久しぶりに学校に来てみれば、半ば引きずられるようにして男テニの部室に拉致られた。



















                                               ───『But Beautiful』 2


















ここしばらくご無沙汰していた男テニ(正レギュラー専用)部室は、あいかわらず悪趣味だとは思った。
革張りの大きなソファに、豪華なテーブル。コーヒーメーカーまである。
どう見ても高校テニス部の部室ではなく、どこかの企業の社長室だろう。
そんなことは口が裂けても言えないので、とりあえず黙っておく。
この部室に自分はなんと似合わないのだろうと苦笑いして、跡部がいれてくれたコーヒーをすすった。

跡部が他人にコーヒーを入れている姿なんて、滅多にみれない。
そもそもに出会うまで自分でコーヒーを入れるなどしたことがなかった。
跡部財閥の御曹司にしてみればそれは至極当然のことであり、周りとてそんなことを彼に望んでもいなかった。
が、のふと漏らした一言からそれは始まった。

「生徒会の仕事で青学に行ったときに、手塚君がコーヒーを淹れてくれた。」

普段から、自分の身の回りのことくらい自分でしろとに言われている跡部だったが、
それまではまともに聞く耳すら持たなかった。
生徒会長というポストも、テニス部長としての仕事を優先させるためにほとんど副会長に任せきりであったのだが、

「手塚君はテニス部が忙しいなかで、生徒会の仕事もきちんとこなしている。さすがだわ」

その派手さとカリスマ性で見落とされがちだが案外単純な男である。
「手塚」という二文字は、跡部を奮い立たせるこの上ない発奮剤にもなる。
何気ないその一言で、以降、それまでの無関心が嘘のように、名実ともに生徒会執行部を率いている。
そのきっかけの当の本人は、よもや自分の一言が彼を変えたなどとは夢にも思わない。
どうしちゃったの、頭でも打ったのか、変な物でも食べたのか、などと跡部に詰め寄って本人の怒りを買っていたが、
これで副会長である自分はだいぶ楽になるであろうと、ホッとしたものであった。
実際には楽になるどころか、本来優秀で妥協を知らないこの男のやり方は生徒会執行部に過酷な程の更なる仕事量を与え、
ついには氷帝学園史上最も優れた生徒会執行部としての名誉を与えられるほどになっていた。
寝た子を起こすな、という諺を、執行部役員の面々はこのときひしひしと感じた。


「美味し〜い。跡部、コーヒー淹れるの上手いよね」

無邪気に笑うの表情を見て、誰のために上手くなったと思ってやがる、と跡部は微かに顔を引きつらせた。
実は自宅で猛特訓──いや、研究──しましたなどとは、もちろん言うつもりはない。
このコーヒーを飲める女なんて他にいないという認識を、この女は間違いなく持ち合わせていない。
跡部としてもそれをわざわざ本人に気づかせようという気も無かった。
・・・まだ、今は。

「当たり前だ。そこらへんのとは豆から違うんだよ」
「そうだよね〜、これの100gって私のバイトの時給より遙かに高そうだよね」

さすが跡部サマー、せっかくだからおかわりさせて〜とのんきに笑うに、先程までの苛立ちが消えていく。
自分のコーヒーカップを持っての向かい側に腰を下ろした。
ソファの背にもたれて足を組み、尊大そうな姿勢ではあるがその目はを気遣っていた。


「・・・大丈夫か?」
「え?」
「・・・・・大変だったな、親父さん」
「・・・ああ、・・・うん、ありがと」

それだけ言うと、はまたコーヒーを一口啜る。
いつもより優しげに感じられる跡部に、「何か変よ、今日」などと憎まれ口をたたきながらも、笑みがこぼれる。

「しばらく休んじゃったから、なーんかみんなすごい心配してくれちゃって・・・」
「岳人と慈郎がずっと騒いでたぞ」
「ん・・・毎日岳人かジロちゃんのどっちかから電話来てた」
「・・・あのバカども」
「うれしかったけどね」
「お前が氷帝やめるんじゃないかって、毎日毎日大騒ぎだぜ。ったく・・。しまいには、それが鳳まで移っちまって・・・」
「ははは」
「笑い事じゃねぇだろ」


ピシャリと言い放つ跡部に、笑った顔のままが目を閉じる。
確かに、笑い事ではない。

の父親が交通事故に遭ったのは1ヶ月前。
氷帝では数少ないごく平凡なサラリーマン家庭ではあったが、
いつも笑いの絶えない楽しい家庭だった。
が、一家の大黒柱を失うという急な不幸に家族は途方に暮れた。
さすがに母の哀しみと落胆は酷く、葬儀や一連の手続きが終わった頃には心労で倒れてしまった。
哀しみと、これからの不安とが、一気に押し寄せてきたのだろう。
ここ数日で、やっと母も生きる気力が戻ってきた。
何しろ、を始めまだまだ手もお金もかかる育ち盛りの子供達を抱えているのだ。


「私なら大丈夫だよ、氷帝は特待で入ってるから授業料はかからないもん」
「そうか・・・」
「もうちょっとで卒業だしね」
「・・・大学(うえ)にはあがらないのかよ」
「・・・」
「ひょっとして外部も受けないつもりなんじゃねぇか?」
「・・・まだわかんないけど」
「まだって・・・お前なぁ──」
「氷帝は学費高いからねー、授業料は特待でいけても、いろいろ他にもかかるし。
 どっちみち、たぶん無理なんじゃないかな。
 今のうちにはそんな余裕はないから。 妹や弟もいるし。
 母さん一人の収入じゃ無理だから、私もバイト増やさなきゃ──」
「何で言わねぇんだよ」
「え?」
「何でオレに言わねぇ・・・」
「・・・アンタに言ったってどうしようもないじゃない・・・」
「オレが──」
「あのねぇ、アンタに何ができるっつーのよ・・・」
「オレを誰だと思って言ってんだ?!」
「親のスネかじりまくってる跡部景吾」
「てめぇ・・・」
「だってホントのコトでしょ?何もできないただの高校生。
そんなアンタに何ができるの?
何をするにも親がかりじゃない。
アンタが『跡部様』なのは跡部財閥の御曹司だから。
別にアンタが自分で築き上げたものでも何もない。
ふんぞり返っていられるのも結局は親の力でしょ。
ま、確かにテニスではすごいかもしれないけど。
・・・・・・私は自分の実力で氷帝の特待生になったの。
だから、この先も自分の力でなんとかやっていくつもり。
『跡部様』の助けはいらない」

最後の一口を飲んで、はカップを置いた。
怒りのせいなのか言葉を失っている跡部に「ごちそうさま」と言って立ち上がる。
ドアのところで肩越しに振り返った。
穏やかに微笑んでいた。

「でも・・・、心配してくれて・・・ありがとう」
「・・・」
「そうだなぁ・・・、跡部がさ〜、将来バリバリ仕事して出世したら・・・困った時には助けてもらうわよ」

跡部が顔を上げる。

「その時は、よろしくね」

パタンと、ドアが閉まる。



跡部はそのまま動けなかった。
生まれて初めての無力感。
自分には全てが備わっていると思っていた。
できないことはないと思っていた。
事実、氷帝の理事長を動かすことなんて造作もない。
親の権力とでも何とでも言えばいい。
確かに自分は跡部を継ぐ人間なのだ。
利用できるものを利用して悪いとは思わない。
しかもはああ言っていたが、自分の預金残高はそこらへんの家庭の貯蓄など比べものにならないほどだ。
元手は親からの小遣いとはいえ、遊びでやっている株の投資で増やしたものだから、自分で稼いだとも言えなくはない。
の学費やその兄弟の学費くらい援助できるだけの額は十分にある。


それでも。

目の前の、頑なな女の気持ちひとつ動かせられない自分。
自分に対して絶対的な自信を持っているにしても、親の保護の下に置かれている高校生に変わりはない。
世間から大人と認められる年齢に達してもいないのが現実だ。
そんな、平凡な高校生なら当たり前であろう事実を、跡部は今まで考えたこともなかった。

誰かを助けたいと生まれて初めて思った。
なのに自分が無力なために何もできないとは。
いつの間にか握りしめていた拳を開いて、その掌をじっと見つめる。


今のオレに何ができる?

      ─── 何もできない高校生じゃない。

どうすればいい?

      ─── そうだなぁ・・・、跡部がさ〜、将来バリバリ仕事して出世したら・・・困った時には助けてもらうわよ。

      ─── その時は、よろしくね。


さっきのの言葉が駆けめぐる。
フッと笑いが洩れる。


・・・答えは簡単じゃねぇか。



それまでは漠然としか考えたことのなかった、自分の将来。
重荷に感じる事が無かったといえば嘘になる、跡部という巨大な『荷物』。
それが、今は『道具』──自分が勝ち進むために利用できるツールにしかすぎないことに気づく。
は何気なしに言ったであろう「その時」という言葉は、いまや跡部の将来に対する明確なビジョンを与えた。



「やってやろうじゃねぇーか」












の一言が自分にどれだけの影響を与えるかについて、



跡部が気づいたのは、まだまだほんの少し。


















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