令和からのゲストの椅子





          川柳とエッセイ

   エッセイ600字くらいと 川柳のコラボ
        
テーマはご自由です。

  
次回2020年5月からは ブログ洋子の部屋に移転します。
   

 奮ってご応募下さい。お待ちしています。
    エッセイが苦手という方も一度挑戦してみて下さい。
    なお、毎回は無理だと思われる方は
    近作の川柳作品7ー8句の連作でもかまいません。
    その際は、゜かならず タイトルをつけて下さい。

 















                               2019年 11月       更新                                                            
 
  
 読書                   城陽市 木口雅裕


 テレビを見ない主義になってからずいぶん長いことになる。食事のときにチラ見するくらいなので、話題についていけず話がまったく噛み合わない。かなりの変人である。なにをしているかというと、部屋に引きこもって本を読んでいる。気がつけば一日中本を読んでいた、という日が何日かある。

 古典。伊勢物語、源氏物語、枕草子、徒然草、他。古典は原文を声を出して読むことにしている。江戸時代は誹風柳多留、おくの細道。近代は森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、他、有名な作品でまだ読んでいないもの。現代は藤沢周平、浅田次郎、葉室麟、伊坂幸太郎、吉本ばなな、柳田邦男、他。手当たり次第である。気に入った作品に出会うと一連のものを読みたくなる傾向にある。

 断捨離が言われだしたころ、シンプルな生活にあこがれて、本をすべて処分した。今にして思えば石原吉郎の詩集まで手放したのは惜しい気がしないでもない。いまは年金だけが頼りの生活なので、できるだけ本は買わないように図書館で借りることにしている。東部コミセンに図書室があり、運動がてら片道25分歩いて行っている。書評などで読みたい本があれば、リストにあげておく。この「読みたい本リスト」がどんどん溜まってきて、まるで積ん読状態になっている。読んでも読んでも追いつかない。時間がいくらあっても足りないのだ。



    
 積ん読を希望のように積んでをり             雅裕

     





   
奥入瀬九キロを歩いて来た     
吹田市  森井 克子



 奥入瀬流は十和田湖から八戸へと流れる唯一の河である。反対に周りの山から十和田湖へと流れる川が二本ある。そのうちの一つが神田川である。その神田川のそば、十和田湖畔にある秋田県のホテルに泊まった。ひのホテルの裏口から遊歩道があり、十和田湖の浜はすぐそこだ。この道なりに神田川に架かる五メートルほどの橋があった。この橋を渡るとそこは青森県だ。十和田湖を眺めながら橋を行ったり来たりして、十和田湖は青森と秋田にまたがっていることを実感した。

   
十和田湖は気にも留めない県境       克子

 翌朝、十和田湖から奥入瀬を歩く。ゆるやかな下りである。所々でトリカブトが咲いていた。それ以外は緑である。この河は高低差が小さくて流れが緩やかで、そのうえ人工的に水量が調整されていることもあり、あちこちに苔が群生している。春なら様々な花が咲き、秋には紅葉が見事らしいが、九月十九日のこの日はトリカブトの花以外は緑一色のシーズンオフ。それでも空気も河の流れも爽やかで、神秘的な渓流がずっと続いていた。

   奥入瀬の苔はグリーン濃く深く        克子

 シーズン期は銀座並みの人数らしいが、オフで人は少なく九キロの歩行も楽しく、ルンルンと、幾つかの滝を見つついくと、途中に雲井の滝があった。以前この滝は雲井林業が興盛だったが、安い輸入材のために衰退したとのこと。自然の美景はそのままに、人間の盛衰はここにもあった。

   雲井林業その盛衰を知る流れ         克子









     ネコとオカメインコと Ⅱ
                 
     八戸市    笹田かなえ


 さてオカメインコのひめちゃん、無事快癒。一週間に一度の通院の三度目に「もう、大丈夫」のお墨付きをいただき、健やかに過ごしている。先日は久しぶりに高く飛ぶことが出来た。毟られた尾羽も少しずつ伸びて、食欲も戻りまずは一安心。
で、ひめを襲ったな~こだが、事件の朝に家人にきつい口調で叱られたのが堪えたのか、夕食後のひと時は家人にべったりだったのが、その日から遠巻きに眺めるばかり。娘にもどこか遠慮がち。ネコは狩猟動物なので、な~こもその本能に従っただけの事だが、やっぱりあってはいけない事と、しばらくは目が離せない状況が続いた。

 ネコはとても敏感な動物だ。大嫌いな動物病院に連れて行く朝など、気配を察して机の下に潜ったり高い所に上がったりして、捕まらないようにする。特にな~こはその傾向が強い。それは多分、な~こが我が家に来るまでの経緯によるものだろう。な~こは震災の後、福島で保護されたネコだ。甘えん坊なので元の家では可愛がられていたに違いない。なのに理不尽な事情で青森まで来てしまったのだ。事件後、一週間ほどおどおどと神妙な状態だったのが不憫でならなかった。家人には以前通りに接するように話したところ、ゆっくり以前の関係に戻ってホッとしている。

 と、安心したのもつかの間、今度は隣家の庭に捨てられた仔猫を保護することになり、またまたひと騒動が始まった。



   
 ピーマンのハロウィン〆鯖はいかが   かなえ






       
ふるさとの道の駅       堺市         荻野 浩子
                        



 お彼岸にふるさと丹波へ帰省した。車窓からの山河は変わらないけれども過疎化が進み、墓参の花を買っていた店も消えていた。村の上を国道が走っている。丹波の土産や食事などは、高速から降りると道の駅が待っている。

 春日インターのカーブを降りると、夫の実家と墓がある。道の駅からは近い。花を買うおうとしたら大型観光バスが駐車場を占拠して動けなかった。やっと入ると焼き栗が爆ぜる音がして行列の観光客でいっぱい。匂いに誘われ私も並んだ。熱あつで旨かったけれど、六百円で五個の値段には恐れ入った。とりあえず花を買わなけりゃーと焦ったが、殆ど売り切れていた。どの家の庭にもある紫苑や鶏頭、コスモス
に樒(しきび)の束が少しだけ残っていた。

 この季節は黒豆や新小豆、むかごなどの青臭いご飯がとても懐かしい。彼岸花の土手で、稲田の畔の黒豆を茹でたおやつ。ひもじかった記憶だけがある。今やその黒豆や栗が丹波の名ブランドという。驚くような値段で道の駅にも、デパートにも並んでいる。名も知れぬ僻地を、スイーツの里にしようと、フランスで腕を磨いてきた若者が、ネットなどで呼びかけている。限定品で売り出すと、京阪神からどんどん人がやってくる。村おこしで頑張っているふるさとの丹波。

 高速が混むので亀岡回りで帰ってきた。枝豆が買えなかったのでまた道の駅へ寄った。ここも客でごったかえしていた。京都が近くなると、丹波の黒豆も紫頭巾と呼ばれる。都大路を偲ばせる薄紫の衣を纏った紫頭巾は、黒豆とはいえ格調高い。目立つ位置で鎮座している。この時期だけなので、少々値が張ってもみんな買って帰る。買う人の心理を掴み商魂たくましい。酒好きには喜ばれる土産だ。熱あつの紫頭巾、口に広がる甘さが郷愁を誘ってくる。さやには一個か二個しか入っていないのに、偶に三個入っていると得したようで、うれしくなってくる。
 丹波へ帰るとこんな楽しみが心豊かにしてくれる。



     
 ロールケーキ ブランド纏う丹波栗         浩子








                                         
   
「ボーと生きてんじゃねーよ」…NHK チコちゃんより
  
                               石川県    堀本のりひろ



    交叉点ひとりぼっちの石地蔵      のりひろ

物心ついてからこの方、机には向かわず、蝶を追っかけ、カブトムシを追っかけ、魚を追っかけ、冬は雪合戦・竹スキーと遊びまわり、中学、高校と、野球漬け、自然児そのまま。

 大学は、只々、部活(なんと、宗教団体の慈善活動に夢中)就職は、父推薦の会社へ。ここで、初めて、仕事とは?と、真剣に考えたのか、いまだに、続けています。

 でも、振りかえってみれば、ずーと、何かを、見落としてきた人生ではなかったか?その時、その時に、すこし気を付けていれば、大きな収穫があったのではないか、もう少し違った人生が歩めたのでは?、と思われる、

 喜寿を迎える男の、今日この頃です。ボーと生きている男の生き様(大げさな!)只々、ひとりぼっちの人生そのものです。




      記憶             大阪狭山市    八木 侑子




 記憶は線でなく点であると、この頃つくづく思う。鮮烈な想い出のある場面だけが思いうかぶ。
 感性豊かな、ほろ苦い思いの詰まる大学時代の記憶は映画のワンシーンのような、名画面の連続である。
 生活臭のないこの時代は、虚の多い危げな不安だらけの日々だったけれど、個性豊かな学友に囲まれ、充実した4年間だった。
 古文書の書写に法輪寺、行者さんと生活を共にした比叡山黒谷での夏のクラブ合宿、安保闘争、小さな恋…
 昭和、平成、令和と変化の激しい時代に生きたことは本当に幸運だった。80年で世情や生活洋式がこんなに変化したのは長い歴史の中にもないと思う。
 仕事を持ち、子育てや家庭の雑事に追われた頃の記憶の点は、あまりに現実すぎて、そのシーンに長く浸ることが出来ない。切りとられたシーンは非常な旅の場面が多い。

 「この場から逃げちゃいけないよ」デイと中に私を待たせ実験室に10分程姿を消し恋人のことぱ
 「ハッケヨイとはどうしう意味ですか」韓国の研究生の唐突な質問
 「そんなに重い荷物は僕が全部運びます。文化革命で田舎に下放された時は山の上まで天びん棒で肥料をかつぎましたから」中国の留学生。
 「深夜森の中でひとりで歩いている夢をよくみるの」 癌を病む友
 「姉ちゃんと呼ぶのにどうして妹ちゃんと呼ばないの?」十才の孫
                                         etc
 ことばとセットになってよみがえってくる記憶は鮮やかである。



      記憶の点拾い綴って和んでる         侑子
      重ね合った肩の重みは愛の嵩         侑子













                                 
2019年10月  更新




    
失神したら                 仙台市     月波与生


「心エコーの結果ですが前回の検査より数字が悪いですね」今回の検査で数値が前回と同程度であれば晴れて釈放となるはずの診察であったが、残念そうに担当医が話す。

「ほらこの数字、これが心臓に血液を流し込む血管の太さを表しますが前回より小さくなってますね。血管が細くなってます。結果ここの数字、これは血液が流れるスピードを表してますが数字が大きくなってます。普通このくらいの数字であれば失神してもおかしくないくらいで………

失神という言葉に力が抜けていく。これでは初めて病院に行った5月の症状と変わらないではないか。この4ヶ月なんの改善もなかったことではないか。悪い冗談みたいじゃないか。

「血管を広げるには最終的に手術になりますがその前に薬で改善する可能性もありますので薬を増やします」と薬を5割増しにされる。「次回は1ヶ月後にまた来てください。心エコーと血液検査します。その前に失神したら何時でもすぐ来てくださいね」

この病気になってからこのような注意をよくされるのだが、これはブラックジョークで、もしかしてここは笑うところなのか。失神したら病院に来れないではないか、てか死んじゃうじゃねえかよ。

「失神って意識を失うことですよね?」と突っ込む。「はいそうです。無理せずに病院へ来てください」と担当医が真面目に言う。ジョークではないようで本当に失神することがあるらしい。

会計を済ませてゆっくり駅へ向かう。今日は遅くなると思い休みを取ったので午後はのんびりできる。歩きながら少しずつ考える。実はだいぶ体調が戻り休日5キロ程度なら歩けるくらいに回復したし、次回の診察で釈放だと根拠ない判断をして、思い切って「奥津軽ウォーク」というウォーキングのイベントにエントリーしたのである。しかも17kmも歩く、馬ノ神山・津軽金山焼コースであった。

「奥津軽ウォーク」は明後日。まさか今回失神するかもしれないくらい数字が悪いとはなあ、、、やれやれ。どうしようかと歩きながらも、きっと失神しないから出ようという気になっていた。何の根拠もないのだけれど。




     
あさってはたぶん失神するつもり         与生






     カラオケ                      城陽市 木口雅裕



 向田邦子の「父の詫び状」というエッセイに、『父は音痴で、「箱根の山は天下の険」がいつの間にかお経になっているという人である』という一文を見つけたときには思わず苦笑してしまった。私の父も音痴であったのだ。子供のころ父の調子はずれの歌を聞いてしまって、こりゃあだめだ、うちは音痴の家系なんだと観念した。口パクでごまかしたりしてずっと音楽から逃げてきた。

 五年ほどまえ私を川柳の世界に引っ張り込んだ奴が抜群に歌が上手いということを知り、なんでそんなにうまいのか、コツがあるのか訊いてみた。曰く、原曲を50回聞いて覚えてからひとりカラオケに行って練習するのだという。へえ~努力しているんだ。ダメ元で挑戦してみることにした。YouTubeで同じ歌ばかり50回聞いてからひとりカラオケに行って歌ってみた。なんと歌えるではないか。カラオケの分析採点を見て弱いところを直しながら続けたら人並みの点数がだせるようになってきた。人前で歌っても恥ずかしくないくらい。点数の上がらない歌は相性が悪いのだときっぱりあきらめて次の歌に挑戦する。そうしているうちに徐々にレパートリーが増えてきた。
 腹から声を出すし健康にもボケ防止になると思ってカラオケに行っている。




      
 堂々と音階はずし父歌う          雅裕



    建具替え
                             西宮市    田村 ひろ子
  
 「今朝は八度だったからストーブに火を入れたのよ。盛岡の明日の最高気温は十八度よ、風邪をひかないようにしていらしてね」

 九月中旬だと言うのに最高気温三十度以上の日が続いている地に住んでいると、気温十八度の時の洋服って何を着ていたのかなと、戸惑ってしまう。朝六時半の伊丹空港は夏服の人が並んでいた。七時五分離陸。

 飛行機の窓からフワフワの雲を心地よく眺めていた時、ふいに幼い頃の盛岡の座敷を思いだした。初秋の日差しの中で祖母たちは「打ち直したばかりのフカフカの綿」を布の上に広げて、家族の敷布団に仕上げていた。出来上がったばかりの蒲団の上で兄と飛び跳ねては叱られたものだ。
 玄関の大壺に活けられた白いコスモスが寂しそうにゆれる頃になると、風通しもよく、見た目も涼やかだった夏の簀戸(すど)は外され、張替の済んだ障子へと建具替えをする。縁側のスダレもくるくると巻かれて納戸に運ばれてゆく。やがて、初夏に純白の花を咲かせた街路樹の「ナナカマド」が燃えるような赤に色づき、その葉が落ちても赤い実が長い北国の冬を彩る。


       
差しのべた手の上通り過ぎる秋       ひろ子




    ネコとオカメインコと Ⅰ      八戸市     笹田 かなえ


 9月11日の朝6時頃の事だった。朝寝坊の私にはまだ深い夢の中。その夢の中に突然、「バタバタッ、ギリギリッギッギッー、ギッギッーギー」と、力一杯ネジでゼンマイを巻くような大きな音が飛び込んできた。そして、娘の「なーこ、やめて!なーこっ!やめて!ひめちゃんっ!」と甲高い声。ただごとではないと寝ぼけ頭で起きたら、階段の途中にオカメインコの尾羽と血しぶきが点々と…。ネコの「なーこ」がオカメインコの「ひめ」を襲ったのだった。

 我が家には保護猫4匹(ぱんだ12歳?♂、なーこ10歳?♂、じろ?6歳、さばみ4歳?)と二羽のオカメインコ(ふぅ10歳、ひめ9歳)9がいる。オカメインコの部屋はもちろん別で、ネコがその部屋に入らないように気をつけていたが、家人の不注意で充分にドアが閉まっていなかったために起こった惨劇だった。

 ひめは家人と娘が動物病院に連れて行き、背中を縫合、脇腹には金具を入れるという大手術になった。薬が出て、お医者さんからは「大丈夫だったら一週間後にきて下さい」と言われたとの事で、娘は必死にひめの看病にあたっていたが、そのかいもあり一命を取り留めた。

 先日、動物病院を連れて行ったら皆に「奇跡だ」と驚かれ、喜ばれたそうだ。ひめ、よく頑張ったね。ひめの必死の命の叫び声は本当に悲痛だった。あの声を心に刻み、あれからずっと命の在り様をさまざまに考えさせられている。


     
抗って抗うゼンマイの力         かなえ










     フルムーン
                           京都市  中林 典子  

 両親と老犬を見送り子どもたちも独立したので、結婚して初めての二人暮らしをまるで新婚のように楽しんでいる。これからは、二人でランチとか旅行などに行きたいと考えていて、手始めに二泊三日で伊豆半島一周の旅に出た。ツアーではなく、のんびり自由な行程を立て、まずは伊東温泉に一泊、子どもの頃のコマーシャルで♪伊東に行くならハトヤ電話は良い風呂4126♪が気になって調べてみたが、今では人気がないようなので別の旅館に宿泊した。

 旅の目的のひとつに、サスペンスドラマによく出てくる吊り橋を見に行くことがあった。城ヶ崎海岸の断崖に掛かっている門脇の吊り橋と橋立の吊り橋は、景気もさながら海からの風が心地よく正に絶景であった。

 伊豆急行とバスを乗り継いで、下田から堂ヶ島へ移動。二泊目のホテルは、三四郎岩を望むオーシャンビューの部屋で料理、お風呂、サービスも抜群の五つ星をつけたいほどであった。その後、修善寺から三島を経て帰路についた。


     
台風を避けてぐるっと伊豆の旅          典子










    百六歳・篠田桃紅さん
                                 堺市   荻野浩子
 

 百六歳の美術家。篠田桃紅さんの展覧会に、義姉(あね)と御影の香雪美術館まで足を運んだ。百六歳を感じさせない迫力ある筆の抽象表現に息を呑んだ。一瞬にして去る風の影、散る花、木の葉、人の生「とどめ得ないもの」への惜しみかたを大胆な筆で表現されていた。落款の赤が際立って美しい。一つひとつの作品に眼が釘付けになった。作品は書であり、絵であり、音楽なのである。作品から足が動かなかった。シンプルな言葉の奥に心惹かれる。大作ばかりではない。小倉百人も桐箱に納められていた。歌人としても活躍「いづかし」に掲載されていた。
後世の人達に文化遺産として残されるでしょう。

 桃紅さんのエッセイ集を求めた。「好きな道具たちのなかで生きる」に徹していた。ものは生かして使うものだ。仕舞っておくのが道具ではない。人生も一度きり。死んでしまえばそれまでと。魂の生まれ変わりなどありえない。王様であろうと、平民であろうと、命が尽きたらそれまでになる。死んだら終わり。ただ使ったものや、文章に書かれたものは次の世代につなぎ、残されていく。それが歴史になって繋がっていく。だから一瞬も無駄にしてはいけない。そのためにゆとりある時間を持つことが大切だ。いつも何かに追われて、自分を見失っていたから納得、納得。

 何もしない時間は、飾らない自分の「素」が見えてくる。自然のままの自分であれば、お茶も美味しく味わえる。なにかに追われているときは一種の機械だと・・・。

 ポンコツになってきた私、命の終い方など模索していたが、この「素」になれる一言で自分が見えてきた。桃紅さんのすごい作品に出会ったからだと思う。なんだかうれしくて心が昂ってきた。肩を張らずに、今日も冗談飛ばして笑って、美味しいものを食べて、好きなことをして・・・。



  
こころざし高く いのちの朽ちるまで         浩子






    響き合う輪             
大阪狭山市  八木 侑子



もう子供も手を離れた頃だし20回目のクラス会は、一泊2日で白馬村でしましょう」との呼びかけに、クラスの半数20名が集った。

 旧府立女専が母体の小さな女子大なので、クラス40名のまとまりはとてもよく、在学中もそれぞれの場で活動していた。結婚後は退職が当たり前の時代に、クラスの大半は職場にとどまった。民間に就職した人は公務員試験を受け、転職した。昭和36年当時、大手の民間では大卒女性の居場所はなかったのである。

 就職・結婚の後も月一度は集り、ハイキングやトレッキングを楽しみ、ストレス発散の場としてきた。だから畿内10名程のグループ内では、常に交流の場をもっていたのである。

 夜行で出発する私を見送りに、夫に抱かれバス停まで来た3才の娘の不安気な目を今でも忘れられない。
 だが思い切って訪れた白馬の会合は、ひとまわり大きな輪を持つきっかけとなった。

 「来年もまた違う山に登りましょう」とのことになり、月々のハイキングに参加できない遠方の仲間とともに、山に登ることになった。
 山岳部やワンゲルに籍をおいていた人達をリーダーに月一度のハイキングと年数回の登山、海外旅行は北海道の旅を最後に75歳までとぎれることなく、続いた




     
  美しく響きあう輪の中にいる
      じんじんと受けてはこぼす岩清水
      まっすぐに無を聴いている滝の音
      さよならの友の帽子に赤とんぼ
      ふと目覚め虫の音近くピチカート 
          侑子










  後期高齢者 独り言       石川県   堀本のりひろ



なぜか、時間が早く経つ 認知症、痴呆症の、言葉が目について仕方がない
過去の、過ち、失敗が、突然思い出される あの失敗 あの過ち、どこへ置いてきたのだろう 私と、二十歳の孫との、ギャップ でも、家族みんな 優しく喜寿を祝ってくれたうれしさ 天を突く  幸せ者の 独り言です。


   我が娘から呆けたと言われ天仰ぐ

   認知症見交わす夫婦よそ事で

   すねの傷どこへ奉納しましたか

   爺川柳スマホゲームに孫夢中

   喜寿祝い満面の笑み揚げ雲雀

                         
のりひろ












                         
2019年9月 更新



 
         
五里五里の里          城陽市    木口雅裕



 城陽市に住んでいますというとあまり有名ではない市なのでそれ何処にあるのとよく聞かれる。私は、京都に五里(約19.6キロ)奈良に五里の「五里五里の里」で、京都と奈良のちょうど中間です、と説明している。 
 城陽の自宅から、京都四条まで1時間、大阪淀屋橋まで1時間20分、大阪天王寺まで2時間、交野市河内磐船まで1時間10分、かけて川柳の句会にでかけている。

 城陽市は人口約7万5千人の、これといって全国的に名の知れたものもない、いたって地味な町である。西側には木津川が流れ、南北に近鉄京都線、JR奈良線が走り、東側にはサッカーのサンガタウン城陽があり城陽カントリー倶楽部と東城陽ゴルフ倶楽部がある。東から西になだらかな丘陵地が広がり約4千年前から集落があったという。約150基の古墳があり遺跡の宝庫となっている。自宅のすぐ近くにもいくつもの古墳が点在する。なかでも久津川車塚古墳は、5世紀前半の全長272メートルの前方後円墳で、発掘された長持形石棺は現在、京都大学総合博物館に展示されている。これは見学に行ってきた。

 4年後の2023年には新名神が開通し城陽ジャンクション・インターチェンジが新名神と京奈和自動車道を結ぶ。城陽市南部に城陽プレミアムアウトレット(三菱地所)が完成し新名神と城陽スマートICで直結する。竜王の1.5倍の広さで関西最大級のアウトレットとなる。

 そうなると少しは城陽市の名前が知れ渡るようになり、いちいち説明しなくてもよくなるかも知れないと今から心待ちしている。



      
城陽よ五里五里言わず名を誇れ        雅裕














     
 要介護2の父と            仙台市     月波与生



 狭心症、心筋症と診断されてから「仕事辞めたいなら辞めて好きなことして生きてもいいよ」とパートナーは言ってくれる。おおうれしいことを言ってくれるなあと思ったけど、「あ、もう家に戻って来いということか」と気づく。

 意に添わぬまま始めたが今ではすっかり慣れてお気楽な単身赴任生活も12年。当時中学三年生、高校三年生だった子供達も社会人になりもう扶養家族ではない。そして去年父が倒れ介護を必要な身体になった上に認知症もゆっくり進行してきていてひとりでおけない。今やのんびり単身赴任生活をしてるより、実家に戻り介護をしなければならない状況なのだ。

 雇用延長は手を上げなかったので定年退職まであと二年、このまま仙台でお気楽な単身赴任生活を続けるか。仕事を辞めて青森に帰るか。1961年生まれは60歳で貰えるはずの年金が65歳からになった最初の年代で、このこともかなり人生設計に影響を与えて、簡単に帰ることを選択できない。

 心臓の病気のことを考えると、これからどう生きるかの問題になる。そして自分のこれからはあまり時間がないのだろうな、と考えなくてはならないのが心臓の病気の切ないところだ。少ない残り時間をどう使えばいいのだろう。

 処方された心臓の薬は当たってるようで、朝アパートから駅までの十分弱の徒歩で息苦しさや胸を刺すような痛みはなくなった。ただ時々何もしていなくても胸がズキンと痛む。この痛みがくると「ああ自分は心臓の病気なんだなあ」と思い出して深呼吸しちゃったりする日々が続いていた。



         
生卵食う要介護2の父と        与生







 
  ネクタリン            八戸市     笹田かなえ



 一年に一度はネクタリンを食べると決めている。
ネクタリンは桃の仲間だが、産毛がなく味は桃よりも酸味と甘みが強く弾力があり食べ応えがあり、桃よりも野生的なところがある。そんなネクタリンを初めて食べたのは、38年前のことだった。

 娘を妊娠して5か月に入る頃に不正出血があり病院に行くと、前置胎盤と告げられ緊急入院。絶対安静、寝たきりの入院生活となった。点滴に繋がれ、トイレも食事もベッドの上。刺激を与えないように、寝返りさえ打つことが出来なかった。お医者さん、看護師さんにはどれほど世話になったことだろう。真夜中の突然の出血に、出張先から戻って手当してくれた先生のメガネの光る横顔は、今でもありありと思い浮かぶ。

 そんなこんなで8か月になる頃、私自身の体力も落ちてきたのか、発熱を繰り返すようになり、陣痛が始まってしまったのだ。看護師さんにはげましてもらいながら一晩の陣痛のあと出産。娘は968グラムの超未熟児だった。

 母子ともに命が助かったことが奇跡のような出産であった。体力が戻るまで入院することになった私に、実家の母が持ってきてくれたお見舞いの一つがネクタリン。ちょうど長野に出張で行っていた実家の父が土産にどっさり買って来たのだそうだ。当時はまだ珍しい果物で、酒飲みで不器用な父がよく買ってきたと母が感心していたものだ。

 父は平成6年に64歳で亡くなった。生きていれば90歳だ。



      
昭和56年が夏ネクタリン       かなえ











  
古希を祝うハーモニカ・ソロ・コンサート    
                              堺市     荻野  浩子
                        

 酷暑さなかの盆、新大阪で梁木さんの祝賀コンサートがあった。一部、二部、三部の構成で、口笛奏者や三味線などゲスト出演もあり賑わった。
 定刻、照明が落ちるとスポットを浴びた梁木さんが、ラ・クンパルシータからコンチネンタルタンゴへとハーモニカの音色が誘っていく。司会者が曲の背景を挟みながらシャンソンの枯れ葉、宵待ち草、青葉の笛の幻想曲へと惹き込んでいった。選曲がすばらしい。
 第二部は外国の民謡から、日本の懐メロ。奏でる前に「起伏に富んだ私の七十年を聞いて下さい・・・」と、梁木さんも戦争の犠牲者だった。ドラマティックな人生をユーモアたっぷりに語られた。国籍はベトナム。父は軍医、母はスリランカとベトナム二人いたそうだ。内戦が続くベトナム、いつも死と隣り合わせだった。そんな時、父の故郷である河内長野へ帰ってきた。言葉も文化も判らない日本の小学校で言葉を覚えた。父が吹くハーモニカを耳で覚えた。楽譜も何もない。父は会社を建てて六年後、会社だけ残し早世してしまった。苦労とは思わなかったのはハーモニカがあったからだと思う。ハーモニカを始めて二十年になる語り口にも自信がこぼれた。美しい音色に胸が熱くなってきた。
 ロシア民謡のメドレーからロンドンデリーの歌、古賀メドレーへと続く。音域によってハーモニカの種類も増えていく。一つの曲に三本、五本と変えて吹く。だから深い音色が出る。私も練習をするが、八度、五度奏法、バイオリン、マンドリン奏法、ハンドカバーなど容易く吹けるものではない。

 第三部はクラシックと演歌。私の好きな瀬戸の花嫁、ラストダンスは私になどマイナーのハーモニカで酔わせてくれた。二十二曲と、アンコール曲を暗譜で、三時間余りを心地良い音色に酔うていた。どんなきびしい環境の中でも、自分と向き合うものがあれば頑張れるものかなと思いながら・・・。


  
逆境も飛び越えてきたハーモニカ         浩子









  
76歳まだ一介の営業職        石川県     堀本のりひろ


 昭和42年 大学を卒業後、親爺の「俺の顔をつぶすのか!」の、一言に負けて、おやじ推薦の会社に就職。某大企業の子会社の医療機関向け機器の販売会社でしたが、いつの間にか、五六歳まで、営業職一途に邁進、文字通り邁進でした。とにかく、営業が面白かったのです。

 当時の医療界は、エリートの集まりの世界でしたから、今以上に、世間から、尊敬され、プライド高い方々の世界だったのです。が、反面、世間に疎い方々でもありました。そういう方々とのやり取りが、面白く、嘘をつくことはできない性格でしたから、信用されたのでしょう。

 営業成績は、自分でいうのも変ですが、それ相応の成果はあった、と自負していました。が、親爺譲りの頑固一徹が災いし、上司との、衝突は絶えませんでした。だから、出世はできず、五六歳で役職定年になり、事務方へ配置換え。腐っていたら、かっての、上司から、誘われて、他の医療業界へ再就職です。営業のやり方は、同じやり方を通しました。一人での活動ですから、思い通りの営業活動が出来、七六歳になる私ですが、いまだ現役で、活動しています。

 思い返せば、飽きもせず、頑固一徹に、まじめに、やりたいようにやってきたおかげで、事故もなく、家族にも恵まれ、良い人生を送れたと、感謝です。が、内心 出世を夢見ていたのも、事実。金字塔を得られなかった私ですが、満足している七十六歳です。





      文楽            大阪狭山市   八木  侑子


 私の文楽観賞暦はほぼ50年。文楽が現在の国立文楽劇場で上演される以前の道頓堀の朝日座の頃から続いている。
 学生時代は、新劇が盛んで、演劇部の友人たちとたびたび劇場に繰り出した。藤本儀一・統紀子夫人もこの演劇部に属していた。
 社会人となって間もなくの頃、「大阪人でしょ。文楽を盛り上げなきゃ、消えてしまうわよ」との友人の強引な誘いに乗って、ふと立ち寄ったのが、きっかけとなり、たちまちとりこになってしまった。文楽の内側を描いた有吉佐和子の「一の糸」が尾を引いていたのかも知れない。

 30代は仕事、子育てと格闘の時期・・日常と離れ全くの別世界に身を置くのが何よりのストレス発散だった。現代の感覚からかけ離れた「忠・信・孝」は異和感よりも、絵空事として、遠い世界にいざなってくれた。

 竹本座・豊竹座がせり合い、どんどん新作を打ち出し、客もそれを楽しみにしていた江戸時代とは違い、古典として
鑑賞する現在は通しとして筋を追うのではなく、見せ場の多い段のみを切り取っている。

 義経千本桜・菅原伝授手習艦など昼夜通しで、演じることはたまにはあった。今はもう観客もこのような余裕はない。

 今年の昼の部は、春夏秋の三期に分けて、仮名手本忠臣蔵の全てを演じている。このような試みは初めてである。誰もが知る演目なので、超満員―。あの手、この手で文楽の世界に呼び込もうと必死なのがよくわかる。
 加えて、今年の直木賞は近松半二の生涯を綴る『渦妹背山婦女庭訓魂結び』(いもせやまおんなていきんたまむすび) 大島眞寿美 著である。これを機会に新しい客が定着するとうれしい。

 生の人間ではなく、血の通わぬ空洞の人形だからこそ無限に表現出来る世界。この透徹な世界に心を遊ばせる…・まだまだ操浄瑠璃から抜け出せそうにない。


 人形に命を注ぐ勘十郎

 人形の魂(たま)躍らせる文楽世界

 透明な世界にいざなう  文楽  
            侑子







                              
2019年 8月  更新


 
    毎回欠かさず送稿して下さっている福村まことさまから、次のようなメッセージが
     参りましたので、お知らせいたします。また今後に期待いたしましょう。  洋子


                          
  バンクーバー  福村 まこと

     いつもお世話いただき感謝しております。
     先日より体調を少し崩しており、今月の
     エッセイは休ませていただきます。
     急な連絡で申し訳ありません。今後とも
     よろしくお願いいたします。
                                 まこと拝




   閉塞性肥大型心筋症
        仙台市    月波与生



 検査日は予約時間の10時には受付を済ませてすぐ血液検査をしたまではよかったもののそれからが長くて診察室に呼ばれたのは12時を少し過ぎていた。宮城県では心臓系の治療で有名な病院ではあるが、呼吸器疾患に悩まされている人は多いのだなあ、と実感する。
実は退院後、息苦しいときだけ日記を書いて診察のときに忘れないように言おうとしていたのであった。
一部記すと
5/15
 0650アパートから八乙女駅階段前で息苦しくなる。胸に少し刺す感じ。平坦な  道600m程度。
0720
 仙台駅から職場へ500m程度。階段多い。息苦しいが胸の痛みはない。ゆっくり 上がる。
6/3
 日常生活、例えば椅子に座っての仕事中で心臓を刺すような痛みあり。痛みは そんなに強いものではないが。なんだろうか。
6/28 (検査当日)
 痛みはふたつ
 歩いての動悸、短いときは100メートルか歩いただけで苦しい。舌下スプレー使 用する。安静時の心臓を指すような痛み、強くはないがズキンと来る。今もある。


 とこんな感じの症状を伝える。
血液検査の検査の結果は、LDLもHDLも入院時当初より改善していて正常値の範囲内に入った。にもかかわらず症状が改善しない、ていうか悪くなっいる。
うーん、なんだろう、、、。
ということで心電図と心エコーの再検査をすることにする。

 検査を済まして14時過ぎ、「お腹空いたなあ」と待ってるとようやく呼ばれる。
まず身内に心臓系の病気の人がいるか、と質問される。脳梗塞を数度起こしている父が心筋梗塞を併発していたことを思い出し話す。

 「冠攣縮性狭心症ではなく閉塞性肥大型心筋症ですね」と医師が告げる。
閉塞性肥大型心筋症とは理由もなく心臓が大きくなり、血管を圧迫するため動悸、息切れ、胸の痛みが発生する病気。症状が安静時はなく体に負荷をかけた時起きやすいこと、心エコーの結果からとのことで、遺伝性があるらしい。
 激しい運動を控えるように、と薬を処方され会計を済まして病院をでたのが15時過ぎ。昼食を食べそびれてしまったし外来とはいえ有給使って来なければならない。やれやれ。

 ビソプロロールフマル酸塩錠2.5mg 朝0.5錠 30日分。
次回はまた1ヶ月後。薬が効けばいいな。



     
 「罪と罰」読み終え病名が変わる      与生









   
 旅立ち
                               
京都市  中林 典子  


 7月20日で18歳になろうとしていた末娘の愛犬「エル」が天国へ旅立った。
18年前は、夫の両親と夫婦と子供が二人の6人家族で、ぎくしゃくしていた訳ではないが、家族がより仲良く繋がるようにと、息子が知り合いから生まれたばかりの子犬を貰ってきてくれた。犬を飼うつもりなどなかったが、子犬があまりにも可愛くてその日から手放せなくなった。

 エルのお母さんは、「よっちゃん」という名前の黒くてなかなか愛嬌のある顔立ちの雑種犬で、家に来て半年ぐらい経った頃に、一度会いにいったがお互い全く覚えていなかった。またお父さんはというと、よっちゃんは繋れていない犬だったので、フラフラと散歩中に身ごもったということらしい。

 またエルは大きな手術を3度もなんなくこなした生命力のある犬で、誰にも媚びず高いプライドを最後まで持っていた。小さな骨壺に入ったエルを毎日撫でていると涙がこぼれてしかたがない。


        
振り返る犬と散歩をした時間            典子









    寺山修司記念館吟行   
八戸市    笹田かなえ


 7月7日、「川柳カモミール句会」で「寺山修司記念館吟行」を行った。
私が初めて寺山作品に触れたのは、高校2年の時だった。演劇部に所属していて、ちょうど「書を捨てよ町に出よう」の映画が上映されるというので、顧問の先生が部員を引率して観に連れて行ってくれたのだ。映画は、青森なまりの強い若い役者がただ怒鳴っていると言うイメージしかない。でも寺山修司とその若い役者が来ていて、上映後に舞台で何か話していた記憶がうっすらとある。その時の若い役者は現在の寺山修司記念館の佐々木英明館長さん。

 今回の吟行では記念館を見学のあと、館内で句会を開催することができた。
吟行の企画を記念館に申し入れた時に、断られてももともとと、あつかましくも館内での句会を申し入れたら、ご厚意により、快く許可をもらった時の嬉しかったこと。

 吟行では参加者が思い思いの見学をして作句。私も何度目かの寺山ワールドを堪能した。句会の合評では、またまたあつかましく記念館の職員さんに特別参加をお願いしたら、増田さんという短歌を書いていらっしゃる若い方が参加してくださって、大いに盛り上がったものだ。

 記念館では今、特別企画展2019vof1「寺山修司の1969 〜アジテーションの時代〜」の企画展示を行っている。学生運動の盛んだった時代のヘルメット姿の寺山修司を見ることができる。
 1969年は50年前、16歳の私が寺山修司と出会った年だと、今回初めて知った。


     1969 髪を切ったり伸ばしたり  
かなえ







        
高血圧               城陽市 木口雅裕



     いい数値出るまで測る血圧計 (サラリーマン川柳)

 血圧が気になり測っている。朝起きてすぐに測る血圧が高い。174-118ほどある。医者で測るときには許容範囲なので、薬は処方されていない。朝の数値だけが異常に高い。心筋梗塞と脳梗塞の不発弾を両脇に抱えているような気分になる。高血圧の対策として食事療法、塩分控えめの食事を心がけて醤油の量を少なくするとかちまちまやってみたが一向に下がらない。

 ネットで検索してみるとタオルグリップとか合谷のツボ指圧とか高血圧対策の情報が溢れていた。その中でたぶんこれだろうというあたりをつけて一つを試してみることにした。

 それは、高血圧の人は体が硬いので柔らかくすれば血圧が下がるというもの。
ストレッチの類いである。前屈、足首まわし、手首まわし、首まわし、肩まわし、足裏もみ、肩叩き、股割り、筋肉ほぐし、乾布摩擦など思いつくままに自己流でやってみる。肩甲骨あたりはタオルを背中に両手で持って引っ張り合う。いててっというくらい硬い。これをやると猫背も治りそうな気がしてくる。前屈なんかは床まで30センチぐらい空いている。とにかく体ががちがちに硬い。

 黙々と一ケ月続けた。結果は131-94。ストレッチのおかげで体の調子もすこぶるよくなった。人間の身体はなんて不思議な作りなんだろうとつくづく思う。そしてネットの情報恐るべしとも。


     
恐怖する朝の血圧その数値            雅裕







    縄文の刺突点土偶を観て    吹田市  森井 克子



 令和元年6月30日、奈良の大和文華館に行った。縄文の刺突点土偶を観るためと、庭園のアジサイを見るため、そして、東京国立博物館の品川欣也氏の講演「考古学者の考える美」を聴くためである。考古学よりも、岡本太郎氏が影響を受けたという東北の縄文土器や土偶に興味があったからである。

 二十センチ程の土偶立像の身体には、微小の三角形の刺突した穴が無数にあった。これは刺青か病気の痕を模すらしく、呪術に使われ、儀式後に土偶は壊されたらしい。縄文時代はまだ大きな権力もなく、土偶はすべて産の象徴の女性像で、プロの工人もなく、村人みんなで一緒に作っていたらしい。土器も…。そのため土器も土偶も厳しい庶民の暮らしのなかの工夫から作られた庶民の集団作品だったのだ。

     お祈りは暮らし土偶の刺突点       
克子

 この後、強い有力者が生まれ、有力者のための土器や土偶が作られるようになり、専門の工人が生まれ、弥生からつづく古墳時代には、有力者や権力者の墓への副葬品となり、女性だけだった土偶は武の男性像が増えていく。

     やっかいな奸智が脳に棲むヒト科     
克子

 大和文華館の切符売場のすぐ隣にある入り口を通ると、庭園がつづく。ゆるい上り坂を歩いていくと、正面に館の建物が見えてくる。玄関の手前には、三春滝桜がある。春の満開期なら見事な枝垂れ桜だ。この日は緑の滝桜だった。アジサイ園の標識に従って進むと、満開を少し過ぎたが、額アジサイの花が続いている。その花の向こうには、小さい湖のような日本最古のダムが見える。さらに進むと、館の裏口に着いた。水面はすぐ近くだ。ダムの向こう側に、春日山がぼんやり見えていた。この日は雨だ。晴なら山の稜線がくっきりと見えるのかもしれない。古代の人々から繋がっている心を感じながら、雨で澄む緑と水面を、暫くうっとりと眺めていた。

    
   額アジサイ最古のダムを見つづけて   克子








   おもてなし            堺市    荻野 浩子


 懐石を教わった禅寺の奥様の訃報が届いた。百四歳までお茶一筋、おもてなしの膳にこだわり、毅然と生きてこられた。お茶を通して娘のように可愛がってもらった。毎年、近況を添えた自筆の年賀状が今年は届かなかった。

 60年前に気持が馳せる。豊かな暮らしではなかったが「ほんまもんの味を舌で覚えなさい」と奥様。裏千家で催す茶事から、たん熊や、辻留茶懐石へお供をした。今の時代なら写メで残せたが、手書きのノートにお粗末な絵で、食材やメニュー、感想など細かく書き込んでいた。処分できない青春のかけらだ。

 桜の博の釣り釜や、玉萩の月見茶会、炉開きや雪見など、おもてなしの懐石膳に茶人が集った。はだら雪の露地をながめつつ、時候のご挨拶から正客と亭主の心が解れていく。床の間には禅語と寒椿の赤。手あぶりで暖を取りながら炉を囲む。白い湯気と煉り香の梅が香の中で・ ・ ・。お茶席から懐石の膳へ。

 寒いときには温かく出すタイミングに心を配る。芹、早蕨、蕗の薹、胡麻豆腐など早春の命を満喫して戴く。趣向の端々に亭主の演出が覗く。和菓子であったり、器であったり、食材であったりその都度わくわくした。その駆け引きが面白くて嵌まってしまった。学生でもあったから、掃除や買い物まで喜んで引き受けていた。おもてなしの下準備、見えない心配りがお客様の心を掴んでいく。時間をかけて作った胡麻豆腐は、すり鉢と葛藤したが「結構なお味でー」の一言で疲れも吹き飛んだしまった。なつかしい青春の一ページ。 

 今では、食材も豊富になり、おもてなしの膳も素から作る面倒なことはしていない。出汁も市販でおいしいものがある。半調理できたものに、少し手を加えてお洒落に盛り付けても通る。外食も、仕出し屋さんも即、調達ができる。 物の無い時代だったから、旬の食材を最大に生かして、心からのおもてなしに全神経を配っていた。おもてなしの原点ではないかと思っている。



     
茶禅一味 しずかに散った沙羅の花      浩子









       深 日  (  ふけ )             堺市 八木侑子

 大阪府の南の端に深日(ふけ)というところがある。もとの読みは「ふけひ」で「ふけい」→「ふけ」と転訛した。「吹飯の浜」「吹井の浦」として数々の詩に詠まれ「万葉集」「新古今集」「菊葉和歌集」などに登場する。
 昭和17年川崎重工業泉州工場が出来、翌年深日町となる。(10年後4ヶ町村合併、岬町深日)。
 工場が建ち、平地の少ない山と海の村も谷あいの土地は社宅や工員の長屋で埋まり、総合病院までできた。
 南海本線の岬公園駅から岬公園・深日町・深日港・多奈川と四駅のみの多奈川線が延びている。
 深日駅周辺は地元の人々が住み、深日港駅あたりは他所からの工場関係の人々が住んでいた。

 昭和23年深日港に淡路航路が開設された。港からは向かいの淡路島まで1時間足らずで着いた。戦後の食料不足を補うため、この航路は活躍した。当時は道路も整備されておらず、車も少なく、物資輸送はすべて貨車の時代だった。淡路から着いた米・塩・地元の魚を復員して職の無い人や、戦争未亡人がせっせと都会に運びこんだ。かつぎ屋と呼ばれ、戦後10年ほど続いた。当時お米は自由に販売できなかったのである。
 生きていく為に必要なものを運んでも法に触れる為、電車内で警官が張っているとつかまらぬように、車窓からお米を捨てているのを通学途上何度もみた。
 深日港に続き漁港があり、そして長松とよばれる松並木のきれいな海浜が岬公園まで続いていた。

  夏休み、私達小学上級グループは、波止場から波止場へ泳ぎ渡り、終点は長松の波止場だった。炒り豆の入った袋を腰に巻きつけて泳ぎ、塩水で柔らかくなった豆を波止場でたべて休憩した。内海だから、大波もなく潮の流れもわかっているので、そんなに危険ではなかったと思う。波止場では釣り糸を垂れている人がたくさんいた。
 午後は塩のついた身体を拭うため川の上流で泳いだ。ここでは川辺の畑のトマトがお八つだった。

 松茸狩り、自然薯掘り潮干狩り、魚釣り・・・。物のない戦後であっても自然の恵みの中で育った幸せを思う。
 海を彩る夕陽の美しさは今も記憶の底から離れない。



    戦さ果て 一家総出のあおさ採り
    初夏の海キラキラ単線のホーム
    山影が直接海に落ちる里
    立ち泳ぎ自分ひとりの輪をつくる   
     侑子












                               2019年7月  更新

   カナダに移住した経緯  そのⅡ 
         カナダ バンクーバー
                                        福村 まこと

                      
   1970年代、世界の警察官を自認し、ベトナムでそこに住む
   人達を殺し、他方、自国民を月面に着陸させるアメリカ合衆国を
   知りたくなり、短期の旅行でなく腰を据えて住んでみようと思った。
   当時カナダには、アメリカから徴兵忌避をした若者が約5万人
   住み着き、その人たちを支援する組織と繋がりができて、カナダの
   永住権を取得した。1972年2月、2週間の船旅の後バンクーバー市に
   着いた。折しも札幌で五輪の開催中であった。
   当時のバンクーバー市は、60年代に始まったピッピ―・ムーブメントと
   ベトナム反戦運動の中心地で、連日反戦デモがあり世界各地から
   多くの若者が集まっていた。アメリカ国内の旅行もしたが、カナダ
   から見る世界の情勢がより正確のように思えた。

   戦前のカナダでの日系人排斥運動を知ったのもこの頃で、
   その後、日系社会に深く携わるようになった。第二次世界大戦で
   アメリカの日系人を砂漠のキャンプに収容した話はよく知られて
   いるが、カナダの日系人の扱いはそれよりも酷かった。この
   話は近年ようやく掘り起こされつつある。

   このような経緯でカナダに住むようになったが、47年経た今、
   日系二世の子ども達や三世の孫達を見るにつけ、この先
   70億人が80億、100億と増える地球では、いろいろな民族が
   一定のルールに従い共同体のなかで生活をするしかない
   ようにも思える。その時、世界市民という意識が生まれて来る
   ことを期待している。
   カナダの標榜する、多民族文化・多民族国家を信じている、
   老日系移住者のつぶやきである。


      
 艪を捨てて鯨の昼寝まねてみる   まこと


    
作者よりコメント  7月1日は、カナダの建国記念日です。1867年7月1日に
               カナダ連邦が成立しました。まだ若い国ですが、多民族の
               文化をそのまま保つ多様性文化国家を目指しています。








「三浦文学と郷土料理・味わう会」         八戸市    笹田かなえ

 

   八戸市出身の芥川賞作家三浦哲郎の作品には、郷土料理が色々登場するが、
   二回目となる今回は、郷土料理というより、私たちのおなじみの料理が登場した。

    地元新聞の文芸欄で「三浦哲郎文学顕彰協議会」の主催によるこの会の参加者
   募集の告知を見るや、食いしん坊の私が申し込みをしたのは言うまでもないこと。

   献立は、
   「通し いかの塩辛」(「かきあげ」短編集モザイクⅠ『みちづれ』より)。
   「吸い物 アブラメの吸い物」(「野いちごの章」『旅雁の道草』より)。
   「造り マグロ、甘エビ、いか」(「落ち葉しぐれの章」…四十九日法事の献立より)。
   「揚げ物 厚いとんかつ(「とんかつ」短編集モザイクⅠ『みちづれ』より)。
   「平皿 えびフライ(「盆土産」短編集『冬の雁』より)。
   「酢物 カニと胡瓜の酢の物(「落ち葉しぐれの章」…四十九日法事の献立より)。
   「鉢物 じねんじょ(麦とろ)(「じねんじょ」短編集モザイクⅠ『みちづれ』より)。
   「甘味 お汁粉(「汁粉に酔うの記」『笹舟日記』より)。
   「飯物 麦飯」。

    会場は三浦哲郎が来八の際に定宿としていた八戸グランドホテルの最上階。
   そこでは三浦哲郎が朝食を食べる席も決まっていたそうだ。
    実は私は、三浦哲郎より寺山修司の方が好きだ。
   だが、食べ物に関しては三浦哲郎に軍配を上げる。

   塩辛もとんかつもえびフライも麦とろも、お汁粉さえもほのかに涙の味を感じた。


       
とろとろと塩辛 引き算の答え          かなえ













 
 母のありがとう

                             西宮市        田村 ひろ子
  

 ピンとした背筋で仕事に向き合ってきた母が八十五歳の時に手術を受け、途端にすっかり足が萎え、ベットから自力では離れることができなくなった。次第に細く優しくなっていく母の指を握りながら胸がいっぱいになった。荒れた手に薬をすり込みながら曾祖母を看取り、祖母を看取り、一人息子の兄を看取った母の手をそっと撫でた。母は微笑みながら「ありがとう」と言った。私の「ありがとう」よりも先に。

    
やわらかくなった母の手車椅子      ひろ子

 堅実な歩みの大切さを無言で示してくれた母は、私を束縛することもなく、「ありがとう、幸せだった」の言葉を残して八十八歳で旅立った。飛ぶことより、一歩一歩の大切さを伝えてくれた母の背に感謝している。そして私も自分の思いを娘や孫達に伝えることのできる背を持ちたいと願っている。

   飛ばなくていいの
   あなたはアヒルの子   
            ひろ子 

 母の葬儀を終え帰宅したポストに師・時実新子の優しい文字が待っていた。「お母様の想いの分も生きるのですよ。今のままの貴女を大切にしながら」と。師のその言葉を、今も大切にしている。母が逝き六ヵ月後、師も旅立たれた。

    
病む人の強き便りに支えられ        ひろ子












       川柳100秀句             城陽市      木口雅裕




 ひょんなことから川柳の森に足を踏み入れてかれこれ5年になる。川柳にハマって無闇やたら作っているのだがあっちへふらふらこっちへふらふら、自分自身でこれで行こうという方向性が見えないでいる。
 そんな時、中野六助さんからアドバイスをいただいた。

「自分がああいいなあと思う句、こんな句を自分も書きたいと思うような句を、100句選んで常時その入れ替えをやっていけば自ずと方向性が見えてくる」というもの。
 いいですねそれやりますと答えて早速取り入れることにした。

 まず、持っている句集や柳誌、書き写したノートなどから100句を選ぶ。ひとり1句もあれば2~3句の作家もある。有名な句よりも自分の基準を大事にした。

 次に、紙に書くのは手間がかかるし、カード形式も不採用にして、パソコンに入力することにした。これだと修正もプリントアウトも楽である。そうして出来上がった一覧を「川柳100秀句」と名づけた。自分のためだけの秀句集ができあがった。デスクトップに保存した。パソコンは毎日立ち上げるので、毎日必ず見ることにしようと決めた。

 新しくお気に入りの句が見つかれば、どの句を100句から外すかの熾烈な入れ替え戦が始まる。厳しいが結構楽しい作業である。
 信じるものは救われる、とばかりにきょうも100句と睨めっこしている。



    
 たかが川柳されど傾斜は急角度
          雅裕













        
冠攣縮性狭心症         仙台市     月波  与生




 入院して冠攣縮性狭心症という病名がついた。
ホントかよ、と思うが確かに体に負荷をかけるとすぐ動悸がするし、さらに負荷をかけると心臓に突き刺さるような痛みがくることがある。ニトログリセリン噴霧剤を常時携帯し、苦しくなったら舌下にスプレーし、それで効果がなかったら救急車を呼べ、と注意される人間になってしまったのはホントのことなのだ。受け入れなければ。

うーん。
 
 何をどうすればいいのかわからないがとりあえず無理をしないで生きよう。出来ないことは出来ないし、嫌な人には会わない。体を酷使するような努力も止めることにしよう。65歳までの雇用延長に手を挙げなくてよかったとつくづく思う。経済的に無職だと苦しくなるが多分残りの時間はあまりないだろう。60歳過ぎたらギリギリになるまで仕事はセーブしよう。そして仕事より面白いことをして生きよう。

 残念なのは、ひとり旅とか山歩きとかの行動を制限しなければならないこと。全国各地のマラソン大会に行くのも無理だし川柳大会の参加もほどほどにだろう。でもこちらはすべて止めるのではなくて、体と相談しながら少しずつでも続けていこう。

もうひとつは川柳句集。
自力で一冊は作りたいと考えているけど、突然死するかもしれないから信頼できる人に「月波与生は突然死んじゃうかもしれないからそのときは句集だしてね」とお願いしておこう。
 早朝、目覚めるとホッとする最近の私である。



        
早朝覚醒か生き延びた朝か            与生













       何必館・京都現代美術館            堺市    荻野浩子




 初夏の特別拝観・半夏生の庭園案内が目に止まった。建仁寺の両足院である。丹波の妹に会いたくなって、夜遅かったけど電話で誘った。

 翌朝、京都駅で待ち合わせ祇園へ向った。その道すがら「今、樹木希林さんの生き方にすごく感銘受けてるんやけど、ぜひ何必館へも行きたいわ」と妹。両足院の半夏生もそこそこに何必館を探した。花見小路から四条通りに出ると何必館が目に飛び込んできた。人通りが多くて、間口の狭いビルに見過ごしそうな美術館。フランスの報道カメラマン「没後十年・ウイリー・ロニス写真展」が開催中だった。

 この美術館長の梶川芳友さんが「人は定説にしばられる。学問でも、芸術でも、その定説にしばられて自由を失ってしまう。定説とは何ぞ、必ずしもと、疑う自由な精神を持ち続けたい思いから何必館」と。開館当初から希林さんはここへ通っていた。鋭い観察力と、批判精神の持ち主であり、ご自身にもきびしかった。病気と対峙しながら美術を通じて、自己研鑽に磨きをかけていた。同じ価値観の梶川さんとは死生観を語り合う仲だった。

 毒舌家であり、美学者である高名な北大路魯山人の書画、陶芸作品が地下の展示室に並んでいた。一つひとつが語りかけてくる。殊に目を惹いたのは、直径40センチもある楽焼の「椿鉢」。華やかであたたかい、存在感がある器。1938年作の「椿鉢」だが、古さは感じなかった。希林さんが心を奪われた村上華岳の「太子樹下禅那」も素晴らしい。お釈迦さんが菩提樹の下で座禅修行の仏画。希林さんの心の葛藤が何となく理解できた。気高い精神の持ち主で心打たれた。

 展示のスペースは狭いのに、天を突くもみじの青が、館内を明るくしていた。吹き抜けの天窓から流れる雲を追っていた。とても地下室とは思えない異次元の世界だった。妹と命の終い方など語り合いながら美術館を後にした。




        
死生観語る 青もみじのなかで                浩子









                              石川県      堀本 のりひろ
   喜寿を迎えるにあたって


『もう喜寿が来る』と、意識した私。振り返れば、両親とも教師の家に次男として生を受け、何不自由なく育てられ、ただ、なんとなく、漠然と生きて、流されてきた人生。『ここだ!』と、踏み切った転換期もなく、『私の人生は、なんだったのだろう?』と、過去を思い返してみました。

 学校生活、進学、就職と、両親の言うがままに過ごしてきた私。そんな私が、唯一踏み切ったことは、結婚。 両親に、一方的に宣言…何の相談もなく、許されないのならば、「出ていく」、と、宣言した時の母親の、唖然とした顔が、今でも浮かぶ。両親は、片田舎の名家と言われる一族の出でしたから、次男は、どこかへ、婿入りさせて、無事な人生を歩ませようと考えていた模様でした。それが、ただのやんちゃ坊主が、いきなり宣言したのだから、さぞや、驚いたことでしょう。そのまま、結婚、孫三人を兄よりも早く授かり、両親を喜ばせたのが、唯一の事件だったのかもしれません。

 それからの、人生は、五十五歳まで、父親が就職させた会社で、役職定年になり、誘われて、別の会社にひっぱられ、二十数年間、働いて、今日に至っているわが人生。その間、仕事にも、家庭にも、苦しかったことは何一つない。、(本当はあったのかもしれませんが、生来の呑気もの故、忘れたのです)まったく平坦な、幸せな人生です。

 何が、その根源となったのか、よくわからないのです。ただ、頑固だった父親に似て、仕事には、頑固に打ち込んできたのが、ここまで、支えてきたのかもしれません。

 出世したのでもなく、大金持ちになったのでもなく、ただの、平凡な、喜寿を迎える爺さんです。が、振り返れば、楽しかったこと、うれしかったことが、一杯詰まった七十六年だったことは間違いありません。しあわせな、喜寿を迎える爺さんです。




      
失った時一杯の日記帳           のりひろ

                                       
平成30年6月  蟹の目句会








    夕餉                          大阪狭山市    八木 侑子



 「ピンポーン」「待ってましたよ。紗良ちゃん! 」うれしそうな夫の声。週日夕方6時の我が家の日常  風景である。
 近所に住む娘が、出産を機会に一度は退職したが、四六時中子供と向き合っての主婦生活は息が つまるとの理由で、再び仕事を得た。

 『離乳食とジイジ、バアバの食事はよく似たものだから、夕食は一緒にお願いします』。
 夫の喜んだのはいうまでもない。娘と孫の加わるにぎにぎしい食卓は、退職後の夫にとっても、この 上ない幸せなのだ。

  娘は帰宅のち、子を寝させ、あとゆっくり仕事を終えた連れ合いと、二人の時間を楽しむ。
 こんな生活が続き、孫はもう小学四年生。背丈も私の肩を越えた。老いた私達を気遣ってくれる。
 色々な老後があると思うけれど、私にとっても充実した毎日である。

  50年前、まだフルタイムで働く主婦が少なく、保育所もほとんどない時代に、私の出産を前に
 母が「子守」を申し出てくれ、一家そろって面倒を見て貰った。

  主婦以外の外の空気を存分に味わい、定年まで勤めあげられた幸運。
 天上から私達の夕餉に拍手していることと思う。



    
一緒に遊ぼみんなこの指たかれ                 侑子



    











 
                  
                              2019年 6月       更新



   
カナダに移住した経緯  その1    カナダ バンクーバー
                                 福村 まこと



 1968年7月バックパックを担いでオセアニア地域を旅行した。
外貨持ち出し制限が500米ドルだったので、途中オーストラリアでアルバイトをして1年間各地を回り、1969年2月シンガポールでフランス郵船の「ラオス号」に乗りバンコック、サイゴン(現ホーチミン市)、香港へ向かった。

 ベトナム戦争が激しさを増しており、サイゴンは危険なので寄港せず、ベトナム沿岸を北上していたある日、無数の米軍ヘリコプターが地上を爆撃し、一帯は炎上し、太陽を遮るほどの煙に覆われた戦闘場面に遭遇した。これが世に言う「ラオス号」事件である。

 船客達は全員デッキからその光景を無言のまま眺め、多くは涙を流していた。無差別に地上の見知らぬ人間を殺戮する狂気。それを見て私の世界観人生観も変わった。

 更に船が香港に着く日、7月20日に船内に臨時ニュースが流れ、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功して、アームストロング船長のメッセージが伝わった。
 一方で太平洋をはるばる越えてその地の人達を殺し、他方人間を月面に到達させるアメリカ合衆国をこの目で見たいと思い、その日から北米移住を考えるようになった。


     石を割るもしも言葉に溺れたら  まこと


                                                                                                 この続きは 次号にて 。

   
作者より 近況のコメント
    5月20日(月)はビクトリアデーと言う祝日で連休です。カナダが英国から独立した時の
    女王ビクトリアの誕生日を祝う日です。カナダではこの日を境に夏が始まると言われますが、
    今朝はまだ暖房が入っていました。









  右も見よう 左も見よう   
                             
  西宮市       田村 ひろ子



「う~う~う~ !」
 一年ぶりにあった、ハスキー犬のモモは十七歳。去年大病を患ってから、声を出して鳴くことが少なくなったという。

「あっ、ひろ子ちゃんお帰り!」と呼びかけてくれる幼馴染が多く住む盛岡に、毎年お墓参りに帰る。 市の中心を流れる中津川沿いの岩手公園(城跡)を見下ろす七階にモモは住んでいた。

 病後、モモは右側だけに曲がるようになった。左目が見えないので、体も右に傾いている。左三十センチの所にある水を飲みたい時、モモは右側にある、大きな円卓の周りを一周して、水が右目に見える位置に移動する。

 ベットに行くのも大変だからと、モモのママ利子さんはリビングに三箇所のベットを用意している。ゆっくり動いているモモが元気になる瞬間がある。大好物のリンゴを剥く音がすると、背筋を伸ばし、ハスキー犬の顔になる。「リンゴはおいしいよね」、リンゴが大好きの孫の花菜と晃平はモモの味方。すぐリンゴをやろうとする。

 モモのパパ正男さんが二人に「モモちゃんは、おばあちゃんになるまでは、右も左も見て元気に頑張ってきたんだよ。二人とも、右も左も丁寧に見て、大きくなりなさいね」
 神妙な顔で頷いている二人は後ろ手には剥いたばりのリンゴを握りしめていた。
モモが旅立って六年になる。



       失った心にひとつ銀の鈴 
           ひろ子








      
 にゃんにゃん            城陽市   木口 雅裕



 とんと関係がないのだが、どうやら世間は空前の猫ブームが続いているようである。「猫とじいちゃん」という映画まで上映されている。岩合光昭監督、ねこまきさんの猫漫画が原作で、2019年2月22日の猫の日に公開されている。

 大きな声では言えないが、私は猫が苦手である。どちらかといえばこわい。近寄られるとそれこそ体がこわばってしまう。爛々とした眼光、牙はある、爪はある、敏捷なところもこわい。警戒しているのが猫のほうでも敏感にわかるらしくなんだこいつはとばかりに警戒される。当然、あごを撫でることも抱くこともできない。ひたすら無事通り過ぎるのを待っている。私には猫6匹も飼っておられる猫好きの方の気持ちがまったく理解できないでいる。

    権利書の境を越えて猫はゆく         石田和雄

 猫の自由気ままをみごとに描写している。権利書は人間の欲の都合で勝手に決めたこと、わたしゃそんなこと関知せずとばかりに越えてゆく。犬は鎖でつながれて散歩はご主人様の都合次第だが、猫は好きなときに散歩ができる。黒猫だろうか、忍者のように音もなく歩いてゆく、四方に目を光らせ時には後ろを振り返りながら。ただ猫があるいているだけの句なのだが、そこに権利書の境を持ってきたところに意表を突いた面白さ、人間模様も絡ませて奥行が生まれた。

 猫が苦手な私にも猫の句はないことはない。

    猫バスに乗ったことさえ忘れがち        木口雅裕 











     ウッってなる瞬間             仙台市   月波与生



 通勤は地下鉄だ。

 仙台市地下鉄南北線八乙女駅が最寄り駅でアパートから10分ほど歩く。この徒歩がけっこうしんどい時があってたまに立ち止まって歩けなることがある。

 その後電車に乗ると落ち着いてしまうので、まあ喘息持ちでもあるしその所為もあるかとあまり気にしてなかったのだけど、去年の健康診断で不整脈の結果がでた。再検査すると「狭心症に似た症状があるけど今すぐ病院に行くほどでもなし」の判定。「病院を紹介してもいいけど激混み。仙台市は病院がしっかりしてるからウッてなってから病院へ行っても大丈夫(意訳)」なんてことをいう医師の言葉を信じる。

 4月の吉野ヶ里川柳大会で木本朱夏さんにその話をしたら「あなたは馬鹿ですか、死ぬ前に早く病院に行きなさい(意訳)」といわれてしまった、とほほ。

 それでもやはり馬鹿なので、グズグズ仕事して酒飲んでいたらだんだん症状は悪くなり歩くと必ず胸が痛くなってくる。これが医者のいうウッてなる感じかと思い、冷や汗をかきながら職場近くのクリニックで受診すると「もう心筋梗塞起こしてますよ」とあっさりいわれそのまま病院へ緊急入院となる。

 そのとき看護師の方から「ウッてなってからだと病院まで来れずに死にますよ。心筋梗塞はウッてならなくても起こりますから。次回はもっと早く病院に来てくださいね(意訳)」と諭される。
心臓カテーテル検査の結果幸いにして冠状動脈は詰まっていないらしく、まずは安心。

 病棟5階の窓から仙台市の森林公園を眺める日曜日、とりあえずデスノートから自分の名は消えたのだろうかと思案している。



    馬鹿につける薬ジェネリックにされる        与生







    
一枚のパネルから            堺市  荻野 浩子



 三月初旬、友達と昼食会のあと大丸梅田店で皇室写真展をたまたま目にした。
そんなに混んでもいない、ゆっくり出来そうだったから入場した。

 敗戦後の日本は高度成長に向けてみんな必死で頑張っていた。テレビや電化製品の普及が目覚しく夢があった。華やかな美智子妃のご成婚パレードは私達の青春の一ページだった。と等身大のパネルに懐かしい記憶が次々甦ってきた。
その中の一枚に不思議な体感を覚えた。身体が強ばり嗚咽が洩れてきそう。
サイバン島の海へ静かに黙祷される両陛下の後ろ姿のパネルに慟哭が走った。

 母の弟がこの地で玉砕したと、母から常に聞いていた。徳島大学在学中、志願兵として散った。あと一年待てばよかったのに・・ と涙。

 母は弟と五人姉妹の長女。神戸女学校の在学中に親同士の取り決めで結婚した。弟が戦地へ行くとき別れのあいさつに来た。子供の目にも眩しかった。長刀に触れようとして、母からこっ酷く叱られた記憶がある。そんな私を抱き上げ「母さんの言うことをよく聴くんだよ」と頬ずりをしてくれた。私は五歳。
 連日の警戒警報にいよいよ神戸だと、父は丹波へ家族を疎開させた。牛を積む貨物の夜汽車に揺られ、立ちっ放しの帰郷。小さなリュックには干し米や水。
防空頭巾を被り、胸には白木綿に墨で名前と血液型が縫い付けてあった。三日後、神戸は空襲で灰になった。父はリュック一つでボロボロになって帰ってきた。食べ盛りの子供三人抱えて、焼け出された丸裸の惨めな姿は地獄だったと、母の後日談。雑音の中で聞いた玉音もおぼろおぼろに残っている。みんな必死だった。はじめて鍬を持った荒れ地の開墾に母の両手は豆や、皹で真っ赤っか。

 敗戦から75年余り、平成の世は地震や津波、噴火など災害に見舞われたが、戦争は避けられた。温暖化の地球へ課題は山積しているが、一枚のパネルから愚かな戦争はしない、させない令和の明日へ希望を繋いでいる。




   
戦争はしません語り継ぐ令和             浩子











       魔の風船             大坂狭山市  八木 侑子


 夜11時就寝、明日の句会に備えて、ベットの中で作句を楽しんでいた。

 何だかおかしい。急に頬がこわばってきて、しびれにも似た感覚――。その感じが唇まで拡がっていくのがわかる。ちょうど歯科医院で歯茎に麻酔薬を注射された時のようだ。
 洗面室にとび込み鏡を見てびっくりした。頬が風船のように膨れ上がっている。これ以上ふくれるとホッペが破裂するほど膨れ、鼻が下に沈んでいる。唇は鱈子のようだ。咽まで拡がると息がつまると思い、夫を起こすが、睡眠薬を呑んで眠ったばかりで、目を覚まさない。

 一人で救急車を呼び、お金、保険証を準備しパジャマにセーターをひっかけ、近畿大学付属病院の救急センターに運ばれた。救急隊の方達も、この顔にはびっくりしたようで、すばやく対応して下さった。

 110番に電話、病院に着くまでの時間は30分ほどだった。どちらも近いのが幸いした。ドクターは血液検査の結果と心臓の様子をみて、命は大丈夫と診断し点滴をして下さった。何かのアレルギーを疑っておられるようで、また改めて専門医を訪ねて欲しいと言われた。深夜三時タクシーで帰宅。夫は心地よく眠っている。

 幸い風船は一日ですぼみ、2日目には、完全にもとの頬にもどっていた。



   
とつぜんに魔界に往ってきたわたし      侑子








  川柳に想う     石川県  堀本のりひろ




 十七音の世界に偶然ひきこまれ、はや三年 きっかけは、何か暇をつぶせることはないか?で、見付けた新聞欄の、川柳教室への誘い。もともと、読書好き【と言っても、愛読書は、司馬遼太郎先生の『街道をゆく』ぐらいですから、文芸には縁遠いと思いますが】ではありましたが、川柳なぞ小林一茶 松尾芭蕉の代表作程度しか頭にありませんでした。が、初めて出席して衝撃が走りました。失礼ですが、七十歳前後のおばあちゃんの作った川柳の着想・発想の展開の面白さ、意外さ、など驚きの一語に尽きました。わずか十七音ですが、驚くべき表現力の広さと広い世界にただただ恐れ入りました。

 その感動にひかれて、川柳教室へ通いだして一年 講師の川柳家から、ある句座の会友として出席するように誘われ、恐る恐る参しました。またまた 衝撃を受け、 いろんな作風 平明な表現ですが、心に刺さってくる句、意外な発想の展開、(難解句には苦労しますが、その展開の面白さ)など。こんなに面白い世界があったのだ!七十過ぎまで、いったい何を感じて生きてきたのだ!と、後悔と川柳に会えたうれしさで一杯でした。

 正直 七十過ぎて、このような面白い世界に引き込まれて幸せな私だと、実感する今日この頃です。ただ、面白さと、同時に、作句の難しさ、苦しさも味わっていますが、それもまた楽しいものです。時間がたつのが早いのです。閑人にはこれも最高です。


  
カタツムリ 蟻を横目にマイペース  のりひろ

  

 



















                              2019年令和元年  5月     更新


先ずは平成最後の印象吟から 記載いたします。


   シャガール 日曜日

                    カナダ バンクーバー 福村まこと


   サーカスで見知らぬ人の桃を剥く

   産道を追いかけて来る幻肢痛

   王様の騙し絵 兵の呼吸過多

   再会の日まで揺れてる精子の碑

   飢えた日の鏡に映る獣道

   オーロラの秘め事 片道の切符

   糊代に神学生の忘れ物

   思春期のあぶない遊び素数狩り  
  
作者からのコメント
                                4月は朝晩まだ暖房が入りますが、
                                八重桜が満開になってきました。
                                市の植物園では恒例の桜まつり
                                (サクラ・デイズ・ジャパン・フェアー)が
                                開催され、日本食の屋台や和太鼓の
                                演奏を多くの人が楽しみました



                 京都市   西田 雅子



   手のひらをはみだしてゆく日曜日

   シャガールと翔ぶサンライズ サンセット

   帰らなきゃチャペルの上の空の街

   夕焼けをめくると過去がしゃべりだす

   ここではないどこかへ行こうシャボン玉

   降りておいで浮遊している言葉たち

   平成の空のどこかに忘れもの




                仙台市    月波 与生


    異常繁殖するひとさらいの涙

    力み過ぎた吃音の柱時計

    第二バイオリンから貰う禁忌札

    アセンブラ話す人妻斡旋師

    三角木馬しか聞き取れない読経

    しにたいときもう一本当たる自販機







                      城陽市   木口雅裕


      剥がされて記憶いちまい捨てられる

      UFOを食べてしまった恋敵

      シャガールの古い画集の古い傷

      疑いの中に沈んでいる真珠

      ひきこもり想いは空をかけめぐる


                  


               西宮市      田村ひろ子



     花びらのヒヤリヒヤリにおこされる 

     ああしようこうもしようという鏡

     瞬きの音だわ覗いてはだめよ 

     読みかけの詩集パシャリととじた風

     繋がった ほうらほらほら笑っている

     もぞもぞとカラフルになる土も春 

     黄昏のホームで足を組みかえる






  



                       八戸市    笹田かなえ


     ほつれつつもちつもたれつもつれあう

     きっともうエデンの東なんだろう

     左折して左折して道行日和

     変わるがいやでくちびる閉じている

     ノートルダムがノートルダムとして日暮れ










                    京都市 中林典子


     包丁を洗って過ごす日曜日

     念のため一円玉を百グラム

     ぶきっちょで男嫌いのトタン屋根

     カラフルに咲く石鹸の量り売り

     シャガールとガラスの靴と豆の蔓








                     石川県      堀本 のりひろ


     日曜日あれもこれもと巡り会い

     母の笑みすべてを包む日曜日

     日曜日自由気ままに時が過ぎ

     幸せ一杯詰まった日曜日

     陽が落ちる今日の幸せどこへ行く

















































































































































































































                                     
2015年6月    更新














































































                                        
 2013年11月        更新











































 









                        2012年1月 更新




  ♪ 洋子 1月1日 


  明けましておめでとうございます。
 
 先ずは平凡に年が暮れ、平凡に年が明けたことをこんなに喜ばしいと感じたことは初めてかもしれません。東北の皆さん方の事を思うと、小さな幸せに感謝しなければならないでしょう。絆を大事にしながら、更に絆を太らせて行かねばと思う新年になりました。

 川柳にとっての2012年がどんな年になるのか混沌として予想がつきませんが、とにかく懸命であることだけは忘れたくないと思っています。
温故知新という言葉も忘れないでいたいと思います。

 小さな小さな洋子の部屋ですが、今年もよろしくご支援をお願いいたします。













                     
2011年12月 更新


 ♪  洋子 12月1日

 漢字で表わす今年の一字は何という字になるのだろう。
余りにも沢山の事があり過ぎた。重いもの大きなものを引きずりながら
否応なく確実に歯車は大きな音を立てて回る。孫たちに引き渡す地球の負の遺産があまりにも重過ぎる。少しでも明るい見通しが立つように願わずにはいられない。
 川柳界も知らぬ間にメルトダウンを起しているようだ。来年に向けての助走のために、しっかり靴紐を締め直さなければと思う。年の瀬はそこ。











                        
2011年11月 更新

 
  ♪  洋子 11月1日

 波乱万丈の2011年も余すところあと二ヶ月になった。
地球が歪になったかと思われるくらい色々なことが次々に起こっている。
日本では 東北の震災津波原。その復興もままならない内に、台風豪雨の災害が起こったし、タイでは今も未曾有の大水害に見舞われている。地球の主軸がうんと傾いてしまったのではないかと思われるくらいだ。政治的経済的変動も世界規模になっている。この先どうなることだろう。身に染みて身近な恐怖を覚えるのは、原発に汚染されてゆく日本である。どこかで歯止めをかけなくては大変なことになる。恐怖をしみじみと感じ、追いつめられる2011年。幸せについて地道に考えて行きたい。子供たちのために。







                        
2011年10月 更新





  ♪ 洋子 10月1日


 台風・大雨・洪水・土砂崩れと大変な秋の入り口だった。
ここへ来てようやく静かな秋の深まりを感じる。
いろいろな傷痕はまだまだ癒えていないが、これからを
落ち着いて考えられる季節になった。

 文芸で有りうる川柳へ向けて、遅々とした歩みを、でも一歩一歩
進めて行きたい。


 ゲストの椅子に集まった作品はみな、 誇りをもって皆さんに鑑賞して
頂けるものばかりだと信じています。嬉しいかぎりです。
これからも 意欲ある作品をどしどしお寄せ下さるようお願い致します。












                       
2011年9月   更新










  ♪  洋子 9月1日


  まだ 30度を越える猛暑が続いているが、そろそろ熱帯夜からは解放されそうな気配である。台風が近づいている。地震・津波・台風 なんともやりきれない1年になりそう。政治にも嵐が吹き荒れて、ようやく野田新総理が決まり、新内閣が発足する。めまぐるしい昨今、何かに追われるように川柳をしている自分に気付く。秋になれば 少し落ち着いて川柳を考えたい。残り時間を考えながら、秋の大会の幾つかには参加したいと思っている。












                         
2011年8月 更新



    ♪ 洋子 8月1日


 東日本大震災の後、まだ4カ月ほどしか経っていないのに、今度は
大雨・洪水・なだれの被害が新潟福島地方を襲っている。列島が何か
祟られているような気さえしてくる。これ以上被害が大きくならないように
祈るばかりである。

川柳活動は相変わらず活発なようで、この秋に行なわれる国民文化祭に向けて京都では一丸となってそのイベントに力をそそがれているようだ。お祭りさわぎとは かけ離れてはいるが、この間、バックストロークの主催で「句評会」なるものが開かれた。句集「魚命魚辞」と句集「水牛の余波」についてのディスカッションの会である。歌人俳人をまじえ関係者五十人ばかりが集まってのまじめな会合であった。背伸びしての出席ではあったが、それは 有意義であったと思っている。エッセイの欄にその模様を書き止めているので また お読みいただきたい。













                          
 2011年7月 更新



  
♪ 洋子 7月1日


 梅雨明け宣言はまだであるが、もう真夏日の記録を更新する暑さである。
未だに巨大地震の余震と思われる地震が続いているし、福島原発の後始末も終っていない。終らないどころか予断を許さない状態がつづいている。
何が真実であり何が真実でないのか、国民の目を欺くことだけは断じて許されない。トップの首をすげ替えただけですべてが旨く行くと宣伝するのも可笑しなことではないか。原発の今後もこの際充分に検討すべきである。この際、とりあえずは もう 原発は安全である と言い放つ国の無神経さにも呆れてしまう。竹槍で戦争が勝てると思うのと同じである。
この異常な暑さの中で どうにもならないことを しきりに考えている。
7月3日には玉野市民川柳大会がある。その兼題の中の一つに「日本」がある。さてどんなニホンが飛び出すのかみものである。

 







                           
2011年6月 更新



   ♪ 洋子  6月1日


例年よりも随分早く五月中に梅雨入り宣言があった。
途端に雨台風が列島を縦断して各地に被害をもたらしている。
被災地への二重の災害が心配される。
そんな時、政権の奪い合いをしている政治家にもホトホト嫌気がさす。

川柳は元気だろうか。川柳の頂点は・・川柳の中堅は・・川柳の底辺は?
今回の震災で日本人のものの考え方が随分変ったと聞く。大切なものとは何か。幸せとは何か。庶民が地に足をつけてじっくり考え直しているようだ。
川柳も例外ではない。この際根底から川柳を考え直す時が来ているのかしれない。








                           
2011年5月 更新






   ♪  洋子 5月1日

 震災のニュースで明け暮れて4月が過ぎた。原発事故のその後も予断を許さないまま一刻一刻が過ぎる。日本のこれからがどうなるのか不透明なままである。これからの子供たちが気がかりである。

 被災地の庭に咲き始めた水仙を皇后さまに差し上げる一主婦の健気な姿が印象的であった。

 川柳も元気であらねばと思う。水仙の花のように清々しい作品が また
あちこちで芽生えてくるように 祷らざるをえない。
















                          
2011年4月 更新



   ♪ 洋子 4月1日

 3月11日 東北関東大震災以降 ずっと余寒が続いている。
日本列島 未曽有の災害は 見通しのつかないまま復興のきざしも見つかっていない。その影響は被災地だけにとどまらず、列島全地域に及んでいる。
恐ろしいことに 福島第一原発の終焉の手立ても見つからない。チェルノブイリ以上の災害が、まだまだこれから広がるかもしれない。

 支援の輪は津々浦々にまで広がってはいるが、誰もがどうしたらいいのか手をこまねいている状態である。こんな時 川柳作家たちは、支援募金の他に何を為すべきなのだろう。

 川柳家にはエンピツと紙がある。作品意外に残せるものは無い筈である。後世の人達が、「こんな非常時に川柳家たちが、どう考えどう行動に移したのか」を知り得るなんらかの手ズルをしっかり残しておくべきだと私は思っている。

 まだまだこれから色々な問題が私たちに降りかかってくると思う。歩きながら考えよう。歩きながら作品を残そう。みんなが皆んな涙しているこの気持を作品にしっかり残して、前に進もう!

 人間として一番たいせつなものが、今だから見えそうな気がする。













                          
2011年 3月 更新





   ♪ 洋子 3月15日

 史上世界最大規模の大地震が日本列島を直撃した。東北関東巨大地震。テレビは連日被害の模様を伝えている。最終的には死者行方不明が一万人を越すという。福島原発の現状も、一瞬たりとも目が離せない。被害の惨状を見ていると太平洋戦争の末期の戦災がよみがえる。あの時も、十万人を越す犠牲者の出た原爆が終止符を打った。今回の原発は大丈夫か。
私の世代の父や母は、なにもかも失った焼け野が原の中で、歯を食い縛って、日本再興に立ち上がった。今度も日本人の底力を信じたい。

 テレビを見ながら涙が止まらない。関西にいてなにも出来ない自分たちがはがゆくてならない。東北地方の多くの川柳人の顔も目に浮かぶ。無事で居て欲しい。元気を出してほしい。










  ♪ 洋子  3月1日


 私が6歳の時、21歳で他界した長兄がいる。
その兄の誕生日と私の誕生日が同じ8月11日。
6才の記憶の中であるがその兄には随分可愛がられた。

 兄弟に同じ誕生日の者がいると、どちらかが早死にすると
聞いたことがある。

 3月1日は兄の祥月命日。
毎年この日は 「見守っていてね」と心の中で手を合わす。
小児マヒだった兄、自ら医者になろうと猛勉強していた兄は
21歳の若さで結核のために命を落とした。

 3月1日は私にとって、子供の頃からひとつの区切りの大切な日。

兄の何倍もの命を生きた私が、何だか申し訳ないと思う日。
  兄にありがとうと感謝をする一日。



 ようやく春めいたひと日。京都の北野天神の梅苑に出かけた。
お土居の公開もあって、梅は三分から五分咲き。
今回 各ページのカット写真はその際のもの。


                                       








                          
2011年2月 更新

 ♪ 洋子 2月1日

 同時多発インフルだとか、列島各地は野鳥が運んできた鳥インフルで震撼としています。九州では火山が爆発して大変な被害が出ているようです。
卵も野菜も値上がりが心配されています。豪雪も世界的な現象になって、やはり地球が少しおかしくなって来たように思われますね。

日本経済も沈滞の一途を辿っているようですが、さて川柳界はどうなるでしょうか。なんとなく負の遺産が溜まって行くような気がしてなりません。ひと時代前の冬二の作品を読んだりしています。意味性だとか言葉性だとかそんなこと越えたところに熱いものを感じてしまいます。










                         
2011年1月 更新








  ♪ 洋子 1月1日

 明けましておめでとうございます。
昨年は はやぶさ が7年の宇宙遊泳を終えて帰ってまいりました。
今年はどんなハプニングがあるでしょうか。
1年が10年にも感じられるここ最近の進歩です。
川柳だって進化してゆく筈です。でも変らないものもきっとあるでしょう。
それが何なのか見極めたいものです。

      手帳に挟むカトレアの舞踏会      洋子



















                         
2010年12月 更新


  ♪   洋子 12月1日

 ついにカレンダーもあと一枚。
充実した一年だったかと言われれば、応えようがないが、
健康に気をつけて、大した故障もなくここまで来られたことは
よしとしなければと思う。

 政治的には 内憂外患 とても安心できる状態ではないから、2010年のギリギリまで何が起こるかわからない。孫たちの世界までずっと平和でありたいと願うばかりである。

 川柳界の明日はどうなるのか、私ごときでは図り知れない事ばかりであるが、小さな洋子の部屋から 少しでも明るい明日を覗いてみたい。ゲストの椅子に作品を寄せて下さる方々の嬉しい前向きの姿を嬉しく拝見している。

 まだ作品を寄せて下さってない方も、ぜひゲストの椅子に座って見て頂きたい。そして思う存分呟いて下さってもいいし、冒険もして頂きたい。

 洋子の部屋は皆さんの広場です。思いっきり落書きをして下さってもいい皆さんの画板です。

 12月末締め分から 新年号になります。ぜひ皆さんをお待ちしています。









                         
2010年11月 更新




   ♪  洋子  11月1日


 今年の紅葉はどうだったのでしょうか。
爽やかな秋は飛ぶように過ぎました。例年より早く冬将軍がやって来たように思います。
政権も中国からの嫌がらせや、ドル安円高に煽られて何となくギクシャクのままでこの一年も過ぎようとしています。川柳界でも、あれよあれよと言う動きはあまり見られなかったようですね。そろそろ2010年の総括を自分でやって、また来年に備えようと思っています。

いろいろなご意見をお寄せ下さい。お待ちしています。








                        
2010年 10月 更新

♪ 洋子   10月1日   


 猛暑の夏は 文字どおり お彼岸まで続きました。
 狂ったような気候に呼応するように、内外の政治情勢も
 激動を極めました。

 日本の尖閣諸島に対しては、中国がごり押しのように態度を
 硬化し始め、北朝鮮は三代に渡る世襲政治を明確に
 打ち出し、独裁色をより顕著にしました。

 戦後 65年は経ったけれど、今度はもっと恐ろしい戦さの音が
 忍び寄っています。
 最近の句会で、どなたの句でしたか・・? こんな句を耳にしました。

    泣く子と地頭と中国には勝てぬ

 世界の中で、おもちゃにされることなく九条を守り抜く事が
 本当にできるのでしょうか。しなければならないと思うのですが。













                      
2010年 9月 更新




  ♪  洋子  9月1日

 猛暑の続くまま 9月を迎えました。
日本の政局もなんだかんだと蒸し暑い動きを見せています。
すっきりとは行かないようですね。
老齢社会にも 白骨やミイラが出てきて まさに妖怪の出没。
はやく涼しくならないかなぁーと首を長くして待っています。








                         
2010年8月 更新


  ♪ 洋子 8月1日


 猛暑が続いている。8月になれば戦争のことを一きわ思い出すのは、やはり年齢のせいかもしれない。息子達はそれほど切実な話題にもしない。
せいぜいお盆休みの旅行の計画に余念がない。日本はまだまだ平和である。それがどこまで続くのか。普天間の問題のよじれは日本に暗い影を落としている。戦後65年経っても 戦争はまだ 終わっていないと思う。
歴史の流れをじっくり見つめ直したい年齢になった。8月は私の誕生月でもある。
「ゲストの椅子」のコーナーには少しずつ新しいメンバーも加わって新鮮な刺激を頂いている。熱中症に気をつけながら この猛暑を乗り切りたいものである。










                       
 2010年7月 更新



  ♪ 洋子 7月1日

 いよいよ2010年も後半期に入る。これまで何をしてきたか?新しい出発はあったか?反省も含めて絶えず前向きではありたいと思っている。

 また、ゲストの椅子は皆さんの川柳の冒険の場所とも受け止めているのでどしどし発表の場所として ご利用いただきたい。もちろん私が作品に手を入れたり、選をしたりはしていない。人それぞれの個性を一番大事に思って、これからの川柳をみんなで模索して行きたいと思っている。







                        
2010年6月 更新


  ♪  洋子 6月30日

 サッカーW杯 惜しくもベストエイト入りを果せなかったが、誰もが納得できる試合運びに 日本中が沸いた。テレビ観戦もいいが、一瞬も目が離せなくてはらはらの連続。心臓には良くないかもしれない。
 何はともあれ、平和日本を実感する。さて これからの参院選はどうなる。

 洋子の部屋 7月号は 本日更新する。






  ♪  洋子  6月8日

 先日、自由律俳句の藤田踏青氏より 「洋子の部屋」と小論「墨作二郎の世界」の読後感想が届きました。氏の承諾を得まして、エッセイの欄にそのまま転載させていただきましたので、ページを開いてご覧下さい。

皆さんもどしどし感想などお寄せ下さるようお待ちしております。






 ♪  洋子  6月1日

 いよいよ水無月に入った。今年は異常気象がつづいているから、もしかしたら荒れ梅雨になるかもしれない。我が家のあじさいは例年になく美しい花のかたちを誇っているけれど・・・。

 今回は東京でお逢いした松井文子さんが、はじめてゲストの椅子に作品を寄せて下さった。少しづつ少しづつ洋子の部屋の輪が広がっていることをとても嬉しく思っている。ホームページはずうーっと見ていますよという声もたくさん聴いた。皆さん どうぞ 遠慮なく作品をお寄せ下さい。
 
 ここは個性を生かした皆さんの川柳の実験劇場だと思っています。楽しい川柳の広場だとも思っています。どしどし皆さんの作品をお待ちしています。









                         
2010年5月 更新


 ♪ 洋子 5月31日

 先日 久しぶりに東京の川柳公論35周年記念句会に出席して、関西とは一味違う句会の雰囲気を充分楽しんで来た。会場では鶴彬の映画鑑賞とそれについての対談も行なわれて、充実した催しとなった。

 5月も今日でお終い。初夏の清々しい気候はほんの僅かしかなかったような気がする。もう梅雨がすぐそこまで来ているようだ。

 5月最後の一日を、ゆっくり反省しながら、ゲストの椅子に寄せて下さる作品をじっくりお待ちすることにする。












 ♪ 洋子 5月14日

 5月に入っても気候の不順は続いています。25度を越える夏日になったかと思うと、地方によっては雪がふったというニュースが聞かれます。何かがおかしくなっています。どんなに文明が発達してもやはり人間は自然の神には逆らえません。自分の精神状態も不安定になっているのに気づきます。
 もしかして月が二つ見えているのではないかと、夜空を仰いでいます。




 ♪ 洋子    5月1日

 今日は爽やかな五月晴れです。皆さんはどこかへお出かけでしょうか。
私は 近辺で ウィークを楽しむつもりです。テレビは上海の万博でもちきりです。それもいいけれど ゆっくり本を読むのも嬉しい過ごし方でしょうか。








                        
2010年4月 更新
 ♪ 洋子 4月30日

 ゴールデンウイークが始まりました。4月は今日で終わり。
なんだか変な気候の春でした。体調をこわした人も多いようです。
とにかく時間は待ってくれません。一歩一歩すすみましょう。
 この春は沢山の句集発刊にも出合いました。ひとつひとつ心をこめて
観賞し、お互いのこれからに向かって前向きに捉えたいとおもいます。









 ♪ 洋子 4月27日

 先日 筒井祥文氏より冊子『洋子の部屋』についての観賞文を頂きました。原稿用紙十数枚に及ぶ詳細なものでした。つぶさに真剣に読んでいただいたことに感謝感謝です。5月更新のエッセイ欄に掲載させて頂こうと思っています。
 これを機に、今までエッセイ欄は私ひとりが担当しておりましたが、ぜひご覧のみなさまにも投稿して頂きたいと思っています。長さも題材も自在で結構ですのでぜひ試みて下さるよう お願いいたします。







 ♪ 洋子  4月2日

 冊子「洋子の部屋」については、北海道から九州まで 沢山の方々から感想のお葉書や手紙や電話を頂きました。みなさん横書も読みやすいと云って下さってほっとしています。最後のエッセイまでキチンと読んで下さっているようで嬉しいかぎりです。いちいちをこの欄で紹介するのは私信でもあり、ネットでは了解を得なければなりませんので、ここでは省かせていただきます。ほんとうに有難うございました。まだお渡ししていない方々も沢山ありますので、4月の各地の句会に持って行こうと思っています。有難うございました。これから三年先にも また 一冊に纏めることができますよう、頑張ってみたいと思っています。よろしくお願いいたします。











  ♪ 洋子

 桜は少し足踏みをしているようですが、前線は確実に北上しています。
世の中がどうあろうとも、自然は正直です。「今年の桜はすこし顔色が悪いようですね」とは川柳家の目線。なにはともあれ新鮮な命は芽吹いています。
 今月はことさら新しい気持で前に進みたいと思います。









                            
2010年3月 更新



 ♪  洋子  3月17日

  「洋子の部屋」が本になりました。
横書の句集です。句会でお目にかかった方にはお渡しいたします。
遠方の方にはお送りいたしますので、ご入用の節にはご連絡くださいませ。


                                            




 ♪  洋子  3月1日

 チリの大地震、そして日本にも大津波警報と 春は荒れ模様でやって来ました。なんだか不安のよぎる3月です。若者たちの就職も受験も 終盤を迎えています。大きな期待の膨らむ時期でもあります。こころの揺れる3月ですね。

 洋子の部屋 の開設から3年余りが経ちましたので 今 一冊の本に纏めようと 編集にとりかかっています。近々 発行できると思います。
また次の三年後も ゲストの椅子の皆さまとご一緒に川柳を楽しむ一冊が出来上がればいいなと思っています。いのちがあればですけれど。
これからも よろしく お願いいたします。










                        
2010年2月  更新

 ♪ 洋子 2月28日

 一喜一憂したオリンピックも終盤です。明日からは3月。またどんなドラマが待ち受けているのでしょうか。3月は別れの月、そして出合いの月。
不安と期待の混じった春一番の風が身辺を騒がせています。
洋子の部屋 3月更新に踏み切りました。









 ♪  洋子 2月26日

 2月は28日しかないんですね。ここに来て慌てています。
一足飛びに4月中ごろの気温になって体調も狂ってしまいそうです。
 私は、大阪も南の端の何の風情もない都会に住んでいるのですが、この間うぐいすの鳴く声を聞きました。目をこらして探しましたが姿は見えませんでした。でも 確かに 二度三度と鳴いたのです。こんな何でもないことが嬉しいなんて、やっぱり歳でしょうかね。






  ♪  洋子 2月8日
 
 ウォーキングもさることながら、句会まわりも心身共の健康のために、出来るだけ続けている。ひとり暮らしには殊に大切なことと思っている。

 川柳の句会では、当然 兼題が出され、特定の選者の選を受けることになり、抜けなければ、自分の作品は闇に伏される。

 選者は時に「わたしの好きな句を選びました」と前置きをする事がある。選者の特権でそれは当然であったとしても、作品の批評や討論の場では、それは通じない。

 例えば 「情念の句は嫌いである」 とか「社会性の句は嫌いである」では批評したことにはならないし、「はっきり訳は解らないけれど面白い」では作品の鑑賞にもならない。

 やはり選者は、好き嫌いの前にしっかりとした川柳観を持って欲しい。討論の際には、何故情念の句がいけないのか 何故社会性の句がいけないのか 何故言葉遊びの句がいけないのか 何故詩性があって欲しいのか と言ったしっかりした観念をもって話してほしい。

 まじめな句会であればあるほど その必要性はあろうかと思うし、一応のレベルの人ばかりが集まっての句会であるならば、言葉をあやふやにして逃げてしまわないで欲しいと思ったりする。

 いろんな句会に参加して、まだまだ奥の深い川柳を探っている。











  ♪ 洋子  2月1日

 いよいよ2月に入りました。二月は逃げるなどと言って
これまた またたく間に過ぎてしまうのでしょうね。
2月は 如月 昔はうんと寒くて 衣類を更に着重ねる という事から
「きさらぎ」といったらしいですね。温暖化の現代は つい先頃も
3月上旬の暖かさだとか 櫻の開花は 随分早いらしいという情報が
流れています。春には 句会大会がめじろ押しですね。
インフルもまだ油断はなりませんが 川柳の足元もしっかり見つめて
これからを 楽しみたいと思います。






                         
2010年1月 更新




♪ 洋子   1月31日

 2010年になって はやひと月が経ちました。
世の中はめまぐるしく変ってきているようですが、自分たちの近辺は
どうでしょうか。少しでも 自分なりにチェンジできたらと 思うばかり
です。2月度の「洋子の部屋」 更新の準備は 出来ました。
ひと月ひと月 地道な進化をしたいと 思っています。




♯ 瀬川瑞紀さんより 1月15日

 散歩会のみなさんの一句を読ませて頂きながら
とても新鮮な気持ちになっています。
私が一緒に歩いたことが無い方が、懐かしい方より
大勢いらっしゃることに気がついたからです。
散歩会では、この場所だから、ここに居る思いを、
どの様に一句に込めようかと考えるのが楽しかったなーと
振り返っています。

 典子さん  雄鹿が歩く私の運命線
 侑子さん  曇天をめくり明日を思う鹿

いいですねー。   あとは 句報が楽しみです。



♪ 洋子 

 瑞紀さん 散歩会に来られなくなって 随分経ちますね。
散歩会のメンバーも変わりました。瑞紀さんは 古啓さんがいらした頃に
お見えになっていたと記憶しております。あの頃はあの頃で また
楽しかったですね。

今は 若い人達のフレッシュな感覚で溢れています。そんな中で、古い
私達も充分刺激されながら、これからの川柳を考えています。









♪ 洋子  1月13日

 成人の日も済んで そろそろ平常を取り戻した感じです。私の句会まわりは4日のふらすこてんから始まりました。今日の草原の句会を合わせると、七ヶ所まわったことになります。どの句会でも お目にかかる方々があって、みなさんとてもタフです。句会まわりの合間に 川柳にたいする意欲と虚しさを同時に感じます。その葛藤の中で 私はわたくしなりの 作品を構築しているように思います。新たに創りだす確かなものを自分に期待しています。









♯  徳永 政二さんより  1月3日

 瑞紀さんお久しぶりです。

まず、瑞紀さんに、そして 宗久氏に、書かれた断片だけを取り上げたことをお詫びしたいと思います。

瑞紀さんの疑問はよくわかります。
その通りだと思います。
また、このことは、瑞紀さんのお父さんのこともあって
得意な分野だと思います。
ただ、この「過ぎる」を、
僕は精神に異常をきたすまで過ぎてはいけないと受け取りました。
そして、「無心」については宗久氏も禅僧あることですので
十分わかっておられると思います。
頭だけでなく、体得を重要視する世界。
僕などはとても一人前のことを語れません。
その点ご理解下さい。


ただ、宗久氏の言葉は、僕自身問題にしている
吟行での書き方につながるなと思ったことです。
あるがままを受身で書く書き方にその人があらわれるとする考えです。

時間に余裕ができましたら、またご一緒できたらと思います。
それでは。                             政二









♯  瀬川 瑞紀さんより  1月2日

 洋子さん 「洋子の部屋」にお集まりのみなさん
明けましておめでとうございます。


 ゲストの椅子で政二さんが気になると仰っていた作家で僧侶でもある方の言葉ですが、私も気になりますので、舌たらずになるかも知れませんが、ちょっと・・・


 人間とは、神・魔 両方を持って生きていると考えています。
日常の中では、意識して自分探しをすることはないと思いますが、複雑な社会状況の中、多くの人と関わる場があって成長するものだと思います。
状況が降りかかる火の粉であれば、予断なしに無心で立っていては火傷してしまいますよね。

 私の場合、社会に出て半世紀余りですが、自己規定はしっかり持っていました。だから、ハメを外して楽しい時を過ごし、無駄遣いをしてしまったと思ったり、喧嘩をしてすかっとしたり、後味が悪かったり、どんな状況の中でも「自分に戻る」事ができました。


川柳を楽しむ私たちにとって、自分探しは創作活動であり、もうひとりの自分を楽しむ自己言及であっていいと思います。政二さん お話ができたらいいですね。

 散歩会も5年のご無沙汰です。では又いつか・・・











 ♪  洋子  1月1日

 ミレニアムで大さわぎしてから もう十年が経つのですね。
川柳もどんどん様変わりしていいと思います。

 結社も大事にしなければとは思いますが、旧態に拘ることなく、常にチェンジを試みていいのではありませんか。

 古い自分を破る勇気を! 自分自身が生き生きできる川柳の場をぜひ持ちたいものと 思っています。

 そんな自由な川柳の場のひとつとして 洋子の部屋を開設いたしました。
四年が゛経ちました。

 昨年は 「ゲストの椅子」に投句されていた小林満寿夫さんが当初からの分を纏めて 一冊の句集を発刊されました。とても嬉しいことでした。


 私も「洋子の部屋」をなんとかひとつ活字にまとめて一冊の本に残せたらいいなとは思っています。今年はそれを夢にして見たいとも思っています。出来ましたらぜひ貰って頂きましょう。ライフワークになりそうです。

 今年もどうぞよろしく応援をお願いいたします。
















♪  洋子  12月22日

 本年もあと十日ばかり。あれよあれよと日時の加速して行くのを見守るばかりです。これからを考えることのゆとりがあったのは遠い昔。今の今を充分に生きこなせているかを考えるだけで精一杯になってきました。

 確かな足跡を一歩づつでも残したいと思います。
来年も身の丈に合った歩幅で洋子の部屋を続けて行きたいと思います。
みなさんのご協力をよろしくお願いいたします。







♪  洋子  12月1日

 時の流れのコンベアはいよいよ加速しはじめました。
今年し残した事はたくさんあるけれど それは来年への課題として
また 活力を溜めて置かねばと思っています。

昨日は宇治の平等院のライトアップを見てきました。夜の池に鮮やかに映った鳳凰堂は この世のものとは思えないほど 感動的でした。

 少しでも 感動できるこころを 大事にしたいと思っています。














♪ 洋子 11月30日

 いよいよ明日から師走です。何かと忙しくお過ごしのことでしょう。
一年の締め括りの月。ゲストの椅子にも沢山の作品を寄せて頂きました。
有難うございました。行く年・来る年 何をあせることもなく 川柳三昧に
生きられたらいいな と思っています。
 12月の更新を 本日行ないます。出句 間に合わなかった方 追って入力いたしますので ご遠慮なく 送信して下さい。






 ♪ 洋子 11月2日

 足早に秋が通り過ぎようとしています。
上空にはもう寒波が押し寄せて、初雪のたよりがあちこちから届きます。
インフルも猛威を奮いそうです。

 でも川柳人は元気です。あちこちの大会では百人をゆうに越す人たちが詰めかけて熱気を呈しておりました。まだまだ大会のラッシュが続きます。そこで何を得て、さらにどんな次のステップにするのでしょうか?それがいちばん問題だと思うのですが、私にはあまり見えて来ません。

 私の暗中模索の川柳の道はまだまだ続きそうです。












 ♪ 洋子   10月14日

 台風18号の被害で我が家のベランダの古い波板が飛んでしまった。まあ軽い被害ですんだけれど、竜巻が起こっていたらと思うとぞっとする。ひとり住まいは何かと心細いものである。

 金木犀の蕾が風で犯されて、匂いが半減してしまったのは惜しい。
どんどん季節がうつりかわる。

 秋の川柳大会も佳境に入っている感じだが、大会の後の 各小句会がどのように進展して行くのか、これからの川柳がどのような道を辿るのか、このままでいいのか 不安でならない。 黎明の十周年の大会での 堺利彦氏のお話は ある意味で これからの川柳界に一石を投じられたものとして 私は受け止めている。








 ♪  西田雅子さんより   10月2日

 洋子さんは「だまし絵展」にいらしたそうですが、私は藤城清治さんの「光と影の世界展」へ行きました。

 光と影だけのモノクロの小品から、光と水と鏡をふんだんに使った大作までファンタジックな世界が広がる影絵展です。

 ひょっとしたら影たちは、夜になるとそっと私たちから離れ、影だけの世界へ行って、歌ったり踊ったり、飲んだりして、明け方になるとあわててそれぞれの持ち場に戻ってくるのではと思わせるような楽しい影絵の世界。

 だまし絵も影絵も、現実や日常をちょっとずらして見ると、こんな世界があるんだよ、広がるんだよと私たちに教えてくれているようですね。
 私たちの知らない世界がほかにもいくつも存在していて、できればその第一発見者になれたらと密かに願いながら、私は影を引き連れ、疑うことなくいつもの階段をのぼっています。

 夜空を見上げながら楽しい想像を巡らせる秋が来ました。









 ♪  洋子  10月1日

 2009年もあと二ヶ月です。
「私は2009年にこんな事をした」といえる実績がほしくなる。
少しでも自分に納得できる仕事が出来ただろうか。

 何かに追われながら ふと立ち止まる。秋の深まりを感じる 風 。








 ♪  洋子  9月28日

 いよいよ秋の川柳大会の幕が切って落とされました。
民族の大移動のはじまりです。昔はそれぞれの川柳結社のカラーが比較的に鮮明でしたが、このところ仲良しクラブのじぐざぐ運動のように、どこに行っても同じ顔ぶれの川柳家に出くわすことが多くなりました。
いい事か悪いことか私には解りません。

 集まった人数の大小だけで句会を評価するのはとても危険だとは思うのですが、主催者側としては助け合い運動のように協力しあって、互いに大きい事はいい事だの方向に進んで行くのでしょう。

 大会で華々しく認められることも大切でしょうが、私は地道な川柳の一歩一歩を大事にしたいと思っています。

 「ゲストの椅子」にお寄せ下さる小さな声を私は大事にしたいと思っています。私の選評はまじえずに、そのままの形で掲載させていただいてます。
 作者の生の声にぜひ耳を傾けて下さい。そしてどしどし作品をお寄せ下さい。冒険もして下さい。
 










 ♪  洋子 9月22日

 シルバーウイークも半ばになってしまいました。
この三日間、句会歩きが続いています。
なかでも 「バックストローク iN 大阪」 はいつもながら とても有意義な句会でした。ただ私は選を仰せつかってしまったので、肝心のシンポジュームが少ししか聞けなくて 残念でした。でも会場内の熱気は充分感じ取ることが出来ました。発表誌を楽しみにいたします。

 「ブログ」の選をしたのですが、これまた楽しい作品が沢山あって、ワクワクしながらの選でした。有難うございました。










 ♪  洋子  9月18日

 都会の真ん中でもそろそろ虫の音が聞かれるようになりました。
野の畦道にはもう彼岸花が咲き誇っていることと思います。
 ばたばたしていてこの欄の記入が滞っていました。ごめんなさい。

 この間、9月12日に、青森から北里深雪さんがお仕事のために京都に来られました。時間が少しあるということで、京都の三十三間堂にご案内して、点鐘の会の仲間四人とミニ吟行会を開きました。 墨作二郎・北里深雪・畑山美幸・本多洋子の四人です。

 あいにくの雨に見舞われましたが、それも風情があってなかなかオッなものでした。

            雷神の幼い顔の幼い憤怒       作二郎
            千手仏並んで修理中出張中     作二郎

            かって千手観音だったフラダンサー 深 雪
            雷神が訃報の位置に立っている   深 雪

            目の覚めるような朱色と濡れている 美 幸
            仏像が多すぎて息苦しい       美 幸
            
            足音はずしんずしんと仏千体    洋 子
            タミフルを入れる風神の袋      洋 子







 ♪  洋子  9月1日

 テレビ・新聞は大きく政権交替の選挙結果を報道しています。
本当に大きく政治が変るのでしょうか。まだまだ覚束ない気がしてなりません。
 9月に入りました。川柳大会のチラシが次々舞い込んで来ます。

意欲を持って 片っ端から句会めぐりをする人、もう面白くないわと落胆している人など様々ですが、句会を選って出かけて行くのもまたいい刺激になるとは思っています。ただ 句会に抜けることだけが、川柳の目的にはしたくないなと思います。

句会には出さないけれど 自分の作品がきっとあるはずです。

そんな作品をゲストの椅子ではお待ちしています。










♪  洋子  8月15日

 今日は終戦記念日です。テレビでは連日戦争体験者の口述が放映されています。今まで、どうしても口に出せなかった赤裸々な生の体験が語られます。胸が痛みます。もう現在は 八十も過ぎたご高齢のかたがたの体験です
今も 戦争の生々しい無残な光景が目に浮かぶのでしょう。悲愴な表情からは「絶対に戦争はいけない」と訴えています。
あの頃 子供だった私は 今頃 あの頃の親たち大人たちの気持がひしひしと伝わってきます。私達の子供は 飽食の時代に育ちました。どれだけ 戦争の傷みを理解できるのか どれだけ 子供たちに 戦争の否を伝える事ができるのか 大きな時代のうねりの中で 考え込んでしまいます。








♪   洋子  8月1日

 今暁、4カ月ぶりにエンデバーで宇宙から生還した若田光一さんは、ケネディー宇宙センターに降り立ち、草の匂いを嗅いで「地球が優しく出迎えてくれた」と第一声のコメントをだした。晴れやかな笑顔が印象的。

  今日から8月。私にとっては誕生月。
  生きて地球の空気を吸っている事の悦びを感謝しなければと、
  妙な感慨にふける。

今日もひとつの前向きな句会に出席するつもり。
私にとっては日々が兆戦。
蝉が鳴き出した。 暑い一日のはじまり。







♪  洋子  7月31日

 梅雨の終末 各地で豪雨が続きましたが、被害はありませんでしたか。
そして もう8月に入るというのに 関西はまだ梅雨明け宣言を聞く事ができません。

 8月度の洋子の部屋 更新いたしました。「外に出て川柳」はいつものように8月5日の散歩会が終ってから更新いたします。

 何しろ加齢のせいと暑さのせいで うっかりの入力ミスが増えました。ゲストの椅子に投句下さった方々、目を光らせて チェックをお願い致します。









♪  洋子  7月23日


 昨日は46年ぶりの皆既日食が日本でも観られるということで、大騒ぎになった。自然現象の不思議がなせる技なのかどうか、我が家では昨夜、月下美人が12個も見事に花開いた。今夜もひきつづき10個の開花がみられそうである。我が家にこの月下美人が来てから17・8年は経つが、こんなのは初めてである。何かいいことが起こりそう・・などと勝手な解釈をしておこう。








♪  洋子 7月20日

 祇園祭山鉾巡行も終ったのに今年はしつこく梅雨が上がらない。昨夜も激しい雷雨があった。気温が高い上に蒸暑い。
 
 こんな時、清涼剤のように爽やかな句誌が二冊届いた。
ひとつは、中西ひろ美さんと広瀬ちえみさん編集発行の「垂人」。
もうひとつは俳句の個人句集 甲斐一敏さんの「飲酒雑景」。

「垂人」は十名ほどの作家の作品各二十句ほどと、中西・広瀬両人の文章が掲載されている。各作家の作品も、すんなりと胸に落ちる爽やかなもの。両氏の文章もじんわりと楽しめた。大変な尽力だと思うが、それをこれ見よがしにしない爽やかな冊子。落ち着いてゆっくり読ませて頂いた。

いま一つの句集「飲酒雑景」は甲斐一敏さんの第一句集。洋子の部屋の招待席で紹介したことがある俳人。五十代半ばで初めて俳句に興味を持ち、殆ど自力で六十代半ばの現在、第一句集を発刊された。
 句会作品に頼る川柳作句のあり方をちょっと反省させられる作品である。これについてはおいおい「招待席」で紹介させていただくことにする。








♪   洋子  7月9日

 梅雨明けが待たれる。ここに来て梅雨前線が停滞している感じ。
この7月の一つのバネと考えていた玉野の大会が終わり、またフツーッの川柳に潜り込む。普通に楽しみながら、何かを貪欲に求めていることには違いがない。食欲があるうちは川柳を続けよう。





♪   洋子  7月1日

 2009年も折り返し点に来た。
大阪では昨日、夏祭りのはしりとして愛染さんの祭りがあった。
京都ではもう祇園祭の準備が着々と進められていることだろう。
梅雨明けと同時に猛暑がすぐ目の前に来ている。
熱中症に気をつけながら、各地の大会にも出来るだけ参加したい。

「洋子の部屋」7月度の更新を終えた。
これからの為にいろいろと感想をお聞かせ願いたい。
また、ゲストの椅子にもどしどし作品をお寄せ下さるようお待ちしている。






♪  洋子  6月25日  

 大阪は雨らしい雨の少ない梅雨が続いている。
やたら蒸暑い。なんとなく欲求不満な感覚。不景気も重なって
世の中変なことが起こらなければいいがと、いらぬ心配をしている。

 それでも7月に入れば祇園祭も近づいて何となく活気付くだろう。
5日には恒例の玉野市民川柳大会がある。大阪・京都からも沢山の参加がありそうで、楽しみである。







♪  洋子  6月18日 

 この間 住吉神社の御田植神事を観に行った。
2年ほど前にも 行った事があったが、その時はデジタルカメラに慣れていなかった。今度はカメラも少しは旨くなったかなと思い、急に思い立って出かけた。毎年6月14日に行なわれる行事である。
 街の真ん中ながら、古式に乗っ取ってのお田植は、貴重な無形文化遺産である。この日の為に育てられ、綺麗に着飾った黒毛和牛が神田を耕す。田の中央に設えた舞台では、雅楽や舞が奉納される。あぜ道を武将や雑兵の姿をした男たちや、八乙女・植女・棒おどりや住吉踊りの面々が行列し、それぞれの踊りを披露する。何でも田植唄は、清少納言の枕草子にそのまま載っている歌詞だそうで、節付けられた音曲がそのまま残っているという訳である。赤いタスキ黄色いタスキをかけ菅笠の男女がだんどりよく早苗を植えた。
日差しのとても強い一日。日焼けをすっかり忘れて、デジカメを撮り続けた。




         


           



♪ 洋子   6月13日

 梅雨入り宣言があって 鬱陶しい日が続いている。
新型インフルは世界的にフェイズ6に入った。
政界は大臣の更迭まがいの辞任があったり、三面記事では
妙な殺人事件が続発して、ろくな事が無い。
 部屋に閉じこもっている日は、せめて晴れやかに川柳のことを
考えることにしよう。

「蕩尽の文芸」もあらかた読み進んだがやはり連句の項目になると、とても難しくて手におえない。実際に座に加わって本格的にやった事が無いので、体感として理解出来ていないと、つくづく思っている。
そして座の文芸の中では、個性がどのように生かされるのか、あるいは没個性がむしろ要求されるのか。古くて新しい問題を考えている。








 ♪  岩田多佳子さんより 6月1日


  「ゲストの椅子」や「外に出て川柳」に載せて頂いて、ありがとうございます。お陰様で川柳をたのしむ友達はもちろん、他の友達までわたしの句の感想を教えてくれます。「洋子の部屋」は大切なコミュニケーションの場となりつつあります。感謝します。







♪  洋子  5月31日

 新型インフルもぼちぼち下火になりましたね。
 町行く人のマスク姿もこころなしか少なくなったように思います。
 観光地はまだ さっぱりの人出のようで、不景気に追い討ちを
 かけているようです。
 ようやく 6月度の洋子の部屋の構想も整いました。
 更新いたします。

 招待席にもゲストの椅子にも沢山の作品を
 有難うございました。










♪  赤松ますみさんより  5月28日


 先日25日にコロキュウム事務所で開いている勉強会で
「洋子の部屋」の洋子さんのエッセイ「難しい川柳」を参考資料として取り上げさせて頂きました。・・・初心者がほとんどの会なのですが、これからの川柳を考える上で考えさせられることの多い内容で、参加者にも大いに共感してもらえることができたのではと信じています。






♪  洋子 5月17日

昨日この欄で、インフルエンザも心配ない様な事を書いたところですが、翌日のニュースで国内での感染が大きく取り上げられました。
しかも関西は、神戸・大阪の高校生の間で猛威をふるっているらしいのです。神戸には高校生の孫がいます。もう対岸の火ではなくなりました。

こうなると、高齢者の多い川柳の大会なども充分注意しなければならなくなりました。しばらくは要注意ですね。










♪  洋子  5月15日

新緑の5月 一年中で一番好きな季節です。
新インフルの流行で どうなることかと思いましたが 爆発的な蔓延は免れたようですね。
 
今、小池正博氏の出された「蕩尽の文芸」を手にしています。
川柳と連句にまたがる立派な、沢山の批評や論文がまとまりました。
河野春三の論説が現代川柳の昭和の一つの金字塔だとすれば、小池正博氏の論説はまさしく平成の一つの金字塔になるかもしれません
文章は的確に解り易く書かれています。

ぜひ皆さまも購入してお読みになることをお奨めいたします。










♪  洋子  5月1日

 いよいよゴールデンウィークの始まり。豚インフルエンザの騒動で海外旅行を取りやめた人も多い事だろう。経済不況にまた追い討ちをかけた形になりそうだ。

 高速料金千円の移動は 混雑この上ないと思うし、こうなればごろ寝を決め込むしかない。

 先ずは 姑の七回忌の法事をすませて 5月の青空のもと 好きな絵でも観にゆこうかな と考えている。

 洋子の部屋 5月更新分にも たくさんの力作を寄せていただいた。
じっくり楽しんで頂きたい。













♪  洋子  4月23日

 つい先日は、高尾山から川越・奥多摩・奥秩父への旅をしてまいりました。
 この春二度目の2泊3日の旅でした。高尾山あたりは、もう新緑の景色に変っておりました。

 旅行は楽しかったけれど、ごたぶんに洩れぬ高齢者、旅3日の後は5日寝込むというテイタラクを地で行っております。

 昨日、「セレクション柳論」が届いて、旅でふやけた頭に活を入れています。

     葉桜になって確かな息を吸う      洋子








♪  洋子 4月12日

 はや4月に入って10日を過ぎてしまいました。
その間に、奈良は橘寺のお花見句会のさくら、金沢での蟹の目句会の兼六公園の桜、続いて4日には、点鐘散歩会京都は蹴上・インクラインの桜に圧倒され、昨日11日にはバックストローク岡山大会の際に立ち寄った後楽園のさくらにどっぷり浸かってまいりました。

 こんなに桜に恵まれた年も珍しい事でした。こんなにひんぱんに句会まわりをしたこともめずらしい事でした。

 昨日の岡山BS大会は「寺尾俊平と定金冬二」について三人のパネラーにより熱く語られたし、あとの句会では6題の選者がそれぞれ選後評まで発表されて、とても有意義な大会でした。
 しかも短歌の彦坂美喜子さんが親切な解かり易い講評をして下さったのでとても印象にのこりました。密度の濃い大会であったと思います。

          岡山は後楽園の桜 

                 








∮  西田雅子さんより  4月1日

 「洋子の部屋」今回は内田真理子さんの"桜づくし"の作品でお花見させて頂いた気分です。

 また「川柳でエッセイ」ほか洋子さんのコーナーもいつも楽しみに拝見しています。エッセイから辛口の柳論、時事問題、展覧会等の観賞と幅広く、それぞれにご自分のご意見をしっかり持っていらっしゃるので読んでいて気持がいいです。・・・洋子さんの「好奇心の回線」はいつもオンになっているのでしょう。

何か新しいことが始まりそうな4月。
私もフレッシュな気持で川柳に向き合いたいと思います。








♪   洋子  3月31日

 お彼岸を過ぎて関西は寒の戻りがあり、桜は足踏み状態。
 先日旅行した九州ではもう満開だったのに・・・。
 洋子の部屋 4月度 更新分にも沢山の作品を頂いた。
 HP上で先ずはお花見といったところ。
 充分に楽しんでいただきたい。






♪   洋子  3月20日

 先日 「1プラス1の会」に出席させていただいた。

河野春三の「現代川柳への理解」の一冊を手がかりとして現在の川柳作家たちの川柳性とは何であるかに討論は及んだが、時間の問題もあり煮詰った話にまでは至らなかった。

 半世紀の時代の差は考慮にいれても、河野春三ほど当時のいわゆる革新川柳の「自己規定」を試みた人は居なかったのではないかと私は思う。以後現在に至るまであれほど明確な川柳の自己規定を打ち立てた人を私は見ない。あれほど川柳について真剣に考えた人は居ないのではないかとさえ思う。しかも難解なスジの通らない論は立てていない。多少の言葉の取り方に疑問はあったとしても。

 現在のいわゆる革新の川柳家たちが、膝ポンの伝統川柳に飽き足らないとするならば、春三ほどの川柳自己規定を試みてほしい。

 実際の川柳界で河野春三の影響力が乏しかったとすれば、それは残念なことであったが、あの論は川柳を文芸として真面目に考えるひとつの金字塔のように思えてならない。










∮ 瀬川瑞紀さんより 3月14日

 「高橋定男さんの訃報に接し」

 寂しいですね。私も含めそれだけ年齢が上ってきたという事でしょうね。他にも情報はありますが、口にすると他人事ではないと落ち込みそうで自分の中でさけている気がします。
 明日は「明暗」ですが、弾むものが無くて句ができません。困った事です。






♪  洋子 3月13日
 
 つい先日「天守閣」の高橋定男さんがひっそりと亡くなられた事を知った。旧雅号は白兎さん。長い間、天守閣の縁の下の力持ちのように柳誌の編集をしておられた事を知っている。独特の破調のすばらしい作品が印象的だった。白兎さんとの出会いは私の川柳人生に少なからず影響を頂いた。川柳塔を辞めてぶらぶらしていた頃、天守閣の句会に誘って下さったのも、津山の大会に初めて誘って頂いたのも白兎さんだった。「新京都社」の句会にも白兎さんに連れて頂いたのが最初だった。その頃に墨作二郎氏を紹介して下さったのも高橋白兎さんだった。色々迷っている私を革新派の川柳に橋渡しをして下さったのが白兎さんだった。しばらくお逢いしていなかったけれど、訃報を聞いて心にぽかんと穴があいたような気持ちである。定男さんと雅号を変えられてからは、私もそれほど近しくはなかったので、ここでは白兎さんと呼ばせて頂く。

 ひとりまた一人大切な方が遠くに行ってしまわれた。












♪ 洋子  3月4日

 雛祭りのために活けた桃の花が次々に蕾をひらいて
 独り暮らしの部屋も少しほのぼのとしている。
 
 NHKで白洲次郎のドラマをやっている。
 だからという訳ではないが、本屋さんで白洲正子のエッセイの
 自叙伝が目についたので買ってみた。それが実に面白い。
 ぐいぐいと惹かれて、あっという間に読んでしまった。
 

 






♪ 洋子  2月28日

 アッという間に 2月も今日でおしまい。
 梅もそろそろ満開を過ぎる頃ですね。
 今年は大阪城の梅林と長浜の盆梅展を観て大いに満足。
 桜の開花予報ではすこし早めと言うことなので、来月はもう
 花便りが聞かれるかもしれませんね。
 
 ゲストの椅子にも沢山 作品を送って頂きましたので、
 明るい三月度の更新になりました。

 早春のいぶきを一杯吸って また明日への第一歩です。









♪  洋子   2月11日

2月10日に点鐘散歩会から長浜の盆梅展を見に行きました。
既に五分咲きから満開のものまで、樹齢四百年を越える見応えのある鉢がずらりと並んでいました。

例によって面白い句が沢山披露されました。「外に出て川柳」にその詳細を発表しましたので ご覧下さい。

来月は3月10日に 京田辺にある一休寺に参ります。
点鐘誌と点鐘じゃあなるに詳しく記載しますので、ぜひご参加下さい。







#  瀬川瑞紀さんより  2月4日

洋子さんのエッセイ「鑑賞と批評」 同感です。

十年がひと昔だとすれば、ふた昔前でしょうか、私は論評を理解しなければ川柳ができないと思い込み、辞書と参考書を脇に置いて繰り返し読んで見たものの、難しくて「やっぱり詩でも書いていようかな」と思っていた頃を懐かしく思い出しながら自由に鑑賞しているこの頃です。

「心を揺さぶる、揺さぶられる言葉・・・溢れるほどの言葉があるというのに湧き上がる思いを言葉にできないもどかしさ」に一生懸命だったのはいつ頃までだったかなー。古い柳誌の整理をする中で、自分の作品を読み返した時、ずるっとこけそうな作品もあったり、当時がいかに輝いていたかが蘇る作品に出会って嬉しくなったりです。

「ゲストの椅子」の句を楽しく読ませていただきました。洋子の部屋で又お会いしましょう。





♪ 洋子  2月4日
 瑞紀さん コメント有難うございます。
川柳の「読み」はやはりとっても大切な問題だとおもいます。
そして自分の作品も色々に変わってきていいと私は思っています。
論評や批評を読むのも大切だし、他のエリアの芸術に触れるのも自分を肥やす意味でとても大事だとおもいます。自分の目を養う事・・・これは生きることの意味でもあります。

だから、理解できる批評や論説が欲しいのです。

若い時の感性は誰だってすばらしいけれど、加齢すればその分味合いのある作品も生まれるのではないでしょうか。現在を精一杯生きたいと思います。






♪ 洋子 2月3日

節分には 壬生狂言でも覗きに行こうと思っていたけれど
お天気が悪くて いじけてしまって 鰯を食べるにとどまった。
はやばやと2月になって、なんとなく気の急かれることである。

少しでも外の空気を吸って心の中の新陳代謝をはかりたいと
いつも願っている。

洋子の部屋への忌憚の無いご意見も聞かせて頂きたい。









♪ 洋子 1月28日

 「凛」の記念大会が終わり 今ほっと息を継いでいる。
170名以上の参加者と言うことで、かっての「新京都社」の面影を彷彿とさせるものがあった。村井見也子氏の地道な「凛」への情熱に参加者の多くが惜しみない拍手を送った。

 「平安」から「新京都」へそして「凛」へと紆余曲折はあっても、確かな足跡のひとつが刻まれた。個人の力で決して出来るものではないが、中心になる核の求心力がなければこれも成り立つものではない。村井見也子氏の意志の強さと、それを支え、それに応えられた凛の皆さんにこころから拍手を送りたい。

 継続することの大切さ、積み重ねる事の大切さをつくづく思った一日であった。

    亀が鳴くまで土笛を吹いている     洋子








♪ 洋子 1月24日

 大寒も過ぎて、さすが一級の寒波が押し寄せています。悪い風邪も流行っています。かろうじてウォーキングも続けていますが、時折は怠けそうになります。惰性になってはいけないなと自分にムチ打ってます。冗談じゃありません。川柳だって同じです。
そのための、節目節目の行事も大切なことの一つと思います。

 明日は「凛」の十周年記念句会があります。「新京都」が20年の幕を下ろしたのはついこの間の様に感じますが、それから後の凛ももう十周年を迎えたのですね。確実な歩みの上に、もう一つの歴史の積木が積み重ねられました。

 感慨無量のものがあります。そして新しい芽がすくすくと伸び育っているのをひしひしと感じます。心からお祝いを申し上げたいと思います。







♪  洋子 1月9日

素晴らしい新年をお迎えになられましたでしょうか。
暦どおりですとわりに短い休日でしたから、なんとなく早々とお屠蘇気分はぬけたようです。
国会中継なども始まって、とにもかくにも新年の始動です。

私も4日から句会まわりが始まりました。
歩け歩けのメタボ対策のひとつでもあります。
とにかくスリムに そして川柳もスマートになればと思っています。








♪ 
謹賀新年    2009年 元旦    本多洋子


明けましておめでとうございます。
本年もひたむきに、前向きに 川柳を楽しみたいと思います。

作品は勿論のこと、ご意見 ご批判もどしどしお寄せ下さいますようお待ちしております。

いろいろな句会にも参加して、巾広く 川柳の可能性を確めて行きたいと思っておりますので忌憚のないご助言を よろしく お願い申し上げます。

尚 レイアウトにつきましては、一部 字の重なりなどもあるやに聞き及んでおりますが、出来ましたら、標準文字の大きさでご覧いただくと解決することも ございますので よろしく お願い申し上げます。








♯ すいれん さん より 2009年1月2日

 新年のお慶び申し上げます。
煌びやかに星をちりばめた新春のページに
感動しております。

   激安とあり一握の砂となる    満寿夫

今年はこのようなみじめさを味合わないよう願うばかりです。

初詣の御神籤、探し物はでるでしょうか??

   夢にだに逢はで彷徨ふ 花筺   すいれん












♪ 洋子 12月27日 

 既に続々と新年号の柳誌が届き始めました。
点鐘誌および一年の総集編の点鐘雑唱も本日出来上がりました。
お正月には 皆さまのお手元に届くことと 思います。

 「洋子の部屋」も追い込みに入りました。
来年は牛の年、牛歩ではあっても 確実な一歩一歩を残して行きたいと思っております。









♪ 洋子 12月23日

  とうとう今年もあと一週間です。何かと追いつめられています。
「洋子の部屋」も新年度に向けて、内容もレイアウトも新鮮にしょうと心がけていますが、なかなか どのパソコンにも適応するようには難しいようです。

 必死で研究中です。ゲストの椅子の作品も順次送って下さいますようお願いいたします。今月は 少し早めにお願いいたします。

 歳末 殊に暗いニュースが続きます。また悪いインフルエンザも流行っているようです。お体に気をつけて 良いお歳をお迎え下さいますように。







♪  洋子  12月5日

  3日の日に点鐘散歩会は京都の赤山禅院に行ってまいりました。 当日の様子は「外に出て川柳」のページに入力し本日更新いたしました。

 モミジはもう盛りを過ぎていましたが、それはそれなりに美しい風情でした。参加者それぞれが、とてもユニークな発想で作句をいたしました。

 俳句の吟行とは少し違った趣きがあるかと思います。どうぞお楽しみ下さい。







 ♯ 11月末日  瀬川 瑞紀さんより

   昨今のニュースはうんざりですね。
   こんな時 思いを吐き出す場所があることに感謝です。
   句会、大会で題があり、選者がいて、それはそれで・・・
   外出不可能な私にとっては、あの方にも、この方にも作品で
   お会いできるのは嬉しいです。
   11月の俳句も良かったです。何かコメントを書きたいと考えてる
   間に日にちが過ぎてしまいました。



 ♯ 12月1日  西田 雅子さんより  

   俳句や詩の方も参加されてますます充実の「洋子の部屋」ですね。
   私の川柳も有難うございます。



 ♯ 12月1日  福田 弘さんより

   洋子の部屋 早速拝見しました。特に見難いところはありません。
   個人誌としてはよく出来ているのではないでしょうか。
   もっと読者との交流の場を設け、素直な意見交換のスペースを
   作ったら楽しいのではないかと思います。



 ♪  洋子 12月1日


   今月より談話室は新しいページを設けました。

   皆さんのご意見をどしどしお寄せください。

   なお、よりHPの画面を見やすくするために勉強しておりますが、

   しばらく不手際なことが続くかと思います。

   御辛抱をお願い致します。
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