古事記・枕草子・船の記録

@ 古事記から「船」に関する記述を抽出した。

古事記は岩波文庫 倉野憲司校注の「古事記」によった。

上つ巻(神代の時代
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が‥生める子は 水蛭子(ひるこ=水子か?)葦船(葦を編んで作った船)に入れて流し去()てき  P20
次に生める神の名は 鳥之石楠船神(とりのいはくすぶね) 亦の名は天鳥船(あめのとりふね)という P23
投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神(
つきたつふなどのかみ) P29
須佐之男命(すさのおのみこと)の大蛇退治
酒などを入れる器を置きて、船毎に其の八塩折(やしほおり)の酒を盛りて待ちてよ‥ 八俣大蛇(やまたのおろち)‥船毎に己が頭(かしら)を垂れ入れて その酒を飲みき P40

少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が 天の羅摩船(あめのかかみぶね)に乗り PP53 
天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を建御雷神(たけみかづちのかみ=雷は船に乗って天空と地上を往来するものと信ぜられていた)に副へて遣はしたまひき  P60.61
その船をふみ傾けて‥ P61
海幸彦と山幸彦
无間勝間(
まなしかつま=目が堅く詰まった竹籠)の小船を造り、その船に載せて 
教へてのたまへしく 「我その船を押し流さば ややしばし往でませ 味(
うま)し御路(みち)あらむ すなわち その道に乗りて往でまさば 魚鱗の如造れる宮家(みや) それ綿津見神(わたつみかみ)の宮ぞ P72

中つ巻(神武天皇から応神天皇まで
神武天皇の船団を組んでの東征
浪速(
なみはや)の渡(わたり)を経て 青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊てたまいき ‥ここに御船にいれたる楯を取りて 下り立ちたまひき P80

血沼海(ちぬのうみ)に到りて その御手の血を洗いたまいき 故に血沼海とは謂うなり P80
垂仁天皇
二股杉を二股小舟(
ふたまたおぶね=二股に分かれている杉の木を伐ってそのまま二股の丸木舟を作って)に作りて 持ち上り来て 倭の市師池 軽池に浮かべて その御子を率いて遊びき  P111
肥長比売(
ひながひめ=大蛇)患ひて 海原を光して船より追い来たりき ‥山のたわより御船を引き越して逃げ上り行でましき P113
景行天皇
走水(
はしりみず=今の浦賀水道)の海を渡りたまひし時 その渡りの神浪を興して船を巡らして得進み渡りたまわざりき ‥菅畳八重(すがだたみやへ)、皮畳八重、きぬ畳八重を波の上に敷きて その上に下りましき ここにその暴浪(あらなみ)自ら和ぎて御船得進みき P123
神功皇后の新羅征討
軍(
いくさ)を整へ船雙(ふねな)めて渡りいでまししとき、海原の魚、大き小さきを問わず 悉に御船を負ひて渡りき ここに順風(おひかぜ)大(いた)く起こりて 御船浪のまにまにゆきき その船の波 新羅の国に押し上がりて すでに国半ばに到りき ここにその国主 かしこみてまほす 「今より後は 天皇の命のまにまに 御馬甘(みまかい)として 年毎に船雙めて 船腹(ふなはら)乾さず、棹舵(さおかじ)乾さず 天地のむた 止むことなく仕え奉らん」 P134
忍熊王おしくまおうの謀略を討つ
ここに 息長帯日売命(
おきながたちしひめのみこと) 倭(やまと)に還り上ります時 人の心疑わしきによりて 喪船(柩を載せた船)を一つ具えて 御子をその喪船に載せて まづ 「御子はすでに崩りましぬ」と言い漏らさしめたまひき ‥ その弟忍熊王(おしくまのおう)‥喪船に赴きて空船を攻めんとしき ここに その喪船より軍を下ろして相戦いき  ‥ここにその忍熊王と伊佐比宿禰(いさひのすくね)と 共に追い
ひ迫めらえて 船に載りて海に浮かびて歌ひけらく ‥ すなわち 海に入りて共に死にき 
P136.P137
大山守命を討つ
船舵を備え(
船の櫓や櫂)‥ 船の中の簀椅(すのこ)に塗りて‥楫を取りて船に立ちたまひき ‥ ここに兄王‥河の辺に到りて 船に乗らむとするときに 楫を取りて船に立ちませるを知らずて すなわち その舵取りに問ひて‥その船を傾けしめて 水の中に堕しいれき P147.148
すなわち密かに小船に乗りて逃げ渡り来て 難波に留まりき P150
浪振る領巾ひれ=魔よけの呪力があると信じられた襟にかける白い布) 浪切る領巾 風振る領巾 風切る領巾 P151

下つ巻(仁徳天皇から推古天皇まで
難波の堀江
この天皇
(仁徳天皇)の御世に ‥秦人(はたびと)を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り また 丸邇池(わこのいけ) 依網池(よさみのいけ)を作り また 難波の堀江を掘りて海に通はし また 小橋江(おばしのえ)を掘り また 墨江(すみのえ)の津をさだめ定めたまいき P156
天皇 高台(たかどの)に座(ま)して その黒日売(くろひめ)の船出でて海に浮かべるを望みみて 歌ひたまひしく 
沖方へには 小船(
おぶね)連(つら)らく くろざやの まさづ子()吾妹(わぎも) 国へ下らす P157
石之日売命(いわのひめのみこと=仁徳天皇の妃 嫉妬深いことで有名)多いに怒る
御綱柏(
みつながしま)を御船に積みみてて‥ 難波の大渡に 後れたる倉人女(くらびとめ)の船に偶ひき ‥ここにその倉人女 この語る言を聞きて すなわち御船に追い近づきて 状(ありさま)を具さに 仕丁の言の如くまほす ここに大后(おほきさき)大(いた)く恨み怒りまして その船に載せし御綱柏は 悉に海に投げ棄てたまひき 其地を号付けて御津崎という すなわち 宮に入りまさずて その御船を引き避きて 堀江に遡り 河のまにまに山代に上り幸でましき P160
枯野という船
西に一つの高樹ありき その樹の影 朝日にあたれば淡路島におよび、夕日にあたれば高安山を越えき この樹を切りて船を作りしに いと早く行く船なりき 時にその船を名づけて枯野と謂ひき この船を持ちて  ‥この船破れ壊れて塩を焼き その焼け残りし木を取りて琴に作りしに その音七里に響みき ここに歌ひけらけく
P167
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門 門中の海石に 触れ立つ 浸漬の木の さやさや P167.P168
新羅の国主(こにきし) 御調(みつぎ)八十一艘(やそまりひとふね)を貢進(たてまつ)りき P174


A 枕草子から船の記録
306段
日のいとうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、浅みどり打ちたるをひきわたしたるようにて いささかおそろしきけしきもなきに、わかき女などの袙(あこめ)・袴など着たる、侍の者のわかやかなるなど、櫓といふもお押して、歌をいみじう謡ひたるは いとをかしう、やむごとなき人などにも見せたてまつらほしう思ひ行くに、風いたう吹き、海の面ただあしにあしうなるに、ものもおぼえず、とまるべき所に漕ぎ着くるほどに、船に浪のかけたるさまなど、かた時に、さばかりなごかりつる海とも見えずかし。
面へば、船に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さなどにてだに、さるはかなきものに乗りて漕ぎ出づべきにもあらぬや。まひて、そこひも知らず、千尋などあらんよ。ものをいと多く積み入れたれば、水際はただ一尺ばかりだになきに、下衆dものいささかおそろしとも思はで走りあるき、つゆあしうもせば沈みやせんと思うを、大きなる松の木などの二三尺にてまろなる、五つ六つ、ほうほうと投げ入れなどするこそいみじうけれ。
屋形といふもののかたにておす。されど、奥なるはたのもし。端にて立てる者こそ目くるる心地すれ、早緒とつけて、櫓とかにすげたるものの弱げさよ。かれが絶えれば、なにかならん。ふと落ち入りなんを。それだに太くなどもあらず。わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸あけ、格子あげなどして、さ水とひとしう下りげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。
小船を見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りてうち散らしたるこそいとよう似たれ。とまりたる所にて、、船ごとにともしてる火は、またいとをかしう見ゆ。
はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく。つとめてなどいとあはれなり。跡の白浪は、まことにこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乗りてありくまじきことことこそおぼゆれ。徒歩路もまたおそろしかなれど、それはいかにもいかにも地に着きたれば、いとたのもし。
海はなほいとゆゆしと思うに、まいて海女のかずきしに入るは憂きわざなり。腰に着きたる緒の絶えもしなば、いかにせんとならん。男だにせましかば、さてもありぬべきを、女鼻帆おぼろげの心ならじ。舟のをとこは乗りて、歌などうち謡ひて、この栲縄を海に浮けてありく、あやふくうしろめたくはあらぬぬやあらん。のぼらんとて、その縄をなん引くとか。惑い繰り入るるさまぞことわりなるや。舟の端おさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに、落と入れてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。

以上

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