川柳でエッセイ
2019年 11月更新
60年前の恩師
本多 洋子
先日、何気なく朝日新聞の俳壇面を見ていたら、稲畑 汀子選の中で気になる1句が目についた。次のような作品である。
妻の墓洗へば涙秋彼岸 神戸市 日下 徳一
懐かしいお名前である。確か 私が高校一年の時、大学新卒の英語教師として赴任された先生のお名前である。当時わたくしは、私立女子高校の一年生だった。六三制の教育制度が始まったばかりだったので、私の親は、公立の男女共学の学校を選ばず、無難な、中高一貫の女子校を選んだのである。仏教系列の学校だったので、至って地味な大人しい校風だった。
教師も高齢の方の多い中で、新任の日下先生は、生徒たちの注目の的であり、人気の的であった。そんな中でどう云う訳があったのか、二三年で転勤されてしまった。みんなが落胆したので、よく覚えている。生徒はみんな思春期の年代だったので、何かとやりにくかったのかもしれない。先生が俳句を嗜まれていらした事は何年か後に聞いた事があったが、日下先生の作品にお目にかかったのは、この新聞俳壇の1句が始めてである。
先生の年齢を逆算してみると、私が高校一年のときに、大卒の新任教師であるから、私より八歳は年上である。今はおおよそ九十歳に手が届こうというお歳であろうと思われる。そう云えば、高校時代からもう半世紀は経っていることになる。先生にも様々な紆余曲折がおありになった事であろう。私にも一言では言い尽くせない様々な哀しみや歓びを経験してきている。
上掲の作品を拝見するかぎり、老齢の先生が静かに奥様のお墓まいりをなさっている情景が目に浮かび、胸が迫ってくる。先生も生徒もここまで来れば、同じ感慨を共有しているものだなぁとしみじみ思えてくる。
住所を調べて、お逢いしたくもなるが、ここはしばらく、この俳句から想像を逞しくして、先生をお慕いしようと思っている。
日下先生を思い出しているかっての生徒がいることを、懐かしく、心あたたかく思い出していただければこんなに嬉しいことはない。そして、あたたかい俳句を創り続けて頂きたい。また拝読できることを楽しみにしている。
2019年10月 更新
袖ふれあうも 本多 洋子
大阪から神戸や京都へ行くのに、たいてい私は私鉄を使う。この間、神戸婦人会館で催しがあってアクセスを調べると、JR神戸駅からがもっとも近いという事で、あまり慣れないが、JR神戸線を使うことにした。
大阪駅で、姫路行き快速列車を待っていると、年配らしいご婦人が私の背後で何か聞きたげにウロウロなさっている。ふと目が合うと、遠慮深そうに口を切られた。
「あのぅ、次に来る電車は 加古川に止まるでしょうか?」 と。
慣れない私は、電光掲示板をみて 確かに止まる事を確認してから、
「止まりますよ」と返事してその列車に乗り込んだ。優先座席に座り込んだ私に寄りそうようにして、そのご婦人もそっと横に座られた。
よほど安心されたのであろうか、彼女はしばらくすると、ぼちぼち身の上話を始められたのである。問わず語りに聞いていると次のようであった。
『今日はお彼岸ですさかい、加古川にある日蓮宗のお寺に卒塔婆供養をさせて貰いに行くんです。いろんな人にお世話になりまししたさかい、そのお礼参りですわ。わたしは、終戦8月15日の次の月・9月13日に、母親をなくしましてん。小学校6年生の時でしたわ。母親は40歳で6人の子供をのこして逝ったんです。
私の上には兄が二人、私の下には三歳の妹をふくめ三人の子供がおりました。当然母親代わりのように、家事全部がわたしにふりかかりました。今から思うたらようやったもんですわ。』
普通でも大変だったあの時代の事を考えると、よくも生き抜かれたと感心せさるを得ない。「それはそれは」と私が言葉を差し挟む余地もなく、次から次へと彼女の話はつづく。
『二十歳になったころ、主人と巡りあい結婚できました。それは立派な人格のすばらしい人でした。問題は、主人には先妻の子供さんが三人も居たという事です。私は子供が好きでしたから、何とも思わずに一生懸命に育てました。』
「ご自分のお子さんは生れなかったんですか?」などと要らない質問を私はしてしまった。
『そりゃぁ妊娠もしましたよ。でも私は産まなかったんです。もし産んでいたら、先妻の子供と 自分の子供をわけ隔てなく育てることは出来ないと思ったからです。』 と。
「わぁー凄いですねぇ」 わたしは思わず彼女の皺だらけのお顔を覗き込んだ。喜びも哀しみも乗り越えて来た年輪が刻み込まれていた。
今の若い人達に話してもトウテイ解かってもらえない空しさを彼女はしっかり抱きつづけているのだろう。
同じような年代を生き続けてきたであろう寂しい雰囲気を、私が纏っていたのかもしれない。単なる行きずりのわたくしに、心の奥を覗かせてくださったそのご婦人にありがとうとこころからお礼を申し上げた。
「気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけながら 私は 神戸でその列車を降りた。
触れ合うて こころの奥をのぞかせる 洋子
2019年 八月 更新
スイカの種 本多 洋子
私が十歳の時、日本は敗戦をむかえた。いわゆる疎開児童の世代である。戦争の体験者といっても子供時代の事。それも今では後期高齢者になって、亡くなった方も多く、稀少価値にすらなっている。
疎開は遠い父の縁戚を頼ってひとり、京都府相楽郡の農家に預けられた。その家の息子はみんな戦死していて、仏間には 青年の写真が二枚 飾られてあった。大人ばかりの家族に 小さい都会の子供がご厄介になった訳である。世話する方もされる方も慣れないことばかりだったと思う。私ときたら末っ子の甘えん坊で、家の方は、対応に困られただろうと 今になって思うことしきりである。
大きな農家だった。お米もタケノコも西瓜もお茶も沢山とれた。夏のおやつは、大きな西瓜を井戸でキンキンに冷して惜しげもなく切ってくれた。今から思うと贅沢な話だけれど、そうそう毎日だと 嫌になって食べなくなった。大きな声で叱られた。お風呂は五右衛門風呂で外庭の隅にあった。便所も鶏小屋の前にあったので、夜などひとりではトテモ行けなかった。
学校は一里の道を藁草履で歩いて通った。空襲警報が鳴ると、身の回りに草で編んだカッパのようなものをかぶって、身を守った。大きな蛇が何匹も絡んだ細い道は、通れなくて泣いてしまった。
大阪大空襲の夜は、生駒山の上空が真っ赤に燃えてキレイだったので、はしゃいで見ていた。自分の家が燃えていたとは知らなかった。私の兄は二人いたが、その頃学生で軍需工場で働かされていた。姉も女学生だったが、それなりに軍の仕事をさせられていた。家族はバラバラだった。
戦争が終わっても 家が焼けてしまったものだから、父も母も私のいた疎開先に来て 農家を手伝った。父はすぐ大阪に戻って、仕事の道を開いた。ゼロからの出発だった。
疎開先での大きな西瓜の味は、その後一生忘れなれないものとなった。
今年は戦後74年目というけれど、私は西瓜を自分で買おうとは一度も思わなかった。戦争のつらい想い出がつきまとった。 今年の夏、お盆に息子達が来てくれたとき、大きな西瓜を冷してみんなと食べた。戦後初めての事である。この辺で息子や孫たちに戦争の話をしておかなければと、思ったからである。
戦争の話 スイカの種を吐く 洋子
2019年7月 更新
墓終い 本多 洋子
近ごろ、お盆やお彼岸の時期が近づくと、少し重い気分になる。本多家のお墓は、岐阜県の御岳にある。そう簡単にはお参り出来ないので、墓参は、年1回ということにしている。息子たち家族と私の、総勢9人が二台の車に分乗して日帰りの墓参をするのが本多家の年中行事の一つである。
ところが、この間、長男がふと、こんなことを漏らした。
「おかあさん、お墓をそろそろ大阪近辺に移したらどうだろう。車の運転にも自信がなくなってきたし、危ないし」と云う。
岐阜は舅の生まれたところ。家系図も何もないが、家紋は「立ち葵右離れ」。いわゆる本多タチアオイと云われているもので、本多忠勝の流れを少しは引いているのかもしれない。
舅はしかし貧しい家に生まれたらしく、ある政治家の書生としてひとり東京に出て勉学に励んだらしい。終戦後、間無しに舅
の母が亡くなって、岐阜の地に本多の墓所を建てたという。今その墓所には 舅と姑、そして私の夫が眠っている。年に1回とはいえ、後あと墓参のものが居なくなると、全く無縁仏になってしまう。夫は55歳で海外出張中に急死した。不意の出来事に深く考えもせず、岐阜のお墓に納骨した。まだ姑が存命中であった。
夫はいわゆる貰い子で実の父母の顔をしらない。この世で血の通った者といえば私の息子たちだけである。せめて夫のお墓は息子達の側に構えておくべきだったかと 今にして思う。
舅や姑は、ふるさとの土になり先祖のふところら抱かれるのだから、それはそれで魂の休まるところだとおもう。死んでからの事など、私自身は、散骨でも樹木葬でも、いわゆる一心寺さんにでもいづれにして貰ってもいいと思っていたけれど、息子たちに岐阜の墓じまいの事を提案されると、私は、はたと思案に落ちてしまった。
墓じまいのことなど思う 西の空 洋子
2019年 6月 更新
本多 洋子
大向日葵の陰
この間、川柳仲間のYさんから、こんな声を掛けられた。
「洋子さん、杖をついて電車に乗ったらすぐに席を譲ってくらはるわよ」と。
「あら、Yさん、わたし杖もついてないけど、近ごろすぐに席を譲ってもらえるのよ」 と、オオム返しに答えたものの、ちょっと胸にひっかかるものがあった。私には何も持病と云ったものはないし、足・腰・膝の痛みもなく至って元気である。それでも ひと様からみれば、歳相応に、身体の弱りとか、気力の衰えは感じられて、席を譲ろうと思わせる雰囲気を漂わせているのかもしれない。いつも、有難うございますとお礼を云って素直に座らせて貰うのだけれど、一抹の寂しさを感じなくも無い。自分では気付かないが、気力の衰えは、顔にも後ろ姿にも、もろに表われているのかもしれない。
先日、国立国際美術館で、ジャコメッティ展を観る機会があった。その時、とても印象に残った一つの彫像があった。それは、ジャコメッティが何ヶ月もかかって製作した日本の哲学者「矢内原伊作」の彫像である。日本の一人の作家の像ををそれ程までに、執着して彫り上げたジャコメッティにも、また矢内原伊作という哲学者にも非常に興味をもった。矢内原伊作には、哲学書のほかに、ジャコメッティについての論説や、沢山のエッセイや詩集のあることも知った。勿論とても難しい著作もあったが、私は主にエッセイを中心に図書館にリクエストして、手の届く範囲で四・五冊は読ませてもらった。
ジャコメッティのアトリエに何日も何ヶ月も通って、不動の姿でモデルを務めた矢内原伊作とジャコメッティとの関係が 矢内原の著作の中に丁寧にえがかれている。ジャコメッティは彼の眼に見えているとおりにヤナイハラを描くのだと言って苦悩するのだが、勿論写真に撮るように生き写しにするという意味ではない。 何度も書いては消して、終いには今までの作品を無きものにしてしまう。その行程は何度もくりかえされる。
アーティストである ジャコメッティとヤナイハラとの間には、お互いの国情が持つ、歴史的な背景や、芸術一般についての深い理解があって、その人の背景に広がる人格の奥行きや心情が確かに見えていたに違いない。
ジャコメッティは見えないものをしっかり見ていたのである。それを全部描ききれない焦燥をヤナイハラも受け入れて、辛いモデルという仕事を続けていたようだ。
見えないものを見えるように観て、観えるものを見えるように描く。心ある人にはしっかり見えない物が観えているのだという事を自覚しなければと思うことしきりである。
大向日葵の陰に縋ってばかりいる 洋子