?・・・。
そんなわけで、前回には行かなかった常盤館跡地にある海辺の文学記念館(写真@A) へ足を運びました。
たいした資料もありませんが・・・・。
しかし、明治以降のそれぞれの時代の竹島の風景が展示してあって興味深かったです。
勿論、ロケが行なわれた昭和30年代の写真もありました。
当時の写真を見て分かったんですが、当時の竹島には(写真B)橋から向かって右側に海岸線沿いに一直線に5個の石灯篭が
並んでいた様です。
現在はご覧の通り一つもありません。
で、映画にあった灯籠は、いったいどこへ行ったかと言うと(写真C)橋の手前の空地のようなところに集めて立っていました。
合計11個ありました。
ですから、残りの5個〜6個は逆の橋の左側に、やはり一直線に並んでいたのでしょう・・たぶん。
・・・・時代時代によって竹島の石灯篭の位置が随分変わっている様です・・・・・。
常盤館跡(海辺の文学記念館)へ行って、分った事は・・・・たったこれだけ・・・以上です(爆)。
ま、その程度の事、映画を見てからこの現場に来れば誰でも・・・想像がつきますが・・(爆)
で、いつなの?ここでロケが行なわれたのは?
たぶん・・・1958年の・・例によって初夏から夏・・・だろうと。
海辺の文学記念館から竹島を見たものが写真Aになります。
小津さんたちもこんな感じで竹島を見ながら志賀たちと酒杯を重ねたのでしょうか?。 |