「米沢有為会会誌」1989年号より

米沢有為会百年のあゆみ

松野 良寅

<目次>

序章

第1章 有為会の誕生――草創期の有為会――

第2章 助走期の有為会

第3章 歴代会長のプロフィル

第4章 充実発展期

5章 米沢有為会事業展望――明治・大正・昭和前期――

6章 戦前・戦中の有為会

第7章 米沢有為会の再建

執筆者略歴(「有為会会誌」1998年より)

(注)本稿は、縦書き原本を「スキャナー読み取り・文字認識」により再現しましたので、誤認識による誤字を含む場合があります。漢数字による表記の多くは算用数字に変換しました。



序章

版籍奉還と上京者たち

戊辰戦争が終息し、幕藩体制が崩れ、明治新政府が誕生する。封建時代の門閥家格も、一応は撤廃される。脱藩という大袈裟な手段に訴えなくとも、自由に藩領を離れ、その人の器量と抱負に応じて、就業の場を広く領外に求めることができるようになった。

この新しい時代の転換期を迎えて、米沢の中堅少壮の旧藩士やその子弟たちは、新政府諸機関への登用や教育機関への進学の機会をうかがっていた。

明治2年当時、米沢藩15万石の家臣団(士族)6,700余人で、33万石の秋田・福井両藩より多く、46万石の福岡藩に匹敵する数であった。従って、狭隘な父祖の地を離れ、自立して1日も早く生業に就くことを願い、上京して進路を模索する者の数も、次第に増えていった。

 

政府諸機関への登用者たち

米沢藩公用人の小川源太郎が、宮島誠一郎の案内で勝海舟邸を尋ねたのが、明治226日のことである。米沢の国政改革の手順について、識者海舟に諮り助言を仰ぐためであった。

この頃、版籍奉還をめぐり、藩の要人の間では天下の形勢上止むを得ぬとする者、時期尚早を主張する者等々議論が沸騰し、藩論がなかなか統一できなかった。ついには、謹慎中の雲井龍雄にその可否を下問するありさまであった。が、結局、勝の助言や宮島の進言を容れて、617日、藩主上杉茂憲は、版籍を奉還して新政府の傘下に入った。

その結果、藩知事上杉茂憲、大参時毛利安積、権大参事新保新・木滑要人・大瀧新蔵、少参時庄田総五郎・黒井繁邦・三瀦清蔵・片山仁一郎・堀尾重興ら以下370名の吏員が選任される。

戊辰戦争の時、越後戦線で参謀として同盟軍の指揮を執り、その勇名が官軍側にもとどろいていた甘糟継成は、明治23月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸で情勢の推移を見守っていた。つい最近まで、その首に500両の懸賞までかけられていた甘糟にとっては、まだまだ敵地にしやいる思いであった。国許ではかねてより継成に親炙していた雲井龍雄が、探索方・貢士(藩代表の評議員)として京都に滞在していた時以来、親交のあった土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、甘糟の新政府出仕の意向を伝え、その斡旋方を懇請していた。

その間甘糟は、政府要人の間を往来して情報収集に奔走していた宮島の手引きで、後藤象二郎や勝海舟らにも会って意向を打診したり、今後の見通しについて意見を聞いたりしている。海舟が、米沢人に好感を持ったのはこのころであった。

また、藩費による英学の東京勤学を認められた平田東助・内村良蔵・曽根俊虎ら後進の修学の道を開くため、甘糟は慶応義塾の英学教授吉田賢輔に依頼して英学指導を要請したり、吉田を介して福沢諭吉や小幡篤次郎らとの交遊を深めたりしていた。当時上杉茂憲の側役として麻布邸に起居していた池田成章も、しばしば旧師甘糟と行動を共にし、福沢、小幡らのほかに、イギリス公使館付通訳官A.G.G.シーボルトを初め外国人との知己もできていた。

吉田、福沢、小幡らの啓蒙的な識見にふれ、西洋の学術を学ぶ急務を痛感した甘糟は、4月に入ると14歳の長男竹太郎(鷲郎)を上京させ、吉田の伸介で慶応義塾へ入学させる。

 

政府機関への登用者

甘糟継成は、明治27月、待詔院出仕が決まる。次いで8月、宮島誠一郎・斎藤篤信の待詔院出仕も決定する。

明治39月24日、大参時毛利安積が勝海舟を尋ね、藩土の政府登用方の斡旋を懇請するが、勝の指示により鑪久を使者として国許目録を屈ける。

同年10月に入ると、堀尾重興の民部省出仕をはじめ、司法省へ小田切盛徳(儒者)、兵部省へ小倉信近・山吉盛典・今井直方(和算家)・小森沢長政・下條正雄(桂谷)らの出仕が決まる。

兵部省出仕の小森沢は、やがて海軍省が独立すると、薩閥の重鎮川村純義や西郷従道の下で駿足をのばし、同郷の古海長義(海軍主計少監)門屋道四郎(千坂高雅の弟・海軍大尉)らと協力して、米沢出身者の後見人として、同郷人の海軍進出の基盤を築くことになる。

 

勤学生の上京

明治28月、《大学校》が発足して、「開成学校」と「医学校」がその分局となると、内村良蔵と平田東助は開成学校へ、樫村清徳は医掌校に進み、12月に開成学校が「大学南校」、医学校が「犬学東校」とそれぞれ改称されると、彼らは《大学》の職員として採用される。そして明治3年以降になると、彼らといっしょに、渡辺洪基から米沢で英学の手解きを受けた有壁精一郎・堀内亮之輔・三潴謙三・高橋秀松・草刈義哉・海瀬敏行らが大学東校へ進学してくる。彼らは後日、陸海軍の軍医として活躍する。

明治38月、大学南校の貢進生制度が布達されると、米択藩からは、北村精一郎(弘前裁判所検事)と甘糟鷲郎の2名が選ばれる。

明治47月、《大学〉が廃止されて《文部省》が設置される。そして9月になると、南校・東校が一時閉鎖されて、貢進生は全員退校を命じられる。各藩から推薦された生徒の能力差が著しかったため、生徒を精選して修学に耐え得る者のみを再入学させる便法としてとられた措置であった。10月に入り、両校は再開される。貢進生の一人甘糟鷲郎は、南校が第一大掌区第一番中学と改称された明治58月には、杉浦重剛・三浦(鳩山)和夫・小村寿太郎らと肩をならべてその俊秀ぶりを発揮し、同校卒業後、大阪外国語学校教諭に就任する。

明治311月、政府の要請により、米沢藩庁では門屋道四郎・高津精二郎・山口源之助・大瀧龍蔵・山本勘六・小坂長二郎ら6名に、大阪の兵学寮における陸軍勤学を命じる。この兵掌寮はやがて東京に移されて陸軍兵学寮と改称されるが、門屋・高津・大瀧らはこの時海軍に転じ、門屋は海軍少尉に任官の上海軍兵学寮の教官となり、高津と大瀧は海軍兵学寮の生徒として入寮する。

一方、山宮吉次郎のように、大阪兵学寮の勤学を命じられながらも、自費で東京における英学修業を願い出て許可されたり、島熊太郎のように、陸軍兵学寮勤学の間に数学を専修し、その後退寮して明治7年発足の米沢中学の数学教師として奉職、米沢における洋算の先駆者となる者もいた。

このように、陸海軍の学校も発足当初は、「護国」の任につく陸海軍の将校・士官の養成所という確固たる方針の下に、忠勇の士が集まったわけではなく、まだ「おらが藩」という狭い国家意識が残っていた。

過剰士族を抱える貧乏藩の米沢にとって、「国のため」という大義名分が立ち、「官費修学」という恩典のある陸海軍の学校の誕生は、まさに降ってわいたような僥倖であった。米沢の二、三男の俊秀が目指したのは、勝海舟の勧誘もあって、海軍兵学寮()であった。明治4年以降145五年ころまでの10間に、海軍に入った主な人物を上げれば、馬場新八(造船少佐)、石原忠俊(少佐)、下條於菟丸(機関少将)、山下源太郎(大将)、釜屋忠道(中将)、上泉徳弥(中将)、黒井悌次郎(大将)、千坂智次郎(中将)、釜屋六郎(中将)、入沢敏雄(中将)、井内金太郎(少将)らがいる。海軍大書記官小森沢長政の下にこれらの同郷人が結束して、〈海軍王国米沢〉の基盤を築いて行くのである。

明治4年に興譲館構内に洋学舎が設立され、さらに同年9月、興譲館の組織が改められた時に、皇学・洋学・医学・筆学・数学の五科が設置された。洋学科と皇学科には旧制の諸生に相当する定詰勤学生がおかれ、その中の俊秀が東京方面の学校へ進学している。香坂季太郎(造船大監)、屋代伝(鉄道技師)らは工部大学へ、山田行元(文部省視学官)は横浜修文館へ、北條元利は明治協会学院へ、黒井小源太、山下新力らは東京師範学校へ、宇佐美駿太郎・香坂駒太郎・加勢春吉・山崎新太郎らは慶応義塾へ、といった具合に、主として長男か養家の嗣子の人たちである。このころから「長男は師範学校、二、三男は陸海軍」という進路のパターンが自然に生まれてくる。

また藩医の三男として生まれた吾妻健三郎のように、独学で身を立てようと、親戚縁者から贈られた32分の饒別金をふところに上京し、海軍兵学寮の試験に失敗し、明治73月に開成学校構内に製練工作の速成コースとして設置された「製作学教場」に入り、銅版による美術印刷の東陽堂を創設、印刷業界の雄として『風俗画報』等の歴史に残る事業に成功した人物もいる。

 

上杉家の東京移住

戊辰戦争の終息、版籍奉還、廃藩置県と一連の封建幕藩体制崩壌の過程で、藩の体質が急速に変わって行った。格式門閥にしがみついて藩の要職にあった大身たちは、明治の文明開化の時代が到来し、もはや施政者としての権威も気力も失ってしまっていた。この新旧交替の時期に、米沢の指導的役割を果たしたのが、宮島誠一郎ら中級藩士である。

幸いなことに、米沢の場合、藩体制が崩れたとはいえ最後の藩主上杉茂憲と旧藩士との協力体制は、時代の推移に並行していい意味で連綿とつづいた。そこには身分格式を越えた、人間としての同郷人意識が働いていた。

慶応3年、26歳で国家老に抜擢され、戊辰戦争では米沢軍の総督に推挙された千坂高雅は、保守的な大身のなかではまさに異端児で、進歩的な考えの持ち主であった。当時弱冠19歳の平田東助の建言を容れ、英学を通して大いに西洋の学術文化を採りいれようと、藩費による東京遊学の道を復活するなど、敗北藩とはいえ、その最高責任者としての雅量と先見の明は、米沢再興の大きな踏み石となった。

この高雅は「千坂ありて上杉在り、上杉ありて千坂在り」という千坂家先祖の遺訓を忠実に実行した。戦争責任を一身に担い上杉家をかばい、米沢の前途を思う高雅の誠意は、従来の藩体制に対する若い批判勢力の結集につながった。

上杉茂憲は、敗戦後藩主の座についた明治元年には25歳、同世代の千坂高雅や宮島誠一郎、小森沢長政らに期待をかけるのも当然である。

明治4年に廃藩置県が実施されると、上杉家は東京へ移住する。その折君臣離別の記念として、年来の蓄積をあげて旧士族に分け与えている。つまり2戸につき10両の金と籾3俵ずつを与え、さらに士族一般にたいして金穀山林の処分代金17万両と籾10万俵とを与えている。この資金を基に、旧士族により結社されたのが義社である。

一方、興譲館の将釆についても配慮を忘れず、その運営資金として2万5千両を寄付し、明治7年に学館が旧士族協立の中学校として発足する時に、この学校資金の管理を義社に委ねている。その後も、上杉家からの教育資金の寄付や補肋金の支出がつづけられた。

このようを旧藩主の気配りは、いったいどこから生まれたのだろうか。「人民は国家のための人民」であり「君主は人民のための君主」と説く上杉鷹山の《一伝国の辞》の精神が、茂憲に継承されていたからにほかならない。

茂憲は開明思想の持ち主で、封建時代の「米沢藩」という意識から逸早く脱却して、広い「日本国」に奉仕できる人材の誕生に期待をかけていた。「米沢藩」の人材養成に努めた鷹山時代と大きく異なる点がそこにある。そのため、格式や身分の貴賎にかかわらず、人間としてその能力適性に応じた発展を望み、教育を受ける機会を極力広範に与えようという意識が常に働いていた。それは、藩主として、領民に仁政を施すという封建君主の愛情とは異質の、同郷人としての相互扶助の精神である。従って、旧家臣団も旧主家の家政を助け、旧藩主の意向をうけて旧藩領の人たちの善導に尽しながら、個人としても国家の有為の材として旧主の期待に応えようと努めたのである。

米沢教育会の誕生

明治145月、上杉茂憲は第2代沖縄県令に任命される。当時上杉家の相談人は宮島誠一郎・小森沢長政・中條政恒・小田切盛徳・森長義らであったが、海軍省で枢要な地位にあった小森沢が中心となり、旧主の県令就任を祝い3か条の赤誠あふれる献議書を贈り、特に、金のことは心配することなく「沖縄県民の教育には金を惜しまぬこと」を要望した。

茂憲に随行した同郷の役人には、書記官の池田成章をはじめ大瀧龍蔵・大瀧新十郎ら有力な補佐役がいた。県令在任2年、沖縄全島の視察をはじめ、県費による第1回東京遊学生を送り出している。この遊学生5人のなかには、沖縄最初の高等官に昇進し、明治25年奈良原繁知事の暴政を批判して、沖縄県民の国政参加運動を展開する自由民権運動家の謝花昇や、琉球新報社をおこしジャーナリストとして活躍する『沖縄県政五十年』の著者太田朝敷らがいる。鷹山の「民の父母」を地で行く慈愛の施政は、今なお沖縄県人の敬慕の的になっている。

明治16820日、在京米沢人の有志が、旧主の元老院議官就任を祝って祝宴を催した。この返礼として茂憲は、在京の米沢人23名を招き枕橋八百松楼において懇語会を開いているが、その席には、宮島・小森沢・千坂・池田(成章)ら相談人にまじり、海軍機関学校生徒・入沢敏雄や宮内出身の医学生・船山道誠(蘭方医・長沼太仲の孫)ら新しい顔ぶれもまじっていた。

県費留学生派遣を置土産に沖縄を去り帰京した茂憲は、教育の重要性を切実に感じていた。明治171030日、茂憲は、相談人の干坂高雅・中條政恒・宮島誠一郎・小田切盛徳・小森沢長政・池田成章らのほかに、特に東京外国語学校長内村良蔵と文部一等属の山田行元を招き、米沢出身の子弟に対する大学修学奨学金の件で協議を依頼した。上杉家より年額1千円を支出して毎年2名程度修学させようという腹案であった。

なお、この教育資金支出についてその趣冒を誤解されないようにとの配慮から、茂憲は次のようなメモを相談人ら協議者に手渡している。

 

抑米沢は祖先以来積年相親しみ来候人民なれば、その地を離るるの今日に至りても猶その善を見て喜びその悪を聞て憂ふるの切なるは止むを得ざる人情なり。我等従来その子弟を教育し国家有用の人材を養成せんと欲する久し、未だその事を果さず。今回些少の学資を捐(す)てその素志を果さんとす。今後米沢の青年有志者にして目今(もっこん)政府専ら奨励せられ官費生を養成する各学校及その他官立学校へ入校せんとするもその志を遂がたき者あらば、志願により之を試験しその優等合格且品行端正なる者を選抜養成する所あらんとす。然れども若しその法宜しきを得ざれば或はその教育を誤まらんことを恐る。

希くば有志諸士に於て旧来の微志を諒察し熟議を遂げ方法規則を編成して示されんことを。

(『上杉家御年譜21)

 

相談人らには全く異論なく、規制編成委員として、内村良蔵、山田行元、丸山孝一郎が選ばれた。

この上杉家支出の奨学金について、米沢の有志からも醵金を募り、上杉家出資分と合併して団体を組織しては、との意見も出され、その後種々検討が進められた結果、東京・米沢合併の組織にする案がまとまった。上杉家からは、毎年1千円、10年間計1万円の出資が了承され、明治18616日「米沢教育会会則」が決まり《米沢教育会》が発足する。

同郷後進の育英を積極的に推進した茂憲は、一方では、安積開拓に命をかけていたかつての学友中條政恒の東北開拓社にも、その趣旨に賛同して俸給より毎月5百円を送金している。旧藩主対旧家臣のつきあいではなく、親友としての友情に近いものを感じさえする。

中條政恒は、明治5年福島県典事として赴任以来、安積開拓に精根を傾け、政府の士族授産計画促進に貢献、さらに安積疎水事業計画にも参画して大いに業績を上げていたが、疎水完成直前に太政官少書記官に転任を命じられた。この左遷にも近い異動は、中條の功業を羨望した県令山吉盛典の讒言によるものであった。上杉茂憲が元老院議官当時、太政官勤務の中條は、若い同郷後進を自宅に集め、蝦夷地開拓に情熱を燃した思い出を語り、学問の意義と、同郷人の結束、親睦の必要性をじゅんじゅんと説いた。

政恒の孫宮本百合子は、「明治のランプ」という小品のなかで、こう書いてある。

 

二人の祖母たちは、それぞれ祖父(*中條政恒・西村茂樹)とともに波潤の多い維新から明治への生活のうつり変りを経験したのであるが、父かたの祖父は米沢藩で、後には役人をして晩年福島県の開成山で終った。地位としては大した役人ではなかった様子であるが、この中條政恒という人の畢生の希望と事業とは所謂開発のこと、即ち開墾事業で、まだ藩があった頃、北海道開発の案を藩に建議したところ若年の身で分に過ぎたる考えとして叱られた。その北海道へ手をつけていた某華族は、明治に入ってから厖大な財源を持つことになったのを見て政恒は、俺の云うことをきいておれば上杉家は大金持ちになったのに、と云った由……

政恒という人は所謂乾分(こぶん)はつくらなかった。然し有望な青年たちの教育ということには深い関心をもって一種の塾のようなものを持っていたことがあり、そこに長男であった父精一郎はじめ、何人かの青年が暮らした。伊東忠太博士、池田成彬、後藤新平、平田東助らの青年時代、明治のあけぼのの思い出の一節はその塾にもつながっていたらしい話である……

(『宮本百合子選集』第12巻 新日本出版社)

 

この中條塾の伸間には、やがてそれぞれの分野に雄飛する平田東助・伊東忠太・池田成彬・中條精一郎らのほかにも、米沢新聞社を創設した高野義雄などもいたし、同郷の青年が遠く故郷を離れて、情熱の士中條政恒を父と慕って集まっていたことは想像に難くない。そして青雲の志に燃える彼らは、明治の曙の時代を希望と不安のなかで送りながら、機が熟するや《米沢教育会》の趣旨と中條塾の薫陶を生かして、同郷人の親睦を旨とする《有為会》の結成を発起する

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第1章 有為会の誕生――草創期の有為会――

伊東忠太の上京修学

伊東忠太の祖父伊東昇迪祐直はシーボルトに師事した蘭方医であった。父の祐順も、長崎海軍伝習教師団の一員として来日した、オランダの海軍軍医ポンペについて医学を修めた医者であった。祐順の弟が、8歳の時、藩医平田亮伯の養子となった平田東助である。

祐順は、戊辰戦争時には越後戦線において医療活動に従事し、戦争後は、開業医として父の昇迪を手伝って米沢にいたが、明治47月、兵部省に軍医養成の軍医寮が設置されると、志願して陸軍軍医試補として採用される。

そのころ、長男の祐彦と二男の忠太は、童生として興譲館に通っていた。祖父の昇迪は、幼い祐彦と忠太の将来の教育のことを考え、二人を上京させ、当時四谷仲町に住んでいた父祐順と起居を共にさせ、東京で教育を受けさせることにした。明治6年、8歳の祐彦と6歳の忠太は、祖母と祖母の弟(山下右衛門)に伴われて上京した。途中は人足に背負われたり、駄馬に乗ったり、さらに乗合船で川を下ったりしなから10日かかつて東京に着いた。

明治121月、祐順が佐倉の連隊に転属になるまでは東京の小学校で修学し、佐倉に移ってからは佐倉の鹿山中学校に入学する。

忠太には『忠太自画伝』という、生い立ちから東京の小学校を経て佐倉の中学校を卒業するころまでの生活を、絵と短文で綴った絵日記風の自伝がある。そこには忠太の特異な個性――鋭い観察力、ユーモア、好奇心――がよく現われている。

 

私は又彫塑もやった。近所から粘土を取って来て、夫(それ)で人形だの動物だのを盛んにこしらえた。着物でも何でも粘土で汚すので、これには母が毎々閉口していた。大福餅や饅頭などを貰ふと、よくその皮を丸めて何かの形をこしらえては笑はれた。

(『忠太自画伝』)

 

佐倉で「続(つづき)塾」という漢学塾に通っていた頃、忠太は「狐狸の説」と題して作文を書き、先生に激賞されたことがあった。机に向かって熱心に執筆中の自分の姿を描き「誉めることの嫌ひな父も、こればかりは誉めちぎった」と、さも得意げに語っている。この父が、ある日将来の抱負について忠太に質した。忠太が「美術家になりたい」と答えると、父は威儀を正して座り直してこう言った。

 

萄(いやしく)も男児たるものが国家の為に竭(つくす)ことを考えずに、美術家になろうとは腋甲斐ない料簡である。美術などは士人のなすべきものではない。それは所謂末技と云うものだ。

 

この父の意見こそ忠太には腋に落ちなかった。封建時代以来の儒教道徳観から一歩も出ない堅物の父にたいして、やがて忠太は、物足りなさを感じ始める。そして謹言実直な叔父平田東助にも親愛感がわかず、むしろ違和感すら覚え始め、一見奔放とも思われる叔父の友人・内村良蔵の考え方に傾倒していくようになる。

伊東忠太が佐倉から東京に帰ったのは、明治14年、15歳の時で、この年東京外国語学校に入学する。まもなく両親は米沢に引き上げるので、東大医掌部学生の祐彦と忠太の兄弟は、叔父の平田東助方に書生のような形で寄留し、その厳格な監督下にそれぞれの学校へ通学する。

東京外国語学校入学については、叔父東助の勧めにしたがったもので、ドイツ留学を終えて帰朝した平田は、完全なドイツ心酔者になっていた。「学問はドイツ」「芸術はフランス」これが東助の持論であり、そしてドイツ語を学ぶことが学間の第一歩、と忠太が説得きれた結果であった。忠太が第5学年に進級した時、東京外国語学校の廃止が決まり、忠太ら布学生は、第一高等中学校の予科に編入される。この忠太の修学の間に、序章でふれた中條政恒の塾において、在京の同郷人にまじって忠太も政恒の薫陶を受けるのである。忠太と同じ年の池田成彬は、その頃、英学塾進文舎で坪内逍遥や高田早苗らから学び、共立学舎では高橋是清にスウィントンの万国史などを習いながら、専ら英語力の増強に勉めていた。

忠太が東京外国語掌校に在学中は、内村良蔵が校長をつとめていた。内村の妻・末子は平田東助の妹であった関係から、内村は始終平田家とは往来し、忠太もまた、内村家へは頻繁に出入れしていた。その性格が豪放嘉落(らいらく)で、忠太にとっては、謹厳な叔父に比べて、内村の方がはるかに親しみが感じられた。また内村の養嗣子達次郎(工科大学で機械学を専攻、特許弁理士。良蔵・末子の娘政子と結婚、内村家を継ぐ)とは同年輩であったこともあり、意気投合して兄弟同然の親しい友人であった。それで内村も、実の子のようにして忠太のよき相談役をつとめたわけである。忠太は、明治23年、東京帝国大学に入学するが、その専門学科の選定について内村は、次のようなアドバイスを与えている。

 

大学でいちばん屑は、文科と法科だ-…今にみろ、法学士の巡査や文学士の門番が続々出てくるから。あんなものになるなよ。一番お前に適しているのは工科の方面だ。噂によれば工部大学校がなくなり東京大学に併合されて新たに工芸学部が新設されるという話もあるが、どっちみちその方へ進むがよい。お前は手が器用だから食ひはぐれはないだろう。これからの世の中は、何か身に一芸がなければ駄目だ。法科や文科は芸なしのくせにただ理屈ばかり並べをって面白くない。手で仕事をできるものは、いざといふとき決して食ひはぐれがなくていいぞ。

(岸田日出刀『建築学者伊東忠太』)

 

先輩内村の意見もさることながら、少年時代に美術家を憧れた忠太は、工科大学の各科のうちで、天分を生かせる芸術的要素を持つ学科を選ぶつもりでいた。そこで《建築〉という学科の存在に気づくと、固い覚悟のもとに「造家学専攻」を決めたのである。祐彦がすでに医科大学へ入っていたので、父の祐順も忠太の造家学科志望については異存がなかった。

 

同郷学生の結集

伊東忠太が第一高等中学(一高)時代、同校に在学していた同郷人には、伊東祐彦、内村達次郎、長谷部源治郎、小田切(鳥山)南寿次郎、宇佐美勝夫、宮島幹之助、伊東(村井)三雄蔵らがいた。彼らは、伊東忠太の発起で、本郷森川町空橋の鈴木方で合宿のような生活を送っていた。忠太は、この約5年間を「空橋時代」と名付け「芋の子を洗うが如き始末」と回想しているが、当時の宇佐美勝夫の思い出を、次のような軽妙なタッチで描いている。

 

君は在宿中は随分よく勉強された。夜半も過ぎ人も寝鎮まった頃、君はよくほの暗い石油ランプの下で身動きをせず勉強しておられる様子であるので、誠にその動静を窺って見ると、これはしたり、君はよい気持ちですやすや居眠りして甘夢を貧って御座るのである。しかしある時は、突如として軒(かん)声雷の如く四囲の連中を驚かしたものである…

(『宇佐美勝夫氏追悼録』)

 

この空橋合宿所には、いわば「自己紹介簿」とでも云うべき帳簿が備えてあり、入宿者の生年月日、性格、趣味、隠し芸、崇拝する先哲、将来の抱負等々10数か所の記入欄に、自由に書き込む方式になっていた。宇佐美はこの紹介簿の末尾に筆太に「やって見度き事は治国平天下の事業」と書いていた。一同はこれを見て唖然としたが、御本人は会心の笑みを漏らして満座を見回したという。

このような雰囲気の中で、青雲の志に燃える同郷の若者たちが、遠く親許を離れ、立身の道を求めて多くの人たちが蝟集する東京という広い社会を見て、同郷人としてお互いが助け合って親睦を深める必要を、痛感したことであろう。

 

有為会の誕生

同世代の有志が集まって、何かを企て実行に移す時には、いつも口火を切り、先頭に立つ人間がいるものである。伊東忠太は、その性格気性からいって、兄の祐彦、弟の三雄蔵が側にいる気強さもあったろうが、この合宿所の運営も、伊東忠太がイニシアティヴを握っていた。「在京の同郷人に呼びかけて親睦団体を作ろう」という発想も、伊東の提案でこの合宿所で固まった。内村達次郎、小田切(鳥山)南寿次郎、長谷部源治郎、宮島幹之助それに弟の三雄蔵の5人の合意を得て、在京同郷の先輩後輩にも広く呼びかける準傭が進められた。そして、明治221123日の神嘗(かんなめ)祭当日、伊東ら6人が発起人となり、郷土愛を土台に、相互の親睦と切瑳琢磨を目的とし、共存共栄を計る同郷人の団体結成が具体化された。これが《有為会》誕生のいきさつである。

同年1214日発行の『有為会雑誌』第1号の巻頭言の中で、伊東忠太は有為会の目的を「幸福の二字」とうたいこう書いている。

 

凡そ吾人人生最後の目的は、蓋(けだし)幸福の二字にあり、而して、之を得るの基礎たるものは即ち学術及び思想にして、吾人の寝食を忘れて苦学する所以のものは実に之を得んと欲するに外ならず、余等は同郷諸士と共に、この道を求め、緩急相応じ、苦楽相分ち、相率いて、将来の幸福を享けんことを希望するものにして、本会の主意、実に此処にあり。

 

掌術思想の切磋が「幸福」を求める最後の手段に外ならず、しかも「長短相償い相研磨する」という理念の下に、《有為会》と名を定め、伊東忠太以下6名の発起人は、「会誌の発行、会則の設定、会員(会費月額5銭の通常会員・10銭以上の賛成会員)の分類、事務所の設置(本郷森川町鈴木方)、幹事(伊東忠太・内村達次郎)の任命」等々の方針を決めて、いよいよ活動を開始する。

明治231月、欧遊館における集会の席上で同志の加入を懇請したが、発起人の熱意と気迫に賛同者が相継ぎ、その場で芹沢孝太郎、浅間新五郎、小林源蔵、黒金泰三、森正隆、山崎哲蔵、脇本鍋松、下平泰三、宇佐美大助等9名の会員加入を見た。

有為会会則第4条には「今回雑誌欄ヲ分チテ論説・雑録・寄書・批評・小説・文苑及会報ノ七トス」とあり、第13条には「会員ハ随意二投稿スルヲ得」とある。『有為会雑誌』第2号には、入会草々の脇本鍋松の論説「藩閥と自治」、森正隆(法科大学生)の「米沢ニ人物ノ輩出セサル源由ヲ論ス」のほか、芹沢孝太郎、山崎哲蔵らが投稿するという積極的な会員の意欲が見られる。つまり発足早々より、会員の情熱の発散の場として、この『有為会雑誌』はその機能を遺憾なく発揮している。

また同誌掲載の賛成会員19名の中には、上杉熊松、丸山孝一郎、芹沢政温、大瀧新十郎、小倉信近、吾妻健三郎等の名前も見え、通常会員は54名となっている。発会からわずか2か月程度で、有為会は順調な滑り出しを見せた。

『有為会雑誌』第4号の「会報」欄には、4月3日神武天皇祭当日開催された飛島山運動会の記録が載っているが

「所は雷名籍(せき)々絶無稀有の勝地なり。候は百花爛漫一刻千金の佳節なり、而して時は是れ金甌無欠宇内無比の一帝国設立の当日(神武天皇祭)にて、津々浦々に網引く海士も、二六時中鋤取る農夫も、網を抛(なげう)ち鋤を捨て、濁酒一盃鳴呼目出度きと祝ふ千載一遇の良日なり。本会は此の良日をトして、此の佳節に乗じて、而して此の勝地に於て、第1回運動会を開きたり…」

という気負いに気負った書き出しからも、当時の青年がひとつひとつ実績を積み重ねながら、時代を先導しようという意気込みみたいなものが、ひしひしと迫ってくる。

「………終日の労を慰む酒に丹灘の珍無きも、なお胸塵を濯ふ可く肴に松江の鮮なきも、以て空腹を充たするに足れり。上戸は飲み下戸は食ひ、鯨飲泥酔玉山自ら倒るるもあり………琴瀏亮(りうりょう)能く岫(しう)上の雲を留むるは何所の鹿鴫館か、歌声婉転(えんてん)又樹問の花を落すは何所の女学校か……-

という叙述からは、家族同伴で余興の披露などもあり、春の一日を大いに発散して親睦の実をあげた様子が窺える。美辞麗句の使い方もユーモラスで面白い。現代ならありふれた行事の運動会も、綱引き、競走、相撲にまじり、長跳び(走幅跳び)、高跳び(走高跳び)、竿跳び(棒高跳び)などが実施されたことは、当時としてはなかなかモダンな運動会であったろう。この飛島山大運動会は、現在、東京支部の行事として実施されている家族ぐるみの園遊会の濫觴(らんしょう)である。

明治2389日、米沢中学校において、有志の親睦会をかね発起人会と役員会が開催された。当時の会員名簿には、米沢地区の賛成会員は12名、通常会員が37名を数えている。同年末には、東京・米沢・山形その他の地方会員を合わせ、総計429名の会員数に達して、わずか1年足らずの間に、有為会はいよいよ隆昌の気運に向かっていた。

 

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第2章 助走期の有為会

名称変更と会長制

明治241011日、山崎哲蔵(法科大学卒・上杉家家従)が発起して、九段坂下の玉川亭で、米沢青年有志の集会を開いた。諸学校生徒約30名が参集するなかに、当時法制局部長の平田東助も臨席した。この席上、平田は有為会の幹事、委員の活動を評価し、今後は、米沢の実態講究からはじめて、目的達成の手段・方法について具体的な実行策を検討する必要を指摘した。平田の談語を要約すれば、

(1)愛国心と愛郷心は同根のもので、愛郷心を根本理念とする有為会の目的は、日本国民の一員として大賛成である。

(2)とかく集会というものは、「朝に起きて夕べに仆(たお)る」の傾向がある。有為会入会に応諾の即答を避けたのも、発起者・役員・委員らの計画と熱意がどれだけ継続性のあるものか観察するためであった。が、その情熱、会務の整備、新入会員の着実な増加等々、有為会の永続性を確信できる現状は、郷土のため、国家のため誠に慶賀に堪えない。

(3)米沢の福利を目的とする有為会が、今後講究すべき課題は、その目的達成の方法・手段である。

(4)米沢の福利増進を考える前に、@米沢の地理的状況 A米沢の歴史的考察 B米沢の全国的な関係と立場を、熟知することが先決である。

@については、地勢がけわしく、水利が悪く、山岳に囲鐃されていて、四通八達の地とすることは不可能である。

Aについては、300年来養成きれてきた自重朴直の風を最上の美徳と考え、有為活発な人材が出ればその頭角を現す機会を制し、質朴の風習から着実性が生まれたとはいえ、米沢人気質には機敏活発さが欠ける嫌いがある。

Bについては、全国的に見れば、米沢は交通が不便で、勇往敢行の気性・開明度・産業の発達の点で、他の地方より遅れている。

(5)地理的条件、人情風俗は容易にその改善が望めない。一国一郷を問わず、社会生活の基礎となるものは、教育と経済である。現在並びに将来において、全国的な米沢の地位を維持し福利を図るためには、まず米沢の教育と経済とを、同一の方針のもとに前進させる必要がある。この問題は非常に重大であるが、役員・委員の方々が取るべき方法・手段の講究を進めれば、有為会の目的達成の道は開けて来るであろう。多忙な身ではあるが、私も、その溝究の労を惜しむものではない。

 

米沢の福利の実地問題――教育と経済――検討は有為会に依託されたが、有為会の役員にとっては、平田のような有力な支援者が現われたことは、誠に頼もしいことであった。

明治2588日、有為会第2回総会が米沢市で開催された。山崎哲蔵を議長に、幹事の下平泰三が会則の修正案を提出した。その結果、第1条が「本会は米沢有為会と名付く」と名称が変更され、第11条の役員が「会長1名、常議員10、幹事4名、会計監査2名」と修正され、新たに会長制を採り入れることになったが、通則では「当分これを欠く」とし、常議員を置いて執行機関とすることが決められた。

明治31814日の第8回総会において、会長選挙が行われ、千坂高雅・小倉信近・芹沢政温・平田東助の4候補者の中から、43票を獲得した千坂高稚が、初代会長に当選する。

在京同郷人の親睦を目的にかかげて、若い学生たちが発起して《有為会〉が誕生、それ以来、全国津々浦々から果ては海外にも会員がいる盛況を見るに至るが、文字どおり「教育は百年の計」という自覚にたって、先輩たちも共鳴参加し、同郷人の親睦団体として成長する明治31年までは、やがて在京学生にたいする経済支援へと踏み切る準備期間、いわば、米沢有為会の《助走期〉と言えるであろう。

 

時代相の影響

明治25年から同31年までの約5年間は、大日本帝国憲法、教育勅語の発布の後をうけ、鹿嶋館に象徴された欧化主義に対する反動として、「忠孝」を核とした儒教的徳目を基に「忠君愛国」が究極の国民道徳として定着を見る時期であった。教育勅語が国民のあいだに浸透し、天皇制の精神的、道徳的支柱として確固不抜のものとなり、やがて国家主義と結びつき、天皇中心の中央集権国家として富国強兵政策が強力に推し進められる。そして、維新直後の征韓論以来くすぶり続けていた、朝鮮に対する明治政府の侵略政策が日清戦争の勃発につながり、日本の軍国化に拍車をかけることになる。このような傾向は、陰に陽に米沢有為会の諸活動の中にも影響を見せてくる。

私立米沢中掌校は、『米沢有為会雑誌』第30号に次のような広告を掲載した。

 

本校資金ヲ増殖シテ資格ヲ得ント欲スルコト久シ。本県ノ県会ハ本校ノ請願ヲ賛シ7ヵ年間2,3万円ヲ補助スルコトヲ議決ス。其不足ヲ地方ヨリ募集シテ近ク資格ヲ得ルコトヲ企画セリ。

右米沢人諸君ニ告グ。

明治2512

私立米沢中学校

 

当時私立であった米沢中学には、山形中学のような尋常中学校が有する資格がなかった。つまり

(1)卒業生は、普通文官試験を受けずに判任見習生になることが出来る。

(2)卒業生は入学試験を受けずに、区域内高等中学校予科(第二高等中学校)・高等商業学校・東京工業学校・東京音楽字校に入学することが出来る。

(3)卒業生は陸軍士官候補生になることが出来る。

(4)卒業生は陸軍1年志願兵になることが出来る。

(5)1ケ年以上の課程を終了した生徒は、8ケ年以内徴兵の猶予を受けることが出来る。

特に、(2)と(5)の条件を充たさないことが、米沢中学が敬遠される大きな理由であった。私立中学の場合、県立同様の資格を得るためには、固定収人として年間凡そ4千円が必須の条件であり、そして確実に4千円の収入を得るためには、8万円程度の基金が必要であった。それで、士族会はじめ学校関係者は、1市3郡の有志に呼びかけて募金活動に入る一方、県当局には米沢選出の県会議員を中心に、補助金の支出を要請する運動を展開する。有為会としても、この米沢中学の資格取得が緊要なことを認識し、募金活動に全面的な協力態勢をしくことになる。

秋山武三郎は、明治19年、米沢中掌校が《中学校令〉準拠の5年制中学校として発足した年の入学生である。そして米沢中学を卒業後、山形中学に編入学するが、編入希望者10数名のなかで最高点で5年生編入を認められている。当時山形中学校における米沢・置賜3郡出身の生徒数は、39(米沢市25名、東置賜8名、西置賜15名、南置賜1)で、山形中学全生徒数の6分の1に相当する。

『米沢有為会雑誌』第49号付録には、明治2710月現在の会員名簿が掲載されているが、その「山形部」に結城豊太郎はじめ山形尋常中学校生徒が27(明治31年の名簿では18)掲載されている。このような実情からも、米沢中学関係者ばかりではなく、すでに東京帝大や第一高等中学校、専門学校等に入学、あるいはそこを卒業して社会人となっている在京の先輩たちが、憂慮する気持ちも解るのである。

明治263月、同年より32年まで7年間約3万円(1年当り4千円で、当時の米沢中学1年間の経常費に相当する額)を補助する旨県当局より指令が出る。この補助の目的は、明治26年から32年の間に、経常および臨時の経費を浮かし、専ら学校設立者に基金の蓄積を計らせようとしたものである。学校設立者の当初の計画では、この期間内に基金を募集して、明治32年度末までに基本財産8万円を造成し、33年度以降は、この基金の利子4千円と授業料で学校の維持運営を計る方針であった。

県費補助の指令を受けた設立者は、協議の結果、学校を県知事の管理に委ね《尋常中学校》の認可を申請することにした。明治26525日、この請願が容れられ、校名を《米沢尋常中学校》と改め、新たに校則を制定し、古藤伝之丞が臨時校長事務取扱を命じられた。同年65日、旧久留米藩出身の坂田伝蔵が校長に任命される。坂田伝蔵は、会津日新館が尋常中学と同資格になった時に、高等師範学校長山川浩(旧会津藩家老)が、その校長候補に挙げたが実現せず、高梨源五郎と山崎新太郎の奔走が奏効し、杉浦重剛の推薦で米沢中学校長としての赴任が決まったのである。

坂田校長が赴任して間もない83日、米沢中学校第1回の卒業式が挙行された。卒業生は藤巻卯三郎・島津三郎・清水新蔵の3名。明治19年以来26年まで7年間の在校生は、166173174227228165193名と、各年次いずれも100名を上回っていたが、卒業生の総数は17名に過ぎなかった。

校舎の増改築工事が竣工し、1112日に落成式が挙行された時、坂田校長はその祝辞の中で、「鳴乎成跡なきの極、一に何ぞ此に至るや。之れ他なし、本校1級2級に進みたる生徒には、或は勧告し、或は学資を貸与し、以て海陸軍の学校・高等中学校・大学・種々の高等学校に慫慂(しょうよう)遊学せしめたるによるなり。然りと難も6年の久しき1千以上の生徒を教育し而して僅に17人の卒業生を見る、此一大原因は余を以て見るに、尋常中学の資格なきによると断言せざるを得ず」と慨嘆している。

このような悲しむべき実情を、全国の会員に知らせようと、『有為会雑誌』誌上にも、再三米沢中学の現況や資本金増殖の記事が掲載されている。明治26年の『有為会雑誌』第27号の次の記事は、在京の編集子の複雑な気持ちをよく伝えている。

 

山形県尋常中学校との連絡

今般我が米沢中学校は、山形尋常中学校と連絡を通じ、我が2年を卒業したる者は彼れの3年に、我が4年を卒業したる者は彼れの5年に、仮入学を許すといふ故に、今日の処にては我に4年在校し彼れに1年在校するときは、県立尋常中学卒業生たるの資格を得るなり。是を以てか我が米沢より転じて彼れに移れる者頗るありといふ。これを見て郷人或は慶し或は弔す。吾人は言ふ所を知らざるなり。

 

会員の広がり

「置賜3郡米沢市、一まとめ、揑ねて堅めた有為会コチャ郷里の福利をめどとしてラララ、ラララ」

「僅か3歳で9百人、団結は、押せども突けども動きゃせぬコチャ部会も人数も殖えてくるラララ、ラララ」

(『米沢有為会雑誌』第37号《米沢有為会俗謡》)

 

発会当初から順調に滑り出した米沢有為会は、会の組織が安定し、運営が軌道に乗ってくると、一方では、反省や時には悲観すべき事態も生じてくる。平田東助が杞憂した「朝に起きタベに仆れる」ことはないまでも、この時期の『有為会雑誌』には時折、「会費納入」の督促が目立ってくる。しかし、学生会員が編集の中心になっているせいもあろうが、一般に投稿の種類も多様で、内容も明るく堅実で、真摯な意見が誌面を埋め、中には、堂々たる学術論文もまじっている。

伊東忠太、森正隆、浅見倫太郎、小林源蔵、保科孝一、宮下雄七(河上清一)、宮島幹之助、宇佐美勝夫らの寄稿が特に目を引く。河上清と羽鳥精一の社会主義についての論争などは、まさにその時代の反映を見る思いであり、宮島幹之助の「苹(へい)果樹(林檎)害虫綿虫」についての論文や、伊東忠太の「建築学」に関する論文、保科孝一の「方言」に関する研究などは、学会誌を読んでいる思いさえする。

この時期は、日清戦争の勝利の結果、民衆一般の功名心が軍人に集まり、陸海軍諸学校への志願者がふえた時代でもあったが、この頃、保科孝一は「先輩諸氏及青年諸君に望む」と題しこう書いている。

 

(前略)方今天下の青年一度口を開けば、日く「戦後経営」日く「武備拡張」日く「東洋問題」と。是等素より国家急須の事にして国民たるもの造次顛沛(てんぱい)の間と雖心懐を離るべからざるの件なり。然れ共……-青年の期は是漸く家門を出て笈(きゅう)を負て世路に登りし時のみ、何ぞ将来を徒議する時ならん……只管(ひたすら)蛍雪の幸酸を積み日夜吾が志望を研鎖し以て将来雄飛すべき活力を涵養すべきなり。(中略)海陸軍に従事するを以て遠大の志望を達する唯一の途と思惟するに至りては、角を矯(た)めんと欲して却って牛を殺すの誹を免れざるべく………功名の栄達を期するは決して海陸軍のみに限らず、外交の局に当たるも可なり、財政の任に当たるも可なり、教育の業に従うも可なり、商業又は工業を専らにするも可なり………青年の任務は能く世俗に蝉脱(せんだつ)してひたすら自身が将来に活動すべき勢力を涵養すべく能く着眼を高くして将来の機微を看破し世路の方針を誤らざるにあり………

 

また、生涯米沢の機業家に対し、時には忠告、時には激励を惜しまなかった宇佐美勝夫は、東京帝国大学法科大学在学中の明治28年、「米沢の機業家に告ぐ」(54)と題し、こう述べている。

 

井底に座し天の広狭を論ずる者は天下の至愚なり……の郷は実に榴鉢(ざくろ)的境土なり………この交通不便の地に生息し他に触接する極めて少なきものは、漸く年所を経るに従ひ、遂に己あるを知りて他あるを知らず、独り自ら尊大にし、狭見偏識井底に座して天の広狭を論ずる至愚者たるに了るは免るべからざる自然の理数なり…抑も経済社会の目的は長短相補ひ有無相通じ以て増長止むなきに人慾を充足するにあり、而して各自職業の繁閑盛衰は、一に需要供給の理によりて支配せらるる。「人は人たるべし、我は我たらむ、人の嗜好世の趨勢我の知るところに非ず」となす彼の厭世的孤存独立は、自由競争の経済社に繁栄を期する所以の道とは「柄襲(ぜいさく)」相容れざるものなり(食い違って合わないこと…:米沢機業衰弱の病源少なくとも進歩の遅々たる病源は、機業家の狭識偏見……に在りとせば、吾人はこの病源を根治するの唯一の良薬をして………宇内の大気を以てせんと欲す・…:…第4内国博覧会は、山紫水明美術国の美術郷たる旧都に開かる………我郷里米沢の機業家、云うこと勿れ、旅費は駄目なりと………職業上の観察は必ず大に見聞を広め、直接間接に利益する処決して鮮少にあらざるべく、実にこれ井底を出でて宇内の大気を呼吸するの一方法なることを:……・

 

保科孝一の「時流に付和雷同」を避け将来を看破せよ、という論旨、宇佐美勝夫の「無知による尊大」を反省し、広い心を持てという論旨、いずれも米沢人観がよく顕れている。

明治31年の名簿掲載会員数は1,492名。会長・千坂高雅、常議員・伊東忠太、内村達次郎ら10名、幹事・矢野仁一、吉田熊次ら4名が本部役員として名を連ねている。矢野は26歳、吉田は24歳である。また「東京部」は部長小森沢長政、理事長大瀧八郎、組合長は伊東忠太、黒金泰義、下平泰三、小林源蔵。主任理事に小西重直の名が見え、発足以来約10年、米沢有為会も、世代交代の時期を迎えていた。

 

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第3章 歴代会長のプロフィル

@千坂高雅

A小森沢長政

B平田東助

C山下源太郎

D宇佐美勝夫

E結城豊太郎

F相田岩夫

G宇佐美.

H加藤八郎

I千葉源蔵

J小幡常夫

 

 

初代 千坂高雅1841~1912) 在任 明治3133

江戸家老千坂高明の長男。幕末、朱子学一辺倒の興譲館に持いて、高雅は、諸生・助読・学頭の時代を一貫して「兵書」の指導に務め、《二戸一兵、一兵一銃》の近代装備を建言するなど、天下の趨勢に呼応する藩の体制改革を唱道。慶応3年11月、27歳の時、異例の抜擢で国家老に就任、戊辰戦争中は米沢軍並びに奥羽越列藩同盟の軍務総督として活躍。

版籍奉還後、上杉茂憲が藩知事に任命され、高雅は大参事を命じられたが、再三の勧誘にも固持して受けず、ついに剃髪して官途就任拒否の意思を表明する。

明治5年1月、上杉茂憲に随行して渡英、その間、岩倉具視遣欧使節団一行と逢い、大久保利通の要請でフランス・イタリーの養蚕製糸の状況を視察。帰路アメリカの銀行業の実態を調査して同71月に帰国後、政府より陸軍7等出仕(少将級)の勧誘を受けるが、亡父高明の遺訓「生涯武人たるべからず」を理由に固辞、7等出仕として内務省に入る。

西南戦争時、陸軍中佐兼内務少書記官として出陣、その後石川県令、内務大書記官を経て12年間岡山県令。退官後貴族院議員に勅選され、両羽銀行・横浜水電・横浜倉庫・東京米穀商晶取引所等の重役として実業界で活躍。

 

第2代 小森沢長政(1843~1917)  在任 明治3340

宮島誠一郎の弟で明治4年兵部省に出仕、海軍省が独立すると、海軍卿勝海舟、薩閥の領袖川村純義、西郷従道の下で着実に才量を発揮、明治10年には太政官権大書記官、同11年には海軍大書記官を兼任。

この頃、同郷後進の海軍兵学校入学者が急速に増え、小森沢は、同郷の古海長義、門屋道四郎(千坂高雅の弟)らと協力して、山下源太郎、釜屋忠道、上泉徳弥、黒井悌次郎、釜屋六郎、千坂智次郎ら、後日帝国海軍の重鎮となる兵学校生徒の後見指導に当たり、《海軍王国米沢》の基盤を築く。

以後、軍律改定・職制章程各取調委員を歴任、同18年以降は、軍務局の法規関係業務を担当、第一局軍法課長、海軍刑法・海軍治罪法改正案各取調委員、同31年司法部長を最後に依願免官。

小森沢は、兄宮島誠一郎と共に上杉家相談人として、終始律義に、積極的にその補翼の任を果たした。特に、上杉茂憲が第2代沖縄県令就任に際しては「県氏の撫恤(ぶじゅつ)には金を惜しまぬこと」はじめ3ケ条の献議書を贈り、その改革政治推進に陰ながら貢献、さらに《米沢教育会》の設立、茂憲・憲章父子に協力「上杉家家範」の作成等に尽力、旧藩士民と旧主家上杉家の絆を永遠のものとした功績は大きい。

 

第3代 平田東助(18491925) 在任 明治40〜大正10

米沢を代表する蘭方医・シーボルトの弟子伊東昇迪の次男。

8歳の時藩医平田亮伯の養子となり、興譲館では雲井龍雄と並ぶ俊秀として聞こえ、慶応元年、上京して古賀謹一郎に師事。同2年慶応義塾に入り、戊辰戦争後は、渡辺洪基(初代帝国大挙総長)と樫村清徳について英学を習い、明治25月上京、内村良蔵と共に、上杉麻布邸で慶応義塾の吉田賢輔に英学を学ぶ。その後開成学校に入り、大学南校少舎長、大阪開成学校勤務を経て大舎長に昇進。明治410月、ロシア留学の念願かない岩倉具視遣欧使節一行に随行して渡欧。

ベルリンで青木周蔵と品川弥二郎に逢い、ドイツの文化水準高さ、学術の優秀性を説かれ、急遽留学先をドイツに変更、政治学・国際法・経済商法等を学ぶ。この間、ドイツの《信用組合法》を綿密に調査研究して明治9年に帰国。

太政官に出仕以来、順調に官僚の道を歩み、明治23年貴族院議員、同31年枢密顧問官、次いで桂内閣の時、農商務大臣、内務大臣を歴任、大正6年以降には臨時外交調査会委員、臨時教育会議総裁、同11年伯爵、天皇補佐役の内大臣を没年まで務める。

平田念願の「産業組合法案」は、明治31年山県内閣の法制局長時代に国会を通過するが、これはドイツの「信用組合法」と二宮尊徳の「報徳社」方式をミックスしたもので農民の経済自立、自主経営の組織化の原動力となり、戦後の系統農会と合体して、今日の「農業協同組合」へと発展する。

 

第4代 山下源太郎(18631931) 在任 大正10〜昭和9

上杉藩御馬乗山下新右衛門の二男。明治12年米沢中掌を卒業後海軍兵学校に入り、学術優等・品行善良の両章を受章し、抜群の成績で卒業。

日清戦争時は大尉で、「金剛」「秋津洲」各砲術長として参戦、北清事変では、「笠置」副長として天津方面海軍陸戦隊総指揮官として活躍、功四級金鶉勲章を受章。日露戦争時は大佐で、大本営海軍部参謀として作戦班長を務め、バルチック艦隊が対馬海峡を通過することを予測、日本海海戦を大勝に導いた功績は大きい。功三級金鵠勲章を受章。

明治31年少将進級後、佐世保鎮守府参謀長、海軍軍令部参謀、同42年海軍兵学校長に就任、巨費(27万円)を投じて海軍士官養成機関に相応しい大講堂を建設。

大正2年中将昇進の翌年、海軍軍令部次長、同4年佐世保鎮守府司令長官。同7年大将昇進の9月、連合艦隊司令長官、同959歳の時軍令部長。

大正810月の海軍大演習は、山下連合艦隊司令長官が第1・第2艦隊より成る青軍を指揮し、第3艦隊司令長官の黒井悌次郎中将が赤軍の司令長官として指揮を執り、同郷の先輩・後輩両雄の対決で展開されたが、米沢海軍の栄光を象徴するに相応しい大演習であった。

昭和37月、年齢満限のため後備役編入。男爵。

 

第5代 宇佐美勝夫(18691942) 在任 昭和617

昭和6年、会長に就任した宇佐美勝夫は、62歳、米沢有為会が発足して40余年が経っていた。発会当初、20歳前後の発起者とその伸間たちは、それぞれの分野で、功成り名を揚げていた。

明治14年、東北巡幸の折、明治天皇はその途次興譲小学校に臨幸された。その時勝夫少年は、『日本史略』の「松平楽翁節倹の条」を御前朗読して、褒美に金一封を賜った。勝夫はその感激を分かち合おうと、当時、慶応義塾に在学中の兄駿太郎に、その半分を贈り届けた話は有名である。

明治16年米沢中学に入学、3年の頃東京の中学に編入学、同21年第一高等中学に入学。伊東忠太らと本郷空橋の鈴木方で合宿所のような学生生活を送る。同29年東京帝国大学法科大学を卒業、内務省社寺局に入る。翌30年池田成章の三女よし(成彬の妹)と結婚、徳島県参事官を振り出しに官僚コースを歩み、同4140歳の時に富山県知事に就任。同43年朝鮮統監府参事官として赴任後、朝鮮総督府内務部長官、同済生院長兼土木部長を歴任して朝鮮在留12年、大正105月、東京府知事。大震災後の東京復興に尽瘁後、同14年賞勲局総裁。昭和2年資源局長官、翌年親任官待遇となり正三位勲一等瑞宝章を、同8年には旭日大綬章を受章。その後満州国国務顧問として渡満、翌年貴族院議員に勅選される。

 

第6代 結城豊太郎(18771951) 在任 昭和1824

赤湯出身の結城豊太郎が中学に進学する頃は、山形尋常中学に在校の米沢・置賜3郡出身者は、約40名、全校生徒の6分の1を占めていた。当時、私立米沢中学に徴兵猶予と上級学校進学の資格がなかったためである。

結城は、山形尋常中学を卒業後、第二高等中学校に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、明治36年高橋是清の推薦で日銀に入行。日銀ニューヨーク代理店、京都・名古屋・大阪各支店長を歴任、第1次大戦後の恐慌期に綿布商の整理、銀行の救済などで認められ、42歳で理事に就任。

大正10年、安田財閥の総帥安田善次郎が暴漢に刺殺され、その後任に安田入りを懇請されて、安田保善社専務理事、安田銀行副頭取として安田財閥の中心的人物にのし上がる。東京大学の安田講堂は、善次郎の遺志を続いで結城が建設したものである。

その後安田一族と相容れず、安田を去って昭和3年渡欧、帰国後同5年、日本興業銀行総裁となり、満州事変以後デフレにあえぐ大企業に積極的に融資、興銀は事業金融の中核としての地位を増大させ、財界における発言権を強めた。その問、樺太・王子・富士各製紙会社の合併問題や、5大電力会社の競争調停に奔走、昭和12年林銑十郎内閣の蔵相として入閣、伍堂卓雄商工相とともに、財界人としては初めて経済政策をリード、《軍財抱合の財政》と云われた。

同年7月日銀総裁に就任、同19年まで8年間金融政策の元締めとして活躍。

南陽市の結城記念館は、昭和10年日本興業銀行総裁当時、横浜新子安にあった別荘を現在地に移築、図書館として創建、郷里に寄付したものである。

 

第7代 相田岩夫(18911982) 在任 昭和2438

相田岩夫が米沢中学校を卒業するまで、同校が送り出した卒業生は(興譲館同窓会名簿上では)1,192名に上るが、その約1割は、陸士・海兵など干城養成の学校への進学者で、その中からは、50余名の将軍・提督(少将以上)を輩出している。

このように軍人熱が風塵していた米沢中学から、相田は、第一高等学校へ入学、次いで東京帝国大学法学部に進み、恩賜の銀時計を授賞して卒業、大蔵省に入る。以来官吏として順調な昇進を重ね、理財局長、銀行局長、預金部長官を歴任して昭和17年、普通銀行統制会理事長に就任。

昭和20年終戦直前の5月、日銀理事兼資金統合銀行取締役、共同融資銀行頭取として終戦前夜の困難な金融処理を担当、GHQの公職追放解除後に、日銀監事に復帰する。

昭和24年、日本出版販売株式会杜初代取締役に就任。戦時中の米沢有為会は、会長が結城豊太郎であったが、実質的には香坂昌康副会長の摂政時代であった。この香坂副会長を助け「郷土愛は人間至深至純の本性」「この人間の本性の存する限り、有為会は不滅」という信条で、相田は戦中戦後の混乱期に滅私奔走した。戦争も末期、空襲で有為会関係の書類を一切焼失し、有為会の会合当日空襲に逢い交通機関が止り、やむなく香坂副会長と共に一晩泊りで理事会を開いたり、戦後は、役員会が予定されていた神田の学士会館が進駐軍に接収されて、急遽入口に「会場変更」の張り紙をして日本銀行総裁室で会合したりの苦労を重ねながら、有為会雑誌の復刊をはじめ、有為会の諾機能復活.拡大に貢献した。

 

第8代 宇佐美 洵(19011983) 在任 昭和3850

5代会長宇佐美勝夫の二男。母方の伯父に三井の池田成彬、叔父に三菱の加藤武男が居り、その血縁には恵まれている。大正13年慶応義塾大学卒業後、伯父池田成彬の勧めで三菱銀行に入社。昭和2年神戸三宮支店在勤中に昭和金融恐院を、ニューヨーク支店在勤中にはアメリカの金融恐慌をそれぞれ体験し、後年、日銀総裁として証券恐慌に際会した折に、これらの体験が実地に生かされた。

昭和25年取締役に就任以後、同29年常務取締役、副頭取を歴任、同36年に頭取に就任する。この間全国銀行協会長として「特定産業振興法案」制定に反対、同法案を流産させて一躍令名を上げる。

外遊の機会が多かった宇佐美は、訪問先の銀行家以外にも、西ドイツのアデナウァー初め、知名の政治家とも接触し、国内では、池田勇人、田中角栄らと親交があった。

昭和39年佐藤栄作首相の時、前内閣からの申し送りで戦後初の民間経済人として日銀総裁に就任するが、蔵相は池田内閣以来留任の田中角栄であった。

日銀総裁としての宇佐美は、金融会・産業界との連係を密にし、財政当局に対しては、赤字国債の市中引受原則を固守するなど、大胆に所信を開陳して日銀に新風を吹き込んだ。

任期満了で総裁退任後は、金融制度調査会会長。

 

第9代 加藤八郎1902~1985) 在任 昭和5054

宮内出身の加藤八郎は、米沢中学時代は剣道部の主将を務め、創立間もない山形高等学校に進学、同校卒業後東京帝国大学法学部へ進み、同学部卒業後、昭和2年大蔵省に入る。

大蔵省文書課長を経て、函館・仙台・京橋・神田橋各税務署長を歴任後、銀行課長に就任。

昭和12年5月、満州国に渡り同166月帰国後、理財局勤務、次いで札幌財務局長、国有財産局長。

米沢中学以来、東大、大蔵省と相田岩夫の後輩として務めてきた加藤は、商工組合中央金庫副理事長時代、有為会の総務部長として相田会長を助けてきたが、政府関係金融機関のトップ就任の掛け声がかかっていた折にもかかわらず、相田先輩からの懇請があって、昭和36年日版副社長に就任。

相田の後継として日版社長になった加藤は、「古より業を創めてこれを失うものは少なく、成るを守ってこれを失うもの多し」という『貞観政要』からの言葉を座右の銘として「日版第2の創業」を目指して会社経営に当たった。流通センター建設のための王子の用地買収、22階建の現日版ビルの青写真、これらは加藤社長時代の功業であった。また昭和40年代後半、会社の意識革新キャンペーンとして「小集団改善提案実行運動」を打ち出しているが、経営者としての先見の明を示すものである。

日版には「駿河台有為会」という組織があり、同郷出身の新入社員に対し、有為会入会の勧誘と親睦活動が行われていたが、相田・加藤の両先輩は、必ず出席して同郷後進の激励に努めた。加藤は、官吏・経営者・有為会会長、そして郷土愛――あらゆる点で、相田岩夫の良き後継者であった。

 

10代 干葉源蔵(19151988) 在任 昭和54~63

米沢商業より法政大学経済学部へ進学、昭和13年同大学を卒業後文藝春秋社に入社。営業部長、業務局次長を歴任後、同28年取締役、同43年常務取締役、同49年専務取締役を経て同54年社長に就任。同59年から会長。同636月から文藝春秋社名誉会長。

日本雑誌協会・日本広告協会・雑誌公正取引協議会各理事長を勤めるかたわら、日本出版クラブ副会長、山形県人東京連合会長も勤め、昭和61年勲一等瑞宝章を受章。

囲碁3段、将棋5段。読書、柔道と趣味は広く、その豪傑肌の人柄には、菊池寛も惚れ込んだと云われる。

冗舌は嫌ったが、一方東北人の寡黙を美徳と認めず、米沢人気質を知り抜いた異数の人物であった。

例年米沢有為会総会当日、文藝春秋社と米沢市の後援により《文化講演会〉が継続して開催されてきたが、偏に千葉源蔵の愛郷心と文化事業に対する情熱の結晶と言える。

昭和34年以来平成元年まで、この講演会の講師として招聰された作家や学者の数は、延べ57名に達する。新しい米沢の精神風土に千葉が蒔いたく〈文化の種〉を育むのは、今後の有為会の大事な事業の1つとなるだろう。

 

第11代 小幅常夫(1915)  昭和63年就任

米沢興譲館中学より山形高等学校へ進み同校を卒業、東北帝国大学法学部入学、同学部卒業後、昭和14年東京ガス入社。株式会社ガスター常務取締役など関連会社の要職を歴任後、環境装備常務取締役のほか、財団法人山形県育英会常任理事、米沢興譲館同窓会顧問等を務める。

『米沢有為会会誌』復刊第35号誌上で、前会長の千葉源蔵は「人生で一番大切なことは、その生活に生きがいを感じること、つまり全力を傾倒して仕事に当たること」をまず強調し、「人生の理想の実現のために、絶えず努力し追及する、その道程そのものが人生」とつづけ「先達先人の理念とその精神のもとに、愛郷の結束を発揮し、大同団結を固めたいと思う。常に創意工夫を凝らして、絶えず創造への積極的努力に勉めねばならぬ」と結んでいる。

この前会長の期待を一身に担い後継会長となった小幡は、「無力無名の野人」と自称するが、戦後、相田・宇佐美・加藤・千葉の四代の会長のもとで、有為会活動に生き甲斐を見い出しながら後進指導に情熱を燃し、見事な黒衣役を果たした実績がある。あの闘志を再燃させ、会の若返り実現を期待される小幡は、会長就任の挨拶のなかでこう述べている。

 

今、米沢有為会は、奇しくも第2世紀の春を迎えたのでありますが、この意義ある節目の年に、私どもは総力を結集して地盤を踏み固めると共に、文化経済の多極化・時間距離の短縮・価使観の変化等に対応した会運営の新しい方向を摸索し、流転と不易とを見誤ることなく正しく伝統を継承しなければならないと存じます。

 

「総力の結集」といい「価値観の変化」「新しい方向」といい、その鍵を握るのは、有為会発会当初の6人の発起人に象徴される《知性と情熱と若さ》である。先輩に黙って付いて行く《寡黙追随型〉では有為会の活性化は望めない。有為会発足当初の、あの有言実行型の人材を育成する――それがとりもなおさず小幡現会長の双肩にかかる大業であり、「地盤固め」に通じるのである。

 

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第4章 充実発展期

 平田東助第3代会長就任

米沢有為会と名称を変更し、会長制が採用され、各支部の結束と親睦の実が上がり、いよいよ育英資金の貸与に加え、寄宿舎の建設、社団法人化が実現するのは、第3代平田会長の時代である。

明治408月、第17回総会の折、通則の一部が改正された。つまり寄宿舎の建設(予定)に伴う条項の追加改正である。

第7条ノ1 本会ハ東京及ビ仙台二漸次学生ノ寄宿舎ヲ設ケ別二定ムル所ノ規則二依リ之ヲ管理ス

13条 教育部二於テハ学生ノ指導監督寄宿舎貸費並巡回学術講演会に関スル事務ヲ掌理ス

この時決まった名誉会員並びに常任役員を示せば

名誉会員  男爵 平田東助 千坂高雅 小森沢長 池田成章 

大瀧龍蔵 高梨源五郎 下條正雄

会長    男爵 平田東助

総務部長  小林源蔵

教育部長  宇佐美勝夫

編集部長  下平忠良

総務部幹事 宇佐美辰五郎 川上宣司 矢尾板誠策 長島吉太郎

教育部幹事 青柳一太郎 香坂昌康

編輯部幹事 井内太郎 加勢清雄 椎野信次

評議員 伊東忠太 池田成彬 羽鳥精一 保科孝一 本間喜代松 大竹武吉

岡田文次 高橋秀松 曽根龍蔵 鳥山南寿次郎 中條精一郎 内村達次郎

佐野利器 江口駒之助 佐藤寛次 宮島幹之助 芹沢孝太郎 上村鋼一郎

明治40123日、日本橋の倦楽園において評議員会並びに新旧会長の歓送迎会が催された。小林総務部長は小森沢前会長の多年にわたる尽瘁の労を深謝したあと、平田新会長に対し、米沢有為会が早急に手掛けなければならぬ寄宿舎建設、社団法人化の問題を予測して、その識見力量に大いに期待している旨挨拶、役員相互の歓を深めている。

明治41420日、精養軒において総裁推戴会と宇佐美勝夫富山県知事就任の送別会が開かれた。

当日平田会長は「本会は創立以来ここに20年、会員は千を越ゆる二百、一郷の団体としては、大いに誇りとするに足る………新総裁を迎え、宇佐美氏の新任を祝す、楚に慶日なはやる哉………:光陰は百代の過客日月の逝くこと疾(はや)きを思へば楽々融々の快は実に人生として心ゆく処なりと雛も、之れ肉体の歓楽のみ、必竟何等世に效顕(こうけん)なし。吾人は別に精神的に生活せざるべからず。精神的活動の霊界はこれ万代を経て而して不滅也。を恩祖鷹山公に見よ、その余沢今に及んで光愈々顕れ吾徒悉く霑浴(てんよく)す。然りとせば諸君は蛍雪能く努め以て彼岸目的の地に達するを期せざるべからず、有為会に至ても元より然り。爾後精神的活動に由て発展し希くは後世に伝はるの事業を遂行するに至らんことを………」と、上杉憲章総裁の精神的支柱の意義を説いた。

なお当日、これに先立ち開催された評議員会においては

1.寄宿舎敷地(甲地・乙地)の選定の件

2.寄宿舎建築の設計監督を中條精一郎と小沢義平に嘱託の件(全員一致可決)

3.評議員宇佐美勝夫の補欠選挙の件(吉田熊次を選挙)

4.不明会員除名の件

5.新入会員認許の件

の5つの事項が審議された。

敷地選定については、高梨源五郎案により、将来の発展のため広い方の甲地(600)とし、両敷地の価格2万円は上杉家よりすでに出金、建設費7千円は興譲館財団(私立米沢中学が尋常中学の資金取得のため募金した基金をもとに、明治38年戦時記念林を設け、翌3911月文部大臣の認可を得て組織)より出金、利子を払うべき元本27千円のうち5千円は、高梨案により乙地の代価として財団引受けの約束により差引22千円。利子は上杉家分は年6朱、財団分は7朱。財団からは第2年目より毎年2千円〜25百円の補助を仰ぎ、初年に要する金員は、有為会基本金より13百円の範囲内で一時流用することとし、第9年目に全部償却する予算を立てる。但し、乙地(446坪余)の売却金が5千円を超過すれば、その超過分は財団より有為会に交付の約束がなされた。

次いで明治41626日の評議員会において「法人化」社団法人とするか、財団法人とするかについて、役員間で精査調整して総会提出が決定。816日米沢の万景楼で総会が開催され、

1.米沢有為会を社団法人とすること

2.杜団法人化の手続き・定款の作成、その他一切の事項を平田会長に一任すること

3.法人設定後は従前の役員を以て法人の役員とすること

という小林総務部長の動議が了承された。また寄宿舎設立に関する小林総務部長の報告に次いで「地代支払いのため有為会基本金より1千2百円以内を一時流用する件並びに経常会計剰余金中3百円を基本金に繰入れる件が了承された。

この第17回総会は、今後の米沢有為会事業の基本を確定した意義ある総会であった。またこの明治41年は、米沢出身者として初めての将官――山下源太郎海軍少将と下條於菟丸機関少将――の誕生を見た年でもあった。

明治末から大正初期にかけての『米沢有為会雑誌』には、会員の住居変更や事務所開設などの通知や宣伝に混じって、若くして亡くなった会員蔵田熊雄(医科大挙卒.大分県立病院掃人科部長)の遺児の育英資金募集の広告や明治28年米沢中学に奉職以来、体操教師として17年間勤めた西朝正教諭に対する養老金募集の趣意書などが掲載されている。

西教諭は、西南戦争や日清戦争にも出陣し、生徒間の人気も高かった教師であったが、退職に際しては恩給を受ける資格がなく、且つ老後を養うはずの養女が夭折しているという気の毒な境遇であった。これに同情した教え子たちが養老金募集を思いつき、有為会雑誌に広告を出したが、退職の翌年西教諭が病没したので、「謝恩金」の名義で恩師の供養費として遺族に届けられている。米沢伝統の「敬師の心」が、米沢有為会の活動を通して見事に生かされた美談である。

 

東京興譲館寮の開館

『米沢有為会雑誌』第190(明治421)「思藻」欄に吉田熊次は「米沢有為会と寄宿舎」と題してこう書き出している。

「我が米沢有為会の寄宿舎を切望せるや既に久し。明治33年の夏、我が米沢有為会は第1回の巡回講語を会の事業として決行するや、巡回講話と寄宿舎を以て、本会の目的を遂行することは重要なる手段と認め、これを会則に明記して、以てその成功を公約せり……本年11日、小石川表町を歩き、我が有為会寄宿舎の北風を凌ぎて、伝通院陵上に磐ゆるを見、内に欣喜の情に堪へざるものありしと共に、之が為に尽力せられたる先輩知友の労力の如何許りなりしやを回想し、将来の責任の大なるを畏るるの情禁ずる能はざりき」

長野県在住の会員椎野誠一は、「郷党子弟団欒して郷国良風の発展所」となすため、次のような提言をしている。

管理者(有為会本部)に対しては、@自治制の採用 A監督者の同宿 B積極的な先輩の来訪激励 C娯楽室・図書閲覧室等の設備充実。寮生に対しては、@規則の厳守 A朝夕の皇居と故郷の遥拝の実行(または教育勅語奉読) B時間的な「けじめ」の励行 C自治制の完成 D不識公と鷹山公尊像の掲額 E鶏等飼育の実利的労働への出精 F購買組合の組織。以上列記された諸提案は、いかにも米沢人らしい発想であり、特に「実利的労働」の奨励は、上杉鷹山以来の実学思想の「明治版」とでも云うべきものであろうか。

明治42228日に竣工受け渡しを済ませた米沢有為会寄宿舎興譲館は、和洋折衷の2階建、6畳間154畳半7、集会室36畳、入舎生37人で、工事費総額は、4,41721銭2厘であった。

41日舎生収容、同2日入舎式、同3日、上杉茂憲・憲章父子はじめ、千坂高雅、山下源太郎、千坂智次郎、下條正雄、三宅雪嶺、井上哲次郎ら名士の来臨の下に開館式が挙行された。

小林源蔵総務部長が寄宿舎設立の経緯を説明、次いで上杉憲章総裁の式辞、学生総代椎野信次の祝辞の後、千坂高雅が演説、「友愛を守り、相互扶助の精神を忘れず、絶対徒党を組むべからず」と訓諭、さらに少壮の時代に体を鍛える必要を強調。つづいて、海軍薬剤中監高橋秀松は、「親切を旨とし、興譲館気質を醸成して現代の弊風を超越すべし」と力説。

次いで、金沢出身の評論家三宅雪嶺は、百万石の加賀藩と比較しながら「物質的方面においては加賀藩は栄えたが、その効果にいたりては甚だ疑間である。明治維新以後、米沢藩士はさほど生計に困ったとは聞かない。これは米沢藩が勤倹貯蓄を奨励したお蔭ではないだろうか。人物の点から見ても、小藩の割合には米沢は多数の人材を輩出している。米沢からは大臣も出た。大臣が出たことは私は格別どうとも思わないが、出たという事実は出ないよりはるかに勝っている……東北人は、昔から快活な風釆の者が少ないようだ。諸君、よろしく快活にせよ」と、西郷隆盛・従道兄弟の豪傑笑いの工ピソードなどを交えながら滔々懸河(とうとうけんが)の弁を振った。

井上哲次郎は1時聞半にわたる熱弁のなかで、細井平洲の詳細な履歴を紹介し、「長崎留学中に母の危篤の知らせを聞き急ぎ帰郷したが、母は既にこの世の人ではなかった。悲嘆にくれた平洲は血まで吐いたが、この一事からも平洲の孝心の切なることが判る」と、郷里を離れて東京で修学する舎生に孝心を喚起し、米沢が今日あるのは、鷹山と平洲の徳によることを説き、「時はまず我が身の修養を要す」と力説する。

「鷹山公と平洲先生の肖像を掲げ、毎日礼拝してその徳を偲ぶべし」と修養第一歩の心掛けを示す。そして最後に、三宅雪嶺の「大臣輩出云々」の発言を引用して「加賀藩では大臣こそ出さなかったが、大臣を何とも思わぬ三宅博士のような人物を輩出したことは、大臣を出したことよりもさらに名誉なことである」と付け加え、一見当意即妙のユーモァに似て、実は、「顕職即人物」と思いがちを軽率な判断を戒めている点はさすがである。

 

開館当初の入寮者

42日の入舎式の後、(今回に限り)吉田熊次館長の指名で5名の委員が決まった。

運動係 横沢格蔵(早稲田大学)

食事係 桜井五郎(工科大学)北沢敬二郎(第一高等学校)

庶務係 中村松助(高等商業学校) 西条信哉(高等工業掌校)

在館生の校種を見れば

(1)研数学館・早稲田予備校・明治予備校など

桑原浩 佐藤文吾 和田忠義 村山喜一郎 楠川正敬 椿一郎 石沢悌次郎 

青木源次郎 福崎秀一 富樫興一 村山万次郎 立岩精一 関重雄 渡部孝蔵 

大比良信雄 釜屋亮助 (各種専門学校の受験生)

(2)第一高等学校 北沢敬次郎 相浦鼎五 御田龍太郎

(3)高等工業学校 本田登 西条信哉 舟橋栄

(4)高等商業学校 中村松助 湯井吉蔵

(5)早稲田大学 小敷沢虎雄 圭遠藤周蔵 横沢格蔵

(6)工科大学 桜井五郎

(7)法科大学 田中篤二 川上宣司

(8)高等農学校 佐藤慶治郎

(9)慈恵院医挙専門学校小野塚弘道

10)外国語学校小野塚弘道

11)開成中掌校飯田清

以上の学生が、相互の信義と親和を重んじながら競律ある寮生活に入るが、『米沢有為会雑誌』には、「報告」欄に《寄宿舎たより》が毎号掲載されるようになる。

『米沢有為会雑誌』第193号には、429日の上杉神社遥拝式のこと、58日午後5時からの例会の模様が紹介されている。

当日は、来賓として第一高等掌校の塩谷時敏教授と高等師範学校の保科孝一教授が迎えられたが、保科は「言語学上より見たる米沢弁」と題して講演し、「抑も言語は思想を発表する道具であって、その人の人格に関係することが甚だ大である。諸君、東京に来た以上、よく注意して他人と交わり標準語を学ぶ必要がある。社会に出た後、言葉発音が悪いために思想を明噺に発表することが出来ずに損をすることがたびたびある。それで、今のうちに精々注意してこれらの欠点を改良することを望む」と、方言生活からの脱皮を希望した。

同郷者だけの寮生活が、とかく脆る方言通用の弊を見越した適切な忠告であり、また「方言学入門」としても好個の講演であった。

講語と講演の後茶話会に移るが、相浦鼎五の漢文朗読、塩谷教授の独吟、相浦・小野塚両名の詠詩、桜井五郎の琵琶演奏などが披露され「且つ笑い且つ歌いて興を尽くして閉会せるは11時、伝通院畔人声絶えて犬の遠吠えニツ三ツ」という叙情的な報告文の結びに、学生らしい気取りが表われていて微笑ましい。伊東忠太や宇佐美勝夫らの本郷空橋での合宿生活を彷彿させるものがある。

 

第2次拡張計画

明治41年8月16日の総会で、米沢有為会の「社団法人」化に関する事項が審議きれたが、その後まもなく平田会長の申請により公益法人として時の文部大臣小松原英太郎より民法第45条第2項の定めるところにより社団法人の認可がおりた。明治431224日のこと。これで有為会が活動を開始して以来、「会長制・総裁制の確立」「寄宿舎の開設」「法人資格の取得」と着実にその体制を整えて来たわけであるが、育英事業の一環で要望の多かった「貸費制度の確立」までは至っていなかった。

そこで、明治439月、「米沢有為会第2次拡張趣意書」が発表される。第1拡張計画が実施されたのが明治256月で、事業拡張のための基金募集の結果、明治40年総会の報告によれば、基本金が2,268991厘となっている。

明治42625日、平田会長は、興譲館寮の維持経営並びに貸費基金不足のため、内務大臣官邸に在京の名士を多数招待して応募を依頼し、同年9月の『米沢有為会雑誌』の巻頭に第2次拡張計画の趣意書が掲載された。

 

本会は何時までも今日の如き不安固の状態にあらぎるべきのみならず、更に百尺干頭の補給を為すと共に、貸費の方法によりて育英資金に当て、多くの人材を我が郷より輩出せしめ、以て本会の目的の実現に至らざる可からず、之れ本会第2二次拡張の止むべからざる所以なり、曙、同郷の諦士よ、其の執る処の業何たるを問わず、又紳士たると学生たるとを論ぜず、奮って本会の此の挙を賛せられよ。

 

この拡張運動は俄然反響を呼んで、相次いで寄付が寄せられ、同年末には万を越す金額が集まった。そこでとりあえず、負債の返還と貸費制度の確立という2つの懸案解決に向かうことになった。大正4年度決算当時の申込金は15,08970銭となっている。

 

財政の安定確立

米沢有為会の基礎確立の最後の問題は、財政上の3大懸案の解決であった。即ち

1.興譲館寮の借地料の減免。

明治44921日の評議員会の決議に基づき、上杉家と交渉の結栗、先に買収した土地の半分を村山同郷会に貸与し、従来有為会が負担して来た1,200円の地代を、翌45年からは720円に減ずることになり、更にその後6年間にわたって逓減し、明治49年(大正5年)以降の地代を免除してもらう運びとなった。

2.県費補助の確定。

明治4410月、米沢有為会・村山同郷会・庄内同郷会が連合して、育英寮業に関して県費補助を申請。その結果、同年1213日の県会において、明治45年度から50年の間に4万5,000円の県費の補助が決定、各団体に対しては1万円宛を交付することが決定した。

3.基本財産管理規定の認可。

明治45724日の評議員会で「基本財産管理規定」の原案を作成、大正683日に県当局の認可を得ることになった。

以上によって米沢有為会の持つ債務は一切消滅し、ようやく名実を備えることになった。

 

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5章 米沢有為会事業展望――明治・大正・昭和前期――

  育英事業・巡回講誘など

米沢有為会の目的は、精神的なもの、なかんずく、学問思想の切磋琢磨であるが、その最も基礎となるべき学生対象の寄宿舎「興譲館寮」は、明治424月東京に、大正36月仙台に、それぞれ開館し、専門学校・大学入学者に限らず、予備校への通学生も含めて収容し、同郷人同宿の利点を生かし、自治制の下に規律も確立し、先輩後輩の相互扶助、親睦、切磋琢磨等々着実に実績を上げてきた。また貸費制度も明治444月、第1回貸費生が決定されてから昭和13年末までに、総数80余名の学生が奨学金貸与の恩恵に浴している。

在京・在仙の学生に対するこの様な育英事業に並行して、郷土に対しても(時には大学在学者をも含め)知名の士を講師に迎えての巡回講話、座談会、夏期大学などが開催されてきた。明治25825日置賜座に括いて学術大講演会を開催、その後同33年8月15日から約5回にわたって、米沢・赤湯・長井・小松の4か所で学術講演会を開催、各地で非常な歓迎を受けた。が、米沢の大火以後は、有為会の基本財産の増殖の問題も絡み、中止の止むなきに至った。

大正128月、8年間中止されていた巡回講演会を復活、理事・総務部長の登坂小三郎が司会役となり、高畠・宮内・長井・小松・米沢で巡回講演会が開催された。

 

815日高畠町議事堂

「列国近況と吾が東北地方」内務省勅任監察官・法学士 三矢宮松

「国際連盟ワシントン会議と列国現代の海軍」海軍省副官・海軍大佐 左近司政二

816日 宮内町実科女学校

「国際連盟ワシントン会議と列国現代の海軍」海軍大佐 大湊直太郎

「鎌倉時代以前における地方文化政治の中心地」 伊佐早謙

「文化生活とは何ぞ」帝国大学教授・文学博士 吉田熊次

817日 長井町中学校講堂

「社会運動と国家安立」文部省嘱託・文学士 金山龍重

「人性と修養」帝国学士院会員・文学博士 井上哲次郎

818日 小松町小学校控室

「農村間題」帝国大学教授・農学博士 佐藤寛次

「経済と道徳」      井上哲次郎

○八月十九日 米沢高等女学校講堂

「産業組含の成立」 佐藤寛次

 (挨拶)会長・海軍大将 山下源太郎

「社会改造問題と我が国体」 井上哲次郎

この巡回講演会終了の翌819日、総会が開催され次のような総会決議がなされている。

1.我々有為会員は近時我国思想界の動揺に動ぜず堅忍白重我国体の精華を発揚せんことを期す

2.我々有為会員は我国総済界の現況を顧み華を去り実に就き消費を節約し能率を増進し以て国富に資せんことを期す

大正13年にも817日〜21日、米沢・小松・長井・宮内・高畠の5ケ所で巡回講演会を開催。

「日米問題と海外事情」赤十字社国際連盟理事 法学博士 蜷川新

「日米関係と経済貿易」三井物産常務 小林正直

「日米海軍と吾人の覚悟」海軍大学校教頭・海軍大佐 今村信次郎

「台所の衛生」代議士・医掌博士 宮島幹之助

「上杉鷹山公の復興振り」本会理事 登坂小三郎

大正14817日〜21日、赤湯小掌校において「夏期大学」を開催。講師と演題は、東大教授.保科孝一(国字間題について)、東大教授・佐藤寛次(農村問題)、東大教授.伊東忠太(現代の芸術)、大蔵書記官・大竹虎雄(我が国の財政)、海軍少将・左近司堅二(列国海軍の情勢)、東大講師・香坂要三郎(化学問題、近代化学工業の発達)、有為会理事・羽鳥精一(近代の経済思想)、外務書記官・粟山茂(外交の本質と日本の国際上における地位)、金沢医科大学長・須藤憲三(科学と徳育)、医学博士・福島東作(スポーツと心臓)、東大教授・三潴信三(法律間題)、慶応大学教授・宮島幹之助(農村の衛生)――実に充実した講師陣であり、聴講者は600人を越す盛況であった。なおこの夏期大学開催につき、池田成彬が補助として300円を寄付している。

また大正412月には米沢高等工業学校染色2科設置に関する陳情論文、昭和56月には米沢興譲館中学校後援会会員寄付依頼の陳情論文募集なども行われている。

 

互助救済など

すでに触れたが、旧師退職に際しての「謝恩金」や会員の死去に伴う「遺児育英費」等に関する募金活動のほかに、米沢の2回の大火、関東大震災の不慮の災害時にも、米沢有為会は、その組織力を生かして義援金募集を行っている。

大正6520日、米沢は未曾有の大火に見舞われたが、この時、有為会では直ちに緊急会議を招集して義援金募集に乗り出し、総計31,05824銭にのぼる額を米沢市とその近郊に送って救済費に充てた。さらに大正8519日、またまた米沢大火が勃発した際には、3,753円を直ちに送金義援している。

一方、大正12年9月1日、関東大震災の襲来時には、米沢市艮からの見舞金6,500円、ほかに衣類等約1万2千点を送り、東京・神奈川・埼玉の罹災会員に配付された。

このように『米沢有為会雑誌』誌上を利用して、義援金募集の趣旨を徹底できたのも、相互挟助の精神を生かす組織があったればこそである。

 

雑誌発行など

明治2212月発行の創刊号以未、同23226日発行の第2号、その後しばらく休刊したが、同351025日に第三種郵便物の認可を受けてからは、遅滞なくその発行がつづけられた。

米沢有為会の発足当初からの紆余曲折、時代の流れ、進学の傾向、学生気質、会員の動向、先輩の後輩に対する誘掖庇護の状況、運動会の趣向に見る会員親睦の実情等々、またそこに掲載されている論文・随筆・文苑・意見の交換等、毎号40ぺージ内外の小冊子ではあるが、丹念に積み重ねられた記録は、現在では貴重な文化資料となっている。

『米沢有為会雑誌』に見る会員意識

『米沢有為会雑誌』は、遠く郷里を離れた、若い知性派の学生が中心になって編集された。日本の趨勢を支配する東京という場所で見聞思考を積む彼らは、地元に残った親達や同世代人が〈灯台もと暗し〉の雰囲気で米沢を観察し意識するのとは異なり、新しい感覚で、自分達の郷里米沢の、良さも悪さも客観的に観察することができた。

ここで大正年間に刊行された『米沢有為会雑誌』の記事から、当時の「米沢及び米沢人」に対する警告批判に関するものを拾ってみる。その頃から半世紀以上も経っているのに、旧態依然として、米沢の前進にブレーキをかけているものが何であるかを教えてくれているような記事にはっとする思いがする。これはとりもなおさず、温故知新、現在の米沢有為会が抱えている体質に対する警告とも言えるであろう。

当時の『米沢有為会雑誌』には《大声小声》という欄が設けてあり、会員の自由な発言の場として活発な投書の応酬があったようである。大正8年発行の第296号のこの欄には「米沢部の革新を促す」と題する記事が載っている。

 

「一体米沢部は何をしているのだろう、通信一つ書くぢゃなし、希望一つ述べるぢゃなし、毎年々々、年中行事を、それも若い者に促されながら漠然繰り返すに過ぎないぢゃないか」こうした不平非難を折々耳にする。成程いかにもそうだ…米沢の天地に育まれ帝国の各地に発展した人々をして、郷里を忘れず、墳墓の地を忽(ゆるがせ)にせしめないようにする重大な任務を有する、所謂愛郷会なる我が有為会は、その根を米沢部に張り、幹を米沢部に託することは云うまでもない。然らば会の盛衰は直接米沢部の勤怠に左右せられ、従って衆目は期せずしてここに集まり、瑕瑾(かきん)もなお寛容せずに非難する亦自然の勢いと云わねばならぬ。然るにどうだ、唯一の通信機関たるこの雑誌に、最近1か年に米沢の記事として表われたるものは僅かに大火の原因、損害等の一事に過ぎないではないか…恐らく米沢部の人々は『便り』というものは、他郷に在るものの方から米沢に在る人々に通信するに限るもの、他郷の者に米沢のことはおやぢや兄弟の手紙にでも聞くに限ると考えておらるると見えるが、あやまりこれが抑も根本の謬ではあるまいか。毎月米沢における産業教育経済政治の状況が通信せられてこそ各地に発展する米沢人を網羅する会の通信機関と云い得るではないか、かくてこそ異郷に活動する人をして思いを郷里に致し、考慮を故里のために費やしめ得るではないか、かくて後のみ多くの名士を外に出して米沢をして「偉才悉く外に走って故郷衰ふ」の嘆を免れしむる事が出来るのではあるまいか…静止すれば清水にもボーフラがわく、幾年も同じ人が同じ地位に在ったらいかに一身を挙げて職に従事する者でも怠り勝ちとなるは自然の理…米沢に在って子弟教養の重任を双肩に担はるる人々に更にこの仕事(「米沢便り」の執筆)を託する現在の組織そのものに、寧ろ罪のあることを思わねばならないと考える。若い者が沢山居るぢゃないか…自ら責任を避けながら事業の振わないのを嘆じている者は、宜しく先づ自らその非を覚らねばならないのではないか…年寄は顧問になって項いて若い者が自ら衝に当って動く、即ち「経費と活動」の提携を画策しない以上、米沢部を攻撃する事は徒に難を以て責むるものではないか…在米沢青年諸君、以て如何となす。

 

何か1つの行事を画策する。「よし、やろう」と一応は賛意を表する。しかし実行が伴わない。米沢には、掛け声だけの応援団はそろっているが、肝心の有望選手がいない。肩書きだけの監督はいるが、実際試合の場に臨んで釆配を振るおうとしない。たとえ選手が選ばれても、他力本願、自主的に動こうとはしない。「子弟教養の重任」を担う学校側にすべてを任せてしまう。要するにこの記事は、「米沢有為会米沢部組織の有名無実」を痛論したもので、その改善策は「年寄の引退、若者の奮起」、つまり年寄は金を出し(経費安定に尽力)若者は組織の中心となって事務処理(活動尽力)をして行く、という実践的な有為会事業の推進に立ち上がれと訴えているのである。

大正99月発行の第299号誌上に、編集部提供の《所謂先輩に対する青年者の希望及び要求》というテーマに対し我妻栄はじめ学生や若い社会人の意兄が寄せられている。

(「時事題言」欄)ここでは、我妻榮、大熊信行、香坂要三郎ら三人の意見を紹介する。

 

我妻 榮

「所謂」付の先輩は二言目には「青二才が理屈を言っても世の中のことはそう簡単にいくもの者ぢゃない」と仰せられる。然し之等の人達もきっと青年時代には先輩から「世の中を知らない理屈ばかりの者」として取り扱われながら大いに反抗しつつ宿弊を改めて今日あるに至られたものに違いない。

唯多くの人は、年と共に旺溢した精神力が衰へると、何時の間にか周囲の事情に妥協し順応して動きが取れなくなる。そこに次の代の者が生々した自由な思想で、音その人達の為された様に此処に突貫して来る。すると自尊心の強い人達には今度は自分の妥協順応している弊風は所謂「世の中」と思はれ、不合理な事が所謂複雑なものと見えるので「若い者は駄目だ」と云ふ事になり、甚だしきは「俺達の時は世の中は簡単だったから若い者でもよかったが今日ではどうしてどうして」と云ふ事になってしまうのだろうと思はれます。

然し、勿論所謂先輩の妥協と順応から進歩は生まれ出ない。不覇奔逸な青年の思想からのみ文化進歩の原動力は生じて来る。所謂先輩の専売特許たる「複雑な世の中の知識」は、唯その奔逸なる原動力のあまりに線路外に飛び出すを止める「制動機」として価値あるに止まるものと信じます。

従って私の希望は

1.飽くまでも進歩的な思想で理想を示し乍ら、青年を理解し之を指導して下さる事――此の理想の先輩はブレーキではなくて理想に走るレールです。私も「所謂」の冠詞をつけません。

2.是の出来ない多くの所謂先輩は「若いものは駄目だ、世の中は複雑だ」と云ふ独断を捨てて、青年の価値を認めその理想をも聞いて相提契して進むだけの雅量が項きたい。

3.最小限度においては青年に対する非難は、もっと理論的にやって下さる事、独断に基づく頭ごなしの叱責は、現代の青年には(極めて少なき場含の)全人格の沈滞か(大多数の場合の)極度の反抗か2つの1つしかありません

 

犬熊信行

あらゆる意味に於る「先輩」に対して曽て何等の要求斉も感じたる事なく、ただ賛嘆、畏敬、尊愛の念を抱き或は憐愍、顰蹙を禁じ能はざるのみ。要求は常にただ自己に対して有するのみであります。

 

香坂要三郎

有為会なるものを例へば元老と中老と若手なる3つの段階に分けて見るとき、その関係が極く円満且つ円滑に行っては居らぬと云ふ事は、誰しも認め得ることかと思ひます。

元老は機関を動かす原動力を有し、中老は時勢に比較的最も適合した頭の所有者として、新しい経験の保有者として、元老と若手との間に立って、即ち所謂中堅となって、元老の原動力をして適当の方針に向けしむる事を助成し、一方若者に活動の道を開いてやると云ふ事がかかる機関の一般の状態であり、又意義あるところであると思ひます。

…元老と称せらるるべき階級は確かに此の大なる原動力の所有者である事は疑を容れぬ所でありますが、悲しい哉中堅となるべき階級の働きが、尚充分でない様に思はれます。

之は長い間の伝統的束縛もありませうし、現在の社会制度の不健全より来る束縛もありませうが、一般に中老諸兄が、会そのものに対する誠意の欠けている点もあると思ひます。

若し有為会なるものの存在をしてあらずもがなのものとしたくないならばもう少し積極的に会を利用するだけの勇気と努力を御願い致したく思ひます。…我々若手に属する者も徒に元老の無理解を嘆じ、中老の無能を蔭で嘆ずべきではない。進んで会をして最も有能ならしむるべく努力する事に於いて中老の奮起を促し元老の理解を得べきではあるまいか。

《時事題言》は毎月募集され各自がその意見を述べているにも拘わらず単に誌上の空論に過ぎず。未だその一つ具体化されたものを見ません、否具体化せんと努力されたものすらない、と云ふ事は実に情けない事ではあります。

之等は唯我々若手の奮起によってのみ始めて実現されることではあるまいか。

 

やや超然とした、むしろ「先輩」に対する軽蔑ともとれる大熊のような意見もあるが、概して我妻・香坂に代表される「若者に対する理解と信用」を希望するものが大半である。我妻の説く「ブレーキ役の先輩」の比楡を生かすならば、有為会という機関車を運転し、ブレーキの踏み手となるのは、香坂が説くように「中老」つまり中堅少壮の人達であろう。

大正23月発行の第203号誌上に「米沢教育会貸費額増加に対する希望を決議し敢て一部先輩諸氏の反省を乞ふ」という広告文が掲載された。

その前文では、鷹山公の興譲館設立の功業と当主茂憲の米沢教育会の恩恵について触れ、現下の経済情勢を説明し、米沢教育会の貸費額増加を申請するが「如何せん前に貸費を受け今日社会に立てる者にして未だ返納せざる者少なからず」と貸費増額は、彼ら先輩の返済の状況如何による旨解答された経緯を述べ、

「茲に於てか吾等は僭越を顧みず敢て是等先輩諸氏に謁(はか)る所あらんとするもの也。諸兄は実に吾等の光栄ある先輩にして後進教導の労を執るに吝(やぶさ)かなるものにあらざるを信ず。今若し諸兄にして教育会の返答の如く怠納額を納付せらるに於ては、啻(ただ)に現貸費生の窮乏を救ひ得るのみならず、更に又今後益多からんとする貸費生の需に応ずるを得べき也………敢て不遜の辞をなし一部先輩の一考を煩わすさんとす。諸兄の聡明必ずや冒漬の罪を咎むる無く吾等の意を諒とせられん。維時大正231日風寒く星冴ゆるの夜、舎生一同を会し決議する所右の如し」

と、切々と呼び掛けるのである。

この様に、利用するものは利用し、義務は不履行のまま「知ら瓜が仏」とばかり、ちゃっかりした不義理な人間も案外いたのであろう。歴史的に見ても米沢人は案外「無精、怠慢、挙げ句の果ては狡猪、尊大」と誹誇される一面を持っている。香坂が云う「中老の誠意の欠如」もこの辺の事情と大いに関係があろう。

大正85月発行の第292号誌上の《時事題言》では「米沢出身学生に対する感想並びに希望」が紹介されている。

 

保科孝一

米沢出身の学生は、音から質実で志操の堅固なのを美点として居りましたが、近来聊(いささ)かその特徴を喪ひつつあるやうに存じまして、砒素かに竊(ひそか)に心配して居ります………米沢は盆地でありまして四面梗塞、それが為天下の大勢に疎く兎角頑固になり勝ちですから、ここに生を受けた人はよくこの点に注意して眼界を広くする心要があります。成るべく広く各地方各方面の人々と交際して、その短所を補ふことが必要と信じます。殊に言語上多大のハンディキャップを有して居りますから、速やかにこれを矯正して白由に意見を発表し得る様に心掛けなければなりません。海陸軍や実業方面などに身を処する人々は右の注意が最も肝要です。

 

我妻 榮

…米沢出身学生間に統一を保たんが為に何らかの中心点を求める事に御座候。個人としては多くの勝れたる先輩、真撃なる学生も多々有之候と存ぜられ候へども「米沢」の背景の下に脈絡なき為兎角親密を欠き又時々悲しむべき落伍者を出すように思はれ申候。勿論学生の会合を催し思想いくばくの交換を為すも果たして幾何の改善を促し得るや疑問には候へども一郷の学生団結して郷里の会合の中心とならんか活気自らその中に生じて学生の気風も自然改善せられ郷党の面目も徐々改まるものと信じ申候。

忌揮なく申せば、一部の米沢学生は静思黙考高遠なる思索に耽りて自ら行を清くして交を好まず、又他の大部分の学生は磊落剛健、書に親しまず学に努めず、以て剛毅となし以て英傑となし互いに自ら勝れたるものと信じ居るに非ずやと愚考仕られ候。加之(しかみならず)先輩の之に教ふる者亦時勢遅れの見解を以て一方を賛し又時に意地づくを以て他方を偏愛するに非ずやとまであやしまるる事も有之候。云う迄もなくかかる憂ふ可き状態を以てしては米沢学生の向上発展亦望み得ざるものと信じ申候。何とか各自固陋の見解を棄てて相共に理想に進む方法こそ緊要と存じ申候………

 

大正9年、有為会は創設30周年の記念すべき年を迎えたが、同年2月発行の第399号の《時事題言》欄には、「有為会改造案」が掲載されている。ここでは、ワシントン軍縮会議の全権随員を務めた国際汽船社長・黒川新次郎の斬新な褒言を紹介する。

 

世界の流行語なる「改造」も、今や我有為会を襲ふこととなった、蓋し時代推移の然らしむる処であらうと思ふ。

有為会はその要素の頗る複雑したる団体である。長老あり、中老あり、又学生もある。然もその所在は、日本の各県より世界の主要なる部分に及んでいる。然して米沢人は、今や日本の米沢人にあらず、世界の米沢人たらんとしつつある、否、たらしめざるべからず。

…形式だけは立派に出来上がり居る現時の有為会の各機能を、深く且つ広く活動せしむることが必要であって、総て是一種の改造である。然らば如何にして之を実現すべきか、先立つものは「金」と「人」である。早い話が、現在行ひつつある育英事業でも、教育事業でも、編集事業でも、更に進んでは東京部会その他に於いても、思ふ存分に活動せしめ得ないのは、要するに前期二者の欠乏と、当会員の間に共通の利害を感ぜしむる機会なき結果であると思ふ。依って余は左の数件を提議するものである。

1.有為会には常に新分子を注入し、評議員その他の役員は毎年新顔を推挙する事。総て是会員に共通の利害を感ぜしむることにもなる、

2.本会に有能なる専任幹事を置き有給となす事。

3.東京部長の如き、比較的時間多き且つ適当なるものを選み毎年更迭(こうてつ)する事。

4.東京都の如き中央における機関は、宜しく倶楽部的、青年会的な組織となし、会館を有し、米沢人の社交的会合、各種の講演、その他萄も米沢人の親睦、福祉を増進する一切の事柄を遂行し得る様設備を為し、進んでは地会員の東京へ往来する者のために、寝食を初め総て米沢式の慰安的待遇を提供する事。

5.育英費を潤沢となし、貸費生の数並びに貸費の額を増加する事。之れ世界的人材を多く我米沢より輩出せしめんとする点より又近時生活費の増加等より見て最も必要とする所である。

6.雑誌の紙面を大いに拡張し単に内容を米沢に関する記事のみに止めず萄も会員の為有益なるものは、広く題材を取り、大いに啓発に努むる事。

右の各項を十分に遂行するには多額の基金と少なからざる経常費を要するのである。これが為には大いに寄付金を募集することを必要とすべく、又有為会員としての会費を増額し、部会員としての会費を徴収することともなるが、此覚悟なくては、有為会の所謂「改造」も覚束無いのである。思ふに我有為会程安い会費は世界にもあるまい。その代わり又大した働きも出来ないのである。然し上述の如き大々的な計画は少なからず考慮と努力を要するを以て、余は若し理想的な大改造は、この際急に実行すること不可能なりとするも、之は永久的のものとして研究し、先づ応急的に出来得べき小改造より出発して順次大改造に及ぼしたきものと考へるのである。

 
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6章 戦前・戦中の有為会

第4代山下源太郎会長時代

第1次世界大戦、ワシントン軍縮会議、関東大震災、世界的経済恐慌、満州事変と日本を取り巻く情勢が厳しくなる頃、米沢有為会は、年齢満限で退役した男爵・海軍大将山下源太郎を会長と仰ぎ、平田前会長の築いた地盤をより一層充実すべく、.役員の顔ぶれも完全に代替わりとなり、世代交代が行われている。大正十年当時は総務部長が登坂小太郎、東京都長岡田文次、そして教育部長鈴木信太郎、編集部長我妻榮、さらにそれを助けて我妻の1年後輩の香坂要三郎導が『米沢有為会雑誌』の編集の中心になっている。

やがて東京部長に宇佐美勝夫が就任する頃、昭和3218日の東京部座談会を皮切りに、毎月第3土曜日を原則として、興譲館寮で、座談会が開催されている。有為会の先輩や当時の識者の講話を、一般会員にも聴講を呼び掛けて実施されている。その演題や講師の顔ぶれなどから推して、当時の関心事、思想の傾向、風潮などが想像でき、また身近な先輩の專門分野の語を聞きながら、学生たちも裨益される点が多々あったようである。この毎月の座談会は、在京の先輩と学生の「親睦の絆」役を果たしたことは間違いない。

当時海軍大佐の南雲忠一は「南支那の形勢」と題して語り、代議士の宮島幹之助は「議員生活の回顧」、侍従武官・海軍少将今村信次郎は「聖上陛下の御日常」を講話し、慶応医科大学教授の西野忠次郎が「学生の健康状態に就いて」、特許代理局主弁護士の内村達次郎が「発明の種類」、東京電灯社長・本間利雄が「我国の電気事業」、一方読書家として知られる興.業銀行総裁の結城豊太郎は「雑感」と題し、自分の読書の方法から当時の経済情勢一般について講語する、といった具合に、一座談会の内容はなかなか充実したものであった。また、先輩にまじって慶応大学学生の大河原英蔵は「米沢人の欠点について」と題し、若者の《米沢人論》を展開している。

 

大川周明の講話

昭和411月の座談会には、東亜経済調査局理事長・法学博士大川周明が座談会の講師として招聰されている。

米沢訪間2回の経験談から始め、尊敬する2人の米沢の先人として善隣書院長の宮島大八と大日本主義を唱道、教化団体国風会会長の上泉徳弥海軍中将の名をあげ、宮島が支那問題に、上泉が海軍に、それぞれ着目して業績を上げてきたことは、明治維新後の大事なことで、米沢の先輩の卓見であった。それ故に米沢は、県内のどの地方よりも偉人が出て国家に貢献できた。しかし、その維新後の大局に根ざす志が、最近幾分衰えが感じられる。町の有様や学生の気風を見てもそう感じられる、と前置きして、大川自身は学生時代には、西洋崇拝者であったと告白、井上哲次郎や森有礼の西洋崇拝熱を紹介する。

 

3年前に岩手県に講演に行った時、師範学校の最初の卒業生に逢った。その人の語によると、校長が非常に西洋崇拝で寄痛舎の衣食住をみな洋風化した。盛岡の洋食などは今でも不味(まず)」いから当時のものはどんなものであったか推察できる。その学校に50歳位のさむらいの未亡人がいたが、その婆さんは洋服は嫌だと言って泣いて頼んだがとうとう洋服を着せられてしまった。舎生は日本料理を食べさせるように嘆願したが聞き入れられず、こんなことなら学校を止めるとてみんな休んでしまったので、食事だけは日本料理になった。これが我国で最初のストライキであったろう。

…米沢市長の深沢氏の話であるが、米沢は御維新当時は不利の立場にあったので、日本で地歩を得るには洋学を要するという意見で、横浜よりダラスという外国人を月200(*250)で雇って来た。当時の200両は、今日の1万円にも相当しよう。それで、英語が読めなければ巾がきかないので、袖の中に横文字の本を入れておくことが米沢での流行であった、と。

森さん(森有礼)には気の毒だったが、森さんの思うようには行かなかった。何故なら、日本では学校の先生はさむらいや神主か僧侶であった。その人達は西洋人を獣に等しい人であると思っており、日本的であり、東洋的であり、また儒教的な教育を受けた人達であるから、日本として幸福であった。然るにそうこうしている間に、洋風に育てられた教師がぞくぞく出て来てこの人達が古い教師に代った。それ以来一変して西洋崇拝となり、その惰性が今日まで続いて来たのである。故に共産主義でも何でも一応は尊敬するようになったのである。

 

これに続けて大川は、「無尽のような立派な金融組織を排して英国流にしたから今日のように不安定になる」と経済不況も何もかもすべて西洋風にした結果だ、と決めつけ「日本の銀行家は信用がおけない人間」と痛罵する。

 

教育でもそうである。上級の学校に行けば行くほど考えの違った者が多くなる。教育の本義は、真の日本人を作ることである。小学校で随分教わるが手紙一本書けない、中学校を卒業しても親父の借金の言い訳も出来ない、というのは、どこかに欠点があるのに違いない。学校でものを教え過ぎる、役人にも、銀行家にも、弁護士にもなれるように教育する…学校では、学問にたいして燃ゆるが如き欲望を.与えて下されば良いのである。

小学校では村長に先生は頭が上がらない。村長の子供を落第させると直ぐ首になる。地方の中学の先生は、県庁の小役人に頭が上がらない。学務部長などは例外もあるが、一日も早く警察部長になりたいというような学校出がけの青書生である。日本では教育に趣味があるから学務部長をやる、という訳には行かぬ。位が上がらないし月給が安い。であるから、一時その上の職に進む過程の一時の腰掛けである。無理もないが、大きな欠点である。

政治でもそうである。英国流に2大政党はあるが、日本の国を2つに分けたようなもので、内政は兎も角、外政は言語道断である。ちょうど日本の半分が敵に味方しているようなものだ。内政は勿論、外政、教育総て行きづまっている。幸い未だボロを出さないのは軍隊ばかりだ。

洋風を取り入れてなお拾かつ軍隊がボロを出さないのは、維新までは武士階級が政治と軍隊を一手に掌握していたが、それが分離し、日本人として鍛練された人々が軍人となったからである。「有機化」は西洋が最も尊ぶところであり、それが最も取り入れられたのが軍隊である。科学を基礎とする発明発見に最も注意しているのが軍隊である。自他ともによく日本精神を鍛練しているからこそである。政治家は一向人格の鍛練をしていない……

行きづまりの原因には色々あり、制度も悪いが、その大きなものは日本精神の衰えである。日本的自覚を呼び起こすことが最も大切である。

日本人の目で物を見る時代が来た。欧米人の目で物を見る時代はすでに過ぎた。

 

大川の考え方は、完全な復古調である。この思想の裏には、天皇を現人神に奉り、国際的な孤立も敢て辞さず、唯我独尊、軍国化へと若者を誘う摩手が延びている。戦前の学生とその同世代の若者が、この様な思想に抵抗を感じながらも、結果的には15年戦争の間にファシズムの犠牲者となっていった。

 

有為会の反省期

明治42年の東京、大正3年の仙台に続いて、昭和5年には札幌に興譲館寮が設立される。

当初は郷里を離れ他郷で学ぶ学生にとって寄宿舎の存在は、特に経済的な面で無類の「恩恵」であったが、時代が進み、米沢の郷土的精神主義が、若者には、特に在京学生の間には、敬遠される傾向が現われ、有為会も発会当初の郷土意識が次第にマンネリ化し、時代と共に変貌を余儀なくされて行く。

昭和26月、我妻榮は、『米沢有為会雑誌』第364号に寄稿(「郷里の会」)して『有為会というものに対して自分の心のなかに今特別何の感興もない』というのが「有為会に対する唯一の感想」と打ち明けて、数年前、自分が雑誌の編集をやったころを回想しながら、心境の移り変わりを正直に述べている。この頃我妻は、外遊から帰って教授に昇進して間もなく、論文執筆に忙殺されていた時期である。

我妻が編集担当の時代には、極力会員の腹蔵ない意見の寄稿を期待して「時事題言」欄を設け《有為会改造論》などを募ったりしてみた。「然し今にして思えば何れも所期の目的は達しられなかった」と、記事不足で落胆した事実を告白する。されど修学中の学生の身、専門の記者のように先輩を歴訪して熱心に記事を集める暇もなければ、そうしなかった編集者の自分が「怠慢」だったとも思わない。この「自然の不熱心」は、学生にとっては当然である、と弁護している。そして現会員の寄稿者もほとんど絶無であるという現象については、有為会発足当初の先輩の学生は、熱心に相競って詩歌や紀行文や論文などを掲載していたが、我妻にとっては、編集に関係していた時も、現在も、有為会雑誌にそうゆうものを書こうという気持ちは少しもない、と言い、若者達がこのような無関心な気持ちになったことは、郷里の会合に対する態度として叱責されるべきものだとは思わない、何故なら、「昔そのように無関心であった先輩が、今日社会的にそれぞれ立派な地位についておられるのだから」と現実的な結果論で抗弁している。

次に才能がありながら、そのようにインディファレントな状態でいる理由として「今日の若い人々はその才能を示すべきもっと適当な機会を持っている。文芸、学術夫々同好の士、同学の士が相集まってその才能と知識とを研磨し得るので、特に郷里という関係においてこれを示すべき何らの必要もないのではあるまいか」と、《郷里〉という漠然とした包括的な紐帯による結合から、それぞれの意識的目的による紐帯による結合に分化する1社会の必然的な進化過程を見逃すべきでないこと指摘し、「今日の杜会に生活する若い人々は、その才能や知識の方面に於いては、郷里という結合から全く離脱してしまったのである」と雑誌寄稿者の激減は「必然の現象の当然の帰結」と説いている。

次に、上杉家が東京に移住された後も伯爵邸を現在のまま残して「郷土的精神の涵養」の中心に据えようという米沢の一部の人達の考え方に対して、我妻は、「郷土的精神」の存在も「涵養」の必要も、今は問題にしないと断って、この考えを東京に移して在京の米沢出身の学生の精神的修養の問題に適用し、例えば、興譲館や先君の祭祀を中心として、思想統一を企てた場合を仮定して、こう見解を述べている。

「現今の学生の思想界の混乱はある程度までは、変転期における社会の避くべからざる現象である。文部省の力の如きをもってしてその統一の望みえないのは云うまでもないが、光栄ある歴史を有すると称せらるる校風をもってしてさえその一部分の統一だに不可能な有様である。《郷里》の先君の遺徳というが如きものは、学生の思想の一端にだも触れ得ないのは、むしろ当然のことではあるまいか。思想の統一と精神的向上とには、相手を理解し、これを心服せしむることを第一の要件とする。しかるに郷里という紐帯は何ら今日の若い人々を心服せしむる力ともならず、またこれを理解する鍵ともならないのである。かくて上杉邸の間題が、私にとってインディファレントな問題であると感ぜらるることは少なくとも、我々の精神的涵養を郷里の結合を中心として企図することの全然不可能なものであることを物語ると云い得るのではあるまいか」と、ある物をシンボルとして崇高な道徳や宗教の拡大を図るのと同様に考えて「上杉邸」を「郷土的精神涵養」のシンボルとすることの非現実性を明晰に論述する。

興譲館寮については、「郷里の寄宿舎なるものは、今日においては単に〈安い下宿〉という以上に何等か精神的な利益を有するか、ということになると、私は何もないと考える」と断言している。「安い下宿として恩恵を受ける者が少なく、たまたま米沢が本籍というだけで寄宿をみとめる非合理な運営は有為会の事業に不相応」という理由からである。

最後に我妻は、「有為会は本来郷土的精神に根ざして設立され、この精神を中心として郷土を離れて各地に在住する人々を精神的に結合し、各方面の仕事をして来た。しかし会や、若い人々の間には、この郷土的精神は漸次薄らぎ《郷土〉という紐帯は何等の感激も、何等の共鳴をも惹起し得ざるに至った。有為会の諸々の不振は、実にこの根本的存立の基礎を失ったことに起因する………:私は今日において有為会の存在意義は、唯郷土出身者の親睦の機関となることと郷土の青年子女の教育に努力することに存在すると考える」と述べ、有為会が無意識的な郷土の会合から意識的な結合体へと変身して、「郷土の教育」という意識的目的のために活動すべきことを提言している。(傍線筆者)

この我妻の有為会批判は、現在も三省すべき価値がある。

 

先輩の回顧談

昭和46月発行の第384号には、当時文部省の督学官を務めていた長俊一の座談会講語が載っている。題は「音を語る」。「近頃米沢から人物が余り出ないから教育に欠陥があるだろうという話がある」と切り出して、長は「それで私の若い頃の滑稽なことなどを話しして参考に供しよう」と、まず明治27年の中学校の入学試験から話を始める。英語の藤根吉春主任教諭が、正月には餅をついて生徒を呼んでご馳走された話、歴史はスヰントンの「万国史」、代数はスミスの「大代数」を、共に原書で習ったこと、更に高等学校での授業について触れ、「要するに当時の教育は甚だ不完全不徹底なもので、良い教師は福島以北へは行きたがらないという風で、高師出は1人か2人程度、また教科書は程度が高く消化吸収は困難で、大低の人は解らない」と、現在の教育の進歩と教育事情の改善について触れ「教科書も教師も整傭されて学力をつけるには非常に好都合になったが、米沢から近来人物が出ない、なぜだろう」と明治30年当時の父兄や生徒の考えや自覚の相違を指摘する。「畠を掘れ、米をつけ、草をむしれなどと盛んに仕事をさせられたもので、私の友人などは、毎朝一臼ついて息を弾ませて真青になって登校したものであった。この様に勤労愛好の精神を養い、そしてまた盛んに勉強もした。テニス、べースボールなどははやらず、僕は機械体操などをやったが、そんなことをするより、畠を耕せ、米をつけと一言われたものだ。

今日では学校に出すような家庭では、勉強せよ、勉強せよといい、教授は丁寧で、誠に生徒は幸福である。それなのに余り芳しい人物が出ない、それは何故かしかとしたことは解らないが、少し極端に言えば、有象無象が学校に入るからではなかろうか? 昔は田舎から上京する者は賛沢をして暮らし、田舎に帰ってもろくな仕事もできず身代潰しだからとて、田舎からは余り上京せず、士族の子が多く遊学した。ちょっと余談になるが、米沢の南郊に「くりかえし(操返)」という所があるが、あれは米沢藩の国換え(会津から米沢への移封)の時、「ついて来た者を繰り返せ」と言われたが「百姓でもいいから藩主のお側に居たい」と懇願して現在の南原に土着したということから出た呼び名で、石垣町から知事級が2人も出ているのは故のないことではない、とある人が語るのを聞いたことがある。米沢では英明な鷹山公が土地を与え、畠を与えて梅・漆・薄荷等の生産的な植物を植えるなど、すべて自給自足でやって来て、一生懸命働いて人間として相当の生活をなすことを望んでいたものであった。今日人口は一般的の増加率程度にしか増えていないようで、事業は興らず、人間に活気がなく消極的で遺憾であると云われるが、これは雪が余りにも降ることが影響しているのかも知れない…この豪雪が人間の性質にも影響することは争えないことであるが、当時は多くの士族が零落し、殊に養豚や養鶏などをやって失敗した人なども多く、士農工商が平等になったとは言え、永年の惰性で学問をやる者は士族の子弟に限られていて父兄は盛んに学問によって身を立てるように励まし、誰も彼も月給取になることを望んだ…

一般の父兄も大学さえ出れば出世できると思っている。しかし人間が多くなり社会が進歩して、官庁でも民聞の会社でも採用する時には、人物も学力も試験している。商業学校を卒業して3年も立てば立派に役に立つが、高等程度の専門学校を出ても割合に役に立たないと云われ、そのレベルは平均化して来た。この時勢の変化に気づかずに、流行的に漠然と学問する

私が中学時代には、外套に金ボタンをつけて来たのを奢侈だと言って殴ったり、他所から来た先生で、余り頻繁に授業を休むと「御天狗様」とて雪の降る日に雪玉を投げつけられたりということもあった。(傍線筆者)

こんな具合に長は、昔の人達の、特に士族子弟の、学問の必然性や勉強への取り組む真剣な覚悟、根性の違いが人物輩出の大きな因になったのではないかと、自分の米沢時代を回顧しながら、最後は先輩の黒井悌次郎大将(当時大尉)が日清戦争の時受章した金鵄勲章の年金を寄付して、米沢中学校最初の修学旅行が実施され、初めて履いた靴で足に「まめ」ができたため草履に雁き替え、東京のど真ん中を恥ずかしいのでなるべく早足で歩いたこと等、珍談を披露しながら講話を結んでいる。

長の講語の内容からも、時代の転換期に遭遇した旧士族の緊張感ないしはハングリー精神といったものが、時代の進運共に学問をやる環境が次第に良くなると、どうしても、先人の時代のような忍耐・意志力・野性味というものが希薄になる傾向が目立ってくることがわかる。

 

他府県人の米沢人観

昭和45年頃の『米沢有為会雑誌』は、一時心配された会員の無関心さが嘘のように、活発な寄稿が続いていたようである。「文苑」欄の歌・詩・漫談等を始め、「通信欄」には各地方や諸団体の活動状況などを知らせる記事が毎回掲載され充実している。雑誌冒頭の会員個人の意見発表の場には、座談会の主要講語のまとめのほかに、郷土愛を呼び掛けるもの、米沢の業界の奮起を促すもの、青年と思想問題を扱ったもの、その他随筆、紀行文、欧米視察談等々、大先輩、中先輩、そして若手の先輩・学生等の寄稿が誌上を飾っている。

昭和59月発行の第395号誌上に「門咲生」なる寄稿者が「他府県人の米沢人観」を、聞いたまま、感じたまま、と断って率直にペンを走らせている。

 

「米沢人は、他府県人より質実、剛健、朴直であると見られ大いに褒め囃されていますから、洵に喜眉よいことではあるが、是れ衷心からの賛辞であらうか、又は口先ばかりけなのお世辞でせうか、柳か疑ふなき能はずである………貶さるる時よりも、褒めらるる時には油断はならぬ、一層揮を緊めて気を付けねばならぬ………」

このように書き出し、次に米沢人の排他主義についての批判に対して、米沢市助役就任者の山口県出身国司兵馬や東置賜郡出身の島津悌蔵の例を挙げて、鶴岡あたりより米沢の方が排外思想が少なく、むしろ排内思想の方が気になるといい、隣保相嫉視し、後進を引き立てる深切心の不足を憂慮している。更に土木県令三島通庸と黒金泰乗や五十嵐力助の関係などを述べながら、人材登用に気をつかった三島通庸の器量を称賛し、「今他郷人の米沢観及びその批評そのまま、並びに愚老の所感を他所人ならぬ有為会諸賢の前に開陳して更に批判を乞はんとするは、強(あなが)ち米沢の非を発く發(あば)かんがためにあらず、専ら米沢を思ふの厚きに由るのであるから、青雲の志を懐く紳士青年諸君においては、悪感を懐くことなく、立身出世の規範として、我が身の垢を研くの好材料となさば幸甚の至り」と、他府県人の米沢観の概評を次のようにまとめている。

 

・米沢人は、個人主義であるから、共同事業の成立は難しい。故に製糸事業、機織工業、その他会社組織は、皆失敗に帰して発展せぬ。

・米沢人は議論を好み、理屈に走る。故にややもすれば議論倒れになり、理屈倒れに終わり、虻蜂取らずに終わることがある。

・米沢人は言葉遺いが荒いため、横柄に聞こえて人付きは悪い。故に愛矯に乏しきも、決して心持ちは悪くない。

・米沢人は虚飾はないから、外観は無愛矯・横着に見えても内心深切である。

・米沢人は朴直にして遠慮深く、思ふ事を心に貯へて居でも口外することを憚る。故に因循姑息に思はるることあり。

 

第5代宇佐美勝夫会長時代

昭和6218日、山下源太郎会長が逝去する。この年2月、米沢有為会雑誌は第400号の記念号を発刊する。この記念号には総裁の上杉憲章「英米の将来」と題する堂々たる論説をはじめ、黒井悌次郎の雲井龍雄の遺体を米沢に移葬した時の経緯についての寄稿、内村達次郎の有為会発会当初の回想記、青柳一太郎の有為会雑誌についての思い出等々、歴史的な資料として価値ある貴重な記事で埋められている。

山下会長から宇佐美会長へと代る頃、日本国内の情勢は日毎に緊迫を増し、ロンドン条約締結に絡み統帥権干犯問題(昭和54)、浜口雄幸首相の狙撃事件(11)、橋本欣五郎・大川周明らによるクーデター「三月事件」(昭和6年3)そして日本が戦争にのめり込む端緒となる満州事変(9)と軍国化の波が、広く、深く教育界にも浸透して来る。

 

爰(ここ)に新に昭和5年の黎明を迎ふ。

顧みるに我日本帝国が半世紀に於ける国力の発展は実に先進列国の驚嘆の標的たり、又後進諸国の憧憬の中心たりしが如し。然れども最近10年同じく国威宣揚を年と共に克ち得らるや否や。

年頭静かに思ふ、我が進展膨脹の内面的活力如何、近年或は精密なる計算の狙上に置かれたる帝国の実力如何、東洋の盟主か否か、今や鼎の軽重を問はれんとす。

吾人は覚醒を要求す、緊張を要求す。

吾等の近き先輩は鋭意革新の歩武を進めて一刻も休まざりし、海の彼方欧州大戦後の独逸を初め列強の努力奮闘を思ふとき、一日も吾人の晏如(あんじょ)たるを許さざるべし。只然れ共万邦無比の上に御稜威(みいつ)を戴くもの協力一致熱烈の意気を以て精進せんか、庶幾(こいねがわ)くは祖先の遺業を発揚するに足らん哉。

 

これは昭和51月の第389号冒頭の「年頭の辞」である。ワシントン会議、ロンドン会議における海軍の軍縮の結果を憂慮する気持ち、「近き先輩は鋭意革新の歩武を進め」とは関東軍を中心とした満州進出のこと、「独逸初め」とはドイツ、イタリーのファシズムの台頭を指すものであろう。

大正期のいわゆる「大正デモクラシー」の影響の見えた時代の編集部とは一転して、昭和初期には国家主義的色彩の濃い思想が、有為会編集部にも入り込んで来たように思われる。

座談会に講師として大川周明が招かれている事実が示すように、国粋主義的な傾向は次第に支配的になって行く。

昭和16年、《支那事変》と称された日中戦争は泥沼化して、ついに英・米を敵に回して大東亜戦争へと突入する年である。この年の『米沢有為会雑誌』の年頭の辞は、当時の緊迫した、今にして思えば、息苦しいまでの悲壮感すら漂っている。

 

皇紀26百年は輝かしき足跡を残して去った…過ぎし1年を顧みるに、まことに内外多事多端ではあったが、しかも吾等の歩みは着々と目標へ向かって進んで行った。内には万民翼賛の新体制の準備あり、外には皇軍の武威南北に挙がり、更に世界新秩序確立のために独伊と結ぶに至った。

今や世界は偉大なる陣痛に悩んでゐる。現在の混乱は新たに産み出されんとするものの胎動にほかならない。吾等は此の苦しみに耐えて、新しきものを世に送り出さなければならない。吾等は新しき時代の妊帰であり又産婆である。

翻って我が米沢有為会も、年を閲(けみ)すること実に50有2年、郷土米沢の発展を目指して微力を傾注して来たが、近く目的を同じくする財団法人米沢教育会、教育財団米沢興譲館を合併、いよいよその基礎を固くし、以て所期の目的遂行に邁進することになった。今後の活躍は正に刮目して待つべきものがあらう。

建設の時代は浮き上がった抽象論を排する。而して吾等の精神生活は、常に郷土に始まる。郷土精神発揚の叫ばれる今日、本会の任務も亦一段と重きを加へたものと言はねばならない。会員各位の協力をお願ひして、以て年頭の辞となす。

 

開戦後1ケ月、真珠湾奇襲攻撃の成功、マレー沖に英国東洋艦隊の主カプリンス・オブ・ウエルズ、レパルス両艦の撃沈という大戦果直後の、昭和171月の年頭の辞はどうだったろうか。

 

年頭の感

香坂昌康

人あり予に年頭の辞をもとむ。雄渾にして明朗なる此の年を迎へ、人皆悉く大なる歓喜と感激とを以て重大時局に対する覚悟を新にせり。何ぞ更に冗言なる年頭の辞を用ふるを要せむ。乃ち代ふるに国風数首を以てす。もとより歌人の詠にあらず、ただ志を述ぶるのみ。

黎明の鐘は高鴫る

古ゆいまだあらざる大き年大き亜細亜の明け初むる年

天地再び開闢

天つ神固めし国に大いなる新あめつちの闢け行く年

国民皆英雄

御民われら生けるしるしありと一億の国民こぞりふるひ立つ年

世界戦史の上に古来未だあらざる戦捷を以て此の年を迎ふ何の幸ぞや。此の年頭に当り其の感激と歓喜とを歌はざるを得ざるなり。

一挙にして敵艦隊全減

大皇軍(おおいくさ)立てる息吹に敵の艦砕けて飛びて散りて消失(けう)せぬ

皇国史上古今の双壁

寄せ来れば多々良の浜よくぐまれば真珠の湾よ神業知れりや

鳴呼帰らぬ潜水艇勇士

真珠の海水づく屍と神去りて大き生命に生きし君はも

壮烈不朽、丹心千古

日本男の子はかくするものと益荒雄は百年後の子にも教へよ

作戦至妙、気魄大洋を圧す

南の洋八十島かけて益荒雄は敵覓(ま)ぎ進むうちてしやまむと

 

香坂昌康は当時東京部長であった。この和歌に託した香坂の感懐は、開戦劈頭の大勝利に酔う当時の日本人の「興奮」を代表するものであったろう。昭和18年以降、宇佐美会長に代って、結城豊太郎が会長に就任するが、実質は香坂東京支部長の摂政時代であり、それを補佐して意欲的に有為会存続のために奔走したのが相田岩夫であった。

 

満州支部・朝鮮支部の誕生

昭和6年から同18年にかけての宇佐美会長時代に、米沢有為会の動静として一番目立つものの1つは、外地の支部結成であろう。有為会雑誌の「通信」欄の記事も戦時色の濃いものが増えて来る。

昭和75月、第422号の「通信欄」は〈大連便り〉の記事が冒頭を飾っている。

 

○満州支部生る

兵匪横行の満州は今や新国家実現し、前途洋々たるものあると共に、日満関係は旧に倍して好転、邦人の活躍目覚ましきものあらんとする時に当たり、本部字佐美会長より慫慂(しょうよう)もあり、当方にても支部の必要を感じ、岩井(勘六・.陸軍少将)、高橋(仁一・南満州電気会杜常務)、丸山(英一・大連二中校長)、遠藤(友吉・大連港水先案内人)等有志準備を進め、429日天長の佳節をトして発会式を挙げたり。

○上杉神社遥拝式並びに家族会の盛況

毎年恒例として桜花の下、藩祖の祭典を行ひ兼ねて家族会を催しつつありしが本年は、家族34(1家族平均5)、独身11180名の多数に上り、殆ど例年に倍する盛況を呈せり…

 

同年77日には京城において、20数年前から結成の「米沢人会」を基に新入会員にも呼び掛けて、朝鮮支部が設立された。支部長は朝鮮総督府林産課長の伊藤重三郎。発会当初の会員数39

昭和910の第426号には「通信」欄には《連合艦隊将士を迎ふ》という大連支部報告が掲載されている。

 

「艦隊来たる」「軍艦来たる」の叫びは、毎年大連市民各層に漲り揚がる歓声である。犬連全市を蔽ふ福音である。…艦隊の入港は大連市の年中行事の一として、如何に市氏を喜ばせ、如何に市民を躍らせるかは、大連市に住む人のみぞ知るところである。

例年は陽春4月の好季を以て艦隊来の時期としてあったのに、満州事変以来殊に今年は日満官民を挙げて待ちに待った我等の第1、第2の連合艦隊70余隻は、末次提督に率ゐられて威風堂々其の勇姿を港外に現したのは、天気晴朗にして浪また高からざる918日午前6時半である。昨17日には、日清戦役海軍記念日に由緒深い裏長山列島沖にして猛訓練を終へて、今日満州事変3周年記念日に入港したのは、吾れ人ともに蓋し感慨無量なるものがあるのである…街頭は至る所潮の香高き赤銅色に日焼けした海軍服の大氾濫、大連は全市正に非常時軍国色に塗りつぶされてしまったのである。我が有為会大連支部においても、例年の通り郷土出身の将士を歓迎せんものと…先ず接待員としては女中を全廃して会員の奥さんとし、次に料理は納豆餅、なめこの大根下ろし和ひを初めとして、その他当地名産のうづらの照焼き、ゆでたる青豆、又岩井支部長からは秘蔵のイナゴの御寄贈などがあり、接待する人と云ひ物と云ひ、他所では真似の出来ぬものばからり…

来駕の諸星は(順序不同)

高雄艦長 南雲忠一氏、摩耶砲術長 山森亀之助氏、い号潜水艦水雷 長勝見基氏、迅鯨砲術長 林崎守三氏、狭霧砲術長 工藤俊作氏、扶桑艦参謀 亀田寛見氏

 

この歓迎会の席上南雲艦長は、目下の重大間題は不平等な比率の軍縮間題であることを強調、実力のある海軍がなければ、国防の安固は期し難く、東洋平和の礎である満州問題の解決が出来ない旨、るる説明している。

昭和912月の第438号の「通信」欄には〈佐世保便り〉が掲載されているが、佐世保在住米沢人の懇親会の模様の報告である。鎮守府の所在地だけあって参集者は、佐世保鎮守府参謀長片桐英吉少将一家、加賀艦長近藤英次郎大佐、羽黒艦長山口実大佐夫妻、千鳥水雷艇長山田勇助少佐一家、林崎守三少佐夫妻で、左近司政三中将が佐世保鎮守府司令長官を辞職して後任の米内光政中将が司令長官就任間もないころのことである。

 

東京興譲館寮の移転敬築

明治42年建設の東京興譲館寮は、敷地南隣に淑徳高等女学校の3階建校舎が新築されたため、日陰となり、また老朽も目立ってきた。そこで寄宿舎の新築には不適切な敷地となったので、その移転改築の方法について昭和9年1月評議員会を開催して、次の3項を決めた。

1.上杉伯爵家より許される範囲内で土地の選定並びに寄宿舎・館長公宅の建築設計をすること。但し土地の面積は館長役宅及びテニスコートの所要面積を最小限とし、万一上杉家許容の範囲内で支弁不可能の場合は、その超過金額に相当する土地購入金は有為会資金をもって一時調弁してこれを有為会所有地とし、追って資金補充計画を立てること。

2.東京興譲館建築委員は15名以内とし、これに土地の選定、建物の設計その他同館建築及び移転に関する一切を委任すること。

3.前項建築委員15名の詮衡指定は議長に一任すること。

こうして伊東忠太・佐野利器・山下寿郎ら建築学の権威をはじめ香坂昌康・相田岩夫・保科孝一・吉田熊次・登坂小三郎・遠藤達、他6名が建築委員に指定される。

そこで村山同郷会関係者との折衝を開始し、昭和87月以来上杉家並びに村山同郷会と紆余曲折種々交渉の結果、同会が東京興譲館所在の上杉家所有地を全部53千円で買取り、米沢有為会は右売買契約の完全履行を条件として、現寄宿舎建造物を無償で村山同郷会に譲渡し、上杉家においては右売払い代金中、現敷地買取り代金同等又はそれ以上の金額をもって、興譲館新築敷地を買収してその使用に供し、5千円を右の土地維持資金として留置き、なお土地収得諸費用を支払った残金を東京興譲館不築資金として寄贈の恩典を受けることになった。

この様にして、上杉家対村山同郷会売買契約書と米沢有為会対村山同郷会契約書がそれぞれ交換され、新築敷地として西大久保四丁目(富山ケ原陸軍射的場南側)に上杉家所有46685、有為会所有地1873365808の政府払下げ地を29,43360銭で買収、延べ坪数22124の寄宿舎及び延べ坪3767の館長役宅並びにテニスコート建設の設計を完了する。512日地鎮祭、626日上棟式、1014日竣工式と順調に進捗する。

昭和89年度継続臨時部会計「東京興譲館建築予算書」は次にようになっている。

収入の部

支出の部

上杉伯爵寄贈

24,850

敷地一部購入費

9,000

基本財産繰入 

9,000

寄宿舎建築費

19,350

寄宿舎修繕積立金繰入

1,200

館長役宅建築費

3,810

図書運動資金繰入

4,800

敷地整理費 

1,450

 

 

門塀・物置建築費

1,100

 

 

テニスコート建設費

400

 

 

什器その他設備費

2,300

 

 

総務費

2,300

 

 

予傭費

940

計 

39,850

計  

39,850

昭和91014日の竣工式当日、上杉総裁の告辞の後、宇佐美会長の謝辞。次いで館長遠藤達は「新興譲館は通風採光及び設備に拾いて学生の勉学に、將又修養に最適の条件を具備し、在舎生一同をして恰も理想稀に在るの思いあらしむ。惟ふに世界の文運は日に日に急進し、平和の戦争亦年1年激甚を加ふ。苟も天下国家に志あるものは時勢に媚びず確固たる信念を抱き奮励努力帝国のため有為の人材たるを期せざるべからず………」と舎生に対する覚悟を促しながら謝辞を述べている。つづいて旧館時代の舎生(桂友会)一同を代表して東京電気会社社員木島正太郎が「壮大なる新館を見るとき欣喜措く能はず」と感懐を述べて祝辞を呈し、東大農学部学生星野秀一が「孟母三遷のとかや我等も亦この好適地を得たり」と舎生総代として謝辞を述べる。当日午後5時より一ツ橋会館で、宇佐美会長の貴族院議員勅選就任祝賀会が開かれ、96名の参会者がその栄誉を祝福している。

 

座談会の再開

東京支部主催の座談会が、寄宿舎移転前後の取り込みでしばらく中止されていたが、昭和9128日、新装なった興譲館寮において、宇佐美会長、理学博士宮島幹之助、海軍大佐小林仁の3名を招いて久方ぶりに開催された。東京支部当事者としては、情勢の緊迫している折でもあり、その講師選定には殊の外気を遣っている。宇佐美の穏健な人柄、宮島の国際性、軍人とは言え米国大使館付武官の経歴もある知性派の小林海軍大佐、何れも、当時としては最適の人選であったと言えよう。

宇佐美は有為会発足の当初の精神に立ち返り「同郷の子弟が寝食を共にし館長を中心にして、私塾的生活を送ることにより、現代の大量生産的教育の通弊を除去し得べき」ことを力説「真正の自治とは各人が舎内の秩序を守り、その義務を尽くすことによってのみ確立」されることをじゅんじゅんと説いた。

宮島は、スイス訪問談の中で、ジュネーブで開催された国際会議席上松岡全権大使が国際連盟脱退の演説をぶったことに触れ、湖畔に屹立する連盟の大殿堂も「売り家と唐様で書く三代目」の感を免れないと、国際連盟の存在価値が薄らいで来たことを風刺してみせる。次いで訪欧の都度必ずドイツを尋ねるのは、恩師北里柴三郎の旧師の墓に詣でるためと説明する。北里の旧師は、大戦中に戦費に窮したドイツ政府が個人の金銀金具類の寄付を要請した時、金時計を供出しその代償に「金は国を護り鉄は名誉を象徴す」という文字が刻まれた記念の鎖を贈られた。その未亡人から預かってきた実物を宮島が聴衆に示した時には、満場寂として声がなかった。

小林は、アメリカのニラ運動(National Industrial Recovery Act)から説き起こし、「禁酒法撤廃の結果、憲法の威厳を増した点においても成功であるが、これ以来、以前禁断の酒が自由に飲用できるために、(禁酒法適用外の)大使館邸に参会したその道の豪傑が集まらなくなった」と聴衆を笑わせ、フィリッピンの独立問題、キューバの反乱等に触れ、「前者は政治的意味よりはむしろ米国の経済的利益のため」「後者については、今後も中南米に跡を断つことがなく起こるだろう」と説明する。そして米国のソヴィェト承認は現状では余り経済的利益のないこと、米国の海軍拡張は、東洋における制覇確立を目指す意図に基づくもので、この考えを捨てぬ限り、日米の円満な協調は難しいと敷衍(ふえん)する。講演終了後、米国の軍事・経済に関する質疑が相次いだが、小林はこれらの質問に明快に答えている。

国際的な視野に立つ各講師の講話は、舎生にとっては絶好の刺激になったようだ。

 

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第7章 米沢有為会の再建

相田会長の情熱

昭和2471日、米沢有為会雑誌は「会誌」と名称を改め復刊されたが、再び休刊、そして昭和277月再復刊される。この号が戦後の復刊第1号となる。

7代相田岩夫会長は、この復刊第1号誌上で「有為会に寄せる」と題し戦後の有為会再建の意義を説いている。

 

江山洵美是我郷!

故郷をなつかしむのは人間至純の情であると思います。

3千年の昔、バビロンの河岸の柳に琴をかけ涙を流したイズラエル慮囚が望郷の悲歌から、近くは啄木の「ふるさとの山」の短歌に至るまで、それが人の心を動かきずにおかないのは、この人間至純、至深の感情に触れるからに外なりません。この人間至純、至深の情操を中核として成立したものが、我が有為会であると思います。封建思想を温存する組織であるとか、狭い日本の中に更に狭い城郭を築こうとするものであるとか言うのは、ソフィストケートされた(※世間慣れして清純さを欠いた)頭の浅はかな考え方であって、人間深奥の魂の泉は自ら違った、微妙な音楽を奏でている筈です。

有為会の組織や運営方法は、戦後非常な変革を遂げました。然し、有為会の右に述べた本質は決して変わることなく、従って、人間と共に永遠に存続すべき運命を担っているものであると存じます。

有為会は終戦直前に、空襲によって東京・仙台両興譲館を喪い、本部の書類を悉く焼失し、非常の苦難を嘗めました。然し、会員の郷土愛はどんな苦難もこれをひしぎおおせることができず、その後着々と復興しております。学生寄宿舎については、東京・仙台興譲館の増改築の外、山形興譲館の新設も企図しております。優等学生の表彰も今春復活致しました。夏季講演会も本年は復活したいと思っております。会報の発行もなるべく頻繁にしたいと思っておりますが、目下は寄宿舎の復興に主力を注いで拾り、それに尚会費の集まりが昔の如くでないため、思うに任せませんが、暫く会員のご辛抱を願う外ありません。

有為会は追改と死とによって多くの大先輩を喪いました。現在は小生如き小者が会長の地位を汚しているみじめさでありますが、日本の各界を通じて、間もなく最高の地位に立つべき立派な蕾が郷里の出身者の中に、無数にあることを見い出して、何とも言えない歓びを覚えます。この歓びを会員の皆様にお伝えして、筆を擱くことに致します。

 

戦後の興譲館寮

戦後復刊第1号の昭和27年発刊の『米沢有為会々誌』には、「興譲館だより」として東京・仙台・札幌の3興譲館寮の記事が掲載されている。先ず東京の興譲館は…

 

「かつて諸先輩が吟遊した射撃場際の上堤には、立入禁止の札が厳めしく立てられ、テニスコートであり、又戦争中は防火用水、壕舎(防空壕)であったところに北、身丈程の雑草が一面に蔽って居た…」

 

終戦後学校現場の授業が再開されると、興譲館寮生たちは、(昭和241024年ぶりに東京興譲館が開館するまでは)一時先輩の篠田義市(評議員)・遠藤達(相談役).永井省三(評議員)3氏の私宅に寄宿して厄介になっていた。

 

「あの当時、或いは法外な値の下宿に、或いはトタン葺のバラックの親戚にと、それぞれに再会の日近きを念じつつ別れて行きながら、切迫した日々の生活に追われ、学校を異にする境遇にあっては、仙台興譲館がすでに学生の手で再建準傭が進められていることを聞いても、結局焦るばかり何も出来なかった。併し、こんな風に学生が生活に追われている間、毎月の理事会では一日も早く住む処を、という諸先輩の御厚意が、当時の支部長加勢(清雄)先生のお力になる、阿佐ケ谷の住宅購入提案を初めとして、不断に続けられつつあったことは全くありがたかった…」

 

興譲館の再建工事が開始されたのが昭和245月、9月北村徳太郎館長の詮衡により5名の学生が入舎許可となるが、配線工事や畳の敷詰め作業が済むのを待ち兼ねるようにして入舎する始末であった。102日、相田会長外多数の先輩が参集して開館式が挙行される。

寮母さんを迎えるまでの約2か月は、寮生の自炊生活が続き、1日2食、しかも粥食をすすりながらの共同生活であった。やがて、寮内は総代・委員の執行機関が統制をとり、重要間題は館長の指示を仰ぎ、月1回の定例舎生会に拾いて民主的に処理され、寮の運営も軌道に乗る。

 

「終戦後6年を経過した今日では、あの敗戦の直後に見られた打ち砕かれて絶望的に荒んだ思想も、生活態度も、戦災地の復興と共に次第に健全なものへと回復の一途を辿った…故郷を遠く離れても常に恰も故郷に居る如く錯覚さえする、心の安らぎを与えてくれる…」

 

次いで、杜の都仙台の興譲館は…「朝の私達の食卓には自作の豌豆の味階汁、夕餉には鰹の照焼一切れも出るという良い季候ともなりました」とやや余裕ありげに報告が進む。

 

「仙台における学生生活は、なるほど、東京のそれと比べ経済的負担が軽いかも知れませんが、よろず変動の激しい時代にあってはやはり容易なものではありません…小遣い稼ぎのためか、あるいは何かしないではおれないという脅迫観念に駆られてか、選挙運動員・家庭教師・夜警・会社の臨時雇・血液売り等々のバイトをやり、この時代の学生らしく生きております…」

 

戦災のため規模が半分に縮小された仙台興譲館は、館生が18名、寮母さんの家族を入れて20名。定例行事として4月の上杉神社遥拝式、10月の芋煮会、1月の新年宴会などが実施され、3月の卒業生歓送会には、三原支部長のぽか、東北大学学長高橋里美、国税局長黒金泰美ら名士も多数参加している。

戦災に逢わなかった札幌の興譲館は…「創立以来26年を経ていますが、此頃では建物も古びて正に興譲館と呼ぶに相応しい風格が出て来たようです」と、書き出しからなんとなく平和な、大陸的な雰囲気が漂っている。

 

「現在まで当館の送り出しました先輩は60数名、勿論、農・工・医・理がほとんど全部で、文科はわずかに1名という状態ですが、終戦後にわかに作られた法文ですから、当然の結果です…米沢興譲館中学出身者も戦前はかなり来ていたようですが、戦後はにわかにさびれて昨年、一昨年あたりではわずかに1人、米沢に関係深き者数名で、寮の経営上寮生の知人友人等を入れて寮を維持して来たのですが、現在も興譲館高校出身者は僅かに1名です…一時は以上の如く米沢出身者が至って少なくその上住宅難が絡み合ったせいか、有為会の人からも館の性格を云々され、存続が無意味の如く思われたこともありました…有為会員も多いとは云われない当地では、館の存続維持等の解決しなければならない重要な問題が多く、それだけに本部のはっきりした態度が望ましいのです。」

 

維持会員制度と拡充運動

米沢有為会は、戦時中はほとんどその活動を停止し、戦後再び再発足したわけであるが、昭和20年代の後半になってようやくその活動が活発さをとり戻したとはいえ、まだまだ戦前の盛況に比すべくもなかった。1日も早く有為会本来の目的遂行を願う本部役員は、その挽回策に苦慮していたが、往時に比して少ない会員が収める会費内では、予算も満足に組めない状況であった。この貧弱な財政を補う当面の方策として考えられたのが、昭和27年度以降の《維持会員制度》であった。これは会員有志から年会費以外に年額千円の特別寄付を受け、これで有為会振興の原動力にしようと企画されたものである。従ってあくまでも暫定的なものであった。本制度が設立されて以来、年々協力者は増えてはいたが、昭和29年度が維持会費20万円(維持会員200)の予算計上に対し139名、同32年度が155名という実績で、昭和33年度にも協力要請が継続されている。

因みに昭和32年度の収支予算案のうち一般基金の収支を見てみれば次の通りである。

         <収入>

<支出>

前年度繰越金

2,886

貸費金

133,000

教育基金より繰入

36,000

寄宿舎補助金

12,000

一般基金利子・配当金

65,000

賃借料諸税・保険料

181,000

会費

380,000

教育奨励費

20,000

維持会費

200,000

郷土産業振興費

10,000

一般基金戻入

84,000

会報費

230,000

雑収入

80,000

会務費

110,000

貸費金返還

13,000

支部交付金

95,000

再建資金寄付

100,000

雑支出

10,000

 

 

一般基金へ繰入

112,000

 

 

一般基金立替返済

45,000

 

 

次年度繰越金

1,886

合計

959,886

合計

959,886

尚、同年度の事業計画案として、有為会拡充運動、維持会員制度、有為会雑誌及び会員名簿の発行、東京・仙台・札幌・山形各興譲館の経営、高校卒業優等生の表彰、奨学金(大滝・近・小野各奨学金)、米沢織物品評会の表彰、基本財産林の造営が盛り込まれている。

昭和34年は、有為会創立70周年、社団法人認可以来満50年の年に当たっていた。そこで昭和287月発行の『有為会々誌』を通し「会員倍増運動」「興譲館再建資金募集」の推進を狙いにして、《米沢有為会拡充運動》が展開された。

因みに昭和337月現在の会員数を同283月現在(括弧内数)と比較してみれば、東京支部695414)、米沢支部641368)、山形支部262270)、仙台支部10338)、札幌支部113131)、京都支部9679)、)阪神支部3326)、地方部8471)不明会員127、総計2,1541,397)という状況で、約1.5倍増ということになる。

 

有為会の復活

昭和34816日、第71回定時総会の議事終了後、直ちに創立70周年記念式典が挙行された。相田会長はその式辞の中で戦後再建の後を顧みながら次のように述べている。

 

…現在ば会員数22百余名、本部のほか7支部を有し、その規模昔日の比ではありませんが、東京、仙台の興譲館を復旧し、山形興譲館を新設し、大滝、近、小野の諸氏の篤志により、貸費制度を設定するなど、育英事業の振興を計り、又須藤氏の寄付金により遠大なる山林造成を行って将来に備え、他面会員の親睦と福利に協力同心して、漸次、往時の盛況に復しつつあるのであります。

この間、終始一貫して本会の真髄をなすものは、会員の大同団結した愛郷の精神であり、また、創立以来歴代の会長及び役員の全く献身的な奉仕であります。これあるが故にこそ、本会は幾多の試練にも打克って、連綿として今日までの、華美ではないが、堅実なる発展を見ることができたのであると考えるのであります…

最後に、本会が終戦時の壊滅的状態から再び立ち上がるためには、勢い、有志の金銭的協力に訴えざるを得なかったのでありますが、この間にあって常に本会に対し、深い理解を持たれ、年々多額の補助金を賜った米沢市を初め、これまで、ご援助を賜った長井市、その他町村並びに山形県に対し、厚く御礼申し上げますと共に、先年東京興譲館の敷地の一部を寄贈せられました上杉家、各地興譲館の復旧などに当たり夫々過分の寄付金を醸出せられた会員有志の方々、貸費制度設定のため又は山林造成のために特別御寄付を下さった方々、戦後の会財政の窮乏を助けるために維持会費を年々醸出して下さった方々に、心から感謝申し上げながら、本会の総会、記念式典、記念講演会などにかんし御高配を賜った米沢市にたいし、我等の感謝と祝祷とを捧げて、式辞を終わる次第であります。

 

ここで相田会長辞任の昭和38年まで、有為会が戦後再建を果たし基盤充実に至る過程を振り返ってみる。

(1)昭和28年から「有為会拡充運動」を展開、同34年には「会員倍増運動」を強力に推進、実績を上げる。

(2)昭和34年創立70周年を記念して、戦後、大滝信四郎・近喜代・小野茂平らの育英資金寄付を元に、中絶されていた貸費制度を復活。

(3)昭和34年、育英資金の貸費事業の推進のため、広く寄付金を募集。

(4)昭和27年春以未、郷里の学生に希望と激励を与える意味で、米沢地方所在の公立・私立の高導学校卒業生中の優等生表彰を継続。

(5)昭和354月1日より、文部大臣認可を条件に、年会費を「3百円」から「5百円」に、一時納付金を「3千円」から「5千円」に改正。

(6)昭和3412月、仙台興譲館第2次復元増築工事完成。

(7)昭和36年5月20日の理事会並びに教育委員会の合同会議により、育英事業の強化を計り、制度の改正に踏み切る。育英事業の一つとして貸費制度が有為会に設けれたのは明治444月で、昭和13年末までに、総数84名、総額44,642円に上る奨学資金が与えられている。ところが、戦時中壊滅的状態に陥った有為会では、戦後この制度を復活する力もなく、暫時休止の已むなきに至った。昭和34年に篤志家の寄付により復活はしたものの、今回改めて有為会固有の資金によるものとして記念事業募金のうち70万をこれに充てて奨学金制度を復活することにした。そして従来の大滝・近・小野三奨学金を大同合算して《米沢有為会奨学金》として運用することになったのである。勿論特別会計であるので、同年722日の理事会において、戦前の「社団法人米沢有為会貸費規則」を廃止し、新たに「米沢有為会奨学金貸与規則」を制定することにした。

(8)昭和37年7月、米沢織物品評会に「有為会賞」を設定、以後毎年本賞の授与が決定。

(9)昭和37年、置賜一円より山形大学に遊学する学生のため同308月に設立した山形興譲館が、最近交通事情の改善により自宅通学生が増え、所定の入寮人員に満たなくなり他県の学生を収容するような状況となったことと、もともとこの建物が借家で賃貸借契約による期限1ケ年延長経過で貸借不可能のことでもあり、経費が嵩み経営も困難になって来たので巳むなくこの8月で閉鎖することになった。

 

相田岩夫会長は、戦前・戦中そして戦後と、日本の国情が最も危機に瀕した暗黒の時代を、文字どおり愛郷の赤誠を貫き、東京興譲館の移転新築、そして焼失後の再建、奨学金制度の復活、郷土産業の振興、地元高校生への激励等々、正に米沢有為会の蘇生の大恩人であった。

 

8代宇佐美洵会長時代

昭和38年8月18日、相田会長が辞任し第8代会長に宇佐美洵が就任する。宇佐美会長時代には、

(1)昭和39年度より米沢市からの助成金は20万円となる。昭和25年以来毎年10万円の助成があり、同38年には15万円、それがさらに5万円増額されたわけである。

(2)昭和39816日、「奨学金貸与規則」の一部を改正して、従来月額2千円の奨学金貸与額を39年度貸費生より月額3千円に改正、返還については、大学卒業後毎月1千5百円であったものを毎月2千円返還に改められ、同44年には月額5千円貸与、3千円返還に、同516月には、時勢に鑑み月額1万円の貸与、8千円返遺に改正されている。

(3)昭和39年に「東京興譲館再建委員会」が発足、昭和24年西大久保に戦後再建された興譲館が木造で老朽化が目立って来た。一方東京遊学の学生もその数が増えてきて、在京学生寮の拡充を要望する声も強く、理事会では鋭意検討を重ねた結果、500余坪の遊休敷地を活用して、抜本的に再建する長期計画を立てるために、加藤八郎副会長を委員長として、再建委員会を作り調査研究を進めることになった。

(4)昭和444月以来、再建委員会では多角的な調査研究を精力的に行い、具体的な検討を進めていた。

この頃のある理事会の模様を小幡常夫は、『米沢有為会会誌』復刊第37号に「宇佐美洵会長の目」と題して、宇佐美会長の人柄にふれている。

理事会開催の当日、加勢理事の提案説明の後、上杉家への配慮や北村徳太郎案への遠慮から、しばらく沈黙が続いた時、宇佐美副会長が「上杉様の余徳が、札幌、仙台にまで及ぶということは、誠に有難いことである」と語り、傍らの加藤八郎総務部長の顔をちょっと覗いたという。この一言で長い聞の懸案は見事に解決、それぞれの分担業務が定められた。

この段階では、南大久保四丁目の隣接地にある区立戸山中学校にその敷地拡張の計画があり、東京都が本敷地の譲渡を申し出てきたため、委員会及び理事会において慎重審議の結果、一括譲渡には格好の相手でもあり、また、本敷地の多くの部分につき寄贈主の上杉家からも快諾を得られたので、一括売却の上、その売買益により近郊に閑静な土地を買収し、その差益の一部をもって、本格的な新興譲館を拡充建築する方針を定め、東京都と具体的な折衝に入ったのである。替地については、当時東京瓦斯不動産鰍フ企画営業を担当していた小幡理事の格別な努力によって、調布市入間町一丁目3643580の土地を得、早速、東京瓦斯不動産鰍ニ具体的折衡に入った。

(5)昭和411128日、新しい東京興譲館寮ガ竣工を見る。約48名の収容力を持つ鉄筋コンクリート4階建、延べ27199、テニスコート1面を付属する堂々たるもので、建物は大木理事のなみなみならぬ尽力で完成したものであった。

(6)昭和42624日、仙台・札幌両興譲館整備案を検討する。旧東京興譲館敷地の売却代金の一部をもって、仙台・札幌興譲館の整備に着手することに決定した。

(7)同年本部に総務部書記兼東京支部書記を置くことが決まった。従来本会の事務はすべて役員及び寮生が多忙な中を押して片手間に行って来たが、興譲館寮の管理、本会会費徴収、連絡などの事務面での充実を図るためその専任者を置くことにしたものである。

(8)昭和42年9月、札幌興譲館の改築新装を終わり、同43年5月6日に理事会を開催、仙台興譲館の増築改装再建に取りかかることになった。三原仙台支部長を中心とする仙台支部会員の熱心な検討を基礎として、理事会及び再建整備委員会において具体案が検討され、現在地に32名収容の寄宿舎を建築することになった。本建設資金は、旧西大久保興譲館寮の敷地売却金で賄うことになっていた。

(9)昭和44年8月24日、第81回定時総会に引き続き、米沢市民文化会館において創立80周年記念式典が挙行された。

10)昭和44年以後宇佐美会長時代に奨学金として本会が受けた寄付は、米沢市より本会への移管が決まった秋山武三郎奨学資金(50万円)を初め、山口長次郎奨学金(70万円)、高梨湛氏奨学金(10万円)、加勢清雄奨掌金(50万円)、大熊こう奨学金(50万円)、丸森遺次郎奨学金(50万円)がある。

11)昭和45年度より、新たに教育奨励事業の一環として、地元教職員の国内外研修派遺に対し計20万円の助成を行うことにした。地元教職員の資質の向上を促し、地元の教育振興に寄与し、郷土の人材輩出につながることを期待して、今後も積極的に推進する方針である。昭和46年度は小・中・高合わせて13名の教諭に助成金が交付されている。

12)昭和468月の第83回定期総会で、定款の一部を改正、通常会員の会費「年額5百円」を「年額千円」に改め、さらに特別会員制度を新設、会費「年額5千円」を納付のことが決定。

13)昭和47年度事業計画の一つである「組織強化の具体的推進」を図ることを目的として、同年2月開催の理事会で《組織部〉の設置を決定、初代部長に小幡常夫理事が選出された。

 

宇佐美洵会長は「創立80周年に思う」(復刊第18号所収)の中で、「諸先輩の偉業を称え、本会の永遠の発展を祈らずにはいられない」という深い感懐を吐露した後

 

米沢有為会史が示す如く、国を愛し、郷里を愛する人々が、幾多の艱難辛苦を乗り越えて、今日の有為会を築き上げて来られたことを想うとき、これからの有為会を託された我々現会員は、今何をなすべきかについてこの機会に深く考えなければならないと思う。

幸いにも、昭和41年以来、永年の念願であった東京、仙台、札幌各興譲館の再建整備も、上杉家の御厚志と、会員各位の御努力並びに関係当局の御支援により、漸く完成し、又、経済的基盤も篤志家の御寄付などもあって漸く安定しつつあるが、今後の最大の課題は、初心に帰って「人づくり」にあると思われる…全世界驚異の的となっている我が国経済の高度成長も、目覚ましい発展を遂げている科学文明の分野も、すべて夫々に情熱を傾けた人のなせる業であって、今後変転する時流に即応し、創造性とバイタリティーをもって、我が国の発展に貢献できる有為な人材を1人でも多く育成することが我々の責務であると思う。かかる意味合いから本会の各層に応じ、又、目的に応じ、相率い、切瑳琢磨する場を、本会の中に数多く求めて行く、人づくりの組織活動を積極的に進めることが肝要であると思う・・・・・

 

日本経済の飛躍的な発展に伴い、国民の生活事情も大幅に改善され、飽食暖衣の時代に差しかかって来ていた。

米沢有為会も、宇佐美会長が述懐するように、外面的、物質的な面では一応その計画は達成されたと言っていいであろう。が、最終の狙いとする、国家の発展に寄与すべき人材育成となると、先人が孜々として築いて来た有為会の理想.期待に添い得る域には程遠い感を免れないのは、宇佐美会長1人に留まらないであろう。

東京興譲館が調布に新築落成の当日、一応のセレモニーが終った時、宇佐美会長は小幡理事に「ご苦労様」と声をかけて「小幡君、建物は立派に出来たが、中味は大丈夫かね?」と声をかけた。宇佐美が心配していたのは、有為会の本来の目的を、学生たちがどこまで認識しているか、ということであった。

このような時機に、有為会の「組織強化の具体的推進」の大役を担って《組織部》が新設され、戦後の有為会再建のため相田・宇佐美両会長の下で最も精力的に働き、在京学生の厳父・慈父としてその気配りと釆配が評価されていた小幡理事が、その初代部長に就任した意義は大きいものがある。

 

第8章有為会精神の継承

名誉会員上杉隆憲は「うけつぐもの」と題し、復刊第28号誌上にこう書いている。

 

…今後諸先輩の偉業をどううけついでゆくかが問題である。それこそ、米沢魂を堅持しつつ、時代に即応した運営をするべき時が来ているのではないかと思われるのである。米沢市民の方々は、どれだけ有為会を理解して呉れているだろうか。殊に若い社会人の人達はどうだろうか。最近はUターン現象も多い、東京の興譲館寄宿舎を出た人で米沢に帰ってくる人も多いと聞く。この人達を有為会に迎え入れる必要があると思うのだが。

やはり若い人達が中核となって、会が運営されることを考える必要があるのではないだろうか。そのことが「うけつがれる」ということであると思うのである…例えば、総会の出席者を見ても、何となく淋しいし、盛り上がりを感じないのである…何れにしろ有為会は、曲り角に立っていること確かである…

 

第9代加藤八郎・第10代千葉源蔵会長時代

加藤・千葉両会長時代は、いよいよ充実を見た米沢有為会の活動が固定化し、その事業計画もほとんど踏襲されて来た。

但し、「高等学校卒業生の表彰」は昭和58年以降は廃され、「高校総合体育大会優秀校の表彰」に代り、59年度以降は、それが「校歌・応援歌大会における表彰」に代った。

1.東京・仙台・札幌興譲館の経営

2.奨学金貸与

3.高等学校卒業生の表彰(昭和58年以降廃止)

4.教育・産業功労者の表彰

.5.教員研修の補助

6.学生相互間親睦の助成

7.米沢織物品評会における表彰

8.基本財産林の造営

9.有為会雑誌及び会員名簿の発行

10.定時総会時における講演会の開催

11.組織強化の促進

 

加藤会長は、昭和54年刊の復刊第28号誌上に「創立90周年を迎えて」と題し、有為会の2大事業「育英事業」と「親睦事業」についてふれた後、現状を分析してこう訴えている。

 

現在有為会の会員は約1,900名であります。戦時中会員の消息不明のもの多く、本会も壌滅に瀕したのでありましたが、戦後逸早くその再建を計られ、四散した会員を結集され、昭和28年3月、会員は1,397人と記録されております。その後、会員の大拡充運動を起こし、創立70周年の昭和34年頃には、2千3百人を越す人員となりましたが、近年は年々減少して2千名を割り、且つその内の相当数が休眠会員となっているのであります。特に憂慮されることは、若い人達の入会が少なく、会員の年齢層が年々老化していることであります。20歳前後の若い入達によって創められた有為会がなぜ若い人達に人気がなくなったのでしょうか。有為会の将来の発展を考えるとき、若年層の人々の入会が最も必要なことであります。また多数の休眠会員を揺り起こして、アクティヴ・メンバーになってもらうことも是非必要です。

青年層に魅力ある会にするにはどうしたらよいか。最近交通機関が発展して、異郷にある想いが薄らいだり、又いろいろ集会や倶楽部などによる交遊の場が多くなって、郷土愛を基盤とした社団などは色褪せてきたのだろうか。しかし人間の本性として、心の底にある愛郷の情まで失われたわけではあるまい。やりようによっては、魅力あるものになり得るであろう…(傍線筆者)

このように加藤会長は、根本に「愛郷心」のあることを信じながらも、有為会のマンネリ化を如何にして打開するかと、青年層の奮起に期待している。

思うに、組織の上層部の老齢化こそ問題である。40代、50代の中堅層が、積極的に青年層に働き掛け易くするため、年功序列化を廃し、本部、支部共に枢要なポジションを彼らに与えることが先決であろう。つまり若者の清新な構想と活動力を活かすために、中堅層も含めた若者が、有為会活動のイニシアティヴを握れるようにすることが、有為会蘇生の第1歩ではなかろうか。

加藤会長からバトンを受けた千葉会長は、有為会のマンネリ化打破の一策として、CI戦略という考え企業の自己確認、つまり個々の企業なり、団体なりが、各々の分野で持分を明確にして、自分は何をもって社会や地域、あるいは業界にその存在意義を持たせようとしているか、という根本理念から基本姿勢を鮮明化しようという考え方――を打ち出し、有為会の「理念」「行動」「イメージ」などをトータルな形でその心要性を問い掛けようと所信を披瀝している。そして「現代は、第1次産業革命の時代からその革命的発展はトフラーの言う〈第3の波〉として捕えなければ理解できぬとか、あるいはジョージオーエルの『1984年の対立的世界観で捕えなければ、新文明の把握と理解が難事である』等と一言っている人たちがいるが、それはそれとして、私はそれこそ今更に言い古された辞句ではあるが《温故知新》の重さを感じているところ」と「有為会の先輩先人の理念」の下に大同団結し「親睦・福利・産業・育英」の振興のために、「郷土愛、同胞愛」の華々しい開花を希求した。

昭和57年の第7代会長相田岩夫の逝去につづき、同58年には第8代会長の宇佐美洵が、そして同60年3月18日には第9代会長加藤八郎が急逝する。戦後の有為会再建の大業を果たし、有為会の諸活動を軌道に乗せた3大支柱を喪った千葉会長は、「切硅琢磨」「大同団結」を訴えつづけ「有為会員としτ、まずじっくり己れの足元を見直そう」と呼び掛けた。この一見平凡に聞える叫びは、昭和26年評議員に選任されて以来、同30年理事・編集部長という最も会員の反応をキャッチできる立場にあり、同54年以降会長職にあった千葉なればこその要望ではなかったろうか。

昭和61年春、干葉会長は勲一等瑞宝章の栄誉に輝いた。ところが同62年1月、加勢忠雄副会長が逝去、後任として小幡常夫東京支部長が副会長に就任し、大正同年生まれの会長・副会長のコンビが誕生し、第100定時総会も無事済ませた3か月後のこと、「とにもかくにも、この平和を、いついつまでもと希むものです。照る日もあれば曇る日もあるのですから…会員の皆様のご健勝とご幸福を祈念します」と言ったばかりの千葉会長が、不帰の客となった。

 

文化講演会のこと

昭和34年8月の創立70周年記念講演会以来、兜カ藝春秋と米沢市の後援により、知名作家を主とする名士の講演会が開催されて来た。これは偏に、兜カ藝春秋の要職にあり、有為会の中心幹部として愛郷心に燃える千葉源蔵の「顔」と「情熱」が物言ったのである。

《歴史の町》《教育の町》《文化の町》を標樗する米沢市は、こと歴史にかけては上杉家を中心とした伝統がある。教育についても、藩校以来の伝統がある。つまり中興の英主上杉鷹山と細井平洲の邂逅以来、藩校興譲館の設立による儒学(漢学)の隆昌に伴い、学問愛好の藩風が広がり、明治以降にも米沢市民の向学心は伝統的な気風となり人材輩出の要因となった。しかし《文化》の面では、その地理的、歴史的風土の影響もあって、とかく質実を美徳とし、寡黙に馴れ、自己主張を妨げ協調性を欠く盆地性が、根をはった嫌いがあり、米沢を《文化の町》と称するには余りにも淋しい実情であった。

かつては、越後武士の後裔という矜恃が干城界に多くの人材を輩出する結果とはなったが、他方その気風は、芸術文学などを無縁の「末技」として軽蔑する風潮すらあった。千葉源蔵が、東北人の純朴さは称えても、寡黙を美徳とせず、質実剛健の気風を是としながらも、非文化的な泥臭さを嫌った。

文化の流れに無関心な米沢人の覚醒のため、文化講演会の行事を有為会事業の1つとして定着させたことは、まきに慧眼であり、時宜にかなった郷土米沢への最大の貢献の1つと言えよう。

昭和34年以来の文化講演会に招聰された講師は次の通りである。

昭和

34

源氏鶏太 高橋義孝  

35

 

伊藤整

36年 

石坂洋次郎 宮田重雄 

37

今日出海 河盛好蔵

38

大江健三郎 有馬頼義

39

北条誠 立野信之

40

山口瞳 岡部冬彦 

41

三浦朱門 曽野綾子

42

井上友一郎 加藤芳郎 

43

戸川幸夫 平岩弓枝

44

杉森久英 鈴木義司

45

石垣綾子 おおば比呂司

46

池波正太郎 三浦哲郎

47

城山三郎 鈴木義司

48

桶谷繁雄 玉川一郎

49

梶山季之 藤島泰輔

50

今東光 北条誠

51

杉森久英 永井路子

52

深田祐介 三好京三 荻昌弘

53

戸板康二 山口瞳

54

南条範夫 半村良

55

杉本苑子 渡辺淳一

56

綱淵謙錠 豊田穣

57

山崎朋子 阿刀田高

58

尾崎秀樹 黒岩重吾

59

桐島洋子 神吉拓郎

60

早乙女貢

61

渡部昇一

62

津本陽

63

胡桃沢耕史

平成元年

倉本聡 佐藤愛子

 

 

 

この文化講演会には、勿論その年の講師にもよるが、米沢市民の関心は高く、特に最近は、若い主帰層、それに予想外に老人層の聴衆が目立つようである。千葉源蔵が念願した文化への意識が、米沢市民にも次第に浸透しつつある傾向は喜ばしいことである。

 

11代小幡常夫会長の誕生

創立100周年記念事業を目前に千葉会長の急逝に遭遇し、昭和6310月の理事会において第11代会長に推挙された小幡常夫は、「新任の挨拶」の中で重責を担った所感をこう述べている

 

私は戦後、米沢有為会再建の後、相田・宇佐美・加藤・千葉の4代の会長の下で、所謂黒衣(くろこ)役としてこそ応分のお勤めは出来たものの、名誉ある会長の要職を継ぐには余りにも無力無名の野人であり、内心忸怩たるものがあります。

この上は只管に心を引き締め、歴代会長の名を汚すことのなきよう地道に職責を果たして参りたい所存でありますが、会員各位におかれても心温かいご協力とご叱正を賜りますことを衷心より期待して止みません…

今、米沢有為会は、奇しくも第2世紀の春を迎えたのでありますが、この意義ある節目の年に、私共は総力を結集して地盤を踏み固めると共に、文化経済の多極化・時間的距離の短縮・価値観の変化等に対応した会運営の新しい方向を模索し、流転と不易とを見誤ることなく正しく伝統を継承しなければならないと存じます・・・

 

小幡会長は自ら「無力無名の野人」と称し「黒衣役」を自任しているが、明治維新をやり遂げた人物はどんな人たちであったか、「第2世紀の春」を迎えた有為会負全員は、新会長と一緒に、静かに思い出してみてはどうだろうか。

明治の新しい時代を切り開いた人物は、その出自は何れも、中級・下級の無名の土で、すべて稜々たる気骨の40代以下の若者であった。

創立100年の今、有為会を発起した伊東忠太、内村達次郎、宮島幹之助、長谷部源治郎、鳥山南寿次郎らの若さと情熱を振り返ってみてはどうだろうか。彼らの出自はいずれも、身分的には低い医家であった。蘭方の名医として知られた伊東忠太の祖父伊東昇迪ですら五人扶持五石という微禄の待遇であった。しかし「無力無名の野人」なればこそ、大胆な施策を断行できる場合もある。

小幡新会長に期待されることは、その黒衣時代の実績を基に「流転と不易」をしかと見極め、マンネリ化しつつある米沢有為会の蘇生を図る適役者の自覚をもって、この絶好の機会に有為会の若返りを強力に推進することであろう。

もう肩書きの時代は過ぎた。郷土愛に燃えた野人の実行力こそが米沢有為会の伝統を蘇らせる原動力であると信じる、

〈米沢市史編纂委員会委員長〉

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執筆者略歴(「有為会会誌」1998年より)

松野良寅(まつのよしとら) 
1926
年米沢市 生れ

米沢興譲館中学・海軍兵学校(75)・東北大学法文学部英文科卒。

米沢興譲館高校教諭・山形大学教養部教授・東北芸術工科大学教授。

()東北芸術工科大学名誉教授。

(現)米沢有為会本部理事・我妻榮記念館館長・日本英学史学会会長。米沢興譲館同窓会長・米沢市史編纂委員会委員長。

日本英学史学会第1回「豊田實賞」受賞(昭和61)

米沢市功績章受章(平成10)

主著)

『興譲館世紀』『東北の長崎-米沢洋学の系譜』『会津の英学』『西洋学の東漸と日本』『興譲館人国記』『我妻榮-人と時代』司海軍王国の誕生』『素顔の先人たち』『遠い潮騒-米沢海軍の追憶と系譜』『城下町の異人さん』『随想頑固教師礼讃』『随想と講演古稀の峠三合目』他

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