「米沢有為会会誌」1999年号より

温故知新 回顧・米沢有為会の百十年

松野 良寅

 <目次>

はじめに

異端児・中條政恒

上杉家と米沢教育会

有為会の発足と伊東忠太

同郷人の親睦団体――「有為会」

助走期の米沢有為会――平田東助の米沢人観

米沢有為会の起死回生策-文化講演会の充実

米沢有為会の活火山・我妻繋記念館

むすび

執筆者略歴

(注)本稿は、縦書き原本を「スキャナー読み取り・文字認識」により再現しましたので、誤認識による誤字を含む場合があります。漢数字による表記の多くは算用数字に変換しました。


はじめに

天明3年(1783)以来の凶作のため米沢藩では格外の大倹が実施された。藩校興譲館においても大幅なリストラが実施され、提学は片山一興のみとなり神保綱忠は罷免、諸生も8人減の12人となった。

このような施策が引き金となり、人心は離散し、実践を旨とする真撃な学風も廃れ、学生の間には、浮華虚飾の風潮が浸潤しはじめてきた。

天明5年、治憲(鷹山)35歳で隠居し、襲封してまもない藩主治広はこの傾向を憂慮して片山提学にその挽回策を諮問する一方、大殿治憲の教示を仰いだ。提学が提出した治広の上奏文を読んだ治憲は「時雨の紅葉」と題する所信をしたためた一篇を与え、若い藩主を諭し励ましている。

治憲はその所信の冒頭で

凡そ事は一時に興るべきものにもこれ無く、又一時に廃るべきものにもこれ無く、皆漸を以て興廃致す事にて候

と述べている。この治憲の指摘は、米沢有為会の110年の歴史をふり返りその現状・将来を展望する時に、しっかりと心に留めて置かなければならぬポイントであろう。

確かに米沢有為会の現状は、財政面でも会員の意識の面でも、伊東忠太ら発起人が、同郷人の「親睦研鍍」を目標に結束した時代と比較すれば、意識も勢いも低迷している感は免れない。しかし、この鷹山の冷静な認識に立って考えてみれば、一方的な楽観論や極端な悲観論は生まれないはずである。

 
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異端児・中條政恒

米沢有為会の変遷を考察する前に、福島県民から安積開拓の父として仰がれていながら米沢ではあまり知られていない、中條政恒という偉才の進取開明性と実践に注目すべきであろう。政恒は、米沢藩与板組上(かみ)与惣兵衛政済(御用人百石)の長男である。

鷹山の没後幕末にいたる50年間は、朱子学一辺倒となり学館の学風はすでに安永時代の精彩は消え失せていた。穏健着実で軽桃浮薄の風潮は見られなかったものの、反面、稜々たる気骨を消磨し、万事に消極的な傾向が広がり、進取性は影をひそめ、ひいては事大思想、功利主義の勃興を見るにいたり、権門には賄賂が横行してその場凌ぎの安楽をむさぼる士風が醸成されて行った。

池田成章は『鷹山公世紀』のなかでこう書いている。

 

公逝去以後慶応丁卯(ひのとう)(慶応3)に至る迄凡50年の聞専ら画一を守り、無為怙噡(むいこたん)(何もせずひたすら安泰のみを願って)、公の遺沢に浴するを以て、政治頗る平穏なりしも、一朝戊辰の変起るに及で栄職に在る者は手を洪して策なく、其擯斥を受くる者却て用を為すに至れり(862ページ)

 

中條政恒も、藩の要人たちから「擯斥を受ける者」の1人だった。

会津120万石から米沢30万石、そしてさらに15万石と減封がつづき、そのたびごとに米沢の家臣団は貧乏生活を強いられて来た。これ以上収入(石高)が減れば、過剰士族団の生活は成り立たない。半士半農でようやく家族を養ってきた彼らには、発想を転換して新しい事業に賭ける冒険心などさらさら無く、現状を維持して細く長く生きるのが精一杯であった。「忍」の一字で耐えながらも他方では人の足を引っ張る――出る杭は打つ――悪い風習が根ついてしまった。

そんな風潮のなかで中條は、減封の都度家臣団のリストラを怠ってきた為政者の愚を指摘しながら、過剰士族の蝦夷地開拓移民団の派遣を藩当局に訴えつづけて来たのである。

中條は、支侯上杉駿河守を統領として、過剰士族の半数を幕府が無償提供を約束している蝦夷地(北海道)へ移住させ、そこで開墾・生産に励めば、地元の士族たちも藩内の生産量で十分安定した生活を送れるし、移住士族は努力さえすれば各自の不動産の増殖もでき、生活設計も立ち、併せて日本北地の防衛に貢献することもできる、と政恒は考えたのである。

今にして思えば、この政恒の開拓移民の派遣計画は、米沢藩にとっては、多少の冒険は伴うかもしれないが、一石二鳥のきわめて合理的なしかも実に綴密な調査研究に基く先見の明ある建言であった。

しかし藩の要人たちは、一介のでしゃばりな若造の空論として一顧だにせず、「財政上の都合」を理由にはねつけてしまった。姑息偸安(こそくとうあん)(将来を考えないその場しのぎ)の要人たちには、時勢を見通す先見の明も勇気も無かったのである。

政恒は、老吏を風刺する一篇の詩を賦している。

 

萬莱(こうらい)(乱れ茂る雑草=荒野)を闢(ひら)き北辺を鎮めんと欲す

暁風夜雨幾周旋

憐れなり眼孔の小なること豆の如く

千銭を愛(おし)まず百銭を愛む

 

明治4年、廃藩置県が実施される。置賜県吏として出仕した中條は、薩摩出身の参事高崎五六や本田親雄の協力を得て、士族授産の一環として北海道への移民開拓事業振興の緊要と有効性を強調し、その綿密な具体策を一再ならず上程してきた。折しも、欧米諸国を視察する遣外使節団の派遣と重なり、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府要人が不在だったこともあって、中條の建言は審議されず、高崎、本田らは政恒に時期尚早を諭し、時機の熟するのを待つように慰撫した。

明治5年4月、政恒は「上」姓を「中條」と改め、同年9月、置賜県出納課長から福島県典事に転じ、庶務・聴訴両課長に就任する。当時の県令は横井小楠門下の安場保和であった。安場は、胆沢(いさわ)県や酒田県の大参事を経て、明治411月岩倉遣外使節団に随員として加わり渡米、53月に帰国するが、大久保利通の要請を受けて福島県権令に就任、10月県令に昇格した。当時の福島県(現在「中通り地方」と呼ばれる地域)内には不毛の地が多く、本田親雄が、政恒の宿志の一端なりともかなえてやろうと安場に諮って、福島県典事への転任が決まったのである。

明治510月、着任早々の政恒は、井上馨大輔(たいふ)(次官)宛に「安積郡大槻原開墾賃金貸与稟請(ひんせい)(請願書)」を提出する。

現地の測量結果も具体的な開墾方法も示さない申請書ではあったが、殖産興業を重視している政府当局からは、租税頭陸奥宗光の名で「書面之趣ハ開墾方法等取調猶可申立事」との指令が届いた。期待どおり政府の反応に手応えを感じた政恒は、安積郡の戸長を招集して殖産興業の一環である開拓事業について説明し、現地の世論喚起と協力方を要請した。

明治64月、福島県では、中條政恒起草の県民向け「告諭書」を出している。「天地の恩は広大無量にして、土を造り人を生み」と説き起こし五穀(米・麦・粟・黍・豆)三草(麻・紅花・藍)四木(茶・桑・漆・楮)の植えたて、生糸、養蚕の生産に及び、「一尺開けば一尺の仕合あり、一寸を墾すれば一寸の幸あり」と開拓の意義を強調し、惰性を戒め、特に富裕者にたいしては「己れ千万の宴を重ねて此等の善事に憤発せず、甘んじて守銭虜と相成居候もの、実に自棄の民に無之侯や」と、蒙を啓いて積極的に開拓に協力するように要請している。その内容は、米沢藩の「寛()()の改革」の実績が多分に参照されている。

明治63月、政恒は同郷の石井貞廉や加藤邦憲らと開拓掛を命じられるが、6月に曾根昌徳が開拓掛として開成山に在勤する。政恒は自ら安積開墾詰を買って出て、大槻原(開成山)一帯を視察して有望な開拓の適地であることを確認している。

一方安場県令は、3月初旬二本松に出向き、旧藩士を集めて士族授産の第一歩として管内の大槻原開墾の将来性を力説し、憂国の士はふるって郡山に赴き、中條典事と協議するように説得勧誘する。

開拓掛として現地入りした政恒は、開墾予定地の一隅に仮小屋を建て「飛雪紛々寝室ヲ襲イ暁ニハ衾今(きんじょう)白雪皚々(がいがい)タルコト数次」というあばら家住まいに耐えながら、旧二本松藩士や一般人対象に開拓応募を説き諸所を奔走する一方、郡山の豪商と折衝して開拓事業への出資を依頼して回った。当初は収益の見通しの不安から消極的な反応しかなかったが、やがて政恒の懇請に応じて、阿部茂兵衛や鴫原弥作らが呼びかけに応じて協力を約束してくれると、豪商25人の投資者を獲得することができた。

こうして開拓結社「開成社」(初代社長阿部茂兵衛)が創設され、社則や細則も整備され、投資高に応ずる土地の所有やその他の諸条件が定められる。入植者の住宅建設、道路・池塘の造成、精神の拠り所となる神社(開成山神社)の建立など準備は着々と進行した。その間、政恒の片腕として辛苦をともにしたのが、同郷米沢出身の立岩一郎(作家久米正雄の母方の祖父)であった。

明治8年秋の大槻原は、新田76ヘクタール、新畑140ヘクタール、宅地25ヘクタール、ほかに開墾途上の土地112ヘクタールに及び、それまでは狐狸の棲息地だった荒野も、今や100戸を越す入植者たちの集落に変貌をとげた。

明治9年に《桑野村》と命名され、立岩一郎が初代村長に就任。この間に、福島県第10区会所として「開成館」が建てられ、伊勢神宮の御分霊奉遷の儀も無事終了し、村のシンボルとして開成山大神宮が完成する。

明治812月、政恒とウマが合った安場が愛知県令に転出すると、その後釜に大書記官の山吉盛典(旧米沢藩士)が昇格就任する。

山吉盛典は、宮島誠一郎らとともに探索方に選ばれ、戊辰戦争時にもなかなか活躍し、戦後は御使番(200)、権小参事公用人兼帯を命じられた有能の士であった。しかし、嫉妬心・猜疑心が強く、力量はもとより、人格識見の点でも中條には及ばなかった。山吉にとって中條は目の上のコブであった。

山吉と中條の確執対立が表面化したのは、中條の持論である県庁の郡山移転と疎水開削の問題であった。中條は、疎水の開削により猪苗代湖の水を奥羽山系越しに東注すれば、会津側(若松県)が反撃に出ることを予測して、疎水開削に先立って若松県の福島県合併を進めなければならないと考え、磐前県も含め3県合併を熱心に唱道し、3県合併が実現すれば、地理的条件から県庁を郡山に移す必要がある、と力説したのである。

明治9年、天皇の東北巡幸に先立って、たまたま内務卿の大久保利通が来県することになった。この機会をとらえて疎水開削の推進支援を陳情しようという中條の主張に対して、山吉は不満の色を顔に表し怒気を含んで反発した。

 

山吉氏勃然罵ツテ曰ク。移庁・疎水ノコトハ決シテ同意スルコト能ハズ。三曇旦ノ如キ馬鹿ナル意見ハ無論大不同意。君聞カズヤ、今ノ若松県令岡村(義昌)氏、参事岸良(俊介)氏新二命ヲ拝シ一昨日若松二赴任シタルノミナルヲ。仮令君ノ言ノ如クスルモ政府何ゾ之レヲ容レンヤ、此ノ混雑ノ際カカル無益ノ儀ハ聞クヲ慾セズ…

(『安積事業誌』巻ノ五)

それで中條は、やむなく大久保内務卿の半田鉱山視察に随行し、安積開拓の問題は個人の資格として大久保に陳情したと言われている。

その後、明治9616日、天皇の東北巡幸のおり、開成館が行在所に当てられ、桑野村はひときわ活況を呈し、権参事の中條は、開拓事業の経緯や現況をつぶさに奏上する。

この開成山行幸を契機に、安積開拓や疎水開削事業計画も大きく前進したが、明治11514日大久保内務卿暗殺の事件が勃発、開削事業の前途が危ぶまれた。

しかし中條は、大久保の信任厚かった同郷親友の千坂高雅(元家老・内務権少書記官)の協力で、内務大輔前島密から開拓拡張費の支出内諾を取り付けに成功し、すでにお雇い技師ファン・ドールンが現地に派遣され、測量・設計も進捗して疎水開削工事の図面調聞と現地調査が行われていた。

明治12101日、開成山大神宮前で、伊藤博文内務卿、松方正義勧農局長らを迎えて盛大な起工式が挙行された。中條は県令代行の任に当たり、立岩一郎は勧業開拓出張所長として開成山に常駐し、政府側からは奈良原繁と南一郎兵衛が中心となって工事の推進に当たった。

明治158月安積疎水は完成し、101日通水式が行われた。しかし、中條は、その前年――明治14年政変の年――8月太政官少書記官に転任を命じられ、同年11月立岩一郎も罷免された。立岩の備忘記録(『分草実録』)の記事「山吉氏ノ虚飾ヲ以テ世ヲ慈着スルヲ証スルニ足レリ」からも推察されるが、中條政恒は、同郷人山吉盛典の陰険な讒言(ざんげん)により左遷の憂き目を見たのである。

政恒の孫宮本百合子は「明治のランプ」のなかでこう書いている。

 

政恒という人は所謂乾分(こぶん)をつくらなかった。然し有望な青年達の教育ということには深い関心をもって一種の塾のようなものを持っていたことがあり、そこには長男であった父精一郎はじめ、何人かの青年が暮らした。伊東忠太博士、池田成彬、後藤新平、平田東助らの青年時代、明治の暁けぼのの思い出の一節はその塾にもつながっていたらしい。

 

伊東忠太、池田成彬らは慶応3年に、中條精一郎は明治元年にそれぞれ生まれているから、中條塾で政恒の薫陶を受けたころはまだ156歳の少年であり、嘉永2年生まれの平田東助は、30歳半ばの官僚として山県有朋の知遇を得て順調に出世街道を歩んでいた。ドイツ留学中に農民や勤労大衆の自衛組織である信用組合を調査研究していた実績から推して、平田は、先輩中條の安積開拓の経験に学ぼうとして中條塾に出入りしていたものであろう。

安政4年生まれの後藤新平(水沢出身)245歳、当時は内務省衛生局の技師であった。

 

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上杉家と米沢教育会

明治15821日、新島嚢が米沢の甘糟三郎家を訪ねている。甘糟本家は継成の長男鷲郎が亡くなると――二男の千代吉が鈴木家へ養子に入っていたため――三男の三郎が、鷲郎の遺児初子とのぶ子を養女として引き取り、本家を継いでいた。新島の米沢来遊は伝道とは無関係であったが、甘糟家では、継成の妹春子から、米沢の歴史や風土・人情・学校・産物等について種々話を聞き、それを日記(『新島嚢全集五』「遊奥記事」)に克明に書き記している。私立米沢中学校について触れた次のような記事がある。

 

此校ハ私立ニシテ、更二干渉スル所ナケレバ随分教員ノ勝手二事ヲ為スノ弊アルモ、此ノ校ノ一美事ト云フベキモノハ…校費ヲ以テ生徒十五人ヲ寄宿セシメ、又貸費生八人ヲ東京二出シ、司法省ノ法学校又ハ大学又ハ私塾等二入学セシム…米沢ヨリ東京二出タル書生ハ凡六十人…

 

明治14518日、旧米沢藩主上杉茂憲は沖縄県令に任じられた。県令補佐の少書記官として随行したのが池田成章である。藩政時代は近習として廃藩後は上杉家家扶として、池田は生涯、ひたすら旧主家上杉家のため報恩の誠を尽くした偉才であった。

上杉家が東京へ移住してからは、宮島誠一郎・小森沢畏政の兄弟をはじめ上杉家相談人は、家扶の池田をもり立て、歯に衣着せぬ助言を惜しまず、旧主家の後援に努めてきた。茂憲が沖縄県令に就任した時も、3ヵ条の献議書を上程して「県民の撫恤(ぶじゅつ)教育には金を惜しまず、事を処するには熟慮のうえにも勇断を忘れず、信義を重んじて朝令暮改に陥ること」のないように進言し、島民教育の積極的な推進のため十分に金が使えるようにと、相談人らの醸金可能な金額を具体的に明示して協力を申し出ている。新島が日記に書いた「美事ト云フベキモノ」がここにも現れている。

茂憲が沖縄県令を辞し元老院議官に任じられた時、池田は旧主家と米沢士民の睦まじい関係が子々孫々の時代までも永続することを念願して、当主茂憲に育英事業のために上杉家より資金を拠出することを勧めている。

 

御当家の東京に移住せられしより、弦に十五、六年の久しきにおよべり。当時に在りては旧臣中の在京者にして、伯爵に親灸(しんしゃ)し恩顧を蒙りし者、亦少なからず。是等は皆御家を懐ふの情深切なるもて、其在世中は御家の事柳(いささか)も顧慮するに足らざるが如しと雖も、つらつら将来を考ふるに、是等の者とてもいついつまでも存在すべきにあらず。其子孫に至りては旧主たる人の面影をも知らざる者あり。況(ま)して御旧領地米沢に居住する者の如き、去る者の日々に疎きは是称自然の理なり…今や米沢の士民の子弟にして、東京に勤学するも学資に困窮して、其志を遂げ得ざる者あり。又米沢にある子弟等の学資なきが為に東京に来たり、学ぶ能はざる者あり。今の時におよびて是等の子弟に学資を貸与し、其志を達成せしむる時は、他日志を得るに及んで各其殊恩に感じ、御家の為に力を尽さんこと必せり。

(『過越方の記』所収)

 

家扶として上杉家の家政をみてきた池田は、「多年御家に仕へて常に節倹の主義を執り、多少の貯蓄も出来ている」裏付けにも触れて、上杉家が主唱して旧米沢藩民に呼びかけ育英事業を興しては、と提案する。

茂憲はこの提案に歓喜して賛意を表し、在京の相談人の賛同を得て、在京同郷人ばかりでなく、米沢在住の人達の賛同協力を得ることができた。

明治171030日、相談人の千坂高雅、中條政恒、小田切盛徳、小森沢長政、池田成章らの外、特に東京外国語学校長の内村良蔵と文部一等属山田行元を招き、米沢出身の子弟に対する大学修学奨学金の件で協議を依頼した。上杉家より年額1千円を支出して毎年2名程度の学生に修学させようという腹案であった。尚、この教育資金の支出に関し、その趣旨が誤解されないようにとの配慮から、茂憲は「抑米沢ハ祖先以来積年相親ミ来侯人民ナレバ其地ヲ離ルルノ今日二至リテモ猶其善ヲ見テ喜ビ其悪ヲ聞テ憂フルノ切ナルハ止ムヲ得ザル人情ナリ…今後米沢ノ青年有志者ニシテ目今政府専ラ奨励セラレ官費生ヲ養成スル各学校及其他官立学校へ入校セントスルモ其志ヲ遂カタキ者アラバ、志願ニヨリ之ヲ試験シ其優等合格且品行端正ナル者ヲ撰抜養成スル所アラントス…希クバ有志諸士二於テ旧来ノ微志ヲ諒察シ熟議ヲ遂ゲ方法規則ヲ編成シテ示サレンコトヲ」と認めたメモを提示している。

 

出席者一同深く感侃(かんぱい)して異論なく即座に投票の上、内村良蔵・山田行元・丸山孝一郎の3名が規則編成委員に選ばれ、明治18616日「米沢教育会会則」が決定した。

本会の事務所は米沢・東京の2か所に置かれることになった。有志の醸金について第5条に「元米沢藩人ニシテ本会ヲ賛成スル者ハ予メ応分ノ額ヲ定メ之ヲ三カ年乃至五カ年二分割シ出金スルモノトス。但シ在官又ハ学校諸会社等二従事スル者ハ一カ月ノ入額ヨリ少ナカラザルモノトス」と調っている。

明治19711日、米沢教育会委員の選挙が行われたが、小森沢長政(14)山田行元(13)平田東助(12)香坂昌邦(13)芹沢政温(11)――以上五名が委員に選ばれている。

米沢教育会の奨学金は、京都帝国大学総長を務めた小西重直(米沢通町富所家の長男、同家が破産宣告を受け廃嫡となり、会津の小西家の養子となった)が安積中学から第二高等中学校(旧制二高の前身)へ入学した時や、工部大学校を卒業後造船や機械設計の技術を習うため香坂季太郎(後造船大監=大佐)が英国へ留学する時などにも貸与されている。

その頃、米沢からは官費で修学でき将来の身分も保証されている海軍兵学寮()目指す青年が、陸続と上京してくる。祷に明治4年兵部省に入った小森沢長政が海軍大書記官として頭角を現すころには、山下源太郎、釜屋忠道、上泉徳弥、黒井悌次郎、釜屋六郎、千坂智次郎ら――やがて中将、大将に昇進、米沢海軍の礎となる人達――が入学して来る。

その結果、在京同郷人の数は急激に増え、同郷人の親睦、切瑳琢磨の必要が痛感されるようになる。中條塾の誕生、米沢教育会の発足、そして有為会の結成にいたる経過は、藩=国の意識がしだいに払拭され、四民平等の日本国民という国家意識の芽生えの時代を象徴するものである。

 

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有為会の発足と伊東忠太

幕末の米沢において姑息偸安のぬるま湯につかって時代の進運にとりのこされた藩の為政者たちを尻目に、進取開明、合理的な判断に立ち、幕藩体制が崩壊して新生日本が誕生すると、今度は明治政府を相手に士族授産の開拓事業振興を建言し、ついにその初志を貫徹した中條政恒が異端児なら、その薫陶を同郷人の親睦・切瑳琢磨の団体(有為会)の結成に先鞭をつけた伊東忠太も、米沢人としては、異数の異端児と言えるであろう。

米沢有為会110年の歩みをふりかえり、温故知新、現状を展望しながら活性化の道を探ろうとするなら、まず温故知新、中條政恒・伊東忠太両人の発想の斬新さと逞しい実践のなかから学ぶべきであろう。つまり有為会発足当時の、先人の知恵を再考することである。

忠太の祖父伊東昇迪は、長崎の鳴滝塾においてオランダ商館医ドイツ人PF・シーボルトに師事した蘭方医であった。

父祐順も、長崎の精得館においてオランダの海軍軍医ポンペやボードインに就いて学び、陸軍軍医となった人物である。

明治5年の文部省布達で(当時置賜県所管の)興譲館が廃止されると、児童生徒は管内の4つの小学校にふりわけられた。その時祐彦・忠太兄弟は、当時近衛師団付軍医であった父祐順のもとで生活し、東京で勉学する利便を説く祖父昇迪の考えで、祖母かると大叔父の山下治右衛門に付き添われて上京する。そして両親の元から通学して東京の番町小学校、次いで佐倉の鹿山小学校・同申学校で学ぶ。ある日、祐順が将来の展望について訊いた時、忠太は「美術家になりたい」と答えた。祐順は威儀を正して座り直してこう言った。

 

萄も男児たるものが国家の為に竭す事を考えずに、美術家になろうとは腋甲斐ない料簡である。美術などは士人のなすべきことではない。それは所謂末枝と云うものだ。

 

忠太にとってはこの父の意見こそ腋に落ちなかったが、その日は要領を得ないまま対話は終わった。儒教的世界観から一歩も出ない堅物の父に対して、やがて忠太は物足りなさを感じはじめる。

明治14年、父祐順が軍医を退官して米沢に引き上げることになったので、祐彦・忠太の兄弟は佐倉から東京へ戻り、半ば書生のようなかたちで叔父平田東助の家に寄寓することになった。この年忠太は東京外国語学校へ入学する。これはドイツ留学から帰国し根っからのドイツ心酔者になっていた叔父東助の勧めに従ったもので、日頃平田はドイツ語を学ぶことが学問の第一歩と力説していた。当時の東京外国語学校には、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語.中国語の5科が開講されていた。

当時中国語教育の興亜学校(校長丸山孝一郎)に入学した宮島大八や小田切万寿之助は、同校が経営不振で閉校になると東京外国語学校の2年に編入になっている。

ドイツ語を専修した忠太が第5学年に進級した時、東京外国語学校の廃止が決まり、忠太ら英独仏の3科の在学生は第一高等中学校の予科へ編入され、中国語・ロシア語・韓国語の3科の学生は――通訳や貿易関係の人材養成を目的とする――東京商業学校(一橋大前身)に吸収された。外国語に対する不当な差別観に激怒した宮島大八は、ロシア語科の長谷川辰之助(二葉亭四迷)らとともに憤然として退学している。

忠太が在学中の東京外国語学校の校長は内村良蔵であった。

内村良蔵・平田東助の2人はいずれも蘭方医家に生まれ、1、2を争う秀才で親友でもあった。慶応義塾での修学、渡辺洪基・吉田賢輔の英学指導、大学南校入学もすべていっしょで、岩倉遣外使節団派遣のおり、内村は文部大丞田中不二麿の随員として、平田は留学生として同行し、同じ船でいっしょに太平洋を渡っている。そして平田の妹末子と結婚した内村は、始終平田家へ出入れしていた。また内村の養嗣子達次郎(柿崎家、東京帝大工科大卒、特許弁理士。良蔵.末子の娘政子と結婚、内村家を継ぐ)は、忠太と同年で兄弟同然の親友でもあった。そのような関係から、内村は忠太をわが子のようにかわいがり、忠太も内村を慈父のように慕っていた。

忠太が専攻学科の選定について内村に相談した時、内村は次のようなアドヴァイスをしている。

 

大学でいちばん屑は、文科と法科だ。あんなに威張り散らしているが、いまにあれらは、オマンマが食えなくなるよ。いまにみろ、法学士の巡査や文学士の門番なんどが続々出てくるから。あんなものにはなるなよ。

一番お前に適しているのは工科の方面だ。噂によれば工部大学校がなくなり東京大学に併合されて新たに工芸学部が新設されるという話もある……お前は手が器用だから食いはぐれはないだろう。これから先の世の申は、何か身に一芸がなければ駄目だ。法科や文科は芸なしのくせにただ理屈ばかり並べおって面白くない。手で仕事のできる者は、いざというとき決して食いはぐれがなくていいぞ。

 

明治19年帝国大学令が公布され、東京大学は、工部大学校を統合して法・医・工・文・理の五分科大学及び大学院から構成される帝国大学に改組された。ちょうどこのような時期に、内村は――東京予備門から学部へ進学する学生の志望学部が、理学部から法・文学部に主流が移って行く傾向に反発して――「文科と法科は屑だ」と喝破したのである。伊東忠太は、内村のアドヴァイスに共鳴して、帝国大学工科大学造家学科へ入学する。

 

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同郷人の親睦団体――「有為会」

東京外国語学校廃止後、伊東忠太は第一高等中学校に編入するが、その頃同校に在学していた同郷人には、兄の伊東祐彦、内村達次郎、長谷部源次郎、小田切(鳥山)南寿次郎、宇佐美勝夫、宮島幹之助、弟の伊東(村井)三雄蔵らがいた。彼らは忠太の提言で本郷森川町空橋の下宿屋鈴木方で合宿のような生活を送っていた。忠太はこの約5年間を「空橋時代」と名付け「芋の子を洗うが如き始末」と回想している。このような雰囲気の中から、忠太の提案で、在京の同郷人に呼びかけて親睦団体結成の案が生まれた。

伊東忠太、内村達次郎、小田切南寿次郎、長谷部源次郎、宮島幹之助それに弟の三雄蔵ら六人が発起人となって、明治221123日の神嘗祭当日、郷土愛を土台に相互の親睦と切瑳琢磨を目的として共存共栄を図る同郷人の団体が結成された。

これが「有為会(のち米沢有為会と改称)」発足のいきさつである。同年1214日創刊の『有為会雑誌』第1号の巻頭言のなかで、伊東忠太はこう書いてる。

 

凡そ吾人人生の最後の目的は、蓋し幸福の二字にあり、而して、之を得るの基礎たるものは即ち学術及び思想にして、吾人の寝食を忘れて苦学する所以のものは実に之を得んと欲するに外ならず、余等は同郷諸士と共に、この道を求め、緩急相応じ、苦楽相分ち、相率いて、将来の幸福を享けんことを希望するものにして、本会の主意、実に此処にあり。

 

ここで有為会発足当初の役員と会員の顔触れを、『有為会雑誌』第2号・第3号(明治23年発行)から紹介してみよう。

 

役員 幹 事 伊東忠太 内村達次郎

評議員 森 正隆 芹沢孝太郎 浅間新五郎 山崎哲三 村井三雄蔵

委 員 伊東祐彦 五十嵐美成 小林源蔵 長谷部源次郎

賛成会員

宮島昇(家貞。家久弟、高梨源五郎兄)、吾妻健三郎(東陽堂社主)、小倉信近、青柳庚三郎、大滝新十郎(第3代米沢市長)、上杉熊松(茂憲弟)、芹沢政温、丸山孝一郎、入沢敏雄(海軍機関中将)、三瀦謙三(病院長)、有壁精一、堀内亮一、樫村清徳(山龍堂病院長)、宇佐美駿太郎、大滝龍蔵(初代・2代米沢市長)、古藤伝之丞(第3代米沢中学校長)、宇加地新八(攻玉社教師一、香坂季太郎(造船大監)、五十嵐力助(衆議院議員)、平田駒太郎(第4代米沢市長)他省略。計40

通常会員

伊東祐彦、伊東忠太、池田成彬、長谷部源次郎、小田切南寿次郎、藁科松伯、渡部又太郎(大橋乙羽)、中條精一郎、村井三雄蔵、内村達次郎、宇佐美大助(勝夫)、黒金泰三、山崎哲蔵、小林源蔵(衆議院議員)、浅聞新五郎、宮島幹之助、森正隆他省略。計67

 

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助走期の米沢有為会――平田東助の米沢人観

有為会が発足して2年後の明治241011日、山崎哲蔵(上杉家家従)が発起して、九段坂下の玉川亭で、米沢出身の青年有志の集会を開いた。諸学校・大学で修学中の学生30数名が参加するなかに、法制局部長の平田東助も臨席した。

この席上平田は、有為会の幹事・委員の活動を高く評価し、今後は、米沢の実態講究から始めて目的達成の手段・方法について具体的な実行策を検討する必要があることを指摘した。

平田の談話を要約すれば次のようになる。

1.愛国心と愛郷心は同根のもので、愛郷心を根本理念とする有為会の目的は、日本国民の一員として大賛成である。

2.とかく集会というものは「朝に起きて夕べに什(たお)る」の傾向がある。有為会入会の応諾の即答を避けたのも、発起者・役員・委員らの計画と熱意がどれだけ継続性のあるものか観察するためであった。が、その情熱、会務の整備、新入会員の着実な増加等々、有為会の永続性を確信出来る

現状は、郷土のため、国家のため誠に慶賀に堪えない。

3.米沢の福利を目的とする有為会が、今後講究すべき課題は、その目的達成の方法・手段である。

4.米沢の福利増進を考える前に、

@米沢の地理的条件 A米沢の歴史的考察 B米沢の全国的な関係と立場 を熟知することが先決である。

@については、地勢が険しく水利が悪く、山岳に囲続されていて四通八達の地とすることは到底不可能である。

Aについては、300年来養成されてきた自重朴直の風を最上の美徳と考え、有為活発な人材が出ればその頭角を現す機会を制し、質朴の風習から着実性が生まれたとはいえ、米沢人気質には機敏活発さが欠ける嫌いがある。

Bについては、全国的に見れば、米沢は交通が不便で、勇往敢行の気性・開明度・産業の発達の点で、他の地方より遅れている。

5.地理的条件や人情風俗は容易にその改善が望めない。一国一郷を問わず、社会生活の基礎となるものは、教育と経済である。現在並びに将来において、全国的な米沢の地位を維持し福利を図るためには、まず米沢の教育と経済とを、同一の方針のもとに前進させる必要がある。この間題は非常に重大であるが、役員・委員の方々が取るべき方法・手段の講究を進めれば、有為会の目的達成の道は開けてくるであろう。私も多忙な身ではあるが、その講究の労を惜しむものではない。

 

「教育」と「経済」を核とする米沢《福利》の実地問題の検討は、有為会に委託されたが、役員にとっては平田のような中央官庁の有力な能吏が有為会の支援者として登場したことは頼もしい限りであった。

明治258月、有為会第2回総会が米沢市で開催された。山崎哲蔵を議長に、幹事下平泰三が会則の修正案を提案、会の名称が「米沢有為会」と改称され、その他第11条の〈役員〉の項を修正して会長制を取ることが決まった。そして明治318月、第8回総会において会長選挙が行われ、千坂高雅、小倉信近、芹沢政温、平田東助の4候補者のなかから、42票を獲得した千坂高雅が、初代会長に当選した。

当初在京同郷人の親睦を目的に若い学生たちが発起して誕生した有為会は、全国津々浦々から、果ては海外からも入会者を得て、その基盤が固まってきたが、明治31年までの約10間は、在京学生に対する経済支援へ踏み切る準備期問いわば有為会の助走期とも云うべき時代であった。

米沢有為会が、育英資金の貸与に加え、寄宿舎(興譲館寮)の建設、社団法人化が実現するのは、明治41816日、第3代会長平田東助の時代であった。

米沢有為会歴代会長については『米沢有為会会誌・創立百周年記念特集号』に詳述してあるので、ここでは会長名と任期のみを掲載する。

初代 千坂高雅  (明治3133)

2代 小森沢長政 (明治3340

3代 平田東助  (明治40〜大正10)

4代 山下源太郎 (大正10〜昭和6)

5代 宇佐美勝夫 (昭和6-昭和17

6代 結城豊太郎 (昭和1824)

7代 相田岩夫  (昭和2438)

8代 宇佐美洵  (昭和3850)

9代 加藤八郎  (昭和5054)

10代 千葉源蔵 (昭和5463)

11代 小幡常夫 (昭和63〜平成10)

12代 本間敏雄 (平成10)

 

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米沢有為会の起死回生策-文化講演会の充実

明治40年に米沢有為会は、従来の在京同郷人の親睦団体から社団法人として育英資金の貸与、寄宿舎の建設等本格的な育英事業に取り組む時期に差しかかった。伊東忠太らかつての発起人も壮年の域に達していた。平田新会長の下で評議員を務めた伊東忠太の後輩である佐野利器や佐藤寛次らがいるが、共に278歳で佐野は東京帝大工科大学助教授、佐藤は東京帝大農科大学助教授であった。

さて、過去の歴史に倣う「温故知新」という観点から、戦前戦後の米沢有為会の諾活動を検討してみると、「人」と「金」の問題が、いつの時代でもネックとなっていることに気がつく。適材がおり資金が潤沢で、会員の意識が1つの目標に向かって高揚しているならば、どんな組織でも運営は容易である。

しかし、現代の社会情勢や教育事情の目まぐるしい変動の中で、どれほどの人達が郷土を意識し――修学・就職の場のいかんを問わず――どれほどの人達が《有為会》という団体の存在を知っているであろうか。

地元米沢の高校生に質してみるとほとんどの生徒が「知りません」と答える。それも当然であろう。戦中派の筆者も、中学校で《有為会》のことについて教えられた記憶はない。

勿論、国を挙げての戦争中ということもあったろう。有為会の存在意義を云々する余裕がなかったと云えばそれまでである。

今にして思えば、「教育には殊のほか関心の深い米沢人だから、昔から在る有為会は知っているだろう」という独善的な考えがなかったろうか。

有為会の創設100周年記念誌を執筆するにあたり、その変遷の跡を調べていてなるほどと思ったことは、いつの時代も「先輩面」して後輩の意見を会運営の前面にたてることなく、己の世界観、時代観で判断して、結局マンネリ状態が続いていることである。

「知っているだろう」では駄目で、可能なあらゆる手段を講じて「知らしめる」熱意と執念が必要である。会員自身が有為会の歴史と先人たちの、特に草創期に努力した人達の、発想と実践の跡を知らなければ意味がない。

戦前実施された巡回講演会や座談会の着想は、これからも復活利用出来そうである。また、戦後千葉源蔵会長が実施された規模の「文化講演会」はぜひ継続実施して行きたいものである。その時、いつも問題になるのは、千葉会長時代は文塾春秋のバックがあったからとか、有為会には金がないからとか、極めて悲観的な寂しい意見が大勢を占める。「100万の金を集め、文藝春秋に限らず、新潮社・講談社等に知名の講師の人選を依頼すればいいではないか」というのが筆者の意見である。募金については、米沢市との共催として市当局に補助金の申請をお願いする一方、「文化講演会」のパンフレットを作って、会員有志が足まめに企業や商店を回って集めれば必ず成功する。頭はいくら使っても減らないものだ。鷹山公の「為せば成る」という名言はこういう時にこそ実践すべき言葉であろう。とにかく、先ず幹部の人達が発想を転換して若い後継者を参加させ若返りを図ることである。「口は出すが知恵も金も出さない」――という傾向を思いっきり一掃する覚悟で会の運営に弾みをつけることが肝要である。

 

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米沢有為会の活火山・我妻繋記念館

平成元年、米沢市制施行と社団法人米沢有為会創設が、共に100年という記念すべき節目に際会し、東京の米沢有為会本部では、1千万円を募金して奨学基金の充実と東京興譲館(調布市)の営繕修理費を主とした記念事業を計画していた。その時有為会米沢支部から我妻先生の旧居を取得保存かる事業も本部計画の事業に加えてほしいという要望が提案された。

本部では、米沢支部提案の「我妻榮旧居取得」にかかわる募金活動一切を、米沢支部中心に進行することを条件に、この提案が了承された。

米沢支部長高橋幸翁氏はじめ支部役員はこれを了とし、各方面の代表者を招集協議を重ね、副支部長川野希氏を実行委員長として

土地160坪並びに建物(含土蔵)の取得費 約3,000万円

修復費その他 1,000万円

合計    約4,000万円

の目標額を設定して募金活動に入った。その結果、平成3年前半までの約2年間で目標額達成の見通しがついた。つまり法人69件で約2,000万円、個人286件で約600万円、残り1,200万円は米沢市からの補助金の支出が認められたのである。

こうして一応の補修も完了し、平成6619()米沢有為会定例総会の佳日に「我妻榮記念館」としてオープンに漕ぎつけた。

記念館の運営活用については、不肖松野良寅(当時興譲館同窓会長)が館長を委嘱され、川野希・佐野清一・北目二郎・小関薫・木村琢美・奥山徹ら諸氏に運営委員として参加してもらい、神田倉一氏に管理人就任を依頼した。

なお、先生令息我妻堯氏には、特にご依頼申し上げ名誉館長にご就任いただいた。

記念館開設以来、各方面の協力を得て収蔵資料や備品等の設備も年毎に充実して来ているが、いわゆる「記念館」としての建物ではないため、その運営にも各種の制約があるとは言え、東京都立大学名誉教授唄(ばい)孝一氏の多大のご尽力により、「我妻榮記念館」ならではの諸資料の整備も進み、さらに吉喜工業株式会社から大型テレビの寄贈などもあり、文化事業の一環として「上杉鷹山公と郷土の先人を顕彰する会」主催の「火種塾講話会」(奇数月の第1日曜に実施)や「米沢おもしろ人物伝」(小学校高学年対象、夏期休暇中実施)その他、自頼奨学財団の奨学生とその父兄対象の講話会や各種グループの協議会、打合せ会、観光・研究調査グループヘの説明会場として有効に活用されている。

そのような諸会合には、本館に備付けの山形県生涯教育センター制作――我妻榮、伊東忠太、高橋里美、浜田広介、大熊信行、平田東助、池田成彬、大橋乙羽らのビデオが広く利用されている。

また同館では、先人顕彰会とタイアップして出版活動も行っている。現在までに『素顔の先人たち』『海軍王国の誕生』『自雷子物語』『春宵よもやま話』などを刊行している。米沢児童文化協会では「我妻児童文化賞」を設定しているが、我妻榮記念館では、毎回副賞として記念館発行の図書を贈呈している。

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むすび

米沢有為会は、明治・大正・昭和・平成と1世紀余の歩みをつづけながら、先人たちの愛郷心を継承してきた。

このようなケースは全国的にも珍しいであろう。

高橋里美(東北大学長・文化功労者)は、「米沢人気質」(昭和33年『心』6月号所収)と題し、熊本出身の松野鶴平の指摘に共鳴して「例えば薩摩とか長州は後輩を育てて大勢を成して行く。ところが米沢人は1人ひとりは相当なものだけれども、進取的な力に結集することが出来ないところがある」と書いている。これは米沢有為会の将来を考える場合、銘記すべき忠告ではなかろうか。

「殷鑑遠からず」中條政恒の進取開明性は、藩政時代の米沢では生かされなかった。しかし明治期に入り、その薫陶を受けた伊東忠太ら弱冠の学生たちが、進取開明の気性を存分に発揮して結束しながら有為会結成という快挙を成し遂げた。それから110年の歳月が流れた。

戦後、日本の経済が飛躍的に成長して国民が裕福になり、平和な飽食暖衣の生活が当たり前になると、日本人のものの考え方も、愛郷心や倫理道徳の観念もすっかり様変わりしてしまった。現代の育英事業を考える際には、このような時代相の異常な変化を、先ず念頭に置かなければならない。

米沢有為会の事業とてその例外ではない。有為会の存在が有り難かったと感謝された理由の1つには「貧乏の子沢山」という当時の家庭事情があった。

しかし現代は経済事情も好転し、おまけに少子化の時代。子供はわがままに育てられ賛沢に馴れ、学生寮における団体生活を敬遠する傾向が強まって来た。勿論、有為会の学生寮のお蔭で助かる家庭もあるだろう。

このような現状を前提に有為会の運営を考える場合、会運営を主導する幹部役員としては、どのようにして有為会の意義を説き、伝統を生かしながらいかに時代に即応する活動を展開するか、いま発想の転換を迫られている。

旧い時代感覚の改善と新しい感覚に基づく新規事業の採用が緊急課題となるであろう。先ず若い世代の人達の視野に立って現代という時代をいろいろな角度から見直して認識を深める必要がある。が、一方的に追随する姿勢は戒めるべきだ。なにかにつけ不自由だった時代に、先人たちが孜々として築いてきた切瑳琢磨の伝統について根気強く語り聞かせる労を厭ってはいけない。米沢有為会の歴史を語り聞かせることに並行して、郷土の歴史、人物について紹介する必要がある。そうするうちに、先人達への畏敬の念も郷土意識も芽生えてきて、成長とともに若者達の人生観・処世観も変わり、時代を越えて「不易な道」があることに気づく時が必ず来る。

有為会の存在意義が理解されるのはその時である。焦っては行けない。すべて事は漸をもって興廃するのである。

世のため人のためというが、結局は自分の「幸福」につながることに気づくようになれば、同郷人の親睦を目標にスタートした有為会の伝統は継承されるであろう。

有為会を主導する幹部役員は、斬新な知恵をしぼり、冒険を恐れず、活発なPR活動を展開すべき時機である。

それにつけても期待すべきは、新進気鋭の若手幹部の登場である。

 

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執筆者略歴

松野良寅(まつのよしとら) 1926年米沢市 生れ

米沢興譲館中学・海軍兵学校(75)・東北大学法文学部英文科卒。

米沢興譲館高校教諭・山形大学教養部教授・東北芸術工科大学教授。

()東北芸術工科大学名誉教授。

(現)米沢有為会本部理事・我妻榮記念館館長・日本英学史学会会長。米沢興譲館同窓会長・米沢市史編纂委員会委員長。

日本英学史学会第1回「豊田實賞」受賞(昭和61)

米沢市功績章受章(平成10)

主著

『興譲館世紀』『東北の長崎-米沢洋学の系譜』『会津の英学』『西洋学の東漸と日本』『興譲館人国記』『我妻榮-人と時代』司海軍王国の誕生』『素顔の先人たち』『遠い潮騒-米沢海軍の追憶と系譜』『城下町の異人さん』『随想頑固教師礼讃』『随想と講演古稀の峠三合目』他

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