長野峻也の日記(2006年05月)

2006/05/30 皆様のお陰です! お待たせしました。3刷目発売中!

『あなたの知らない武術のヒミツ』(アスペクト刊)、お陰様を持ちまして早くも3刷目となりました。今のところ、毎月増刷していることになり、ただもう感謝感激雨あられでございまするぅ・・・。

正直言って、予想を大幅に超えた売れ行きで、ビビッておりますぅ〜。

自画自賛でお恥ずかしい限りですけれど、自分でも「こ〜んな本は今まで誰も書いてねえんだから、結構、売れるんじゃないかな〜?」とは思っていたんですが、こんなに早いペースで売れるとは思いませんでしたね〜。ロングセラーみたいに長い期間を通じてコンスタントに売れていくだろうという予測はしていたんですけどね・・・。

もっとコテコテの武術文化論みたいな本だったら知識人層にも受けるんでしょうけど(でも、とてつもなく“つまんない”。あの手の本を読ませるってのは拷問に近いですね)、必然性の無いギャグがチョコチョコ入っていて(私なりに読者が疲れないように配慮したサービス精神でござります)ヘンな本過ぎるから、新聞や雑誌の書評でも全然採り上げてくれないし、インターネットでも意図的に悪口を書いてネガティブ・キャンペーンに励む連中がいる(でも、悪口言うために律義に買ってくれてるのはホントは私のファン?)というのに、この売れ行きは嬉しい誤算です。

まあ、悪口は書かれ慣れてるから別に屁でもないんですけど、やっぱり、本当のことを書くと恨まれてしまうのが世の中の常ですから、仕方がないのかも知れませんし、利益優先で容易に信義を捨ててしまうのも人間の性(サガ)ですから、怒るよりも世の無常を感じるだけです。(でも、武術やってる人間って、何て心が弱いんでしょうかね? 上っ面だけ君子ぶってて何とまあガキンチョの多いことよ・・・)。

さてさて、「売れ行き絶好調で〜す!」とは言っても、置いてもらっている書店様はガバチョッ!と置いてあって、そうでないところは影も形もない・・・という、やたらに極端な有り様なので、「置いてある書店を探しているけれども全然見かけない」という苦情も随分と戴いております。

まだ御購入戴いていないという方にも、3刷目でお手元に届けば有り難いのですが、特に地方にお住まいの方には「書店で見かけない」という苦情が多く、本当に心苦しい限りです。先日、法事で帰郷した時にも僻地指定の私の郷里の本屋さんには置いていなかった様子ですし、弟は私が自費出版で出した本だと勘違いしていた模様です。

私も文筆業10年以上やっているんだし、今更、自費出版で本は出しませんわな〜。

出版物は取り次ぎ店を通して全国の書店に流通するので、取り次ぎ店の力によって販路が決まってしまうんですね。

今はインターネットを通して購入するシステムを利用する人も増えているでしょうが、本好きにとっては、やはり、店頭を物色して「この本、面白そうだな〜」と思って手にとって少し読んでみて、買うか買わないか決める・・・というパターンが最も多い。

私も週に二回か三回は書店に立ち寄るのが習慣になっていますが、今回の本が出てからは、武道書の品揃えが多い書店には立ち寄って、さりげな〜く自分の本が置いてあるかどうか?とか、売れ行きはどうか?といった点をチェックしています(セコイ?)。

で、かなり身内に配ってしまって手持ちの本が無くなってしまったので、手っ取り早く書店で一冊買ってしまったんですが、自分の本を書店で買うのって、凄〜く、こっ恥ずかしいもんなんですよね〜(内容もヘンテコリンだしな〜。おまけにその書店では何故かサブカル・コーナーに平積みされていたし・・・)。

あっ、そういえば、いつも温泉育毛剤“髪之助”を買いに行っている町田の薬局さんで「この本で宣伝に書きました」と本を一冊贈呈したんですが、次に行った時に、店の人達がクスクスクスクス含み笑いをされていて、あ〜、「このままではハゲチョビンだ〜」とか、「『ザ・カゲスター』や『影の軍団』を見ていて、『ザ・ハゲスター』や『ハゲの軍団』に聞こえる・・・」なんて自虐ギャグを書いていたからな〜と思って、非常に恥ずかしい想いを致しました。でも、何となく親近感持ってもらえたみたいなんで、やっぱり、人間、笑って付き合うのが一番ですわな〜。

ついでに、ハゲ話の余談ですが、お金が無くて一カ月くらい育毛アミノ酸を飲まずに温泉育毛剤だけを試してみたんですが、やっぱり、良くないですな〜。抜け毛も増えてしまいます。印税入ってからソッコーで育毛アミノ酸を注文し飲むのを再開しましたら、抜け毛も止まり、頭皮も目立たなくなってきました。やっぱり決め手は栄養分ですな。

それと、町田の薬局さんの試供品で貰った備長炭スミ・シャンプーも使い始めましたが、これは良い感じです。頭皮の毛穴に詰まった角質や酸化した皮脂が取れるみたいで、これで洗った後に温泉育毛剤を塗るとスーッと染み込んで効果が違う感じですね〜。これまで使ってみた炭シャンプーも悪くは無かったんですが、2ランク上って感じがしますね。

これらの成果と同時に血液の流れを良くするために額の皮膚を動かすマッサージを始めてみましたが、これは額の生え際の真ん中だけ妙にハゲているんで、ここの血行が特別悪いのでは?と思ったからなんですが、何と、この部分にもポツッポツッと毛が生えてきましたよ。「おやっ?」と思ってM字の剃り込み部分をよくよく観察すると、産毛が濃くなっているんですね〜。

いや〜、游心流の健身法部門を独立して近々旗揚げする予定なんですが、健身法部門の師範代が気功を活用した育毛研究を実践中で、それがまた、以前は落ち武者ハゲ状態だったのに、明確に黒い髪の毛が生えてきているんですね〜。

私は自分が薄くなってから他人の頭皮も観察する癖がついてしまったんですが、確かに毎週会う度に濃くなっているんですよ〜。嘘みたいだけど、これは一年後くらいにはほとんど普通になっているんじゃないかな〜?というくらいの急ピッチで頭髪が蘇ってきているんですね〜。当然、どうやっているのか?と聞きますよね〜。

で、栄養とマッサージが肝心なんだというヒントを話してくれた訳です。

だから、私もそれに習ってみた・・・という次第です。

余談、終わりっ!

まっ、あんまり自分の本のことばっかり書くのもアレですから、最近見かけた武術本について書いてみましょうか?

何だか、私みたいな武術の研究家が書いた本が増えているみたいですね〜。

それはまあ、別にいいと思うんですけどぉ〜・・・。何か釈然としないのは、武術の理論を書いているらしいのに、何やら、妙に曖昧なレトリックをちりばめてある本が多いように思えてなりませんでした。

これを言ってしまうとおしまいかも知れませんが、「あんたら、読者をなめとるんとちゃいまっか?」と言いたくなってしまいました。

だってぇ〜。「できるようになる過程で、自分が“できない”ということを自覚することが大切なんです・・・」とか、「ハァァ〜?」ってな展開で、読者に何を伝えようと意図して書いているのかサッパリ判りませ〜ん・・・。

敢えて挑発的に厳しく書いてみますと、「自分が“できない”ことの言い訳がしたいんだったら、本なんか書くな!」ってことです。

それと、そういう人達が書いている“武術”というものの定義がさっぱり判らないのです。はっきり申しますが、武術のブの字も理解していないんじゃないでしょうか?

単に、スポーツやら介護技術やらに役立つ身体の使い方を伝えるために、“武術”という正体不明の身体文化をキイワードとして借用しているだけとしか思えないのです。

身体操作のコツ(脱力・体軸・重心操作・筋連動・・・等)を研究して世の中の様々な分野に応用できるという“効能”をうたうのに、“武術”というイメージ戦略を権威付けに利用しているに過ぎない。全く、本末転倒というしかありません。

つまり、こうした本を書かれている人達は、武術というものを自分勝手なイメージで認識しているだけで、まともに修行したことも無く(それっぽいことを自己満足で稽古するだけなら、それは単なる運動をしているだけでしかないのです)、当然、少しも理解していないのではないか?と思えてならなかったのです。

無論、当の御本人は、いっぱしの武術家気分に浸っているのでしょうが、勘違いするのも大概にしてくださいと言いたいところです。

何も、合金製の模擬刀や樫の木刀や杖を振り回していれば修行したことになる程、武術というものが生易しいものである筈がありませんし、稽古論と戦闘理論の両方を習得しなければ、武術の意味なんか理解できる道理もありません。

例えば、稽古論に限ってみても、“身体の錬体法”が全てではありません。錬体(基礎的な身体造り)・錬功(武術としての威力を得るトレーニング)・基本練習(技の精錬)・形稽古(技の用法体得)・・・といった、いくつもの段階があるのです。

こういう基本的な武術に於ける当然の常識をも弁えずに、武術がどうのこうの・・・と語ってしまう人には、私は断固として異議アリと唱えさせて戴くしかないと思っております。

何故、そこまでムキになって批判するのか?と疑問に思われるかも知れませんが、素人レベルの専門家?が増殖して好き勝手なことを悪気無く言っていたら、世間に間違いがどんどん広まってしまうからなのです。

古武術とは何の関係もないナンバという言葉が古武術用語であるかのごとく間違って広まってしまったのも、専門家?の無責任な仮説を誰も批判検証しなかったからですし、肝心要な論議を横に置いて、相も変わらず呑気にナンバ武術論を書いている人達の厚顔無恥っぷりには呆れ果ててしまいました。「ナンバの語源には諸説ありますが・・・」だけで済まして批判の矛先を躱そうとする態度は愚劣ではないでしょうか?

どうして、「ナンバという言葉は本来、古武術用語ではありません。日本舞踊や歌舞伎に伝わっていた専門用語を演出家の武智鉄二が巷間に広め、そこから古武術の身体操法にナンバの身ごなしが共通点が多いことを発見した古武術関係者から、今日のナンバと古武術の関連が論じられるようになったものです」という断り書きを書かないのか?

この程度の、既に判明している範囲の事実すら書かずに自分たちの仮説を尤もらしく読者に信じ込ませようと画策する態度は研究家失格であると思います。

私が日本舞踊や歌舞伎の専門家であったら、許し難い暴挙と感じるでしょうが、伝統文化の学問的探究の観点から指摘する人がいなかったのだろうか?と思うと、現代日本に蔓延する権威主義体質にウンザリさせられてしまいますし、あのような自分の研究分野を飾るために他の分野を利用する態度というのは、無自覚であったとしても、実に、文化というものに対して無礼千万な態度であると言わざるを得ません。

第一、自分達の師匠の間違いを何ら訂正しようともせずに、なし崩し的に定説として温存させようとする無責任極まりない態度だと私は思いますし、師匠の間違いを正すのは弟子の義務ではないか?と考えるのですが・・・。

それでもまあ、こういう状況が許されてきたのは、現代日本の病理と言うか、批判精神が枯渇し、権威者の言うことを何でも無批判に信じてしまう“騙されたい君”の増大っぷりを証明しているのかも知れません。情けなさ過ぎて泣けてきますね・・・。

今の日本って、拝金主義者と権威主義者とキチガイとバカしかいないのか?と思えてきて、本当に情けないですね〜。もっと、我が人生に一片の悔い無し!みたいな孤高の精神性と知性、行動力を持った日本人が出てきて欲しいものですが・・・。

そうかと思えば、優れた武術書も出てきています。『功朗法』の横山先生が技術書を出されていましたが、実に優れた内容でした。護身術という言葉のイメージから受け身で内容の薄いものを想像される方も多いと聞きますが、むしろ、“護身術”という観点から広がる武術的発想の可能性は、現代社会にとって重要性が高まる一方であろうと思います。『隠されていた空手2』や、松田隆智先生の『続・拳游記』も、非常に読み応えの有る優れた武術書です。

何だか、玉石混淆という言葉がピッタリくるのですが、優れた武術書を読むと、なんかホッとしますね。私もまだまだ勉強していかなければなりません・・・。

あっ、それと、出版社に次回作の打ち合わせに行った時にアンケート葉書を見せてもらいました。今回の本の読者層は、結構、年齢が高めかな〜?と思いましたが、中には毒々しい悪口を書いている人もいましたが、「でも、面白かった」と添え書きされていて、微笑ましかったです。

無感動に読み捨ててしまう人より、こんな具合に文句言う人の方が可愛げがありますよね。2ちゃんに悪口書き散らされてるのが結果的に強力な宣伝になっているんですし、悪く思ってセミナーに来てくれて考えを改めてくれた人も多い・・・。

出会いの印象が悪い方が、後で親しくなったりもするんですから、不思議なものです。

もちろん、その逆も何度も経験してきましたが、おべんちゃら言って近づいてくるヤツって、腹にいちもつ有る場合が多いのかも知れませんね。

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2006/05/29 シカオちゃんはHだな〜。

相模原駅前のブックオフでスガシカオのCDアルバムを買いました。

CDアルバム買うのは実は初めてでして、学生時代には山下達郎のアルバム(テープ)をずっと買っていたんですけどね〜。

CDプレーヤーをなんとなく買わずにいるうちに音楽聞かなくなり、一日一冊は読んでいた小説本も読まなくなり、20代後半から30代を駆け抜けて、気がついたら40代・・・時の経過は早いもんです。

で、何でまたシカオのCDを買ったのか?といいますと、7〜8年前ですかね〜。TV東京の深夜アニメ『ブギーポップは笑わない』の主題歌をシカオが歌っていて、その気だるく切な〜いメロディーがえらいカッチョエエな〜と思ってまして、その後、アニメ版とも連動している実写映画版(これは中々の傑作です)ができて、そのテーマ曲も同じ曲だったんですが、それでようやく曲名が『夕立ち』というのだということを知りまして、レコード屋さんでも何度か探したんですけどね〜。これが無いんですわ〜。

それで、その時は諦めていたんですけど、その後、シカオが急激にメジャーになって、TVドラマ(整形美人の恋を描いたコメディー)や映画(角川ホラー大作)のテーマ曲を歌っているのをフムフムと思って聞いておりましたが、やっぱり、私的には『夕立ち』がいいな〜と思っていたのでございまする・・・。

で、つい最近も深夜アニメ『HOLiC』のテーマ曲をシカオが歌っていて、同じ深夜アニメということで『夕立ち』のことを思い出していたんですが、そうするってぇと、不思議なもんですな〜。たまたま入りたくなったブックオフに入って、CDコーナーを見ていると、“有った”んですよぉ〜。当然、即買いました・・・。

それで、よくよく考えてみると、私はCD買ったことなかったんですよね〜。

でも、今年に入ってからホームセンターで安売りしていたCDウォークマン(って言うのか?)を買っていたので、音楽聴く準備は整っていたんですね〜(英会話の勉強しようと思って買ったんだけど、さっぱりしな〜い。いいや〜、オレ島国根性強いし〜)。

それでアルバムだから合計10曲も入っている訳ですが、お目当ての曲は三番目。一番好きなのは最後に食べる趣味の私としては、最初の二曲もお試しで・・・って、ちょっと待てぇ〜い! シカオちゃんの歌って曲はいいんですけど、歌詞が何かヘンじゃなかですか? 歌詞だけ読むと妄想っぷりが炸裂しているような気が・・・。

例えば、『正義の味方』ってのは、御近所に昼間っから一家全員でTVばっかり見てる家族がいて御近所付き合いも全然しない。「いつ働いているのかな〜?」と思っていたら、ある日、突然空き家になって猫の住処になっていた・・・という内容で、それを「もしかしたらあの一家は正義の味方だったのでは?」という小学生が考えたような妄想に浸る。

他の歌もHなのばっかりだったり、何かヘンな歌詞が多い。『夕立ち』に関しても、歌詞そのものはちょっとばかしシュールな味わいが・・・。

いつぞや、スガシカオの歌の秘密に迫る・・・という内容の番組がNHKであったのを見た記憶があるんですが、確か、シカオちゃんはインタビューに答えて、曲を作る時はどっかの山の上の一軒家に独りで籠もる・・・みたいな話をしていたような? そうすることで妄想がモリモリ湧いてきてヘンテコな歌が出来上がる・・・?という寸法らしい。

やっぱり、創作活動というのは独りで孤独にやるのがいいんでしょうね〜。

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2006/05/24 5月のセミナー報告

5月の江古田の月例セミナーも、楽しく終わることができました。参加してくださった皆様、ありがとうございました。

今月は用事が立て込んでいたので夜間セミナーができなかったので、その分、月例セミナーに集中しようと思いまして、いつもは後半に剣術なんかもやるんですが、今回は参加者の武歴を見て、空手出身の方が多かったので、急遽、“空手”をテーマに絞ってやりました。

取材で空手に関心が向かっていたこともあって、ここのところ、空手の研究がググッと進んできまして、ごくごく基本の動作(突き・蹴り・受け)の動きそのものから検討し直す作業がえらく楽しいのです。「いや〜、空手って、ホントにいいもんですね〜」って、水野先生みたいに言いたくなるんですね。

そんな訳で、“空手の突きは何故捻るのか?”とか、“空手の受けは本当に防御技なのか?”とか、“三戦の運足はなんであんな曲線に進むのか?”とかいったことを色々と検討してみました。

丁度、セミナー会場に行く前に立ち寄った橋本駅前の書店で『隠されていた空手2』(これは前作を超える内容です。素晴らしい!

大きな書店に行かないと置いていないかも知れませんが、是非とも購入されることをお勧めします)が出ていたので、これを買って京王線の中で流し読みしていたのも役に立ちました。

私が考えた形の分解用法が的外れではなかったと確認できたからです。

ただ、私のやり方だと空手より間合が近くなるので、そこが技の展開が違ってくる原因でしょうか。私のやり方だと、大抵は、差し手で入身して、打拳・崩し・逆関節・トドメの当て身・・・といったパターンになりますが、ほとんど密着しながら技を掛けていきますから、「なるほどな〜。こういう技の展開もあるんだな〜」という感動を味わっています。

ともあれ、「空手の形は使えない。基本技は鍛練用で実際には使えない」とフルコンタクト派空手の一部で言われていた説が、実際には空手の稽古法に対する理解不足からもたらされた誤解に過ぎなかったということが今後は知られていくことになるのでしょう。

けれども、武術ブームだからなのか、中には丸っきり武術というものを曲解して取り組んでいる専門家?の本も結構見受けられます。著者は「これがいいんだ」と誠実に考えているのかも知れないので、ケチをつけるのもいかがなものか?とは思うのですが、武術と言いつつ武術とは似ても似つかないものを披露されても巷間に誤解を広めるだけですし、どうにも害を広めるだけになってしまうのではないかな〜?と思えて、困惑させられてしまうのですね。

セミナー後のファミレスでのお喋りタイムでも、やっぱり皆さん、色々と疑問を抱えて参加されているんだな〜と思うんですが、今の時代、情報が氾濫する中で自分にとって役立つものかそうでないものかを判別しなければいけないのですから、大変ですよね〜。

まあねえ、武術なんかやってたって、別に何の役にも立ちゃあしねぇ〜し、“護身術になります”とか“健康にいいです”とか“スポーツ技能がアップします”とか“介護に役立ちます”とか、色々と効能書きを並べて踏ん反り返ってエバって見せるのもアリかも知れないんですけど、やっぱり、根本的には「無駄で無意味で無価値なものをやっているんだ」という、客観的に引いて観る癖もつけておいた方がいいと思うんですよね。

でないとカルト化しちゃうもんね〜。

「俺は楽しいからやってるだけだぁーっ!」って堂々と言った方が気分いいっスよ。

私なんか特撮ヒロインにしか萌えないし(押井守もウルトラセブンのアンヌ隊員萌えだったんだそうです)、鉄砲や刀が車や合コンより好きだという武器フェチだしね〜。

せっかく印税入ったのに、大太刀の支払いにつぎ込んで、町田のハンズで柄木と鞘木をどんなのにしようか?と木材コーナーをウロウロし、皮革コーナーで鮫革を物色し、「鍔と金具と目貫はどんなのにしようかな〜?」なんて何時間も考え込んでたり・・・。

どうです、皆さん? おいら、ヲタクでしょ?

おっとっと・・・脱線し過ぎちゃったぜいっ。

まっ、“どうでもいい”っちゃ、どうでもいいんですけど、私も1970年代の青春ドラマとかの洗礼を受けたせいで、社会的な問題意識が結構強いんスよね〜。

だから、私も武術を個人の趣味と弁えていられたら気楽なんですけど、「研究家として何かせんばいかんばい」とか思っちゃう訳なんですね。

で、「これ以上、世間に間違った武術観が広まるのをくい止めなきゃならん」とか思ったりするとですね〜、「洞察眼の有る人達をじゃんじゃか育てて、“違いの判る人”を増やす」くらいしか、個人でできる有効な対策は考えつきませんもんね〜。

でも、精神を磨くとか知性を研ぐとかいったことは、単に技をできるように教えるより、遥かに難しいんですよね〜。一所懸命、口を酸っぱくして教えたつもりだったのに、な〜んにも理解していなかったんだな〜ということは、本当に空しくなるもんですよ。

今夏の白州ダンス・フェスティバルに参加するための打ち合わせに行ってきた時も、事務局のSさんと話していて、そんな風な話になったんですが、「結局、人間性の問題だから」とか、田中泯さんが言われていたとのことで、確かにそうなんですけど、それを言っちゃあおしまいなんだけど・・・でも、そう言うしか仕方がないのが浮世の常なんですよね〜。権威や金は人間を狂わせる・・・嫌な渡世だな〜(by座頭市)。

でも、本当に田中泯さんは凄い人です。存在そのものが人を感動させます。これが本物の芸術家ってもんでしょう。思想や宗教を超えてダイレクトに世界中の誰もが共通して通じ合えるものというのは、文化としての芸術くらいしかないだろうし、そのキーポイントは“感動”です。

私も、生きている限り、見た人、体験した人が感動するような武術を追究していきたいものです。

追伸;
手裏剣術の研究で交流させていただいている手裏剣術研究家の鈴木さんがクエストから出た游心流DVDの感想を御自身のホームページで書いてくださっていました。

本当にいつもありがとうございます。

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2006/05/20 名優逝く・・・

田村高廣さんが脳梗塞で亡くなられました。私の父と同じ77歳で脳梗塞という病気も同じで残念でした。

田村さんは、美男スターとして有名な田村正和さんと田村亮さんの兄で、剣戟スターの第一人者だった坂東妻三郎の息子でした。

顔立ちが父親にそっくりで、時代劇でも現代劇でも名優としてならしておられましたが、私は、高橋英樹が主演した幕末物で名匠・三隅研次監督の最後の時代劇大作だった『狼よ落日を斬れ』で、剣の達人の幕府の隠密で、主人公(高橋英樹)に剣を教える師匠を演じられた時の殺陣の素晴らしさにほれ込んでいました。

何しろ、真剣で皮一枚だけ斬って教える・・・という、今だったら児童虐待になってしまう教え方で少年時代の主人公に実戦の厳しさを仕込むのです。

最後は、敵の急襲を受けて脇差一本で切り抜けるのですが、たまたま出くわした薩摩の中村半次郎(緒形拳)に斬られて死ぬのですが、半次郎にも傷をおわせて「あん時の侍は凄かった〜」と人斬り半次郎に述懐させる程の印象を残し、駆けつけた主人公にも「俺の仇を討とうなんて思うな」と言い残して絶命するのです・・・。

弟の正和さんは時代劇スターとして数多く主演しているので殺陣巧者なのは当然でしょうが、兄の高廣さんは無駄の無い鋭い太刀筋が玄人好みのする殺陣なのです。

兄弟でも殺陣のスタイルは全く違います。

確か、市川雷蔵の『眠狂四郎』や『忍びの者』に敵役で出ていた時も、剣を構えた途端、雷蔵より強そうに見えました。

そして、TVの『必殺仕掛け人』や『座頭市』にゲストで出演した時も、主人公顔負けに何人もブッタ斬って見せていました。

晩年は、そんな剣豪役はやられませんでしたが、あれだけの鋭い殺陣を見せられるのに、もったいないな〜と思ったものでした。

田村高廣さんの御冥福を祈ります。

合掌

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2006/05/20 『トム・ヤム・クン』観たっ!

法事で田舎に帰ったりして遅くなってしまいましたが、トニー・ジャーの新作『トム・ヤム・クン』を観てまいりました。

前作『マッハ!』を超えた激しいアクションと、奪われた象を取り返しにオーストラリアに赴くトニー・ジャー。

えっ? 仏像の首を取り返しに行った『マッハ!』と基本設定がさっぱり変わらないような・・・? 仏像が象になっただけ(シャレ?)・・・。

まあ、細かいことは気にしない。『マッハ!』以上にストーリーは省略気味だけど、問題ないっス! おいらはトニー・ジャーの冗談みたいなブッ千切りの強さが観たいだけなんだから・・・。

題名の『トム・ヤム・クン』って、冗談でつけたのかと思っていたら、作中に出てくる店の名前だったのね〜。

そこでは希少動物を使ったゲテモノ料理を食べさせる秘密のレストランがあって・・・なんて話は別にどうでもいいんです。

チャイニーズ・マフィアが敵だってんで、今回は中国刀術との戦いもあるし、ジャマイカンなレゲエ格闘家がカポエィラで挑んできたり、テコンドーばりの蹴り技の名手と戦ったり、毎度おなじみになりつつあるネイサン・ジョーンズ(『SPIRIT』でもジェットと対戦)と戦ったり、鞭を振り回すマフィアのオカマのボスをヘリコプターで逃げようとしてるところを必殺の飛び両膝アタックで叩き落として仕留めたり・・・もう、格闘アクションの“つるべうち”に、私の脳内にエンドルフィンが出てきたみたい。

古式ムエタイの強烈な肘打ちは今回も健在ですが、今回はクライマックスで有象無象のショッカーの戦闘員みたいに襲い掛かってくるマフィアたちの腕や脚の関節をバキバキにへし折りまくるシーンが凄過ぎます。何か、セガールの合気道殺法が子供がじゃれてるみたいに思えてしまう程の容赦の無さ・・・。

こんだけ格闘アクションができると実際に戦っても強いんと違う?と思える超人っぷりは、そのうちK−1からスカウトされてもおかしくなさそうですね。

ちなみに空港でジャッキー・チェンのそっくりさん?(かなり微妙です)とすれ違うシーンとか、小技のギャグをかましてくれていますが、トニー・ジャーは、相変わらず田舎っぺ大将みたいで全然あか抜けませんね。

ついでに、この手の映画は男しか観ないだろうと思っていたら、女性客が1/3くらいいて、驚きました。トニー・ジャーの木訥で無茶強いってところが密かに人気を呼んでいるのでしょうか? ショコタンもブルース・リー様の信者だしな〜。

追伸;
今年も白州ダンス・フェスティバルに参加することになりました。日取りとか詳しいことが決まりましたらお知らせします。昨年は丁度NHK教育の『芸術劇場』の取材日と重なっていて、私もTVに映ってましたけど、今年はどうかな?

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2006/05/16 夢の印税生活に向けて頑張るぞーっ!

本の印税が出たので父親の49日法要にも堂々と帰れたし、注文していた大太刀の支払いもできるし、救かりました〜。

でも、ちょっとビックリだったのは、支払い通知書を見ると、初版分5000部全部が一カ月で売り切れていたんですね〜。

お金貰えるのも嬉しかったんですけど、やっぱり売れ行きが良かったのが現実に実感できて二重に嬉しいですね〜。

だって、私が10年くらい前に最初に出した武術の本って、累計でも5000部は達していない筈なんです。それが一カ月足らずで達しているんだから、10年間の研究は無駄じゃなかったってことですよね。

ムック本とかでは10000部越えているものもあるけれど、私がピンで出てる訳じゃないし、今回の本は雑誌や新聞での宣伝も全くやっていないから、純粋にインターネットのクチコミと書店で手に取った人達の好奇心だけで売れたということですから、中傷も含めて宣伝になったんでしょうね。「面白かった」ということは、私に直接言ってくる人ばっかりだったんで、それは宣伝効果0ですもんね〜(そういうことをネットに書いてくれよぉ〜ん)。

中には、「こんな気持ちの悪い本(某流派の広報の方。君の方こそ、口の利き方、考えなさい。そんなケンカ腰では結果的に自流儀に迷惑をかけますよ)」とかヒドイ中傷をする人達もいましたけれど、そんな人達は私個人に恨み(逆恨みもいいとこです! あんまり悪質なのはドシドシ告訴する方針だから覚悟して文句言ってください)があるだけの話で、本の中身をまともに理解しているとも思えないので全然構いはしませんけれども、やはり、反省点としては、具体的な技術解説を省いた点は色々と批判意見を頂戴しました。

そっちはDVDを観てもらった方がいいや・・・と思っていたんですが、本の方でも次回は技術解説をキッチリと書いてみようと思って、現在、企画構想中です。

読者の皆様の中で、「こういうことをやって欲しい」という御要望がございましたら、お知らせください。企画の参考にさせていただきたいと思っております。

一応、次回作はDVD付き技術解説本にしてみたいな〜と思っております。

追伸;
5月中は多忙につき平日夜間セミナーはお休みさせていただきます。その分、21日の江古田の月例セミナーの方で頑張りたいと思っております。まだまだ人数に余裕がありますので、お申し込みは気楽にどうぞ。それから、駒込の稽古会は見学は禁止しておりまして、初心者も私が直接教えてはおりませんので、体験したいだけの方はセミナーの方をお勧めさせていただきます。今回の月例セミナーは、大阪セミナーでウケの良かった歩法の使い方を重点的にやってみようと思っております。

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2006/05/16 目からウロコ

私は、以前から「伝統武術家は現代武道を低く見ているけれども、実際に立ち合えばほとんどの伝統武術家は現代武道のトップ選手に全く太刀打ちできないだろう」と言っていたのですが、先日、仕事の関係で空手道の現役トップレベルの選手の皆さんの演武を観る機会があり、以前からの考えが間違いでなかった事実を痛感しました。

いや、正直いってしまうと、想像していた以上でありまして、ただもう「スゲェ〜ッ!」とため息をつくしかありません。

私は、空手はフルコンタクト派を少しと沖縄空手の鍛練法を知人に教わった程度で本格的に学んだ経験は0なんですが、中国拳法でも少林拳や長拳系の基本とは共通点が多いので、内家拳系の門派を学ぶ人達がしばしば非難するような、空手が単純に「力んで身体の動きが堅い」ものだとは思っていませんでしたけれど、むしろ、実際に組手の時の脱力して構えるところなどは、「内家派や合気武道系を学ぶ人でもここまで抜けているかな〜?」と思えるくらいで、実際にこの目で確認するまで専門誌のミスリードで誤解させられていたんだな〜と思います。

今回、特に目からウロコが落ちたのは、空手道の四大流派(松濤館流・剛柔流・糸東流・和道流)のそれぞれの形演武を拝見し、流派の特色はあっても“上に行けば同じ”という言葉は本当のことだな〜と思った点です。

この業界で定説としてそこそこ広まっているのは、「古伝の形こそが本質を伝えており、本土に伝わって後の形は改編され使いものにならなくなっている」というものですが、私は、これは全く根拠に欠けていると思います。

確かに“秘伝”を伝えるシステムとして形が機能していたのは事実だと思います。そういう形式を採っている古流の流派は沢山ありますから、琉球“手”にそれが無いとは言えません。

けれども、だからといって形の所作や動作の順番を変えたくらいで真相が分からなくなってしまうとしたら、それは元々の形の完成度が低かったと考えざるを得ませんし、多少のリニューアルがされたとしても、本当に観の目が有る人が観たら、秘伝の形解釈を教えられずとも、本質的な意味に感づく筈だと思うのです。

結局、学ぶ人次第だということです。

ボンクラが学べば、どんな優れた形でも単なる体操になってしまうし、真に探求心のある人が学べば、基本形から技のエッセンスを抽出して無数の応用変化技を編み出せるものです。

しつっこいようですが、私は素質も才能もありません。

これは謙遜でなくて事実です。

けれども、“探求心”だけなら誰にも負けません。

だから、私は全然学んだことのない流儀であっても、形さえ観れば、技の用法をその場ですぐにいくつも編み出せます。

これは、30年程も地道に色々な武術を研究してきた結果、自然に備わった技能です。

下手の横好きで続けていても、30年も続けていればそれなりの“力”になるということで、“継続は力なり”ですよね。

空手の凄さは、流派の別や競技形式の違いはあっても、それら全てを包含して“空手”という一大武道のジャンルを形成している点ではないでしょうか?

これは柔道や剣道ではなし得なかったことです。

柔道も剣道も流派を包含してはいません。

〜〜流柔道、〜〜流剣道というものはない訳ですが、空手道にはそれが許容されているのです。

数えたことはないので厳密な数は分かりませんが、小さな団体を含めれば、少なく見積もっても300は下るまいと思われます。

その巨大な空手の世界のトップレベルの現役選手の動きは、まごうかたなき超速の突き蹴り、緩急自在の重厚な技、キレ味鋭い体捌き・・・と、どれもが目を見張るものであり、なぜ、空手が世界の“KARATE”となっていったのか?という理由が自然に納得させられるのです。

虚飾をはぎとった心・技・体が一致した演武の見事さは、自流の優越ばかり主張して他を侮る武術家の卑屈さを見せつけられて嫌気がさしていた私にとって、「やはり、武道は素晴らしいものなんだ」と、新たな感動を植え付けてくれるものでした。

特に、(守秘義務があるのでお名前はまだ書けません)空手界でアイドル的な人気がある女性選手の演武の見事さには、普段着の時の本人とのギャップの激しさに唖然となってしまう程の鋭い気合と、ピシッピシッと道着の鳴る音だけがして、突き受けの手の途中動作が全然見えないという恐るべき迅速さに仰天させられました。

いやはや、私も手技の速度には多少の自信があったんですが、全然敵いませんね〜。

概して女性空手家の突き手の速度は尋常ではありませんね。

女性の場合、男性と比べると屈筋の力が弱い。

しかし、その弱点の分、伸筋の働きが十分に活かせるからなんだと思いますが、腰の回転がピシッと極まった瞬間に連動して突き手がパシュッ!と鞭が振り出されるように出ていて、途中の軌道が全然視認できません。丸で居合の達人や早撃ちの名手みたいに途中動作が消えて観えないのです・・・。

あれなら、本当に瞬きした刹那にパンチが顔面に入るでしょう。

しかも、伝統派空手道の凄さは、単純に突き蹴りのスピードが速いというだけではないのです。

運足と共にギリギリの間合を見極めて、一瞬で身体ごと入って突き込む点にスピードを倍加させつつ威力も高める秘密がある。

というのは、パンチの速さだけなら凄まじく速い門派は中国にいくつかありますが、大抵、パンチを打っている最中に足が止まっているのです。

それなら攻略法は至って単純。パンチが届く間合で立ち止まらなければ当たらない。

本当に怖いのは、運足と共に打てる人です。ボクシングの強さの秘密はパンチだけでなく同時にフットワークを使う点にある。長い長い歴史の中でパンチ技術に特化して磨かれてきた結果、フットワークを併用するようになったのです。

そうでなくては、マシンガンのようなパンチも無意味になってしまう。

この辺の戦法は組手競技によって発展した部分で、沖縄空手にはそれほど無かったものではないでしょうか? 恐らく、本土に紹介された後に剣道の影響を受けて組み上げられたものではないかと思うのです。

ですから、競技方式の上では剛柔流のように猫足立ちで待ちの組手スタイルをするのは困難であり、前屈立ちで前後の重心移動を迅速に使って打って出るスタイルでないと適合しずらくなってしまうでしょう。

極真空手の創始者である大山倍達先生は、剛柔流の組手スタイルの影響が強いので、どっしり構えた待ちの組手で突き蹴りを応酬するフルコンタクト式を創始したと思うのです。

ですが、顔面突き無しをルールとしたので、どうも、間合の感覚が後々薄れてしまったようにも思えます。全空連の寸止めルールでは、間合の調節と読みの感覚が自然に養われるようですが、それは顔面突きがある点と無関係ではないでしょう。

ボクシングやムエタイの選手は微妙な間合の感覚が発達しています。これは顔面を直接打ち合うからでしょう。顔は視覚・聴覚・嗅覚があるので距離感に敏感です。打たれれば避けようとします。だから自然に間合の感覚が高まる・・・。

ところが、失礼ながら顔面に防具を装着している剣道では、顔の防御の意識が抜けている人が結構いるように見受けられるのです。防具無しの木刀での形稽古も、間合の感覚を養成するのに役立つのではないかと思いますし、探求心ある剣道修行者の方に僭越ながらアドバイスさせていただきます・・・。

こうして考えていくと、競技の方式によって技能は限定的に発達するのかも知れませんが、それを改善するには他流を馬鹿にしないで学ぶ精神で観ていった方が良いのではないでしょうか?

空手の世界で「寸止めなんか駄目だ」という主張が長年されてきていますが、今回の仕事を通して、私が個人的に思うのは、「空手に先手無し」と説いた先達の言葉の意味の深さでした。

これは道徳であると共に、“先手を出せば後の先をとられる”、空手の真の使い方がその言葉に隠されているのだと痛感せざるを得ません。

まして、間合を読んで交叉法で制圧していく戦闘理論の確かさは、私にとっては非常に共感を感じるものでしたし、寸前で極めてみせて実力の差を示すことで暴力を品格で凌駕する・・・という日本武術の理想である“活殺自在”を追求した昔日の空手家には剣聖・山岡鉄舟に通じるものを感じますし、過日、観た『SPIRIT』のラストのJ・リーVS中村獅童の試合の様子も思い出しました。

なんだか、もう、私は、他人の身体をブチ壊して強さをアピールするような低脳な武術ではいけないんじゃないかな〜と思いはじめています。

空しいんですよね。「俺の武術は一撃必殺だぞ」と、いい年こいたオッサンが、ガキみたいに偉ぶってる図ってのはノータリンそのものでしょう?

一流の武道家は態度も一流ですよ。無闇に他流を貶しません。

ホント、この本が出たら、皆さん、是非、ご覧ください。絶対、面白い本に仕上げますからねっ。

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2006/05/07 五月月例セミナーお知らせ

5月の月例セミナーでは、大阪セミナーでも好評だった交叉法と目付けのやり方、及び、歩法による間合いの切り方、死角に位置取りする方法・・・といった、戦闘理論に力を入れてみたいと思っております。

基本の練習法も、「何のためにやるのか?」という意味について解説していこうと思っております。

例えば、「空手のその場基本突きはどういう目的があるのか?」とか、「基本の受け技は何のために稽古しているのか?」といった、一般的にルーティンワークとして片付けられてしまっている基本練習の意味と必要性の有無について解説していこうと思います。

それから、剣術の“切り落とし”と拳法の“さし手”、空手の“捻り突き”の共通点について検討していこうと思います。

要は、「基本が極意である」と言われていることが本当のことなのか、あるいは単に権威付けのために言われているハッタリに過ぎないのか?という点を明確にしてみたいと思うのです。

特に武術・武道経験者の方々には、このセミナーを受講していただくことで、御自分の学んでこられた技の価値を再確認して、かつて習った師匠への敬意を改めて持っていただければいいな〜と思っております。

無論、未経験者でも歓迎ですので、奮って御参加くださいませ。

また、初参加の方は一万円としておりましたが、極端に申し込みが減ってしまいましたので、従来通り五千円に戻させていただきます(会員は四千円です。その場で入会した方も四千円となります)。

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2006/05/07 『帰ってきたウルトラマン』GW集中放送

ファミリー劇場の『帰ってきたウルトラマン』が放送終了に際してGW集中放送しているのを観ているんですが、帰ってきたウルトラマンって、しょっちゅう、負けてますね。

まず、キングザウルス三世に思いっきり負ける(特訓で得た“流星キック”で勝つ)。

次にグドンとツインテールに負ける。ベムスターに負ける。モグネズンにもMATの助けが無かったら負けてた。そして、ブラックキングとナックル星人にも負けるし、スノーゴンには凍らされてバラバラにされてた・・・。

結構、スペシウム光線が効かない怪獣も多いんですね。おとり怪獣プルーマなんかにも効かないんだからビックリです。

負けまくってたイメージとしてはウルトラマンレオが筆頭ですけれど、二番目は帰ってきたウルトラマンですかね〜? 

どちらもスポ根物の要素があって、一回負けてから特訓して勝つというパターンがありました。

それと、過去の怪獣が登場する時に着グルミが劣化してしまっていて・・・というのも帰ってきたウルトラマン以降のウルトラ・シリーズ伝統?になってますね〜。

サドラーの回に出てきた地底怪獣デットンって、元々テレスドンを出そうとして円谷プロの倉庫から着グルミを出したらラテックスがヘタっちゃってて全然テレスドンに見えない。「そんじゃ、しょうがないからテレスドンの弟ってことで・・・」ってなったそうです。バルタン星人もアトラク用のを流用したのでお粗末だから“バルタン星人Jr”ってことになってたし、最終回に出てきたゼットンなんて物凄〜く足が短くなってて角もヘタってるし、ウルトラマンを倒したゼットンとは全然別の怪獣です。なんか、アスリートが引退して10年くらいして出てきたら別人のように中年太りで体型が崩れまくってた・・・みたいな印象でしたね。

でも、改めて観ると、いつも郷秀樹(主役です。当時のアイドル郷ひろみと西条秀樹を合体したネーミング・センスが凄いです)をいじめていた岸田隊員と、いつも庇っていた優しい南隊員・・・という固定イメージが少し違っていて、郷秀樹は岸田隊員とも割りと仲良くしていたんだな〜と、感慨深いものがありました。紅一点の丘隊員を演じていた桂木美加さんも昔は印象薄かったんですが、改めて観ると意外と存在感あります。この人は『血を吸う薔薇』の吸血鬼の学長夫人役が知られていますが、『流星人間ゾーン』にもゲスト出演していましたね。

それから、ウルトラマンが外道な目突き攻撃を食らわすという暴挙に出た“つぶらな瞳のモグネズン”(でも毒ガス吐くんです〜)の声が、諸星大二郎原作で塚本晋也が監督した『ヒルコ妖怪ハンター』の、妖怪ヒルコの声であったことを確認! 怪獣好きだったという塚本監督は確信犯だったのか?

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2006/05/07 第四回大阪セミナー報告!

少し間があきましたが、大阪でのセミナーも四回目となりました。GWに時期が重なり、参加人数は少なかったのですが、今回も実り多い楽しいセミナーとなりました。

ここ最近、私の周辺がゴタゴタとしていて落ち着くヒマがなく、武術の練習している時が一番、精神的に落ち着いていられます。

特に大阪に来ると、人情味を感じられていいんですね。

残念ながら、今回は常連の会員さん方が都合がつかずに参加できなかったということで、少し寂しかったんですが、その代わりといっては失礼ながら、初参加の方々が人格円満で益々楽しんでやれました。

何故か、大阪セミナーに来る度に、なんとなく自然に“気合”が入ってきて、「よ〜し、今回は前回以上にやったるでぇ〜!」みたいになり、いつもは稽古会ですら出し惜しみしている交叉法や歩法についても、ついつい教えてしまうんですね。

今回も、初回参加時に交叉法を出し惜しみしてしまってガッカリさせてしまっていた方のためにも・・・と思って、かなり頑張ってみたつもりです。

ところが(仕事が休みだから・・・と、助手としてついて来ていた師範代も気づいて驚いていたんですが・・・)、対練の時に、交叉法の目付けと読みのやり方を説明した直後から、参加者全員の動きがガラリと変わってしまったのです!

いやはや、正直、ここまで露骨に変化が現れるのを目撃するのは初めてです。“口伝”の威力というのは凄まじいものだな〜?と感動するばかりですが、そうなると、クエストから出た游心流のDVDを観た人達も、こんな具合に上達するかも知れず、もしそうなったら凄いだろうな〜と思いました。

後半に剣術を指導した時も、「剣の動きではなくて手元の動きを観察してタイミングを測って・・・」と注意して“無刀捕り”を練習してもらったら、あっという間に全員、タイミングどんピシャで捕ってしまいます・・・。

正直いって、私が交叉法を知って、それを無刀捕りに応用してそれなりにこなせるようになるのに数年かかりました。コツを教えただけで全くの初心者でも形の上ならできるようになれる・・・とは言っても、それは決して容易いことではないのです。

それなのに、この異常な上達っぷりは何なのか?

私は、もしかして、やってはいけないことをやっているのだろうか?とも思わずにいられません。秘伝のベールを剥がしてしまうことは罪作りなのかも知れません。

しかし、当たり前にできることなら、当たり前にできるように教えるのが指導者の義務ではないのか? 変に神秘めかしたり、虚仮威しの権威付けをする方がおかしい。

当たり前にできることなら、当たり前に教えて、更にその先に進んでいけるように常に精進工夫していくのが現代に武術を活かす真のやり方ではないか?と私は考えます。

文化を大切にすることと、それを真に世の中に役立つように活かしていくことは必ずしも一致するものではないのかも知れません。が、その接点を繋げるのは、価値を認めて敬う意識が有るか無いか?であり、文化に接している我々個々人の心掛け次第でしょう。

そういう観点で、私は、私の考え方を理解し賛意を感じている人にしか教えたくありません。武術という文化をオープンに誰にでも教えていいものだとも思いません。

無論、他の武術・武道の指導をされている方々のやり方にケチを言うつもりも、そんな資格が自分にあるとも思いはしませんが、少なくとも私自身は、金銭を頂戴して指導する以上は、最低限の良識的責任を感じられるバランス感覚は保っていつづけたいと思っています。

やはり、畢竟、人殺しの技術なのです。

キチガイ・幼児に刃物を持たせる馬鹿はおりますまいし、過剰な分不相応の“力”を得て自己顕示したい欲望に捕らわれた人間に教えれば偏執狂を育てるだけでしょう。

いや、武術家を私称する人達のかなりのパーセンテージで、偏執的性格を感じさせる人物が既にいます。

だから、私は、「どこの道場がいいですか?」と聞かれても、中々お勧めできるところを思いつかないのです・・・。

他人に期待して裏切られた想いをするのにも飽き飽きとしていますし、どこそこが良くてどこそこは悪いと論じられる程、自分の認識眼に自信がある訳でもないからです。

結局、人間は必ず嘘をつくものだし、嘘はつき始めると際限無くつき続けて“嘘の正当化”をしなければならなくなってしまう。そうやって、自己の正気を失ってしまう人を私は何人も観てきました。自分を飾り正当化するための“嘘”は、自己欺瞞となって、仮想敵を外部に設定しようとするのです。いわゆる疑心暗鬼というヤツです。そうやって、心の中に鬼を飼った人は、その鬼にエサを与えるために憎悪の妄想を日々膨らませていくのです。その結果、別人のごとき病んだ精神に蝕まれて狂い果てていく・・・。

こうならないための処方箋は、自分の嘘を正当化しないことです。「自分は他者に抜きん出た才能のある特別な人間なのだ」なんてアホンダラなことを考えないことです。そして、現実の等身大の自分の分際を正確に客観的に認識し、ただの一個人以上でも以下でもないことをきちんと納得することです。

世の中に名をなした偉人伝を、そっくりそのまま盲信しないことです。偉人伝に憧れる精神は、権力志向の源です。むしろ、偉人伝をギャグとして茶化して笑いながら読んだ方がいいのです。

武術・武道の世界に足りないのは、“お笑い”です。堅物ばっかりで、堅苦しいことばかり言っているから、駄目なんですよ。

私の知る限り、武術・武道の強い人は、皆、お笑いのセンスがある人ばかりです。それは、本音と建前の間にある捏造された嘘を観抜いているから、「けったくそ悪いの〜。アホちゃうんかい?」って具合に斜めに構えているうちに、嘘が観抜けない生真面目な人達の権威志向が馬鹿馬鹿しくなって茶化してみたくなってくるのでしょう。

頭の悪い人はギャグを思いつきません。お笑いのセンスの悪い人はどんな分野でも突出した業績をあげることはできません。

何故なら、陽気で人を笑わせられれば、他人から好かれて自然に注目されるからです。

お笑いブームも中々廃れませんけれども、これは、それだけ普遍的な心理として“笑い”という感情が人間のエネルギーを引き寄せるからでしょう。“お笑い”に癒し効果があることも広く研究されています。

まあ、余談が過ぎましたけれども、“お笑い”に対する感受性は大阪人が日本一!

という訳で、私も相性が良いのではないか?と思うのですが、リラックスして楽しんでやれる分、技の体得の方も良くなっているのではないか?と思うんですね。

特に、大阪支部長のもの真似テクニックは絶品!

今回は、K野氏(映像で見ただけで杖術体得してたのは立派!)・えなり君に加えて、新ネタを披露してくれました。

それは、『ドランク・モンキー酔拳』で、酒が切れてジャッキーに酒を買いに行かせたアル中の師匠が、イカサマ博奕を見破られてボコボコにされて仕返しに来た石頭のヤクザが用心棒に連れてきた棒術の遣い手と戦い、力が出なくて負けそうになっている時にジャッキーが帰ってきて酒をあおるものの、ブフォッ!と吐き出して、「こりゃ、水じゃあっ!」と情けな〜い顔をする・・・(ジャッキーは自分が飲んだくれて師匠の分の酒は思いっきり水で薄めていた・・・というオチ)というシーンをTV放送した時の“小松方正の吹き替え版”のもの真似でした・・・。

いや〜、流石のカンフー映画オタクの私も、最初は何やってるのか判らんかったです。

説明してくれて、あ〜、なるほど、確かに似てるよな〜。でも、そんな超マニアックなもの真似、俺しか判らんよ・・・。

大阪支部の稽古会は、毎回、支部長の“お笑い”ワンマンショーが付いていて面白いそうです。

いやはや、先行きが楽しみです。東京本部もウカウカしていると抜かれるかも?

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2006/05/01 この本が面白いよ!

ここ最近、自分の本の売れ行きや次回作向けのデータ収集のために書店の武道書コーナーをよく見て回っているんですが、ずいぶん、新しい本が出てますよね〜。

研究家と名乗っている立場としては片っ端から購入したいところですが、そんな経済力は無いので、パラパラっとめくって面白いと思った本を買うようにしています。

中でも、最近はDVD付きの本が主流になってきているみたいですね。武道物のDVDは、一般に四千円から一万円近くするものまでありますが、本にくっついているDVDだとお徳感があって、千円から二千円くらいで買えてしまうので、それもあって売れているんじゃないでしょうか?

私も次回作はDVD付きの本で・・・と考えているんですが(「30分で貴方もプチ達人になれる!」なんてのはどうでっしゃろ?)、これもまたなかなか大変ですからね。

それはそれとして、韓国製の安いTVが数カ月前から妙に緑色っぽくなってきて、登場人物がみんなデビルマンみたいな顔色になっていたんですが・・・、昨日(4月27日)、プチッという音と共に永眠致しました・・・合掌・・・。

お陰で、日本映画専門チャンネルのガメラ特集も、アニマックスの『妖怪人間ベム』も観れません。かなしや〜。東映チャンネルの『影の軍団3』の第一話にゲストで登場された若山富三郎先生の見事な殺陣を録画することもできませんでした。くぅ〜、無念!

で、今日は久しぶりにTVの無い生活を送っておりますが、田舎に帰って葬式とか色々あってすっかり忘れ果てていた家賃(二カ月分になっちゃったよ。え〜ん)を、今取材中のDVD付き空手道本の仕事分の原稿料を、拝み倒して早く振り込んで貰って無事、支払いました(ほっ・・・)。

なんか、前にもこんなパターンがあったような気が?

あの時は二カ月滞納してその日中に支払えないと出ていかなくてはいけなくなって、払うアテもなくて朝から涅槃の境地だったな〜。(独り言・・・「でも、O社長から仕事の依頼があって窮状を話すと原稿料を先に振り込んで貰って助かったな〜。お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らしてくれたような気がしたな〜。あの時の感謝の気持ちがあるから、某氏の窮状を助けてやろうと思ったんだけど、通じないもんだな〜。オレはO社長の境地にはいまだ遠いな。まっ、余計なこと考えんと自分の仕事に専念しよっと・・・」)

さて、家賃を払った後、レンタルビデオ屋さんに延滞していた『阿修羅城の瞳』(250円延滞料かかったけど、宮沢りえが凄い美しかったから満足です)を返しにいって、そのままヤマダ電器に安いTVを探しにいったら、どれも一万円以上で、「デジタルに以降するまでの場繋ぎTVに一万円以上出すのもなんだかな〜?」と思って買わずに帰り、ヒマだから買い溜まっていた本を熟読して一日を過ごしました。

で、『カンフーガール』読破しました。これって、やっぱり、K尾先生が書いているんじゃないかな〜? なんか実在の人物をモデルにしたようなキャラが出てきて、主人公の師匠と因縁ある悪役として扱われているんですが、私も知ってる人なんじゃないか?と思えて仕方がないんですね。まあ、それ以上は詳しく書けませんが・・・。

でも、小説として純粋に凄く面白かったですね。続編とか漫画化、ドラマ化して欲しいものです。私も刺激を受けて武術小説のプロットを書き始めてしまいましたよ。これ、ホームページかメルマガで連載してみようかな?

次に、『「胴体力」入門』。

かの有名な甲野善紀氏の師匠であった故・伊藤昇先生が提唱した“胴体力”。

これは『秘伝』に掲載されていた伊藤式胴体トレーニングに関する原稿を大幅に加筆修正して纏めた本であるそうですが、現在の武道系身体操作トレーニング理論群の中でも最も実用的で応用範囲の広いものではないか?と、改めて思いました。天才は死して名を遺すだけでなく、人類に益する身体理論を遺した・・・と言えるでしょう。お弟子さん方の御活躍を祈念致します。

次は、『達人』。

DVD付きにつられて買いました。盧山初雄先生・大石代悟先生・イノサント師父等の達人を紹介する本。TVが壊れたのでDVDがまだ見れな〜い(シクシク・・・)。

お次は、『祁式通背拳紀要 迅雷の拳』。これもDVD付きにつられて買いましたけど、大連に生まれた常松勝先生が中国人家庭に預けられて苦心して生き抜いてこられた下りは、旧満州の奉天と大連で生まれた我が両親に重なり、もし、私の両親が残留孤児になっていたら、当然、私は存在していない訳で、戦争の悲惨さを改めて想わずにいられません。常松先生が拳法に打ち込み苦境を乗り越えてこられた体験は貴重なものであり、その苦労された中で黙々と磨かれた拳法の精緻な技の冴えは、私も雑誌取材の時に拝見しましたが、それはもう素晴らしいものでした。

人間は苦労を重ねてそれを乗り越えてこそ本当に靭くなれるのだと私は確信します。

S君、K君、Yさん、いつも私を鍛えてくれてありがとう! 貴方たちのお陰で「我が面皮既に鉄也、我が心既に空也!(天魔伏滅! ピロロロロ〜ン・・・って笛の音。by『影の軍団3』)」

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2006/05/01 私の働いていたラブホが別のホテルに・・・?

最初は、「40過ぎて、なしてこげな仕事ばせんといかんとか〜。おれも落ちるとこまで落ちたもんやね〜」と、思ったのが正直なところでした。

でも、仕事に貴賎の別はない。働いているうちに、「汗水流して金銭を得るのに職種の良し悪しはなかばい」という仕事へのプライドが湧いてきました。駒込で教えて、帰りはそのまま二駅乗り越して刀しょったままラブホに入っていく怪しいオヤジ・・・。

生活苦に迫られて、ようやくありついた仕事だったけど、頑張っただけの甲斐は後から出てくるものです。

半年もすると道場の方も人が増えてきて、なんとか自活できそうに盛り返してきましたし、9ケ月でラブホのルームメイクの仕事も離れました。

でも、辞めてからもムック本が出た時は「お陰でここまで盛り返せました」と挨拶に行ったし、働いている最中は人間関係のトラブルも少しはあったけど、愛着はありました。

当時着ていた従業員用のポロシャツは、成功しても慢心して苦労した時のことを忘れないように・・・と思って、買い取ってきていますし、色々なバイトをやった中でも、一番充実していたような気がしますね。面白かったし、作家になった時に使えそうなネタも色々集まったものです。

でも、最近、新聞の折り込み求人広告紙にも募集広告が出ていないし、おかしいな〜と思ってはいたんですが、電器屋に行った時にチラッと見て、ホテルの名前が変わっていることを発見! 

いや〜、なんだかショックでしたね〜。ケンカ別れしたんだったら、ザマーミロと思うだろうけど、自分の最も苦しい時期にありついた職場だったから、なんとも言えず残念でした。今回の本やDVDも持っていってみようか?と思っていたし、人気店だったから、まさか経営不振になっていたとは思えなかったんですが・・・。

職場のオバチャン達とかどうしてるかな〜?と、心配にもなりますが、ラブホ業界って競争が激しくて、経営がうまくいってないホテルはすぐに別のホテルに買い取られてしまったりするんだそうですね。

だから、私が世話になっていたホテルも、以前は別のホテルだったそうで、その頃に腹上死した中年オヤジの霊が出没するって噂もあって、地下のボイラー室にはヘンなお札が貼ってありました。織田無道がお払いしたんだそうで、そりゃあ、効かなそうだな〜。

私は霊は見ませんでしたけど、怪現象は確かにありましたね。

それは、バイトの従業員が辞める最後の日には、必ず何かトラブルが起こるってことです。

フロントの女の子が辞める最後の夜は停電になって大騒ぎだったし、私が辞める最後の夜も、明け方にエレベーターが故障して止まってしまった・・・前日にメンテナンスしたばっかりだったのに・・・。

な〜んか、「辞めないでぇ〜」って引き留められているみたいな感じでしたね。

ラブホって翌日が休みだと客が朝まで出ないことが多いんで、夜勤の場合は土曜日が圧倒的にヒマなんですね(忙しい日は死にそうになるけど)。

だから、土曜日の夜勤の時は屋上に出てしばらくぼうっとしてたりとか、そんなのも思い出しますね。

なんか、嫌なことって不思議と思い出しませんね〜。フロントのオバチャンに御馳走してもらったとか、試作品のパフェ食べたとか・・・。

でも、昼夜逆転の夜勤で肉体労働しているとハゲますね。これは確実にハゲます。やばいです。CATVで『ザ・カゲスター』を観てた時に、「カゲ、カゲ、カゲ、カゲ、カゲスタ〜!」って歌詞が「ハゲ、ハゲ、ハゲ、ハゲ、ハゲスタ〜?」って空耳しちゃうんですよね〜。それに、お客さんが出ていった後の部屋の洗面台にあるブラシに金髪に染めた髪の毛が怖いくらいにからまっているのを見ると、やっぱ、染め毛はハゲるよな〜と思いましたね。「これは長く続ける仕事ではない」と、思いましたよ。

でもまあ、何だか、昔働いていた職場や行きつけの店が無くなっているのって、心にポッカリ穴が空いたみたいな寂しさがありますよね〜。

似たような空虚感としては、岡山の大学に行っていた頃に通っていたレンタルビデオ屋さんで、「大学を辞めて東京に行ってシナリオの勉強するんです」って挨拶に行ったら、店の女店長が急に泣き出すからアワワッてなってしまったことがありました。この人、オレに惚れてたの?って思ったけど、まあ、単に泣き上戸だったんでしょう。

で、何年かしてクラブの同窓会やるってんで久しぶりに岡山行った時に、そこの店を訪ねてみたんですが、無くなっていて、な〜んか、凄く空し〜くなりましたね。シナリオライターにはなってないけど、一応、ライターの仕事はやっていたんで、その報告をしておきたかったんですが・・・。

でも、仕事頑張ってれば、いずれどこかで「あれっ、この本の作者って、昔、うちの店に通ってた人なんじゃないの?」みたいなこともあるでしょう。そういうのも縁ですからね〜。

私も今は映画にかかわってないけど、仕事してれば、いずれはそういうチャンスも巡ってくるんじゃないかな?と思っています。

そういうのも含めて、人生には無駄なことって一つもないと思いますね。

ラブホで働いた経験も、貴重な財産として今後のもの書き仕事の中に活かしてみたいと思っています。

相模原駅近くのあのホテルで一緒に仕事していた人達の前途を祝したいと思います。

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