土佐日記の航海記
著者 西野ゆるす
第一章 はじめに 電子メール
「土佐日記」の作者である紀貫之は、歌人としては毀誉褒貶にもてあそばれる人である。正岡子規は明治31年2月14日に発表した「再び歌よみに与ふる書」のなかで、「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候」と酷評している。若くして古今集の撰者の一人となり、その中心的な役割を果たした貫之は、平安時代の中期を代表する歌人として貴族階級から高い評価を得ていた。「このような名声と処遇は、壮時古今集を編纂してから約四十年もの間、貫之が保持し続けたものだったが、死後もますます高まる一方で、後撰集は全く古今集を宗として撰ばれたし、拾遺集時代の指導者四条大納言欽公任に至っては柿本人麻呂にも優る歌詠みと評価していた」[吉川弘文館・目崎徳衛著 「紀貫之」]
しかし時代が下ると、評価もいろいろと変わり、挙句の果ては前述の正岡子規のように、貫之の歌人としての地位が極端に貶められることになるのである。
私はある年の五月に泉南沖をヨットでクルージングしていたとき、遠くの山々の下に広がる海岸を見て、ふと、白砂青松という言葉が浮かぶとともに、高校の国語で習った紀貫之のことを思い出した。紀貫之が土佐の守の任終えて京へ帰るときに、この泉南沖を船で通ったと記憶していて、紀貫之は白砂青松を見ながらの航海であったろうと思った。今はその景観を見ることはできない。帰って土佐日記を読んで確かめてみると、果たして、「和泉の灘より小津の泊を追う 松原 目もはるばるなり」 また、「石津といふところの松原おもしろくて 浜辺とほし」とあった。この時、私は、「土佐日記の航海記」を書くとどのようなものになるだろうかと興味がわいてきた。
土佐日記の研究書は江戸時代からあるが、昭和年代に入ってからも数多く出版されている。私は土佐日記の文学的評価については興味がなく「土佐日記が航海記である」という視点でとらえていく。貫之が生きた平安時代中期は王朝時代ともいわれ、貴族社会を反映した記録や読み物はあっても、航海に関する記録はないといってよい。それでもいろいろの記録からかき集め、類推し、想像を加えることで一つの形は作れると思う。自分でも予想はつかないが、できるところまで頑張ることとする。
構成は、「土佐日記の原文の現代語訳」を濃紺字で書き、「解説」を枠内に書き、その他は「土佐日記の航海記」である。
| トップページに戻る |
| リンク | 古事記・船の記録 | 続日本紀・船の記録 | 船の画像 | 鑑真・唐大和上東征伝 | 万葉集・船の記録 |
第二章 土佐の巻
12月20日 出発の前日
土佐神社に参拝を済ませた貫之一行は国衙(こくが=国庁)へと向かっている。
貫之は「この地ですべきことはすべて終わった」と思ったか、一度に疲れを感じてほっとため息をついた。そして、このところの忙しさで忘れていた「神は死に対して冷淡だ」という思いがまたまた募ってきた。
先妻との間にできた長男の時文と次男の是望は立派に成人し、今、後になり先になりして行列をまとめている。しかし、若い妻との間にできた生きておれば七才になるはずの娘がこの行列には居ない。娘の明るい笑い声や喜ぶ顔を見て暮らした毎日が、人生を生きるということはこういうことなのか、とこの歳にして初めて実感したというのに。むなしすぎる、神も仏もあるものか、とも思う。
新任の国司がもっと早くに着いておれば、京でましな薬師に見てもらえたものを、と言いようのない怒りをあらわにすることもあった。その思いがこの時こみ上げてきたのか、「あの新任の奴め」と思わずつぶやいた。
「お上どうかなされましたか」という声に貫之は馬上で「おう」と反射的に応えて姿勢を一瞬正した。時文が近寄ってきて「何か申されましたか」ともう一度声をかけた。
| 日本という国の形が出来上がったのが奈良時代で、出来上がった日本という国の方向性が定まったのが平安時代である。国の形といい、方向性といい、その一番の要素は宗教と国語である。釈迦の教えを元とする仏教は空海と最澄によって日本的仏教の基礎を確立した後、法然と親鸞によって広く大衆宗教としてその後の日本という国の性格を決定づけたし、国語は大和言葉に中国の漢字を借用して、漢字混じりのひらがな文字が日本の国語となった。紀貫之は今の日本の国語の方向性を決定付けたといってよい。これらの先人がいなければ、日本という国の形が今の中国や韓国になっていた可能性も否定できない。それほどに宗教と国語は国の形を決定付ける基本的な要素である。宗教も文字も中国の引き写し(模倣)で始まったが、模倣から独創へと進化するのは人類の特性であり、歴史でもある。特に日本民族はこの点において優れた能力を与えられている。空海にしても貫之にしてもその個人的業績によって日本という国の方向性に決定的な影響を与えたが、その時代においてそのような人物を生み出す土壌が醸成されていた。日本国の形成という点において平安時代は重要な時代である。 土佐日記は当時としては数少ないひらがなで書かれた読み物である。「全編約1万2千五百字を費やして書かれているが、そのうち、漢字の使用は六十二字(漢字の種類は三十四種、単語としての使用回数は四十一)に過ぎずして、まず徹底した仮名書きが励行されていること」[岩波書店 日本古典文学大系 鈴木知太郎校注 土左日記]がこの作品の一大特徴で、いわゆる漢字混じりひらがな文である。 漢字混じり平仮名文は土佐日記が初めてではない。同じころにでた伊勢物語も漢字混じり平仮名文であるが、貫之自身は土佐日記を著す30年も前の古今和歌集の序文で試みている。古事記、日本書紀その他公の文書はすべて漢字漢文で書かれた時代において、わが国独自の国語を持ちたいという強い思いが徐々に醸成されてきた時代背景を感じる。 古今和歌集の序文は「仮名序」といわれるもので、古今和歌集を編纂するにあたっての心意気を書き表したものであるが、実に流れるような美しい文章である。 「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろず)の言(こと)の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげきものなれば、見るもの聞くものにつけて云い出せるなり。花に鳴く鶯、水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあわれと思わせ、男女の中を和らげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」[吉川弘文館、目崎徳衛著「紀貫之」] 古今和歌集 仮名序も漢字混じりの平仮名文であるが未だ漢文調から脱し切れていない。 古今和歌集で一躍歌壇的地位を築いた貫之は、その後日の当たる官歴を経て和歌の第一人者とまで評されるまでになったが、自らの手で国語を完成させたいという思いは長年にわたって持ち続けていたと思う。 |
| 土佐日記は、この当時の官人が日常の出来事を記すことになっていた具注歴(注)を航海の間中書き続け、帰京後にそれを元に書き直したものといわれている。 55日の一日も欠けることのない旅日記であるが、和歌が59首、そのうちの7首に娘のいない寂しさを記している。京で生まれたばかりの娘を土佐に連れてきて、土佐を離れる直前に娘を死なせてしまったことの悲しさ、寂しさが滲む作品であるが、娘の死は虚構(フィクション)である、という説もある。土佐日記には、諧謔あり、性的記述あり、歌論の開陳もあり、女性に仮託した旅日記の体裁をとっていることから見ても、貫之はめぐまれない晩年を迎えて、それまでの王朝貴族との交流生活を振り返って、新しいスタイルの読み物を書いてみようと思い立った、と私は思う。 その当時の読み物といえば、ほとんどが漢詩集、漢文体のものが圧倒的で、くだけた読み物としてはわずかに伊勢物語(主人公は在原の業平で880年ころの作品といわれている)と竹取物語(811年)があるだけで、特に女性の興味を引くものは皆無ではなかったかと思う。そのような時代に発表された土佐日記は絶大な人気を博しただろうと思う。それだけでなく、土佐日記はその後の文学小説の原型となったといって差し支えない。現に源氏物語ほかの女流文学作品に大きな影響を与えた。 竹取物語については、次のような記述が源氏物語にある。 「まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に、宇津保の俊蔭を合わせて、あらそふ。‥‥(竹取の)絵は、巨勢の相覧、手は紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺を陪して(裏打ちをして)、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常のよそひなり」[岩波文庫 源氏物語・絵合の巻 山岸徳平校注][岩波文庫 竹取物語 阪倉篤義校注]とある。 土佐日記が日記形式になっている点について、いろいろ文学的な評価や評論がある。このことについては専門家に任せるとして、土佐日記は私的な日記ではなく、最初から広く読まれる作品としての意図があったことは、冒頭の書き出しから見ても明らかである。しかし、最後に「わすれがたく くちおしきことおほかれど えつくさず とまれかうまれ とくやりてん」という文章で終わっている。これを意訳すると、「決して忘れることができないことや、悔しいことが多いけれども、すべてを書きつくすこともできないから、このようなもの(土佐日記のこと)は破り捨ててしまおう。」となろうが、何か「投げやりな」感じを受ける。 貫之のその思いとは異なり、本書は広く読まれることになったことがうかがい知れる。恵慶法師の恵慶集には「つらゆきかとさの日記をゑにかけるを…‥」とあることから絵にも描かれたほどに広く知られる作品であっただろう。この土佐日記の最初の書き出しとこの最後の投げやりな締めくくりに貫之の気持ちの変化がみられる。 注、「具注歴とは、毎日の吉凶や年中行事などが細かく注記された巻子本(巻物)のカレンダ−で、巻末に前年十一月一日付けで暦を作成した陰陽寮の歴博士らが連署を加えている。その形式には、一行空きや二行空きなどの空白行があり具注歴を利用しやすくするために、記事を書き込むスペ−スを用意したもので、いわば書き込み式のカレンダ−である。」[山川出版社、尾上陽介著 中世の日記の世界] |
12月21日 国府から大津へ
「男が書くと決まっている日記を、女の私が書いてみようと思います。
午後8時、帰国の途に着く。その行程に沿って旅日記を書きます。」
| 話し言葉はあっても文字がなかった時代、長い縄文時代から弥生後期、「桓・霊の間(西暦147年から同188年)、倭国大いに乱れ、互いに相攻伐し、暦年主なし」[後漢書・倭伝]の時代から、「兵はあっても征戦はない。‥‥人はすこぶる物静かで、争訟はまれだし、盗賊は少ない」[随書・倭国伝]の古代王朝の時代に移行する間、西から文化流入が続いて、私たちの祖先は、亜熱帯地域から温帯地域に位置する地理的条件と豊な自然の恵みも受けて、穏やかでゆっくりとした、ユーモアに富んだ話し言葉で平和な生活を享受していたと思う。話し言葉のうち若干の記号程度はあったことが[「隋書・倭国伝]でわかる。すなわち、「(倭の国は)男女は多く入れ墨をし、水に潜って魚を捕る。文字は無く(意を伝えるに)ただ木を削って縄を結ぶのみ。仏法を敬い、百済に仏経を求め得て始めて文字を有す。」とある。後漢書・隋書の引用は[岩波文庫 魏志倭人伝他三篇 石原道博編訳]によった。 西から流入する文化とともに漢字に触れる機会が増し、長い年月をかけて漢字を表音文字として大和言葉に当てはめて書く時代へと移った。万葉集を見れば分かるが、今でいう「当て字」のお手本のようでありながら漢字を見事に使い分けて、情感豊な大和言葉の和歌を漢字で記録している、その言葉表現の見事さは驚嘆するしかない。例えば、次のようである。 「新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰(新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけよごと(吉事))」大伴家持作[新潮社 森淳司/俵万智共著万葉集]より。 万葉集は西暦759年に編集されたとされている。それをさかのぼること47年前の西暦712年に古事記が撰集された。古事記の序三段に古事記が編纂された趣旨が書かれてあり、それを読むと、当時の日本人が独自の国語を作り出そうとしてさまざまな苦労をしていることがわかる。すなわち次のようである。 「ここに、旧辞の誤りたがえるを惜しみ、先紀の誤り混じれるを正さんとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安万呂に詔して、稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといえれば、謹みて勅旨のまにまに、仔細に取り拾いぬ。然れども、上古の時、言葉並びにすなおにして、文を敷き句を構うること、字におきてすなわち難し。すでに訓によりて述べたるは、字におきてすなわち難し。すでに訓によりて述べたるは、詞心におよばず、全く音をもちて連ねたるは、事の趣更に長し。ここをもちて今、或は一句の中に、音訓を交え用い、或は一事の内に、全く訓をもちて録しぬ。」 要約すると、「その当時において語り伝えられていた王家の歴史には多くの間違いがあるから、、稗田阿礼が暗誦していた勅語の旧辞を慎重に選んで文字として記録を残すように安万呂に命じられたのである。しかし、心のままに素直で流麗な話し言葉で暗誦していた事柄を文字で書き出すことは大変に難しいことである。漢字の訓によって書きあらわそうとしても、意味を正しく伝えることは難しいし、漢字の音を用いて書き表そうとしても長々となってしまうだけである。よって、音と訓を適宜使って書くことにする」 話し言葉としては十分に高度に発達した言葉を持ちながら、文字を持っていなかった私たちの祖先は、漢字という借用文字で話し言葉を書き連ねる工夫を長年にわたってしていたことがわかる。古事記は漢字漢文でありながら「かくて安万呂は古くから試みられた変則の漢文を,一層国語的表現に適するように苦心し、漢文の語序を破ったり、助詞や助動詞や敬譲語を表わす文字を補ったりして、新しい変則の漢文を作り出したのである」[岩波文庫 古事記 倉野憲司校注] それでも、和製漢文の古事記の中で取り上げている歌は漢文ではなく万葉仮名で表わされている。やはり日本古来の情感のこもった歌は漢字・漢文をいかに工夫してみても表現に限界があった。「いわゆる漢字形の文字(「以」など)を一字一音式化した万葉仮名、音仮名が草書へと進行して、今のような仮名が誕生した。(「い」など)だから、仮名は突然発明されたのではなく、真書から草書へと変容していく歴史的運動の産物なのである。」[山川出版社 漢字文化の成り立ちと展開 新川登亀男] まさにそのような日本語の生みの苦しみの時代において、漢字・仮名混じり文を敢えて世に認められんとして、古今集の序文や土佐日記を書いた貫之の試みは評価して余りあることと言わずにおれない。そして、漢字を単に表音語とするだけでなく、漢字・漢文体の意味や思想を吸収して、大和言葉は語彙や表現が新たに創造され、洗練されていった。 しかし、仏教伝来とともに速度を増した西側文化の流入によって政治、経済、生活習慣に唐風化が進み、公の書き言葉は依然として漢字・漢文体であった。その中にあって、醍醐天皇、宇多天皇を囲むいわゆる王朝文化サロンは、「固有の日本文化」を生み出そうとする明らかな流れを熟成させつつあった。そして、醍醐天皇の朝廷は紀貫之たち4人の若手に古今和歌集編纂の勅という大きなチャンスを与え、西暦905年わが国最初の勅撰和歌集である古今和歌集ができた。 文化サロンに一躍登場した貫之であったが、日本文化の中心地・京から離脱した土佐赴任の足掛け5年間は、折角築き上げた名声と地位と才能発揮の空白期間となったことが惜しい。しかし、その5年間は平かな混じり文をものにする絶好の機会となったと考えられようか。 |
「貫之様は、土佐の国の国司を足掛け5年務められて新しい国司様に庶務引継ぎのすべてを終えられ、解由状を受け取られて、それまで住んでいたお館を出て、乗って帰る船が待つ大津に向われました。よく知っている者、よく知らない者、たくさんのお見送りがありました。特に親しくしていただいたお方などとは本当に別れがたいお気持ちから、夜が更けてもにぎやかにあわただしく時を過ごし、それは大津に着いてからも続きました。」
土佐守を任じられて足掛け5年、ようやく後任の島田公鑒が着任したのが7月のことだった。引継ぎのすべてを終えて今日は、新国司の島田公鑒が引き連れてきた官人たち、貫之と今回一緒に帰る官人たち、当地の官人たち100余名が参列して貫之を送る儀式が執り行われた。貫之は、新国司から「過怠なく役務を果たしたことを証する」という解由状を受け、「やれやれ」と思ったか「当然のこと、時間をかけやがって」とつぶやきかけて、かろうじてとどまった。
一旦屋敷に戻った後、出立の身支度をし、午後8時ころ屋敷をでた。少し歩いたところにある国分川の渡し場までの道すがら、近在の者たちの大勢の見送りの中、両側にはかがり火がたかれ貫之の一行を明るく照らし出した。一行は用意された10艘の川舟に分乗し、いっせいに川に漕ぎ出し、いよいよ帰京の旅についたのであった。行き先を見通すため、やがて松明が消されると、上空には満天の星空がくっきりと浮かび上がり、その星明りで行く先の川筋を淡く照らし出した。舟舟の櫓のきしむ音だけが聞こえ舟は流れに乗って下って行く。
やがて、舟は大津・舟戸の桟橋に着き、こちらでもたくさんのかがり火がたかれ、付近を明々と照らし出していてたくさんの者たちが出迎える中、貫之一行は出屋敷に落ち着いた。ひっきりなしの見送りや挨拶の者たちが出たり入ったり、大きな声で別れを惜しむ声や笑い声で夜遅くまでたいそう騒がしくにぎやかなことであった。
| 京の都から諸国(66カ国)に派遣される国司は、戸籍づくり、班田の収受、軍政、裁判、寺社の管理、祭祀などその国を統べる一切の権限を委ねられたが、京への調・庸等の貢物確保が一番の大きな役割であった。定められた量の確保以上のものについては国司の采配自由のいわば請負的なところがあり、国司のなり手は多く、巨財を築く者もいたという。その反面、「自らの富の蓄積に専心し、時に貢納物や労役の徴収のために、武力行使をしてもやまない国司もあらわれ、郡司や地域の有力者・富豪と衝突する人も出てきた。こうして八五七年、対馬守が郡司に殺害されたのをはじめ、各地に同じような紛争が頻発したのである。」[岩波新書 網野善彦著、日本社会の歴史] 続日本紀は西暦697年から同791年までの正史であるが、国司の不正が再三記録されている。 天平19年(西暦747年)11月7日に聖武天皇は次のように勅りしている。「ところが諸国の国司らは怠りなまけてそのこと(国分寺建立)を行わず、或いは場所が便利でなかったり、或いはまだ基礎も置いてない。思うに、天地の災異が一、二あらわれているのは、これのためかと思う。朕の股肱とたよりにする臣が、どうしてこのようなことであってよかろうか」 また、天平勝宝6年(西暦754年)9月15日に孝謙天皇は次のように勅りしている。「諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸送は正しく行われず、出挙した利稲の取り立てにも偽りが多い。このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっている(空っぽになっている)と聞く。‥‥」 このようなことは他にもある。宝亀6年(西暦775年)8月19日に光仁天皇が、延暦3年(西暦784年)11月3日とその翌年の7月24日にも桓武天皇が、国司の不正の多いことを指摘し、「貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである」と詔している。 にもかかわらず、一向に改まらなかったことが分かる。 貫之は、そのような国司の風評を意識してか、「まじめに務め上げた国司である」ことを土佐日記にそれとなく随所に書き触れている。貫之の性格の一端を垣間見ることができる。このところを、大伴茫人こと田村秀行氏は[学研文庫 姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記]のなかで貫之の愚痴として「土佐から帰ってから位はあっても役職のない散位という状態に甘んじておるのです。位も貴族として最低の従五位下で、それも五十歳前後になってからやっとなれたのでございます。こんな惨めな境遇でございますから、なんとか権力者であらせられる(藤原)忠平公のご愛顧をこうむって役につけていただきたいと訴えたわけでございます。」と仮想話を書いている。 国司交代の手続きを定めた「交替式」がある。それを基にしたと思われる国司マニュアルがある。大きな権限と役割を持つ国司の、国司拝命後から赴任地に赴く道中のこと、旧国司からの事務引継ぎの儀式、赴任地での治政の注意事項など42条からなる「国務条条事」がそれである。成立年代は平安末期といわれているから貫之の時代にはまだ「国務条条事」はなかったが、それとても新しく定められたものではなく、その当時の仕来り、儀式次第等を念のために文書化したものともおもわれるから、貫之は新任の島田公鑒からそれらの定めによる監査を受けたと推定してよい。例えば次のようである。 「@吉日を撰び、雑公文を渡すよう前司に蝶送する事 国内諸郡の糒塩穀穎[乾し飯・塩・米・ひえ・粟など]や雑官舎、五行器[運勢判断する陰陽道の道具か]などを順次監査する。もし不動穀[非常用備蓄倉]があれば丈尺ではかり勘べよ。動用[経常備蓄倉]の穀は土石を破棄し、実を受け取れ。次いで官舎(神社、学校、孔子廟堂や祭器、国庁院、郡庫院、駅館、厨家、諸郡院、別院、駅家、仏像、国分二寺、堂塔、経)を勘べよ。 A国内の官物の相折帳(出納簿)をつくる事 国司が赴任した日、公文官物を勘定したあと、必ず官帳に登録されている物(の数)と国内にある(現)物の欠・剰を勘べる。もし国内の物に余剰があれば(問題はないので)放還する。「よしとする、の意味か」」[角川書店 村井康彦著 王朝風土記、参考資料より] 旅発ちの時刻が午後8時というのは奇異に思うが、祭祀祭礼や日常生活、思想に大きな影響を与えたのが、仏教、神道、道教、儒教などのいろいろな決り事であった。今日の旅発ちの日と時刻もそのような決り事に基づいて決まった。「任国に赴任する場合、出門、進発、入境、着館などのその日時が吉凶によって定められている。これにしたがって、家の門を出るのは戌の刻(午後八時)で方角は辰の方位(南東)をとらなければならない。」[古代の交通 田名網宏著 吉川弘文館] |
12月22日 大津・舟戸にて
「貫之様は和泉の国まで安全に航行できるようにと神仏に願をおたてになりました。藤原の時実様が酒や肴を持参がてらお見送りにおいでになりました。送る者も送られる者も貴賎を問わずみんなが遠慮もなく酔いしれて、磯にまではみ出してふざけあうことでした。」
今日は朝早くから貫之は、土佐神社の神官を迎えて航行安全の祈願を立てた。貫之は神官の祈祷に続いて四方礼拝し、船首に設けられた神棚に幣を奉り、官船である事の旗幟を掲げた。和泉の国に至るまでの航路は難所あり、海賊が出るやも知れぬことから皆も神妙に神儀を見守った。今回引き続き残ることになった藤原の時実が酒や肴をたくさん持って見送りにきてくれた。そのご馳走に皆が相伴に預ることになり、終には大声で話し合う者や拍子に合わせて舞い踊る者や、磯に寝転んだり、水をかけあうなど大騒ぎの一日であった。
| 貫之がこの土佐に国司を任ぜられたのは、古今和歌集の中から更に秀歌を選び出すように(新選和歌集の編纂)という醍醐天皇の勅命を、主従の契りを結んでいる藤原兼輔から受けて、そのためには何かとうるさい京から離れることがよかろう、との配慮があってのこととも言われている。大概の場合、隔絶した流人地でもある土佐への赴任は、何か不始末の責任を取らされての「左遷」とも思われるが、そのような記録がないことを見ると、貫之が経済的な理由から自ら望んだ赴任であると思う。京でこのところ毎年のように日照りや洪水、疫病流行のために世情は不安で、一族郎党を養うにはかなり経済的に困窮状態ではなかったかと思うからである。貴族に列せられているとはいえ、その最下級の身では十分な録を得られるはずもなかった時代である。 古今和歌集以降の優れた和歌の編纂という勅をいただいた赴任であったが、土佐に赴いたその年の9月には醍醐天皇が崩御し、次の年には宇多天皇の崩御と貫之の後ろ盾が相次いでこの世を去り、さらに主の兼輔までも死んだことから貫之は大事な支えを失い、失意の帰京であったにちがいない。結局4年がかりで編纂した新選和歌集も勅撰に加わることなく、帰京後、私撰として発表するしかなかった。貫之は加賀介、美濃介、923年には大監物にも任ぜられたことがあり、官人としては一応の能力があったと推定されるが、特に取り立てての実績はないようで、帰京後はしばらくは何の役どころもない散位に甘んじるしかなかった。 後ろ盾をなくして貫之はこれから帰る京において、かっての様な日の当たる役どころにつけるかどうか心細い気持ちを持っていたと思う。なにしろ、藤原摂関の勢いは正に陽が昇る勢いであった時代であるから、役職につくためのまた新たな人脈づくりの苦労を思うと暗澹たる思いであったに違いない。 886年に文書博士を解かれて讃岐の国の国守に任じられた菅原道真が、左遷を悲嘆しその無念の思いをたくさんの詩(漢詩)に残しているのに比べると、娘の死を悼む和歌が混じるとはいえ、土佐日記からは貫之の嘆き悲しむ姿は見えてこない。新国司や薬師や船頭に腹を立てる場面はあったとしても、私は貫之の楽天的な性格を感じる。 |
12月23日 大津・舟戸にて
「今日はこの土佐では古くからの豪族のお一人、八木泰典さまがお見送りのご挨拶にお見えになり、貫之様と長いお時間をお過ごしでした。貫之様のお人柄や国司としての治政の仕方がよかったということでございましょう。大概は新しい国司様に気兼ねをしておおっぴらにはお見送りを避けるものでございますが、さすが土地の実力者ともなりますと、そのようなことには頓着なさらない風でした。去り行く者に今さら愛想をしてみても、と見送りをしないのが当たり前のことですのに、貫之様は八木様のことを「ご立派なお方だ」としきりにお褒めでございました。お餞別をたくさんいただいたということでそう仰せなのではなく、心底からお褒めのようでした。」
貫之は見送りに来てくれた八木泰典と話し込むうちに、赴任当初の異世界にきたような落ち着かない日々のあったことを思い出さずにいられなかった。流人の地でもあった僻地土佐は、国庁の建物のみすぼらしさや鄙びた山村のうら寂しさはいいとして、見るもの、聞くものすべてにおいて京での経験や常識が役に立たない別世界に飛び込んだようであった。京では宮中の生活が多く、天皇や側近との接触の日々に明け暮れた貫之にとってはなおさらのことであったに違いない。そのような折、八木泰典と出会ったことは大きな慰めというより救いであった。八木泰典は京で暮らしたこともあり、貫之にとって唯一の親しい話し相手となった。そして頼りになる相談相手でもあった。地の豪族とはいえ国司は近寄り難い立場の相違があるが、豪族の協力なしには貫之は役目を全うできるはずがなかったから、お互いによい付き合いになったことは自然な成り行きでもあった。
| 701年大宝律令が施行され、中国を模した律令政治が始まって約2世紀、東北地方の一部を除いて大和政権に続く平安京の朝廷はほぼ全国を平定し終わった。その平安京の人口は約10万人といわれているが、そのほとんどが生産に携わることはなく、京に住む者たちの生活は諸国からの租庸調によって支えられ、王朝貴族たちは中国風文化を華咲かせていた。仏教信仰の浸透政策や勧農撫育政策がそれを可能にしたのである。 霊亀元年(西暦715年)10月7日に元正天皇は次のように詔している。「国家が栄えよく治まるためには、人民を富ませることが大切である。人民を富ませる根本は、財産を増やすことに専念させることである。それ故、男は農耕につとめ、女は機織を修め、家は衣食が豊になり、人民に恥を知る心が生ずれば、刑罰を必要としない変化が起こり、太平の風習を招く‥‥」[講談社学術文庫 続日本紀・全現代語訳 宇治谷孟]今の政治家や官僚に聞かせたい言葉である。 その成果が、平定された側の諸国の土着民の中から勢力を着実に蓄積した土豪が生まれた。また、地方に散った元官人たちが立場を利用したり、土着民勢力と結びついたりして豪族となるものも多く生まれた。平安時代は律令政治に緩みが出始めた時代といわれるが、各地に土豪・豪族を生み出した時代でもあった。 赴任する国司は支配者としての威厳、権力は持っているとはいえ、少人数の官人組織ではその権威も成り立つはずはなかったから、地元民との融和政策が最重要事項であったことは難くない。この点の朝廷の気の使いようが先の国務条条事に窺うことができる。すなわち、「宿所を定めるとき、近隣の村里に迷惑をかけてはいけない」「境に入れば風を問え(郷に入れば郷に従え、ということか)‥‥古いしきたりを改めてはいけない」「高年者に諸事を申させ、あまねく故実を問うようにすれば、善政といわれよう。高年者に尋ね、旧風を改めてはいけない」「国の古風土俗に随い、公私の損がないようにせよ」と。 |
12月24日 大津・舟戸にて
「今日は国分寺の住職様がお見送りのご挨拶にお見えになりました。毎日のようにお見送りのかたがたがご持参になるお酒やご馳走は、貴賎や年令を問わずにご馳走に預ることになります。毎日が祭りのようで一という字を書けないものが足では十の字を書くように踊っているやら楽しい限りでございます。」
京都までの海路のご無事をご祈願申し上げましたという住職の挨拶に、貫之は一応の礼を述べたものの、それほど信仰心が篤いわけでなく、応対は他のものに預けてそこそこに座をはずした。国分寺の住職にしても早く京へ帰りたいということのとりなしを察してもらえればそれで十分であったのかもしれない。
貫之は主だったものたちを集めて、積荷の確認と船頭たちとの打ち合わせを命じた。
12月25日 国府にて
「遊びに来るように」と新国司様のお使いが来られたので、むげに断る訳にもいかず、貫之様は皆を引き連れて国衙に行かれました。別れの宴のおつもりだったのでしょうか、一日中、夜が更けてからも雅びも何もあったればこそ、ただ打ち騒ぎするばかりで夜があけてしまいました。」
12月26日 国府にて
「今朝はなお、ご馳走やお酒を頂いたり、騒いだりの続きで、引き連れていったこちらの従者に贈り物などを頂いたりしたのでした。新国司様や貫之様やその他のお人たちも漢詩を朗々と詠じあったりでございました。漢詩はここには書かないことにいたしますが、新国司様が次のように和歌をお読みになりました。
みやこ出でて きみに会はむと 来しものを 来しかひもなく 別れぬるかな
それに応えて、京へ帰る貫之様がお詠みになった。
しろたへの 波路をとおく 行きかひて われに似べきは 誰ならなくに
他の人の和歌もありますが気の利いたよい歌もないようでございます。
とかなんとかやっておりますうちに、新国司様も貫之様も縁から庭に降りられて、手を取り交わしてお互いにきれい事などを言いながらお別れになったのでございます。」
昨日、招かれて国衙におもむいた貫之の一行は昼を過ぎて戻ってきたが、さんざ騒いだあとでもあり船のほうには誰も顔をみせず、明日の早い出発を気遣ってか見送りもなく、貫之は一人桟橋にたたずんだ。湾は静かに日が暮れていく。西の方の重畳と続く山の端にかかる雲のふちが金色に輝いて、時折雲間からのぞく太陽が内海を照らし出す。内海は奥深く東西に広がっていくつもの島島が見える。近くに五台山、その右に烏帽子山の峰が連なりその山陰がだんだん濃く暗くなっていく。蒼かった空は徐々に茜色に染まりはじめ鏡のような海面に映っている。
明日は京へ向けてこの地と別れる。海の蒼、山の緑の青、寒さ知らずで盗みや飢えやいくさの不安のない地での4年間を振り返って、この地にいつまでもとも思うが、昔のよき日のことを思うと貫之にとっては「やはり京」でなければならないのであった。
| 土佐日記注釈書や研究書はたくさんある。そのうちの天保13年の橘守部の「土佐日記舟の直路」と安政4年の鹿持雅澄の「土佐日記地理弁」を国立国会図書館関西館で閲覧できた。この2冊の本に土佐の国の当時の地図が掲載されている。 万葉集研究で有名な土佐生まれの鹿持雅澄は「橘守部が土佐日記舟の直路に出したるそこの国の図は‥‥いとみだりなることのみにていたくたがえるところ多ければ」として自ら書いたのが「土佐日記地理弁」で、土佐の国の人でない者が書いたもの、とくにその地理については「かたぶかることの許多あるによりて、この書をとり見る人の、なほいぶかるもうべなることなり。げに地理をさだかに弁えず、聞きあやまりては前後の文意に打ちがたきこともあればなり」と橘守部の地図を大きく間違っていると指摘して「土佐日記地理弁」に掲載したのが次の左の地図である。 「古代の図」と見出しがあり、 「土佐郡高坂山アタリヨリ伊東紀氏帰京ノ頃ノ状ヲ漫ニ推度シテ仮ニ此図ヲツクル」と注釈がある。 |
![]() |
![]() |
| 右の地図は私が想像する当時の土佐湾である。 私はこの地図を作るにあたって、1100年を経ても山の地形は大きくは変わらない、また、大阪湾の変貌が土佐湾にも当てはまると考えた。 縄文時代、いまの大阪平野は河内湖という大きな海面で、遅くとも5世紀頃から八十島祭りが毎年催行されていた。「八十島祭りというのは、難波津に浮かぶたくさんの島を形容した言葉である。八十島祭りは、天皇の即位儀式の一連の行事として行われたもので、大嘗祭の翌年に、後宮の内侍司の女官が難波津に下向し、生島の神と足島の神を祭るものである」[創元者 大阪市史編纂所編 大阪市の歴史] 貫之の時代には淀川と大和川から運ばれる土砂によって、大阪湾はあちこちに葦が海面にのぞきはじめ、それまでの美しい島島の景観は徐々に変貌しつつあったと思う。そして八十島祭りは1224年を最後に催行されなくなるのであるが、その理由は、景観の変化にあったと私は想像する。 土佐湾も大阪湾と同じように大きな内海と入り江に囲まれた広い湾であったことは難くない。四国を縦断する脊梁から流れ運ばれる土砂は、一つは物部川によって直接太平洋に向かって田村荘という豊な荘園を古くから発展させて、もう一つは国分川によって土佐湾の内海に向かって今の高知市を形成した。当時の内海は干潮の時にはところどころ葦がのぞいていたであろう。 「地形図」でインタ-ネットを検索してみると「国土地理院地形図閲覧システム」がみつかる。2万5千分の1の地形図で、国府から京までの航路に沿って123枚の地形図をプリントしてつなぎ合わせてみた。8畳の部屋の片隅が国府とすれば、淀は8畳の間の対角線の片隅に当たる。その地形図を見ながら航路の風景を想像して航海記を書くつもりであるが、私の想像する貫之が見たであろう土佐の国を俯瞰したのが上記の地図である。 |
第三章 船出
12月27日 大津から浦戸へ
「いよいよ舟は大津から浦戸へ向けて漕ぎ出しました。
貫之様の女房殿は京で生まれたお姫様を連れてこられたのに、この地で急にお亡くなりになってしまい、お忙しく旅の準備をなさっておられるようでも一言もおしゃべりをなさりません。いよいよ京へ帰るいま、お姫様の亡きことのみが悲しく恋しく思っておられるようです。そこに居合わせた者たちもそのお姿を見ることがつろうございます。その女房殿が次のような和歌をお詠いになりました。
都へと 思うをものの かなしきは かえらぬ人の あればなりけり
また、つぎには
あるものと 忘れつつなほ なき人を いずらと問ふぞ かなしかりける」
| 12世紀頃の作といわれる宇治拾遺物語149話「貫之歌の事」と題して次のように書かれている。 「今は昔、貫之が土佐守になりて、下りて有りけるほどに、任果(にんはて)の年、七、八ばかりの子の、えもいはずおかしげなるを(美しい子を)、限りなくかなしうしけるが(可愛がっていたところ)とかく煩いて(病気になって)、うせにければ(死んでしまったので)、泣きまどひて、病づくばかり思い焦がるるほどに、月頃になりぬれば、かくてのみ有るべきことかは、上りなんと思うに、稚児のここにて、何とありしはやなど(今生きていればこのようなことをしただろう、ああもしただろうと)、思い出られて、いみじうかなしかりければ、柱に書き付ける。 都へと 思うにつけて 悲しきは 帰らぬ人のあればなりけり」 [日本古典文学大系【宇治拾遺物語】渡辺綱也・西尾光一校注] 土佐日記では「ある人」が詠んだ歌ということにしてあるが、この宇治拾遺では貫之の作としている。 |
「船が桟橋を離れて間もなくの時に、新国司様のご兄弟やその他の人たちがお酒などを振りかざして磯伝いに大声をあげて馬を走らせてお見えになりました。そして、鹿児崎で皆が馬から下りて磯にキチンと座られて、別れが寂しい、今一度と口々に言われます。貫之様は思はぬお人たちのお見送りを喜ばれて、船を止めるように命じられました。貫之様らは鹿児崎で船板を渡して磯に下りられました。
船の中に残った者たちは、新国司様のご一行の中にもこのように別れを惜しんで来られる人たちは本当に心温かい人たちなのだ、と話し合っていました。
皆がてんでに別れがたいと言いつつ、漁師が網を大勢で担ぎだすような風に、声をそろえて次のようにお詠いになりました。
おしと思う ひとや留まると あしがもの うち群れてこそ われはきにけり
貫之様はすばらしいお歌だと感心しながら、次のようにお詠みになりました。
竿させど 底ひも知らぬ わたつみの 深きこころを 君にみるかな
このように別れがたい思いで皆の気持ちが高ぶっているところを、無神経な船頭の声で打ち破られました。船頭はもののあわれを解するどころか、自分だけさんざ酒を飲み終われば、早く船を進めることを考えて、「潮が満ちてきましょう。風も吹き出すことでしょう」とことさらに大声をあげながら船に乗り込む始末でございました。
これを潮に、この場にぴったりの漢詩を詠ずるおひとや、西国なのにしゃれて東国の甲斐歌を詠ずるお人もおられます。それらの声に「船屋形の塵も散り、空ゆく雲も漂いぬ」なぞと貫之様は中国の古い漢詩を引用してご機嫌です。
今宵は浦戸に泊る。
藤原時実、橘末平その他のお人たちが浦戸まで追ってこられました。」
貫之が用意した船は3隻で、貫之、時文、是望がそれぞれに分かれて乗った。舟には米、塩、干魚、油、酢、酒など、それに貫之の歌に関する巻子本や家具、衣類の詰まった唐櫃も所狭しと山積みされている。
桟橋に集まった多くの人の見送りをあとに船はいよいよこの地を離れ京への旅が始まった。
船は十梃櫓、両舷の船棚で10人の水手がいっせいに漕ぎ出した。
鹿児崎で思わぬ寄り道をした船団は鹿児崎から五台山の島の崎に向けて内海にまっすぐ再び漕ぎ出した。一里ほどの距離を漕いでようやく五台山の崎を回り、船は南へと向きを変える。前方に東西に連なる烏帽子山の山並みの一部が斧でスパッと切り裂いたような切り通しの水路が見える。いつもは潮の流れがどちらかに激しい流れを生じているこの切通しの水路も、今はちょうど転流時かして流れが止まっている。船頭はこのことを知って出発を急がせたことがわかる。船は200間ほどの狭い水路に向けて漕ぎ進んでいく。
狭い水路を抜けて美しい小島が点在する浦戸湾に船は出た。浦戸に舫うころにはようやく陽は傾き始めていた。浦戸は鄙びた泊で出迎える者もいないと思ったが、騎馬で追いかけてきた藤原のときざね他が貫之一行を待ち構えていて、夜遅くまで歓談が続いた。
| 橘守部が「土佐日記舟の直路」に描いている土佐湾は種崎がなく、浦戸は太平洋に広く開けた湾の西方の岬に位置している。鹿持雅澄は「橘守部が土佐日記舟の直路に出したるそこの国の図は‥‥いとみだりなることのみにていたくたがえるところ多ければ」と書いたが、鹿持雅澄が描いた地図にしても当時の安政時代の古老やそれまでの言い伝えを信じて想像したに過ぎないと考える。私は、貫之の時代の土佐湾は橘守部が描いたように種崎はまだなかったと思う。桂浜の北側が現在の浦戸であるが、当時の浦戸はもっと広い範囲を呼称していたのではと思う。 日記にある「今宵浦戸に泊る」の「浦戸」について、どの研究書も現在の浦戸であるように記述しているが、私はその「浦戸」は対岸の仁井田あたりであったと思う。その理由は、原文は続けて「藤原のときざね、橘のすえひら、こと人々追いきたり」とあるが、現在の浦戸までは当時の内海と浦戸湾を大きく迂回しなければならず、まして烏帽子山山塊を越えることは容易なことではないから、物理的に追いかけてくることは不可能である。船に乗って追いかけてきたとも考えられるがそれはないと思う。貫之は土佐日記において表現の整合性をとっていると考えられ、その日の鹿児崎において「守のはらから‥‥追いきて」とあるのは騎馬で追いかけてきたとしか考えられないことから、同じ表現の「こと人々追いきたり」も騎馬で追いかけてきたとしてよい。出発地点の大津から直線距離にして7キロほどの仁井田あたりは騎馬で追いかけてくるにはほどよい距離である。 |
12月28日 浦戸から大湊へ
「浦戸の泊を出て、船は大湊に向けて漕ぎ出しました。
貫之様より以前に赴任したある国司様の落しだねの山口千峰なる若者がお酒やおいしい肴を差し入れてくれ、そのご馳走をいただきながら、船は進んでいきます。」
貫之の乗った船を先頭に、時文、是望の船が続いて浦戸を出た。それぞれの船の水手たちが元気なかけ声を上げながらなぎの外海に漕ぎ出して、貫之はようやく京への旅についたことを実感したようであった。以前の国司が在任中に儲けたおとしだねの山口千峰が、漕ぎ出した我々の船に酒などを差し入れしてくれた。その行為がその者が持つ京への強い慕情からのもの、と思うと貫之は哀れを感じずにはいられなかった。
| 大湊という地名は今はない。その所在について昔からいろいろな説がある。 前の浜説、十市村説、物部川河口説、手結説などがあり、そのなかで前の浜説が有力のようである。四国の太平洋側は大体において200年ごとに起きると言われている南海地震と東海地震による津波でそのたびに大きく地形は変貌したために、14.15世紀まで栄えた大湊は跡形もなく消滅したようだ。今の高知空港のあたりに昔大きな潟湖があったようで、「かってそこには大湊と呼ばれる湊があった」[山川出版社 高知県の歴史]、とある。 船は十梃櫓で大体時速3キロ程度として、浦戸から大湊は約10キロ東方、3時間ほどの距離にあたる。せっかく漕ぎ出したばかりだというのにたった3時間ほどでその日の航行を終わってしまったのは、元旦を大湊で迎えたかったに違いない。あるいは、ここでさらに持って帰る物資を積み込んだのかもしれない。当時の津や泊といっても桟橋や格別の湊の設備があるわけでなく、砂浜に乗り上げて泊るしかなかったから、国庁の出屋敷があり官人が駐在する大湊は船団が安心して停泊できる湊であった。 |
12月29日 大湊にて
「今日は大湊に泊まっています。薬師が屠蘇と白散とそれを調合する酒も忘れずに持参してくれました。明日は元日であるから気を利かして持ってきてくれたつもりのようです。元旦に飲むと1年が無病息災でいられる屠蘇などを差し入れてくれて、さすがに薬師に似つかわしいといいたいところですが、貫之様は終始そっけない態度のようすでございました」
今日は大湊に停泊している。
国府から薬師が遠い道のりにもかかわらず、見送りをかねて元日用の屠蘇を届けてくれた。貫之の子供の急な病に役に立たなかったことの少しは罪滅ぼしの気持ちがあるかしてのことと思うが、今さら、娘が還るわけでもないと思うと赦す気持ちにはなれない貫之であった。
| 国府を出た承平4年12月21日は陰暦の日付けであり、今の太陽暦に直すと西暦935年2月2日である。旧暦換算のためには日本陰陽暦日対照表があり、また、インタ-ネットで「陰暦」を検索すると「陽暦・陰暦換算」がヒットし、西暦日を入れると瞬時に陰暦日が表示される。提供者は一松書院である。 さて、12月29日がどうして元日の前の日なのかについて述べておく。 陰暦は、月の満ち欠けで暦を決めている。その周期は29日半である。そこでひと月が大の月の30日と小の月の29日を設けるのだが12ケ月は約354日となり、太陽の巡りと11日ほど違ってしまう。西暦では1年は356日と366日の二通りだが、陰暦では1年が353日、354日、355日、356日、383日、384日、385日の七通りが用意されている。季節の一番適当なところにひと月を余分にさしはさんで太陽の巡りに調節する。これを閏月という。 承平4年12月は小の月で29日が大晦日になる。そして、明日の承平5年の元旦は西暦935年2月11日となる。 |
1月元旦 大湊にて
「なお同じ大湊にとどまっています。薬師よりもらった白散を船屋形の軒先に誰が吊り下げたか、夜の間に風に吹き流されて海に散ってしまいました。
正月に食べると長命になるという祝いの食べ物の芋茎や荒布も歯固めもこの土佐ではあるはずがなく、しいて買い探すこともしなかったのです。土佐の名物の押し鮎だけは持参したのでその鮎の口をかじるだけです。皆が押し鮎を口で吸うようにしがみついているのを見て「押し鮎は口を吸われてよい気持ちと思っているかもしれない」と貫之様の冗談が始まりました。「元日ともなると京の都が恋しゅう感じられる。各家々に飾られたしめ縄のぼらの頭や柊の葉っぱもなつかしく思い出される」などとみんなも京の元旦風景を話し合っていました。」
貫之一行の主だったものたちは浜の番屋で宿泊をしたが、一晩中強い風が吹き、朝起きて見てみると沖には白波が立っている。今日は出航の予定はなかったがそれにしてもひどい正月になったものだと貫之は思う。これから先の航海の不安もあれば、元日を祝う何もない。貫之はみんなも同じ思いだろうと、少しでも自らが明るく振舞おうと思った。みんなが押し鮎をかじるさまを見て、「好きな女にキスをしているようだ、さぞかし、鮎も気持ちよかろう」と笑いを誘った。それにつられて、ぼらの頭と柊の葉っぱも仲がよいから何か話し合っているかもしれない、などと言い合って船の中は少しは和やいだのであった。
皆を無事に京へ連れ帰る困難さを思うと貫之は気の重さから開放されることはなかった。正月元旦だというのにそれらしいご馳走もなく、いつものように祝う気持ちが生じるはずもなかったが、これからの長い航海を思うと自ら気を奮い立たせて、一行の惨めな有様を少しでも和らげようといろいろ気遣いを見せる貫之であった。
| 貫之の船はどのような船であったのか、文中からその構造なりの描写を要約すると次のようになる。 海上を行くときはほとんど「漕ぎ出づ、漕ぎゆく」。1月の26日 「船に帆あげなど喜ぶ」「帆て打ちてこそうれしかりけれ」とある。 承平5年元旦に船屋形にはさんでおいた白散が風に吹きならされて海に散ってしまった」 1月9日「女は船底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く」 2月1日「箱の浦というところより綱手をひきてゆく」 2月7日「川尻に船いりたちて漕ぎ上るに川のみず乾て悩み患う。船の上ることいと難し」 以上のことから、貫之が乗った船は、「帆は補助的に使われて、ほとんど漕いで京へ行った。海上でも河に入ってからでも所により陸から曳いて貰った。外洋船ではなく、沿岸用の底浅船で海から河に入ってもそのまま川のぼりのできる河船でもあった。航行中、貫之は家族とともに主屋形で過ごした」と思われる。 以上から推測すると、貫之の船は次の北野天神縁起絵巻に描かれた船が一番近いように思う。 |
![]() [小学館 日本古典文学全集 土佐日記 校中・訳 松村誠一]掲載 その他の絵巻物 |
| 船尾の艫屋形に船頭が座って指図をしている。船尾と船首の黒い底は刳り舟であることを明らかにしている。櫓棚には左舷に5人の水手が漕いでいる。右舷も同じだろう。舵は船尾中央にある。船頭が舵棒を握っているのだろう。ただ、右舷に脇舵を操るような所作をしている水手が見える。帆柱は倒して帆を巻きつけている。主屋形には貴人他が乗っている。中央より少し前方の左右にぼんぼりのような物を吊り下げた細い柱が見えるのは何かわからない。夜の明り取りか? |
1月2日 大湊にて
「なお、大湊に泊っています。先日来てくれた国分寺の住職が今日は食べ物や酒を使いの者に持ってこさせました。」
海が荒れて船を漕ぎ出せず、今日も大湊に泊ったまま一日が暮れた。
船の中で日長一日寝ている者がいるかと思えば、船を下りて陽だまりで談笑するもの、山へ分け入って何やら見つけてくるものや魚釣りをする者など思い思いに一日が過ぎる。貫之は狭い番屋で主だった者たちを集めてこれからの航海と京へ帰ったときのこと等について話し合ったり、時には付近を散歩などして時を過ごした。
1月3日 大湊にて
「同じところに泊っています。風や波が強いのです。もしかしたら、風も波も「貫之様にまだしばらくは京へ帰らないでくれ」と慕って船出を邪魔しているのかもしれません。じれったいことです。」
今日も海が荒れて船を出すことができない。沖には白波が険しくたちさわぎ、そのような中に船を出そうものなら、たちまちのうちに船は打ち壊されてしまうだろうと思うと、焦りともつかない冗談を言っても見たくなる。まだ冗談を思いつくだけの余裕があるのが救いでもあった。
| 土佐日記に登場する人物を分類すると次のようになる。 @見送りに来た人物 八木のやすのり(土豪)、藤原のときざね、橘のすえひら、山口のちみね、長谷部のゆきまさ(以上4名は郡長または里長だろう)、まさつら(貫之の下僚)、講師(国分寺の住職)、医師、守(新国司)のはらから、破籠もたせきたるひと(郡長か里長)、 A同乗の人物 前の守(貫之)、媼(貫之の女)、むかしの子の母(貫之の女)、あるひとの子の童(貫之の子供)、ふむとき(貫之次男)、これもち(貫之の長男)、稚き童、つかわれんとてつきてくる童、とし9つばかりなる男の童、淡路の専女、むかし土佐といいけるところに住みける女、子生めるものども、郎等、楫取り(船頭)、船子ども(漕ぎ手) Bその他 新国司、よきひとの男につきてす住みける(女)、人の家の主人、家に(家を)預けたりつる人 私は貫之の女房が二人乗船していたと想像する。「媼」は老婆のことで貫之の最初の女房であり、「むかしの子の母」は帰国直前に死んだ娘の母親として登場するまだ若い女房であろう。また、「ある人の子の童」が貫之の子と想像する根拠は、1月11日のありける女童、1月15日の女の童、1月26日のある女の童、2月5日のある童がそれぞれ歌(和歌)を詠んでいるが、いずれも同一人物とされていること、そして、幼くして平素から歌を詠む環境にあった貫之の子供の作として採り上げたと見られることである。 土佐日記の中の57首の歌はほとんどが、「ある人の書きて出だせる歌」「ある人の詠めりける」などと詠み人を三人称で記述されている。そもそもこの日記が女に仮託して書かれたという前提があるからそのようになるのであるが、私は日記中にある歌57首はすべて貫之の作ではないか思っている。 「ふむとき」が貫之の次男であると想像する根拠は、子供は言葉を覚え始める時に言葉をひっくり返して話すことはよくあることで、皆から「ときふみ」「ときふみ」と呼ばれていたのを当の本人は「ふむとき」とおぼえて、それを皆が愛称として大きくなってもそのように呼ばれていた、と思うからである。時文は951年の後撰和歌集の選者の一人となったことがわかっている。 又、「これもち」を貫之の長男と想像する根拠は、貫之の父の名が「望行」でその「望」の一字を取って「是望」と名づけたと思うからである。そしてこの二人はそれぞれ別の船に乗船したことが、1月12日の「ふむとき、これもちが船の遅れたりし、奈良志津より室津にきぬ」の記述から分かる。 二人はそれぞれが乗船した船の責任者として扱われた。貫之の船団が何隻であったかどの研究書も触れていないが1月12日の記述から私は3隻であったとみる。船団としての人的構成とそれぞれの船ごとの人的構成は、皆が無事に京へ帰りつくための重要な要素であるから、誰がどのような役割を分担するかは慎重に決定されたことと思う。 |
1月4日 大湊にて
「今日も風が強く船出ができません。まさつら様が酒やおいしいものを持ってきてくれました。このように差し入れしてくれる者たちに貰いっ放しということもできず、気持ちばかりのお返しをさせて帰らします。こちらは旅の身、気持ちを表すにしては十分なお返しもできません。船の中はもらい物であふれているというのに、適当なお返しものがないとは気が引けることでございます。」
1月5日 大湊にて
「依然として風、波が治まらず、なお、同じところです。
人々が絶えず見送りに来てくれます。」
依然として風波が治まらないが、まだ国府からそう離れてもいないため、足止めを食らっている貫之一行のことを聞きつけていろいろな人々が絶えず慰めがてら訪ねてくれることがうれしい。
1月6日 「昨日と同じ大湊に泊まっています。」
1月7日 同じ湊です。
「今日、都では白馬の節会(あおうまのせちえ)が開かれています。天皇が紫宸殿にお出ましになって御馬渡をご覧になる日で、そこに晴れやかに参列する貴族たちの有様を思ってみても、遠く離れた鄙湊では所詮思うだに甲斐がないことです。本来ならば白馬を観ているはずですのに、それどころか縁起でもない見たくもない浪の白さを観ています。
今日は池というところに住むお人が、たくさんのご馳走が入った長櫃を使いの者に担いで寄こしてくれました。さすがに鯉はありませんが、鮒や川・海の魚、若菜などたくさんの贈り物です。若菜は七草の日の今日にふさわしい。歌も添えられています。
あさぢふの のべにしあれば みずもなき いけにつみつる わかななりけり
大変気が利いてしゃれていてうれしいことです。贈ってくれたお人は都での勤めを終えて帰った男についてきて、この地に住み着かれた身分のよい女房殿です。
この長櫃のものは、正月のご馳走代わりに皆に分けて頂きました。それで皆はおなかが満腹したのか、腹鼓を打ってはしゃぎだし、そのあまりの賑やかさで海が驚いて更に浪立つことです。波が収まって欲しいと思っているのになんとしたことでしょう。贈り主の雅び心が分かる人たちではありません。」
番屋を出て貫之は浜辺に立つ。少し沖に舫ってある乗って帰る船が風に吹かれて絶えず揺れている。貫之は、今回のような惨めなお正月を迎えたことに一人取り残されたような気持ちのやりようのない日々を送っている。七日といえば都では白馬の節会の行事がある。晴れがましい行事もさることながら、叙位叙勲が発表される日でもあり、それは前もって知らせが届く。従五位の下に叙せられて早十七年になるのに今年も知らせはなかった。やはり都でなければ、と焦りが募る。
そんな折に、気の利いた贈り物が届き貫之の気持ちは少しはな和やんだ。貫之はこの地に来てから、請われて歌会を季節の折々に開き、歌の指導をしたその一人からの贈り物を受け、その雅び心に都を身近に感じた。
「今日はこのようなこともありました。破籠(わりご=弁当箱)を持ってきたお人はなんと言うお人だったか。お名前はそのうちに思い出すでしょう。そのお人は、貫之様に自分の歌をほめてもらおうとやってこられたのです。そのうち、「浪の立つ、というお題で詠んでみましょう」と前置きして次のように詠んだのでした。
行くさきに 立つしらなみの 声よりも おくれて泣かむ われやまさらむ
大きな声でお詠みになったのですが、お持ちになった(粗末な)破籠と比べてお歌のほうもどうだったでしょう。「しらなみ」には盗賊の意味が含まれていることをご存じないようです。皆、口では感心したように見せかけていますけれど、恐れている海賊のことが思い出されて、貫之様は呆れて返歌をしようとはされません。ほかに返歌できる者もいますけれども感心したように見せかけるばかりで、ただ、飲み食いするうちに夜も更けていきます。お歌を詠ったお人は「まだ帰りませんが‥」と言いながら席をお外しになりました。貫之様のお子様が「私が返歌をしましょうか」と言います。「それは意外な、詠めるの。詠めるならば早くお言い」と誰かが言います。「お席に戻られたら詠みましょう」というので探してみましたが、気まずさをお感じになったかしてお帰りになったようでした。
「それで、どのように詠んだの」と催促しますと、最初は渋っていましたけれども次のように詠んだのでした。
ゆく人も とまるもそでの なみだがわ みぎはのみこそ ぬれまさりけり
上手に詠めたものです。純真な子供心ならこそ素直に詠めたのでしょう。
貫之様は「しかし、子供の返歌ではどうしたものか。ある年寄りが詠んだ歌として何かの序があれば届けるとしよう」とて書き置かれました。」
1月8日 今日の船出はよくありません。船出を諦めて同じ湊にいます。
「都では月は山から出て山に沈みますが、ここでは海に沈みます。これを観て思い出すのは、業平朝臣の「山の端逃げて入れずもあらなむ」という歌です。もし業平の君が詠んだなら「なみ立ちさへて入れずもあらなむ」とでも詠むでしょうか。
貫之様はこのように思いながら次のようにお詠みになりました。
照る月の ながるる見れば あまのがわ いづるみなとは 海にざりける」
第四章 土佐を離れる
1月9日 大湊から奈半の泊りに向かいます。
「朝早くに奈半の泊を目指して船を漕ぎ出しました。まだ土佐の国内ですからたくさんの者が見送りに来てくれます。藤原のときざね様、橘のすえひら様、長谷部のゆきまさ様達が国衙を出発しました時から、折を見ては会いに来てくれました。この人たちこそ本当に情けも思いやりもお持ちの人々です。この深い海にも劣らないほど深いお気持ちを感じます。私たちの船は漕ぎ早めていよいよ離れていきます。なおも舟で追いかけて見送りをしてくれるお人たちや、岸伝いにお見送りをしてくれるお人たちもだんだん遠くなっていきます。それらのお人たちのお顔も定かでなくなります。まだまだお話したいこと、聞きたいこと山ほどありますが、これほど遠くなりますとそれも叶いません。貫之様はこの気持ちを次のようにお詠みになりました。
思ひやる こころは海を わたれども ふみしなければ しらずやあるらむ
船は宇多の松原を見ながらゆっくりと漕ぎ進みます。たくさんの松の木が、昔から、そしてこれからもずっと変わらず生い茂って、そこにあり続けるのでしょうか。その近くまで波が打ち寄せているようです。鶴が枝枝に飛び交う様は絵に描いたように美しいのです。お歌心をお感じになったのでしょう。貫之様がまた、次のようにお詠みになりました。
みわたせば 松のうれごとに すむ鶴は 千代のどちとぞ 思ふべらなる
貫之様は、悪い歌とは思わないがさすがに景色の美しさには勝てないものだね、と照れて仰った。」
いよいよ一行は土佐を離れる。大湊から三艘の船が水子のかけ声とともに外海に漕ぎ出した。久しく荒れた天気も今日は穏やかな風のなかゆるやかにうねる海を漕ぎ進む。たくさんの人が絶えず見送りに来て別れを惜しむ言葉などを受けて、貫之はこの四年間の治政がまんざらでもなくこの地に受け止められたことを実感した。この点についてよい国司であったと都で評価してくれるだろうか、と貫之は思うのだった。
船は大湊を出て物部川から海に注ぐ流れに押されながら手結崎を目指して進む。
海岸線に沿って松原が延々と続く。手結崎を過ぎても松原は続く。海に向かってなだらかな稜線が落ちる行く先は安芸か。昼頃、御殿の鼻を避けて大きく沖に向きを変える。
「海からの景色を見ながら、船は漕ぎ行くままに山も海もだんだん暗くなり、とうとう西も東も分からぬようになりました。天気のことは船頭に任せるしかありません。男でも心細く不安になるでしょうに、まして、女たちは恐ろしさが募ってきて船板に頭を押し付け「おいおい」泣く始末です。このような思いにもかかわらず、船頭や水子たちはのんびりと流行り歌などを歌いながら漕いでいます。
はるの野にてぞ ねおば泣く わかすすきに てきるてきる つんだるなを
おややまぼるらむ しうとめやくふらむ かえらや
よんべのうないもがな ぜにこはむ そらごとして おぎのりわざをして
ぜにももてこず おのれだにこず
その他にもいろいろ変った流行り歌を歌っています。そのうち、面白がって船の中には笑い声も聞こえてくるようになり、荒れた海ですのに 少しは心が和らぎます。
船は奈半の泊りにつきました。貫之様ご夫婦は気分が悪いと仰って食事もなさらずに屋形に篭ったままお顔をお見せになりません。」
| 大湊から奈半の泊を目指して船はいよいよ外海に漕ぎ出した。奈半まで直線距離にしておおよそ35キロ、約20マイルある。土佐湾沖には黒潮が東に向かっているが土佐湾のなかに入ると 分岐流が西に向かっていてこれを下り潮という。また、沿岸流が東に向かって流れる。これを上り潮という。季節は冬、今でいう西高東低の気圧配置は昔も変らないだろう。風は北西か西北西で、年末の二十九日から吹き荒れたのは西からゆっくり寒冷前線が通過したと考えられる。この日から次ぎの低気圧が近づく十四日まで好天とは言えないまでも何とか航海はできる程度の天気であったろう。 早朝に船出し、西東が分からない真っ暗な夜に奈半に着いた、とあるから、今日の航海時間は14時間から15時間となるだろうか。漕ぎ進んだ速さは2ノットに満たないことになる。土佐日記には1月26日に帆走の記述があり、貫之の船が帆走したのは全行程中その日1日だけとされている。しかし、今日のコ−スは追い風であり、帆を上げないと考える方が不自然である。私は夕方近くまでのんびりと風任せで帆走したと考える。そして夕方になって十梃艪で漕ぎ始めただろう。船は水子たちの流行り歌の調子に合わせて、それほど急ぐ風でもなく漕ぎ進んだ。暗くなって西東が分からなくても船頭は航海に絶対の自信を持っていたことが分かる。夜遅く奈半利川を少し遡って奈半の泊りに入れたのは月明かりか、浜のかがり火かが一行を導いたのだろうか。 |
1月10日 奈半の泊
「昨夜は遅くに着きましたので、みなの疲労回復のためにか、今日は一日この奈半の泊りに停泊し休息をとることになりました。」
1月11日 室津に向かう
「まだ夜が明けきらぬうちに朝早くに船は室津に向けて出発しました。
ほとんどの人がまだ寝ています。周りの景色も定かには見えません。ただ月が出ていますので進む方角は知ることができます。そうこうしていますうちに夜も白み始め、皆それぞれ手を洗ったり、身づくろいをしたり、朝のご祈祷をすませます。お昼頃に羽根という土地に近づきました。まだ若い男の子がこの地名を聞きかじって、「羽根って鳥の羽のことだよね」と言います。まだ年端もいかない子の言うことで、皆が笑いますと、貫之様のお子が次のようなお歌をお詠みになりました。
まことにて なにきくところ はねならば とぶがごとくに みやこへもがな
男も女も皆が早く都へ帰りたいという思いは同じかして、特に上手と思われないのに、「そうそう、そうだよね」と感じることでした。
幼い子の無邪気な話が出て、貫之様の女房殿は亡き娘を思い出されたようで、今日は殊のほか悲しみが増すのでしょう。土佐に来る時と今は一人少ないことに「かずはたらでぞ かえるべらなる」という古い歌を思い出されたかして、次のようにお詠みになりました。
世のなかに 思ひやれども 子をこふる 思ひにまさる 思ひなきかな 」
まだ暗いうちに船を出して室津に向かう。海に落ち込む山をまじかに見上げながら通りすぎる。水子の漕ぐかけ声が山肌に跳ね返ってこだまのように響く。羽根崎をかわすと段丘状の山々が幾重にも重なってはるか先まで連なっている。三艘の船は時には声を掛け合って漕いで行く。ゆっくり時は進む。一山一山かわしては船は進んでいく。
| 貫之の時代を遡る100年前、遣唐使派遣の最後となった第14回遣唐使船に乗船した僧円仁が書いた入唐求法巡礼行記がある。西暦838年6月に今の博多を出発して約10年、最澄が掲げた比叡山天台宗の欠ける所を習得するための求法巡礼の記録である。当時の中国の仏教や政治制度、中国人の生活風習などの記述と言い、船と航海に関する記述と言い、円仁自身の手による記録とされている。この中から船に関する記録を少し紹介しよう。 「19日、夜2時にいたる頃、雷鳴り、電輝き、洪雨・大風ありて相当たるべからず。艪のとも綱は悉く断ちて、舶(船)は即ち流出する。忽ち驚いて碇を下ろし、即ち停まるを得たり。船首の神殿の屋根板は、大風のために吹き落とされて所在を見ず。人、戦々恐々として自ら抑えるあたわず。 20日、西風吹き、すなわち渡海せんとし、帆布を整備し、岸に上れる人を運ぶ。午後12時風は西南に変じ、計るに泊を出ずるにあたわざるべし。よって進発せず。夜に入りて雷雨更に甚だし。」(平凡社 入唐求法巡礼行記 足立喜六訳注)一部意訳 私は当時の船の舵と帆に強く興味をもっている。 当時の船の帆は竹を編んで作った網代帆が定説となっている。しかし、上記の記録で、20日に「帆布を整備し」とある。帆の左の偏は「布」を意味し、右の旁は「風」を意味する。私は上記の記事を発見して当時の帆は網代帆などはでなく、長年思っていたようにやはり、布帆であった、と強い自信を持った。朝日選書「遣唐使船 東野治之著」でも、最澄の顕戒論の中に「第一船に乗る。遂に藤覧を望海に解き、布帆を西風に上す。げき旗、東に流れ竜船岸に着す。」の文があることを紹介し、布製の帆があったことを東野氏が「発見した」と述べている。私は入唐求法巡礼行記のなかに同じ発見をしたことになるのだろうか。1月1日のところで掲げた北野天神縁起絵巻(少し時代はあとになるけれども)の船を見ると帆柱に帆を巻きつけてある様子が見える。網代帆は折り畳むことはできても帆柱に巻きつけることはできない。 |
第五章 室津にて
1月12日 室津
「雨が降りそうな雲行きです。遅れていた時文様と是望様の船が奈良志津から当地室津にお着きになりました。」
| 原文では「ふむとき、これもちがふね(船)のおく(遅)れたりし、ならしづ(奈良志津)よりむろつ(室津)にきぬ」とある。大概の研究書は、「ふむときとこれもち」について、伝不詳または貫之の下僚としている。なかでも、品川和子氏は「土佐日記抄はじめ、文時、維茂の漢字をあてている理由は無く、季吟(北村季吟・1661年頃の人)はなお、貫之の子の時文を逆に返して文時といったなどと推測しているが、これもあてにならない」[講談社学術文庫 全訳注土佐日記]とし、また、小西甚一氏は、「ふむときについて貫之の子の時文の誤写であるとか、わざと逆にして作中の人物にしたのだとかの説があるが、‥‥、あまり難しく取らないでも、関係者と見る程度でよいであろう」[有精堂出版 土佐日記評解]とある。この問題は作品全体を通じては文学的には些末なことであり、「伝不詳または貫之の下僚]が無難ということであろう。 しかし、私は思う。貫之には時文という子がいた事はわかっている。貫之の父の名は望行である。「ふむとき」は時文であり、「これもち」は、父・望行の一字を名前に取った時文の兄弟であろう。それぞれが船の責任者となった、と。 |
1月13日 室津
「明け方に少しばかり雨が降りました。しばらくして止む。
きょうは十三夜、月の明かりが海、山を照らし出して神々しいほどに美しい。女、子供たちがその美しさに誘われてか、水浴びをしようと船を離れて岸辺に下りていきます。
貫之様は、月に照らされる海の景色を見て、お歌心が湧いてか次のように詠まれました。
雲もみな 波とぞみゆる あまもがな いずれが海と 問ひて知るべく
船に乗り始めた日から、船中では紅いろの濃い着物は着ません。海の神様はあでやかな色を好むと聞いていますから、触らぬ神にたたりなしということです。
それでも、皆は少しばかりの葦で身を隠したつもりで水浴びをして、ついでとばかり、海の神様に旅のお加護をお願いするつもりでしょうか、ほやのつまのいずしに、すしあわびを裾をめくりあげて見せはしゃぐ始末でした。
| 土佐日記の作者はおんなであって貫之ではないという説があった。しかし、いまでは貫之の作とされている。「ほやのつまのいずし」「すしあわび」は男根と女陰の象徴で、当時として、女にはこのようなきわどい表現は書けないというのがその理由の一つである。他にも貫之だから書ける記述がいくつか出てくる。 |
1月14日 室津
明け方から雨が降っています。同じ室津に泊っています。
今日は精進潔斎の日ですから、貫之様は生物を召し上がりません。そうかといって、常のように精進物があるわけではなく、お昼には船頭が昨日釣ったという鯛の魚を、お金をお持ちではないためにお米と交換されて、早々と精進落ちをなされたのでした。
船頭は味をしめたかして、その後も鯛などを持ってきてお米やお酒と交換することがあり、そのようなときの船頭は上機嫌です。」
どっという歓声に貫之は屋形の戸をあけて出てみると、船頭が昨日釣ったという鯛を魚籠から持ち上げて「お上どうです?」と言った。どうですといわれても「くれるというのか」とも言えずにいると、船頭はにやりと笑った。貫之は「替わりに米をくれてやれ」と従者に命じた。貫之は深い海にいるという鯛を釣り上げた船頭たちの腕前に驚きはしたが、精進潔斎のことも忘れてすぐ調理を命じた。
1月15日 室津
「今日は正月の十五日、一年の邪気を払うという小豆粥をいただく日ですが、そのようなものはこの船にはありません。そのうえ、天候が悪いためにいざるほどにしか船旅は進まず、今日でもう二十日あまりが経ちました。いたずらに日が経ち、じれったく思っているのは皆も同じようで、ただただ海を眺めて過ごすだけです。貫之様のお子様が次のように詠まれました。
たてば立つ 居ればまた居る 吹く風と 波とは思う どちにやあらむ
幼い子らしく詠めたものです。」
1月16日 室津
「風と波がいよいよ強くなります。なお、同じところに泊っています。
風と波が治まってはやく室戸御崎というところを越したいと思うばかりです。その思いとは裏腹に風も波もすぐには治まりそうにもありません。貫之様はこの波風の立つのをご覧になって、次のように詠まれました。
しもだにも おかむかたぞと いふなれど 波の中には 雪ぞ降りける
やれやれ、船に乗った日から数えて今日でもう二十五日になります。」
1月17日 室津
「昨日まで空を覆っていた雲もなくなり、明け方近くでしょうか、それでもまだ暗い夜空に浮かぶ月があたりを美しく照らしています。この好機を逃すまいと日の出を待たずに船を出して静かな海を漕いで行きます。
行く先を見れば雲の上か海原か区別がつきかねて同じように見えます。このような風景が昔にもあったのでしょう。唐の詩人が「棹はうがつ 波の上の月を 船はおそふ海のうちの空を」と詠んだと聞いたことがあります。その詠んだ詩人のお気持ちがよくわかります。
貫之様も次のように詠まれました。
みな底の 月のうえより こぐ船の 棹にさわるは 桂なるらし
この歌に感じてまたある人が詠まれました。
影見れば 波の底なる ひさかたの 空こぎわたる われぞわびしき
このようにお歌を聞いていますうちに、夜がようやく明けてきました。ところがどうしたことでしょう。船頭らは、「黒い雲がにわかに出てきました。風が吹いてきます。元の泊りに帰りましょう。」と言って船を帰らしてしまったのです。船頭ごときに勝手にされてと思いますが、海の上のことは船頭に任せるしかありません。このあいだにも雨が降り出していっそうわびしい気持ちになります。」
| 風が強く浪が荒いとて船を出すことができない。船は大量の積荷でずっしりと喫水を深くして少しの風浪でも航海は危険であったと思う。それでも44日をかけて二月十二日には無事に京都の淀に送り届けているをみると、沿岸の航海には船頭たちは経験も豊富で航海術に通じていたことが分かる。この時代の船の構造などの手がかりは遣唐使船の研究から得られる。遣唐使の派遣は中止も入れて西暦630年から838年のあいだに第十八次を数える。日本書紀に第七次まで、続日本紀に第十七次まで、続日本後紀第五巻に第十八次派遣の記録がある。船はその航海ごとに主に安芸の国で建造された。663年に滅びた百済の造船技術者が多く安芸に居たと考えられる。しかし、遣唐使が往復無事であったのは数えるほどで、ほとんどの場合、大きな犠牲を伴った航海であった。西暦839年7月に朝廷は大宰府に新羅船を造るように命じている。「風波によく耐える」ゆえに。また、太宰府は「新羅船はよく波行を能く凌ぐ」と聞いているので一隻を配備して欲しいと朝廷に懇請し、聞き入れられている。このことから、百済の工人が造る遣唐使船は新羅船と比べて構造的に劣っていたと考えられる。 第十七次の場合、唐の楚州で9隻の新羅船を買って帰ることになるが、乳山に入った船は風波に翻弄されて2ケ月ほど付近をさ迷うだけで、一向に次ぎの泊地に向かうことができない。ところが、「風止みて進発するを得ず」という遣唐使船を尻目に、「新羅船一隻、白帆を懸けて海口より渡り去る。久しからざる頃に帆を廻して入り来る。彼の新羅船は速やかに走り‥‥」[東洋文庫 入唐求法巡礼行記 足立嘉六訳注]とある。同じ新羅船でありながら遣唐使の船乗りは帆走技術も劣っていたと考えられる。 |
1月18日 室津
「今日も昨日と同じところです。海が荒れて船を出すことができません。
この泊りは、遠くを見ても近くを見ても美しい風景が気持ちを和らげてくれます。そうはいっても、いっこうに船旅が進まないので、何をする気持ちにもなりません。
男どもは気を紛らそうと漢詩などを吟じています。貫之様が詠んだお歌はつぎのようです。
いそふりの 寄する磯にはとしつきを いつともわかぬ 雪のみぞふる
この歌は詠い慣れたお人が詠んだようには思えません。またある人が詠みました。
風に寄る 浪の磯には うぐいすも 春も得知らぬ 花のみぞ咲く
この歌は少しよいようだねという声に、船の主でもある年寄りの貫之様が毎日の息苦しい船内の空気を和らげようとまた次のように詠まれました。
たつ波を 雪か花かと 吹く風ぞ よせつつ人を はかるべらなる
これらの歌を皆が何かと批評しあっているのを聞いて、ある人が詠んだ歌ですが、その詠んだお歌の文字が三十七字あります。人はそれを面白がって笑います。詠んだお人は笑われて機嫌を悪くしてしまっています。少しは学んだからといって、人様に聞かせられるようには詠めないことですし、ましてそれを文字で書いてみても歌のようにはなりません。もう一度詠もうとしても格好が付きません。まして日が経てば書いて読み返すことも恥ずかしいことです。」
1月19日 室津
「今日は日が悪く船を出すことができません。」
この室津の泊りは土佐の国司の管理運営するところであったが、貫之はこの地に来てみて国司としての手が行き届いていなかったことを知った。淀の津や大和田の船瀬のように官舎や倉が並び建っていることもなくここには朽ちかけた仮屋があるだけで泊りとしての施設もない。綱知らずとでもいってよいほどの天然の船だまりにすぎなかった。付近には調庸の米を京都に運ぶ船や油・塩・海産物などを京の荘園主に運ぶ船などが一処に寄り合うようにして、風の治まるのを同じように退屈をもてあまして待っている。
指呼の間に室戸御崎の先端が見えるというのに苛立ちが募る。
| 「延喜式によると、土佐の国司は毎年二月に調・庸を中央政府の各省や寮に献上しなければならなかった。この朝貢品には、鼈甲・蘇(チーズのようなもの)・帛(きぬ)・鰹・武具・馬などがあった」[山川出版社 高知県の歴史 山本大著] |
| 遣唐使船については、日本書紀以下の六国史に比較的多くの記録が残されている。そして、室町鎌倉時代になると遣唐使船や船が絵巻物に書かれるようになるが、おおよそこの200年近くは船の記録の空白期間がある。土佐日記はこの間に書かれて(京の都に戻ったのが承平5年・西暦935年で帰京後数年の作といわれている)いるから当時の船を研究する上において貴重な航海記である。その貫之の船を考える場合、遣唐使船の延長線で考えることが妥当ということになってくる。 では、遣唐使船についてその大きさはどのように考察されているかを紹介する。 @「全長24メートル、幅8.5メートル、喫水2.8メートル、積載排水量約300トン、載貨重量約160トン」[日本の船を復元する 石井謙治 学習研究社] A「全長30メートル、載貨重量約150トン、他は@に同じ」[和船U 石井謙治 法政大学出版局] B「全長25メートル〜30メートル、最大幅6〜7メートル」[日本航海術史 飯田嘉郎 原書房] C「長さ20メートルから25メートル余、幅7〜8メートル余の大型船」[万葉の遣唐使船 高木博 教育出版センター] |

奈良県立博物館 遣唐使船展(H17.9 遣唐使と美術)で買った絵葉書
[遣唐使船模型 兵庫県立歴史博物館蔵]
1月20日 依然として室津です
「昨日と同じように海は荒れて船を出すことができません。みなため息をついています。じれったくて気持ちがなかなか落ち着きません。みなが、今日は何日とか、今日で何日たったとか、二十日だとか、いや30日だと指折り数えていますと、指が疲れてしまいます。夜もよく眠れません。
今夜は二十日の月が出ました。普段山の端から月は出るものと思っているのに、ここでは海の中から出てきます。これを見て思い出します。
むかし、阿倍仲麻呂というお人が唐に行かれて、いざ帰国というときに、その国で親しくなった人々が船に乗るところまで見送りに来て、お互いに歌などを吟じたり名残を惜しんでいました。そのときも二十日でした。月が出るまで歓談されて、やはり、月は海の中から出ました。仲麻呂様は、「日本ではお歌は古くから神様が詠むものとされていましたが、今では身分の上下にかかわらず、別れのときや、喜びのときや、悲しいときにも歌を詠むのです。」といって次のように詠まれました。
あおうなばら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
唐の国の人は意味がわからないようでしたので、歌の意味を漢字で書いて説明したところ、わかったようで思いのほかに感心されたのでした。唐とわが国では言葉が違っても見る月は同じですから人の心に映る思いも同じです。
貫之様は、そのときの情景を想像されて今夜は次のように詠まれました。
都にて 山の端に見し 月なれど 波より出でて 波にこそ入れ 」
| 阿倍仲麻呂の話が唐突に出てくる。取ってつけたような内容で、今までの文章体の流れからいって一瞬戸惑いを感じる。貫之が30年前に古今集の序文で述べていることを改めて取り上げたに過ぎない。すなわち、「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば 見るもの聞くものにつけて言い出せるなり云々」と貫之が自信を持って歌論を述べているが、その後の進展もなく、昔の思いとまったく同じことを伝えることにどれだけの意味があったのであろうか。 阿倍仲麻呂は貫之の時代に遡ること200年前の人である。唐に留学して 唐の重要な役人まで昇進し、時の玄宗皇帝に重用されて簡単には帰国させてもらえなかった。何度目かの帰国要請がかなえられてその帰国の船に乗る湊で詠んだ歌が有名な、 「あまのはら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」 の歌である。 外国で詠まれた歌がどのようにして日本に伝わり、200年後に人口に膾炙するほどに阿倍仲麻呂の歌は当時既に有名であったのか。 この歌について、「阿倍仲麻呂の暗号」林青梧著 PHP研究所発行 の意味深長な本がある。 阿倍仲麻呂の乗船した船は、今のベトナム方面に漂流して結局日本には帰れず。玄宗皇帝の元に戻って唐で亡くなっている。 |
第六章 室津から土佐泊まりまで
1月21日、室津から甲浦へ
「卯の時(午前6時)に船出す。この日を待っていたかのようにほかの船も一斉に出て行きます。その様は、春の日の海だというのに秋に木の葉が散るようです。
真剣にお祈りをした甲斐があったということでしょうか。風もなく、南国の陽光を浴びて船は漕ぎ進みます。
京で使ってもらおうと一行についてきた少年が舟歌を歌います。
なほこそ くにのかたは 見やるられ わが父母ありとし 思へば かえらや
哀調のこもった声が涙を誘います。
このような唄を聞きながら船は進むうちに、黒鵜が岩の上に集まっているところに来ました。その岩に波が打ち寄せ白く砕けています。船頭は、「黒鳥のもとに白い波が打ち寄せる」と言います。この言葉はなんと言うこともなく言ったのでしょうが、何か気が利いた風に聞こえます。たかが船頭の言った言葉遣いですがなぜか気になります。
貫之様は浪を見て、国府を出発するときに海賊の報復があるかもしれないと不安を感じていたことを思い出されたのでしょうか。海もまた恐ろしいので「髪の毛も白くなってしまう。七十、八十と老け込むのは海にもその理由があったのか」と言いつつ、次のように詠まれました。
わがかみの 雪と磯辺の 白波と いずれまされり 沖津島守
島守に代わって船頭よ、いずれが勝るか答えろ 」
12日から20日まで9日間も室津に足止めを余儀なくされた貫之の一行は、午前6時ころに海上の人となった。「明朝早くに船を出します」と昨夜船頭から聞いていた貫之であるが、ようやくそのときが来て、ひとつの重荷がとれたように思う。ほかの船も一斉に湊を出ていく。土佐へ向かう船、貫之一行と同じ方角へ向かう船と、ひなびた寒村の海岸にひととき水子たちの掛け声が響きあった。一生懸命祈った甲斐があったということだろう、今日は風もなく、穏やかな日差しのなか、のんびりと船はすすむ。御崎に近づくにつれて、土佐の国もこれで見納めになるかとの思いは同じかして、みな黙り込んで過ぎ越し山並みを見続ける。そのとき、少年が口ずさむ船唄が、みなの哀愁をよけいに誘うようで、貫之はその場に似つかわしいと思うのだった。2時間ほど漕いで船は御崎にかかる。多くの黒鵜が岩礁に飛び交い、沖から寄せる浪は岩を撫でるように洗い、その音が間近かに聞こえる。岩礁から目を上に転じると、不気味に御崎の山肌がそそり立っている。100年ほど前に空海が開いたという最御崎寺(ほつみさきじ)が御崎のすぐ上にあるというが、見えるはずもなく、そのほうに向かって手を合わせて祈る。この航海の最大の難所と大きな不安を持っていた室戸御崎を、物見遊山の気分で回り込むことができて、貫之は都へまた一歩近づいたことを感じた。春はうらら、貫之は眠気に誘われるようなのんびりした気分で、主屋形の御簾を上げて御崎を眺めている。やがて、船頭は水子たちに船の進路を北に向けるように指図をし、船首はゆっくりと向きを変えた。
船頭は艫屋形で梶棒を握って四海を睥睨するかのようにどっかと座って水子たちに号令をかける。貫之はその姿を見て羨ましいと思う。しかし、頭越しの船頭の声は貫之の気位を押さえつけるように聞こえる。その上、いつもの慇懃無礼な態度を合わせ考えると、貫之は「船頭はいやなやつ。住む世界が違う」と思う。しかし、海や船のことになると船頭の言いなりになるしかないことがなんとしても腹立たしいのであった。「船頭答えてみろ」と言っては見たが、案の定知らん顔をされてしまった。
室戸の東岸をつかず離れずの距離を保って船を漕ぎ進めた。そして室津の泊まりを出て14時間かけて甲浦の入り江に船を休めた。当地には番所があり、その近くには番所を預かる家族が住む粗末な家が街道沿いに建っている。船から下りた者たちは、久しぶりに足を伸ばすことができると喜び合っている。
| 貫之は航海中に寄った所の地名をほとんど書いていない。貫之は地名の記載に興味がなかったというより、貫之が意図した日記の目的から見て必要なし、としたのであろう。日記から分かっているのは、1月21日に室津を出発し、鳴門市の土佐泊に入ったのが1月29日の多分夕刻、というだけである。その間に実質的に船を走らせたのは4日、おおよそ50時間程度と思われ、その間の距離は約90マイル、そうすると、時速1.8ノット(3キロ)程度となる。大方の意見は、21日は甲浦(約42キロ)、22日は日和佐(約30キロ)、26日は蒲生田岬を回った橘湾付近(約45キロ)ということになっている。妥当なところか、と思う。 今日の原文の最後のところは、土佐日記が冒頭の書き出し(「男が書くと決まっている日記を、女の私が書いてみようと思います。」を根拠に、実際は女(貫之の女房など)の作品とする説があるが、今日の「舵取り、言へ」(=島守に代わって船頭よ、いずれが勝るか答えろ)と、男ならばの言葉使いもあって、土佐日記が貫之自身の作品とされる箇所でもある。 |
1月22日 甲浦から日和佐へ
「きのうの湊から次の泊まりに向けて船は行きます。遠くに山が見えます。
九つばかりの男の子が、年齢よりは幼く見えますが、船が漕ぎすすむままに山も付いて進むように見えるのを不思議がって歌を詠んだのでした。その歌は、
漕ぎてゆく 船にてみれば あしひきの 山さへ行くを 松はしらずや
幼い少年に似つかわしい歌です。
今日は、海は荒れ気味で、磯は雪が降るかのように浪が白く砕け花が咲くようで、貫之様は早速次のように詠まれました。
波とのみ ひとつに聞けど 色みれば 雪と花とに まがひけるかな 」
甲浦を出て、船はゆらゆらと漕いで行く。昨日と同じ、天気は快晴。昨日の一日で皆は船旅も少しは慣れたかして、船中では歌を詠みあう余裕も出てきた。しかし、山並みは海岸線にまで落ち込んでいて何ともいえない威圧感から開放されることがない。昼過ぎからは海岸から遠く離れて牟岐大島に向けて船は漕ぎ進む。牟岐大島を左舷間近に見るころから、風はそれほどではなくても大きなうねりに時々船は大きく揺れる。水子たちが漕ぎづらいように見える。夕方近くになって日和佐の河口の波風がないところに船を舫った。
1月23日 日和佐にいます
「日はときどき照るのですが、曇り空です。この辺りは海賊に襲われることがあり、神仏に無事を祈るしかありません。」
1月24日 日和佐にとどまっています
1月25日 日和佐で天候待ちをしています
「船頭たちは、「悪い北風が吹く」といって、船を出しません。
「海賊が追って来ている」と絶えず聞こえてきます。」
| 海賊・盗賊の記録は、古くは天平2年(730年)にすでに見ることができる。すなわち、『京および諸国に多く盗賊あり。あるいは、人家に押し入り、あるいは、海上にありて侵奪す。百姓を蝕むことこれより甚だしきはなし。所在の官司をして必ず捕獲せしむべし』と詔す。(続日本紀巻十)さらに、承和5年(838年)、『畿内諸国に群盗横行す。火を放ち、人を殺す。(朝廷は)国司に捕らえるよう下知せしめた』さらにその翌日、『山陽・南海道等の諸国司に海賊を捕らえるよう命じた。』(続日本後紀巻七)貞観4年(862年)には、『播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐等の国に下知して、人夫を差発して海賊を追捕せしむ。』(三代実録巻六) 貞観9年(867年)、『伊予国の宮崎村に海賊が群居して略奪の限りをし、公私の瀬戸の海上通行は切迫している、と朝廷は攝津、和泉、山陽、南海の各道国に報告し、賊を捕まえるように命じた』(三代実録巻十四) 公私の往来の物資等を狙って古くから盗賊が横行して、朝廷は躍起となって取り締まりを強化したことがわかるが、それによって鎮静化するどころか、貫之の時代には事態はもっと悪化していた。まさに貫之が土佐を離れる前の年に四国西岸の伊予国の国米三千余石が海賊に奪われている。 |
1月26日 日和佐から蒲生田御崎へ
「海賊が追って来ているといううわさは真実のようで、夜中に船は出ました。漕ぎ進む途中、海神を祭ったところがあります。貫之様は、船頭に幣帛を奉げるようにお命じになりました。奉げた幣帛が東の方角に散るのを見て、「この幣の散る方角に漕がしめたまへ」と船頭が言った言葉は、貫之様に言ったようにも聞こえ、海の神様に言ったようにも聞こえました。この声を聞いて、一人の女の子が
わたつみの ちふりの神に 手向けする ぬさの追い風 やまず吹かなむ
と、詠んだのでした。
頃合よく、よい風が吹いて来て、船頭はこのときとばかりに帆を上げさせて「やんや、やんや」と大喜びです。風にあおられてはたはたと帆が打ちならす音を聞いて、子供も女も都が近づくように思えて、大変に喜びます。女の中に淡路生まれの老女がいて詠んだ歌は次のようです。
追い風の 吹きぬるときは 行く船の 帆てうちてこそ うれしかりけれ
天候がこのまま続くことを祈ります。」
貫之は心底、海賊を恐れている。
貫之は土佐の守として海賊追捕の朝廷の命令を受けて行動したことで、海賊の恨みを受け報復されるのではないか、と日夜不安であった。いよいよ海賊が出没するやも知れない海域に近づくにつれて、不安な思いはいやがうえにも増してくるのであった。
海神を祭った祠がある鹿の首岬で、貫之は船頭に命じて航海安全を祈願させた。
その幣帛が東に散るのを見て船頭は、「船をすぐに東へ漕がしめたまへ」と芝居じみた調子で言った。この場所では東へ行くしかない当たり前のことを勿体ぶって言う船頭に、貫之は「勝手にしろ」と言いたいところを抑えて「おう」と返事した。しばらくして、少し風が出てきて、船頭は初めて水子らに帆を上げるように命じた。船は風を捉えて少し船足を速めた。船の中はみな異口同音に喝采の声をあげ、それが船頭に対する称賛のように受け止めたかして、船頭はいたく自慢げな顔をした。
蒲生田岬をかわすころには風も落ちて船は西のほうに向きを変えた。船頭はどこに船を泊めるか思案していたようであるが、ある山陰に船を泊めた。
| 貫之が今回雇った船は大型航洋船ではなく川船であるから、平底になっていて帆は順風(追い風)のときにしか上げられないのである。帆は蓆帆であるとか、竹で編んだ足代帆であるとかいわれている。どちらも強風では1時間も持たない代物であろうが、もともと強風であれば湊か入り江に避難するのだからむしろや竹編み帆で十分なのであろう。 昔の船の研究者の一人、石井謙治氏は「図説和船秘話」至誠堂で、「弘法大師絵伝や東征絵伝などでは、二本の帆柱を前後に配さずに並列させて描いているが、これは明らかに間違いである。‥‥舵は船尾の正舵と船尾よりの両舷で上下できる脇舵があった。」また、「日本の帆は、遅くても平安初期には幼稚な固定式から脱却して一本マストに四角帆一枚を張る方式に発達した」と書いている。 遣唐使船のような外洋船はそうであったかもしれないが、川船を兼ねた沿岸航行の船の場合はもっと幼稚な船であったと私は思う。 貫之が土佐から淀へ航海しているまさにそのころに倭名類聚集(辞典)が編纂されているが、その中に「(帆は)風の衣なり。船上の檣上に掛けて風を取って船を進める幔(まん=幕)なり」とある。また、鎌倉時代から絵巻物が多く見られるようになり、その中に船が数多く描かれている。貫之の時代から300年ほど後のことであるが、その中の絵にマストが二本並列に描かれているものがある。私はこれは石井氏が言うように絵師が描き間違ったとは思わない。片開きの戸のように足代帆を固定させて綱で開閉をしたものが二本並列にあったと考える。また、真追手の微風のときに帆を使ったようであるから舵は船尾だけで十分で脇舵は必要なかったと思う。当時は遣唐使船のような時代の先端を行く船もあったであろうし、縄文時代さながらの原始的な丸木舟も数多くあったであろうし、用途に応じて、いろいろな試みを加えたりした数多くの種類の船があったと思うから数少ない絵巻物の絵から固定的に船の姿を想像すべきではない。 |
1月27日 蒲生田御崎で風待ち
「風が吹き荒れ、浪が荒いために船は出せません。
皆それぞれがためいきの出ることです。男たちは心慰めに漢詩などを吟じたりしますが、「日を望めば都遠し」と望郷の思いを詠った漢詩などを聞いて、ある女が詠んだ歌は、
ひをだにも あまぐも近く 見るものを みやこへと思ふ 道のはるけさ
また、ある人は次のように詠みました。
吹く風の たえむかぎりし たちくれば 波路はいとど はるけかりけり
一日中風は止まない。(親指と人差し指でパチンと)つまはじきをして寝てしまおう。」
1月28日 蒲生田御崎にいる
「夜なか中、雨は止まず。今朝もそうです。」
1月29日 蒲生田御崎から土佐泊へ
春の日を浴びて船はのんびりと漕ぎ進みます。
ふと気がついて指を見ますとつめがたいそう伸びています。暦では今日は子の日、つめは丑の日に切れと昔からの言い伝えがありますので、明日の丑の日に切ることにして、今日は切らずにおきます。子の日といえば、正月の最初の子の日には、野に出て若菜を摘んだり、小松を引き抜いて遊んだりする京での行事を思い出します。「小松でもあればその真似事でも」と誰かが言いますが、海の上のことであれば叶わぬことです。
一人の女が色紙に歌を書いて皆に見せました。
おぼつかな けふは子の日か 海(あま)ならば うみまつをだに 引かましものを
海の上で子の日のお歌とは場違いな感じがします。
また、別のお人が詠んだ歌は次のようでした。
けふ(今日)なれど 若菜も摘まず 春日野の わが漕ぎ渡る 浦になければ
このように歌を詠んだり、噂話をしあったりしながらも船は漕ぎ進んでいきます。
船は景色の大変に美しいところに着きました。「ここは何処」と船頭に聞きましたところ、「土佐の泊り」という返事が返ってきました。以前に土佐に住んでいたという女がこの船に乗っています。その女が「むかし、しばらく住んでいたところの地名と同じで、懐かしいことです」と言いながら次のように詠みました。
としごろを 住みしところの 名にしおえば 来寄る波をも あはれとぞみる
朝早くに出た船は、たくさんの島が美しく重なり合う橘湾をまっすぐ北に向けて漕ぎ進む。うっすらと見える紀州の山並みの端に朝日が昇る。淡い光の春の日を浴びながら、あるかなしかのうねりに身をゆだねて久しぶりの船旅を味わうゆとりが船内に満ちる。貫之も御簾を上げさせてのんびりと島島を眺めている。そのうち、貫之は春の陽気が身体に乗り移ったかのように物憂いような気だるさを感じて、それでも何か気のきいた歌をものにしようと思案している。万葉歌のように景色の美しさを心素直に詠むよりも、普段の生活にかかわる事象に対する気持ちを一ひねりも二ひねりもして他人の共感を得たい、宮廷歌人としての貫之はこの時代の歌とはそのようなものと思っていたのかもしれない。
それにしても、今日の三つの作の出来栄えは貫之ながら不満足なものであった。
吉野川の河口を過ぎて、日暮れ前に土佐泊の船だまりに入った。
三艘の船団の到来を聞き伝えてあちこちから村人が集まってきて遠巻きに見守っていた。
| 29日に貫之の一行が土佐泊まりに着いたのは「おもしろきところに(土佐泊)に船寄せて‥」とあることから日がまだ明るいうちに着いたことが分かる。蒲生田御崎から約40キロ、時間は大体10時間〜11時間。鳴門海峡の南流と北流は約6時間ごとに変わるから、今日のコースでは北流に乗って時間と距離を稼ぎ、南流になれば岸に近づいて反流を利用したのかもしれない。急ぎの旅であれば土佐泊に寄らずに橘湾から直接に沼島を目指せばよいのにと思うが、全航海を通じていえることは岸伝いを頑なに守っていることである。おそらく、川船であることから強めの風が吹けば槽力ではいかんともしがたく流されてしまうことを経験的に熟知していたので紀伊水道を縦断することをしなかったのだろう。 |
第七章 土佐泊から和泉の灘へ
1月30日 鳴門海峡を渡る
雨も降らず風もありません。海賊は夜には出没しないと言う噂を信じて、真夜中に船が出ました。そして、阿波の水門(みと=鳴門海峡)を渡ります。西も東も見えない暗やみを船は漕ぎ進みます。不安は皆同じかして男も女も一生懸命に神様や仏様にお祈りしながら、何事もなく水門を渡りきりました。明け方に沼島というところを通り過ぎて、多奈川というところの沖を行きます。たいそう急いだせいでしょうか和泉の灘というところに着きました。今日は一日中海上には波というほどの波もありませんでした。神様や仏様のお恵みをいただいたおかげということにしておきましょう。
この船に乗った日から数えて三十九日が経ちました。今は和泉の国まで来ましたからもう海賊の心配はありません。
昨夜は少し仮眠を取っただけで真夜中に船は岸を離れた。まず、貫之の船が、そして、是望、時文の乗る船が続いた。土地の漁師から潮の流れの変わる時刻を聞いてきた船頭が、貫之に真夜中の船出を告げた。海賊の出没を気にしていた貫之としても、海賊は夜には動かないと聞いていたのでむしろその方が好都合であった。
水子たちの力強い掛け声が船中に響いて土佐泊から一気に水門を渡り始めた。船の中の男も女も噂に聞く阿波の大渦潮の恐ろしさを話し合い、船内に緊張が走る。身体を寄せ合いながら、真っ暗闇の中を力いっぱい櫓を漕ぐ水手たちを見守っている。五時頃ようやく明るみかけるころ船団は淡路と沼島の間を通り抜けた。淡路島南岸沿いは果てしなく続く山並みにさえぎられて風はなく、海面は鏡のように穏やかである。船内はいつしか話し声も途絶えて水子たちの掛け声だけが単調に続く。由良瀬戸に到る頃、船頭はちょうど潮の流れが緩やかになった海面を見て船の向きを北東に変えた。船は大阪湾に漕ぎ入れ、友が島北岸を東に進む。船頭は加太瀬戸の手前で潮待ちのために地の島の中央付近の小さな入り江に船を入れて碇を下ろした。水子たちは思い思いの格好で疲れを休める。船頭は潮のころあいを見て碇を上げて、まだ少し残る南流をものともせずに東へと漕ぎ急いだ。多奈川の沖を過ぎ、吹飯浦(ふけいのうら=深日)に船は入った。今日は風も穏やかで波もなく、皆が神様や仏様のお恵みのおかげで無事にここまで来られたと言い交わすさまを見て、それほど信心深くない貫之は、あえて逆らうこともなかろう、そういうことにしておこう、と思うのだった。
| 土佐から京の都までの船の航海で難所は二ヶ所ある。最初の難所、室戸岬は物見遊山の気分で回ることができて拍子抜けをした一行であったが、今日は鳴門海峡と友が島海峡を渡らなければならない。そして、沼島から淡路由良までの17キロ、船足にして約6時間の海岸沿いの何ヶ所かは谷あいがあるにしても切り立った山がつながっていて避難するところはない。海風でも吹けば立ち往生となる。 船は沼島を横目に見て通り過ぎたが、鎌倉時代以降は難波と四国、紀州の行きかう船の重要な中継基地となったことから、この頃は少人数ながら沼島にも漁師が住んでいたと思う。遠くから聞こえてくる船をこぐ掛け声に驚いて起きてきた島人は三艘の船団が通り過ぎるのを手を振って見送ったであろう。土佐日記では「沼島というところを過ぎて、多奈川というところをわたる。からく急ぎて、和泉の灘というところにいたりぬ」といとも簡単に書いている。そして、「神仏の恵み蒙れるに似たり」と船頭たちの技術の高さや苦労を貫之たちはまったく感じていないのである。 土佐日記は、12月21日に土佐を出てから、2月16日に京に入るまでの55日間の日記であるが、航行日数は海上13日、淀川4日の計17日である。38日間は風待ちなどで船は動いていない。今日の航行距離は約53キロと航海中で一番の長距離であるとともに、航路も難関中の難関である。それをおおよそ17時間から18時間で一気に船を進めた船頭の航海技術は見事というほかない。私は船頭の腕前の確かさに感心するとともにそれを可能にするような航海技術や天候判断、船乗りの養成などのインフラがこの時代に出来上がっていたことを思う。船の構造は幼稚であっても、沿岸航海術は私たちが想像するほど以上に発達していたとみてよいだろう。 土佐日記の研究書はたくさんあるが、ほとんど文学的研究とそれに若干の地理的考察を加えているに過ぎない。 ちなみに、[日本航海術史 飯田嘉郎著 原書房]に「貫之の航路は四国沿岸、淡路島南岸、友が島南岸、加太瀬戸を通り大阪府沿岸である。帆走したのは一日だけ、他は漕走し、一日の最大航程は25哩である」とある。 30日は新月の前後で大潮にあたる。土佐泊から淡路島西端の潮崎まで約10キロの鳴門海峡と、淡路島東端の生石鼻(おいしのはな)から約11キロの友が島海峡の二つの海峡を横切らなければならない。友が島海峡の潮流は最強3ノットを越えるから転流時のせいぜい2時間が海峡横断の勝負どころとなる。 「和泉の灘にいたりぬ」の時刻を私は夕暮れ前の午後6時頃と見ている。その約2時間前が加太瀬戸の北流の転流時であり、その転流を地の島の南岸に碇を下ろして待機していたとして和泉の灘到着(約3時間距離)は7時以降になってしまう。したがって、前述の飯田嘉郎氏の友が島南岸航行は疑問とする。 第五管区海上保安本部海洋情報部のホームぺージから両海峡の「潮流推算値」が得られる。そのデータから、私は貫之の船は次のような時間経過をたどったと見る。 貫之の船は鳴門海峡の南流の転流時1時間前頃の29日の夜9時半頃に土佐泊を出て約4時間かけて鳴門海峡を横切り、明け方には沼島を通り過ぎた。午前10時頃に淡路島東端の生石鼻をかわして(このとき南流に転じる約一時間前)大阪湾に滑り込み、友が島海峡の北側を東へ漕ぎ進めたと思う。そして、地の島北岸の中央にある小さな入り江・土佐泊で潮待ちをした。(土佐泊がここにもあった。この土佐泊の名前の由来について、和歌山市加太地区ネットワーク活動のホームページで次のように紹介されている。【戊辰戦争のとき、土佐藩士が大阪へ攻め上るとき、強い東の風((東風)こち)に遭い、短期間ではあるがこの小さな湾で生活したらしい。そのうちに、戊辰戦争が終わり、土佐藩士の主だった武士は切腹をして亡くなったことからそう呼ばれるようになった】この土佐泊を私は徳島の土佐泊と同じく古くから難波と土佐を行き来する船の潮待ちの入り江だったと思いたい。 そして、午後4時頃から始まる北流の追い潮に乗って日が暮れる前には吹飯浦(ふけいのうら=深日)に着いた。この二日間は移動性高気圧に恵まれて風もなく波も穏やかで帆をあげるには到らなかったであろう。 |
2月1日
朝の間は雨が降りましたが昼ころには止みましたので、船は和泉の灘より出て漕ぎ進んでいきます。海上は昨日と同じように風も波もありません。黒崎の松原を見ながら船は進みます。黒崎は名のとおり黒く見えます。松は蒼く、磯に寄せる波は雪を見るようで白く、貝の色はおそらく蘇芳色(赤色)とすると、五色(黒、青、白、赤、黄)には一つだけたりません。そうこうしているうちに今日は箱の浦というところから水子(かこ=船乗り)たちが浜に降りて船に綱をつけて曳いていくことになりました。
この間に、あるお人が次のようにお歌を詠まれました。
たまくしげ 箱の浦なみ たたぬ日は 海をかがみと たれかみざらむ
貫之様は「とうとうこのつき(二月)になってしまった」と嘆かれて、みなの気持ちも同じような思いであろうとお察しになられてか次のように詠まれました。
引く船の 綱手のながき 春の日を よそかいか(四、五十日)まで われはへにけり
そのお歌を聞いて、「なにか、普段の話し言葉のようだ」とひそかに言う人もいます。「船主(貫之のこと)さまが苦心してひねり出されたお歌で、ご本人様はよく詠めたとお思いのようだから、怨まれるようなことは言わないでおこうよ」とお互いにこそこそ言って黙ってしまいました。
突然、風波が強まりはじめましたので船頭は近くの河口を少し遡ったところに船を泊めました。
深日の浦を漕ぎ出した船は、黒崎(今の淡輪)をかわし、浜沿いに漕ぎ進めるが流れに逆らっているかして船足は伸びない。水子たちを叱りながら漕がせ続けた船頭は、とうとう箱の浦(今の箱作)のところで漕ぐことをあきらめて水子たちに船を曳くように命じた。土地の者も出てきて船曳きに加わった。尾崎をかわすと船頭は水子たちを船に上げてまた漕ぎ進めた。
そして風波が強まりだしたのを見て船頭は樫井川の入り江にある佐野浦に船を泊めた。
| 当時、黒崎から北に向かって大和川に到る沿岸沿いはずっと白砂青松が切れることなく美しい景観が見られたと思う。箱の浦から船を曳いたとあるが、川の両岸から船を曳くのは簡単だが、渚つたいに船を曳くのはそう簡単ではない。貫之の率いている船団はずっしりと荷物を積んで喫水が下がっているはずだし、曳く人間も腰から下が水に浸かってしまうと体が軽くなって曳く力が弱まってしまう。5日にも船を曳いたという記述があるけれども、距離は余りかせいだとは思えない。それでも風もなく波もないどんよりとした曇り空の中を漕いだり曳いたりして船は北上していく。 当時の延喜式(格や令の具体的取り扱い規定)によると、泉大津から泉佐野一帯は網曳御厨(あびきみくりや=宮中に海産物を貢進する荘園)が設けられていて川に30人の、海に50人の人夫が配置されていたことが分かる。これらの人夫たちが船曳きに加勢したとも考えられる。ちなみに、泉佐野市史に見ると和泉国が貢進する贄(にえ)は、鯛、鯵、烏賊、ハマグリなどとなっている。 この日の停泊地は「にはかに風波たかければ、とどまりぬ」とあるが、男里川、樫井川、近木川の三ヶ所が想定される。私は泉南地域の中心の位置にあたる樫井川河口付近(今の田尻町あたり)は古くから開けて地であったと思っている。現在の泉佐野港はそれより4キロほど北であるが樫井川河口が昔の佐野浦として賑わっていたのではないかと思う。 「にはかに風波たかければ」とある「にはかに」が予定外の意味と取れば佐野浦に入ろうとしていたところ天候の急変で手前の男里川の河口に逃げ込んだことも考えられる。 |
2月2日
雨風が止まず、日長一日、夜通し「早く治まりますように」と神様や仏様に祈り続けました。
2月3日
昨日と同じように海は荒れていますので船は出ません。風が吹き続けるために岸の浪は沸き立つようです。
これを見てお詠みになったお歌は次のようです。
緒をよりて かひなきものは 落ちつもる なみだのたまを ぬかぬなりけり
かくして今日も暮れていきます。
2月4日
船頭は「強も風や雲ゆきが大変に悪い」といって船を出しません。貫之様は「この船頭は天気も読めぬ片輪であったわい」と吐き出すように仰ったのでした。
この浜にはたくさんの美しい貝や石を見つけることができます。貫之様の女房殿がつい最近に死なせた子を思いやって詠まれました。
寄するなみ うちも寄せなむ 我がこふる ひとわすれがひ おりてひろはぬ
このお歌に応えて またある人はつぎのように詠まれました。
わすれ貝 ひろひしもせず しらたまを 恋ふをだにも 形見とおもはぬ
亡くした子を思うとき親は子供のようになるものです。「ご自分の子供を珠ほどに美しかったというのはどうも」と人は言うでしょう。しかし、「死んだ子は珠のように美人だった」という諺もあります。
今日も同じところに居て日が経つばかりを嘆いてある女が詠んだ歌は次のようでした。
手をひてて さむさも知らぬ 和泉にぞ くむとはなしに ひごろへにける
貫之は三日も船が動かないことにイライラを募らせて船頭に腹を立てたが、所在無いままに歌でも考えるしか時間つぶしは思いつかない。他の者たちは磯に下りて珍しい貝や石を見つけたり拾い集めたりしている。船頭や水子たちはどこえ消えたやら三日間姿を見せない。案外近くの漁村などに出かけて久しぶりの歓楽を楽しんでいるのであろう。和泉の国府近くにの神社に行ってみたと思う貫之だが、馬がなければ身動きが取れない自分たちに比べて船乗りたちの身軽さがなんとも羨ましいいと思う。
船頭は狭い船内で憂さ晴らしのはけ口がない水子たちの不満が爆発する前に気前よく銭を与えて遊びにやらせたことを貫之は知らない。
| 西暦804年、桓武天皇は難波宮(今の難波宮跡)から舟に乗って和泉国に行幸し、日根野で狩猟をしたあと日根の行宮に入った、そして、「山野も麗しく海岸も清くて心も落ち着く」とのお言葉を賜った、と日本後紀巻第十二巻に記録がある。このころは未開の原野が多かったが、それから130年、荘園などが増えて広く開かれた地域に変わっていただろう。当時の和泉国には大鳥郡と日根郡に駅が置かれていたし、網引御厨に出入りする者も増えて結構、集落はあちこちに点在していたとみてよい。 貫之は924年ころ「貫之が和泉国に侍けるときに」として次の歌を詠んだことが貫之集第九巻に載っている。 おきつなみ 高師の浜の 浜松の 名にこそきみを まちわたりつれ 大和守であった藤原忠房が和泉国に居た貫之を訪ねてきたときの忠房の歌に対する返歌である。ほとんどの土佐日記研究書ではこのことを取り上げていない。「侍けるときに」とあることだけでは「貫之が当時の和泉守であったとはいえない」というのが通説のようであるが、泉佐野市史では「和泉守」であったと書いている。藤原忠房は当時大和守であったことは分かっている。貫之が和泉国の国守であったからこそ大和の国からわざわざ藤原忠房が貫之に会いに来たとするのが自然であり、私もこのとき(924年ころ)貫之は和泉守であったと思う。 このようにこの地は貫之にとってなじみの深い、懐かしい土地であったはずである。 |
第八章 難波津へ
2月5日
今日ようやくにして和泉の灘を出て大津の泊まりへ向けて船は進み始めました。
松原が遠くまで続いています。この松原のように旅の行く手の長いことを思うとうんざりする気持ちを貫之様は次のように詠まれました。
ゆけどなほ ゆきやらぬれば いもがうむ をづのうらなる きしのまつばら
聞いている皆はその気持ちが良く分かりお互いにうなづき合うのでした。
貫之様は、とうとう「船を漕ぎ進めよ、このような船日和だというのに」と船頭に催促されました。それを聞いた船頭は「親方様が仰せになったぞ、朝北の風が吹き出す前に、速く綱を引け」と水手たちに指図をしたのでした。
歌を詠うように船頭の口から自然に出た言葉ですが、まさか私たちの歌を詠もうとしたとも思えません。しかし、「いや待てよ、歌のように言いよった」ということで書き出してみれば、なんと、ちょうど三十一文字であった。
「浪が立ちませんように」とみんなが一日中お祈りをした甲斐があって、今日は風も浪も立ちません。
海上にかもめが群れて飛んでいる様を見て、旅が都に近づく喜びも込めて一人の童子が次のように詠みました。
いのりくる かざまともふを あやなくも かもめさへだに なみとみゆらむ
3日も足止めを食った貫之一行はようやくのことで早朝に大津を目指して船出した。海岸沿いに松原が果てしなく続く。この船旅も果てしなく続くように感じられる。貫之は船の進みが感じられないことにやりきれなさを覚えてか、「早く漕いで船を進めよ」と船頭に催促をした。ところが、船頭は水手たちに「おやかた様が仰せじゃ、北風が噴出す前に船を曳き進めよ」と命じたのであった。
「この船頭め、漕げと言ったのに曳き船をせよと下知しおった」と大いに憤慨する貫之であったが海の上ではしょせんかなわぬ相手と知らぬ振りをするしかなかった。
| 昭和27年ころの堺大浜海水浴場は遠浅の海岸であった。しかし、少し南のほうの助松あたりになると、駅を降りてすぐのコンクリートの堤防のそとは松林があって狭い幅の砂浜があり、波打ち際から10メートルほどでズンと深くなっていたことを記憶している。泉南の海岸は北上する沿岸流によって海砂は堆積することなく、むしろ削り取られながら北へと移動する。深日から泉大津市あたりまでの海岸は昔もそのような海岸であっただろう。曳き船には都合がよい。船団は漕いだり曳いたりして北へ船を進めた。今日は、帆を使うことはなかっただろう。約18マイル、10時間の行程である。 |
| 貫之の乗っている船は刳り船の準構造船である。遣唐使船も似たり寄ったりの船であっただろうが、16世紀までは中国やポルトガルの船を真似ていろいろの船型の変化が起こる。日本国の正式な交易船であるという朱印状を持って東南アジア各国と交易した朱印船は和船に中国のジャンク船とポルトガルなどヨーロッパのガレオン船の特徴を取り入れた和洋折衷船である。しかし、1635年の鎖国令によってわが国の造船技術は世界の潮流から取り残されることになる。 右の画像は朱印船で1938年に発行された普通郵便切手である。 |
歌を詠んだりして時を過ごしているうちに船は石津の沖に差し掛かりました。松原が大変に美しく、浜辺ははるか先まで続いています。
さらに船は住吉あたりを漕ぎ進みます。貫之様は次のようなお歌を詠まれました。
いまみてぞ みをばしりぬる すみのえの まつよりさきに われはへにけり
貫之様の女房殿は死んだ娘のことが一日も忘れることがないお気持ちを込めて次のように詠われました。
すみのえに ふねさしよせよ わすれぐさ しるしありやと つみてゆくべく
娘のことを忘れようと思ってワスレナ草を摘むのではなく、娘をいとおしむ思いを少しの間だけでも忘れて心を休ませることで、その思いがさらに強まるという効き目がワスレナ草にあれば、という思いで詠まれたのでした。
| 貫之のいた平安時代中期の時代には、津といい、湊といっても桟橋や岸壁があるわけではない。河口や地形のくぼみで風と波の影響を受けないところを利用した船だまりであろう。 行き先には石津があり、住吉の津がある。 この時分、大和川は大阪湾には流れ込んでいない。大和川が大阪湾に流れるように川筋の付け替え工事が行われたのは江戸時代18世紀始めである。 貫之の目には石津から先、視界をさえぎるものは何もなく白砂青松の海岸がまだずっと北へ延々と続いていた。 船の守り神であり、和歌や武勇の神として平安貴族の信仰が厚かった住吉大社の歴史は古い。遣唐使を乗せた船はここへ立ち寄り航行安全を祈願したというから、住吉の津はある程度整備された湊の体をなしていただろう。また、宮人たちも参詣したり好んで訪れる風光明媚な人気スポットであった。 万葉集では住吉を詠んだ歌がたくさん採録されている。そのなかから二つ、 ゆうさらば しおみちきなむ すみのえの あさかのうらに たまもかりてな 【121】 すみのえの おきつしらなみ かぜふけば きよするはまを みればきよしも 【1158】 |
| 船はいよいよ難波に近づいてきた。 ここでおおよその「難波津」を俯瞰しておく。 現在の大阪の主な川は北へ向かって流れている。 恩智川、長瀬川、玉串川、楠根川などである。これらの諸川は北流をして大阪北部で寝屋川に合流し西へ流れを変えて天満で大川(旧淀川)に再度合流して中ノ島を経て大阪湾にそそぐ。古代大阪湾の名残である。 大昔、今の大阪平野全域はくじら(東大阪市でマッコー鯨の骨が出土)の泳ぐ海、河内湾で、その海水は潮の満ち干のたびに上町台地北部の岬で大阪湾に奔流となって出入りを繰り返していた。その様子が日本書紀に記録されている。 「難波のみさきに到るとき、早き浪ありてはなはだ速きに会ひぬ。因って、名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。また、浪花(なみはな)という。いま、難波(なには)というは訛れるなり。」日本書紀巻第三 神武天皇の東征、5世紀中ごろ) 河内湾はやがて、北部は淀川から流れ出す土砂と南部は大和川から流れ出す土砂のために大阪湾への出入り口が閉ざされて河内湖となった。河内湖には広範囲な干潟ができて葦が生い茂り、水路が迷路のように入り組んで集落も随所に出現した。 そして、日本書紀巻第十一の仁徳天皇の11年紀には次のように記録されている。 「難波の北の野を掘りて、南(大和川)の水を引きて西の海(大阪湾)に入れる。因りてその水(川)を名づけて堀江という。また、将に、北の川(淀川)のごみを防ぐために茨田堤を築く」たびかさなる洪水による住民の被害を守るための大工事であった。 この堀江を東に入ったあたり、現在の大阪市中央区の天満辺りに難波の津があったと、推定されている。わたしの事務所から北へ歩いて10分ほどのところである。 難波津は、大宰府の守りのために防人(さきもり)を乗せた船や遣唐使の出発拠点として奈良時代から平安時代にかけて約300年んわたってわが国最大の湊であった。 その情景は万葉集からうかがい知ることができる。 ありがよふ なにわのみやは うみちかみ あまおとめらが のれるふねみゆ 【1063】 なにわつを こぎいでてみれば かみさぶる いこまたかねに くもぞたなびく 【4380】 ふねきそふ ほりえのかわの みずきわに きいつつなくは みやこどりかも 【4462】 |
歌を詠んだり、浜辺の美しい松原を見ながら船は進みます。
そのうち、突然強風が吹き出して漕げども漕げども後方へ流され始めて船が沈むのではないかと思うほどの有様になりました。船頭は「この住吉の明神は例の神様です。欲しいものがおありなのです。」と言います。現金な神様もあったものです。
船頭は、「幣を奉るがよいでしょう」と言うので、幣でお払いをしますが一向に風は止む気配がなく、ますます風は募り、浪が立ち騒ぎいよいよ危なくなってきます。船頭はまた言いました。「幣では満足なさらないようです。だから船が進まないのです。明神様がもっとお喜びになるようなものを奉ってください」
船頭の言いなりになるのも悔しい思いがしますが、そうかといって従うほかはなく「目でさえ二個あるのに、たった一つしかない鏡を奉る」と貫之様は覚悟されて海中に鏡を投げ入れられました。そうするとどうでしょう、たちまちのうちに海面は鏡のようにうち静まったのでした。
このとき貫之様が詠まれたお歌は次のようでした。
ちはやふる かみのこころの あるるうみに かがみをいれて かつみつるかな
ここの神様は住之江とかワスレナ草とか岸の姫松といった美しさを想像させるような恐れ多いような神様ではないことが分かりました。鏡の映るようにまざまざと神の本心を見せ付けられたものです。船頭のかみの欲深い心は神の心そのものだったのです。
貫之はその海面ににやっと笑う神の顔を見たような気がして「明神も欲深さにかけては船頭と変わりないことか」と、一瞬でも神頼みをした自分が馬鹿らしくなった。
| 5日の泊地がどこであったかについてははっきり分かっていない。 ヒントは6日の書き出しにある。「澪標(みおつくし)のもと」に泊まったことが分かるが、それがどこななのか。当時の延喜式によれば「澪標のもと」は難波津と特定できる。ではその次の「澪標のもとをいでて、難波につきて、川尻にいる」の難波はいったいどこのことになるのか。川尻はどこか。 |
| 927年に成立した延喜式・巻五十、雑式に「凡そ難波津頭の海中に澪標を立てよ。 若し古き標朽ち折る有らば、捜し求めて抜き去れ」とある。延喜式は法律のことでどちらかといえば今の施行令に当たるだろうか。 澪標は潟にできた水路を示す航路標識である。 大阪市の市章になっている。 |
| 土佐日記の研究書はたくさんあるが、この部分の解釈についてはほとんどの研究書が原文の字句の直訳で済ませている。 土佐日記が航海記であるという視点で捉えているわたしとしては、文学研究者のようにここの部分を素通りするわけには行かない。古記録や難波の地理研究者の研究内容も踏まえてわたしなりの見解を示したいと思っている。 地形を知ることによってはじめて貫之のとった航路を推定することができる。 当時の「難波」の地形を想像する有力な資料はたくさんある。推定するに足りない欠落部分は「推理能力と感性」で補うつもりである。そうであってこそ人まねでない他人の引き写しでない独自の作品が出来上がるというものである。 たとえば、次のような記録を見て貫之の航路を推定しようとするのである。 仁徳天皇の14年紀に「猪飼津に小橋を渡した」とある。今の近鉄百貨店上本町店の少し東の小橋町の辺りである。嵯峨天皇の時代812年には攝津の国に長柄橋をつくらせたと日本後紀に記録されている。河内湾の変貌振りが分かる。 また、[大阪市の歴史 大阪市史編纂所編]は次のように書いている。 「785年には[三国川が開削されて、川尻(現尼崎)から三国川(現神崎川)を通って淀川へ直結する航路が主流となったために、瀬戸内から来る場合でも、難波への出入り口は北の方からとなり、堀江川(大川)沿いに位置する渡辺(津)が重要となった。すなわち、大阪湾の川口方面から神崎川をさかのぼって現摂津市別府あたりから、新たに掘られた水路を通って淀川に入り、長岡京方面に向かう交通路が新たに設けられ、難波を経由する必要がなくなったことを意味している。難波の相対的な地位の低下となった。」「川尻」については現尼崎であると説明している。 「川尻」について現尼崎説をとると、神崎川をさかのぼって江口で淀川に入ったことになる。そうではなく、「かわじり」が普通一般に意味する河口のことであれば、難波津から大川すなわち旧淀川をさかのぼることになる。 |
第九章 難波津から淀川へ
昨日は遅くに着いたので津の役人は船を留めるところを指示しただけで帰っていったが、今日は朝早くから国府の役人が積荷や乗船者の名簿などの検査をするためにやってきた。貫之はそのような雑事は事務方に任せて、数人の供を引き連れて船を下り、近くの小高い丘にもぼった。生駒の山の端からのぼり始めた太陽の輝きが広い水面に照りかえる。難波湖である。150年前に栄華を誇った難波の宮は今はなく、葦の原が静かに広がる。
昼過ぎころから強くなった引き潮に導かれるように貫之たちの船は難波津の岸を離れ、昨日通った澪標(みおつくし)を目指して西へ進路をとった。細い水路をぬけると視界が大きく開け多くの島島を抱えた難波の海に出た。遠くには淡路島もはっきりと見える。2年前にこの地で八十島祭りが行われたことを国府に役人から聞いて、気の利いた歌でも披露するかと思えたが、貫之は格別に関心を寄せたようでもなかった。
乗り合わせた者たちにも、「ここまで来ればもう安心」という思いが共通かして船の中に笑顔が満ちる。貫之は長かった海の旅もこれで終わると思うと、このところ優れなかった体調も少しは和らぐのだった。
| 貫之の船団は、現在の尼崎の神崎川から江口を経て淀川に入り京へ向かう航路を取った、と私は推定する。土佐日記の研究書はたくさんあるが、このように難波津から京への航路を具体的に示したものはない。大概の書は難波津から直ちに北へ向かったことを想定しているが、私は難波津からいったん西に向い神崎川をさかのぼったとする。 手元に二つの古地図がある。一つは、インターネットから「難波津」で検索して探し出しプリントした「難波津之図」である。多分、筑波大学のホームページだと思う。応永24年(西暦1418年)に作図されたものを寛政11年(西暦1800年)に写したとある。もう一つは、東大寺が朝廷から賜った荘園の所在を示す「摂津国川辺郡猪名所地図」である。(摂津職の三位文室真人智努の検認がある)尼崎市教育委員会所蔵の地図であるが、東大寺が土地の所有権争いの証拠書類として天平勝宝8年(西暦756年)に作成した地図の十二世紀ごろの写しである。国立国会図書館関西館で「日本荘園絵図聚影四、近畿三 東京大学出版会」からコピーさせてもらった。 「難波津之図」は距離感や方位感がつたないところは仕方がないとして、四天王寺が描かれていて、大阪城がないことから作成年代相応の信頼性はあるように思う。そこに描かれた地形を参考にしながら貫之の時代から約500年後の地図であることを考慮に入れて、私は大阪北部を次のように想定する。 大阪北部は淀川が運ぶ土砂で形成される広大な南向きの扇状地の湿地帯が、大阪南部は大和川が運ぶ土砂で形成される広大な北向きの扇状地の湿地帯が大阪の原型である。南北の湿地帯には葦が生い茂り、縦横に水路ができて、その水路は大雨のたびに流れが変わるなどしただろう。当時、京都淀へ直結する航路となる川はなかっと思う。大阪城を作った豊臣秀吉が大阪と京の都を最短距離でぬ巣部ために淀川の改築工事を始めるのは貫之の生きた時代よりも役650年後のことである。 次に、「摂津国川辺郡猪名所地図」は、実務上作成された地図としてその信頼性は高い。この地図の由来や解説については、尼崎市発行の「図説尼崎の歴史」に詳しく掲載されている。この地図のなかで、今の神埼川を指して「今淀川是也」と追記のあるのが目を引く。往時の人々は神崎川を淀川と称していたことになる。 「川尻」については、「大阪市史」によると「魚住(今の明石)より大輪田(今の神戸)は一日行(一日の行程という意味)、大輪田より川尻(今の尼崎)は一日行」とある。また、「図説尼崎の歴史」では、川尻一帯は古くは難波の八十島といわれた河口の三角州であり、神崎川などの中小の河川の作用によって土地が造成され、地形が絶えず変化する場所でした。‥‥、河口をややさかのぼった神埼が船泊まりの地として繁栄するに到りました。」と書いている。 |
2月7日
今日はいよいよ川尻の泊まりを出てお船は川をさかのぼります。船頭たちは一生懸命に漕ぐのですが、川のみずが少なくて思うように進みません。病人顔のおやかた様は、もともと船頭たちの苦労などにかかわるようなお方ではなく、船が進まないことに「どうしようもないわ」とあきらめ顔でございました。
おやかた様はすることもないままに、昨日の淡路生まれのお方の歌を今日もお褒めになって、ご自分も都が近づいて元気なところも見せなければと、なにやらおかしなお歌をひねり出されたのでございます。そのお歌は、
来と来ては 川上り路の 水を浅み 船もわが身も なづむ今日かな
これは病人なればこその嘆きをこめたお歌のようです。一首では気が収まらないのでしょうか、もう一首
とくと思ふ 船なやますは わがために 水の心の 浅きなりけり
このお歌は、都に近づいた喜びに思わず口から洩れたという感じで詠われたのでしょうが、それにしては淡路の老女の歌には劣るようにお思いになったかして、「いまいましいことよ、詠わなければよかった」と悔しがられているうちに夜になり、寝てしまわれました。
川尻の泊りを出て船は川に入り、漕ぎ上るにつれて川は浅くなるようで、船足が落ちていよいよ進みづらくなる。貫之の乗っている船は準構造船で、たくさんの荷を積んで喫水が下がっているために絶えず船底をこすりながらの航行となった。沿岸には荘園が広がり、百章の耕作する姿があちらこちらに見える。両岸一帯は古くから東大寺や貴族などの荘園がある肥沃な土地である。荘園を管理する倉を兼ねた屯倉所(みやけどころ)もいくつか目にしたことだろう。この流域は頻繁に船の行き交うところである。
岸から曳けるところは船頭たちは船を降りて曳き、曳くに都合の悪い箇所では船に上がって漕ぐといったように休みなく働き続ける。それを見ても貫之は彼らがそうすることが当たりまえのように思ってか、ねぎらいの声をかけることもなく船内は怠惰に時間が過ぎていく。
| この日の停泊地は分かっていない。一日平均10キロとして山陽新幹線・新大阪駅の少し北部の神崎川岸あたりになるだろうか。 21年1月21日の朝日新聞は、「60年ぶり人力曳船」として京都府亀岡市の保津川で曳船を再現した記事と写真を掲載している。「船頭3人がへさきにつないだ約50メートルの麻綱で引っ張り、川岸に残る綱道を歩いた。」とある。 川尻から最終地の山崎まで川をさかのぼるについて、曳き船の適した川筋では同じように麻綱で綱道を引っ張り歩いただろう。曳き船のできない個所では漕ぐか川底を竿で突いて進めただろう。わずか40キロ程度の距離を4日もかかっている。 ちなみに、「江戸時代図誌18 淀川往来」に次のような記載がある。「江戸時代の三十石舟が大阪天満八軒家と京伏見観月橋間を上りは一日、下りは半日で往来し、上りは帆を張り、途中九ヶ所は船頭が岸に上がって綱を引いてさかのぼった。」 |
2月8日
船はなお、川のぼりがはかどらず、鳥飼の御牧のほとりに船を舫いました。
今宵は、おやかた様はいつもの持病がでて大変に苦しそうでございます。
近在の者が新鮮な野菜や魚を持ってきてくれました、お米をお礼に渡します。男どもは「えびで鯛を釣ろう」という魂胆が丸見えだ、と言いあっています。お米は普通にはなかなか手に入らないものでございます。このようなことは今までにもところどころであったことです。
今日、八日は斎の日で、精進潔斎の日ですから魚はもともといらないものです。
2月9日
焦る心を抑えきれずに、今日は夜が明けないうちから船を曳きつつ川を遡りますが、川の水が少ないためにいざるようにしか進みません。そのうち輪田の分かれというところに来ました。米か魚を欲しがる小船が近寄ってくるところです。それぞれに少しづつ恵んでやります。
このようなことがありながらも船は渚の院を見つつ通り過ぎます。
この院は大変有名なところです。後方の丘に生える松の木、中庭にはおそらく梅が咲いていることでしょう。ここは昔、惟喬親王のお供をして在原の業平中将殿が「世の中に 絶えて桜の 咲かざらば 春の心は のどけからまし」というお歌を詠ったところとして有名です。そこで、貫之様は今のこの場所にふさわしい歌をと、次のように詠まれました。
千代へたる 松にはあれど いにしへの 声の寒さは かはらざりけり
また別のお人が読まれました。
君恋ひて 世をふる宿の 梅の花 むかしの香にぞ なほ匂ひける
このようにお歌もでるほどに都が少しづつ近くなるのをみなが喜んでいます。 いま、京へ上る人々の中に、土佐に下るときには子供がいなかったのに土佐で子どもが生まれた人たちがいます。その人たちは船が停まるところでは子どもを抱いて乗り降りをします。これを見ておやかた様の女房どのは土佐に下るときに居た子どもを亡くしたことの悲しさに耐え切れず、
なかりしも ありつつ帰る 人の子を ありしもなくて 来るが悲しさ
とお詠みになってお泣きになるのでした。おやかた様もお辛らいことでございましょう。
悲しいからといって歌を詠むのではなく、歌で悲しみを言い表そうと思って歌をひねり出すのでもありません。唐の国でもわが国でも歌というものは、思いに耐えないときに自ずと歌となって内からほとばしり出るもの、といいます。今宵は鵜殿というところに泊まります。
京に近づくほどに船の往来は多くなる。取れたての野菜や魚だといって売りつける船もあれば、中には物乞いの船も混じる。いちいち応対しなければ通してもらえないほどのしつこさに、貫之は顔も見たくないと御簾を下げたまま屋形に引っ込んでしまった。船の者はそのたびに物々交換をしたり、何がしかのものを恵んでやる。
江口を過ぎて淀川の本流に入ると景色は一変する。流れはゆるやかとなり牛や馬を飼う牧場が続く。貴族たちが競って建てた別荘も見えて貫之はそこに住む貴人の姿を想像したりしながら、しょせん貧乏貴族の自分には縁がないことと思う。ただ、惟喬親王の別荘だった渚の院の前では親王と在原業平の故事をしのび感慨ひとしおの貫之であった。
2月10日
今日は物忌みの日、船は動かず。
2月11日
朝、雨が少し降っていましたが、やがてそれも上がり、船は淀へと上っていきます。
東の方に身を横たわるような山が見えます。船頭に尋ねると石清水八幡宮だと言います。それを聞いて乗っている者たちは一同に手を合わせてお祈りをいたします。
山崎の橋が見えてきました。限りなくうれしいことです。手前に相応寺があり、そのたもとに船を留めて入京の手配などについて皆と打ち合わせをします。
このお寺のほとりには川に沿って柳の木がたくさん植えられています。おやかた様は柳の木影が川の底に映って見えるのをご覧になって、お歌心が湧いたかして、次のように詠われました。
さざれ波 寄するあやをば 青柳の 影の糸して 織るかとぞ見る
山崎の橋を見て貫之は、ようやく帰ってきたと万感胸に迫る思いがした。土佐の館を出てちょうど五十日、焦ってみても仕方がないとゆらゆら波枕ののんびりとした船旅であったがそれも終わる。五年の歳月は長かった。今もうすぐに都の土を踏むことができる。ひとしきり皆と一緒に帰ってきた感激を喜び合ったが、貫之はのんびり気分を自ら絶つかのように、これからの手はずを決めるために船をいったん相応寺のほとりに着けるように命じた。
大量の積荷をあらかじめ決めておいたようにそれぞれが、いつ、何を、どのように運送する、役所への届けはどうする、自邸の受け入れ準備はどうするなど、打ち合わせしなければならないことが山ほどあった。
貫之は打ち合わせのころあいを見て、自分だけ抜け出して岸に上がった。相応寺の岸辺に立ち並ぶ柳がそよかぜにゆらぐのを見ながら、どっかりとした大地に立つ感触になんともいえない安心感にひたる。ゆれるに水面に映える柳の葉かげが美しい。
| 山崎の橋は都から難波に到る道をつなぐ橋として726年に架けられた。その後、川の氾濫でいくどとなく流失し、そのたびに朝廷は摂津、伊賀、安芸、阿波などの国に材木の供出を命じている。山崎橋がいつまであったかは明らかでないという。貫之が「山崎の橋みゆ」と書いていることは、そのとき実際に存在したことを立証する貴重な記録である。また、貫之がたたずんだ相応寺にしても何の記録も残っていない。山崎の駅家の跡にある基礎石が相応寺のものらしいというだけで何も分からない。このように土佐日記に出てくるいくつもの固有名詞は、今はなくとも当時存在した貴重な記録なのである。 木津川、宇治川、桂川の三川が合流して山崎と男山の間を抜けて淀川となる。現在は干拓が進んで面影すらないが、明治時代にはまだ広範囲にわたって湿地帯であり、貫之の時代には宇治川と木津川と桂川が流れ込む大きな巨椋湖(おぐらこ)があった。巨椋湖の東部には宇治の津があり、宇治橋をわたると奈良街道へ通じていた。巨椋湖の西部は山崎の津を経て西国街道へ通じていたし、山崎橋を渡れば難波へ通じている、というように、山崎は交通の要所であった。 貫之は淀川をさかのぼって、いま、その山崎の津についた。 国司が任務を終えて都入りともなればいろいろな手続きがあったと思う。また、船に積まれたんもつは、しかるべき貴族への献上品であったり、貫之地震の当分の生活の糧であったり、和歌に関する文書など狭い船の中はごった返していただろう。 |
2月12日
山崎に泊まっています。
2月13日
依然として山崎です。
2月14日
雨が降っています。役所から牛車を取りに来るようにと指示がありました。そこで数人を選んで都へ摂りに生かせました。
貫之は今日、朝廷から具体的な指図をうけた。
入京に備えて一族郎党を引き連れて石清水八幡宮にお参りをした。穢れ落しと無事に帰京がかなったことのお礼と今後の加護を願ってのことであった。
2月15日
今日車が来ました。
船の生活は不便だろうと、知る人がその家に呼んでくれました。久しぶに会えたことがうれしいかしてたいそうに喜んでくれて、ご馳走までいただくことになりました。その親切心に何か下心でもあるのではと思ってしまいます。とりあえずお礼の気持ちを示さなければと持ち帰った土佐の土産の中からいろいろお返しをします。その家の人たちの立ち居振る舞いは礼儀正しくて好感が持てます。その家の好意を素直に喜んでよいようです。
2月16日
今日の夕暮れに、いよいよ都へのぼる道すがら見れば、山崎の古比津の江も大路の曲がりのほうもたたずまいは何も変わっていません。「何も変わっていないなあ」という声がある一方、「けれども、店の商人の心も変わっていないかどうかは分からない」というおしゃべりも聞こえます。
島坂では国史の国帰りということを聞きつけてか、あるお屋敷からちょっとした接待に預ることになりました。普通には考えられないことです。土佐へ旅たつときのよそよそしさと帰ってきたときのなれなれしさに出会うと、人とはこういうものだと思うと負担を感じるものです。そのお人にもお返しをします。
朝廷から入京の許しとその日取りを告げてきた。夕方、貫之は牛車に乗り、供の者たちは歩いて都へ向けて出発した。島坂で休んでいくようにとおせっかいな屋敷から声がかかる。下心が見えるようで気がすすまないながら、断るのも何かと思い、誘いに応じて一休みすることになった。ご馳走をされるいわれは何もないのにかえって何かを期待してのことと思うと、興ざめするが断れない貫之であった。しかし、それにしても、山崎から都の自邸まで直線距離にして約二十キロ、牛車はそんなにスピードが出るはずもなく、7時間か8時間はかかるとすると、ゆっくり招待に応じているわけにもいかないはずである。
| 16日の日記で専門家の間では「山崎のこひつのゑも、まがりおほじのかたも」の部分が大変に難解とされている。 いろいろあるなかで「山崎の町家の小櫃の絵看板も曲がりの大鉤の形をした提げ看板」の荻谷朴氏の解釈が妥当とされて、この説を丸呑みする研究書が多い。何もそんなにひねって考える必要性はさらさらないわけで、素直に読み取ればよいと思う。 山崎の古比津の江の界隈や西南からまっすぐに延びている山崎の道(西国街道の出発点)が大きく北のほうに曲がって「鳥羽作り道」へと向かう。大通りが大きく曲がっているのは土佐へ行くときとすこしも変わっていない。「変わっていない」話題が出る場合には「売人の気持ちはころころ変わる」と言い返す習わしがあったと思う。「売人」とあるからといって、「看板」を持ち出すまでもないと思う。 |
都へは夜になってから入ろうと思っていますから、それほど急ぐこともないままにゆっくり車を進めているうちに月が出ました。月ひかりのなか一行はお互いに話し合いながら桂川の浅瀬をわたります。「この川は雨季ごとに流れが変わる飛鳥川と違って蜜も流れは変わらない」とおやかた様が仰せになって次のように詠まれました。
ひさかたの 月に生いたる かつらがわ 底なる影も 変わらざりけり
また、次のようにも詠まれました。
あまぐもの 遥かなりつる 桂川 袖をひてても 渡りぬるかな
さらに次のようにも詠まれました。
桂川 我がこころにも かよはねど 同じ深さに 流るべらなる
いよいよ都に入るうれしさのあまりお歌も思わずたくさんうかぶようです。
月の光に照らされて桂川を今渡る。貫之は思う。あしかけ六年前、この桂川を渡ったときと何も変わってはいない。あの時もこのように月の光が行く道を明るく照らしてくれた。それ以来、都から遠く離れた土佐でこの桂川をわたる日をずっと思い続けてきた。そのことを思うと今夜は袖がぬれようとも渡るのだ。
このような思いを桂川は知る由もないだろうが、世間は昔と同じように私を迎えてくれるだろうか。
夜が更けて町並みはそれほどはっきりと見えません。それでも都に今、居る。そのことがうれしい。
家に着いて門を入ります。月の光が明るく家の様子がよく見えます。あらかじめ聞いていた以上にひどい荒れようで言葉も出ません。家を預けた人の気持ちもこのように荒れてしまったのだろう。隣り人が中垣一つ隔てた一つ家のようだから預らせてくださいということだったのに。そのために都への便があるときは何かと心づけをしたのに。今夜は帰った早々ということもあって「このようなひどい有様を」などと声高に言わないようにと仰せでした。たいそう気落ちされているようですが、お礼はなさるようです。
庭には池のように窪まって水がたまっているところもあります。以前にあった松はこの五、六年のうちに千年も経ってしまったように半分ほどがなくなっています。その代わりといいましょうか、今、生えたような貧弱な松が混じっています。建物といい、庭といい、庭木といいすべてが荒れに荒れているのを見て、みんなが「なんということ」と言い合います。
片時も忘れることのない、ずっと思い描いてきた我が家への帰参がこのような有様に加えて、この家で生まれた我が子を連れて帰ることができないことに、どれほどのお悲しみでしょう。一緒についてきた大人たちや子どもたちも混じってののしりあっています。そのうちにやはり悲しさに耐え切れずにおやかた様の奥様がお歌を詠まれました。
生まれしも 帰らぬものを わが宿に 小松のあるを 見るが悲しき
さらに悲しみが増したのでしょう。続けて次のように詠まれました。
見しひとの 松のちとせに 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや
忘れがたいことや無念なことが、このように書くことによって消すことができるものならば書き続けたいと思うが、思うように書くことができない。いっそこの日記を破り捨てたいと思うほどに悲しい。
貫之は自邸ににたどり着いたことで、常に帰りたい、帰りたいという思いがかなったことに大きな安堵感を覚えた。しかしすぐに、惨憺たる自邸の荒れようを目の当たりにして前途の不安が一気に現実のものになったことを知った。使いに出した者からひどい有様とは聞いていたがこれほどにひどさとは思わなかった。こころよく送り出してくれた醍醐天皇や宇多法王、それに藤原兼輔も鬼籍の人となった。支えを失うとこうも扱いが変わるものか。この六年はいったい何だったのだろう。茫然自失の貫之であった。
| いよいよ旅も終わりに近づいて、貫之は、「何も変わっていないように、依然と同じであるように」という思いが強まる。人の好意も疑ってしまう、それほどに神経質になっている。これからの生活に大きな不安を予感するようになったのは、山崎の津に着いてからの扱われ方がどうも以前と違うように感じたことからであった。それが自邸の荒れようを見て思いが的中したことを知って愕然としたことだろう。935年に帰京して役どころを与えられないままに5年が過ぎ、その間、積極的に役どころにありつこうと行動を起こしてようやく940年には閑職ながら玄蕃頭となり、943年には従五位上に序せられ、945年に死んだとされている。 この航海記の最初の書き出しで、正岡子規が「紀貫之は下手な歌詠みである」と酷評していることを紹介したが、土佐日記について次のように評している文学者折口信夫もいることを紹介しておこう。 「(土佐日記の)内容は、男の生活が書かれていて、処々面白い点もあるが、全体的に殺風景で、文学的なものではない。舟唄などをとり入れて、おどけている処がよいだけで、全く下らぬものだが、比較的よい影響を後世に与えている。平安朝のものでは、短いものは伊勢、長いものは源氏物語を研究すればよいので、他の傍系のものに身を打ち込んで研究すべきではない」(紀貫之 大岡信 筑摩書房 日本詩人選7第五刷 P212) 専門家とは自分が選んだ課題についてよく研究をしている人をいい、研究を進めるほどに視野が狭くなる専門家が多い。正岡子規といい、折口信夫といい、その類であるように思う。自分の主義・主張を強調したい場合に他を貶めてまでして例に引きだすことは卑怯で読者の判断を狂わすことにつながる。 貫之の時代、「男、ありけり‥‥」で始まる伊勢物語、「今は昔、」で始まる今昔物語、東南アジアから移入された神仙思想の「竹取物語」くらいしかなかったときの「土佐日記」をどう評価するのがよいかを考えてこの「土佐日記の航海記」を終えたいと思う。 貫之は土佐日記を書く約30年前に古今和歌集の選者となり、その仮名序はひらかな文で貫之が書いている。奈良時代から平安時代初期にかけて日本は中国文化の模倣時代であったが、200年から300年をかけて模倣時代から抜け出してそれまでの大和文化のうえに新しい日本文化を築き上げた。その最大の要素が私は「ひらかな」の発明であると思っている。 |
続く
この続きは来年になる。それまでは23年の年賀状作りに入る。
その後はこの続きを書き、全体の不都合な個所を探し出して補正していくつもりである。
この4年間で私が買い求めて参考にした本の一部を次に紹介しておく。
@土左日記 岩波文庫 鈴木知太郎校注 第27刷 2000年(初版1979年) A土佐日記 角川ソフィア文庫 三谷栄一訳注48版 2004年(初版1960年) B土佐日記 講談社学術文庫 品川和子 第16刷 2000年(初版1983年) C土佐日記 学研文庫 大伴茫人 初版2002年 D土左日記 岩波書店 鈴木知太郎校注 第14刷 1970年(初版1957年) E新訂土佐日記 朝日新聞社 荻谷朴校註 第5刷 1975年(初版1950年) F土佐日記 早稲田大学出版部 今井卓爾 1986年発行G土佐日記・貫之集 新潮社 木村正中 1988年発行 H土佐日記評解 有精堂出版 小西甚六 28版 1975年(初版1951年) I紀貫之・土佐日記 淡交社 竹西寛子 1974年発行 J土佐日記・蜻蛉日記 小学館 松村誠一校注・訳者 第6版1978年(初版1973年) K伊勢物語・土佐日記 新潮社 片桐洋一 3刷 1998年 L紀貫之 筑摩書房 大岡信 第5刷 1973年(初版1971年) M紀貫之 吉川弘文館 目崎徳衛 第3刷 1995年(初版1936年) N紀貫之 新典社 村瀬敏夫 初版1987年