長野峻也の日記(2006年08月)

2006/08/31 緊急連絡!

9/2(土)の練習は、朝10:00〜12:00に、いつも月例セミナーをやっている西武池袋線江古田駅前のストアハウス(第5東京ビル4F)にて行います!場所は遠く感じられるかも知れませんが、駅の真ん前ですからどうってことありません。それに、何と!あの名作『シャル・ウイ・ダンス』のロケで使われたところで駒込自由学校の倍以上の広さがありますから、剣術も自由にやれます。取り敢えず、道場が決まるまでは“ジプシー武術”でやりますので、会員の皆さん、宜しく!(いつも借りられるのなら、ここでいいんですけどね〜)それから、時間は二時間なので、今回は合同練習とします。また、新刊用の写真撮影もする予定ですので、書籍デビューしたい会員さんは寄っといで!(そんな目立ちたがりは大阪支部長だけかな?)9月10日(日)の月例セミナーは、やはり江古田ストアハウスで行います。ただし、今回は時間帯が16:00〜20:00となりますので、くれぐれもお間違いありませんように御注意ください。内容は、前回、舞の手が不十分でしたので、今回も続編として舞の手の体変術・変化技について指導したいと思っております(ふっふっふ、日野ちゃんには負けへんでぇ〜。なんか、SRS見てから対抗意識燃えてきちゃってま〜す・・・)。


追伸;何か、駒込稽古会を終了すると発表したことが大分、御心配をかけてしまったみたいで、申し訳ありませんです。単に契約更新時期になって、「剣術ができる広い場所に移りたいね〜」という話から、思い切って移ることにしただけで、発展的解消なんですよ。駒込自由学校は数年やって愛着もあるんですけど、色々と悲喜こもごものドラマもあったりして、何か、心機一転したくなっちゃってですね〜(しみじみ・・・)。

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2006/08/31 游心流における合気技の訓練法について

9月5日に予定している夜間セミナーでは、合気技法の原理から実用技法に繋げていく訓練法の解説をしてみたいと思っています。

どうも、セミナーに来る方の中には、合気技法に関して未だに万能の技のように曲解している方が多いみたいに思えます。

例えば、大東流の合気では空手チャンピオンが全然敵わないとか?そんな話を平然と言う人もいますから、それをまともに信じてしまう人達が多いのかもしれません。

ですが、本やインターネットに書かれている文章は注意してかからないと危険です。

人がふっ飛んでいる写真や動画にも注意が必要です。

私どものホームページで寸勁で重なりあった人が倒れたりするのも、あれは状況設定をした上でのパフォーマンスなのであって、あれがあのまま実用になるものではなく、素人でもコツを教えたら簡単にできるものなのだという点を証明するために出しているだけの話ですし、このような見世物芸を実用技と誤解させるようにして演出し、特別な達人だけができるのだと言わんばかりの人が少なくないので、それらの風潮へのアンチテーゼとして出している訳です。

同様に合気パフォーマンスは、必ず“状況設定”があります。状況設定を外してしまうと途端に使えなくなることがざらにあるのです。

例えば、私はある有名な名人が亡くなった時の追悼記事用の取材で、その名人の技を唯一受け継いでいると自称する人物に合気揚げをかけてもらい、最初は何度もかけられましたが、足場を変えさせてもらってからは全くかからなくなりました。

何故なら、足場が狭くて逃げられないところで技がかけられていることに気づいたので足場を変えさせてもらって、技をかけられそうになる寸前に後ろに退いて間合を保ち、いなしたからかからなくなったのです。技の原理と性質を理解していれば返し方は咄嗟にいくらでも思いつけるものなのです。

逆に言うと、自身の技が万能に通じると思い上がって、何度もかけてみせるような愚行をやらかしたその人物が、武術家としての見識に欠けていたと言わざるを得ません。

同様な自惚れ、思い上がりからくる勘違いで本を出している人も少なくありません。まともに闘えば到底勝負にならない相手を“状況設定”の中で技をかけてみせて“達人”と呼ばれて踏ん反り返っている・・・阿呆ですね。そんな阿呆をおだてていいように利用している人達もいるから、本当にメディアは怖いですね。

けれども、合気の世界が、こんな阿呆に埋め尽くされているのか?と言えば、無論、そんな馬鹿げたことはありません。

砂泊カン秀先生のような化け物染みた遣い手が未だ御健在なのですし、先年亡くなられた西尾先生や斎藤先生、塩田先生以外にも、まだまだ優れた遣い手はおられます。

武術業界では、「合気道よりも大東流の方が優れている」といった論調がありましたが、私はそうは思いません。確かに大東流の佐川先生は凄かったのでしょう。しかし、それは合気技法の性質が異なっていただけであって、合気道家の中には別の形で佐川先生に匹敵する師範がいたと思うのです。

大まかに言って、大東流の基礎的技法原理は骨盤の縦回転を利用しており、合気道はそれプラス移動力や骨盤の横回転、螺旋回転に特徴が感じられます。技術的に考えて、確かに大東流を発展させた形跡が合気道には感じられるのです。

異説として「植芝盛平が太極拳や八卦掌を採り入れた」というものがありますが、これは事実なのかもしれないと思える点があるのです。

それは、“技の流れ”です。

大東流が固定した相手の重心を浮かして抵抗力を奪い制圧するのが基本的戦闘理論なのに対して、合気道では相手の攻撃に合わせて力の方向をずらし流しながら巻き込み重心を流れの中に同調させて自滅に導くという流体運動を利用しているのです。

大東流のやり方では相手の攻撃力を一度受けて倍加して返す方式がよく見られますが、合気道では徹底して受け流して相手の攻撃力を消滅させるようにします。「力が吸収される」と表現されるのはこの点によります。

よく、佐川先生の“体の合気”は、相手が攻撃した瞬間に触れたかどうかという点で雷に弾き飛ばされたかのように激しくふき飛ばされるという点に特徴があったとされます。

これを身体技術的に解釈すると、相手の攻撃力が集中する拳足の一点を受け外して力のベクトルを逆流させると同時に攻撃力に乗っている重心そのものを浮かせているからこそ、派手にふき飛んでいるだろうことが判ります。

例えば、このような“重心の浮き”を応用して歩く速度をスピードアップさせる方法があります。これは、歩きの時に踏み出す脚が空中にある間に仙骨の辺りを前方に押し出すようにすることで、歩幅が伸び、普通に歩いているのに速度が倍加するのです。

これは、体幹部を先導させる歩法の基本的なやり方ですが、脚力に頼らないためコツを掴むと面白いように速度が出ます。これは走っている時に応用しても歩幅が伸びて空中を飛んでいるような身体感覚が得られるので、いくらでもスピードアップできそうな気がします。具体的に数値化して測った訳ではないので、どのくらいスピードアップが可能なのかは私には判りませんが、誰がやってもそれなりにスピードが上がることだけは間違いありません。秘訣は、体幹部(骨盤)から先に動くこと。ただそれだけです。

佐川先生の足裏拇指球部分は発達し肥大化していますが、これは武道の達人にはよく見られる現象であって、塩田剛三先生も発達していたことが知られます。

私は色々な武術の遣い手と会った時に足を観察する癖がありますが、日本武道では、やはり、この部分が発達している人が多いようです。

最近では、『基本を極める!空手道実践トレーニング』の取材でお会いした香川政夫先生がそうでしたし、香川先生の愛弟子で昨年の全日本選手権で伝説的な名勝負で優勝した永木伸児選手の拇指球の発達ぶりには驚かされました。二十代半ばでここまで拇指球が発達しているというのは、一体、どんな修行をしてきたんだろう?と舌を巻きました。

しかし、セミナー参加者で「足裏の支点は踵に置くべきではないか?」と聞いてきた人もいましたが、理屈はともかく、徹底して練習を積んだ上で考えるべき事柄であって、未熟なうちに考えることではないでしょう。

私自身は足裏の支点を固定して考えてはいませんけれども、それは骨盤の動きを主体に考えて動きの中で支点は変わると認識しているからです。ただし、基本訓練(立禅など)では最初に拇指球に置くようにしていますが、それでもこれが正しいと主張するつもりは毛頭なく、踵や小指側側面を用いたり、土踏まずに乗るようにしたり支点そのものを固定して遣ったりはしていません。支点に拘るのは“居着き”を生じる原因だからです。

理屈は後から、まずは黙って指導者の指示に従うのがベストではないかと思います。

さて、游心流の合気訓練法としては、まず、第一にスワイショウで脱力体を養成しますが、これは自然に骨盤中心で動く訓練となります。

次に、正座して対面しての座捕合気揚げの訓練をします。これはまだ状況設定の中でかける訓練に過ぎません。しかし、ここで脱力の感覚や背骨の遣い方、力のベクトルをずらし外す感覚、重心移動を覚えないと合気技法の実用は不可能となりますので、演芸を楽しむつもりで身体感覚を養成しなければいけません。

この時点で陥りやすいのは、力任せに掴んで技にかからないように頑張ることです。そんな真似をしていたら感覚を養成するどころか力み癖をつけるだけであって、百害あって一利もありません。セミナーでもどうにも練習の意味を理解しようとせずに無意味に頑張って喜ぶ馬鹿が時々います。注意してもやめない人は何を考えて参加しているのか判りませんが、腕試しがしたいだけなら他所に行ってくれと言いたいところです。練習と勝負を混同する馬鹿には教えたくありませんし、はっきりいって迷惑なだけですから、そういうタイプの人は最初から参加を断りますし、途中でも目に余れば退場してもらうことにしています。合気揚げのような練習法は訓練の目的を考えなければいけません。

また、このような基本練習の段階で技がかかったから実戦でも遣えると考えるのは、それこそ馬鹿丸出しなので、これまた注意しなければなりません。

合気揚げのやり方はいくつかありますが、要は、“相手の重心を浮かす訓練”です。難しく意味付けする必要性は全くありません。状況設定の中でなら指一本で相手を崩したり、数人に抑えられているのをひっくり返したりすることも可能ですから、その現象面だけを見て過剰に騒ぎ立てる人もいますが、タネも仕掛けもあるのですから演芸と弁えておかねばなりません。

さて、その次には、立った姿勢から崩す合気のやり方ですが、これは基本的に相手の重心を浮かすのは難しいので、相手の軸を斬り崩すようにします。簡単に言えば、刀で背骨を斬るようにイメージして首筋を攻めたり手を引っ張り込んで崩したりするのですが、自分の膝を抜いてしゃがみ込むようにして沈身のエネルギーを利用するやり方が簡単で初心者向けです。

ここまでは状況設定の枠組みの中での合気技法のやり方ですが、実際に合気技法を武術として実用に用いるには、交叉法を遣います。

やり方は多種多様な展開となるので説明は省きますが、基本的には、“相手の攻撃してくる手や足に接触した時に貼り付くようにして威力を殺し、そのまま離れずに相手の重心を奪いながら技をかける”というものとなります。

つまり、最初の一撃目に対の先で合わせて、そのまま崩し仕留めるのです。

あるいは、相手の攻撃を捌いて側面に位取り(ポジショニング)し、額に掌を置いて捻り潰す・・・というちょっと過激な合気技もありますが、これはまともにやると首の骨がへし折れる可能性もあるので相当に過激な技となります。無論、首を鍛えていたり瞬間に身体をよじって逃れる人もいますが、その避け躱す瞬間の居着きを狙って打拳に変化させることもできるので、実用的というより必殺技的な技法となります。

佐川先生は、実戦は当て身が必要と言っていたそうですし、空手やボクシング、相撲を見て研究していたそうです。

塩田先生の当て身の威力も有名でしたし、斎藤先生や西尾先生の当て身も強烈そうで怖い感じがします。砂泊先生の手に何げに拳ダコがあったのはおっかなかったですし、合気道を柔派拳法だと考えれば、派手な投げ技や関節技ではなく、「あっ、この瞬間に当て身を入れたら終わりだな?」なんてところも読めてきて、合気道のイメージが変わるのではないかと思われます。

大東流には蹴りもありますが、合気道にはない。これもまた、戦闘理論の違いが感じられます。つまり、相手を居着かせて自分もしっかり止まったまま必殺の一撃を入れる大東流と、歩法で動きながら体移動によって生まれる重心移動のエネルギーを駆使する合気道の原理的な違いによるものと考えられるのです。

9月5日の夜間セミナーでは、以上の内容を解説していこうと思っております。真面目な参加者の御来場をお待ちしております。

また、全般的な実技主体の練習に関しては、9月10日の江古田月例セミナーをお勧め致します。今回は時間が異なりますのでセミナー情報を御確認ください。

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2006/08/30 ほびっと村“健身法”講座報告

数年ぶりの西荻窪ほびっと村学校での健身法講座は、真壁師範代のデビューでもあり、もう朝から気分は“巨人の星の明子姉ちゃん状態”でしたよ。

游心流の健身法は武道医学と気功を母体にしているんですが、私自身が武術大好き過ぎて、健身法の体系化はお座なりになってしまっていたんですね。

そこに真壁師範代の方から「自分は健身法がやりたい」という申し出があって、具体的に何を教えたって訳ではないんですが、入門した時から、“こいつは常人じゃない”という直感があって、元々の研究内容がそんじょそこいらの気功の先生とかより上なのは観て解っていたので、すんなり「じゃ、任せるから宜しく!」って感じで任せてしまった訳ですね。

彼は自分の技量を隠して見せないようにしているし、私を立ててでしゃばらないから、他の会員さん達は、彼がこんなに物凄く見識を持っていることに全然気づいていなかったみたいで、受講してから驚いていました。

と言うか、練習中に「それじゃダメ!」とかダメ出ししてしまうので、ダメ出しされた人は、“何こいつぅ〜?”って思ってしまったりしていた様子で、「こりゃ、マズイ。同格にしているといかん」と思って、さっさと師範代に格上げした次第でした。

で、師範代にして初めてのおつかい・・・じゃなかった、初めての講座でしたが、これがもう、¥3000で受けられる内容じゃなくって、気功の教室に通えば¥300000くらいブン取られるような水準なのです。呼吸法とからめた気功のやり方、操体法等の原理を解説し、経絡の詰まりをとって気の流れを良くしていくやり方や、頭に昇って滞留している気を降ろす方法・・・等々、もしこれを他の気功団体の指導者クラスの人が見ていたら、ヘッドハンティングするでしょうね。

先日、太極拳の練習をしていて何げなく鏡を見ると、もう愕然とするくらいヘッタクソだったので、「いか〜ん。もうすぐ健身法講座デビューするのに、こんなに太極拳が下手過ぎてはシャレになら〜ん」と思って、特訓したんですが、講座当日は別人のように上達していて、これまたビックラこいちゃいました。

ですが・・・こんなメッチャお得な講座にもかかわらず、一般参加者は一人で後は游心流の会員だけ・・・いやはや、世の中はミソも糞も一緒くたになって、本当に価値あるものを観抜けない人が多いんだな〜と、感慨深いものがありましたけどね。

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2006/08/30 子猫殺しの告白について

ホラーミステリー系の作家の坂東真紗子氏が、雑誌の連載で飼い猫の産んだ子猫を捨てて殺しているということを意を決して告白し論争になっているそうです。

実は私も子供の時に飼い猫の産んだ子猫を父親の命令で弟と一緒に自転車で捨てにいったことがありました。子供だったのであまり罪悪感というものは無かったんですが、赤ん坊を捨てられた猫が寂しそうにニャアニャア鳴き続けるのに耐えかねて、翌日、捨てたところに自転車で行ってきたところ、四匹いたうちの三匹は死んでいて、一匹だけ生きていたのを持ち帰りました。

そりゃあもう母猫は大喜びでなめ回し抱え込んで離さずコタツの中に籠もってしまいましたが、婆ちゃんが凄い猫嫌いだったので、ホウキで追い出し、びっくりして飛び出た時に子猫の首筋に牙が当たって残った子猫も死んでしまいました。

親猫はそれからずうっと悲しそうに鳴き続けていましたが、その後の出産では屋根裏で産んで家の中には連れてこなくなり、私の家は“猫屋敷”と呼ばれるくらい猫だらけになったものでしたが、飼い猫は一匹だけで他の子猫・孫猫は全て人間には慣れず半野良猫状態でした。

うちの家族は父親と婆ちゃん以外は猫も犬も好きでしたから、飼い猫も母に一番慣れていて、死ぬ直前には庭の雑草取りをしていた母の背中に潜り込んで甘えてきて、その後、姿が見えなくなり、何カ月後かに叔父が屋根裏に登ったらそこにミイラ化した死骸があったそうで、庭に埋めてやったそうでした。

この猫には何となく名前をつけそびれてしまったので、ずっと名無しのままでしたが、子猫の産んだ孫猫の面倒も見ていたり、近所の池の鯉を捕ったり魚屋さんから盗んだり雀を捕ったり、蛇と格闘していたり野生のエルザを見ているみたいでした。

最近は自分の子供を平然と殺してしまう親や、年老いた親を邪険に扱う子供も多くなっているようですが、そんな人達は猫以下ですね。

私は父親のいない時にこっそり牛乳やったりして家の中に入れていましたが、普段は屋根裏にいたようです。夏場にはノミが降ってきたりして大変な目にあいましたが、「子猫を殺されて恨んでいるんだろうな〜」と思ったものでした。

御近所の小児科医院の老先生が猫好きでエサをあげていたので、うちの猫一族も大分助かっていたようですが、確かに避妊しないでいたのが良くなかったのかな〜?とか思ったものでした。

確か、私が高校生の頃まではまだ生きていたと思うのですが、記憶が曖昧です。高校の頃は犬と一緒にいた記憶の方が強いのですが、犬と猫が追いかけっこしていたことはよく覚えています。

今でも、似たような模様の猫を見かけると、あの猫の生まれ変わりだったりしないかな?なんてことを妄想してしまいますが、もし猫が口がきけたら何と言うのでしょうか?

熊本県の昔話に、『猫岳の怪』という話があります。

ある旅人が、熊本の猫岳という山を越えようとしているときに日が暮れてしまい、途方に暮れていたところに明かりが見えて、近づいてみると広い屋敷です。一晩の宿を願うと女中さんが入れてくれ、食事か風呂のどちらかを勧めます。先に風呂に入ろうとすると、若い女中さんが耳打ちします。「ここは猫の屋敷で、風呂に入ったり食事を食べたりすると猫になってしまう。急いでお逃げなさい」と言う。なんでそんなことを教えてくれるのか?と聞くと、「私が昔、川に落ちて死にかかっているところを貴方が助けてくれたので、その御礼をしたいのです」と言うのです。その女中は旅人が昔助けた猫のタマだったのです。旅人はタマの言葉を信じてこっそり屋敷を抜け出して逃げましたが、逃げたことを知った化け猫たちが柄杓を持って追いかけてきます。旅人は必死になって坂を転がり落ちるように走って逃げましたが、化け猫たちが柄杓でかけてきた水が肩にかかり、家に逃げ帰って着物を脱いでみると水のかかったところに猫の毛みたいなものが生えていたそうです。

この話は『日本昔話』でも放送されていたことがありましたが、都市伝説としても怖いですね。

坂東さんの子猫殺しの話は、避妊手術するのがいかんと言いながら、産んだ子猫を自分の都合で殺してしまう論理矛盾があり、理解に苦しむところではありますが、私も結果的に同じ子猫殺しをしてしまった過去があって一方的に責められません。

三十年以上も経過しても、あの時の猫の悲しそうな鳴き声が忘れられず、「本当に可哀想な真似をしてしまったな〜。父親が何と言おうと子猫は捨てないと突っぱねれば良かったのに・・・」と今では思います。

二度目にいった大学の時に住んでいたアパートの近くで子猫を見つけた時も、こっそり部屋に入れて風呂で洗って(ノミにたかられていたから)、エサをやったりしていましたが、その子猫は車に轢かれて死んでしまいました。

今もアパート暮らしでなかったら猫や犬を飼いたいんですが、今住んでいるアパートの隣の隣の部屋に前住んでいた若い女性はこっそり猫を飼っていて、それがばれて追い出されてしまったのだそうです。猫は柱で爪研いだりするし、魚食べてるからオシッコとかウンチすると臭いですからね〜。田舎に帰ってから飼うか、土地買って家建てるしかないですね。

犬は三日飼うと一生恩を忘れないけれど、猫は三年飼っても三日で恩を忘れると言われます。確かに犬は記憶力いいですよね〜。鳴き癖があってポンポン叩いていた小犬が貰われていって、二年ぶりくらいに会った時は狂ったように喜んで甘えてきたので、ちょっとバツが悪かったりしましたが、それくらい犬は恩だけを覚えているみたいです。

けれども、鍋島の化け猫騒動も主人の恨みを飼い猫が代わって復讐する話だし、猫を殺すと七代祟るくらい執念深いというのも、それだけ情にあつい動物だという証拠なんじゃないでしょうか? 温泉で大蛇に襲われた花魁を、飼い猫が救ったという昔話もあります。眼病を患って仕事ができなくなった飾り職人の目蓋を飼い猫が毎日なめて病気が治ったけれど、代わりに猫が目が見えなくなってしまった・・・なんて話をやはり『日本昔話』で見た記憶があります。

そういえば、以前、芝居の殺陣をつけていた時に、「長野さんの動きは猫みたい」といわれたことがありました。犬みたいにドタバタと走るより、猫みたいにしなやかに動けるようにしたいとは思っていますが・・・。

ここ数年は、田舎に帰った時、かつてあれほど沢山いたうちの猫の子供や孫、ひ孫といった猫がさっぱり見かけなくなってしまい、あの猫の血脈が途絶えてしまったのかと思うと残念なんですが、まさか・・・皆、猫岳にいって暮らしていたりするのかな〜?

なんか、大林監督に映画化して欲しいですね。

あっ、そうだった。忘れるところでした。坂東さん。理屈つけて子猫殺すのは良くないですよ。避妊したくないなら飼い猫の産んだ子猫も飼い猫の分身なんだから、周囲から猫御殿と呼ばれるくらいにならなきゃあダメですよ。

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2006/08/28 剣術のできる場所を求めて定期稽古会は移動します

突然ですが駒込の自由学校教室は8月で終了しました。

人数が増えて、手狭になってきたのと、天井が低くて剣術等の稽古が思い切ってやれないので、現在、場所を探しています。

場所が決まるまでは新宿スポーツセンター等で練習していく予定ですので、会員の皆さん、しばらく不便かもしれませんが宜しく御理解ください。

とりあえず、スポーツセンターは広いので思い切って練習できますから、その点はいいですよ(道場が確定次第、そちらに移ります)。

合掌!

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2006/08/28 『格闘SRS』武道路線復活万歳!

オーケンの格闘ビデオ道が復活したかと思っていたら、武道の達人を訪ねる企画も復活して、何年かぶりに『格闘SRS』を楽しみに観るようになりました。

これもフジテレビがPRIDEの中継を取りやめにした影響なんだろうな〜と思いつつも、格闘技の試合に関心が無くなってきていた自分にとっては久しぶりに楽しみな番組ができた気分です。

特に、8/25は日野武道研究所を訪ねるという企画で、日野さんの技を堪能できました。

実をいえば、私は何年か前にBABから出ている日野さんのビデオを会員と観て、その時は正直いってガッカリしていました。口先だけの人に思えたのです。

しかし、今回の放送で観ると、脱力系の合気技法や寸勁の貫通精度等々、見違える程のレベルになっていて、しかも教えて上手い。この手の技は師範だけができてエバルというのが常のことですが、日野さんは出し惜しみしないで丁寧に優しく伝授していて好感が持てました。以前に感じたハッタリ臭さ満点のオーラがなりを潜めて透明感すら感じます。

邪念が無くなっている感じがするのです。

いや、お見それしました・・・(翌日の特別集中セミナーで早速、技をパクらせていただきました。そんでもって、“ウナギ抜け”という名前も勝手につけさせてもらいました。感謝!)。

日野さんがこれほど変わられたのは、恐らく、故伊藤昇先生と出会い、胴体力トレーニングを導入されたこと(以前とは比べものにならないくらい身体が動いています)と、戸隠流忍法と交流したこと(変幻自在に技が変化している)、そして芸術家と交流していること(邪念が消えた)が影響しているのではないでしょうか?

武道の世界は自己顕示欲と名誉欲と嫉妬心に凝り固まった人が多く、そういう人達と関わっていると、自分の中のそういう欲望も刺激されてきてしまいます。他人に勝ちたいとか、優越意識と劣等意識が自分の中でせめぎ合ってくるのです。

宮本武蔵の五輪書を読むと、自慢話と他流を否定する話が頻繁に出てきます。死期が近づいた中でも尚も悟りには程遠かった武蔵の幼稚さは、武術に拘り抜いた証しであると共に、彼が社会的な成功をしなかった理由でもあるでしょう。

もっとも、私はそんな宮本武蔵の武術バカ一代なキャラが大好きだし面白いと思うのですが、でも、もし同時代を生きていたら「人として尊敬できるか?」と問われれば、考え込んでしまいますね。やっぱり、人殺し過ぎです・・・。

ダンス・フェスティバルで日野さんのことを知っている人から「日野さんはどう思いますか?」と聞かれて、「悪くないと思います。●●さんなんかよりずっと良いです。でも、武道の世界には日野さんよりずっとレベルの高い人はいくらでもいますよ」と答えましたが、いや〜、今は正直いって、ここまでできる人は少ないかも知れないな〜と思いましたね。実際、今の私ではできないような技もやって見せていましたし(原理は判ります)、ただ闘って強いだけの人はいくらでもいますが、ではその人達がこういう技ができるか?となると、できる人は少ないと思います。原理的な技術構造を分析できないと教えることも自分で再現したり新しく技を作り出したりすることもできないからです。

日野さんはこの業界にとって貴重な存在でしょうね。

日野さんには他の人達のように舞い上がらずにこの調子で活躍して欲しいですね。

武道や格闘技の世界と一線を保ったまま技の探究をしていった方が良いと思います。

日野さんの探究されている技は、試合競技の枠組みで追究するとねじ曲がってしまうでしょう。目指すところが違うし、技の精度をあれ以上に高めていくには、闘争心を排除しなければいけないでしょう。より無心にならなければ身体の働きは引き出せない。身体の機械的操作の水準では既に限界に達していると思います。

あっ、それと、読者の皆さんは私が誉めたから達人なんだとか、そういう短絡的な判断をしないでくださいね。私が現代で「この人は達人だ」と掛け値無しに思える人って、そうですね〜・・・砂泊先生くらいかな〜? 他に“凄い”と思う先生は数人はいらっしゃるんですが、日野さんはその中にはまだ入っていません。あくまでも私の勝手なランク付けで客観的な根拠などはありませんが・・・。

と、こういうことも敢えて書いておかないと、やたらめったら達人扱いして持て囃すのがブームになってますからね。そういう馬鹿馬鹿しい風潮はやめないといけません。

武術・武道は、自分が学んで上達した分だけにしか価値なんかありません。そういうシビアな考え方で取り組まないから詐欺師山師の巣窟になってしまうのです・・・。

せっかく、日野さんという斯界の希望の星が出てきたんだから祭り上げてダメにしないで欲しいな〜と思います。

●●氏だって、単なる時代劇コスプレ・オヤジとしておけば舞い上がって虚言癖が暴走したりしなかったんだから、やたらに“達人”と持て囃して祭り上げる態度はいかんのですよ。武術の理論を応用した身体運用法の研究家としてなら評価できますが、武術家としての戦闘能力は皆無ですからね。達人扱いして追い詰めるのは可哀想ですよ。まともに闘えば武道の初段程度の人にも全然勝てないんですから、無理やり達人扱いしないであげて欲しいですよね。もう、TVで見てて痛々しくって、可哀想過ぎますよ。一所懸命、役に立たない技を凄技のように見せかけようとヘンなことばっかりやってて哀れ過ぎます。

一度作られた世間の達人イメージに自分を合わせていかなければいけなくなって、ずう〜っと演技していなければいけない。メディアの奴隷ですよ。もうね〜、回りの連中も●●氏を神輿に担ぐのはいい加減、止めときなさいよ〜。

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2006/08/22 『白州ダンス・フェスティバル2006』にて

今夏も白州に行って参りました。

昨年は正直、初めての場所と世界中から集まった芸術家に囲まれて緊張しまくりフェスティバルを楽しむ余裕は全然ありませんでしたけれど、今年は最初から師範代二人と支部長を伴っての合宿気分での旅だったので、リラックスして楽しむ余裕もありました。

でも、やっぱり、結構遠いな〜という感じもあり、到着したのが夕暮れから夜にかけての頃だったので、バス停に着いた時には辺りは暗く、台風の影響で天候も不順だったので、野外パフォーマンスのフェスティバル故に、「せっかく来たのに無事にできるのかな〜?」という心配もありました。

ところが、不思議なもので、周囲の山々には分厚い雨雲がかかっているのに、会場一帯は雲が切れている・・・。

そういえば、昨年もこんな感じだったかな〜?と思い出したりしましたが、結論から言うと私が滞在した期間は無事に演目が行われていました。

到着日は疲れていたので宿に直行するつもりでいましたが、桃花村の伊藤菜起さんの独舞を拝見。『たそがれ清兵衛』にも出演していたという若き逸材の初めてのソロ演舞ということでしたが、流石は田中泯さん率いる舞踊団“桃花村”の公演にも出演しているだけあって、堂々とした演舞でした。

伊藤さんの独舞を見た帰り、突然、「長野先生」と声をかけられ、アレ、誰かな?と思って暗がりの中で目を凝らして見ると、昨年、お会いしていた正心館道場館長、蓑輪勝先生でした。蓑輪先生は、田中泯さんが初出演した映画『たそがれ清兵衛』で泯さんの強力プッシュで武芸考証に初挑戦され、結果、『たそがれ清兵衛』は時代劇のエポック・メイキングとして高い評価を受けたのは、皆さん、御承知のところでしょう。その後、『隠し剣・鬼の爪』『ラストサムライ』にも参加され、現在はキムタク主演時代劇『武士の一分』で盲目の剣士の遣う剣を創造するべく奮闘されていたようです。

私は、瞬間に、「先生、本の中で勝手に書いてしまって申し訳ありませんでした」と謝りました。

なぜなら、私は蓑輪先生に無断で“ある一件”について触れて書いていたからです。

私の考えとしては、そうすることが蓑輪先生の名誉を護ることになると思ったからなのですが、同時に、先生に許諾をうかがえば、十中八九、断られるだろうと予想したからでした・・・(そういう性質のややこしい問題。読んだ人はピンとくるのでは?)。

けれども、蓑輪先生は逆に、その“一件”について私が無断で本の中に書いた気持ちを察してくださって一言もとがめるでなく、むしろ、「ありがとうございました」とおっしゃってくださいました。そして、翌日の私共のワークショップにも見学に来る旨を告げられまして、本当に恐縮至極で焦ってしまったのが偽らざる本心でしたが・・・。

さて、それはともかく、まずは、我々のメイン・イベントは游心流武術健身法のワークショップです。

去年は基本中心だったので、今年は応用技を色々とやろうと思い、自慢の大太刀“美火月丸”も持参しました・・・が、何と今年の参加者は過半数が子供さん!

これでは刀なんか抜いて見せる訳にはいきません。私は某氏のように、小学校に真剣持参で入っていく度胸はありません。刀を持参したのも、大人を対象に日本刀と武術に関しての講義を交えて解説しようと思っていたのですが、下手に抜いてみせれば刃物の怖さを知らない子供達が無造作に触れて怪我でもしかねません。

それで、急遽、内容を全面的に変更して大太刀は袋にしまい込みました(蓑輪先生には見てもらいました)。

いや〜、子供に教えるのは慣れていないので大変でした〜。

一つ教えてもすぐに飽きてしまうので、興味を繋ぐために次から次へと新技を披露していかなければなりません。それも子供に教えても問題がないようなものを・・・と思うものの、ネタが尽きたらついつい危険性の有る技も教えてしまい、後からシマッタ!と反省することしきり。

何しろ・・・0インチパンチ、合気技、太極拳用法、無刀捕りまで各種教えてしまったのですから、いつものセミナーの倍近い内容です。

それがまた、小学校低学年からどう見ても3歳くらい?の子までできてしまうんです。

正直いって、武道の有段者でもなかなかできないようなレベルの技を子供ができてしまうんですよ。ビックラこいちゃいました・・・。しまったな〜。コレを動画で撮影していたら、武術業界が引っ繰り返るくらい話題になっただろうにな〜。ハッタリかまして達人のフリしてる大センセイ方が権威失墜バカ丸出しになって、爆笑できたのにな〜。いや、残念無念・・・。

また、ワークショップを見学いただいた蓑輪先生からは思いもかけないお誘いをいただきました。が、これについてはまたいつか・・・。

午後は、ダンス・パフォーマンスを見て明日の談話をしなければなりません。これが二番目の仕事です。

その前に腹ごしらえを・・・と思い、身体気象農場で有機農法で育てた美味しい野菜の料理を御馳走になりました(本当に凄い美味いんです)。

と、そこで事務局の斎藤さんから大衆演劇のプロデューサーの方を紹介され、芝居に出演しろとおっしゃる・・・そんな無茶なと断りましたが、無理やり出演させられることになり、立ってるだけか、殺陣ができるならいいかな?と思って受けてしまいました。

でも、この件は田中泯さんのインタビュー取材で打ち合わせに参加できず、今回は見送りとなりました・・・。

で、ダンスです。

竹林の中での三者三様のダンス。

まずは、佐成哲夫さん。

雨で濡れた地面に寝転び、ヤブ蚊が唸る中での演舞は、最初、観客に紛れてパフォーマンスに気づかなかった程。

そして、目覚め、起き上がり、歩き、樹木にまつわりつき、天を見上げ、倒木に登る最中で、地味〜に常人ではできないような凄い技を演じていたのが印象に残りました。

次は、桃花村のダンサー石原志保さん。石原さんは今年の正月にNHKの舞踊公演番組で、田中泯さん、玉井康成さんと共に踊られていたのを見ていたので、今回のダンスの中で密かに注目していました。

で、流石に泯さんの舞踊を継承されている弟子の凄味が感じられ、老婆から徐々に若返っていくかのような幻視を見せてくれ、特に竹林に入ってからの演舞は圧巻でした。

生まれた子供を失って狂った母親のような情念を噴出させつつ、それが次第にイタズ

ラ好きな少女へ、更に無邪気な幼女へと時間が逆回しされているかのような“変身”を夢幻しているごとき異空間の“気配”がそこに立ち現れていました・・・。

最後は、大野慶人舞踏研究所の皆さん。舞踏の神様と呼ばれている大野一雄を父に持つ慶人さんの舞はいかなるものか?と思っていましたが、これがもう予想を遥かに覆す爆笑物の超・天然ボケの軽妙トークがちりばめられ、もう、本当に楽し過ぎるものでした。

だって、こういったダンス・パフォーマンスというものは、無言で演じるのが当然の決まり事となっているものなんですが、慶人さんは完全無視! ローカルな話題からサッカーの話に繋ぎ、観客の中に知り合いがいるから話しているのかな?と思っていたら、既にパフォーマンスの最中。そして、竹林の中を軽快にダッシュし、戻ってきたかと思ったらズダーンと転ぶ・・・。そして、立ち上がってニッコリと、「転ぶこともある・・・」と微笑み、かと思えば、お弟子さんたちが演舞している中をいきなり横切って観客の輪の外に出て、何をするのかと思えばCDラジカセの曲を入れ替えていたり、お弟子さんにダメ出ししたり、終わりと宣言して観客が帰り始めてアナウンスも始まっている中を平然とパフォーマンス続けていたり・・・、もう傍若無人と言うかセオリー無視と言おうか、何をやるのか予測不能の“超芸術トマソン”状態。これっていわゆる“ヘタウマ”ってヤツなんでしょうか?

でも、私は大野慶人さんのキュートな癒し系キャラに“生き仏様”を見る想いでした。

いや〜、今年のダンスは講評しやすくて良かったです。特に、大野慶人さんの型破りの極致とも言うべき舞踏には、ソリッドな芸術を追究する田中泯さんのような凄味は感じられませんが、それとは真逆のほんわかしてコントのような親しみ易さが感じられました。

そうですね〜。譬えてみたら、真剣勝負の殺陣と、ワイヤーワークでピュンピュン飛ぶムチャクチャな香港武侠映画のアクションみたいなものでしょうか?

私はどっちも好きなんですよね。

その夜は、田中泯さんに時間を頂戴して新刊本用のインタビュー取材をしました。

詳細はそちらをお楽しみに・・・。

で、私が出損なった大衆演劇「ご存知 赤城山〜国定忠治〜」を見ましたが、これがまたスンゴイ面白い! いや〜、出なかったのが失敗しましたよ。面白過ぎて形容に困るんですが、“南無阿弥陀仏”と描かれた着物を着た忠治の姿を見て、「游心流の道着にも“南無阿弥陀仏”って入れたいな〜」と思いました。

この芝居。単なる出し物じゃなくって、観衆参加型のワークショップの総仕上げだったのだそうで、午前中にうちのワークショップに出ていた子供たちがチャンバラ目的で参加していたんですね。段取り無視して忠治を切っちゃうんじゃないか?とハラハラして見ましたが、感想を聞かれて「次は切る役をやりたい」と分かりやすい感想を言っていました。

その翌日。午前中はダンス講評です。「今年は勘弁してください」とお願いしたものの、昨年の私のトンチンカンな講評が逆に面白かったんだそうで、今年もマンマと乗せられてやってしまいました。我ながら、おだてられるとついついやっちゃうんですよね〜。

今回は面白かったから結構話せるだろうと思っていたら、何と、去年と同じく30分しか話せない・・・しまった・・・。

しょうがないからまたもやバカ話(甲野ヨシノリ先生の素敵過ぎる話とか?)をする私・・・でも、やっぱりそっちの方がウケが良かった?みたいでしたね(ホントか?)。

ここでの慶人さんもまたチャーミング。話すのは苦手と言いながら、一番話されてましたが、フェスティバル参加の理由を「仁義です」と言われるところがなんかカッコ良かったです。なんか風貌は物凄く人の好いお坊さんって感じなんですが、意表をついて必殺仕掛け人とか演じたりしたら面白いかも知れません・・・。

何とか講評も終わり、その後は宿で少し休もうと思って戻って昼寝していたら、気疲れしてたからなのか、ぐっすり寝てしまって起きたらもう午後の演舞は終了しており見損なってしまいました。残念です・・・。

しからば、田中泯さん、近藤等則さん、土取利行さんの競演だけは見て帰らねば・・

・と、暗くなった道を会場へと向かいました。

今年のダンス・フェスティバルのこれが恐らくメイン・イベントだったのでしょう。

国際的に活躍する日本を代表する三人のアーティストが20年ぶりに邂逅し音楽と舞踊の競演をするというのですから、これは会場が溢れんばかりでした。

私は立ち見で充分と思っていましたが、これも人が多くて中々良いポジションが得られませんでした。まあ、何とか見るには見れましたが・・・。

田中泯さんは背中の筋を痛めているそうで、踊るにはきつい状態。恐らく、並のダンサーなら辞退しているくらいだったのでしょう。

でも、踊っている最中は痛みを感じないと言う泯さんの気迫を私は確信していました。

だって、田中泯は並じゃないからね。

予想通り、泯さんの気迫はプロのダンサーの気概をもって奇跡の踊りを現出させていました。

恐るべき動き・・・。

内面からほとばしり出てくる熱情が鬼のごとき気骨となって、動かない筈の身体を自在に操ってみせるのです。それも朋友達の奏でる音楽が肉体を超えた精霊を呼び起こしているかのように泯さんを駆り立てているのです。

それでも長帳場の舞台で踊り続けるのは大変な戦いです。途中、舞台の端っこに歩いていって樹木を掴んでぐいっと無理やり背中を伸ばして荒療治してのけた泯さんの姿は鬼気迫るものがありました。

無論、近藤さん、土取さんのテクニックは素晴らしく、山の夜に響く音霊の幻想的な空間に酔いしれていました。

終了後、私は再び蓑輪先生と出くわして、誘われるまましばらくベンチで話していました。そこへ斎藤さんが来て公演の打ち上げをやるからどうぞと誘われて、こちらにも赴きました。

先日、新体道のパーティーで近藤等則さんと話していたので、挨拶に行きましたが、何と! 近藤さんは私の顔を全然覚えていなかったみたいで、いやはや、正直、ショックでしたね〜。なんか、拍子抜けしてしまいましたが、音楽に疎い私にそれ以外の話題を振って話す勇気もないので、まあ、しばらく飲んで、翌日の朝一のバスで帰る予定だったので、早めに(といっても既に深夜)宿に帰りましたが、大した距離でないから歩いて帰りますと言うのにスタッフの方がわざわざ車で送ってくださいました。本当にありがとうございます。

翌朝、バス停に行くと、ボランティア・スタッフとして参加していた女性も帰るところだったそうで、ダンス講評の時にアシスタントをやってくれていた人だったので、お礼のつもりで本をプレゼントしておきました。

一緒に音響効果を担当していた男性スタッフも帰るところだったんですが、彼らの話を聞いていると、こういったイベントがいかに裏方のスタッフに支えられて成立しているのか?ということがよく解ります。

昨年も、事務局の斎藤さんの八面六臂の活躍っぷりには舌を巻いていましたが、フェスティバルの成功するか否かは、やはりスタッフの努力が一番ではないかな〜とつくづく思いました。

月並みですが、人間は独りじゃ何もできないし、見えないところで色んな人達の助けを借りているんだな〜と、今回も痛感したものでした。それを自覚し感謝の気持ちを忘れないよう心掛けなければいけないと思っています。

例えば、今回、私一人だけだったらワークショップはこなし切れなかったでしょう。

助手として参加してくれた師範代と支部長のお陰です。

それに、現場での参加者の調整をしてくれていたスタッフの人達の苦労もあったに違いありません。そういったことを私が何も考えなくなってしまったら、多分、誰も相手にしてくれなくなるでしょうし、仕事のお呼びが無ければ自由業は成立しなくなるのです。

人間失格になるかどうか?は、感謝の気持ちの有無によるのかも知れませんね。

大体、私は元来、独りで刀研いでたり原稿書いていたりTVや映画観ていたりする方が好きな完全なオタク体質の人間なのです。

自主映画作っていた頃も、完成した映画を観て皆で騒ぐよりも、作ってる最中の方がずっと好きでした。

今も皆で稽古している時が一番楽しいし、終わってからケンタやデニーズでオタク話している時がリラックスできて好きなんですね。

白州ダンス・フェスティバルに二度も参加させていただいて、色々な公演ももちろん素晴らしかったんですが、現場でコツコツと働いているスタッフの人達の様子を見たり、ちょいと小耳に挟んだ裏話とかが妙に感動をそそられたりして、そういうところも面白い。

どうも、私は物事の“裏側”により関心を惹かれてしまいやすい性質なのかも知れません。

だから、より存在としての深みを感じさせてくれる人に魅力を感じるし、薄っぺらな見せかけだけの人間って好きになれないんですね。

でも、世間的には薄っぺらな人間が人気を集めたりしているんだから、なんだかな〜って感じですね。

オタク体質だから、ディープに追究しちゃうだけなのかもしれませんけどね。

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2006/08/22 日野さん、お見それしました・・・

芸術劇場で「日本人で唯一、フォーサイスのダンス・カンパニーに所属する女性ダンサーが武道家を紹介する」という内容で日野晃さんのワークショップの様子を放送していまして、私もダンス・フェスティバルに参加している身として興味深く拝見しました。

最初にお断りしてしまうと、私は日野晃さんの武道家としての実力とか在り方とか、そのようなものには特に関心もありませんでしたし、過去にビデオ映像等で見た時もさしたる感慨は有りませんでした。

はっきり言ってしまうと、「な〜んか、ハッタリ臭いな〜」という胡散臭い印象を受けたのと、元々、自己啓発セミナーの講師をやっていたという話を小耳に挟んでいたのと、少々、誇大妄想チックな話(「俺は初見先生を超えてしもうたでぇ〜」って話。ホンマかいな?)をしているという日野さんのセミナーの受講生の方の話を聞いていたので、あまり良い印象が無かったのが偽らざる本音です。

だから、フォーサイスの日本人女性ダンサーの方が、元々は伊藤昇先生のお弟子さんであるという点からも、「なんだかな〜、伊藤先生が健在だったら出る幕なかったんじゃないのかな〜?」という意地の悪い感想も持っていた訳です。

でも、今回の番組を見ていて、日野さんの立ち居振る舞いや肩の力の抜けたリラックスした様子を見ていて、いや、中々、肚の座った人ではないか?と、正直、見直したものでした。昨年のダンス・フェスティバルでの私の様子と比べると、ずっとリラックスしています。いや〜、参りました・・・。

肝心の武道らしきテクニックはほとんど見られず、暗示感応性の高い心法技術を応用したボディワーク(新体道やメビウス気流法に近い)と、合気的な身体操作技術を教えているようでしたが、非常に繊細な感受性を要求される気功や瞑想にも通じる水準の感覚技法の講習(どうも、流行みたいですね)を意図していた様子で、「これは一般の武道や格闘技を学ぶ人や全くの素人には難し過ぎるんじゃないかな〜? それに下手をすると過剰反応するタイプの人間を勘違いさせてしまうかも知れないし・・・」と、要らぬ心配もしてしまいましたが、逆説すれば、それほどの高度な武道の極意に通じる内容を指導しようとしていたようでした。

何はともあれ、武道や武術が世間一般から注目を浴びるのは、その世界に身を置く者の一人として歓迎したいところです。

後は、誤解や曲解を世間に広めないように正確な知識と情報が広まるよう、私は研究家として気を引き締めていかなければいけないな〜と思わされました。

追伸;日野さんって、意外と目がキュートですね。

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2006/08/13 空手道DVD付き教則本、ついに発売!

長らくお待たせしましたっ!

以前から告知しておりましたDVD付き空手道教則本がようやく発売になりました。

タイトルは、『DVDで見て学ぶ 基本を極める! 空手道実践トレーニング』となりました。

発売は永岡書店。実用書を中心に出している出版社です。

お値段は、DVD付きでB5判という大きさにもかかわらず、なんと1500円(税抜き価格)という安さ!(もう、“!”ばっかりですよ〜)

もう、製作中はスタッフ一同、気ぃ狂いそうになるくらい大変でしたけど、できた本の立派さに苦労した甲斐もあったというものです。

そして、お待たせしました。やっと解禁です・・・。

著者は、伝統空手の世界で知らぬ人はいない伝説の世界チャンピオン、香川政夫先生!

なんてったって、形と組手の両方のチャンピオンになった、空手界に金字塔を打ち立てた方ですからね〜。

いや、「名人は必ずしも名師にあらず」という格言をも引っ繰り返し、形も組手もチャンピオンを育てられていて、伝説はまだまだ終わらないのです。

もちろん、私も月刊空手道で仕事を頂戴していた以前から香川先生のお名前は存じ上げていたのですが、今回の取材を通して“香川空手”のトレーニング理論、戦闘理論、そして空手を通じて得た武道哲学の素晴らしさに、本当に惚れましたね。

本当に強い人は人柄も良い。それに謙虚ですよ。

松涛館流の師範でありながら、今回、「どうせなら全空連に所属する四大流派全部を出してみたら?」と、物凄い提案をしてくださり、当初の初心者向けの教則本という企画を太陽系の果てまで蹴り飛ばしてしまうような前人未踏の伝統空手の決定版的な内容のDVDブックという企画へと一気に膨れ上がったのです。

正直いって、他のスタッフの方々は、この企画の意味がどれほど型破りの驚天動地な事柄なのか?ということはピンと来られていなかったと思うのですが、取材時に同席した私は驚いたのなんのって、なかったですよ。

だって、まず第一に、空手に限らず、いかなる武道家も、「自分がやっている流儀こそが最高のもので他流儀のやり方は間違っているのだ」という強固な思い込みを大なり小なり持っているものなのです。香川先生だって例外であろう筈がない。

それなのに、ムック本ならまだしも、自身の本で糸東流・剛柔流・和道流も載せようというのですから、これはもう驚きましたよ〜。なんという器の大きさ! “流派によって解釈は違っていても空手は空手”という明確な理念が無かったら、絶対に出てこない発想でしょう。

かくして、このDVDブックは21世紀に相応しい伝統空手の世界の流派を超えたトップレベルの選手を揃えた最強の布陣で製作されました。

松涛館流は香川先生の育てた香川空手の体現者、永木伸児選手。昨年の全日本大会での決勝戦は神話となる名勝負でした。

糸東流は紅一点、空手界のアイドル、諸岡奈央選手。もう、形の美しさ、手刀の素早さは芸術品です。撮影直後の相模原市で開催された大会では堂々の優勝でした(おめでとうございます)。

剛柔流は好漢、古川哲也選手。那覇手の流れを汲む剛柔流の重厚で粘り強いムチミの表現と、腹から絞り出す息吹の呼吸音・・・。撮影陣が息を飲んで観詰める程の圧倒的な迫力でした。

和道流は理知的で気さくな古橋卓也選手。古流柔術と沖縄空手がフュージョンして誕生した和道空手。その若き体現者として参上してくださいました。

いや〜、とにかく、もぉんの凄ぉぉ〜く大変な撮影でしたけど、永木さんは出ずっぱりで頑張ってくださいましたし、諸岡さんも大会の直前なのに撮影に参加してもらい(それでも余裕の優勝!)、本当にありがとうございましたと言いたいですね。(でも、一番の功労者は、永木さんの相手役をやってくれた山口さんですかね〜?)

香川先生にも今回、色々と撮影させていただきました。
“蹴りの香川”と異名をとった伝説の蹴り技も、何と! 50歳を越えた現在もいささかの衰えもなく繰り出して見せられたのには唖然となりましたね〜。身長が190cmもある息子さんを相手にヒョイッとばかりに頭に蹴り足が届くんですから参りました・・・。

もう、『死亡遊戯』で、カーリム・アブドゥール・ジャバールを相手にハイキックを放つブルース・リーを彷彿とさせましたが、本をご覧いただけば判りますが、香川先生は上体をほとんど垂直に保ったまま蹴っているんです(リー先生は上体を寝かせてます)。

凄過ぎて魔法に見えました・・・。

取材時に香川先生は肩の寸勁までやってみせられていた(受けたスタッフがビューンってふっ飛んだ)ので、写真撮影の時に永木さんにゼロインチ・パンチをやってもらいました。空手の突きは基本からしっかり訓練すれば自然に発勁と同じ効果が出せるという証明をしたかったのですが、その秘密は、骨盤の回転と肩(肩甲骨)の柔軟性にあるんですね。 肩の柔軟性は、沖縄空手でコッカケと呼ばれる練法で養成しますが、香川先生はボクシングを研究して独自に考案されたそうです。が、松涛館流の大先輩である浅井哲彦先生は台湾で白鶴拳を研究して同様の練法を考案されていたそうで感慨深かったそうですね。

また、香川先生の運足法は、縮地法を使っているんですね〜。恐らく、縮地法という言葉はご存じないと思うのですが、それがまた非常に緻密に工夫されていて、理に適っているんですよ〜。まさか競技試合の世界で古伝の技法を活かして使われているとは夢にも思わなかったですね〜。本当に参っちゃいましたよ〜。

さてさて、私もお手伝いした、理論と実技を兼備した空手道の基本にして極意を詳解したウルトラ・ゴージャスなDVDブック。買わなきゃ七代先まで後悔が残りますぞよ。

 

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2006/08/12 やくみつるは立派!

朝のワイドショーに亀田父ちゃんが出演するということで、いつもは見ていたんですが、その日は見ませんでした。

どうせ、亀田父ちゃんの一方的な話をたれ流してお茶を濁すだけなんだろうと思ったからです。コワモテの亀田父ちゃんの浪花節で世論の流れを変えようとするだけだと思ったんですね。腰の引けた左翼系コメンテーターがまともに討論するとも思えなかったし。

でも、見れば良かったな〜。失敗した〜。

亀田父ちゃんと討論した漫画家のやくみつるは、臨戦モードで臨んで亀田父ちゃんに対して一歩も退かなかったらしい。ガッツ石松も居たとはいえ、あのヤンキー・オーラを丸出しの親父に対して、パロディ精神でまともにぶつかったやくみつるは、本当に度胸があるな〜と思います。

漫画家といえば文化系の典型であり、口先でいかに硬派ぶっても生々しい暴力的雰囲気を目前にしたら気力が萎えて怯むのが普通だと思っていたんですが、ギャグ漫画家のやくさんがそこまで身体張って臨んでいたとは失礼ながら予想もしませんでした。

けれども、そんなやくさんのパロディで諌めた行為を皮相的に受け取って非難している頭の悪い人達の多さには、呆れます。

やくさんが何を意図して亀田父ちゃんを挑発してのけたのか? それは、息子にヒールを演じさせて人気を集めさせようとする父親としての教育姿勢の欠陥を自覚させるためなのは誰にだって解る筈なのに、どうして真意を無視して表面的に解釈するのか?

ああいう行為は、相手に対する覚悟を持った愛情が無ければ絶対にできない。陰に隠れて中傷しているんじゃないんです。目の前でやってのけるということの意味がどういうことなのかを考えて欲しいのです。

息子を護りたいと思うのなら、敵意を剥き出しにするのではなく、批判意見に耳を傾けて自分達の至らない点を自覚して直していくのが必要なのであって、それができないなら黙して語らず自分達のやり方を貫けばいい。どちらかと言えば、亀田親子は「いいたいヤツは勝手にいっとれ!」と一言だけ発言して、後はじーっと籠もってトレーニングに専念していた方が良いでしょう。次の試合で完全KOすれば世論の流れは変えられるから。

メディアに出てきて発言するなら、批判意見にきちんと答える義務が出てくるし、感情的になって脅したり開き直ったりしてみせるのは恥さらしというものです。

あの試合に関しては素人目で見ても裏が有るのが感じ取れるのだし、そういうメディア戦略の“あざとさ”に対して批判が集中しているのだから、それを無視して試合の勝ち負けなんか論じても意味がありません。

やくさんにしろ、ガッツさんにしろ、批判していても根底には愛情が感じられます。

それが解らない人達が多いのが残念ですね。ボクシングの素晴らしさより亀田選手というキャラクターが好きなんでしょうが、憧れだけじゃなくて、本当にボクサー亀田のファンだったら、試合の勝ち負けではなくて内容について冷静に意見して欲しいですね。

例えば、私は甲野善紀さんが大嫌いです。嫌いな理由を書けば一晩で本一冊書けるくらいです。

しかし、個人的感情を別として認められる要素は少なからず有るな〜と思っています。

それは、第一に、社会的に武術が評価される土壌をほとんど独力で開拓したという点です。誤解や間違いを広めてしまった責任を取って欲しいとは思いますが、世間一般に武術に対する関心を喚起させた手腕は恐るべき宣伝(洗脳?)能力だと思います。

率直に申し上げて、私も見習うべき点が少なくないな〜と思ったりしています。無論、私は嘘は言わないように気をつけていきたいと思っておりますが・・・。

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2006/08/12 『悪魔くん』は凄い!

「エロイム・エッサイム、エロイム・エッサイム、我は求め訴えたり・・・」という呪文が『(旧)魔界転生』の沢田研二演じる天草四郎のセリフなのは知っていても、それが元々は水木しげるの傑作『悪魔くん』で、悪魔メフィストを呼び出す呪文なのを知っている人は少ないでしょう。

実は、私も『魔界転生』が初めてなんだと思っていたんですが、幼少の頃に『悪魔くん』を観ていたんですね〜。記憶に残っていたのは“マネキン妖怪”と“ペロリゴン”“百目(ガンマー)”“雪女”の断片的な映像と、メフィスト役を演じたのが仮面ライダーの地獄大使役が知られる潮けんじさん(後輩の面倒味の良い優しい人だったそうです)だったという点くらいでしたが、東映チャンネルで改めて観てみると、いやはや、これは凄い番組だったんだな〜と思いました。

まず、メフィスト役は前半は吉田義男さんが演じており、シバの大魔神の回で弟に代わるという交替劇を組み込んであります。

吉田さんも潮さんも既に故人ですが、東映の名バイプレーヤーとして数多くの作品で活躍されていますが、主役は少ないので、『悪魔くん』は代表作と言っても良いのではないでしょうか?

それにしても、白黒映像は怪奇ムード満点で、妖怪の造形が多少粗雑でも逆に怖さが際立って見えるから凄いものです。ストーリーそのものはコメディタッチな明るいものですが、ゴシックホラー的な雰囲気が鬼太郎とは対象的で、何より実写であるという点が野心的に見えます。『赤影』や『月光仮面』『レインボーマン』『レッドバロン』といった実写の特撮番組が後にアニメ化される場合も少なくありませんが(アトムや鉄人28号も)、実写が面白いとアニメはつまらなくなるという場合がほとんどです。この『悪魔くん』も後にアニメ化されていますが、鬼太郎のような印象の強さは残せませんでした。

さて、その原点たる『悪魔くん』を見ていると、敵の妖怪も巨大化する率が高くて怪獣物の雰囲気が感じられます。ペロリゴンなんてそのまんまの怪獣も出てきますが、こちらは原作ではビチゴンという名前でビチ(ウンチ)を吐き出すという恐ろしい怪獣です。こんなのが出てきたらウルトラマンでも逃げ出すでしょう。

ところで、鬼太郎の実写映画は順調に撮影進行してるんでしょうかね?

鬼太郎の実写第二弾(第一弾はTVのドラマランド・スペシャル)としてVシネマで製作された『ゲゲゲの鬼太郎・魔笛エロイムエッサイム』は、鬼太郎と悪魔くんがタッグを組んで妖怪と戦うという『マジンガーZ対デビルマン』みたいな作品でしたが、東映の宇宙刑事シリーズを撮ってた監督さんだったので、何か妙にヒーロー物っぽかったです(でも、ストーリーはさっぱり覚えておらん)。

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2006/08/11 平日夜間セミナー

8/22 「太極拳で闘えるか?」化勁の原理と套路の用法を探る

9/5  「合気武術・演芸と実用技の境界線」演芸で仕組みを理解し応用法を工夫する

9/19 「剣術と交叉法」剣を用いて無刀に到る

10/3 「続・剣術と交叉法」剣術は全ての武術に通じる

10/17「古武術と現代武道の接点」古武術と現代武道は対立すると考える誤解

全て火曜夜7:00〜9:00

料金 三千円 場所 東京学院2F教室(水道橋駅より徒歩2分)

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2006/08/11 高小飛先生、取材

先日、新しく出す本のインタビュー記事作成のために高小飛先生の教室にお邪魔させていただきました。

練習後にインタビューを・・・と思っていたら、練習時間中に実演解説をしていただき、インタビュー記事とする予定でいた質問内容について全て実演指導付きで説明していただくという、何とも贅沢な取材となり、改めてインタビューする必要が無くなってしまいました。

高先生に聞こうと思っていたのは、気功と太極拳、そして太極拳の武術的実用についてだったのですが、実に秘伝に属する筈の原理的な身体操作についてあっけらかんと説明していただき、こっちが面食らってしまいました。

太極拳の化勁を受けた師範代も、「太極拳の推手がこんなに奥深いものだとは初めて知りました」と喜んでいました。

普段、高先生から八卦掌を習っている会員さんも、呉派太極拳の巧妙な化勁の技法に感動した面持ちで興奮を隠せない様子で、「高先生はいつもはあんな細かいところまでは教えてくれないので、今日はラッキーでした」と話していましたけれども、「相手のレベルに応じて教えないと初心者に細かいことを説明し過ぎると甘く考えて練習しなくなってしまうからでしょう」と、私なりの見解を話しておきました。

実際、練習後に夕食を御馳走になった時、「一回だけ来て二度と来ない人が多い」とぼやいておられましたが、武術に限らず、身体を使った技芸は、地道な基礎練習をしっかり積まないと、基本ができていない段階でいくら技を教えたところでものにならないという当たり前のことを理解できていない人が増えているのではないか?と思われました。

例えば、私はセミナーの時は湯水のように次から次に色々な技を教えます。

しかし、通常の稽古会では基礎練習の後は延々と対錬をやらせたり意外と地味なことしか練習していません。

セミナーは、イチゲンさんが多いから、楽しんでもらおうと思って、ものにできないのは百も承知で知識先行で教えていますが、通常の稽古会では基本的に数年間の修行を通してしっかり実力をつけてもらうために段階的に教えている訳です。

つまり、「容易に教えない」というのは、逆説的に「本気で教えるつもりである」ということなのです。

だから、最近は初級と中級に分けましたが、基本ができていない人にしっかり基本を養成してもらうために分けたものです。秋からは段級位制度も導入することに決めましたが、これも要望が多いのと、自分の実力を勘違いする人間が出ないようにするのが目的です。

私自身は、他人に決めてもらう必要なんかないと思っていたのですが、舞い上がって自分を見失うよりはずっとマシでしょう。他流で黒帯だった会員も何人もいるので、何も無いというのも問題かな〜?と思ったこともあります。

さて、大体、技を教えたがる人というのは、自慢したいだけなのです。武術の技は出し惜しみして見せない人の方が本物と言っても過言ではありません。

例えば、私が習った先生は、部外者にはさっぱり技を見せませんでした。教えている弟子に対してさえ、本気で学びたいか才能の有る人にしか肝心な点は教えようとしていませんでした。中途半端な実力の弟子を出したくなかったみたいです。

私にも、「おい、お前が武道のことをとやかく言ったら承知せんぞ!」と脅かされたこともありました。先生の意識では、私のようなハンパ者が武道についてとやかく論評することがおこがましいことだと思われていたのでしょう。それだけ武道について真剣で厳しい考え方の先生であり、だからこそ、私は生涯の師と想っている訳ですが・・・。

ただ、この時は、私もちょっと腹が立ったので、「いいですよ。僕は先生に認めてもらわなくて結構です」と言いました。ハンパな気持ちで武術の研究をしてきているんじゃないと言いたかった訳ですが・・・。

身過ぎ世過ぎのために武術指導を生活の糧にしてしまった私は、こんな程度の技量で人に教えていいものか?という後ろめたさが今も拭いきれません。

けれども、ここ一、二年で他流でしっかり腕を磨いてきた人達が游心流を気に入って入会してきてくれていることが、私にとって励みになっています。教えながら自分も学ぶというスタイルが性に合っているのかも知れません。

自分の力を無理やりに信じてやってきましたが、その実、会員さん達や友人、知人、家族に助けられてやって来れました。そして、全国の名も知らぬ読者の皆さん方の声無き応援のお陰です。

おっとっと・・・私事の愚痴になってしまいましたね。

高小飛先生とのお付き合いも9年くらいになりますが、ず抜けた発勁の威力と巧妙な化勁、それに温厚な人柄と内に秘めた闘志・・・。本当に素晴らしい武術家です。

先年亡くなられた現代中国の十大名人の筆頭だった王培生老師の薫陶を受けて、王老師の技を理想として追求されている高先生の存在は、本物の中国武術を学ぶのが難しい日本の中であまりにも貴重です。本気で学びたい人にこそ、高先生の素晴らしさを理解して欲しいと思います。

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2006/08/07 舞踊と武術

どうも、武術・武道をやっている人にとって、ダンスというものは否定的なものに見える様子で、「踊りみたいな動きで人は倒せない」と蔑称として用いられる場合が少なくないようです。

しかし、本当にそうでしょうか?

私は、一時期、舞踊を観察することに躍起になったものでした。フラメンコ、クラシックバレエ、ブレイクダンス、パントマイム、前衛舞踏(パフォーミングアーツ)、能、日本舞踊、インド舞踊、バリ舞踊、ベリーダンス・・・等々、機会がある度に鑑賞し、いくらか体験してみたこともあります。

もともと、私が武術に興味を持ったのは、TVドラマや映画の“殺陣”からでした。

御承知と思いますが、殺陣というのは、歌舞伎・日本舞踊の中の“立ち回り”から始まったものです。棒や剣、槍、薙刀等を用いた立ち回りの型がチャンバラ映画の中で醸成されて殺陣というものが発展していったのです。

初期のチャンバラ映画のヒーローは、歌舞伎出身の人がほとんどで、“目玉の松っちゃん”こと尾上松之助とかいった立ち回りの上手い役者がいたのです。

後には、坂東妻三郎、嵐寛十郎、片岡千恵蔵とか市川右太衛門、近衛十四郎といった剣戟役者が現れています。

若山富三郎先生や勝新太郎だってデビューの頃は白塗りの美男役者だったのです。

香港の武侠映画が日本のチャンバラ映画の影響を受けているのは有名な話です。台湾の黒沢明と呼ばれた『血闘!龍門の宿』『大酔侠』等を撮ったキンフー監督や、あのブルース・リーが勝新の座頭市に大きな影響を受けていたのも知る人ぞ知る話です。

実際に、香港武侠映画を観ていると、座頭市、子連れ狼、木枯らし紋次郎を真似したシーンが時々でてくるものですが、既に当たり前のように出てくるものとしては“忍者”があります。

忍者のルーツが中国の“用間の書”に有るとは言われるものの、中国には忍者そのものはいません。似たような存在としては飛賊と呼ばれるものがありますが、これは泥棒のようなものなので忍者とは言えません。

しかし、香港映画で忍者は人気者らしく、チン・シュウトン監督の作品では必ずといって良いくらい忍者が登場します。何しろ、デビュー作『生死決(妖刀!斬首剣)』からして中国剣士と日本の柳生新陰流の剣士(なんと、宮本一郎という名前!)が対決するのですが、それに日本の将軍の命令で忍者軍団が中国に来てなにやらやらかす(スマン、忘れた)という話でした。

その他にも、『少林拳対忍者』『龍の忍者(真田広之が熱演しているのに途中から完全に

バカ映画になってしまう)』『スウォーズマン女神伝説の章(服部半蔵が出てくる)』等々、もう、発狂しそうなくらい、すんごい数の忍者が出てくる映画があります。

まあ、それくらい香港のアクションには日本のチャンバラ映画の影響があるということなのです。

一方で、ハリウッド映画でも黒沢時代劇の影響で、例えば『コナン・ザ・グレート』みたいにソード・アクションに日本の殺陣が採り入れられたりしていました。

要するに、舞踊から派生した殺陣が国境を超えて様々な地域の映画に影響を広げていっているのです。

さて、それでは、舞踊の中の殺陣はどこから来ているのでしょうか?

私が研究している限りに於いて、これはやはり武術がルーツのようなのです。

日本舞踊の立ち回りの動作は、明らかに江戸時代頃の侍の所作が入っていますし、剣や槍、薙刀、棒の使い方には古武術に通じる基本的な動きがそのまま導入されています。

恐らく、こうした動きは民間伝承される踊りの中にも有ったのではないかと考えられるのです。

その一例が、名古屋地方に伝承される“棒の手”です。

以前、学生時代に同級だった友人に名古屋出身の人がいて、学校で練習させられたと言って、棒の手を演じてもらいましたが、その動きは尾張に今も伝承している新陰流の体捌きにそっくりで、かなり驚かされたものでした。

この“棒の手”のような民間芸能として伝承されている踊りの中には、ルーツが武術に有ると思われるものが結構あるようです。

確認はしていませんが、タイ捨流が伝わった熊本県人吉地方にも“棒の手”があるそうですし、沖縄の踊りには空手の古式の身体操法が隠されていると言われています。

インドのカタカリ舞踊にもインド武術が内蔵しているとされますし、ブレイクダンスの一種として広まっているカポエィラが黒人奴隷が踊りの動作の中に紛らわして始めた武術というのも有名な話です。

また、最近になって格闘技のドキュメンタリー番組で知ったことですが、ロシアの舞踊はそのまま武術になる?という驚愕の真相が紹介されていました。

私も舞踊を研究してみて感じたのは、武術を学ぶのに舞踊は有益になりこそすれ弊害はほとんど無いということです。

いや、むしろ、武術の場合、身体の動きと精神の働きを一致させるのは難しく、長く修行している人に限って、身体の動きが堅く筋肉に無駄な力み癖が出ている場合が非常に多く、視野狭搾に陥って柔軟な思考力が無く、頑迷で思い込みが激しく頭の働きが悪いというダメダメな例が随分多いのです。

もう、「武術とか武道なんてやめなさい」と言いたくなるくらいマイナスの修行に熱中している人達が多いのです。

どうしてこうなってしまうのか?と言いますと、筋肉ばかり鍛えようとするからです。

筋肉バカという言葉がありますが、筋肉を必要以上に鍛えると頭が悪くなります。

まさか〜と思われるでしょうが、本当です。

人間のカラダで最もエネルギーを消費するのは脳です。全身の筋肉を必要以上に膨らませてしまうと、本来、使われるべき脳のエネルギーが全身の筋肉に奪われてしまいます。

従って、エネルギーの足りなくなった脳は、本来の働きを失っていってしまう・・・という実に単純な仕組みです。

皆さんも、単純な肉体労働者や体育会系の筋肉ムキムキの連中がすごく頭が悪い実例の一つや二つはすぐに思いつくのではないでしょうか? 太くなった筋肉を維持するにはそれだけエネルギーが余計に必要となる。だから、脳に回るエネルギーが足りなくなるということを認識し、どうしても筋肉ムキムキになりたいのなら、食事量をそれだけ増やすとかサプリを摂るとかしてください。私も、14年くらい前に毎日7〜8時間も猛練習していた時期は、明らかに頭脳の働きが悪かったですね。

ですから、運動という面から考えても筋肉を膨らませるのではなく、柔軟にしなやかに全身を協調連動させ軽やかに動くダンス系の方が無理なく自然にできて良いのです。

武術に応用する場合の最も欠けていると思われている「敵を倒す威力」という点も、実は筋肉の収縮力ではなく重心移動によって生じるエネルギーを利用した方がずっと大きな力が生み出せ、それはダンスの練習の方が適しているのです。

つまり、ダンスを練習して、武術的な戦闘理論を覚えれば、それだけで十分に戦えるようになるのではないか?と私は考えているのです。

武術は筋肉力に頼るものではありません。

先日、大阪セミナーの時に大太刀を持って行きましたけれど、筋トレしている参加者でも抜いた瞬間、刀を片手で支え切れずに取り落としそうになっていたのに対して(普通の刀の二倍以上の重さだから仕方ないけど)、見るからにひ弱そうな肉体の大阪支部長は、スルリと抜いてスルリと納める動作のどこにも力みが無く、しかも左手でも同等以上に抜き納めしてみせていました。

つまり、腕の筋力だけで刀を支えるのでなく、むしろ腕は脱力して全身を統一体として刀

の重さを全身で支えていたという訳です。このような刀の使い方は、田村正和サマが抜群に上手いですね。

ちなみに、大阪支部長は武道・武術の経験はさっぱり無く、戦闘的な気質も皆無ですから、私は正直いって、武術がものになろうとは思っておりませんでした。

ところが、努力すれば人はこんなに変わるものなんだろうか?と驚くくらい地力もついてきて、でも性格は最初に会った時の“おもろい兄ちゃん”のままです。この、性格が変わらない“お笑い系”のままというところがいいですね。ちょこっと実力がつくとすぐ思い上がる未熟な人間が多いですから・・・。

ともあれ、游心流で秘伝扱いしてきたのは“交叉法”が第一でしたが、もう一つ、“舞の手”というものがあります。

前者は戦闘原理ですが、後者は游心流の極意を凝縮した無形の武踊型です。

前者はそこそこ基本的なことは教えて来ましたが、後者はずっと熟成させるだけで指導項目からは外していました。

理由は、“教えようがない”からでした。

また、求める要求のレベルが高過ぎました。楷書・行書のレベルを超えて草書の型をいきなり学んでもどうだろうか?と思った訳です。

しかも、楷書・行書をきちんと学べばできるようになるか?というと、どうも、そうなれるのはとてつもなく少ないような気もしました。熱心にやっている人ほど、逆にできない。形にはまり込んでいくばかり・・・。

けれども、今年に入ってクエストさんでDVD撮影をした時くらいから、「どうにかこの感覚さえ伝えられれば教えられるかな〜?」という感触は得られました。

その実験として、今月の白州ダンス・フェスティバルのワークショップでやってみて、更にそれを精錬して、月例セミナーと特別集中セミナーで、お伝えしてみようと思っています。

一つだけ注意点を書いておきますと、私はこれまで“気”については言葉として使わないようにしてきました。

勉強していない訳ではありません。むしろ、積極的に色々勉強しました。

曖昧な表現をすれば神秘的なものと誤解されるのがオチと考えて、敢えて使わないようにしていたからです。

しかし、この“游心流舞の手”は、気の感覚を最大限に駆使しなければできません。

ブルース・リー言うところの「考えるな。感じるんだ!」の世界です。つまり、動的瞑想法であって無意識の動きを誘導して踊りの形にしていくものです。

と同時に、丹田と軸の感覚に従い、意識的な動きを超えた無意識の動きを呼び醒ましていくものです。だから、セオリーはありません。これまでの理論的な技術解説とは真逆になりますから、その点は御承知おきください。

ともあれ、今夏は従来の武術の原理解説から一歩進んで、武術文化の中に眠る心身機能開発の秘密について抽出していく実践研究に突入していく所存です。

誰もが達人の秘技を体得し、武術の中に隠されていた秘密を発掘していく作業を楽しんでいただきたいと思っています。“神秘の技”なんてものは存在しません。人間の心身の働きこそ神秘そのものなのです! それを解明していけば、誰でも「自分にはとてもできない」と思い込んでいた枠組みが外れていくのです。

追伸;我が愛刀“美火月丸”の刀身を砥石で地道に磨いておりますが、刃紋が浮かびあがってくる様子は不思議な感じがしますね。ミニグラインダーで磨いて銀色に光っていた刀身に水をかけて砥石をゴシゴシかけていると、粘土状の研ぎ泥が溜まる。そこに水をかけてティッシュでふき取り、また砥ぐ・・・という作業を何度も繰り返しているうちに、ある瞬間に刃紋が映っている。いや〜、本当に不思議な感じがします。そして、研いで刃紋が浮かびあがったものを見て、何ともはや、我が愛刀ながら、凄まじいばかりに見事な刃紋が映り出てきました! 単に稽古用にと思って注文した大太刀だったのに、これは神社の奉納刀にも優る美術刀剣としての真価を秘めています。これはきちんと専門の研ぎ師に依頼した方が良いかも知れないな〜と思ってしまいましたが、互の目乱れに丁子風、逆丁子に三本杉、濤乱刃の風合いもあります。私は刃紋は派手な乱れ刃が好みなので、これはまさに理想的に好きな感じですね〜。もう、研いでいるうちに感動して観惚れちゃいましたよ。恐らく上研ぎに出したら百万二百万はポンポーンと越える値段の立派な現代美術刀剣になるでしょうね。いや〜、50万そこそこでこんな凄い刀が入手できて、しかもハンドメイド気分が満喫できる(普通はこんな面倒臭いことはやりたがらないでしょうがね)なんて、「ボカァ〜幸せだな〜」って加山雄三の気分です。刀負けしないように稽古しなくっちゃいけませんね。

追伸2;長らくお待たせしておりましたが、平日夜間のワンテーマ・セミナーも再開致します。急遽、8月10日(木)の夜7:00〜9:00に第一回『空手道の復権』というテーマで行います(二回目以降は日取りを調整中です)。私も製作スタッフで参加しているDVD付き空手道教本の発売記念も兼ねて(会場にて販売予定)、空手道に関して様々な角度から迫ってみたいと思っております。前半は解説。後半は体験実習です。告知が遅くなってしまいましたので、今回は予約無しでの参加も受け付けます(できれば予約をお願いします)。会場は、いつもの水道橋駅近くの東京学院2F。料金は3000円です。(終了後は近くの喫茶店にて軽くコーヒータイムを過ごします)

追伸3;8月12日の駒込稽古会の中級クラス(1:00〜3:00)は、長野の帰省により師範代指導による自由研究稽古となります。19日は通常通り。26日は朝から終了時刻まで特別集中セミナー開催につき通常稽古はお休みとなりますので、お間違いありませんよう、お願いします。今夏はセミナーを色々(平日夜間・月例・特別集中・健身法)取り揃えておりますので、初めての方、以前に参加して御無沙汰の方等々、奮って御参加ください。尚、九月からは色々と会の“模様替え”をおこなう予定でおりますので、セミナー参加は今夏がお薦めですよ。(今秋以降は、長野は物書き稼業の方に力を入れて直接指導の機会は徐々に減っていくと思います。実は既に隠居モードに入ってたりする?)

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2006/08/06 日本一活躍している武道家は誰?

近年、最も活躍著しい武道家というと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか?

甲野善紀さん? 確かに活躍されていますね。飛ぶ鳥を落とす勢いと言っても過言ではないでしょう。本も沢山書いてNHKを中心にTVにも出ていますし、新聞や雑誌にも熱狂的な支持者が多いみたいです。

あるいは宇城憲治さん? 甲野さん程ではありませんが、本も書かれてTVにも出られていましたし、極真史上トップレベルの実力者であった数見さんに指導されていることでも知られていますね。

その他、思いつくままに挙げれば、高岡英夫さん、日野晃さん、河野智聖さんといった方々がすぐに思い浮かびます。

が、武道家でありながら、武道を表看板にせずに西へ東へと日本中を飛び回って八面六臂の大活躍をされている方がいることをご存じでしょうか?

その人は、宇宙刑事キタシバン!・・・(あっ、間違った)・・・元警視庁刑事で危機管理のエキスパートにして数々のニュース番組で事件のコメンテーターを務めるのみならず、事件現場まで赴いてプロファイリングする「事件は現場で起きている」という現場主義の実践派の北芝健さんです。

私が北芝さんと知り合ったのは、全くの偶然で、昨年の大晦日でした。

私達の練習の後に北芝さんが館長を務める沖縄空手の道場“修道館”の稽古があるということは知っていましたが、2回くらい顔を合わせて御挨拶した程度でした(最初は、練習中に蛍光灯を割ってしまったのでお詫びにいきました)。

劇画の原作をされているという話を人伝えに耳にしていたものの、その当時は作品名を知らなかったので読んでいませんでしたから、「こんにちは」「失礼します」くらいの言葉しか出てこなかった訳です。(現在、北芝さん原作の『財前丈太郎』がTV朝日水曜ド深夜に放送中です)

と言うのも、これまで私は武道・武術関係者との付き合いであまりにも誤解を受けることが多い(直接、話し合えば何でもないことなのに第三者の話を鵜呑みにする人の多さは呆れるばかり。“裏をとって客観的に判断する”という大人の対応法があることを知らないんでしょうかね?)ので、正直、ウンザリしていまして、武道家(武術家)様方と交流するのは極力、避けていこうと思っていたところだったのです。

武道家・武術家と言われる(と言うか自分で言ってる)人達は、独善的で、思い込みが激しくて、案外、陰湿な性格の人が多くて、付き合うのに疲れるタイプの人がメッチャクチャに多いんですね〜。他人から崇め奉られたくってウズウズしているのに謙虚そうに振る舞うから始末におえません。

ジャイアンとスネオが合体したタイプだと思えばいいでしょう。

私が武術家なんて死んでも名乗りたくないのは、そういう人達と同列に思われたくないからです。正直言って。

セミナーの時も参加者の人に言いましたけど、私は自分の腕前なんか認めてもらわなくていいんです。他人に認めてもらいたくてやっていることじゃなく、自分がやりたいからやっているだけ。続けていけば今よりずっとできるようになっていくという確信があるから、他人の評価なんか必要ありません。それに、自分が遥かに及ばない人が沢山いるのは充分に知っているし、実際に格闘技の選手とかと試合して勝てる訳ないのも理解しています。勘違いするような馬鹿じゃありません。プロの練習を見て真似してごらんなさい。素人愛好家ごときが評論するのは馬鹿丸出しなのがよく解るでしょう。

40過ぎてて現役の格闘技選手に勝てるなんて吠えてる先生がいたら、「じゃあ、プロのリングに上がって見せてくれよ」って言いたくなりませんか?「強くなって戦って強さを他人に示したい」と考える人達の気持ちがどうにも私には理解できません。単なる自己顕示欲でしょう?

他人から称賛されたいだけでしょう? その上で金持ちになりたいとか有名になりたいとか・・・そんなに他人を踏み付けにして社会的成功?をしたいのでしょうか? 20過ぎた大の男がこんなこと考えてるのって、他に何の才能も無いか、あるいは単なる馬鹿かのどちらかでしょう。私にはさっぱり理解も共感もできません。

私がイメージする“戦い”って、自己防衛のためのものだから、極論すれば「どうやって敵を殺すか?」ってことで、そこに“強さ”を比べるという考えは入る余地がないんです。むしろ、殺し合いになるような戦いの技って、使ってしまったら社会的な人生が終わることを意味してしまう。だから、使うか使わないかは自分の生命か自分の大切な人の生命を護るためのギリギリの選択としてしか決められませんよね。そういうバックボーンの厳しさを認識しない武道や武術の修行なんて精神を歪めるだけなんじゃないか?

正直、私にはそう思えます・・・。

さて、昨年の大晦日。まさか我々以外に自由学校のクラスはやっていないだろうと思って、ロビーで缶コーヒー飲みながらお喋りしていたんですね。

日頃から練習後は近くのケンタッキーで何時間もダベッてたりするんですが、「今年も色々あったね〜」なんて話していた訳です。

すると、北芝さんが入って来られて、「これから練習するんですよ」とのことで、大晦日に練習する我々みたいな酔狂な人達が他にもいる(失敬!)とは思っていなかったので驚きましたが、流石に北芝さんの生徒さん達も定刻通りには集まれず、しばらく武道談義に花を咲かしておりました。

その時に、北芝さんの柔和にしていても鋭い眼差しから発散されるタダ者でない雰囲気や、全身から立ち現れるオーラの質量から、「うわっ、これは相当な実力者だぞ」と容易に察せられましたけれど、うちの会員さん二人はびびって北芝さんの方を見ません。“あっ、マズイな〜。失礼に受け取られちゃうよな〜”と思いましたが、師範代だけはちゃんと北芝さんの顔を見て話を聞いていたので、まあ、何とか体面は保てたかな〜と。

後で聞いたら、「だって、怖いじゃないですか〜」って・・・(“気”に敏感なのは良いとしても、びびった様子を無防備に晒すのは駄目ですな。闘気・殺気・邪気を発散してくる人に対する時はそれを受け流せなきゃいけない)そりゃあ、そうだろうけど、北芝さんも威圧しないように随分気を使ってくれていたのに、申し訳ないよな〜。

まあ、それはそれとして、北芝さんは実に気さくに色々なことを話してくださいましたが、私もクエストのIさんのお薦めで観ていた『沖縄空手三大流派』のビデオのプロデュースをされていたことを知って、私もビデオの企画とかいくつかやっていますから、結構、突っ込んだ武道話ができたんですね。何かの縁が働いている気がしましたね〜。

それで、北芝さんも“こいつ、結構詳しいな〜”と思われたんでしょうね。以後、まずまず良好なお付き合いを頂戴しています。もっとも、敵意を向けてくる人以外には誰に対しても優しい方だと思います・・・。

実は、先日、北芝さんが書かれた『警察裏物語』(バジリコ出版)にサインをお願いしまして、その時に、「是非、空手の本も書いてください。僕でよかったらお手伝いしますから」とお話しています。超多忙な方なので中々実現は難しいかも知れませんが、北芝さんの空手家としての研鑽がどれほどのものか?を、研究家として是非、紹介したいと思っていますので、実現した暁には宜しく!



追伸;文中、“北芝先生”と書くべきところを敢えて“北芝さん”と書いたのは、「先生じゃなくて、お互いにさんづけで呼びましょう」と言われていたからなんです。こういう気さくさが多くの仕事を呼び込む秘訣なんでしょうね。本当に、強い武道家は気持ちの良い人が多いですね〜(前述のことと矛盾してる? NONO、“強い武道家”だからですよ。二流三流の人間ほど自分を大きく見せたがる・・・)。

追伸2;『徹子の部屋』にも北芝さんが出演されていて、最初は少し照れ臭そうな様子でしたが、段々打ち解けて、最後は徹子に「まあ〜、いい体ねぇ〜」と胸や上腕の筋肉を触りまくられておられました。沖縄空手六段ですからね〜。

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2006/08/06 亀田興毅は頑張ったと思うけれど・・・

メディアの狂騒と、何かと疑問を提示されていた亀田兄弟の長兄が世界チャンピオンになりました。

が、試合内容からすると批判されるのも仕方がないよな〜?と思えるくらい技術的にはランダエタ選手が上回っており、初回でいきなりダウンを奪われ、以後はいつもの戦法を完全に封じられてKO挽回することもかなわず、解説者も本人も“負け”を自覚していたのではないか?と思われました。少なくともドローだったらそんなに批判もされなかったでしょうが・・・。

確かに僅差の判定だったことは理解できます。亀田選手のパンチも結構当たってランダエタ選手を追い込む局面も何度もありました。が、チャンスをものにできないのはテクニックに差がある証拠でしょう。

ロープ際に追い込んでもスルリと脱出され、パンチが当たってもさしてダメージにはならず(つまり、威力を殺されていたということ)、逆に亀田選手がカウンターを食らい、ガードの隙間に下がりながらのジャブをもらって翻弄されている様子がはっきりと判りました。ダメージは少なくとも、ノーモーションでコツコツ当てるランダエタ選手の上手さが際立って見えたように思えたのは私だけなんでしょうか?「無尽蔵のスタミナが有る亀田の方が終盤は有利になる」という解説者の予想を裏切って、終盤までスタミナが切れずに老獪なテクニックを駆使してのけたのはランダエタ選手の方でした。スタミナ切れの亀田選手は終盤、組みついていく場面も目立ち、中盤はやや優勢かな?と思えるラウンドもありましたが、決定的ではなく、全般的には、終始いいところが無かったと言わざるを得ません。

この試合はランダエタ選手の勝ちとして、亀田選手にはボクシングの厳しさ、奥深さを痛感して一回り成長するための挫折を経験して欲しかったと思います。

19歳なんだから、丁度、“のぼせあがって”世の中を見てしまう時期です。ガツンと打たれて世の中は甘くないんだと知る絶好の機会だったのに、“勝てば官軍”の考えを植え付けてしまったのは返す返すも残念なことです。

実は、私はランダエタ選手が勝つと思っていました。

試合前に亀田選手からキューピー人形を貰っても涼しい顔でいなした大人の対応と、次にオムツとオシャブリを亀田選手にプレゼントするブラックなユーモア・センスに、「なかなかやるな〜。こういう余裕持ってるヤツが本当は怖いんだよな」と思っていたのですが、おちょくり返された亀田選手はナーバスになってしまい、案外、繊細な性格だったことが推測できました。

試合前に亀田親子のドキュメンタリーも放送してメディア戦略的な仕掛けの大きさをうかがわせましたが、試合結果がこうなってしまうと演出の“あざとさ”が浮き上がってしまい、亀田選手の翌日のインタビューの太々しい態度は余計にファン離れを招いてしまうように思いました。

無論、亀田選手はファイター・タイプの強い選手だとは思いますし、ランダエタ選手が格別に強くて亀田選手が到底及ばないとまでは思っていませんでしたが、実力が拮抗していれば精神的な勝負になるのが当然で、気合で押し切って叩き伏せるスタイルの亀田選手ではランダエタ選手の術中に陥って実力を殺されてしまうだろうと思った訳です。

よく、試合とか組手で、「やりにくい相手で自分の技がうまく出せなかった」と言う人がいますが、互いに技を存分に出しあって闘うのが当然と思っている人が意外といるようですが、本当に技術的に上手い人は、相手に技を出させなかったり、出した技の威力を殺してしまうものなのです。やりにくいと感じることは自分と相手の技量の差と認識して素直に自分の未熟さを自覚しなければいけません。

特に、亀田選手の致命的な弱点はフットワークではないでしょうか? とにかく前に出て剛腕パンチでねじ伏せるスタイルだけではチャンピオンの座を長期に渡って守るのは難しいでしょう。威力だけではなく、確実に当てる技術と、“当たる間合・当たらない間合”を確保するためのフットワーク(特にサークリング等の横へ移動するステップワーク)を磨くことが必要でしょうし、パンチを打った時にガードが開いたりテクニックの稚拙さが指摘される面もありますが、確かに反射神経とパワーに頼り過ぎているようにも見えました。ボクサー・タイプの選手から技術が未熟だと謗られるのは、理由の無いことではなく、今回の試合はそういう亀田選手の弱点、欠点ばかりが目立った試合でした。

試合内容は、私が予想していた通りだったと思いましたが、判定は亀田選手の勝ちとしました。露骨なホームタウンデシジョンだと批判されかねないでしょう。あそこで亀田選手が「俺の負けだから受け取れない」くらいのことを言えば、逆にヒーロー伝説も揺るぎないものになったと思うのですが、試合後のインタビューの態度を見ても、勝てば官軍みたいな調子でふんぞり返って悪ぶる様子は若いと言うか幼いと言うか、あるいは、頭が悪いと言おうか・・・とにかく、あまりのお子ちゃまっぷりに反感を買うばかりでしょう。

試合そのものは懸命に頑張っていただけに、「要らんこと言うな。嘘でもいいから神妙な顔して黙ってろ!」と周囲が入れ知恵すればいいのにな〜と思いました。

さて、伝説の最初に汚点を刻んでしまった亀田兄弟の今後は厳しいものになるのではないでしょうか?

メディアなんて持ち上げるだけ持ち上げておいて、こき降ろす時は酷いもんです。

持ち上げるだけ持ち上げてきたTBSに対して、TV朝日では明らかに反亀田の姿勢でワイドショーを行おうとしている様子がアリアリでしたが、コメンテーターで呼ばれていたトカちゃん(久しぶり!)は、流石にその思惑には乗らず、試合判定の難しい点や、メディアのイメージ誘導の怖さを暗に批判して冷静な意見を出していて感心しました。自身もかつてマスコミに苦い想いをさせられているから選手の辛さを思んぱかってのことなのでしょう。「試合の評価は外からは見えない」という意見はその通りと思います。

だって、亀田選手は1Rにダウンを奪われてからフルラウンド懸命に闘っているのですから、そのド根性は見上げたものです。格好の良い試合ではなかったけれども、決して恥ずかしい試合ではありません。技術的な未熟さに関しては、少なくとも負けてはいないのが事実なのですから、今後の評価でしょう。トカちゃんも「日本人選手とやればいい」と言っていましたが、“口で言うより現実にやってみれば判ること”というプロならではの潔い態度に好感が持てます。

具志堅やガッツが手厳しい意見を出していたのもプロなればこその意見でしょうし、トカちゃんもプロなればこその意見。内容云々ということではなく、部外者の無責任な意見とは違うのです。素直に耳を傾けるべきだと思いますが、いかんせん、亀田兄弟と親父さんが反感を買うのは、わざとそうしている点も有って、そこが魅力にもなっているのですから、それを「品格が無い」と批判しても仕方がないのでしょう。そういう“キャラ”というか“芸風”というか、“そういう人達”なんだから仕方がありません。

ただ、今後はそのキャラクターや芸風がこれまでのように受け入れられなくなる可能性は高いでしょう。J・リーの最後のカンフー映画『SPIRIT』のストーリーを思い出してしまいました。

亀田選手が今後、気を引き締めて名実兼ね備えた名チャンピオンに成長されることを祈りたいものです。・・・いや、無理かな〜? 無理だったら、いっそのこと、あしたのジョーみたいな梶原一騎の劇画の主人公みたいに馬鹿・悪・破滅型のヒーローとして突っ走って欲しいな。

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2006/08/05 カルト集団の教祖の特徴

な〜んか、またまたインチキ臭いオッサンの宗教家?が出てきましたね。『摂理』って、統一狂怪とかオウム心狸兇とかとおんなじで、大学のサークルに紛れて会員を増やしていたんですね。

こういうのが出てくる度に思うのは、「ちゃんと自分の頭で考えろよ」ってことです。

なんで、ああいう怪しいヤツにいつまでもくっついていく連中がいるのか? まあ、部分的に人間的な魅力があるのかも知れませんが、そんなのは誰だって同じなんだから、“世の中に特別な人間なんて存在しないんだ”ということをちゃんと認識しておかなきゃいけませんよね。

だから、少しばかり、こういうカルト集団の教祖に共通している特徴について書いてみましょう。

一見、「そんなの誰だってそういう面は有るだろう?」と思えるでしょうが、そこが肝心なポイントで、この手の連中って、そういう要素が過剰に有り過ぎるんですよ。いわゆるキチガイと天才は紙一重と言われる境界線上にこういう連中は生まれる可能性が高いんです。

  1. 独善的;とにかく自分が絶対に正しいのだと信じ込んでいて他人の意見を受け入れないのですが、その根拠について突っ込まれると屁理屈しか言えない。当然、そういう性格だからしょっちゅう問題が発生するが、とにかく他人に責任転嫁して自分の問題点を認識しようとはしない(できない)。
  2. 劣等感;独善的な性格の人間の心の奥には他人に知られたくない劣等感が巣くっているものです。人種や性別、アブノーマルな性、容姿のコンプレックス、トラウマ等々。
  3. 万能感;独善的で劣等感を抱えている人間は、「自分は人とは違うんだ」という屈折したエリート意識を持ちやすい。権力志向も並外れて強く、その異様な虚栄心から誇大妄想に陥りやすいのです。
  4. 自由恋愛;カルト集団の教祖というと、何故か女性をはべらせたがる人が多い。不倫とか何とかいう問題を超えて、発情期のケモノのように理性のコントロールが利かない人が多い。何せ自分は神に選ばれた人間なんだと思っているから、人間社会の常識なんか無視して構わないという論理なのです。よくヨガとか気功の団体では「君と僕は前世で恋人同士だったんだよ」というセリフで女性会員に迫る阿呆なリーダーがいると言われていますが、これは“事実”です。
  5. ゴテゴテ飾り立てるのが好き;とかく、この手の人達は、虚栄心を満足させたいからでしょうが、有名人との付き合いや(あっ、俺もだーっ!)、肩書をひけらかしたがったり無意味にイベントばかりやりたがるものです。まあ、勝手にやってください・・・。
  6. 攻撃的;カルト集団は決してメジャーになれない宿命を持ちます。それがカルトたる所以なんですが、マイナーであるが故に、そのマイナーさに権威づけようとして、メジャーに対して無意味な否定発言を繰り返す場合が多いようです。「金持ちケンカせず」と申しますが、力の無い者ほど、他者を否定し攻撃的な物言いをするものですね。私も反省して今後は夜回り先生のようになりた〜い!


追伸;刀屋さんにミカちゃんを見せに行ったら、何と、ミカちゃんの作者である一貫斉氏とバッタリ出会ってしまいました。御礼を言って話している時にミニグラインダーで荒研ぎした旨をお話しすると、「そんなことしたら熱で刃紋が消えてしまう」と叱られてしまいました。えーっ?

専門の刀鍛冶でも使ってると聞いたのに〜・・・Sさん、ウソ教えちゃ駄目じゃ〜ん! ・・・という次第で、不精なことは止めて、心を入れ替えて魂入れて研がせていただきまするぅ・・・。

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2006/08/05 『出草の歌』に衝撃!

台湾原住民が靖国神社に祭られている問題について描いたドキュメンタリー映画『出草の歌』の上映イベントに行って来ました。

私は、右も左も嫌いな無思想・無信条の人間であり、その「何も信じない」という点でのみ“思想的”な感性の人間として誤解されがちなんですが、でも、私は個人としてそんなものは信じないだけであって、他人様が何を信じていようがそれを否定するつもりはありません。

私が何も信じないでいようとしているのは、人間は思想や信条、イデオロギーを自分の思考のバックボーンに置いた瞬間から、それらに呪縛されてコントロールされてしまうという心理メカニズムを持つことを理解しているからに外なりません。

戦争もテロもバックボーンは思想・イデオロギー・宗教理念にあるのは明らかなのに、その点を問題視する人は極めて少ない。不思議なことです。

台湾原住民を日本兵“高砂義勇軍”として戦争に引き込み、戦後に神として祭る。その先祖の霊を返すように要求している人達がいる・・・。

映画は荒削りで完成形ではなかったものの、異様な気迫がこもっていました。

他国の民族に蹂躙されてきた台湾原住民の間で、特に日本がおこなった虐殺と精神教育のやり方は許し難いものがあるでしょう。

主人公となっていた台湾タイヤル族の女性運動家・高金素梅さんと、原住民の音楽活動を通じて運動をしていこうという在り方は、少数民族の尊厳を守ろうとする活動であり、その根底にはイデオロギーを超えた素朴な情念が感じられます。

かつて首刈り族として勇猛果敢な戦闘力で知られたタイヤル族であっても、音楽を通して訴えていこうとする高金さん達の戦略は凄いものです。肝臓ガンに侵されながらも命を永らえていることを「先祖の霊が守ってくれているから」と言ってのけ、文字通りに命懸けの法廷闘争に挑んでいる高金さんには、かつて白蓮教の教主として清朝と戦ったという伝説的な女性ワン・サンガのイメージが被ります。

それにしても、台湾の高砂義勇軍の美名の陰で、日本がこれほど悪どい真似をして他民族を蹂躙してきていたのか?ということを考えると、本当に自分が日本人であることが恥ずかしくなってしまいますし、靖国参拝の是非が云々とか唱える前に、日本人の偽善・欺瞞について徹底的に洗い出して知る必要があると思いました。

今、日本は右傾化しつつあると言われていますが、それは違うんじゃないか?と思います。日本人が馬鹿で単純で無知で恥知らずのエゴイストになっただけですよ。

神道の思想がどうしたこうしたとか、そんなクソみたいな屁理屈を他所の土地の人達に説いて何になるのか? 大体、神道の原型が道教から来ているのは宗教学の常識なんですよ。日本人が世界の盟主なんだとか言い出す阿呆すらいる。イデオロギーなんてものはエゴイストがでっち上げたクソなんだときちんと弁えて、そんなものを振りかざすんじゃないと言いたいですね。

もっとも、今回のイベントでのトークでちと残念だったのは、「社会主義って捨てたもんじゃないよね」みたいな発言・・・あ〜、もういい加減にしろよ・・・。

全共闘世代のオヤジが集まると、すぐにそういうイデオロギー持ち出して有り難がる。

右翼のオッサンが訳も分からず神道持ち出して語るのとどこが違うの?って言いたいんですね。

もうね〜、天安門事件とか北朝鮮の問題で、社会主義が人民を大切にしない国家しか作らないのは分かり切ってるんだから、いつまでもそんな屁みたいな理論に期待すんの止めろよな〜。マルクスなんてただの最低人間なんだから、そんなヤツの屁理屈いつまでも信じるの止めろって言いたいんですね。

イデオロギーが人間を虐殺するんですよ。そんなもんに、いつまでも騙されてんじゃねえよ。捨てろよ、いい加減!・・・って思いましたね。

大体、なんでもかんでも思想的に意味付けして祭り上げたがるのが日本人の最悪なところですね。「ニートが時代を救う」とか論じていたり、馬鹿か?と言いたいですね。働かないで親に寄生して人生を無為に過ごす人間が増えていったら困るのは親だし本人だって親が病気になったり死んだ後で大いに困る。そんな分かり切ってることを意味付けして許すから調子に乗ってしまう訳ですよ。

むしろ、全国のニートを集めて無人島に島流しにした方がいいですよ。サバイバル本とナイフ一本だけ与えてですね。うちの田舎には無人島になってる小島とかあるし、いいと思うな〜。

論点がずれましたけど、靖国神社が日本人の鎮魂を目的にすることを否定しようとは思いません。が、戦争の是非を根本的に考えないまま「英霊に祈る」ということは何か違うんじゃないか?

それって無責任過ぎるんじゃないか? と、そんな疑念が拭えない。

まして、今回の映画で「靖国神社の大鳥居は台湾の樹を使って作ったもの」というテロップが出た時、私は居たたまれない気持ちになりました。これが本当のことだったら、侵略し虐殺し、尊厳を踏み躙って蹂躙した土地から奪った資材で作った・・・という、あまりにも傲慢なやり方です。日本人はここまで恥知らずなのか?

遅ればせながら、私も靖国神社の問題について勉強しなきゃいけないと思いました。

学生時代に宗教全般に関しては色々な本を読んで勉強していましたが、これは宗教理念についてだけ勉強していても何も解りませんね。

アジアで日本が目の敵にされる本当の理由を知らなければならない。自分達の悪に目を瞑っておいて正義を主張するのは卑怯者のやり方です。他国の卑怯をなじるには自分の身を正さなきゃならない。そのためには、まず、幅広く事実関係を調べていかなければならない。

かつて、武術・武道を学ぶ者に学問は不要と考えられていた時期もあります。用心棒として体制の保守を目的としたからです。

ですが、本来の武術はそうじゃないだろうと私は思っています。

少なくとも私は違います。一言で言えば、「自分の思う通りに生きていくための意志を守りたいから」です。「お前は暴力に頼るつもりなのか?」と尋ねられるなら、「そうです」と答えます。

最後の最後に頼るのは自分の力だけだと思っています。国? 法律? 警察? それらを支えているものは何でしょうか? 結局、最終的には“力”の裏付けがあるから従うんですよ。でも、外国に行けば法律は違う。無法者に法律は通じない。凶悪な強盗に襲われた瞬間に警察を呼んでいるヒマはない・・・最後に頼れるのは自分の力だけしかないんですよ。武術の原点はここから始まるのだと私は思っています。おまけに恥ずかしながら、私の場合、武術が生活を支える仕事にも関わっていますし・・・。

う〜ん、今回のイベントを通じて、私は一つ提案したいと思いましたね。「全共闘世代の人達よ、アンタ達は武術の修行をやりなさい」ってね。「イデオロギーなんて実体の無いものに頼るのは止めなさいよ。そんなに体制に文句があるのなら、烏合の集団じゃなくて一騎当千のサムライ軍団に変身しなさいよ。口先だけで勝負しようとするなよ」って言っていこうかな?と思いました。

勝たなくていいんですよ。負けなきゃいいんです。

かつての全共闘が敗退していったのは、個人個人が弱過ぎただけ。自分の意志を支える具体的な力が無かったから、群れ集って対抗しようとしたり、テロに走ったりという間違ったイデオローグと化してしまった。イデオロギーにしがみついたのも自分自身を頼むに足らない存在なのを自覚していただけ。弱いから狂信的になってしまう。強かったら余裕を持って冷静に見れる。イデオロギーの問題点も観えた筈だし、ハラをくくれる。覚悟ができる。個人が自己実現してこそ社会も成長する。それを逆に考えては駄目です。社会を先に考えて未熟で弱い人間をそのままにしておこうとするからうまくいかない。でも、「障害者や老人はどうするんだ?」と文句を言い出す人もいる。馬鹿ですね。より弱い人達の存在を楯にして自分の弱さを肯定しようとするのはただの怠け者です。強くなることは、その人が他の人を助ける力も強まるということを意味するのです。強い人間が弱い者イジメをするのは、他にそれを止める力を持つ人間がいない場合の話です。各自が強くなっていけば、不心得者は淘汰されます。

それに、弱い人間が10人集まるより、強い人間が一人いた方が社会的にもより大きな働きができるのです。『出草の歌』を観ていると、高金素梅さんというカリスマ的なリーダーがいなければ、彼らの運動は成立しなかっただろうことが明白です。

タイヤル族の高金素梅さんの強さは、やはり戦闘民族の血に負うところが大きいのではないか?と思いました。半分は漢民族だという高金さんは戦闘民族の力と漢民族の戦略的知性の両方を兼ね備えているように見えます。だから、テロみたいな低劣なやり方ではなく、音楽活動という国の壁を超えて共鳴できる武器を選んだのでしょう。作中、街頭でタチの悪い日本人に言い掛かりをつけられても無視して歌い出すグループの姿には、確固とした意志の強さが感じられました。日本の運動家だったら怯むところでしょう。暴力に対抗する術を知らないから・・・。

ブルース・リーは、自ら創始した武術を普及するのに映画を利用しました。彼の戦略は、アクション映画の概念が根本から塗り変わってしまったことで成功しています。

日本の左翼よりずっと頭いいですね。やはり、口先だけの人間は駄目だし、独善的な考えで他人を動かそうとする者は支持されませんね。

残念ながら、日本で武術やっている人達には極端に心が弱かったり倒錯した精神構造の人が目立ちますね。陰湿な嫌がらせをやったりくだらん権威付けにやっきになっていたり、ゴミ糞みたいな連中が結構います。腹が立つというより哀れですね。こんな精神を病んだ連中には何の期待もできないな〜と思うと空しさしか感じません。

まっ、他人に期待したって仕方がないから、私は文武両道の時代を動かしていくような人材を武術を通じて育てていきたいと思っています(これまでは駄目だったけど、今後は・・・)。

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2006/08/01 夢みるように眠りたい・・・

ってタイトルの映画を昔観て物凄〜く感動したことがありました。

内容は、日本初の女優が出る映画として撮影されたものの、お上の差し止め命令で完成することができず、そのまま年とって余命いくばくも無くなってしまった主演女優が、作中のヒーロー“快傑黒頭巾”にそっくりな探偵を「孫娘を探す」という嘘で雇って映画を完成に導こうとするサスペンス物なんですが、幻想的な作風と日本映画界の名匠美術監督として名高い木村威男の万華鏡を見るような夢幻的な美術効果で白黒でほとんど無声映画なのに娯楽性も損なわず、今もなお、監督した林海象のデビュー作にして最高傑作と言われています・・・。(佐野史郎の映像デビュー作でもある)

ところで、先日、自主映画時代からの付き合いの友人の芝居の案内状を貰って、共演する女優さんの名前を見て、「アレッ? この名前の人は・・・」と思って予約するののついでに電話で、「この女優さんって、もしかして昔、特撮物とか出てなかった?」と聞いてみました。

すると、「そーです。アタリです・・・」との応答に、私は、一瞬、脳内のヒューズが飛んだようになって、「えーっ、マジッすか〜!・・・(後、何話したか記憶にない)」と、もう驚いたのなんのって・・・。

実は、この女優さんは、東映の特撮ドラマに度々ゲストで出て主演が霞むくらい演技もうまくて存在感もある美少女として、その方面で評判になっていた人だったんですね。

だから、私も何げなく観ていて凄く印象に残ってクレジットタイトルで何て名前の人なんだろうか?と思ってチェックしていたから、覚えていたんですね。

例えば、『ガメラ3邪神覚醒』を観ていてキャンプ場でイリスに襲われてミイラみたいになる美少女が仲間由紀恵だったとか、『NIGHT HEAD』の劇場版に出てたヒロインの妹役が奥菜恵だったとか、ちょこっとしか出てないのにやたらに印象に残る人っているんですよ。このS・T(万が一、お名前を書いて迷惑になってしまったらいけないのでイニシャルだけにします)さんもそんな印象の強い女優さんでした。

大体、特撮物に子役で出ていた女優さんって意外と多いですよ。

古くは、『忍者ハットリくん』の怪獣ジッポウ編や『ウルトラセブン』のダリーの回に松坂慶子が出ていたとか、あの超大女優、吉永さゆりだって特撮ドラマ出身なんですよ。

私の周囲の役者友達の間では、そういうジャンルの芝居をやるのは抵抗感があるみたいな物言いをする人が多いみたいだったんですけど、見る側からすると、自分達と変わらないようなキャラクターに憧れって持てないんですよね。

私が武術始めたのだって、『燃えよドラゴン』のブルース・リーとか『太陽にほえろ』の松田優作の空手技の凄さに憧れたのが切っ掛けです。私は自分がミーハーなの隠すつもりは全然ないです。

マカロニ・ウエスタン観てGunに目覚め、ジャッキー・チェンの映画見てトレーニングし、ミフネの『用心棒』『椿三十郎』に『無法街の素浪人』、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』でチャンバラに目覚め、若山富三郎先生の『子連れ狼』で居合術に憧れた(だから、游心流の居合術は無意味に刀を回すのだ!)のです・・・。

さてさて、それで今回の芝居は私の中で伝説と化している美少女女優のその後を確認するという、まさに『夢みるように眠りたい』のような体験でありました・・・。

だって、TVで観ていた時に、まさか会えるなんて思わないじゃないですか? 特に私みたいに超田舎で育った人間にとっては、町中で偶然有名人と会える東京で生まれ育ってる人とは感受性が違うんですよね。

そういえば、去年のダンスフェスティバルで生で田中泯さんに会った時は、“国際的に日本を代表して活躍している舞踊家”と思うと何か怖くてですね〜、さっぱり話せなかったですよ。田舎モンのサガですよね〜。今年はインタビュー申し込んでるから話すも話さないもないんですけど・・・。

芝居は、新進脚本家として注目されている高山なおきさんの独自の実験的なチャレンジ精神があって、最初はSF物?と思わせつつ最後は大ドンデンに持ってくる硬質な展開の中に繊細な心理描写を織り込んでいて、手慣れた騙しのテクニックで観客を翻弄するところはむしろ心地よかったです。

ですが、今回ばかりは客観的に芝居を楽しむより、やはり、S・Tさんに目が釘付け!

第一印象として「アレッ? 身長高いっ!」という記憶の中の印象とのズレに驚き、しかし、よく見ていると目元に少女時代の面影があって、「うん、間違いない!」と自分の中でウンウンと勝手に納得してました。

昔の“薄幸の美少女”キャラがイメージに残っていたんですが、現実に目の前で見ていると凄く生命エネルギーに溢れた女優オーラの出ている人で、確かに子役時代からこの仕事を続けて来られているんだから、凄い大変な現場を数多く体験されている筈。プロ中のプロなんですよね〜。相手をしている主役の日太さんより芸歴は上の筈だし、若手の役者に演技指導をしている立場の日太さんでもタジタジって感じがしています。「ひゃ〜、日太さんが負けそうだよ〜」と、私は久しぶりに演技の真剣勝負に臨んでいる観のある友人の姿に舞台俳優に転向したばかりの頃のイメージを思い出していました。

ところが、ここは彼女の性格の優しいところなんでしょうね。さりげなくリードして主役を引き立てている芝居の役柄と同様の優しい若奥さんっぷりを感じました。

それにしても・・・これは台本を書いた高山さんに確認してみないと判らないんですが、このお芝居の設定で、“亡き奥さんをモデルに女性アンドロイドを作った科学者”という設定と、奥さんの名前が“ナナ”という点が気になっちゃってですね〜。

何故かっていいますと、S・Tさんが戦隊シリーズにゲストで出た時、アンドロイドの少女役だったんですね。たったの一話限りだったんですけど、その時の印象が凄く強くて、私も覚えていた訳なんです。で、更に、その次のシリーズでも、今度は宇宙人の役でしたが、準レギュラーとして何度か出演されていたんですが、この時の役名が“ナナ”だったんですよ。偶然なのか、高山さんが意図的に書いていたのか・・・偶然だったら面白いんですけどね〜。

芝居が終わった後、日太さんと高山さんが気をきかせてS・Tさんにサインを書いてもらい、写真も撮らせてもらいました。

いや〜、「俺、今、客観的に観て、キモイオッサンにしか見えないよな〜」とか思いつつ、でもクールに振る舞おうと思いつつも顔がニヤケちゃってましたね・・・っつーか、頭の中真っ白けでよく覚えてません。まっ、いっか〜。

こういう時って、精神年齢が子供に戻りますね。今、43ですけど・・・。

改めて思ったのは、女優さんって凄い!ということ。普通に生活していると、美少女が大人になったら残念になっちゃう場合が多い(こういう例の方が絶対多いと思う)のに、女優の世界では美少女は大人になったら美人になり、そのままドラゴンボールのサイヤ人のように年とらない。

サイヤ人は戦闘民族として長い期間を若いまま過ごせるという設定でしたけど、森光子の例もあるし、外国では40代50代からが役者としての最盛期を迎える訳ですし、まあ、私だって40過ぎても武道の世界ではまだまだ若手のペエペエの部類ですからね。これから10年かけて游心流を超進化系武術として確立させてみせるつもりですよ。

とにかく、私の中の伝説となっていた美少女と、まさか現実に会えるなんて夢にも思わなかったですよね〜(いいな〜。日太さんは、こんな超美人と芝居できて)。私は舞い上がり過ぎて、帰りの電車、乗り過ごしちゃいました。

末筆ながら、S・Tさんの今後の活躍を期待して祈っています。

 

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