―――『engage』







思えば出会ってから10年以上が過ぎていた。





ここのところ学生時代の友人がバタバタと片付き始めた。
中にはすでに二児の母なんて子もいる。
連名の差出人から送られてくる封書の中身は招待状。
結婚式の二次会での会話は毎回変わりがないところから始まる。


は?彼氏いるんでしょ?」
「え?・・・うん」
「やっぱさぁ〜、この歳になると、そろそろ考えちゃうよね」
「何が?」
「何がって、決まってるじゃない、結婚よ、結婚!」

・・・結婚?

「彼氏とそういう話、全然出ないわけ?それってヤバイんじゃない?そのうち若い女に乗り換えられちゃうわよ」
「そうよ〜。ホント、男ってバカだからさ」


結婚。

全く考えないと言えば嘘になる。
女の体内時計を考えればできれば早いうちに結婚した方がいいとは思う。
けれど。
鷹村君と…結婚?
自分が誰かと共に生きることを想像すれば、私にとって彼以外には考えられない。
いつかは、とは思う。

彼にとって一番大切なのはボクシングで、何より今は六階級制覇という大きな目標がある。
にもかかわらず会長さんや八木さんが毎回鷹村君の対戦相手を見つけるだけでも苦労しているのが現実。
いくら彼が超人的強さを讃えられているにしても、
年齢的に1年たりとも無駄にできないのは、むしろ私よりも彼の方で。
私の中でもいつのまにか最重要事項になっていたボクシングの前では、
自分の適齢期なんてものはとっくに意味のないものになっていた。



「こんにちは」

挨拶を返してくれる練習生の中を抜けて会長室に向かった。
今日は勉強会のお手伝い。
といってもボクシングの勉強ではない。
練習生の中には勉学との両立を条件に出されている高校生もいる。
プロでやっていけるボクサーはほんの一握りだ。
日本ランカーレベルでも働かなければ生活なんてできない。
将来のためにせめて高校くらいはきちんと卒業させたいという親御さんの気持ちも当然で。
会長さんからそんな話を聞いて、学校とジムに通うので精一杯な子達のために定期的に勉強会を開くようになった。
私にとっては仕事の延長だから何の苦にもならないし、何よりジムの役に立っているだけで嬉しかった。
自己満足に過ぎないかもしれないけれど、私にできることがあることがうれしかった。

いつものようにテキストの準備をしていると、視線を感じた。
顔を上げると、会長が思案気にじっとこちらを見ている。

「会長・・・何か?」

「あ、ああ、いや・・・すまんのぉ、おまえさんには毎度来てもらって。」
「いえ、毎日やっていることと変わらないですから、気になさらないでください」
「しかし仕事が終わったあとやせっかくの休日なのにな・・・わしらとしては助かるんじゃが」
「皆さんのお役に立てるだけで私も嬉しいですから・・・・・鷹村君のジャマになってるとは思いたくないですし」

肩をすくめて笑った。
皮肉でも謙遜でもなくて、本音だった。
会長が腕を組んでそばのパイプ椅子に腰かけた。

「まったく、なんでおまえさんのようなおなごがあんな男といるのか、わしゃ不思議じゃよ」
「そうですか?鴨川ジムが誇る世界チャンピオンじゃないですか」

本当は鷹村君を自慢の息子のように思っているのを知っているから、わざと冗談ぽく言ってみる。

「確かにあやつはボクサーとしては超一流じゃよ。
じゃが、男としては感心せんのを通り越して、最低じゃろうが。
そういう点では世間の評判もすこぶる悪い」

ホーク戦での発言を言っているのだろう。

「なんというかのぉ、申し訳なく思えてな。
あんたのような女には、もちっとまともな男が合うんじゃないのかの」

気遣わしげな会長さんの表情が、まるで「不肖息子をかばうお父さん」に見えてしまって、
言われた内容とは裏腹に心が温かくなる。

「・・・そうは言ってもな、実は安心してるのも確かなんじゃ。
あやつのような男だからこそ、おまえさんのようにまっとうな人間が必要だと」
「会長・・・」
「あんな男でも世界王者ともなればいくらでも女は寄ってくる。
万が一鷹村の実家のことが明るみに出ればなおさらじゃろう。
おまえさんがついていてくれれば、あやつは道を踏み外すことはないだろう」

そのとき開いたドアの向こうから、鷹村君が歌う声が聞こえてきた。

「おぅ、オレ様に会いに来たか」
「キサマは何をバカな事を言うておるのじゃ!ロードワークが終わったらさっさと下でトレーニングせんかっ!」
「うるせぇジジイ、一休みしてるだけじゃねぇかっ!」

ドリンクを一口飲んで、フンと鼻を鳴らした。

「八木ちゃんが探してたから呼びに来てやったんだよ」
「早くそれを言わんかい」

会長がドアに向かう。
その小柄だけれど大きな背中に声をかけた。

「会長・・・ありがとうございます」

いったん止まって、杖を軽く持ち上げて歩き出した。



「なんだよ、ありがとうって」

鷹村君が怪訝そうに見下ろしながら、ドリンクを私に差し出す。

「何でもないよ」
「何でもねぇのに礼なんて言わねぇだろうが」
「鷹村君には関係ない話」
「ふん、このジムでオレ様に関係ねぇ話なんて無え!」
「はいはい。勉強会のお話してたの。良かったら鷹村君も参加する?チャンピオンの参加は大歓迎ですよ」

首をかしげて見上げる。

「む、夜の勉強会なら喜んで出てやるが。なんなら講師やってやるぜ」

ニヤニヤしながら腰を押し付けてくる。

「もう、バカ!」

私の腰に手を回したまま、もう片方の手で長机に置いたテキストを取る。

先生、数学まで教えんの?」
「これでも学生の時はバイトで全教科教えてましたから」
「そうだよな〜、確かオマエ体育祭の時は珍しく落ち込んでたよな」
「う・・・人が気にしてることを・・・」

人の弱みを握ったときのように楽しそうに笑った後、
テキストを眺めながらふいに鷹村君が考え込む。

「ふーん、オマエ、ホントに先生なんだな」
「どしたの?急に」

再びイヤらしい笑顔になった。

「学校でヤルっつーのもそそられんなって思ってよ」
「な、何言ってんの!」

腕を思いっきり叩いた。
その硬い筋肉に、自分の手のひらの方が痛い。

「もう!」

痺れる手のひらをさすりながら、そんなくだらないやり取りに笑みがこぼれた。

「あ、あの〜・・・」

遠慮がちの声に振り向けば、ドアから練習生が顔を覗かせている。
鷹村君を押し退けて部屋に招き入れた。

「ど、どうぞ入って!がんばろうね!」
「はい!あ、あの、会長が鷹村さんを呼んでました」
「げっ!何だよジジィめ!」
「練習がんばってね、チャンピオン」

にっこり笑いながら手を振り、送り出した。





勉強会が終わってしばらく資料室で時間をつぶす。
自由に見ていいと言われているから、こうして時間が余ったときは昔の試合のビデオを見せてもらったりしている。
鷹村君の戦う姿もここで見たのが初めてだった。
世界戦でこそテレビ中継されるけれど、一般人がタイトルマッチ以外の国内戦を観る機会はあまりない。

鷹村君のデビュー戦。
彼が学校をやめてボクシングの道を選んだあの頃の試合。
新聞のスポーツ欄で知った日本チャンピオンの姿。
彼にとっての全てがここにあった。


「飯食いに行くぞ」

鷹村君が資料室まで迎えに来てくれて、一歩くんや木村くん板垣くんと「中華岩田」まで歩く。
隣を歩く鷹村君は何故か口数が少ない。
心なしか他のみんなも気を遣ってるようであまり声をかけない。

「どうかしたの?」
「何でもねぇ」
「・・・そう」

彼は言いたくなければ絶対言わない人。
それがわかっているから、それ以上聞くのはやめた。
そのうち鷹村君がプロレス話を始めて、木村くんが話を合わせるように横に並んだ。
入れ替わるように板垣くんがさりげなく私のそばを歩く。
それとなく気を遣うのが上手な子だと思った。

「さっき会長とやりあったんですよ」

鷹村君に聞こえないよう様子を窺いながら小さな声で教えてくれた。

「会長と?」
「週刊誌から取材の申し込みがあったらしくて、どうも鷹村さんの私生活に関してみたいなんです」

前を歩く鷹村君を眺める。
会長があんなことを私に言ったのはそのせいだったのか。

さんのコトとか書かれそうになってるらしくて、会長が鷹村さんに『いいかげん、ちゃんとしろ』って」
「そう・・・」
「それで今度は鷹村さんも『てめぇには関係ねえだろう』ってキレちゃって、で・・・」

ずっとあんな感じです、とそっと親指で示した。

彼は自分の人生を他人に押し付けられるのは我慢がならない人だから。
普段の行動や発言で隠されているけれど、本当は見た目よりもずっと繊細な人だから。


『岩田』に着くと、久美ちゃんとトミ子さんが来ていた。
みんなで無理矢理、一歩くんと久美ちゃんを二人でテーブルにつかせる。
面白半分な周囲に、困ってそうな反面ちょっと嬉しそうだ。

カウンターに座って、鷹村君の隣で中華丼を食べているとトミ子さんが楽しそうに聞いてきた。

「まさるに聞いたわよー、ついに結婚ですって?!」

ラーメンの汁を啜っていた鷹村君のこめかみがピクッと動いた。

「バ、バカっ!今それ言っちゃダメだっつーの!」

木村くん達が顔面蒼白になった。
鷹村君が青木くんを睨みつける。
大きな音をたててラーメン丼をカウンターに置いた。
トミ子さんがそれに気付かず話し続ける。

「そうよね〜付き合い長いんだし、ちょうどいい頃よねー。まさるぅ、私も早くウェディングドレス着たいわぁ〜」

どんどん気まずくなる。
空気が一段と澱んだ。

「ね、さん、プロポーズは何て言われたの?」
「え?」

予想外の質問に慌てた。

「えっと・・・」

私の言葉にみんなが心配そうに黙り込む。
隣で鷹村君が爆発しそうなのを感じた。

「プロポーズは・・・六階級制覇したら、してくれるんじゃないかな」

鷹村君が息を呑む。
その顔に「ね?」と微笑みを向けた。

「だからそれまで楽しみにしてるの」

その場が静まりかえった。
会長やみんなが鷹村君や私のことまで心配してくれるのはうれしい。
けれど鷹村君が私に向き合える時が来るまでは何も求めたくはない。

「こ、こりゃ、早く鷹村さんには六階級制覇してもらわなきゃだな」
「そ、そうですよ!そしたら鴨川ジムはダブルでお祝い――」

ガタっと鷹村君が立ち上がる。
皆の視線が彼に集まった。

「帰るぞ」

言い放つとポケットから出したお金を無造作にカウンターに置く。
いつものように私の分も。
ごちそうさまと青木くんやみんなに告げて鷹村君の後を追った。




鷹村君の部屋に入るなり十分に受け入れる準備ができていない状態で抱かれた。
彼のこの激しい衝動が、怒りなのか焦りなのか。
鷹村君の顔を見つめながら両手で頬に触れる。
ふいに彼が動きを止めた。
そのまま引き寄せて小さくキスをした。
彼が大きく息を吐いてから、額をくっつけて呟く。


「結婚するか」
「・・・・・・イヤ」


彼の問うような眼差しを受けて、微笑んだ。

「鷹村君がホントに私と結婚したくなったら、ちゃんとプロポーズして――」

腰を掴まれて、子宮に届きそうなくらい大きく深く突かれた。
思わず声があがる。

「オマエ以外に誰がいるっていうんだよ」
「・・・誰かに言われたからって無理に考えなくてもいいのよ」
「他の野郎にオマエをとられる訳にはいかねぇ」

私の体内奥深くに当然のように入り込みながら何故そんなことが言えるのか。
彼の見当外れのその言葉に、笑いながらその腰に足をまきつけた。
わざと身体を密着させれば、彼が歯を食いしばる。

「鷹村君以外に誰がいるっていうの?」

会長にどんなふうに言われたのか詳しくは知らないけれど、
私の気持ちを鷹村君はわかっているはずなのに。
そう考えたとき、あることに気がついた。

どうしてこんな大事なことを今まで伝えずにいたのだろう。

「鷹村君」

繋がったまま身体を起こして、彼の首に腕をまわす。
そうして優しく、強く、彼を抱きしめた。


「愛しています」


時間が止まったかのように、彼が息をつめるのがわかった。


「あなたを愛しています」


思えば、きちんと自分の気持ちを伝えたことがあっただろうか。


「だから、それ以外のことはどうでもいいの・・・」


この人以外に大切なものなどないということを。


「いいのよ」



ゆっくりと、力いっぱい抱きしめられた。
苦しいほどに。


「もう一回」
「え?」
「いいから、もう一回言え」

少し緩んだ力に、彼と向き合う。
彼の目を見つめながら、ゆっくりと囁いた。

「愛しています」

「オレも愛してる」

・・・・・・え?

「何だよ、その顔」

思いがけない返事が返ってきて驚いた私に、鷹村君が不本意そうな顔を見せる。

「だって・・・」
「だから、六階級制覇するまで待ってろ」
「それは・・・さっきのはただ――」
「待てるか?」

いつもの断言的な言い方ではなくて、
その表情はまるで答えを待つ子どものように見えた。
彼はどれだけの期待や希望を諦めてきたのだろう。
彼の過ごしてきた容易ではない人生を思って、胸が締め付けられた。

出ない言葉の代わりに、ただ頷いた。

何度も。

彼が優しく微笑んだ。

その笑顔を、私は一生忘れない。










Back