
2008年
ふと心を過ぎった些細なこと
小耳に挟んだ面白いこと
忘れ去るには惜しいもろもろの言葉を
ここに書きとめて見ようと思う
川柳に生きた証しのためにも
それが儚い足跡であったとしても
美しい染みとしてだれかの心に残ったら
それでわたしは心満たされるだろう


天王寺公園の銀杏はすっかり色づいて、冬日をうけながら金色に輝いている。かえでの紅葉もこの二・三日で見納めになるだろう。赤モチの実の赤がちらちらと木陰に見える。
我が家から電車で20分もすれば、大阪も南の端のターミナルにあるこの天王寺公園に着く。今日は買い物のついでに、この公園に隣接する市立天王寺美術館に立ち寄った。「国宝三井寺展」を観るためである。
常々仏像を見るのは好きな方で、お寺巡りはよくする。本来はお寺の本堂などに安置されている仏像を拝観するのがその道であろうけれど、何十年も開扉されない秘仏に出逢えるのは滅多なことではない。また これは恐れ多い事ではあるが、私の場合、まこと信仰の対象として拝観すると云うよりも、仏教美術として鑑賞する方なので、今回のように 美術館で三井寺の国宝に出逢えることは またとないチャンスなのである。
今回は三井寺(園城寺)の開祖・智証大師入唐求法帰朝1150年を記念して、国宝三井寺展が開催されることになった。
普通ならこの手の展示は、とても地味なので来館者はそう多くないのだが、テレビの前宣伝もよろしく、平日であるにもかかわらず沢山の来場者で賑わっていた。
行ってみて、やはり展示品の層の厚さに感動してしまった。何といっても注目の的は日本三大不動として名高い金色不動明王(黄不動)。円珍(智証大師)25歳の時、岩窟で修業中の眼前に現れた金色の不動を感得し、後に画工に描かせたという、絹本着色一幅 平安時代のものである。両眼をカッと見開いた明王は剣と羂索を持って虚空に踏ん張って立っている。薄ぼんやりと輝く黄色身の不動は角度によっては金色にさえ想像される。しかも裸形の上半身や筋骨隆々たる手足はすべて簡略された的確な線描きなのである。じっと見ているとその省略された逞しい線は近代絵画を思わせるようなそれである。しばらく呆然と黄不動の前に立ち尽くしていた。
三井寺にはこの黄不動を模刻した木彫像や数々の彫像画像の不動明王が残されていると云う。今回もその何点かが展示されていた。
その他、智証大師座像の数点や、新羅明神座像など平安から鎌倉に至る数々の国宝や重文が鎮座していた。鉄製の弥勒如来座像(平安時代)にも不思議に心惹かれるものがあり、その場を立ち去り難かった。
また、狩野光信の勧学院の障壁画や三井寺を愛したフェノロサの関係資料なども展示されていてまことに見応えのある「三井寺展」であった。
黄不動凛として立つ 天啓の闇 洋子
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2008年 12月 更新
国宝 三井寺展を観て 本多 洋子
2008年3月 更新
惜しみなく流れて春の彩になる
せせらぎで拾った春の四分音符
洋子

ライフワーク
常々若い人たちのファイトにはかなわないなぁと思っている。瑞々しい感覚と好奇心でどんどん作品を発表されるそのエネルギーには圧倒されてしまう。
「新しい川柳はこちらですよ」という笛の音に何の疑問もなく飛びついて行けるのも若さの特権だろうか。
心はまだまだ若いつもりで、川柳も日々に新たにとは考えているが、と言って激しい時流の変化に、盲目的にはついて行けない頑固な自分がいることも確かである。一体何のために川柳を作っているのだろうか。その原点に立ち返ることが必要ではないかとこの頃つくづく思っている。
今年の初めに、たまたま「画狂人葛飾北斎展」を見た。その時の感動が未だに私の心の中に渦巻いていて、容易に胸を離れようとはしない。その展覧会では多面的な北斎を様々な角度から鑑賞できるように展示されていた。肉筆画から北斎漫画、富嶽三十六景の版画、地図、挿絵などその画風は年々変化していて一点に止まることを知らない。
彼の生涯は九十年の長きに渡っているが、常に自分の中でより高度な芸術的境地に達するよう、その求道心は息を引き取るまでたゆまなく続けられていたと言う。その画才は海を越えて世界を唸らせ、時代を越えて現代の私たちにも迫ってくるものがある。
葛飾北斎は最晩年期に次のようなことを書いている。
「己れ六歳より物の形状を写すの癖ありて、半百(50歳)の比(頃)より数々画図を顕すといえども、七十歳前 画く所は実に取るに足るものなし。七十三才にてやや禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十歳にしては益々進み、九十歳にて尚その奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならんか・・・」
と強い決意を述べている。ただ寿命は百歳には及ばなかったが最後までその意欲は消えうせることはなかったものと思われる。
北斎の辞世の句は
飛(ひ)と魂(たま)でゆくさきんじや夏の原
である。
川柳がライフワークであるというからには、これくらいの意欲を持ちたいものと、自分の魂にムチを打ってるこの頃である。
、
2008年 4月 更新
今年の桜の開花は、
例年より四五日は早いらしい。
そしていつも、大阪より東京の方が
早く満開を迎える。
気温は大阪の方が高い筈なのに
どうも解せないでいる。

快い疲れ
東京での川柳大会の選者という責任あるお役目を果たして、今新幹線のシートに深く身を沈めている。どうしてもホテルの予約が取れなかったので、やむなく日帰りの行程になったのである。
列車の響きは子守唄になって、心地よい眠りに誘われるが、昼間の興奮が甦ってなかなか眠れそうにない。
今回の兼題は「白」。しかも五人競選というかって経験したことのない試みだったので、投句者も各選者も戸惑いを隠せなかった。
選者というのは勿論みなさんの投句の選をさせて頂くわけであるが、これは同時に選を試されているという結果として跳ね返ってくる。
選者の良し悪しによって、すばらしい句を見逃してしまうことにもなり兼ねないから、責任は重大である。特選一句秀逸三句の並べ方にも、五人の選者それぞれの個性が表れてくる筈である。披講の仕方、序破急の付け方、すべてに神経を使うひとときであった。
自分自身にも納得できる選が出来ただろうか。落とした句、あるいは抜いた句の中で後悔する句は無いだろうか。入選という線引きの前後十句ばかりの間にいつも迷いが出てきたりする。
「白」という難しい兼題。でも非常に幅の広い題材のために、やりがいのある選であるとも思えた。私以外の四人の方々と、肩を並べられるようないい選ができたかどうか、それが一番の気がかりではあった。
全神経を尖らせて真剣に取り組んだ今日の選者のお役目、振り返ってみて、後悔は無かったと思う。
名古屋を過ぎるあたりから、急に深い眠りに落ちる。この分で行くと帰宅できるのは夜の11時をたっぷり過ぎる頃だろう。
快い疲れを感じた一日であった。
生クリームだったか春のうつだったか 洋子
2008年5月 更新
風薫る五月
けれども本多家にとっては不思議に忌むべき月。哀しいことが次々起こった因縁の月・・・。
5月3日は主人がアメリカで急逝した日。
5月5日は義兄に当たる人の祥月命日。
5月29日は舅の そして
5月30日は姑のそれぞれ祥月命日である。
色々なことが心に甦る。
明るい緑とは裏腹にとても寂しい月。
心のなかを風が吹きぬける。

銀の匙
うつを心に抱えながら喧騒の梅田界隈を歩く。
阪急乗り場の近くでは、まるで通いなれた道のように、ふらりと紀伊国屋書店に足がむく。ざわざわとした店内では、かえって独りになれる場所がある。
文庫本のコーナー。案外なつかしい本が、目に付くように並んでいる。日頃とくに探してまで読もうと思わない本、でももう一度手に取って読んでみたい本が、手の届く範囲に並べてある。岩波文庫がやはりお気に入り。ぱらりぱらりと捲っては手頃なお値段につい買ってしまう事になる。
そんな本の一冊が中勘助の「銀の匙」であった。ぱらりぱらりと読み易くて、自然に作者の文体にひき入れられてしまった。漱石と同時代に書いた人の文章とは思えないほど何の抵抗もなく心の中に染み入ってくる。古いふるい時代の話である筈なのに、まるで自分の身の上に起こったことのように思われるほど綿密な状況描写と心理描写がつづく。幼年時代に始まる自伝的小説ではあるが、これはちょっとやそっとで真似の出来そうに無い文体。
勘助は明治18年生まれで昭和40年に没というから、その幼年時代はまだ明治であった筈。なので勿論その身辺描写は今では目にすることもない古色が漂うが、それがまた鮮やかに目にみえるような描写なのである。子供の心理状態にしてからが、さもありなんと手に取るように伝わってくる。それが嫌味もなく鬱陶しさもなく読み手に自然体で受け取れるのはどうしてだろう。
古臭いといわれればそれまでだが、まるでルネサンスの絵画を見ているような共感をおぼえる。
巻末の和辻哲郎の解説にこんな事が書いてあった。
「この作品には先人の影響が全然認められない。それはただ子供の世界を描いたものであるが、作者はおのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼も借りなかった・・・・・・こうなると描かれているのはなるほど子供の世界に過ぎないが、しかしその表現しているのは深い人生の秘密だと言わざるを得ない」と絶賛している。
読み終えてなにかと考えさせられる一冊であった。
流行語をひょいひょいと取り入れた川柳や、やたらと新鋭ぶった川柳を作っている自分が少し恥ずかしくなった。
五月の人と昭和を掬う 銀の匙 洋子
2008年6月 更新
5月の末に、みちのく三大半島の旅に出かけた。
男鹿半島・津軽半島・下北半島の三つを巡る旅。
2泊3日のツアーの旅にしては相当な強行軍ではあった。
3日目最後の半日を下北半島の恐山で過ごした。
大きなショックが、石の崩れる音とともに
心に重くのしかかってきた。
日本三大霊場のひとつ

恐山
死者の御霊を呼び、口寄せをするイタコが居るということで有名な恐山。テレビで見聞きしていたが、一度は訪れてみたいと思っていた場所である。
たまたまツアーの最後のコースに組み込まれていたので好都合と足を踏み入れる事になった。
ちなみにイタコは大祭の行なわれる7月の4日間だけしか居られないそうで、死者との口寄せに出会うことはなかった。
恐山は下北半島の中央に位置する霊峰。862年に慈覚大師円仁によって建てられた。寺名は恐山菩提寺(円通寺)という。本尊は延命地蔵菩薩である。
バスは寺の門前のすぐ近くまで進入できる。バスを降りる少し前から、異様な匂いに気付く。硫黄を燃やしたような卵の腐ったような異臭である。
門前には小さな川があり、ガイドの説明でこれが「三途の川」であるという。ここからこの世とは半分さよならした気分になる。澱んだ空気に生臭い風が時々吹き寄せる。
恐山冷水で身を清めて恐る恐る門を潜る。石の灯篭や石地蔵の側にはすでに積みきれないほどの小石が載せられている。石に赤いかざぐるまを突き刺したものもある。
やがて荒涼とした石また石の風景が眼前に広がる。いわゆる火山噴火の後に流出した土石流のゴツゴツとした痕跡がそこここに展開されている。
雨水に流された硫黄の黄色い水や赤茶けた錆びの色。はたまた灯明から引火したように真っ黒に焼け爛れた岩。その岩と岩の間に信者たちが奉納した小さな地蔵や戒名を記した石が所狭しと積まれているのである。
中には手作りの童地蔵に、真っ赤な涎掛けと赤い帽子を被せたものもある。その手はすでに剥落して、それでも尚人に縋りつくような表情をして空を眺めている。こんなところで夜を迎える童地蔵が愛しくてならない気分になる。その母も或いはもうこの世に居ない人かもしれないと思うと、虚しい風が心の中を吹き抜ける。
ここは霊場とは言うけれど、もしかしたら成仏の出来なかった魂が寄り添って、温め合っている所ではないかと、そう思った。
高野山や比叡山の霊場も鬱蒼とした山々に抱かれて粛々とした霊場の雰囲気はあるが、恐山のこの異様さとはだいぶ違うようだ。
ここではまだ魂が迷っている。地獄にも極楽にも行き着けない魂がこの世とあの世の合間に、ただ迷いに迷っているのではないかとそんな風に思えた。
だから、イタコが死者を呼び寄せることが出来るのではないだろうか。当たるも八卦当たらぬも八卦という言葉があるにはある。イタコの言寄せをすっかり信じきる訳ではないが、恐山に来てみると言い様のない雰囲気に呑まれそうになる。
何ごともなく天寿をまっとうした人の魂は、恐山には現れないのではないかと、そんなことを思った。
塩水と真水が混じりあった場所があるように、死者と生者が寄り添って温め合える不思議な場所。それが恐山であるような気がした。
石は悶絶 石は慟哭 恐山
塩水か真水か恐山おぼろ 洋子
2008年7月 更新
今年は本格的な梅雨のバージョン。
梅雨の中休みを利用して
大塚国際美術館へ、絵の好きな友人と
二人で日帰りの足を伸ばし、心ゆくまで
名画を楽しんだ。

大塚国際美術館での「ゴヤ」の展示


裸のマハ



わが子を喰らう
サトゥルヌス
魔女の夜宴
着衣のマハ
黒い絵 ・ ゴヤ 本多 洋子
大塚国際美術館と言えば、陶板名画美術館として有名である。大抵の世界の名画といわれる名画は、すべて実物大で陶板画に再現され並べられている。
今回は近世・近代から現代絵画に重点をおいて鑑賞することにした。それでも膨大な数なので、たった一日で充分目を留めるには至らなかったけれど、美術史の写真でしか記憶になかった作品群を実物大で間近に観られたことは大きな収穫であった。
なかでもゴヤの「黒い絵」は、特別に制作当時のゴヤの部屋を再現しての陳列であった為、その絵の奇怪性と相俟って異様な雰囲気を保っていた。
「着衣のマハ」や「裸のマハ」のように、宮廷画家であったゴヤの絵は豊満で華やかそのものであった筈なのに、スペイン内乱の戦争を目の当たりにしたゴヤのその後の絵画は目を疑うほど孤独で残酷で暗いものだった。
時代に翻弄された波乱に満ちた生涯もさることながら、宮廷画家としての本分と芸術家としての信念との間に、並々ならぬ苦悩があったろう事が容易に伺えるのである。
黒い絵の前で私は立ち尽くしてしまった。
同じスペインの画家ピカソにも「、ゲルニカ」という戦争をテーマにした壁画がある。ゴヤよりも時代は百年ほど下る筈であるけれど、そこには繰り返される「戦争と平和」の問題が生身に迫って感じ取ることが出来る。
陶板画ではあるが、居ながらにして日本でこうした名作に触れることができて本当によかった。
ゴヤについては今すこし勉強を深めたいと思っている。
折りしも「芸術新潮」7月号でゴヤの大特集を組んで出版されたので、さっそくそれを勉強の手ずるにしたいと思っている。
2008年11月 更新
補聴器は小さな仲間 本多 洋子
私は小学生の頃中耳炎を患って、それ以来右耳が難聴である。多分終戦後まもなくの頃で、治療は充分でなかったのだろう。身体検査で簡単な聴力テストがあっても、右耳に反応がなかったのを覚えている。
以来、聞えるほうの左耳で日常の生活は何の苦もなくカバーしてきた。しかしである。加齢とともに聴力が弱ってきたのも確かで、片方の耳だけで360度を守備範囲にするには相当無理が祟ってきた。申し訳ないが、身近な人には、なるべく左側に来ていただいて効き耳の方向で話していただいた。右耳の難聴であることを理解して貰っていたつもりであった。
しかし最近、自分でも聞き違えが多くなっていることに気付いてはいた。ただ補聴器をつけるほどではないと楽観視していたのも事実である。
ところが もっとも信頼している人から、私がまともに聞き取れていないことに苛立ちさえ感じておられる事を知った。それは蔑視にまで繋がってしまった。
独り暮らしになってから、人の好意に甘え過ぎる事は避けるべきだと自分にはしっかり言い聞かせてきたつもりであったけれど、まだまだ甘さがあったとつくづく感じている。
自分の難聴が他人にまで不快感を及ぼしているとしたら、これは甘えだけで済ますことは出来ない。それこそ自己責任で解決しなければならないと思った。
思い立ったら吉日。すぐにインターネットで補聴器についてのデーターを集めた。そして最寄の信頼できそうな補聴器の会社を訪れたのである。
右耳・左耳とも丁寧な聴力検査をしてくれて、私の現状の聞き取りも充分行なわれた。この頃の補聴器は小さなコンピューターを嵌めこまれた精密な機械である。人それぞれに合わせて微妙な調整をしてくれる。
そして今、一ヶ月の体験試用をしているところである。
自分のプライドは自分で守ろう。補聴器は充分私の味方になってくれる。年金で暮す身にはとても大きな出費になってしまうけれど、きっと人間の尊厳を守る小さな味方になってくれるだろう。
耳元で小さな鈴が鳴っている 洋子
2008年 10月 更新
死のかたち 本多 洋子
「おくりびと」という納棺師をテーマにした映画が評判になっている。
本当はタブーのように世間からは忌み避けられている職業に焦点を合わせた作品である。
画面の美しさと音楽の素晴らしさ、そして役者それぞれの役どころの的確さに爽やかな感動を覚えた。
思えばこの歳になるまで、いろいろな「死のかたち」に出会ってきたなあと、映画を見ながら振りかえっていた。
最初の出会いは6歳の頃、当時21歳だった長兄が他界した。なんだか煌びやかだったお寺の祭壇が、妙に印象に残っている。勿論、死の実感は無かったけれど、兄と誕生日が同じだった私は、今でも兄の身代わりに私が生かされているような気がしてならない。
次は終戦の年に疎開先の田舎のお婆ちゃんが亡くなった時。田舎はまだ土葬だった。村中の行列と、青年団のお兄さんが大きな穴を掘っていたことを覚えている。このお婆さんの孫は、戦争中にみんな外地で戦死したのだった。
明治生まれの父や母が他界したのは、私が五十に手の届く頃だった。お葬式は今のように会館ですますのではなく、実家の門を開け放って隣近所の一角をそれに費やした。納棺は家族が手伝い、ねんごろに行なったように記憶する。88歳になっていた父の肌は妙に艶があってすべすべしていた。生涯を大阪の商人として闘った人だった。
母は父の死後5年ほどして、当時アルツハイマーという病名で、つまり認知症で家族を手こずらせて亡くなった。心穏やかになった母の死に顔が、きのどくで愛しくてならなかった。
夫の父は病院で最期を迎えたが、病院の都合で病理解剖という手段をとられ、納棺は病院内で行なわれた。所謂おくりびとのお世話ではなかった。義父は無神論者だった。
海外で突然の死を迎えた夫は、アメリカはノースカロライナ州シャーロットという土地のチャペルの地下に安置されていた。旅行中だった為、カルダンのダブルのスーツが、死出の衣装になった。仏式の僧侶が居なかったため、駆けつけた長男が般若心経を唱えて手造りのような葬儀となった。遺骨を拾うという習慣は現地ではなかった為、灰を残らず箱に詰めて持ち帰り、改めて日本で葬儀を行なった。
夫の母は、夫の死後 10年経って老衰のため亡くなった。献体登録をしていたため、遺体は葬儀場から献体の安置所に運ばれたが、遺族としてはせめてもの思いがあって、遺体は、おくりびとによって丁寧にていねいに湯灌し納棺して頂いた。おくりびとは、うら若い女性だった。
彼女たちは、いやな顔ひとつ見せずに、優しくやさしく義母を取り扱ってくれた。私は心からお礼を言った。丁度、映画の「おくりびと」に、遺族が丁寧に頭を下げていたように。
こうしてみると「死のかたち」にも生と同じ数だけ様々なかたちがあって、長生きした分、それぞれの痛みを心に刻み付けて来たのが解かる。おくりびとの儀式はそれなりに人の心を癒してくれるのだろう。
おくりびとは最後の門番。それぞれの生に敬意を表して、厳粛に静謐に死者の身体を清める。
おくりびと 静かに萩の背を撫でる
門を潜れば森の向こうにチェロの旋律
洋子
2008年9月 更新
身長・体重・腹囲
十年振りに市の保健センターから特別健康診断の案内が来た。
今回は65才から74歳までの人たちが対象らしい。
親から貰った身体が余程健康なのかここ十年ばかりは医者に掛かった事がない。
したがって血圧計も体重計も持ち合わせていない。何も自慢にならないが、この歳だから調べると何か出てくるのは必定である。知らぬが仏という言葉もある。病は気からという言葉もある。単なる恐がりかもしれないが、睡眠不足もさして気にならない方なのでわざわざ医者に相談したこともない。
まあしかし、市から詳しい問診書を添付して申込書が送られてきたので、軽い気持で受けてみることにした。
学校時代には毎年身体検査があった。身長・体重・胸囲を測られたものである。
今回も先ずはその測定があったが、ちょっと違ったのが腹囲。やられた!これはメタボの検査である。「20歳頃から体重は10K以上増えてますか」の問診もある。完全にあてはまるなあと思いながら測ってもらう。オヘソの下あたりまでパンツを下げる。測定してくれる女性は済みませんねえと遠慮深げ。昔には無かったメタボ検査に先ずは戸惑いを隠せない。幸いぎりぎりのところでメタボは免れたらしいが、血液検査その他の検査結果を待たなければなんとも言えない。
血圧は恐る恐る腕を出していたので、一回目は151と100。二回目は141と83という結果であった。少し高めですねえと指摘される。すぐに危ないと言うわけではないが常時血圧計と仲良くして下さいと注意された。
血液検査・尿検査・肺がん検査につしての結果は日をあらためて通知がくるらしい。
結果が来るまで勿論くよくよはしないが、とにかく独居老人の部類に入る私は人に迷惑を掛けないように、最低限の健康管理をしなければと思ってはいる。
この検査はもちろん本名の確認を何度もさせられる。検査結果を違った人に通知して、健康な子宮を削除してしまったという医学ミスのニュースがこの間もあったばかりである。市としても慎重にならざるを得ないのであろう。
余談ではあるが、「本名」を取り上げた作品を2008年8月号の「川柳オホーツク」誌で見つけた。
本名の水位をたまに確める 北見 澤野 優美子
これは勇気のいること。
この間外人の力士が大麻を吸っていたカドで、大きく新聞やテレビに取り上げられたが、このときも四股名の他に本名がデカデカと報道された。
本名を洗うてからの自己嫌悪 松原 本多 洋子
2008年8月 更新
句会吟と嘱目吟
最近、句会巡りをすることが多くなった。以前と違って少しは気持ちにゆとりが出来たのか、句会そのものを楽しんでいる自分に気付く。「これも川柳あれも川柳」とどこかで容認しているのかもしれない。句会の席に座っている自分を、もうひとりの自分がしっかり見つめている。
俳句の場合は師系がはっきりしていて、結社の枠を越えた句会に参加することは少ないけれども、川柳の場合はそれが実に寛容なので、ふいに知らない句会に飛び込んでも親しく歓迎して貰える。
ふた昔ほど前までは、川柳でも結社同士の交流はあまり歓迎されなかったらしいが、今はもう仲良しクラブのようになっていて、お互いにいい意味で刺激しあっているようにも見える。
句会場が変わっても、連日同じような顔ぶれに出会うことも度々である。句会では、とにかく自分の句が抜けなければ面白くない。したがってどこの句会に行っても抜けようと考えていると、作品に個性がなくなってくる。みんなに解かってもらえる句というのは案外個性のない句が多いのである。
自分の個性が存分に発揮できるのは句会吟ではなく、雑詠・・いわゆる嘱目吟であろう。席題や選者を意識しなくていいからである。
詩や小説がそうであるように、自分自身が納得できる作品集を自分で発刊して静かに世に問うという方法もある。しかし川柳の場合それで成功するのはごく稀である。
若い頃は、句会作品を軽くみる傾向が私にはあった。今でもその思いを払底することは出来ないが、川柳の本質のところにやはり句会というものの存在を意識せざるを得ない。
いい句会とは、いい選者がいていい作品に出会える句会のことをいう。
句会めぐりをしながら一句でも、いい作品に出会えたらと思うこの頃である。
蝉殻と没句とオンザロックかな 洋子
2008年2月更新
日本語で遊ぶ
子供の頃はよく「尻取り」で遊んだものである。近所の子供たちとのお遊びの定番であった。会話という訳ではないが、ポンポンと交し合う言葉のキャッチボールには、それなりのリズムと機知があってなかなか飽きないものであった。
最近5才の孫とよく尻取りのラリーをするのであるが、孫の打ち返してくるボールにちょっと変化が見られるようになった。例えばこんなふうに・・・・
インコ・ココア・「アメニモマケズ カゼニモマケズ」
といった具合である。名詞からはみ出してフレーズになっている。しかも五歳児が「雨ニモマケズ風ニモマケズ」と口ずさむのは意外性という他はない。勿論意味が解かる訳でもない。他にも・・
カモメ・メダカ・「カキクエバカネガナルナリホウリュウジ」と来る。
彼が俳句のなんであるかを知る由もなく、まして子規を知っている訳でもない。驚いてしまったが、これにはちょっと訳があった。NHKの教育テレビで「日本語で遊ぼう」という番組があり、彼はその熱烈なファンだったのである。
番組はイロハ歌留多の要領で、文学作品の有名な一節を短く紹介して、自然に子供でも暗誦できるような仕組みになっている。なかには中原中也の一節があったり、竹取物語の一片があったり、梁塵秘抄のひと節すらあったりする。五歳児は意味を度外視して言葉の調子の良さに惹かれて、つらつらと暗誦出来るのである。
彼はその特技を見事に尻取りに応用することを思いついた。そして行き詰まった場面をリズムと笑いで解消したと言うわけである。
そういえば、今から7・8年前、「声に出して読みたい日本語」という著書がベストセラーになり大いに話題になったことがある。それが今実際の教育場面に生かされて来ているのだろう。
日本語の美しい語調とリズムには、意味のわからない子供にでも自然に体得され消化されてゆく不思議な特性が内在されているのかもしれない。
他人事ではない。句会形式が根強く残されている川柳も、やはり朗誦文芸の最たるものであるからには、朗誦して耳に心地よい川柳が望まれていい筈である。
それは単に七五調が日本語のリズムだなどと簡単に片付ける問題ではないだろう。リズムがいいのは五七五ばかりではない。指折り数えるのではなく、このすばらしい日本の言葉のリズムや語感をしっかり自分の中で熟成させているかどうかが問題になって来る。
意味性が伝わらなくても、何かが言葉の中に存在する。この不思議さは何処から来るのだろう。
幼い子供たちの脳内に、自然に素直に体得されてゆく美しい日本語の魔術を目のあたりにして、何かと考えることしきりであった。
この子たちが大人になって意味や情感をしっかり理解できるようになったら、再び、幼い頃にそらんじた美しい詩片や言葉たちを思い出して、きっと感動してくれるだろうと。そしてその言葉の音感は、日本人の心の奥底に泉のように湧き続けていくであろうと。