京都博物館・ロダン像

川柳でエッセイ
パートA 2007年度

2007年12月 更新
趣味人
団塊の世代が定年退職のエリアに突入した頃から、仕事一点張りだった日本の男性諸氏も、いよいよ豊かな趣味の生活について考え始める時代が来たようだ。
「上方芸能」誌発行の木津川計氏は、はやくから趣味の社会学について一論をお持ちであるが、ご自身も「一人語りの長谷川伸劇場」を主宰されて、趣味の延長線上での語りや朗読を楽しんでおられる。
先日その木津川計氏の漫談まじりの講演を聴くことができた。その中で、ひとり芝居の一端も披露されたが、作務衣姿で箱に腰掛けての語らいは、膝をつき合わせて囁くような話し振りで、特別な説得力と温かみが感じられた。
木津川氏自身、この一人芝居は全くの素人芸で、趣味の世界の延長であると明言する。それだけに、利害関係を抜きにして、純粋に趣味のお芝居に熱中できるのかもしれない。そして、趣味の大切さを強調して止まないのである。
「趣味人」の定義を氏は次のようにとらえる。つまり
「人生を楽しみながら生きる人である」と。
これまでの広辞苑や国語辞典では「趣味人」についての記載は無かったそうである。
文化人や芸能人などという項目はあっても趣味人という項目がない事に、木津川氏はずいぶん憤慨されて、抗議を申し込まれたそうである。
その甲斐あって第六版の広辞苑では、しっかりと「趣味人」が取り上げられているので、ぜひチェックしておいて欲しいということであった。
「人生を楽しみながら生きる」ということが今ほど大切に思われることはなかったかもしれない。
日本人の生き方に一番足りなかった考え方であろう。
生き生きとした趣味で、人間性を取り戻したい。
川柳愛好家で結構、川柳の趣味人で結構、人生を楽しみながら生きる人でありたいと、つくづく思うこの頃である。
2007年11月 更新
金属疲労
近頃、公園の遊具で人身事故が発生したと言うニュースが頻繁におこる。万博公園のジェットコースターの事故もまだ記憶に新しいが、そんなに大きな事故でなくてもあちこちで、アレッと思う事が相次いで起こり、自治体は遊具の見直し点検に追われている。
その多くは見た目にさして異状がなくても、実は大切な主軸に金属疲労が起こっていたりして、それが大きな事故に繋がっている。長年使用してきたにも拘らず、安全を確めてそれらを点検しなかった側に、多大な怠慢があったと言わざるを得ない。
他人事ではない。この川柳界にも危険な金属疲労が起こっていないだろうか。今の川柳界をリードしているのは、若くても六十代後半。ひと頃の大家のように鶴の一声で、大衆が右をむいたり左を向いたりする情勢でもない。川柳人口がやたらと増えて、さしてしっかりした骨組みでもない川柳の遊具に人々がどっかと乗り合って、わいわい騒いでいる感じである。
知らない内に金属疲労がおこって、近い将来どっと崩れてしまいそうな気配すらある。遊具の罅が目に見えていても、応急処置に追われて根本的な対策をこうじなければ、最早川柳に未来はない。
断っておくが決して個人の体力的疲労をさしているのではない。組織の弱体化と核になるものの金属疲労を懸念するのである。
また、地球温暖化が叫ばれて久しい。その対策が急務であると言われ続けているが、現にその対処が追いつかなくて極地の氷山はどんどん解け始めている。その水が海面を押し上げて島々が陥没。住民は住む場所を追われて難民のように地球を彷徨っている状況である。それは温暖化難民と呼ばれているらしい。
しかして川柳にも温暖化難民が増え始めている。心棒に罅の入った川柳の遊具、その将来を悲観して遊具から手を離して行こうとする川柳難民が少しづつ見えて来ないだろうか。
今のリーダーたちが徹底的に金属疲労を発見し、部品をそれぞれ新しく取り替えて行く勇気を持たなければ、川柳界の崩壊は免れないだろう。
真に川柳にたいする愛情と、文芸に対する希望と熱意があるならば、リーダーは自分の身の保全を第一に考えるのでなく、しっかりとした後継者にバトンを譲る勇気をこそ持っていただきたいと思うのである。
内部のつまらない金属疲労で川柳愛好者を失望させてはならない。愛好者のなかから将来すばらしい川柳のリーダーが生まれるかもしれない事を忘れてはならない。
公園の遊具・・・・今私は「生きる」の映画で志村喬が唄っていたブランコの一シーンを思い出している。あのブランコはとても古びてはいたけれど、決して金属疲労は起こしてしなかっただろうと思っている。
2007年9月中旬 更新
伝統と形式
先日、「連句の風 関西からの発信」と題する連句講座を聞きに出かけた。
連句については全く白紙状態。学生時代に芭蕉の連句を少し読んでいたぐらいの私であったので、とにかくおっかなびっくり好奇心満々で参加させて頂いた。
二日間にわたる講座の内、残念ながら私は一日しか出席できなかったが、その内容と感想を少し述べておく。
★一日目の講義
@「蕪村の連句」について・・・関西大学教授 藤田真一氏
講義は蕪村の書簡などを細かく分析されながら、「連句の場と性格」について、解かり易く進められた。
連句の場としては、新年の挨拶(歳旦)追悼・年忌、送歓迎の会、あるいは文音(手紙メール)などがあり、中味の性格として、連衆性や挨拶性・文学性や当座性つまり社会性などがあげられた。その根底には個人の営みとしてだけではなく、人間が寄り集まって行なう全体的なもの、社会性が色濃く発信されていた。
蕪村には連句よりも発句が遥かに多いこと、そして本来は画家であることの本分がより多く自覚されていたということは非常に面白い。ちなみに芭蕉では発句より連句のウエイトの方がはるかに大きい。しかし連句についての蕪村の自負はその書簡などに遺憾なく残されていた。
A美濃派の連句について・・・大野鵠士氏
美濃派の連句(獅子門)の成立原点からその精神俳風などをかいつまんで説明された。その後、正式俳諧として今も誠実に伝承しておられる俳諧の儀式を、ビデオによって紹介された。
立机式俳諧と呼ばれる連句の儀式は、宗匠の挨拶にはじまり挿花・芭蕉像への献花・余興へと進み、焼香礼拝そして老師退出に至るまで、古式に法って粛々と執り行われていた。まるで時間は江戸末期か明治初期に遡ってそこに留まっている感があった。
よくテレビなどで放映されている冷泉家の歌会の趣。更にそれよりも伝統と形式を重んじた感すらあった。
ある意味で文化はこうした形式の伝承によって保たれて行くものだろうか。
こうした形式や儀式をそのまま受け継いで行く事の意味をあらためて考えさせられた。 およそ現代川柳では想像もつかない世界であった。
めんめんと続いている文化には、その水面下に目には見えないけれど、並々ならぬ形式と伝統が息づいているものだと改めて感じたことであった。
2007年9月 更新
問題のすりかえ
朝青龍はようやくモンゴル帰国での療養が決まった。この日も内閣改造などの大きなニュースがあったにもかかわらず、国民の関心はそれよりも朝青龍にあるがごとく、どのチャンネルでもしつこく横綱のモンゴル帰国の情報を伝えた。
そもそも横綱の抵抗は、「腰の疲労骨折とかの診断で夏巡業を休業しながら、モンゴルでサッカーを楽しんでいた」という仮病疑惑に対して、相撲協会が取った謹慎処分に不満を表したものであった筈である。
それが一ヶ月にわたり、拗れにこじれて、病状は精神的急性ストレス障害に発展し、協会内での指導力威厳の無さにまで繋がり、国際問題に波及してしまった。
横綱は終始無口であった。口は禍の元であったかもしれず、どこかの政治家のように無様な応対はしたくなかったのかも知れぬ。マスコミの異状な追跡もさることながら、国民性の違いも強く感じられた。
当初の仮病疑惑などという単純な問題は、あらぬ方向にすり替えられてしまった感がある。
「問題をすりかえる」というのは何処の世界でも、日常茶飯事に行なわれているような気がする。
「それを言われては困る」とか「それに触れられると不都合だ」と思われる場合、体制側に立つ権力者はよくその手を使う。そんな時、弱い犬は吠えたくなるが、権力者は問題をすりかえてそんな輩を相手にはしない。
「寄らば大樹の影」という言葉もある。大樹であることは、それ相当の権力もあり、辺りに有無を言わせぬ強制力もある。不都合な方向に発展しそうになると事前に問題をすりかえる能力は抜群である。
しかし「大樹の影に居る事すなわち権力者である」と勘違いしてはならない。
一昔前、ビッグバンという言葉が流行った。大きい組織が相当崩れたものだが、最近はどの業界もまた再編成が考えられ始めて「大きいことがいい事だ」みたいな傾向になっている。
川柳界だけは大きいことの恩恵に甘えて欲しくない。「大きい事がいい事だ」とは思って欲しくない。
小さな声も真実は真実。問題をすりかえないで欲しいと思う。
「大樹の影に入れば川柳が安泰だ」などとは思って欲しくない。
一本一本の小さな木に充分水の行き渡るような、真摯な川柳であって欲しい。
心の位置を確めてから水を飲む 本多洋子


07年7月 更新
牛肉100パーセント
北海道の食肉加工業者が、牛肉ミンチ100パーセントと銘うって売っていたコロッケに、豚や鶏その他の肉や臓物を混入していたとして、大変な社会的問題になっている。社長が逮捕され、会社が廃業に追い込まれた。
何と言うことかと、消費者としては怒り心頭にたっするが、何も知らずに牛100パーセントと信じて、美味しいと食べていた人間の舌もアテにならないものだと思う。
有名加工メーカーのラベルがついていたことも、消費者の舌が騙される要因であったかも知れず、値段が安いという条件も、よく売れる理由になっていたかもしれない。こうなってくると人間の舌ほどアテにならないものはない。
さて川柳には内容表示のラベルはついていない。賞味期限の表示もない。手垢のついた言葉を使っても保険所からのお咎めはない。これは恐ろしい。何を基準にして川柳を味合うのかは全く個人に任されている。一時俳句の方々から、川柳には自己規定がないと指摘されたことがあるが、その流れは今も曖昧なまま続いている。
川柳のミンチには、鶏でも豚でも魚でも牛でも、何の肉を混ぜてもかまわない。川柳は寛容の場である(墨作二郎氏の言葉)。うべなるかなである。あえて内容表示のラベルを貼らなくても良い。ラベルに左右されて鑑賞することもないだろう。各人がもっともっと観賞眼を養えばいい。難しい説明書を読んで解かったような振りをすることもない。自分自身の川柳眼を養いそれを信じたいと思う。読み手の観賞眼のレベルが上がれば、賞味期限の切れた作品は自然消滅するだろう。
ラベルを見て作品を味合うのでなく、自分の舌を肥やし、それを信じるべきである。そこから自由で闊達な川柳の生まれてくることを信じたい。
今月「ゲストの椅子」に寄せられた若手作家の句を揚げる。
パティシエはsweet memory焼き上げる 西田雅子
07年6月更新
07年5月 更新
一字の違い
たった一字の違いで表現したい意味が全然違ってしまうことがある。
5・7・5の短いフレーズの川柳や俳句の場合は言うに及ばずといったところだが、作句の場合も校正の場合もこれには充分気をつけたいものである。
@ いい笑顔 桜の壁を抜けてきた
A いい笑顔 桜が壁をぬけてきた
上の2句は・・「桜の」と「桜が」の違いであるが、句の意図は全然変わってしまう。
@の場合は人間が主語である常識的な感性を出ない作品で終わるが
Aの場合は桜が主語になり飛躍的な表現でより詩的になる。
作者の表現したいこととは別に、作品として独り立ちした場合に、その是非がとわれるであろう。
@ 春を拾うてふらりと喫茶養生記
A 春を拾うてひらりと喫茶養生記
この2句は「ふらり」と「ひらり」の違い。たまたま校正ミスでこのようになってしまった。
@が作者本来のもの。Aは校正ミスによるもの。
鑑賞してみると@からは春の気だるさと生きることへのゆとりのようなものを感じるが、Aからは生き生きとした新鮮な活力を感じてしまう。
一字の違いでこんな事にもなるのかとむしろ面白く感じてしまった。
@ 天に福地に塩この身に極少し
A 天に福地に塩この身の極少し
この2句は「身に」と「身の」の違いで、これは校正ミスによるもの。
@が本来のもの。音の響きでは「の」にしたくなるが、やはり句意からは遠くなってしまう。
「てにをは」の使い方は特に致命的になるので、気をつけたいものである。
文章の場合も一字の間違いでトンでもない事になり兼ねない。
次に上げるのも校正ミスで、この弁明には手を焼いてしまう。
@「・・・その喪失感を味わったことがないだろうか」
A「・・・その喪失感を味わったことがないんだろうか」
「ないだろうか」と「ないんだろうか」で@が作者本来のもの。Aは校正ミスで「ん」が余分である。
たった一字入るか入らないかの違いだが、@は単に読者に同意を求める疑問を投げかけているのに対しAは驚きの気分で否定的疑問を投げかける結果になってしまっている。
たった一字の重みを、今つくづく感じているところである。
07年4月更新
ずいずいずっころばし
私達の子供の頃は、路地の片隅で、あるいは広っぱの真ん中で、男の子も女の子も輪になってよくこのわらべ唄を歌って遊んだ。
誰におそわったのでもないが、手を握りこぶしにして立て、つんつんと指でつついて行ったのを覚えている。
考えてみると何の事だかさっぱり解からないのに、調子が良くてついつい大きな声で唄っていたのを思い出す。
大人になって、多分川柳を始めてからだと思うが、この唄の大部分が遊郭で使っていた隠語らしいと言うことを聞いて驚いたことがある。
つまり遊郭に遊びにきた客が、遊女を並べて一夜の恋の相手を探すために作られた遊びだと言うのである。
まことがどうか解からないが、わらべ唄をそのような場所で利用したと言うことかもしれぬ。
それにしても全国で歌われていたことを思うと、他にいろいろな意味合いがあったのだろう。ちょっと調べて見た。
その@ 江戸時代に殿様に仕えていた小僧があやまって庭でお茶碗を割った。小僧はその罪を償うために近くにあった井戸に身を投げた。
そのA 茶壷は江戸時代、将軍に献上する茶を入れたもので、静岡から東海道を上って江戸に届けられた。茶壷は大名行列と同格の扱いで、これを横切ることは死を意味したらしい。だから誰が呼んでも戸をぴしゃんと閉めてどこへも行きっこなしだよと言うのだとか。
そのB ある農家でずいきの胡麻味噌あえを作っていたところ表を将軍様の茶壷が通りかかった。家人は驚いて奥へ隠れたが家の納屋では、鼠が米俵を齧る音や、井戸端であわてた拍子にお茶碗を割る音が響いた。
・・・・・・などなど。これはまた各地方でいろいろな説がのこされていると思うので調べてみると面白いかもしれない。
今回、岩崎千佐子さんが「ゲストの椅子」に投句して下さったなかに、懐かしい「ずいずいずっころばし」の言葉が出てきたので、ついつい調べてみる気になった。
シミュレーションが狂うずいずいずっころばし 千佐子
ずいずいずっころばしとシュミレーションのとりあわせが、いかにも面白くてついつい笑ってしまった。
フッペルのピアノ
三月初め、友人と二人で、南九州たっぷり三日間の旅に出た。
指宿・鹿児島・桜島・霧島・宮崎という盛りだくさんなスヶジュールであったが、快晴に恵まれ、南国はもう初夏。思う存分旅程を満喫することが出来た。
最初に訪れたのが知覧。昭和二十年三月、硫黄島の激戦が最悪の選局を迎えた時軍は特別攻撃隊を強化して、この知覧を最前戦陸軍特攻基地にした。各地からぞくぞくと隊員が結集し、僅かの滞在の後、つぎつぎ沖縄方面へと出撃に向かったのである。そして二度と再び帰ってくることはなかった。隊員の殆どは、十七歳から二十歳前後であったと言う。
知覧にはこの歴史的事実の記録を詳細に後世にのこし、世界平和に一石を投ずべく「知覧特攻平和会館」が建てられている。
会館の中には寄せ書きをした日章旗や出撃前の隊員の笑顔の写真や、父母に宛てた遺書や手紙が数々ならべられ、出身地別に分けられた特攻隊員の名簿が、年齢、戦死月日とともに展示されている。
一隅に「フッペルのピアノ」と題して一台のピアノが置かれていた。不思議な取り合わせを疑問に思って、説明をじっくり読んで釘づけになってしまった。
つぎの通りである。
『昭和二十年初夏のころ、九州鳥栖国民学校に、学徒出身の若い二人のパイロットが訪れました。「私達は音楽学校出身です。明日、特攻出撃します。是非ピアノを弾かせて下さい。お願いします」と。・・・そして月光の曲を懸命に弾き終えたのです』
そのピアノがわが国に二台しかないと言われるドイツ製のフッペルのピアノだったという。篤志家が同型のピアノをこの会館に寄贈されたらしい。
会館の外側には「三角兵舎」といって、突撃最後の夜を過ごしたという簡単な木造の兵舎があった。せんべい布団と枕がきちんと並べられ、裸電球がともされていた。ここで遺書や手紙をしたためたのだろう。
知覧は快晴であった。兵士が最後の見納めと、何度も何度も振り返ったという開聞岳は、富士のような奇麗な裾野をなびかせていた。
知覧快晴 轟音がある耳の底
花寂し 知覧特攻滑走路
黄の色は慟哭の彩特攻花 洋 子
百歳の句集
明治39年島根県母里村に出生された柴田午朗さんは、平成18年に満百歳を迎えられた。それを機に「僕の川柳」と題して川柳作品集を発行された。
近年の日々折々の作品と日頃、家族の方々と交わされたさり気ない会話の一コマ二コマが収録されている。
百歳を生きる人の心の安らぎと揺れ、哀しみと喜び、死への不安と悟りそれらが何の拘りもなく、何の抵抗もなく、流れるように作品に迸り出ている。
生き生きと艶やかに。まるで人間も、花や木や草や鳥と同じように生きる悦びを感じるひとつの命として、一日を今を、川柳と共に生きておられる。
いつも死と隣り合わせの生。自然体でありながらそれが痛いほど伝わってくる。そこには真実が溢れている。
百歳になれば男も死化粧
僕の夢は一度鳥になってみたい
死と対峙しながら、この明るさはどうだろう。もう4・5年は生きてみたいと作品の中でも述べておられるように、好奇心も意欲も衰えるところはない。
来年の桜待ってるお年寄り
一抹の寂しさ。来年もまたこの桜が見られるだろうかという懸念と、駄目かなァという不安がよぎる。お年寄りの切実な心境と、そこはかとないユーモアが柔らかに伝わってくる。
用事はないが裏門をあけておく
人との繋がりが恋しくなる老人の寂しさがそれとなく伝わってくる。
午朗の語録として
桃 「やさしい味だなあ」 とある。
桃を口にしての至福の刻が、微笑ましくみえる。
恋という気持ちはあるが気持ちだけ
この若さはどうだろう。なにかこちらまで嬉しくなってしまう。
息づかいというものがあるのか蝶や蜻蛉
空飛ぶ鳥をみている唯それだけ僕の一日
こんな繊細な句もある。自然を細かく観察していて、またそれを作品化することを忘れない。
幸福には遠いと思う鐘の音
月のいい晩わが魂の音を聞く
人はみな沈黙水が流れ出す
みんないい句だと思う。どの句にも魂の音が流れていると思う。
言葉と魂が渾然一体となって柴田午朗さんの口から川柳が流れる。
★ ★ ★ ★
キャッチボール
「貴女は青春してますね。僕は介護してます」こんな賀状が幼馴染のS氏から届いた。
又従兄弟の彼は、戦後の混乱期、母子家庭の家元(福井)を離れて私の実家(大阪)に預けられていたのである。彼と私は同い年だった。小学五年生から中学三年生まで同じ屋根の下に暮らした。彼はこまごまと家の手伝いをして、何かと役に立とうと努力してくれた。同い年でも精神的にはずっと私より大人びていた。青年になってからも一時父の商売の見習いに来てくれたが、以後彼は故郷の福井に戻り彼なりの商売を手広くして、バツイチ再婚の波乱の人生を送って来たのだった。彼の母はしっかり者で98歳の天寿をまっとうしたが、再婚した今の奥さんがその母にしっかり仕えてくれたと言う。その奥さんの介護を、ここ数年彼がしているらしい。奥さんは50代で脳梗塞を起こし自立した生活が出来なくなったのである。若い時、人一倍苦労をかけた奥さんの介護を今彼がやっている。
若年性の認知症的なものは女性に多いような気がする。脳梗塞や交通事故でなくても、介護が必要になった女性の話はよく耳にする。女性が夫の面倒をみるのとは違い、夫が妻の面倒をみるのはやはり並大抵のことではない。適応性という面から見れば、はるかに女性より劣るだろう。その分妻への愛情も忍耐も倍ほど必要となるだろう。
夫を亡くした立場の私からS氏に、「それでも奥さんが生きていて呉れるだけでも、貴方は幸せと思います」とお便りしたら、「たしかに相手が口を開いて呉れるだけでも幸せ。僕が煮付けした大根を美味しいなどと言ってくれると悪い気はしません」と返事が来た。古稀をすぎた幼馴染同士の少し哀しい、だけど温かいキャッチボールであった。
最近の川柳から
威嚇するハリセンボンに紙パンツ 小林満寿夫
限界を超えたところに寒椿 洋子
★ ★ ★ ★ ★
鑑賞と批評
鑑賞と批評は根本的に違うと思う。えてして川柳家は批評が得意ではない。個人的な感情を抜きにして、成る程という批評がなかなか生まれて来ないのである。川柳家は、批評することにも、されることにも慣れていないのかもしれない。
先頃三省堂から出版された「現代女流川柳鑑賞事典」は、手頃な大きさとその解かり易い構成から、出版以来なかなかの売れ行きであると聞く。これは田口麦彦氏独自の作品鑑賞のあり方を集めたものであり、女流作家への批評を集めたものではない。批評でなく鑑賞であるところにこの本のミソがある。一般に好感を持たれる要因であろう。
揚げられた女流126名の、鑑賞の一句に取り上げられた句は、各自の代表作でもなく、作家自身が殊に選んでお願いしたものでもない。田口麦彦氏が独自の感覚と趣向で、沢山の句の中から選ばれたものである。したがってどんな句がどう鑑賞されるかに、田口麦彦氏自身の川柳観が現れてくると言えるだろう。
この事典の末席を汚させて頂いた一人として、私自身の感想を述べさせていただくと、鑑賞して頂いた句は、小句会吟の中の一つであり、自分ではむしろ忘れ去っていた句であったが、私の気付かなかった一面を引っぱり出して下さったものとして、おおいに意義があったと感謝している。作家は多面体であっていいと思っている。
批評でなく鑑賞であることが何故いいかと言うと、「川柳がどうあらねばならないか」などという確固とした方向が一つと定まっていないからである。全国的な視野に立つ場合、いろんな結社に所属している方があって、ひとつの方向で批判してしまうことは暴挙に等しい。したがってこの事典のように、色々な傾向の句をとりあげて、田口麦彦氏の包容力で自由に鑑賞されたことは、非常に好ましいことと思っている。句の鑑賞の答えはひとつでは無い筈である。読み手によっていろいろに鑑賞されていい筈である。したがって自分とは傾向の違う取っ付きの悪かった句も、鑑賞の仕方によって成る程と思えるところもあって結構面白かったという声も聞いた。
川柳に批判が必要でないと言っているのではない。個人攻撃でなくまた、一段と高いところから物を言うのでもなく、真に有意義な胸を打つ批評が出てくることを渇望している者ではある。
この度出版された「現代女流川柳鑑賞事典」は田口麦彦氏の鑑賞集として、大変な力作であったことに間違いは無い。
これを手ズルに色んな方々に川柳への興味を持っていただき、各自の20句づつの添付作品も、読み手それぞれにじっくり鑑賞していただければ幸いである。
嵌められたガラス
昨年の秋、絵を描く友だちと九州は平戸から九十九島・長崎への旅に出た。平戸の島が意外に大きくて素朴で、何もかもを内に秘めた静かなたたずまいに深いやすらぎを覚えた。島のあちこちに楚々と咲くツワブキの黄には、その昔の隠れキリシタンの面影を偲ばせるものさえあった。聖フランシスザビエル記念聖堂のようにお洒落な洋風建築と、仏教徒の寺町の石段が、何の違和感もなく風景に溶け込んでいることに不思議な驚きを覚えた。
長崎ではご他聞に洩れず、眼鏡橋やおらんだ坂・グラバー邸などに立ち寄ったが、中でも最も深く印象に残ったのは、大浦天主堂のステンドガラスであった。
ここは日本で一番古い教会建築で、文久3年(1863年)にパリー外国宣教会の神父たちと天草出身の棟梁たちによって建てられたと言う。天主堂は26聖人たちの殉教の地である西坂の聖地にむけて建てられた。26聖人とは、秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され、西坂で処刑された日本人20名と外国人6名の聖殉教者のことである。
この教会内では、固く写真撮影禁止ということで、ここが単なる観光気分で来るところでない聖域であることをしかと物語っていた。薄暗い教会に足を踏み入れた時、私の心をとらえたのは、ステンドガラスの素晴らしい光だった。窓から射し込んで来る朝の日差しが、鮮やかなステンドガラスのモザイクを通して、向かい側の白い壁や天井にさまざまなアートを作り出していた。ああここではきっと嘘はつけないなあと思ってしまった。ステンドガラスはカラフルな青や赤、黄色それぞれに黒い縁取りが施されて、動かし難い場所に固定されていた。
枠に嵌められたその時から、空と光と風との対話がはじまったのかもしれない。
嵌められた日から割れたかったガラス 峯 裕見子
ガラス板は枠に嵌められなければ、大抵の場合それ自体の存在価値は薄い。そんなガラス板の自我と悲哀を、自己愛をこめて裕見子作品は歌い上げた。
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