唐大和上東征伝・船の記録

鑑真の「唐大和上東征伝」の全文を口語訳する。本邦初めてのことか、と思う。訳者 西 野 ゆるす
 「唐大和上東征伝」は、鑑真の在唐時からの弟子であった思託から資料の提供を受けて淡海真人三船(西暦722年〜785年)が撰修したものといわれている。五度の渡航失敗にもめげず、六度目にしてようやく来日を果たした様子を伝える記録である。和泉書院 蔵中進編 宝暦十二年版本「唐大和上東征伝」によった。
全漢文であるが訓点が施されている。また蔵中進氏による訓読文が併せ記されているために比較的訳しやすい。
蔵中進氏は解説で次のように述べている。「東征伝は、我が奈良朝末期の文学として、かなりの出来栄えを示している。鑑真大和上の単なる伝記に終始することなく、鑑真始め弟子僧たちの姿が生々と描出され、物語性も豊で、文章もはりがあり、奈良朝文学の総決算に位置するものといってよい」このことから、口語訳といっても全くの現代文にすることは、その文学性を著しく粗末に扱うことになる。よって、できる限り、訓読み体を保ちながら、字そのものの理解を補助する程度に口語訳を混ぜて、読んで抵抗なく文意が伝わるように試みるつもりである。
一応最後まで急ぎ通訳し、後、更に口語訳を深めて解説など加えたいと思っている。とりあえず、変換できない文字で読みが分かるものはひらがなで書き、読みも分からないものは?とし、後日に修正する。
赤カッコ内の数字は版面の丁数である。本文中の青字は他の文献の記録である。

(一)法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記 真人元開撰す
大和上、諱(いみな=本名)は鑑真、揚州江陽県の人である。俗姓は淳干(じゅんう)、齋(せい)の弁士[こん]の後裔なり。鑑真の父は先に揚州大雲寺智満禅師に就いて戒を受け禅門を学す。大和上は十四才の時、父に随って寺に入り仏像を見上げて心を感動す。因って父に請うて出家を求む。父その志を奇なりとして許す。焉(いずく)んぞこの時、大周則天長安元年(701年)、勅ありて、天下の諸州に於いて僧の制度を設ける。すなわち、智満禅師に就いて出家して、沙彌となり大雲寺に配住す、後にこの寺は改めて龍興寺と為す。唐の中宗孝和皇帝神龍元年、道岸律師に従って菩薩戒を受く。景龍元年錫を杖ついて東都(洛陽)に因って長安に入る。その二年(702年)三月廿八日西京(長安)の実際寺に於いて登壇して、具足戒を受ける。荊(けい)州南泉寺の弘景律師を和尚と為す。二京(洛陽と長安)に巡遊して、三蔵(経、律、論)を究学す。後、淮南(わいなん)に帰って戒律を教授する。(時の皇帝は玄宗皇帝、鑑真25才)江淮(こうわい)の間、独り化主(仏の教えを説く人)となり、是に於いて佛事を興建して群生(民衆)を済化(せいか=救い導く)す。そのこと繁多にしていちいち記載すべからず。
日本の天平5年(西暦733年)、沙門栄叡(ようえい)及び普照等が遣唐大使・多治比真人広成に随って唐国に至って留学する。

沙門栄叡(ようえい)及び普照等が遣唐大使・多治比真人広成に随って唐国に至って留学したことについて、続日本紀では次のように記録している。
続日本紀 巻第十一 聖武天皇(西暦731年〜734年)
 
天平四年・西暦732年、
八月十七日 従四位上の多治比真人広成をもって遣唐大使と為す。従五位下の中臣朝臣名代を副使とす、判官は四人、録事
(ろくじ=公文書を作成したりする書記)は四人。
九月四日 近江・丹波・播磨・備中などの国に使いを遣わして、遣唐使のための船四艘を造らしむ。
天平五年・西暦733年
三月二十一日 遣唐大使で従四位上の多治比真人広成らが天皇に拝謁した。
三月二十六日 遣唐大使の従四位上の多治比真人広成が天皇に別れの拝謁をし、天皇は節刀
(せっとう=「勅許によって、部下が犯す無礼に対し、場合によっては殺してもよいという権威を与えたことを意味する権威の刀をいう」(エドウイン・O・ライシャワー 円仁 唐代中国への旅 田村完誓訳)を授けた。
夏四月三日、遣唐の四船が難波の津より進発す。

この年は唐では開元二十一年である。唐国の諸寺の三蔵(経、律、論の三蔵に通じた僧)大徳(立派な徳のある人)は皆戒律を以って入道の正門とする。若し戒を持たざる者あれば、僧中に連ならず。この点に於いて日本には戒を伝える者がいない。よって、東都大福寺の沙門道せん律師を遣唐副使の中臣の朝臣名代の船に乗せて先に日本に向けて、とりあえず、伝戒の者として出発させた。

沙門道せん律師を遣唐副使の中臣の朝臣名代の船に乗せて先に日本に向った後のことについて続日本紀は次のように記録している。
続日本紀 巻第十一 聖武天皇(西暦731年〜734年)  
天平六年・西暦734年
十一月二十日 入唐大使で従四位上の多治比真人広成らが、多禰嶋(種子島)に来着した。
続日本紀 巻第十二 聖武天皇(西暦735年〜737年)
天平七年西暦735年

三月十日 (天平五年に)入唐の大使で従四位上の多治比真人広成らが、唐国より至って節刀を進む(返上した)。
三月二十五日 遣唐使一行が天皇に拝謁した。
四月二十三日 従四位上の多治比真人広成に正四位上を授けた。
四月二十六日 入唐留学生で従八位下の下道朝臣真備が唐礼百三十巻、太えん暦経一巻、太えん暦立成十二巻、(太陽の)影を測る鉄尺一枚、銅律管一部、鉄如方響、写律管声十二条、楽書要録十巻、絃纏漆角弓一張、馬上(で)飲水漆角弓一張、面を露し四節を漆れる角弓一張、甲を射る箭二十隻、板付きの平射箭十隻、を献上した。
五月五日 天皇は北の松林苑に出られて、騎射を見給う。帰国した入唐使および
唐人が唐国や新羅の楽を演奏し、槍をもって舞った。
五月七日 入唐使で請益(=仏教の留学僧)の秦大麻呂が作成した問答(集)六巻を献上した。
天平八年・西暦736年
二月七日 入唐学問僧の玄ム法師に封戸百戸、田十町、扶翼(=身のまわりのことを助ける)童子八人を、律師の道慈法師に扶翼の童子六人を施し与えた。
八月二十三日 入唐の副使従五位上の中臣朝臣名代らが
唐人三人と、ルシャ人一人を率いて天皇に拝謁した。
十月二日 天皇は
唐僧の道せん・婆羅門僧(インド僧)菩提らに時節に適った服を施された。
十一月三日 天皇は朝殿に臨まれて、詔して入唐副使・従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授けた。故(=死没した)判官・正六位上の田口朝臣養年富、紀朝臣馬主にはそれぞれ従五位下を贈り、准判官・従七位下の大伴宿禰首名、唐人の皇甫東朝、ペルシャ人の李蜜翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けるに差あり。
天平九年・西暦737年
八月十九日 正四位上の多治比真人広成を参議とす。
八月二十六日 玄ム法師を僧正とす。
九月二十八日 正四位上の多治比真人広成を中納言とす左大臣正二位嶋之の第五子なり。
続日本紀 巻第十三 聖武天皇(西暦738年〜740年)
天平十一年・西暦739年

四月七日 中納言・従三位・の多治比真人広成を中納言が薨じた。
十月二十七日 入唐使の判官・外従五位下の平群朝臣広成並びに渤海の使節等が京に入った。
十一月三日  平群朝臣広成が天皇を拝した。はじめ広成は、天平五年に大使多治比真人広成にしたがって入唐した。六年十月に使命を終えて帰国する時、四つの船が同時に蘇州より海に入った。悪風が忽ち起って、お互いに見失ってしまった。広成の船の百五十人は崑崙国
(インドシナ方面)に漂着した。そこに賊兵があって来り囲まれて、ついに捕らえられた。船人は或いは殺され、或いは逃げ散る。残りの九十人あまりは瘴(しょう=熱病)にかかり死亡した。広成ら四人は僅かに死を免れて崑崙王に謁見することができた。僅かな食料を与えられ、悪所に安置された。天平七年に至って、唐国の欽州に唐に帰順した崑崙人がいて(安置された場所)にきた。そこでひそかに盗み載せられて(=助け出され、船に乗せられて)唐国に帰ってきた。そして、日本の留学生の阿倍仲麻呂に会って、上奏してもらい入朝できた。渤海経由の路を通って日本に帰ることを請願した。天子はこれを許し、船と食糧を支給して出発させた。十一年三月に登州より海に入る。五月に渤海の境域に到るとき、偶然、渤海王の大欽茂が使いをわが朝廷に派遣しようとしているのに会った。すぐに時を同じくして荒れた海を渡海するに及んで、渤海の一隻が浪に遭って転覆し、大使の胥要徳ら四十人が没死した。広成らは残った衆を率いて出羽の国に到着した。
十二月十日 渤海使の己珍蒙らが朝廷を拝して、その王の手紙と国の産物を献上した。その手紙の文は次のようであった。
「欽武が申し上げます。山河はるかに隔絶し、国土は遠く離れています。たたずんで遠く望みますと、日本の天皇の気高い人柄や、民を導くはかりごとは、仰ぎ見て尊敬が増すばかりです。天皇のお考えや、この上ない徳は遠くまで広がり、代々立派な君主がその光を重ね、恩沢はすべての国民に行き渡っています。欽茂はかたじけなく祖先の業をつぎ、国を治めていますが、始めと変わりがありません。しかし義はひろく、情は深く、常に隣国との友好をはかっています。今、日本の使者の広業らが、風や潮に災いされ、漂流してここに投せり。(渤海国に来ました)つねの如く丁重にもてなして、来春を待って帰国させようと思いましたが、使者らは一刻も早い帰国を望み、年内に帰国したいと訴えます。訴えの言葉は甚だ重く、隣国との義は軽くありません。よって、旅行に必要な品を準備し、すぐさま出発させることとしました。そこで若忽州都督の胥要徳らを使とし、広業らを引きつれて日本に送らせます。あわせて大虫(=虎?)の皮と羆(ひぐま)の皮をそれぞれ七張、豹の皮六張、人参三十斤、蜂蜜三石をつけて進上します。日本に着きましたら調べてお納めください。」
十二月二十一日 外従五位下の平群朝臣広成に正五位上を授けた。その他の水手以上の者にも、それぞれ身分にあわせて位を授けた。


栄叡と普照は唐国に留学すること既に十年を経て、迎えの遣唐使船を待たずに早く帰らんと欲す。
(二)栄叡と普照は西京の安国寺の僧道航・澄観、東都の僧徳清、高麗の僧如海に呼びかけ、また、宰相の李林甫の兄林宗の書き付けをもらって揚州の倉曹の役職にある李湊に大船を造らせ、買い求めた食糧をその地に送った。また、日本国の同学の留学生の僧玄朗、玄法の二人をも誘ってともに楊州に行った。
この年、唐の天宝元年(日本の天平十四年、西暦742年)冬の十月。時に大和尚は揚州大明寺にあって、衆のために律を講じていた。
栄叡と普照は大明寺をおとずれて大和尚の足下を頂礼し(ひれ伏して頭を地に付けて拝む)、つぶさに本意を述べて言った。「仏法は東流して日本国に到りました。その法有りといえども仏法を伝え広める人がいません。日本国に昔、聖徳太子と言う人ありて、『二百年の後、聖教が日本に於いて興る』と言い残しました。今、この運にあたります。願わくは大和上に東遊していただいて教化したまえ」と。
大和上は答えて言った。「昔、南岳の思禅師が死に際にあたって、『死んだ後は倭の国の皇子に生まれ変わり仏法を興隆し衆生を済度する』と言ったと聞く」「また、日本国の長屋王は仏法を崇敬して千の袈裟を造って、この国の大徳・衆僧に喜捨した。その袈裟の縁には『山川の国が異なっても風月は天を同じくする、仏の子は共に来たって縁を結ばんとす』と刺繍取りがしてあった。と聞く。このことを以って考えるに、誠にこれ日本国は仏法興隆に深い縁のある国である」「今、我が同法の衆のうちに誰かこの遠国の要請に応えて日本国に行って法を伝える者あらんや」と。
時に衆は黙然として一人も答える者なし。ややしばらく後、僧祥彦というものありて進み出て言った。「かの国は甚だ遠くて命がけです。滄海E漫(そうかいびょうまん=青海原が果てしなく広がっている)として百に一人も行くことはかないません。『人身は得がたく中国は生じ難し』とも言います。未だそれだけの修行を積む者はなく、成果を期することかないません。このために皆黙って答えることができません。」と。
大和上は「是は法事(仏法の修行)のためである。何ぞ身命を惜しむことあらんや。諸人が行かないとあれば我即ち行くのみである」と言った。祥彦が「大和上がもし行くと仰るならば私もまたついて行きましょう」と言った。ここに、僧道興、道航、神宗、忍霊、明烈、道黙、道因、法蔵、法載、曇静、道翼、幽巌、如海、澄観、
(三)徳清、思託等の二十一人、心を同じうして大和上について行くことを願う。(第1回渡航準備)
ようやく既に終わりて東河に行って船を造る。揚州の倉曹・李湊が林宗の書を検校して、また同じく船を造り食料を買い揃える。大和上、栄叡と普照等は同じく既済寺にあって食料を買い揃える。ただし、「供具を持って天台山国清寺に行って衆僧を供養する」と云う(唐の僧が外国に出ることについて皇帝の許可が出ないことが予想されたのでこのような名目で動いた)。
この年天宝二年、当時海賊が大いに動いて物騒なり。台州、温州、明州の海路はその害を蒙り海路は塞がり公私の往来は断たれている。僧道航が言った。「今、他国に向かうは戒法を伝えんが為なり。皆、高徳の行を為すにあたり反対をする者は除かなければいけません。如海等の如き少学(臆病者と言う意味か)の者は留まるがよい」と。如海は大いに怒り??して州に行って採訪庁に上がり次のように告げた。「大使はご存知か。僧道航という者があって船を造って海に出て海賊と連なっていることを、都では数人の者が食料を買い求め、既済・開元・大明寺にあるを、又、五百人もの海賊が居て城に入りこようとしていることを」と。
時に、淮南の採訪使・班景青が聞いて大いに驚き、即ち、部下に命じて如海を獄に入れ推問せしむ。また、官人を諸寺に差し向けて賊徒を捕らえんとした。遂に、既済寺に於いて食料を探し得、大明寺で日本の僧普照を捕らえ、開元寺では玄朗・玄法を捕らえた。一人栄叡は走って池に入り水の中に仰臥し隠れた。やや少しして水の動くをみて(官人は)水に入り栄叡も捉えられた。皆は県に送られて推問された。僧道航は俗人の家に隠れるも又捕らえられて同じく獄中に拘禁された。問うて曰く「海賊と連なる者は何人居るか」道航答えて言った。「賊と連ならず。(道)航は是れ宰相李林甫の兄の林宗家の僧なり。功徳をもって天台国清寺に行くように言われたのである。嶺を越えるは辛苦あり、船を造って海路より行くしかありません。今、林宗の書面二通は倉曹の所にあります」(予定していたとおり、「供具を持って天台山国清寺に行って衆僧を供養する」のだと答えた。) 採訪使は倉曹に問う。対して曰く「本当のことです」鴻艪(こうろ=外国人を扱う役人)はその書を検めて見て即ち言う。「阿師、事なき(問題はないだろう)、今は海賊大いに動き、すべからず海を過ぎていくにはあらず」」と。その造るところの
(四)船は官に没収しその余のものは僧に返す。その誣告(ぶこく=事実を曲げて密告した罪)の僧如海は之がために還俗させられ、六十回のむち打ちと決し、本貫(本籍地)に逓送す。日本の僧四人は楊州に上奏し都に至る。鴻臚は検案して、もとの配寺に向かう。寺では「その僧は乗り物に乗って去り、その後見ていません」と報告した。官人は鴻臚に帰ってそのことを上奏した。すなわち、楊州に行くように勅あり、更にその勅に曰く。「その僧栄叡等は、既に是れ番僧(外国の僧)にして唐に入りて学問す。年毎に絹二十五匹を賜い、四季に時服を給い、天子の行列に就き従うことを許されている。是れ偽濫にあらず。今、国に帰りたいとしている。思うように放還しよろしく揚州の例によりて送遣すべし」と。時に、栄叡と普照等は四月に禁ぜられて八月にしてまさに始めて自由を得た。(第一回目の渡航失敗)
玄朗・玄法は之より(日本)国に帰って別れ去る。
時に、栄叡と普照は次のように話し合った。「我等の本願は戒法を伝えんがために諸の高徳にお願いをして、まさに本国に連れ帰ることである。今、揚州の勅は『我等四人を(日本国に)送る』と。諸師を連れ帰ることができずに空しく帰ることは益なし。どうしたらよかろう。官の「送る」というを、受けないわけには行かない」 しかし、所期の目的どおり、まさに僧を本国に連れ帰って戒法を流伝せんとす。ここに於いて、道すがら官所を避けて大和上のところに行き相談した。大和上曰く。「須らく愁うことなし。よろしく方便を求めて必ず本願を遂げる。」と。すなわち、八十貫の銭を出して嶺南道の採訪使劉臣隣の軍舟一隻を買い、船員十八人を雇って次の食糧等の積荷を買い揃えた。
(第二回目渡航準備
米百石、豆三千石、チーズ百八十斤、麺五十石、干し焼餅二箱、干し蒸餅一箱、干し薄餅一万個、饅頭一箱半、漆塗り蓋付き盆三十具、兼将画五頂像一鋪、宝像一鋪、金泥像一躯、六枚折の佛菩薩屏風一具、金字華厳経一部、金字大品経一部、金字大集経一部、金字大涅槃経一部、雑経・論章集総て一百部、月令の屏風一具、行天の屏風一
(五)具、道場幢(旗、のぼり)百二十口、珠幢十四條、玉環の手幢八口、螺鈿経箱五十口、銅瓶二十口、華氈(かせん=模様のある毛布)二十四領、袈裟一千領、褊杉(へんさん=僧の衣服)一千対、座具一千床、大銅蓋四口、竹葉蓋四十口、大銅盤二十面、中銅版二十面、小銅盤四十四面、一尺面の銅畳八十面、少銅畳二百面、白藤箪(小箱)十六領、五色の藤箪六領、麝香甘、沈香・甲香・甘松香・龍脳香・膽唐香・安息香・桟香・零陵香・青木香・薫陸香総て六百余斤有り、また、華鉢・呵梨勒・胡椒・阿魏石・蜜・蔗糖等五百余斤、蜜蜂十斛、甘蔗八十束、青銭十千貫、正炉銭十千貫、紫邊銭五千貫、羅ぼく頭二千枚、麻靴三十量、蔕胃三十個有り。僧祥彦・道與・徳清・栄叡・普照・思託等十七人、玉作人・画師・雕檀(ちょうだん=飾り彫師)・刻鏤(彫刻)・鋳写(鋳物)・繍師(刺繍)・修文(文書)・[せん]碑(石碑)等の工手総て百八十五人が同じく一隻の船に乗った。
天宝二年十二月帆を挙げて東に下って狼溝浦(ろうごうほ)に到り、悪風に漂浪し波は船を激しく撃って壊れた。人は全て岸に上がる。潮来て水は人の腰に到る。大和上は烏[おう]草の上に居ましき。余人は皆水中にあって冬の寒風急にして甚だしく辛苦す。更に船を修理して下って大坂(板)山に到り、船を泊めて即ち進むことを得ず。嶼山に下って住することひと月。好風を待って出帆し、乗名山に至らんと欲す。風は急で浪高くして岸に着けることできず。計るに量るべきことなし。纔(わずか)に険岸を離れて、かえって岩礁に乗り上げ、遂には船破れ人並びに船ともに岸に打ち上る。水・米はともに尽きて飢渇すること三日。風止み浪静かにして泉郎(漁民)が水・米を持って来、救われたり。また、五日を経て海に帰る官人ありて、来て消息を問う。
(六)明州の太守に請わしめて処分を問う。ぼう県山の阿育王寺に安置す。(第二回目の渡航失敗)
寺に阿育王の塔あり。明州は古くは是越州の一県なり。開元廿一年越州ぼう県の令王叔達越州の一県を割きて特に明州を置き、更に三県を開いて一州四県となさしむ。今、餘姚郡と称しその育王の塔は是仏滅度後の一百年の時に、鉄輪王有りて阿育王と名づく。鬼神を使役せしめて建てた八万四千の塔の一つなり。その塔は、金に非ず、玉に非ず、石に非ず、土に非ず、銅に非ず、鉄に非ず。紫烏色にて刻鏤し、常に一面は薩た王子の変、一面は捨眼の変、一面は出脳の変、一面は救鴿の変、上に露盤なし。中に縣鐘有り。地中に埋没し能く知る者なし。唯、方基のみ有り。高さ数尺にして草棘蒙茸(そうきょくもうじょう=草が繁茂)して尋ね窺う者は罕(まれ)なり。晋の秦始元年に并州西河離右の人で劉薩訶という者、死して閻羅王界に到る。閻魔王は(劉に)教えて堀出さしむ。晋宋の齊梁より唐代に至って時々塔を造り堂を造る事甚だ多し。そのぼう山東南の嶺の石の上に佛の右足跡有り、東北の少巌の上に又佛の左足跡有り。ともに長さ一尺四寸、前の広さ五寸八分、後ろの広さ四寸半、深さ三寸、千幅輪の相有り。その印文は分明に顕示す(はっきりと読める)。世に伝えて曰く。「迦葉佛の跡なり」と。東方二里路の側に聖井有り、深さ三尺ばかり、清涼甘美にて極雨にも溢れず、極旱にも涸れず。中に一鱗の魚長さ一尺九寸なり。世に伝えて護塔菩薩と云う。人有り。香華をもって、供養す。福ある者はすなわち見、福無き者は年を経て求めるも見えず。人有り。井戸の上に屋根を造り七宝をもって葺き瓦としたところ、たちまち水は流れ出してしまった。
天宝三年(744年)甲申に次いで越州竜興寺の衆僧が大和上に請うて律を講して戒を受く。事終わりて更に
(七)杭州・湖州・宣州並びに来て大和上に請うて律を講せしむ。大和上依って次に巡遊し開講して受戒す。還りてぼう山の育王寺に到る。時に、越州の僧等は大和上の日本国に行かんと欲するを知りて州官に告げて曰く。「日本国の僧栄叡は大和上を誘いて日本国に行かんとす」と。時に、山陰県の尉は人を王蒸が宅に遣わして栄叡師を探し得て枷を付けて京に逓送せしめ遂に杭州に至る。栄叡師は病に伏せて暇を請うて療治する。多時を経て(しばらく経って)「栄叡は病死した」と(うそを)言って、すなわち、放出を得たり。栄叡・普照等は求法のための故に前後災いを被り艱辛すること言をもって尽すべからず。然れども、その堅固の志はかって退悔することなし。大和上その是の如くなることを悦びてその願いを遂げんと欲す。僧法進および二人の近事をして福州に行って船を買わしめ食料を買い揃える。(第三回渡航準備)
大和上は諸門徒、
祥彦、栄叡、普照、思託等の三十人を率いて育王の塔を辞禮し、佛跡を巡礼し聖井護塔の魚菩薩を供養す。山を尋ねて直ちに州を出る。太守・廬同宰及び僧徒・父老送り迎えて供養を設け、人を差し向けて食料を備え送り、白社村寺に至らしめて壊塔を修理せしむ。諸の郷人に勧めて一つの佛殿を造る。台州の寧海県の白泉寺に至って宿す。明くる日、齋(さい=食事)の後、山を越える。嶺は険しく道遠く日暮れて夜暗し。谷の水は膝を没し飛雪は目を迷わす。諸人泣涙し等しく寒苦を受く。明くる日嶺を渉って唐興県に入り、日暮れて国寺に至る。松篁蓊鬱(しょうこうおううつ=松が蔽い茂り)、奇樹さい凛(珍しい樹が光り輝いている)たり。宝塔の玉殿、玲瓏赫奕(れいろうかつえき=あでやかで美しい)たり。荘厳華飾すること言をもって尽すべからず。孫綽(そんしゃく)が天台山の賦はその万に一つを尽すあたわず。大和上は聖跡を巡礼し、始豊県を出て臨海県に入る。白峯に導きて江を尋ね遂に黄巌県に至る。即ち、永嘉郡の路を取りて禅林寺に到りて宿す。明くる朝早くに食し、発して温州に向かわんとす。忽ち採訪使の使い牒有りて、来たり追う。その意は楊州にある。(八)大和上の弟子の僧霊ゆう及び諸寺の三綱衆僧は同じく議して曰く。「我が大師和尚は願を発し日本国に向かわんとして、山に登り海を渉りて数年艱苦す。滄溟万里(そうめいばんり=果てしない青海原)、死生莫ることなし。共に官に告げて遮って留住せしむべし」と。よって、共に牒をもって州県に告ぐ。是に江東道の採訪使は諸州に牒を下しめ、まず、経るところの諸寺の三綱を追って、獄に於いて身を留めて推問す。跡を尋ねて禅林寺に至って大和上を捉え得て使いを差し向け押送防護し、十重囲繞して、送って採訪使のところに至る。(第三回目渡航失敗)
大和上至るところの州県の官人は参迎礼拝、歓喜す。すなわち、禁ずるところの三綱等を放出す。採訪使の処分は旧によって本寺に住せしめ、三綱に約束し防護して曰く。「更に他国に向かわしむること勿れ」と。諸州の道俗は大和上の還り至ることを聞きて、各々四事の供養を弁して、競い来たり慶賀し相い手をとり合って慰労す。独り大和上憂愁す(大和上は本願を遂げようとする本意を理解できない弟子の霊ゆうがしたことで絶望的になったことに深い悲しみをもった) 霊ゆうを呵責して顔を開き賜わず。その霊ゆう日々懺謝して歓喜を請う。毎夜一更(八時)より立ちて五更(朝の四時)に至って更に謝罪す。遂に、六十日を終う。また、諸寺の三綱大徳共に来て礼謝して歓喜を乞う。大和上即ち、顔をのみ開く。(少しは和らいだ)
(第四回渡航準備)天宝七年(748年)春栄叡、普照師は同安郡より揚州崇福寺大和上の住むところに到る。更に二師(栄叡、普照)と方便を作しめて、船を造り、香薬を買い、百一物を備弁すること天宝二年に備えるところの如し(第二回渡航のときと同じように用意した)。同行の人、祥彦、神倉、光演、頓悟、道祖、如高、徳清、日悟、栄叡、普照、思託等道俗一十四人及び水手一十八人を化し得て、又、そのほか相隋わんと集う者を含めて三十五人有り。六月二十七日発し、崇福寺より揚州の新河に到り、船に乗って常州の界狼山に至る。風急に浪高くして三山を旋転す。明くる日、風を得て越州の界の三塔山に至り、停住することひと月。(九)好風を得て発し、署風山に至って、停住すること又ひと月なり。十月十六日の早朝大和上の曰く。「昨夜夢に三官人を見る。一人は緋の袈裟を着け二人は緑の袈裟を着け岸上に於いて拝別す。是れ国神の相別なる(国神は自分が日本に行くことをお許しなって別れのため夢枕にお立ちになった)ことを知るなり。疑らくは是度は必ず渡海を得ん」と。しばらく有りて、風起これり。頂岸山を指して発す。東南の方に山を見る。日中に至ってその山滅す。是れ蜃気(蜃気楼)なることを知る。岸を去ることしばらく遠くして風急に波険し。水黒きこと墨の如し。沸浪のひとたびおどり越えて高山に上るが如し。怒涛再び至って、深谷に入るに似たり。人皆荒酔してただただ観音を唱える。船人告げて曰く。「船は今や沈みそうです。何の惜しむ処有らんか」すなわち、桟香籠を牽いて空中に投げ捨てんとす(投げ荷=沈没を避けるために積荷を海に捨てて船を軽くしようとした)。声ありて曰く。「投げ捨てることなかれ、投げ捨てることなかれ」と。すなわち、止む。中夜の時船の人曰く。「恐れる事なかれ。四神王が甲(かぶと)を着け杖をとり、二人は舳にいまし、二人は帆柱の基にいます」衆人是を聞いて心裏安す。
三日蛇海を往く。その蛇の長さは1丈余り、小なるは五尺余りなり。色皆斑班(まだら)にして海上に満ち浮ぶ。三日飛魚の海を往く。白色の飛魚、えいとして空中に満つ。長さ一尺ばかり。五日飛鳥の海を往く。鳥の大きさは人の如し(アホウドリか?)。飛んで船の上に集まる。船重くして没せんとす。手を以って押せば鳥すなわち手をついばむ。その後二日、(見る)物なし。ただただ急風あり、浪高きのみ。衆僧臥す。
普照師は毎日食事時に生米少しばかりを行いて、衆僧に与えて、もって、中食に充てる。船上水なし。米を噛めば口渇いて喉に入らず。吐けど出るものなし。海水を飲めば腹すなわち膨れる。一生の辛苦なんぞ是より烈しきか。海中に四つの金の魚(いるかか?)あり。長さ各々一丈ばかり、走って船の四邊を巡る。明くる早朝、風止んで山を見る。人総て水に渇き、死なんと欲するに臨む。栄叡師面色忽然として怡悦(いえつ)して、すなわち、説いて曰く。「夢に官人を見る。我に懺悔を受けんことを請う。(栄)叡の曰く。『貧道、甚だ渇いて、水を得んと欲す』と。彼の官人水を取りて(栄)叡に与う。水の色は乳汁の如し。取りて飲むに甚だ美なり。心に清涼たり。(栄)叡は彼の官人に語って曰く。『船の上の(十)三十余人は多日水を飲まず。大いに飲渇す。擅越(だんおつ=信者)水を取り来たれ』と。時に官人は雨令(?)の老人を呼んで処分して曰く。『汝等大了事の人、早く水を送り来たれ』と。夢相は是の如し。水は今まさに諸人に至る。急に須らく椀を取って待つべし」と。是を聞いて総て歓喜す。明くる日の未の刻に西南の空中より雲起こり船の上を覆って雨を注ぐ。人は皆椀を受けて飲む。第二日目、また雨至る。人皆飽き足る。明くる早朝岸に近く四つの白魚来たりて船を引いて直ちに泊船浦に至る。舟人椀を持って競って岸頭に上がり、水を求む。一つの小さな岡を過ぎてすなわち池水に遇う。清涼甘美なり。衆人争い飲みて各々飽満を得たり。明くる日更に池に向かって水を汲まんと欲するに昨日の池の所ただただ陸地のみありて、池を見ず。衆共に悲喜す。これ神霊の化出せるところの池なることを知るなり。

是の時冬十一月花の蘂(しべ)は開敷し、樹の実竹筍は生えてまさに夏のごとし。凡そ海中に在ること十四日を経てまさに岸に着くを得たり。人をして浦を求めしむ。すなわち、四経紀(旅人)の人有り。すなわち、道を引いて(教えて)去る。四人口つから云う。「大和上は大果報にして弟子に??(訳せず)、然らずんば死に目に会ったであろう。この間の人物は人を食らう。直ちに去るがよい」と。すなわち、船を引いて去って浦に入る。晩に一人の髪を被り刀を帯びたるを見る。諸人大いに怖れる。すなわち、去る。夜発して、三日を経て振州の江口に到って、船を泊める。その経紀の人は行って郡に報せる。
そこの役人馮崇債(ふうすうさい)は兵四百余人を遣わし、来たり迎えて、引いて州城に至る。(第四回目渡航失敗)
役人が来たり迎えてすなわち曰く。「弟子は早くに大和上の来る事を知る。昨夜夢に、僧姓は豊田というもの有り、当に是、債の舅なるべし。この中に若し姓豊田という者有りや否や」衆僧皆「無し」と云う。債の曰く。「この間に姓豊田なる人無しといえども、今、大和上すなわち当に弟子の舅なるべし」と。すなわち、迎えて宅内に入れて齋を設けて供養す。また、 大守の廰内に会を設け戒を授ける。よって、州の大雲寺に入れて安置す。その寺の佛殿荒廃す。(十一)衆僧各々衣物を捨て佛殿を造る。住せる事一年にして造り終わんぬ。役人の馮崇債は自ら甲兵八百余人を備えて、送って四十余日を経て万安州に至る。州の大首領馮若芳は請うてその家に留めて三日供養す。
若芳は年毎に常にペルシャの船三十二艘を掠め取り、物を取って、己が貨とす。人を掠めて奴婢とす。その奴婢の居るところは南北三日の行程、東西五日の行程の広さにおよぶ。その間の村々は総て是若芳の奴婢の住むところなり。若芳は客に会するに常に乳頭香を用いて、燈燭として一焼きに一百余斤。宅の後ろに蘇芳木が露積みしてあること山の如し。その余の財物はまた同じ。行って岸州界に到りて賊無し。役人はすなわち、(遠回りして)近寄らず。

栄叡、普照師は海路より四十余日を経て岸州に到る。州の遊えき大使・張雲出迎えて拝謁し、引き入れて開元寺に住せしむ。官寮、参省は齋を設けて物を施すこと一屋に盈満す(ようまん=あふれる)。彼の所の珍異口味、すなわち、果物の益知子、檳椰子、茘支子、龍眼、甘蕉(ばなな)、拘莚(くえん)、楼頭の大きさ鉢盂(はちう=お盆)の如き、甘きこと蜜花よりも甘し、花は七宝色の如し、膽唐香樹は集まり生い茂って林となる。風至れば香は五里の外に匂う。また、波羅奈樹有り、果実の大きさは冬瓜の如し。樹は?さ畢鉢草子に似たり。同じく今、葉を見るに水葱(ねぎ)の如し、その根の味は乾柿に似たり。十月に田を作り、正月に粟を収穫す。蚕を養うこと八度。稲を収穫すること二回。男は木笠を着け女は布絮(ふじょ=綿入れ)を着る。人は皆蹄(ひづめ=刺青か?)を彫り、歯を鑿ち(うがち=抜歯か?)、面に縫物をし、鼻に飲む(煙草の類か?)。是れその奇なり。大使以下
典正に於いて番を作って衆僧を供養す。大使自ら手ら食を行って(意味不明)、優曇鉢(うどんばつ)樹の葉をもって生菜に充て、また、優曇鉢の実をもって衆僧に供養す。すなわち曰く。「大和上、知るや否や。此れは是、優曇鉢樹の実なり。此の樹は花有り(三千年に一度花が咲き、その時、金輪王が現れるという)。弟子が大和上に巡り会えるのは、優曇鉢華(うどんばつげ=極めて稀のことのたとえ)の花が咲くが如し。その葉は赤色(十二)で丸くその直径は一尺余、実の色は紫丹にして味は甘美なり。
彼の岸州に大火あり、寺共に焼く。大和上は大使の請いを受けて寺を造る。振州の役人が大和上の寺を造り給えるを聞いて、すなわち、諸の奴隷を遣わして各々一椽(いってん=材木一本)をたてまつらしむ。三日のうち、一時にすなわち来て、佛殿、講堂、せん塔を構う。椽木(てんぼく)の余りでまた、釈迦文丈六の仏像を造る。登壇、受戒、律を講して人を度すること既に終わってすなわち、大使に別れて去る。よって澄邁(ちょうまい)を指す。県令(県知事)はもてなして船に乗せる。三日三夜にしてすなわち、雷州に達す。羅州、弁州、象州、白州、傭州、藤州、悟州、桂州等の官人・僧道・父老(老人)は迎え送りて礼拝・供養・承事す(仕える)。その事量ることなし、言記するべからず。始安の都督、上党の公、馮古璞(ふうこはく)等城外に歩みより出でて五体を地に授け足を接して礼す。引いて(導いて)開元寺に入れて、始めて(長い間開くことのなかった)仏殿を開く。香気城に満ち、城の中の僧徒は幡(はん=のぼり
)をささげ香を焚き梵(お経)を唱えて寺中に雲の如くに集まる。州県官人、百姓は街の大通りを埋め満ちて礼拝、賛嘆すること日夜に絶えず。ついに、都督来て自ら
手ら食を行き(?)、衆僧を供養し、大和上に請うて菩薩戒を受ける。そのところの都督七十四州の官人、選挙試学の人らこの州に集まり、都督についで菩薩戒を受ける人、その数無量なり。大和上留住すること一年、時に南海郡の大都督、五府経略採訪大使、攝御史中丞、広州大守廬煥は牒を諸州に下して、大和上等を迎えて広州に向かわしむ。時に、馮都督は親しく大和上を送らんことを求む。自ら助けて船に上がって口つから云う。「古僕、大和上と終に弥勒の天宮に至って相見ん」と。非泣して別れ去る。
桂江を下ること七日、悟州に至る。次いで、端州の龍興寺に至る。
栄叡師が奄然(えんぜん=突然)と遷化す(死す)。大和上哀慟(悲しみ嘆くこと)悲切なり。喪を送りて去る。端州の大守迎え引いて送って広州に至る。廬都督は諸の道俗を率いて、城外に出て迎え、恭敬(十三)承事す。その事無量。引いて大雲寺に入れて、四事供養し、登壇受戒す。この寺に呵梨勒(かりろく)樹二株あり。実があり、大棗(なつめ)の如し。また、開元寺に胡人(北方異民)あり。白檀を以って華厳経九会(きゅうえ)を造る。工匠六十人を率いて、三十年にして造り終わんぬ。物を用いること三十万貫銭なり。天竺(印度)に(その華厳経九会)を持って行かんとす。採訪使劉臣鄰は奏上し、勅あり開元寺に(その華厳経九会を)留めて供養す。七宝荘厳思議すべからず。また、婆羅門の寺三所並びに梵僧居住する。池に青蓮華有り、華葉根、茎並びに芬馥(ふんふく=香ばしい香り)奇異なり。江中に婆羅門、ペルシャ、崑崙等の船その数を知らず。並びに、香薬・珍宝を積載すること山の如し。その船の深さ六七丈、師子国、大石国、骨唐国、日蕃、赤蕃等往来居住の種類極めて多し。州城は三重にして、都督は六纛(とう)を執り一纛一軍の威厳は天子に異ならず。紫緋は城に満ち、邑居(ゆうきょ=家々)は逼側す(ひっそく=軒を連ねる)。
大和上は此処に住すること一春にして、発して、韶州(じょうしゅう)に向かう。城を傾けて(挙げて)遠くに送る。江に乗すること(運河を経て)七百余里、韶州に至り禅居寺に留住すること三日、韶州の官人また送って引いて法泉寺に入る。すなわち、是れ則天(武后)が慧能禅師のために造れる寺なり。禅師の影像今も現在す。後、開元寺に移す。普照は是より大和上を辞して嶺北に向かい、明州の阿育王寺に去る。
(普照は大和上と別行動)この年、天宝九年(750年)なり。時に大和上は普照師の手を執りて悲泣して曰く。「戒律を伝えんがため願を発して海を過ぐ。遂に日本国に至らず。本願遂げず。」是に於いて手を分けて感念喩うことなし。
時に大和上は頻りに炎熱を経て眼光曖昧なり。此処に胡人(北方の異民)あり。よく目を治すといって、療治を加うれども眼遂に明を失す。(鑑真失明))のち、巡遊して霊鷲寺(りょうじゅうじ)、広菓寺に巡遊して登壇受戒し、貞昌県に至り、大ゆ嶺を過ぎて處州の開元寺に至る。僕射(ぼくや=唐の三省の一つ尚書省の長官)鍾紹京が左隣(左降=左遷させられて)して此処に在りて、大和上に請して宅に至らしめ、(十四)壇を立てて戒を受く。次に吉州に至る。僧祥彦は船上に於いて正座して思託師に問うて曰く。「大和上は眠り覚めたるや否や」思託答えて曰く。「未だ眠って起きず」祥彦曰く。「今、死別せんとす」思託は大和上に諮す。大和上は香を焚いて曲几(脇息)を持て来て彦をしてそれにもたれかけさせ、西方に向かって阿弥陀仏を念ぜしむ。祥彦、すなわち、一声仏を唱え正座して静かに息を引き取った。(僧祥彦死す)大和上、すなわち、彦彦と喚んで悲慟すること数えるなし。
時に、諸州の道俗は大和上が嶺北より帰りたまうを聞いて、四方より日に当に三百人以上奔り集まり駢てん(べんてん=混雑))する。お供えの壇は光り輝いている。是より江州に向かって廬(りょ)山の東林寺に至る。是れ晋の代、慧遠法師の居所なり。遠師は此処に於いて壇を立て戒を授く。天は甘露(天子がよい政治をすると、そのしるしとして天が降らすという甘いつゆ=天下太平のしるし)を降らす。よって、甘露壇と号す。今、尚この近くに存せり。天宝九年、志恩律師有りて、この壇上において受戒を与う。また、天が甘露を降らすことを感ず。道俗は晋の慧遠法師のことを思い出し慶びあった。大和上はこの地に留連すること既に三日を経、すなわち、潯(じん)陽の龍泉寺に向かう。昔、遠法師は此処に於いて寺を立つ。水なし、願を発して曰く。「もし、この地において棲止(せいし)に堪えば(住むためには)、まさに、泉を掘り出さしめ」と。、杖をもって地を叩いた。その時、二匹の青龍あり。錫杖を尋ねて(伝って)上がり、水すなわち飛涌す。今、尚その水地上に湧出すること三尺なり。よって、龍泉寺と名づく。
是より陸行して江州の城に至る。太守追って、州内の僧尼、道士、女官を集める。州県の官人、百姓が香華(お供えの香と花)・音楽をして来たり迎え、請して止めて三日供養す。大守親しく潯陽県より九江駅に至る。大和上船に乗り大守と別れ去る。是より七日潤州江寧県に至り、瓦官寺に入って寶閣に登る。閣の高さ二十丈。是、梁の武帝の建てる所なり。今に至って三百余年、微に(少し)傾損すること有り。昔、一夜暴風急に吹く。明くる早朝、人見れば、閣の下の四隅に四神の跡あり。長さ三尺、地に入ること三寸、今、四神王の
(十五)像を造りて閣の四角を扶持する(支えている)。その神の跡、今、なお存す。昔、梁の武帝仏法を信じて崇め伽藍を興建す。今、江寧寺、弥勒寺、長慶寺、延祚寺等にあり。その数甚だ多し。荘厳にして彫刻はまさに工巧(こうこう)を尽くせり。大和上の弟子の僧霊祐、大和上の来ることを知って、遠く栖(せい)霞寺より迎え来て大和上に見え、五体投地し進んで大和上の足を接して、展転悲泣して嘆して(感極まって)曰く。「我が大和上、遠く海東に向かう。自ら謂えらく。一生再観することを得ず。今日、親しく禮す。誠に盲亀の目を開きて日を見るが如し。戒燈重ねて明に(仏法の戒めを照らす灯火はいよいよ明るく)昏衢(こんく=衆生の巷)は再び朗なり(明るさが戻った)。すなわち、引いて栖霞寺に還り、住まうこと三日、却って、摂山を下り楊府に帰る。江を過ぎて新河の岸に至り、すなわち、揚子亭の既済寺に入る。江都の道俗走って道路に満つ。江中(運河には大和上の)船を向かえて軸艪(舳艪=船首と船尾)連接す(前後の船の舳と艫が触れ合うほどにたくさんの船があい連なる)。遂に城に入って、龍興寺に住すなり。大和上南振州より来たって、陽府に至る。経る所の州県は壇を立て戒を受く。空しく過ぐる者なし。今、また、龍興、崇福、大明、延光等の寺において律を講し、戒を授く。暫くも停断することなし。昔、光州の道岸律師は命世の挺生、天下四百余州、もって、受戒の主となって、岸律師遷化ののち、その弟子杭州の義威律師は響き四遠に振い徳を八紘に流ふ。諸州またもって受戒の師となす。義威律師無常の後、開元廿一年、時に、大和上は年四十六に満つ。准南江左浄持戒の人、唯、大和上独り秀でて倫道俗なし、心を帰して仰ぎて受戒の大師となす。凡そ前後、大律並びに疏(そ=注釈書)を講すること四十遍、律抄を講すること七十遍、軽重儀を講すること十遍、羯磨疏(けましょ)を講すること十遍、共に三学を修め博く五乗に達す。外には威儀を乗し内には奥理を求む。講授の間、寺舎を造立し、十方の(あらゆる)衆僧を供養す。仏菩薩像を造ることその数(十六)量るなし。納の袈裟千領、布の袈裟二千余領を縫うて、五台山の僧に送り、無遮の大会を設けて悲田を開いて貧病を救済し、敬田を啓いて三宝を供養す。一切経を写すこと三部、各々一万一千巻、その前後人を度し戒を授けること略略計るに四万有余に過ぎたり。その弟子の中、超群抜粋(とりわけ優れて)世の師範となる者は、すなわち、揚州崇福寺の僧祥彦、潤州天響寺の僧道金、西京安国寺の僧よう光、潤州栖霞寺の僧希瑜、揚州白塔寺の僧法進、潤州栖霞寺の僧乾印、沛州相国寺の僧神よう、潤州三昧寺の僧法蔵、江州大林寺の僧志恩、洛州福光寺の僧霊祐、揚州既済寺の僧明烈、西京安国寺の僧明債、越州道樹寺の僧よう真、揚州興雲寺の僧恵j、天台山国清寺の僧法雲等三十五人並びに翹楚なり。各々一方に在りて法を広め世に群生を導化す。
天宝十二年(753年)十月十五日、日本国の使、大使特進藤原朝臣清河、副使銀青光録太夫、秘書監吉備朝臣真備、衛尉卿阿倍朝臣朝衡等至って延光寺に来る。

遣唐大使として吉備朝臣真備が、副使として大伴古麻呂が任命されて唐に向かったことについて、続日本紀は次のように記録している。
続日本紀 巻第十八 (孝謙天皇・西暦750年〜752年)
天平勝宝二年・西暦750年

九月二十四日 遣唐使を任命した。従四位下の藤原朝臣清河をもって大使とし、従五位下の大伴古麻呂を副使とし、判官・主典はそれぞれ四人。
天平勝宝三年・西暦751年
二月十七日 遣唐使の雑色人(ぞうしき人=各種の業務担当の下級官人)百十三人に、位を叙すること差あり。
十一月七日 従四位上の吉備朝臣真備(きびあそんまきび)を入唐の副使とす。
天平勝宝四年・西暦752年
閏三月三日 遣唐使等が天皇に拝謁した。
同月三月九日 遣唐使の副使以上を内裏に召す。詔して節刀を賜う。大使従四位上藤原朝臣清河に正四位下を授く。副使従五位上大伴の宿禰古麻呂に従四位上、留学生藤原朝臣刷雄に従五位下を授く。
夏四月九日 東大寺の廬遮那佛(るしゃなぶつ=大仏)の像が完成して始めて開眼す。この日、天皇は東大寺に行幸し、天皇自ら文武の官人たちを引きつれて、供養の食事を設け、盛大な法会を行った。その儀式はまったく元日のそれと同じであった。五位以上の官人は礼服を着用し、六位以下の官人は位階に相当した朝服を着た。僧一万人を招請した。それまでに雅楽寮および諸寺のさまざまの楽人がすべて集められた。また、すべての皇族・官人・諸氏族による五節の舞、久米舞、楯伏(楯、刀などを持って舞う)・踏歌(あらればしり)・袍袴(ほうこ=わたいれや袴を着けた舞)などの歌舞が行われた。東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ別れて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書きつくせないほどであった。仏法が当方に伝わって以来、齋会(さいえ=食事を供養する法会)としていまだかってこのような盛大なのはなかった。

大和上に曰しめて云う。「弟子等早く大和上の五たび海を渡って日本国に向かい、将に教えを伝えんと欲するを知る」と。故に、今、親しく顔色を奉って、頂礼歓喜す。弟子等まず、大和上の尊号並びに持律の弟子五僧を記して、すでに主上に奏聞す。
「日本国に向かって戒を伝えん」と。主上は「将に道士をもって去らしめんと要す。(連れて行くように求めた。)日本の君王は先に道士の法を崇めず。」と。そこで、すなわち、奏して留春、桃原等の四人を住して(を残して)道士の法を学ばしむ。このために
(十七)大和上もまた奏す(残ると伝えた)。
退いて願わくは大和上自ら方便を作せし。弟子等自ら国信物を載せる船四舶在りて行装(旅支度)具足す(ととのっている)(第六回渡航準備)。行くに難しいことはない。時に、大和上の許諾終われり(許可も出た)。時に、揚州の道俗皆云う。「大和上日本国に向かわんと欲す」と。是によって、龍興寺の防護(警戒)甚だ固く進発する由なし(出発することができない)。時に、仁幹禅師あり、務州(ぶしゅう)より来たりて蜜(ひそかに)に大和上の出んと欲する知って、船舫を江頭に備具して(いつでも舫いを解いて出帆できるように港で)大和上を相待つ。天宝十二年十月廿九日戌時に龍興寺より出て江頭に至り、船に乗って下る。時に、廿四人の沙彌(僧)悲泣して走り来て大和上に曰く。
「大和上、今、海東に向かわば重ねて(再び)お目にかかることができません。我らは今、最後に結縁に預らん」と。すなわち、江邊(川辺)において廿四人の沙彌のために戒を授け、終わって船に乗って下って蘇州の黄洫浦に至る。相随う弟子は、揚州白塔寺の僧法進、泉州超功寺の僧曇静、台州開元寺の僧思託、揚州興雲寺の僧義静、衢州霊耀寺の僧法載、竇州開元寺の僧法成等の一十四人、藤州通善寺の尼智首等三人、揚州優婆塞潘仙童、ペルシャの人宝最、如寶、崑崙国の人軍法力、膽波国の人善聴、総て二十四人。将つ所の如来の肉舎利三千粒、功徳繍普集の変一舗、阿弥陀如来の像一鋪、彫白栴檀千手の像一躯、繍千手の像一鋪、救世観世音の像一鋪、薬師阿弥・陀弥勒菩薩の端像各々一躯、同障子、金字の大品経一部、金字の大集経一部、南本涅槃経一部四十巻、四分律一部六十巻、法励の師四分の疏(そ=書物)
(十八)五本各々十巻、光統律師の四分の疏百廿紙、鏡中記二本、智首師の菩薩戒の疏五巻、霊渓釈子の菩薩戒の疏二巻、天台の止観法門・玄義・文句各々十巻、四教儀十二巻、行法華懺法一巻、少止観一巻、六妙門一巻、明了論一巻、定賓律師の飾宗義記九巻、補釈(しゃく)餝(しき)集記一巻、戒疏二本各々一巻、観音寺亮律師の義記二本十巻、南山宣律師の含注戒本一巻、及び疏行事鈔五本、羯磨疏等二本、懐素律師の戒本疏四巻、大覚律師の批記十四巻、音訓二本、比丘尼伝二本四巻、玄奘法師の西域記一本十二巻、終南山宣律師の関中創開戒壇図経一巻、あわせて四十八部。及び、玉環水晶手幡四口、金珠‥欠字‥、菩薩子三斗、青蓮華廿口茎、玳瑁(たいまい=べっこう)の畳子八面、天竺の草履二両、王右軍の真蹟行書一帖、王献の真蹟行書三帖、天竺朱和等の雑体書五十帖、‥欠字‥、水晶手幡以下皆内裏に奉る。又、阿育王の塔と様な金銅塔一区。
廿三日庚寅、大使は大和上らに取り計らって、副使らの船に分散して乗せしめ、終わって後、大使以下みなで話し合って曰く。「まさに今、広陵群は、又、大和上が日本国に向かうことを覚知せば、まさに、船を捜さんと欲す。もし、探し得られば使いのために妨げあり(遣唐使のしたこととして無事には治まらない)。風に漂よわされて唐域に還り着かば罪悪を免れず」と。そのために衆僧総て船を下りて留まる。十一月十日、丁未の夜、大伴の副使ひそかに
(十九)大和上及び衆僧を招いて己が船に入れてそのことを総て(皆に)知らしめず。十三日、普照師は越の余姚群より来て、吉備副使の船に乗る。(普照は天宝九年、大和上と別れて嶺北、明州の阿育王寺に行っていた)十五日壬子、四船同じく発す。一羽の雉あり。第一船の前に飛ぶ。よって(これを凶事として)、碇を下ろして留まり十六日発す。
廿一日戊午、第一、第二の両舟同じく阿児奈波嶋(沖縄島)に到りて、多彌ガ島西南に在り。第三の舟は昨夜すでに同所に泊る。
十二月六日、南風起きて第一に船は石不動に着く。第二の船発して多禰に向かい、去る七日益救嶋(屋久島)に至る。十八日、益救より発す。十九日、風雨大いに発して四方を知らず。午時浪の上に山頂を見る。二十日、乙酉午時第二の舟は薩摩の国阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら)に着く。


大伴古麻呂が鑑真を連れて日本に帰ったことについて続日本紀は次のように記録している。
続日本紀 巻第十九 (孝謙天皇・西暦753年〜756年)
天平勝宝六年・西暦754年

正月十六日、入唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら八人が古麻呂に随って来朝した。
正月十七日 大宰府が次のように上奏した。「入唐の副使・従四位の上の吉備朝臣真備の船(第二船)が、去年(753年)十二月七日に屋久島に来着しました。その後、屋久島より出発し、漂流して紀伊国の牟漏崎(室津)に着きました」と。
正月三十日 副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は奏して曰く。「大唐の天宝十二年、わが国の天平勝宝五年一日に、諸蕃の百官が朝賀しました。天子は蓬莱殿の含元殿において朝賀を受けられました。‥‥」
三月十七日 大宰府は次のように言ってきました。「使いを遣わして入唐第一船のことを尋ね問わせましたところ、その回答では、第一船は帆を上げて奄美大島を指して出発しましたが、その到着場所は未だ不明とのことです」と。
四月七日 入唐廻使(遣唐使として入唐し、無事に帰国した者)・従四位上の大伴宿禰古麻呂と吉備朝臣真備にそれぞれ正四位下を授く。また、判官・正六位上の大伴宿禰御笠と巨万朝臣大山にはそれぞれ従五位下を、この他使いの下にいる二百二十二人にも、位を授けたが各々差あり。
四月十八日、大宰府は次のように言ってきました。「入唐第四船の判官・正六位上の布勢朝臣人主らが薩摩国の石垣浦に来着し停泊しています」と。
(藤原清河と阿倍の仲麻呂が乗った第一船は阿児奈波嶋に到りながらその後、安南にまで流され、苦労の末、755年に唐に戻った。藤原清河は藤原清河を帰国させるための迎えの遣唐船で759年に帰国したが阿倍仲麻呂は遂に帰国することはなかった。)

二十六日辛卯、延慶師が大和上を引いて大宰府に入る。
天平勝寶六年甲午正月十三日丁未、副使従四位上大伴の宿禰胡麻呂は大和上の筑紫大宰府に到ることを奏す。
二月一日、難波に到る。唐の僧崇道等迎え慰めて供養す。
三日、河内の国大納言正二位藤原朝臣仲麻呂は使いを遣わして迎慰す。又、道せん律師が弟子僧善談等を遣わして迎慰す。又、高行の僧志忠、賢m、霊福、暁貴等の三十余人が迎え来て礼謁す。
四日、京に入る。勅して正四位下の安宿王を遣わして羅城門の外に於いて、迎慰拝労し東大寺に入れて安置す。
五日、唐の道せん律師、婆羅門菩薩僧正が来て慰問す。宰相右大臣大納言以下の官人百余人来て礼拝問訊す。後、勅使正四位下吉備朝臣真備来て口つから勅して曰く。「大徳和上遠くより滄波を渉りこの国に投じる。誠に、朕が意に副う。喜慰喩うることなし。朕、この東大寺を造って
(廿)十余年を経る。戒壇を立て、戒律を伝授せんと欲す。この心ありしより日夜忘れず。今、諸の大徳遠く来て戒を伝えること冥に(深く)朕が心に誓えり。今より以降、受戒伝律ひとえに大和上に任す」と。又、僧都良弁に勅して諸の臨壇の大徳の名を録して禁内に進めしむ。日を経ずして勅して伝燈大法師位を授く。その年の四月、初めて盧遮那殿の前に立って、戒壇を立て、天皇初めて壇に登って菩薩戒を受けたまう。次に、皇后、皇太子又壇に登り戒を受け、尋いて沙彌修のために四百四十余人の戒を授く。又、旧との大僧霊祐、賢m、志忠、善頂、道緑、平徳、忍基、善謝、行潜、行忍等の八十余人の僧は旧戒を捨てて大和上授けるところの戒を受く。後、大仏殿の西に於いて、別に戒壇院を作る。すなわち、天皇受戒の壇の土を移して之を作る。大和上は天宝二年より始めて伝戒のために五度びに装束し渡海艱辛して漂廻せられるといえども本願退かず、第六度に至って日本に渡る。三十六人総て無常し去る。退心の道俗は二百余人、唯、大和上学問の僧普照、天台の僧思託のみ有りて、始終六度び十二年を経逾して遂に本願を果たし、来たって聖戒を伝う。まさに知らんぬ。物を救うの慈悲、宿因は深厚にして身命を惜しまず。度するところの極めて多し。時に四方より来て戒律を学ぶ者有れども、供養無き縁で多く退還すること有り。この事天聴に漏れ聞う。よって、以って(天平)宝字元年(757年)十一月廿三日をもって、勅して備前の国の水田一百町を(大和上に)施す。大和上この田をもって伽藍を立てんと欲す。時に、勅ありて大和上に園地一区を施す。是は亡き一品新田部親王の旧宅なり。普照、思託は、大和上に「この地をもって伽藍と為し、長く四分律蔵法、法励の四分律疏、鎮道場、餝宗義記、(廿一)宣律師の鈔を伝えて持戒の力をもって国家を保護せん」と請う。大和上の曰く。「大いに好し」すなわち、宝字三年八月一日私に唐律招提の名を立て、後に、官額を請う。此によって定と為す。また、此の日をもって善俊師を請して件の疏記等を講せしむ。立つる所のものは、今の唐招提寺是なり。初め大和上は中納言従三位氷上の真人の延請を受け、宅に就いてひそかにその土を舐めて寺を立つるべきを知る。よって、弟子の僧法智に語らく。「此れ福地なり。伽藍を立つるべき」と。今、遂に寺と成る。謂うべし。明かんの先見なり。大和上象季に誕生して親しく佛使と為る。経に曰く。「如来処処に人を度す。汝等また如来に学びて広く人を度行せよ」と。大和上すでに遣風を承って人を度すること四万に逾える。上の略件及び講の遍数の如し。唐の道せん律師は大和上の門人思託を請うて曰く。「承学は基緒あり。せんが弟子、漢語の分かる者は励の疏並びに鎮国記を学ばしむ。幸いに開き導かせ見せよ。僧思託、すなわち、大安の唐院を受けて忍基等のために四、五年の中研磨すること数遍なり。(天平)宝字三年(759年)僧忍基が東大の唐院において疏記を講し、僧善俊は唐寺において件の疏記を講す。僧忠慧は近江において件の疏記を講し、僧恵新は大安の塔院において件の疏記を講す。僧常ぎは大安寺において件の疏記を講し、僧真法は興福寺において件の疏記を講す。此れよりこの方、日本の律儀は漸漸巌整にして師資相い伝えて、寰字において仏の宣うところの如く、我が諸の弟子は展転して之を行わせば、すなわち、如来の常在不滅となす、と。また、一灯を百千灯に燃やすが如し。暝(くら)き者は皆明明として絶えず。(天平)宝字七年(763年)の春、弟子の僧忍基は講堂の棟梁が摧折すと夢に見る。ひそかに驚懼す。大和上遷化せんと欲するの相なり、と。よって、諸の弟子を率いて大和上の影を模す(肖像を作る)。(廿二)是の年五月六日結跏趺坐し西に面して化す。(大和上死す)春秋七十六、化して後三日、頂上、猶、煖(あたたか)なり。是によって久しく殯れん(棺にいれず)せず。闍維(じゃい)において香気山に満つ。平生嘗(か)って僧の思託に謂って曰く。「我、若し、終巳(しゅうじ)せば願わくは座して死せん。汝我がために戒壇院いおいて別に影堂を立つべし。旧住の坊は僧に与えて住せしめよ」と。千臂経(せんぴきょう)に曰く。「終わりに臨んで端座し禅定に入るが如し」 当に、此の人巳に初地に入るを知る。是を以って之を験するに聖凡測し難し。同八年、日本国の使いを唐の楊州の諸寺に遣わす。皆大和上の之の凶聞を受けて総て喪服を着け東に向かって哀を挙げること三日。総て龍興寺に会して大齋会を設く。其の龍興寺は是より先、火して皆焼け被る。大和上昔の住した院坊は独り焼損せず。是また戒徳の余慶なり。
法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記一巻 宝亀十年歳次(779年)二月八日己卯撰

続日本紀・巻第二十一 孝謙上皇は次のように鑑真の偉業を称えて慰労している。
天平宝字2年(758年)8月1日 
詔りに曰く。「それ大僧都鑑真和上は戒行ますます潔く、白頭になっても変わらず。遠く滄波(青海原)を渡り来て我が聖朝(日本)に帰化す。号して大和上というて恭敬(敬い)供養す。政の煩瑣を老いにかかわらず労わることなし。ここに僧剛の任を解くべし。諸寺の僧尼を集めて戒律を学ぼうとする者は皆ついてよく学ばしめよ」と。
続日本紀 巻第二十四 鑑真の死を悼んで続日本紀は次のように記録している。
天平宝字7年(763年)5月6日
 大和上(だいわじょう)の鑑真が逝去した。 和上は揚州竜興寺の大徳(高僧)なり。博(ひろ)く経典論に渉りもっとも戒律に精し(くわしく)、江淮(長江(揚子江)と淮水(わいすい))の間において、ただ一人の化主(指導者)となった。天宝二年(我国の天平15年)に、留学の僧栄叡(ようえい)・業行らが和上に告げて曰く。「仏法は東流してわが国に伝わりました。その教えはありますが、それを授する人がおりません。幸いに願わくは、和上が東遊して(我国に来て)お教えを興隆せんと」と。訴えの言葉が丁寧で、請願してやまなかった。すなわち、(鑑真は)揚州において船を買って海に乗り出した。しかし、中途にして暴風のために漂って、船は波で打ち破られた。和上は一心に念仏す。人皆これによって死を免れた。天宝7年(天平20年)に再び渡海す。また風浪に遭って日南(ベトナム北部)に漂着した。時に、栄叡(ようえい)が亡くなった。和上は嘆き悲しんで失明す。天平勝宝4年に、わが国の使いがたまたま唐に朝貢したとき、業行が(鑑真に)宿願を打ち明けた。(鑑真は)ついに弟子24人とともに、副使・大伴宿禰古麻呂の船に乗って帰朝した。(鑑真を)東大寺に安置して供養した。このとき天皇の勅ありて、一切の経論を校正せしめた。しばしば誤字があり、諸本がみな同じでよく正す者がなかった。和上はすべてよく暗誦しているため多くの詩文を改め正した。またいろいろな薬物についても、真偽を見分けさせたが、和上は一々鼻でかいで区別し、一つも誤らなかった。聖武天皇は(鑑真)を師として受戒された。皇太后(光明)が病気になったときも、鑑真が奉った医薬が効き目があった。大僧正の位を授けられた。にわかに網務(僧綱としての務め)が煩雑になったため、改めて大和上の称号を授け、備前国の水田一百町を施し、また新田部(にいたべ)の親王の旧宅を施して戒院とした。今の唐招提寺がこれである。和上はあらかじめ死ぬ日を知っていて、その時に到って、端座してやすらかに遷化(逝去)した。ときに年77才であった。

(鑑真の死を悼んで贈られた詩七編)
初めて大和上に謁す。二首並びに序

聞くならくそれ、仏法東流して摩騰して伊洛に入り、真教は南に僧を呉都に会遊せしめ、未だ斯の文を喪さず。必ず命世あり。まさに、この道を弘めんとす。実に明賢を待つ。我が皇帝は此れの龍図によって、蒼生を八の表済い、彼の佛記を受けて転首を三乗に導く。すなわち、を負い鈞を投げ肩を[ほうかん]に比ぶと言えども盃に乗じて鐸を聴き未だ影を玄門に連ならず。茲に鑑真大和上という者あり。戒網を張って、かって臨む、法進闍梨は智炬を照らして戻り止まる。像化の多士は斯において盛んなりと為す。玄風堕ちざること寔(まこと)に茲れに頼る。弟子は跡を囂(きょう)塵を辿りて心を真際に馳す。三帰の地に有るを奉して、一覚の遥かなるにあらざることを喜ぶ。芳猷(ほうゆう)を贊(たたえ)んと弱管を奮う。

(廿三)爾(なんじ)が云う
摩騰漢闕に遊び、僧会呉官に入る。豈に真和上若からんや
章を含みて海東に渡る、禅林の戒網は密、彗苑覚華豊なり
玄津の路を識らんと欲す、緇(し)門妙工を得たり、
我は是れ無明の客、長く有漏の津に迷う、今朝善誘を蒙り
懐抱は埃塵を絶す、道種将に夏に萌えんとす、空華更に春に落つ
自ら三寶の徳に帰して、誰か六魔の瞋(いか)るを畏れん
五言傷む、大和上伝燈の逝することを
日本国伝燈沙門釈思託
上徳は杯に乗って渡り、金人道すでに東す、戒香余って馥を散し
彗炬また風に漂う、月隠れて霊鷲に帰り、珠逃れて梵宮に入る
神は飛ぶ生死の表、遺教本門の中
七言傷む、大和上を
伝燈賢大法師大僧都沙問 釈法進
大師の慈育円空に契ふ、遠邁燈を伝えて東海を照らす
物を度す草寿石室に満ち、佛戒を散流して遺蹤(いしゅう)を招き
化果て分身浄国に帰る、娑婆誰か復為に竜を観る
五言大和上を傷む 金紫光禄大夫中納言行式部卿石上宅嗣
上徳遷化に従い、余燈風を断たんと欲す、招提禅草をけづり
(廿四)戒院覚華空し、生死悲しみて恨みを含み、真如歓び豈に窮せんや
惟(これ)視る常修の者、処として遣蹤(けんしゅう)ならざるは無し
五言大和上を傷む 図書寮兼但馬守藤原朝臣刷雄
万里伝燈照らし、風雲遠国に香し、禅光百億に耀き
戒月千郷に皎(きよ)らかなり、哀しいかな浄土に帰ること、悲しいかな泉場に赴むくこと
語を寄す騰蘭の跡、洪慈万代に光れり
日本に使いするによって鑑真大和上に頂謁せんとす、大和上すでに滅度して尊顔を観ず、嗟(なげ)いて懐を述ぶ
          都虞侯冠軍大将軍試大常卿上柱国高鶴林
上方仏教を伝う、名僧鑑真と号す、懐蔵隣国に通って
真如民に転付す、早く嫌う五濁に居ることを、寂滅囂塵を離る
禅院今古より、青松遶(めぐ)りて、塔を新たなり、法は千載に留まりて住し
名は記す万年の春