長野峻也の日記(2007年7月〜9月)

2007/09/26 石原志保『昭和の体重5』随感

今年の夏のダンス白州では予期せぬ持病で観逃した桃花村の石原志保さんの踊りでしたが、9月8日に早速、『昭和の体重』シリーズの5作目の公演がプランBで開催されるとのことで、友人を誘って観に行ってきました。

開演30分前に丸の内線中野富士見町駅で友人と待ち合わせしていたものの、中々、現れない。開演に間に合うギリギリの7時52分まで待ちましたが友人が来ないので、一人でプランBに急いだところ、友人は待ち合わせ場所を間違えて先に到着しておりました。

もう〜・・・。

さて、場内に入ると今回も満席で、ちらほらとダンス白州でお会いした人の顔もありました。何だか、白州の熱気の余韻に浸っているみたいな気がします。

今回の舞台は、ひな壇?に灰野さんが陣取り、様々な楽器?が並べられています。

白州の宿で夢うつつに聴いた超絶ボイスが脳裏に蘇ります。今回は一体、どんな音撃(仮面ライダー響鬼?)が聴けるのか?という、最近、刺激を求める中毒症状が出てきている私でございまする・・・。

いや、実際、灰野さんって七色のボイスってどころじゃない(あっ、ふと思い出したけど、昔、七色仮面って特撮番組があったよね?・・・ゴメン、このギャグ、無理やり過ぎですね・・・)、予測不能の楽曲のツルベ打ちを堪能させてもらっております。

今回も、様々な楽器を使いこなしつつ、シャウト! あ〜んど、ちょっこっと浪曲風?

さて、そして石原志保さんの今回の演舞はいかに?

タンスの上に石原さんが・・・?

タンス・・・?

・・・ダンス?

<タンスでダンス>

駄ジャレ? これって、駄ジャレ?

そして、私は舞台を隈無く捜すのです・・・何を?

<ヤカン>ですっ!

毎回の恒例?となっている<何故かそこにあるヤカン>。

そして、ヤカンはあった・・・。

ここだよぉ〜。僕はここにいるよぉ〜」と私に呼びかけるように(幻聴?)、タンスの下にしたり顔で鎮座まします<ヤカン>。

よっしゃぁっ!(何で気合かけてんの、オレ?)

蠢く舞踊はゆっくりゆっくりと限られた不安定にガタガタと揺れるタンスの上でいつの間にか始まる・・・。

ダンスという言葉から当然連想されるであろう、スピーディーでテクニカルで規則正しく繰り返される身体運動とは対極にある、形から分断された不規則でぎこちなく稚拙にさえ思わせる微速度の蠢動の中に、恐ろしく高度な身体訓練の残滓がかいま見える。

普通は高度に訓練された技をそのまま見せる。それが芸術。

けれども、高度に訓練されたものを見せないで感じさせる。ブルース・リー言うところの「ドント・シンク・フィール」の意識を観客に要求する。

意識的に演じられる外形の芸ではなく、無意識の有るか無しかの身体の内奥からわき出てくる動きが結果としての芸を生み出していく。

これは、私が研究して目指している武術とも通底しているのです。

だから、何げなく立っているだけの石原さんから立ちのぼってくるオーラ(内力の光)を観ると、「あっ、こりゃあ、勝てない」と反射的に感じてしまう。

結局、武術だの何だの言ってもテクニックじゃないんですよ。これは私が田中泯さんを初めて見た時に感じたのもそうで、その人の持っている気の質と量の問題。

それにしても、石原さんは泯さんにどんどん似ていくな〜・・・。

とか何とかいらんこと考えてる間に踊りもクライマックス・・・ヤカンに近づく石原さん・・・「そ〜れ、そこでヤカンを掴んで、中の水をジャバ〜ッと・・・」

すると、取るかな〜?っという手前でスイッと外して取らない。

あっ? すかしたっ。うむ〜、俺の読みを外すとは・・・?(『子連れ狼・三途の川の乳母車』で若山先生の投げ太刀を受けて絶命する時の岸田森の表情を御想像しながら読んでください・・・って、わかんねえよ、そんなもん!)

公演が終わった後は、例によって少し残っておしゃべりしました。

泯さんからインターナショナル・ワークショップの武術指導が参加者に好評だったということをうかがって、あ〜、よかった・・・と一安心。三人の師範代に感謝!

白州のメチャ美味いお酒も戴き、灰野さんとも初めてお話しましたけど、ものごっつい気難しい系芸術家オーラを放射していた灰野さんに内心、コワイよ〜と思いながら、おっかなびっくりでビビリながらお話したんですが・・・「え〜、めっちゃ普通に話せる人やんか〜?」と、この日最大の驚きの瞬間でした・・・。

会場で販売されていた『石原志保 独舞 昭和の体重 覚書』を読んで、改めて、「なるほどな〜」と感心。文章も凄いけど、絵の凄さにビックリ。斎藤顕さんって“気の流れ”が観える人? 和鍼(中国鍼の理論とは別物)の伝承者が描いた絵とそっくりで驚きましたよ。

木幡和枝さんからは、「2ちゃんねるも見てるよ(微笑・・・)」と言われてドッキリ。私、落ち込みそうだから2ちゃんねるって直接見たことないんですぅ〜。

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2007/09/24 『佐川幸義先生伝大東流合気の真実』を読んで(ゴメン! 批判になっちゃいました)

この本は、あの伝説の名人と呼ばれていた大東流合気武術の佐川幸義先生について、佐川先生の弟子で古武術研究の権威でもある高橋賢先生が書かれた本ということで、月刊フルコンタクトKARATEの広告記事を見て楽しみにし、書店で見つけて喜び勇んで買ってきて、むさぼるようにページをめくりました。

佐川先生が亡くなられた時に福昌堂の追悼記事作成のために、筑波の木村達雄氏と相模原にお住まいの高橋賢先生を取材した時、特に高橋先生からは親しく御教示いただき感激したものでした。

その後は随分、御無沙汰しておりましたが、佐川道場の相模原支部も開かれ、お元気で御活躍の様子で陰ながら応援しておりました。

私が直接うかがった時の高橋先生は研究者として非常に公平な視線で他流も観られていたように記憶しています。だからこそ、私は武術を研究する者の端くれとして古武術研究家として真摯な研究をされていた先達を敬する気持ちになれました。

しかし、残念ながら、率直に申しまして、今回の高橋先生の御本を読んだ感想としては、愕然としたのが嘘偽らざる私の本心でした。

「佐川先生が到達した本物の合気について知らせたい」という師を敬う高橋先生のお気持ちに嘘はないだろうと思いますし、合気という技の神秘イメージを利用してメディアに登場する山師が少なくない現状を憂い、本当に優れた合気の技を知る者として、これを広く知らせたいという気持ちになるのも充分に理解できます。

ですが、それを体現してみせられる佐川先生がいなくなった今現在、それを主張し他流他派の合気武術探求者“全て”を偽者扱いする発言は、冷静な研究者としての言葉とは思えず、私はただもう驚きと失望を感じるばかりでした。

確かに、佐川先生の到達した合気のレベルは前人未踏の境地だったかも知れません。が、それは佐川先生個人のものであって、それだけが本物で他は全て偽物と決めつける動機が理解できません。世の中に自分達だけが正統で他は全て間違っているのだという考え方をするのは、宗教的な盲信と言わざるを得ません。

合気解析法に疑問

同書中の合気解析法に関しても、重心を誘導操作して体勢を崩していく解説が抜け落ちており、いかに基礎的な入門編であると断られていても、動いて攻撃乃至は抵抗し反撃してくる相手を制圧する武道・武術・格闘技の勝負構造下でいかに有機的に合気技法が駆使できるのか?という考察が無いのは納得がいかないのです。固定静止した相手を崩すレベルは見世物芸の範疇から出るものとは言えないでしょう。早い話、「空手・ボクシング・総合格闘技等の人達とどうやって闘うんですか?」ということです。佐川先生が圧倒的に勝ったという逸話だけで納得しろと言うのなら無理があり過ぎるでしょう。ここまで書かれる以上は、高橋先生がそれをやって見せられなければ話になりません。それは自覚した上で書かれているのでしょうか?

恐らく、それを自覚されてはいないと思います。それは、佐川派合気武術の戦闘理論について何も触れられていないからです。

つまり、肝心なことが全く書かれていない。これでは武術技法として何の参考にもならないのです。他派の合気演武を暗示によるものと非難されるからには、「ここが違うんだ」という明確な佐川派合気武術の戦闘理論について初歩的なレベルにしろ論及しておくべきでしょう。

文章から推察できるのは、合気武術の戦闘理論については隠すというコンセプトで書かれているのが読み取れます。重心の誘導操作について解説されていない点にそれが感じ取れます。が、隠すつもりであっても、実際に技を掛けている様子を連続写真で紹介すれば、解る人には技術構造が解ってしまいます。受け手が崩されていく過程の重心位置の変化だけに注目すれば、技を掛けられたことによる力の流れが解る。そこから逆算すれば技のメカニズムが解析できるからです。私は合気武道はほとんど学んだ経験がありませんが、見取り稽古で“そこ”だけを注意して観察しているうちに、かなり真似できるように勝手になってしまいました。

状況設定された技と勝負論は分けて考えるべき

以前、木村達雄氏に立った状態で合気揚げを何度も掛けられてひっくり返されましたが、その時に重心を浮かす時に肘を密着して来られているのが判ったので、「ちょっと足場を変えても宜しいでしょうか?」と断って足場を広く取らせてもらい、肘を密着して来られた時にスリ足で後ろに退いていなしました。すると、木村氏は急に私に合気揚げが掛からなくなったので驚かれていました。が、素人相手でもなければ技のメカニズムが判れば返し方は瞬間的に判るものです。技を過信して何度も掛けて見せるような下手な真似をするのが失敗なのです。

これは自慢して書いている訳ではありません。無論、木村氏の合気技法ももっと多彩なやり方を当然にして工夫されているでしょうから、私のような研究家風情にケチをつけられるのは心外でしょう。

しかし、達人も人なら自分も人。現代武道では失われているに等しい武術の秘伝を教わった人間は、それだけで有頂天になってしまいがちですが、同じ人間同士でネタも仕掛けも判ればできない道理は無いのです。

実際に、私は“達人しかできない”と喧伝されている技をド素人に教えて即座に体得させられるという事実を何十回も確認してきました。特に合気や発勁といった秘伝技は、見世物演芸のレベルならコツだけ知れば全くの素人でも少しの練習で驚くほどのパフォーマンスができるようになれます。無論、戦闘理論を知らねば技だけできても意味はありませんが・・・。

武術でも武道でも真に重要なのは、「自分がいかに本質を求めていくか?」ということだけだと私は思っています。他人の評価なんかどうでもいい。自分が納得できる道を往くんだ!という揺るぎない意志と覚悟が無ければ、武術修行は本物ではない。きっと、佐川先生もそう考えていたから、生前、表に出ようとしなかったのではないでしょうか。

高橋先生も、何も、他流他派を偽物扱いせずとも、ただ「佐川先生の到達された合気は私が知る限り、最高の技であり、これを超える技を私は他に知らない」とだけ書いておられれば良かっただろうに・・・と、残念に思うばかりです。

高橋先生! 生意気申しまして失礼致しました! しかし、よくよくお考えください。

団体を発展させて得るものと失うもの

さて、私は、ここ一カ月程、自分が主宰している研究会をこのまま続けていくべきかどうか?ということを真剣に考えています。

理由は、会員の実力が急激に上がってきているものの、「ただ単に技量が上がればいいじゃないか」という考えを平然と口にする様子を見ていて、この先、技はできても始末におえない“傲岸不遜な馬鹿者”を大量生産してしまうのではないか?と、先行きに不安が感じられてならないからです。

確かに、今、游心流は昇り調子です。本も売れ行きが良く、会員の全面協力で第三弾も早々に出せそうですし、ダンス白州のワークショップも好評を頂戴しました。クエストさんからも昨年出したDVDがコンスタントに売れているので、第二弾のDVDのお話を戴きました。

しかし、社会的に認められて広まることの引き換えに、何か最も大切なことが失われていくような気もするのです。

江戸時代のある流派の実話として、昔、どこかでこんな話を聞きました。

ある道場の跡継ぎになることが決まっている師範代が酒席に招かれ、「若先生、是非、極意の技を見せてください」とおだてられて調子に乗り、極意の居合術を披露したそうです。

後日、道場の稽古が終わって、病床にふせっている老師匠に呼ばれて、「あっ、そろそろ道場を譲ると師匠が言ってくれるのかな?」と、内心ウキウキして師匠の部屋に行き、障子を開けて「先生、御用でしょうか?」と入ろうとしたところ、大上段に真剣を構えていた老師匠に一太刀で首を斬り落とされてしまったそうです。

この話は、現代の感覚では非常に不合理ですし、現に、後先考えずに跡継ぎを斬ってしまったために、この道場は潰れて流儀も途絶えてしまったそうですから、「馬鹿だな〜」と思う人も多いと思います。

ですが、武術の一門の極意を軽々しく公開してしまうような軽薄な者を跡継ぎにすれば、どんなトラブルを起こして流儀の名前に泥を塗ったかも知れず、この老武術家の取った行動は立派だったと武術の世界では評価されていた訳です。

武術は“秘すれば花”

武術の場合、要は“効率よく人体を壊す技術”を教える訳ですから、伝統的な武術流派ではこのような話はいくらでもありました。私も秘伝的な内容を研究してきたので、「確かにこれは公開できないな」と思う場合が多く、入会希望者も10人中に1人くらいは入会を断ったりしていますし、教えている最中でも武術を学ぶことの意味を考えず認識の甘い者には隠して教えなかったりすることがあります。

武術を学ぶことをあまりにも軽く考えている人が多いと思うからです。

過日、中国拳法を学んだ師匠から「人を育てなさい」と言われたばかりでした。が、間違った合理主義は人の精神を歪めるだけです。感謝の気持ちを忘れて人を人とも思わない不遜な態度を取るのでは、どんなに腕が上がっても自分にも周囲にも有害なだけです。

武道は礼に始まり礼に終わると言われる言葉の重要性を今頃になって気づいた私は、何と大馬鹿野郎だったかな〜?と、ちょっとばかしブルーな気分です。

そう言えば、田中泯さんの踊りが急遽決まって観に行ったんですが、開始時刻に遅れてしまい、あまりの人数に会場に入るのが無理で、ギリギリ2分くらい観て、せっかく来たから打ち上げだけは参加したいな〜と思って待っていたら、いつもダンス白州の時に現地でお世話になっていたAさんとお話でき、Aさんは実は合気道開祖植芝盛平と、極真会館創始者大山倍達総帥に直に学ばれていたというお話をうかがい、絶句してしまいました。

そんな態度はおくびにも出さない方で、武道家ぶった態度も全く無い。「やっぱり、こういう具合に武道だの武術だのは表に出さないからこそ人間が輝いて見えるものなんじゃないかな〜。あ〜、泯さんの周囲の人は何でみんなこんなにカッコイイ人ばっかりなのかな〜」と思いました。

発勁や合気、丹田のDVDを「これほど分かりやすく明確に教えてくれているものは無い」と絶賛してくれる武道修行者の方も何人もおられましたが、『誰も知らない武術のヒケツ』の感想で、「独善的だ」と御批判を書かれている方もいらしたそうです。

自分としては独善的にならないように注意して書いたつもりなんですが、そういう具合に受け止められてしまうのは、まだまだ修行が足りないな〜と思うばかりです・・・。

いや、それとも、武術を食う手段にしてしまっている私自身の“存在の見苦しさ”かも知れませんね。やっぱり、どこかで心を超然と達観させていないと人間は不幸ですよ。勝ち組とか金持ちかどうかで人間を測ろうとする態度が人を卑しくしちゃうんだと思いますね。

人間、本気で生きなきゃダメですよね〜。オレ、ここんところ邪念に捕らわれてましたよ〜。

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2007/09/16 『ラッシュアワー3』「ついに実現! ジャッキーVS真田」

改めて考えてみて、何故、今まで実現しなかったのか?と不思議なのが、ジャッキー・チェンと真田広之の対決作です。

千葉ちゃんと倉田先生もちゃんとした実現までは長い長い道程があった訳ですが、ジャッキーと真田広之だったら、もっと早く実現していてもおかしくなかった筈です。

何しろ、ジャッキー・チェンがコメディカンフー『蛇拳』『酔拳』『笑拳』『ヤングマスター』を連発していた時期に少し遅れて、真田広之も『忍者武芸帖・百地三太夫』で主演デビューし、『吼えろ!鉄拳』『燃える勇者』と空手アクションを連発し、『龍の忍者』では“第二のジャッキー・チェン”としてデビューしたコナン・リーと対決して香港映画デビューも果たしていました。

「次はいよいよジャッキーと対決か?」と期待していたものでしたが、真田広之はJACを離れてアクションも封印してしまったのでした。

それで、本格的なアクションへの復帰が果たせないまま時代は移ろい、アクション・バカ一筋でハリウッド・スターにもなったジャッキーと、忘れた頃に真田広之が対決することになろうとは?

無論、全盛期のアクションは望むべきもないだろう・・・と思いつつ、それでも夢にまで見た両雄の対決を期待して映画館に向かったのでした。

エッフェル塔でのソードアクションは、まるで『ルパン三世カリオストロの城』の時計塔の対決を思わせつつ、真田広之の体技がいささかも衰えていない事実を示しています。

日本一の殺陣アクションの名手は健在なり!

これでもっと時間が長ければ文句無しでしたが、53歳にもなるジャッキーの年齢を考えれば、スタミナがもたないよな〜と思いつつ、それでもここまで決死のアクションを見せてくれた両雄の姿が感涙に霞む・・・。

作品のアラは多く、キャラクターの描き込み不足も不満があります。典型的なハリウッドのエンタメ映画として制作されている。要するに軽い。が、『エクソシスト』のメリン神父役のマックス・フォン・シドーや、『ローズマリーの赤ちゃん』の監督、ロマン・ポランスキーも出ていたり、キャスティングが妙に渋い!

『PROMISE』では真田広之の熱演が台なしになってしまうくらい作品の出来がつらかった。正直、「これはコメディか?」と思った。それに比べれば、本作の方が真田広之の魅力が引き出せている。

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2007/09/15 安倍首相退陣に驚き・・・

選挙での民主党の圧勝もつかの間・・・、やっぱり主役は自民党だよと言わんばかりに、次から次に話題を提供してくれている安倍政権でしたが、ついに安倍首相がプチンッと逝ってしまった・・・。

いや〜、でも、選挙前の強気の顔から大敗後の魂が抜けたまま訳のわからない自己弁護(「国民の支持はある」って言い切るところが正気を疑わせた)を繰り返す安倍首相を見ていると、「美しい国づくり」だの「戦後レジームからの脱却」だのと綺麗言を連発しまくっていたオボッチャマ君っぷりが炸裂したみたいな感じでした。

辞めると言い出すタイミングの、絶妙にねらいすましたかのような外しっぷりは、歴史的なダメっぷりを演出して国民の記憶に強く印象付けておこうと自虐的なことでも考えたのかな?という感じです。

しっかし、まあ〜、チワワのクゥちゃんばりに涙目でウルウルしながらトンマな退陣の弁を語る安倍首相の姿を、一体、一年前に誰が想像し得ていたでしょうか?

清濁併せ飲む器を持たず、政治家一族のプリンスと持て囃されていても、加熱殺菌された物でないとすぐに下痢してじんましんが出てしまうような過敏な体質の純血統種よりも、ワシワシ残飯食って元気な雑種の犬猫みたいなヤツがいいんですよ。

私、前から実は福田さんのファンで、あの口の端だけフフッと歪めて人を小馬鹿にしたみたいに笑うシニカルなところが素敵だな〜って思っていたので、福田さんの活躍する機会がでてきて良かったな〜と思ってます。小泉さんみたいな底抜けさは無いけど、福田さんは「まあね〜、貧乏クジかもしれませんよ〜」なんてフフッと笑う、自分も状況も客観的に引いて見てる気負いの無さがいい。でも、本当に能力のある人って、こんな感じなんじゃないか?と思います(マスゾエさんは、どうだろうな〜?)。

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2007/09/14 つばさ基地一周年アクションパーティー感想

6月の定期稽古会の練習場所としてお借りした大塚の<つばさ基地>が一周年記念のアクションパーティーを開催されるということで、観てきました。

この情報をくれたK師範代と二人で渋谷に行ってきましたが、二人共にいまだかつてクラブというものに入った経験が無い!(キャバクラはさる武道の先生に連れられて何度か行ったけど)

入った瞬間、ウェズリー・スナイプスの『ブレイド』を思い出す喧噪で、こんなに沢山の人がいるとは予想していなかったので唖然。メイド服姿のお姉さんに紅葉饅頭貰ってパクつきながら、「何か、俺達って場違いだよな〜」と二人で佇んでおりましたが・・・。

パーティーの趣旨はアクション系芸能人オフ会ということだったので、一般人が行ってもいいのか?と思っていたんですけど、アクションに興味があるなら誰でも参加OK!ということだったので、「アクション好きということだったら、私でもOKだよね〜」と思った次第。

師範代は「アクションの出し物に出ましょうよ」と言っていたんですけど、「武術の技そのものは地味過ぎて見て楽しめるようなものじゃないから、恥かくのがオチだからやめておこう」と、たしなめてたんですね。やっぱりアクションはダイナミックでスピーディーな大きな動きでないとダメッすよ〜。

いや、ぶっちゃけ言うと、映像関係で武芸考証の仕事とかしたい(やりた〜いっ!)から、あわよくば売り込みできないかな〜?なんて名刺も新しく作って行ったんだけど、この多人数じゃ話すのは無理だな〜と思って、純粋にパフォーマンスを楽しく見せてもらうことにしました。

やっぱり一観客として観せてもらって正解でした。

もう、レベル高過ぎ! ベリーダンス、ヒップホップダンス(レゲエ系かな)、ローラー付きスニーカーでのストリートダンス、ボクシング・パフォーミングアーツ、ジャグリング(素晴らしい!)、アクション・コント(これはエンタの神様で見たいっ!)、カポエィラ、JKD(截拳道)、カンフー(南拳の制定套路かな)、魅惑のポールダンス(最近、セレブで爆発的人気)、手品(キャラ者だよ!)、バク転、バク宙、キリモミ、ヌンチャク、歌もあるぞ〜・・・ってな感じで、本当に盛りだくさんでした。

師範代も帰り道で呆然とした顔で「先生の言った通りでしたね。僕らじゃ恥かいちゃいますよ〜」と、あまりのハイ・レベルっぷりにびっくり顔でした(でも、K師範代のWヌンチャクとT師範代の三戦転掌の演武はひけを取らないぞぉ〜)。

やっぱり、我々としては武術系アクションに目が向きますよね。どうしても・・・。

JKDは中々見れない貴重な機会で、ラッキーでした。

フィリピノカリのスティック(60cmくらいのラタン材製で、Wスティックとシングルスティックがある。ブルース・リーのヌンチャク技術は実はフィリピン武術のタバックトィックというカリ棒術からの発展武器術)とダガーナイフ術の攻防に始まり、ジュンファン・グンフー(ジュンファンというのは開祖ブルース・リーの本名“李振蕃”、リー・ジュンファンから採ったもので、ペンチャクシラットに詠春拳がベースで節拳の腿法の要素もあった)、ジュンファン・キックボクシング(こちらはムエンタイにボクシング、テコンドーの要素が感じられる)、そして投げからの固め技は実に自然で機能美を感じさせました。いいもの見れたな〜。

つばさプロジェクトの新人俳優さんが表演されていたカンフーも良かったですよ。

表演套路(型)の南拳(南派拳術の略)は、南派拳術最大の門派である洪家拳(香港カンフー映画の基本は大体この門派。香港の有名な殺陣師のラウ・カーリョンは洪家拳の先生)の動作を基本ベースにして、これに北派拳術の大ぶりな打拳(大きく振り回して打つ圏捶という技)や蹴り技(一般的に南拳は低い蹴りしか使わない)を加えていると言われる蔡李佛家拳(詠春拳とは犬猿の仲なのが有名)の動作を加えて制定されているのです。

ちなみにジャッキー・チェンの『拳精』で出てきた五獣の拳(鶴・蛇・豹・虎・竜)というのも洪家拳の中に含まれる套路で、ジャッキーの『クレイジーモンキー笑拳』の喜怒哀楽の拳(流石にこれは創作)のうちの“怒りの拳”だけは、洪家拳の中の鐵繊拳をベースにしていました。

アクション女優の方の試割りも中々でした。杉板二枚重ねをビシッと割って、バット折りにも挑戦しましたが、こちらはどうも蹴りを当てる位置が悪かったみたいで何度かやったけど無理でした。バット折りは男でも難しいし当たる位置と角度、フォロースルーをしっかり取るとか、持ち手の側も大切になるとか・・・ね。普段はできても人前では急に全然できなくなったりするもんなんです。で、これがまた折れないと衝撃が全部跳ね返ってくるんだから痛いんですよぉ〜。彼女は本当に根性ありますよ。

で、健闘むなしく失敗に終わったところ、颯爽とつばさ基地の空手の先生が代役をかって出て、一発でスパァンッと成功! しかも! 普通、バット折りの場合、バットが縦に裂けて割れることが多いのに、折れるとか割れるとかいうより、断ち割ったような斬れた感じになっていて、これは驚きですよ。物凄い瞬間的な高速蹴りでないとあんな具合にはならない。ホントに凄い技は見ていて気持ちいいですね。

それと、カポエィラも良かった。もうちょっと長く見たかったけど・・・。

カポエィラと言うと、以前、秋本つばささんがカポエィラを遣う現代版仕事人を演じられている作品を東映チャンネルで観たのが切っ掛けでしたね〜。

あの時、主役の人達より「あれっ? この人は誰だ?」(やっぱり、アクションの凄い人に目が行くよね)と注目していて、『アームズマガジン』にもモデルで出られていたのを思い出したって訳なんですけど、私がこんな具合に注目した人って、その後、必ず大出世しているんですよ。

で、今回のイベントを拝見していて、最後につばさプロジェクトの成立までの裏話を秋本さんが話されているのを聞いていて、本当に感動しました。

アクション女優として致命的ともいえる膝の大怪我を繰り返しながら、あの若さでつばさ基地を作り、劇団を旗揚げし、新人を育成していこうとする情熱と行動力は凄い!

日本の映像業界ってアクションを一段低く見てると昔から言われてきていますし、実際、映画もヒットしません(脚本の問題が多いと思う)。だけど、じゃあ日本人はアクションが嫌いなのか?って言ったら全然違うと思うんですよね。格闘技ブームもまだ続いているし、武道・武術も再評価されてきてる。

たとえば、「もうダメだ!」とずうっと言われ続け、どんなに壊滅的に衰微しようが時代劇は無くならない。だって、最早、伝統文化のジャンルなんだから・・・。

子供向けの特撮アクションドラマだって、昔は「ジャリ向けだから出演したら俳優としての未来は無い」なんて言われていたのに、今は大人の鑑賞も意識した作りになってて、出演した新人俳優の出世街道コースになってる。

要するに偏見に流されて表面的に敬遠されてるだけで、本当は日本人は活劇大好きなんだと思うんですよ。

だって、日本映画の最高峰と言われている映画って、皆さん、何だと思いますか?

『七人の侍』ですよ。

世界のクロサワの名作といったら、他にも『生きる』とか『羅生門』とかね〜。いくつもあるじゃないですか?

でも、やっぱり『七人の侍』なんですよ。人間が最も生命力を爆発的に輝かせてる瞬間というのは、命がけで戦っているところだと思うんですよね。スポーツの魅力だって全力で頑張ってる姿にある訳でしょう。

でも、現実社会で命がけで戦ったりしちゃあダメな訳で、だからこそ、映画はそれを表現してみせて欲しいと私なんか思う訳です。

まあ、興味本位でのぞきに行った程度の気持ちに過ぎなかったのに、渋谷の雑踏を帰る道々、何かいろんなことを考えてしまいましたね。何か、単純に、「よしっ、俺もなりふり構わず頑張ろう!」みたいな元気の素を貰ってきたような、そんな感じもしました。

お芝居は虚構なんだけど、その場に臨むために流す汗はリアルな現実です。これは私がやってきた武術と何も変わらないし、自己満足でやってるだけの武術よりエンターティンメントとして第三者を感動させる<芸>を追求している人達の方が、私には輝いて見えて、うらやましいな〜って思う時がありますね。

つばさ基地の益々の躍進を期待と共にお祈りします。

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2007/09/10 最強怪獣はどれか?

武術・武道・格闘技好きの人間は、結構な確率で怪獣好きでもあるという説がありまして、元正道会館の看板だった佐竹雅昭なんてその典型例でしょう。

ですが、隠れ怪獣ファンは実際に多いみたいで、私が中国拳法を教わった師匠も着ぐるみの顔写真を見ただけでゴジラ映画のどの作品で使われたものか見分けていましたし、Gunもマニアだったので、私と二人の時はそういう話ばかりしていました。

で、怪獣好きにとっての一番の関心というのは、「最強の怪獣はどれか?」ということに尽きますね。

それで、出てくる怪獣の名前というと、ゴモラ、ゼットン、キングジョー、ガッツ星人、キングザウルス三世、ベムスター、ブラックキング、ヒッポリト星人、キングギドラ、初代メカゴジラ辺りが出てくるのが相場なんですが、マニア間で根強い最強説があるのが大問題作『ゴジラ対ヘドラ』に登場したヘドラでしょうかね。

しかし、現在、ファミリー劇場で放送中のウルトラマンタロウを見ていて、「こりゃ〜、強過ぎだよ!」と唸ってしまったのが、火山怪鳥バードン(クレジットタイトルでは“バートン”になってる)です。

何しろ、このバードンは前編中編後編の三部作で登場するちょっと他に例が無いくらいの超破格の扱いで、しかも、前編に登場してウルトラマンタロウにオナラをぶっかけたりスパイダーマンの必殺スパイダーストリングみたいな糸を吐いてタロウを縛ってボコボコに殴る蹴るの一方的な優勢を演じるケムジラ(毛虫型のモスラ幼虫みたいな怪獣)をパクパクッとクチバシでむしって食べてしまうのです。

このケムジラという怪獣が、どう見ても強そうではないのに、単体でウルトラマンタロウに勝つ寸前まで追い詰めてしまうんですからビックリなんですが、それがバードンを見るとビルの間をコソコソと逃げ回り、完全に格の違いを見せつけられます。

そして、その格の違いを証明するように、タロウをクチバシで執拗につつき刺して血だらけにして殺してしまうのですから恐ろしい。

さらにタロウの代わりに助っ人にやってきたゾフィーに火炎攻撃すると、何とゾフィーの頭が炎上! 撮影中のアクシデントで手足や背中に炎が燃え移るくらいは時々あるものですが、額が燃えている状態でタコ殴りにされてるゾフィーというのは大ショックです。

しかも、必殺クチバシつつき攻撃でゾフィーも絶命・・・。

ZATの隊員達も唖然として見ている。救いがありません・・・。前中編がこんなで、結末は後編へ・・・って、おいおいって感じです。

バードン自体は、何か本能で飛び回ってエサ食べてるだけだったりして悪気が全然無さそうで、目をパチクリさせて池でパチャパチャ水浴びしてたり、客観的に見ると単にでかい鳥さんですって感じなんですが、何かウルトラ一族二人を普通に殺してしまう強さには、感心するのを通り越して唖然となるのです。

私は何故か、本放送の時も再放送の時も、このバードンが出た三部作の回は見ていなかったんですけど、何かバードンって特別な能力とかないのにめっちゃ強いという評判を聞いておりましたが、こりゃあ、確かに強いです。いや、強過ぎます。ウルトラマンが一回ゴモラに負けた時のインパクトの10倍くらいあります。

そういえば、ウルトラマンも高原竜ヒドラと戦った時はクチバシでつつかれて苦戦しただけで倒せなかった(まあ、ヒドラって実体がないから無理だけど)し、帰ってきたウルトラマンもテロチルスには苦戦してた。マグマ大使もバドラは倒せなかったし、ガメラの最大のライバルもギャオス・・・何か、鳥系の怪獣って、何げに強いんだな〜。

ところで、バードンがケムジラを食べるというのは、ラドンがメガヌロン(メガニューラ)を食べてたのを連想させます。

メガヌロンは後にメガギラスへと成長してたけど、ケムジラが成虫になってたらどんな怪獣になったんでしょうかね? 幼虫でウルトラマンタロウを圧倒したんだから、成虫になってたらバードンといい勝負をしてたかも?

それから、何かの本で「ケムジラにやられているタロウはSMみたい」と書かれていて、それは無いだろ〜と思っていたんですが、ケムジラ入りのスイカを知らずにプレゼントして子供が目を負傷したもんだから、その母親から散々に嫌みを言われて言葉責めにされた東光太郎(実際、この主人公はアストロモンスやジレンマが出現するきっかけつくってしまう困った主人公だったりして、「またかよ、光太郎〜?」って思ったけどね)が、タロウに変身したものの、ほとんどケムジラにオナラガス攻撃されたり糸で緊縛されて蹴りまくられてるだけだったりするところを見てると、「確かに・・・」と思いましたね。

あっ、そういえば、かなり昔に漫画雑誌でウルトラセブンが活躍するオリジナル・ストーリーの漫画が連載されてて、怪獣軍団を統率する最強の怪獣スカンクドンと対決するセブンが、スカンクドンの必殺オナラガスを浴びて失神してしまう?という困った展開がありましたけど、実際にウルトラマンタロウがやられていたとは・・・。

ちなみに、この最強怪獣スカンクドンは、漫画のオリジナル怪獣で映像作品には登場しません。やっぱ、必殺技が“屁”ってのはネズミ男の専売特許で、最強怪獣の武器じゃないよな〜。

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2007/09/08 ゲキレンジャー劇場版は“燃えドラ魂”の人必見!

日曜朝の戦隊シリーズ、仮面ライダー、そしてゲゲゲの鬼太郎を見てからシダックスに教えに行く・・・というのが私の毎週のパターンなんですが、今期の戦隊シリーズ『ゲキレンジャー』は、カンフー映画ファンならば絶対必見のマニアックさでお薦めです。

TVシリーズはアニマル拳聖たちの名前が、ジェット・リー、ドニー・イェン、サモハン・キンポー、ジャッキー・チェン、ミシェール・キング(現ミシェール・ヨー)をもじっていたり、武侠映画の定番である五毒拳がモチーフで出てきたり、ここ数年、密かなブームを呼んでいる武侠小説(武侠ドラマ)の影響が濃いのです。

しかし、今回の劇場版は、もう丸っきり、燃えよドラゴンの設定なんですよね〜。

そうです。リー先生の出世作にして世界のアクション映画の概念を変えた武術映画の金字塔たる名作中の名作である『エンター・ザ・ドラゴン』の、孤島でおこなわれる武術大会に雇われ捜査官が侵入して・・・というスパイアクション風のあの設定です。

そして、この作品で久しぶりに悪の親玉で登場されているのは、70代半ばを迎える我らの石橋雅史先生!

うちの極真系会員さん達には「大先輩が出ているんだから見なさ〜い」といっておきましたよ。

石橋先生は歳とってもお顔の色艶といい眼光の力強さといい、少しも衰えを感じさせません。本物の武術家ならば70過ぎても実力は衰えないものだ・・・という我が主張を証明してもらっているみたいで感動ものです!

いやはや、それにしても“メカとカンフーを合体して効率良く最強になろう”という昨今流行の安直身体論を揶揄するような根性と友情が勝つという展開は燃えます!

やっぱりね〜。実際に戦う時は気迫がものを言うんですよ。9月中の特別指導では、この気迫の重要性を伝えて有終の美を飾って去りたいものです・・・(完全引退って訳じゃないけど、師範代達の成長っぷりは私の予想を超えてましたね。もう、どこに出しても恥ずかしくない。私が彼らの年齢の時、彼らの半分も実力無かったですよ。嬉しいような悲しいような複雑な心境でござるよ)。

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2007/09/06 10月からシダックスは土曜日

長らく日曜日の午前中に練習してきたシダックス橋本駅前店での講座(太極拳から、現在は『武術で護身術』)も、10月から毎週土曜日の昼3:30〜5:00に時間帯を移動することになりました。

これを機会に、都内の定期稽古会の方は師範代に指導を任せて私は月一回程度顔を出すことに決めましたが、シダックスの方は講師として勤務している訳で、引き続いて私が指導していきます。

それで、内容をもう一度、御説明しておきたいと思います。

1,スワイショウ(準備運動)

2,立禅(身体の軸を養成)

3,三元試力(骨盤の動きと全身連動を養成)

4,太極拳(簡化24式をベース)

5,歩法訓練(丹田錬成と動きながら攻防する訓練)

6,推手(重心操作の実用訓練)

7,対錬(初級九ケ条で交叉法の理合を体得)

8,実用研究(武器術を含めた各種武術の応用法)

9月の定期稽古会の特別集中稽古に併せて、シダックスでも釵・トンファー・ヌンチャク・槍の操作法を指導したりしていますが、これらの武器術に関しては、実際に戦闘に用いるというよりは日常の訓練に用いるトレーニング法として私がこっそりと実践してきたやり方を指導しました。

特に槍の稽古法は、中国の白鑞棍(柳科の中国原産の木で木質に粘りがあり、しなる)を用いた素振りによって勁力(発勁の威力)を高める訓練を教えました。

本場の白鑞棍だとよくしなるんですが、私の持っているものは結構堅いので、かなり勁力が無いとしなりません。逆に言うと、これがしなるぐらいなら、一発で倒せるくらいの発勁が打てる筈です。

驚いたのは、最初できなかったK師範代に要領を教えたら、すぐにできるようになったことでしたが、更に驚いたのはT師範代は最初からブゥオゥン・・と棍がしなったことでした。

これは、T師範代が空手で練った纏絲勁(全身を捻って連動させる動き)と、游心流に入って覚えた沈墜勁(いわゆる沈身)を組み合わせて木刀の素振りをやっていたので、そのままできたようでした。

続いて、ヌンチャクでは、最近、ヌンチャクを習いにいっているK師範代がWヌンチャクを披露! ヒュヒュヒュ〜ッ!と風を切るヌンチャク・・・お見事!

うちの会も、この風神雷神様とウナギ仙人様に任せて安泰かな?

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2007/08/23 9月の定期稽古

10月から定期稽古会の指導は師範代に任せる予定でおりますが、9月の一カ月間の中級クラスの指導内容は、要望に応えて、これまで隠していたような技を集中指導することにしますので、なるべく参加するようにしてください。

予定している内容は、『門派問わない中国武術の用法・居合術実用技法・交叉法の具体的実用法・その他武器術の用法等々・・・』です。

お断りしておきますが、これらは中級以上、游心流で2級以上を認定した会員と、私が認めた人に限ります。一般の人や新規会員には教えられませんので、お間違いありませんように。それ以外で、どうしても受けたいという人は私に相談してください。ある程度、真面目に通っている人の場合は、技量が足りなくとも受け入れたいと思っています。

また、常連会員さんの場合は、この機会は二度と無いと思って、できるだけ参加されるようお勧めします。多分、今回限りしかこれらの技は指導しないと思います。

恐らく、教えても体得は無理だろうと思いますが、今、すぐにできなくとも、いずれできるようになっていただければ・・・と思っています。

ただ、本当は、こうした“殺法”は将来的に師範として游心流を担ってくれる人にだけ教えるつもりだったんですが(現在、後継者向け秘伝書作成中です)、先のダンス白州のWSでの三人の師範代の指導っぷりを見ていて、考えを修正しました。

まあ、悪用される心配はないなと思った訳ですし、舞い上がって道を踏み外す人もでないだろうと思っています。

そんな訳で、私は10月からは、橋本駅前のシダックスで土曜日に教える以外は、定期稽古会には月に一回顔を出す程度にして一般向けの指導は後進に譲っていく予定です。
 会員向けの指導(個人指導や青空稽古会)も考えていますが、後は不定期でセミナーをやるくらいにするつもりです。今後はもの書きの方を主体にして力を入れていきたいと思っていますので、どうぞ、御理解ください。

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2007/08/22 須藤元気の引退理由に思うこと

引退した総合格闘家の須藤元気が、トーク番組で自分が引退した理由について語っているのを見ていて、「あ〜、この人は凄くまともだな〜」と思いました。

「格闘技をやっている時点で弱い人間なんですよ」という須藤の主張は全くその通りだと思います。

劣等感が強いから、自分を強く見せたいと思って格闘技や武道をやる人が多いのだと私も思います。

「武術をやっているのなら強さを見せろ」と言う格闘技愛好家も何人もいました。「武術なんか見せかけだけだろう」と見下してかかる連中も少なくありませんでした。

以前は腹が立ちましたが、最近は平気になりました。格闘技と武術は全く別物だと思うからですし、それぞれの良さを認めて選べばいいのですし、比較する必要性があるとは思わないからです。

比較するという発想はスポーツの原点です。それが競技という形式を生み出しました。どっちが強いか? どっちが優れているのか? そういうものを比較して確認したいという願望がある訳ですね。

田中泯さんのワークショップで武術を教えた時も、それに近い質問がありました。

Q「試合はやらないのか?」
A「やりません」
Q「大きな相手とはどう戦うのか?」
A「金的蹴ったり目を突いたりするのが基本です」
Q「武器で向かってこられたらどう戦うのか?」
A「土をつかんで目潰しに投げつけてダッシュで逃げます」

・・・皆さん、困惑した顔で苦笑していましたが、武術というのが敵と戦うものではなくて、第一に自分の身を護るものだという点は、何となく理解してもらえた様子でした。

須藤元気が格闘技を辞めようと思ったのは、試合に勝ってウォーッ!と誇らしげにしている自分の姿を客観的に醒めて認識した時、何て不毛なことをやっているのかと思ったかららしいですね。

それが社会人としてまともな感覚だと思います。

私が最近、格闘技に魅力を感じなくなってきたのも、強さを競って何の意味があるの?と思うからです。

昔から、私はどこか気持ちの上で、武術やってきていることに劣等感が拭いされなかったんですが、自分の弱さを認めたくなくて優越感に浸りたいと思う根性のいやらしさに自己嫌悪していたからだと思うんですね。

須藤元気も自己嫌悪に陥ったんだと思います。

最早、格闘漫画作家というイメージが強い板垣さんも、刃牙を休んで別の漫画を描いているそうですけど、やっぱり、煮詰まってしまうでしょうね。強さを求めるという行為に熱中していられるのは餓鬼の精神構造ですからね。いい年した大人のやることじゃありません。

これは『バガボンド』や『あずみ』にも感じます。

私もケータイ小説書くようになりましたが、格闘の描写が妙にアッサリしてしまうので物足りないという意見も聞きます。けれども、私自身、やたらに殴り合い蹴り合いしたりする戦闘というのが嘘臭くて嫌なんですね。武道や格闘技の描写がしっかりしていればいる程、現実の“戦い”から離れた不合理な格闘シーンにゲンナリしてくるのです。

私の場合、格闘が描きたいんじゃなくて、“戦い”を描きたいから、どうしても瞬間的になるんですよね。

どうにも、ノウテンキに強さを求める主人公のストーリーって、書けない。途中で空しくなってくる。

若い会員は理解してくれないかも知れませんが、やっぱり、武術が単なる人を殺傷するだけの代物だったら、こんな空しいものはないと思うんですよ。

私の弟は、「人の顔を殴るなんて信じられん」と、いかにも軽蔑したように言っていましたが、これもまともな社会人の感覚でしょう。私は自分がまともじゃないという事実を痛感するばかりです。

ダンス白州のワークショップが終わった後、遠巻きに見学していた人達から質問されたんですが、やっぱり、武術というとおっかないイメージがあるから、興味はあっても中々自分からやってみようというのには二の足を踏むみたいですね。

それで、参加した人達から「面白かった」「先生が優しかった」と聞いて、それならやってみれば良かったと思ったらしいです。

そういえば、私も、昔、初めて道場に入門しようと決めた時は、「おっかなかったらどうしよう?」って思ったものでしたね。入門したら凄く紳士的な先生だったので安心しましたけれど・・・いや、やっぱり、先生次第かな〜? おっかないところはまだまだ多いかも知れないし・・・。

それにしても、須藤元気も性格が優しそうですね。本当に強くなったから、もう彼には格闘技は必要なくなったんじゃないでしょうか?

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2007/08/21 ダンス白州外伝!

そういえば、ポンポンが痛くなって独りで宿で悶えていた時、桃花村の石原志保さんの舞踊『八月十五日のエトランゼ』の音楽だけは聞くことができました・・・。

何故なら、音楽担当の灰野敬二さんの狂熱のパッションは、白州の森に響き渡って宿の中にも充分に届いてきていたからです!

プランBでも脳天をつんざくような衝撃波に驚かされたものでしたが、あんなに離れていても聞こえるというのは本当に凄いな〜と思いましたね。

しかも、途中で、どう考えても女性の声としか思えない美声が聞こえてきて、「あれっ? 灰野さん以外に誰か歌ってるのか?」と思っていたら、今度は怒鳴るような「おらっ、かかってこいよぉ〜っ!」という声が・・・(暴走族とか乱入したのか?)。

後で帰ってきたT師範代に聞いたら、あの女性の声としか思えなかったのも灰野さんだったそうで、いや〜、とんでもない才能の持ち主だ・・・と驚くばかりです。

で、公演中、何故かクスクスッと笑った人達がいたそうで、そうしたら灰野さんがキレて?「何、笑ってるんだよっ!」と怒っていたのだとか・・・スゲ〜。

それと、宿で大声で馬鹿話しているT師範代に「隣に迷惑だから早く寝なさい」といって寝たんですけど、ジョンスン島で捕まったゴモラが麻酔薬で寝てる時みたいな物凄いイビキで余計にうるさかった。だって、イビキというより千葉チャンの息吹みたい。

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2007/08/19 ダンス白州2007報告

2005年に初めて呼んでいただいて、夏の恒例となっているダンス白州へ、今年も行ってまいりました。

今年は、一般向けの武術ワークショップだけでなく、田中泯さんのインターナショナル・ワークショップの中でも武術の講習を依頼されていました。

こりゃ〜、下手なことをやらかしたら田中泯さんの名前に泥を塗ることにもなりかねません。責任重大です。
 何といっても、<田中泯>といえば、国際的に活躍している日本のアーティストの中でもトップレベルの舞踊家であり、『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー新人賞を受賞して以来、次々に話題作に出演して俳優としても高い評価を集めている方です(最近ではNHKドラマ『ハゲタカ』での演技が出色でした)。

武術業界では私は少しは知名度あるかも知れませんけど(一応、いくつか本やDVDも出してるし)、そんなの比較になりませんからね。

でも、芸術の分野に武術が専門の私が呼んでいただけたというのは、非常に有り難いことであると同時に、向こうから見れば、どうしても“武術の世界の代表者”みたいな視線が出てきてしまう訳ですから、それこそ無責任な真似やってしまったら、武術という文化の評価を貶めてしまうことになりますよね。

私個人が武術家・武術研究家として世間的に活動している人達に懐疑的な視点を持っているのに、自分も同じ轍を踏んだらシャレにならん。さあ〜、大変だぞぉ〜。

そんなこんなで事前にあれこれと考えて、師範代三人と一緒に、丁度、お盆の時期に現地入りしました。

今年は、山田洋次監督の藤沢周平時代劇三部作で武芸考証を担当された正心館道場の蓑輪勝先生の合宿所に宿泊させていただいたので、蓑輪先生といろいろな話(映画のことから剣道、剣術、武術のこと等)をさせていただきました。

剣道の名門、野間道場が無くなってしまうという話は実に寂しく、また、剣道雑誌の企画である人物と対談した時に、その人が工夫したという一刀流の“切り落とし”を実演してくれたのがあまりにヘッポコで唖然とした話(蓑輪先生は溝口派一刀流を修行されている・・・シャカに説法って、こういう場合に使う言葉です)など、あまり表ざたにできない話題で盛り上がってしまいましたが、現状をただ憂いていても実りがないので、後半は今後のことを話し合いさせていただきました。まあ、時期がきたらお知らせします。

さて、ところが、今年は気負いが過ぎたものか、子供の頃からの持病の神経性腸炎が酷くて(毎年、多少は症状が出てる。今年は四月に親父の一周忌の法事がきつかった)、初日の一般参加者向けのワークショップ(参加予約者が少なくて心配した)は、当日に参加者もぐぐっと増えて(前日、素晴らしいフラメンコを披露されていたダンサーの方も参加されていました)楽しくやれて気分が良くなり、ついうっかりビール飲んでいたら、どんどん酷くなってきて、その後の公演を見る余裕もなくなって(残念無念・・・)、宿に帰って安静にしていました。

ところが、どんどん悪化して良くなる気配は全然ない。これはヤバイと思いましたが、一晩寝れば落ち着くか?と思っていたけど、全然ダメ・・・。明け方の午前四時くらいには最悪の状態で、「こりゃあ・・・マジで無理かも? 師範代三人に任せてしまうしかないか? いや、それじゃあ、泯さんに顔向けできないよな〜。弟子にやらせて自分は宿で寝てた・・・なんて、武術やってるヤツはだらしがないって言われるよな〜・・・」とか考えつつ、それでも現実に気力は落ち込むばかりでした。

朝は少しマシになりましたが、シャレにならないくらいシンドイのも事実。ギリギリまで考えましたが、とにかく先に師範代三人には現地に向かってもらって、私は開始時間に間に合うギリギリまで腹の調子を整えるようにしていました。

それで、ステッキついてやっとこさ歩いて行きましたけど、本当に80過ぎた爺さんになった気分でしたね〜。

「こんな状態で無事にできるかな〜?」と思いましたけど、かの植芝盛平先生の伝説の演武を思えば、こういう最悪の体調の時こそ気力で勝負しないといけません。それに、インフルエンザでヘロヘロの時や、泥酔して独りで歩けないくらいの時でも武術はできたんですから、「この程度じゃ俺は負けんっ!」と自己暗示で自分を鼓舞して始めました。

外国の人に教えたことも何度かはありますけど、15ケ国(え〜っと、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリス、ロシア、ブラジル、インド・・・あ〜、もう判らんっ)もの外国人ばかり二十数人を対象に教えるのは初めての経験です。

でも、受ける側だって、ダンスのワークショップ受けに来ているのに、何やら正体不明のマーシャルアーツの講師が来てたって、「この人誰? 今から何やるの?」ってのが本音でしょうからね。泯さんだって、私がどんなこと教えるのか知らない状態で、私のキャラを信用して?任せてくれている訳ですからね〜。

いや、もう、余計なこと考えても益は無いです。私だって、長く教えてきているんだし、いつものようにやるだけっスよ。「ドント シンク フィ〜ル」 考えるより感じるんだぁっ! 

スワイショウ、立禅をやり、その用法を示します。いや〜、言葉が通じないってのはきついな〜。通訳してくれる人がいなかったら、どうにもならんかったでしょう。

最初はぎこちなかったものの、やってるうちに段々、面白がってくれている様子が感じられてきました。予定外の絶不調でしたが、これだけはお見せしておこうと決めていた蛟龍歩の運足を使って間合を潰して密着していく方法も、無事に実演できました。体調が良ければ丹田に腹圧をかけて発勁を連発するとか、そういうのもお見せしようと思っていたんですが・・・これは流石に無理なので止めておきました。

前半で様子を見ていると結構、きつそうな感じだったので、休憩タイムの後は合気上げとか不思議チックなパフォーマンスを中心にやりました。案の定、こういうのが面白いみたいです。

元々、ダンスをやっている人達なので、先入観なく取り組んでくれるので、とんでもないスピードで習得していきます。「片足立ちで丸く掲げた腕を押させても崩れない」というパフォーマンスを見せて、仕組みを教えると、即座に体得してしまいました。

「ガッチリ力を入れて頑張ると、相手の押してくる力が直接作用するので体勢が崩れる。しかし、腕を脱力して相手の押してくる力を受け流すように細かく揺するようにしていると相手の力が作用しないので、片足立ちでも体勢が崩れないんです・・・」と、言葉で伝えるのが難しいかな?と思ったものの、やらせてみると、流石に勘所が良くて全員、難無く体得してしまいました。

ちなみに、このパフォーマンスをやって見せている太極拳家は、「相当な訓練をしなければ体得できない」とコメントしていましたが、この様子を見たら何というのかな?と思いました。

結局、高級な技といわれているものは、原理を理解すれば素人でもすぐにできるような技が少なくないのです。やっている人間は相当な訓練を自分がやっているから、誰もが自分と同じような過程を経た上でなければできない筈だと思い込んでいたりするのですが、それは技を原理的に理解する能力が欠けているだけの話で、全くの勘違いなんですよ。

また、そういう具合に、人を驚かせて不思議がらせるような見世物芸ばかりを演じて悦に入っていたりするような幼稚な人間を、私は武術家とは認定できません。本人は達人のつもりで自惚れていても、見世物芸と実用技をきっちりと区別していなければ、素人のケンカ馴れした人には不覚を取ってしまったりするんです。

だから、一通り(合気上げ・脱力技法・指取り合気崩し・胸取り崩し・胸発勁・脚取り合気崩し・・・等々)練習した後に、「今までの練習は、合気技の原理を理解するためのもので、この原理を実際の技として使う場合はこういう具合に応用します」と言って、具体的な護身術の応用例をやってみせました。対パンチ、対掴み、対蹴り・・・等々。

今回、三人の師範代が私の代わりに細かく教えて回ってくれたので、本当に助かりました。まあ、抵抗するという程じゃありませんが、「こうやったらどうするの?」と、興味津々であれこれ試してくる人もいたんですが、無理に力でねじ伏せたりすることもなくテクニックでいなしていたのに、ここ半年程での進歩を認めずにはいられませんでした。

武術習いに来た人ならまだしも、ダンスの参考に武術に触れているだけなんですから、とにかく怪我だけはさせないように・・・と、それだけは師範代にも注意しておいたんですが、心配する必要はありませんでした。

正直、「いや〜、スゲ〜な〜。ここまで抵抗されたら返せない合気道家とか結構いる筈だけどな〜。こんなに上達してたんだな〜」と、ビックリしてしまいました。

しかし、反省点も一つ、二つ。

まず、一般向けワークショップの時に小学生が突き指したこと。子供は目が離せないですね。活法で応急手当して六割りくらい治った筈なんで大丈夫だとは思うけど。

それと、やっぱり、英語くらいは日常会話レベルには話せないといかんな〜ってことですね〜。英語が世界の共通語だってあらためて痛感しましたよ。

ともあれ、今回のダンス白州は、師範代の成長ぶりを改めて痛感しましたし、実りの多い旅行でした。私は体調不良で観たかった公演もいくつも観逃してしまいましたが、師範代三人が私の分を補ってくれました。今回は本当に独りだったらどうしようもなかったですね。最後に、田中泯さん、事務局の斎藤朋さんをはじめ、ダンス白州スタッフ及び参加者の皆さんに心から感謝!

PS;ワークショップの後、興味を持った人が多くて本やDVDがないか?とたずねられましたが、本は日本語版しかないから読めない。海外の人を思えば、やっぱりDVDがいいでしょうね。游心流のDVDは游心流ストアにお申し込みください。発勁・合気・丹田がありますが、一回セミナーを受けた人ならDVDを見ただけでかなり習得できるでしょう。無論、体験していなくとも地道に真似てもらえばできるようになると思います。

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2007/08/17 夢枕獏の原作漫画は、あの映画?

SPA!を読んでいて、夢枕獏が漫画のオリジナル原作を手掛けたという記事を読みました。

「長野先生のケータイ小説は文体が夢枕獏に似てる」と言われて、そういえば、80年代は夢枕獏と菊地秀行の超伝奇アクション小説をよく読んでいたよな〜と思い出し、文体が似るのもそのせいかな?と思ったものでした。

しかし、いつまで経っても遅々として進まないキマイラ・シリーズに痺れを切らして読まなくなり、夢枕獏が巨匠になってしまったのでB級の味わいが無くなってしまったような寂しさから、書店で手にとることも減り、ついに小説そのものをさっぱり読まなくなってから久しくなります。

最近は、藤沢周平と金庸は読むようになりましたけど、浪人から学生にかけての一日一冊ペースで読むようなエネルギーは無くなってしまいました。

それでも乱読癖は相変わらずで雑誌やムック、お気に入りの漫画くらいは読みますけどね。

それで、SPA!の新刊紹介コーナーはよくチェックしているんですが、この夢枕獏が初めて手掛けたというオリジナルSFアクション漫画の原作『狗ハンティング』って、円谷映像で映画化した夢枕獏が映画用に書き下ろしたSFアクション『超高層ハンティング』の設定そのまんまなんですね〜。

映画は、ミュータントとエスパー(実はミュータントとのハーフ)の対決を描きながら、人類側で戦っていたエスパーが騙されていた怒りで人類に戦いを挑む・・・というところで終わるブレードランナーの影響が濃い作品でした。

西村知美が悲劇のヒロイン役で出てるとか、宇宙刑事シャイダーでデビューして惜しくも早逝してしまった円谷浩や、円谷作品常連の高樹澪も出ています。主演の役者さんはテレビなんかではあまり見かけない人で舞台が中心の人なのかな〜?と思いましたが、アクション・シーンで掌打を繰り出したり、ちょっと当時流行った骨法の匂いがしました(そういえば、少女コマンドー・イズミも骨法を使っていたな〜)。

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2007/08/16 八月は白州でダンス三昧?

今年も、真夏のダンス白州2007に参加できることになりまして、14〜16日と山梨県白州に行ってまいります。

2005年にお誘いいただいてから今年で三回目の参加となりましたが、今年は田中泯さんのワークショップ参加者への講習も兼ねてますから、責任重大だな〜と思ってます。

一般参加者向けのワークショップは参加枠がかなり余裕ありますので、山梨近隣の方や夏休みでヒマがあって、「一回くらい游心流のセミナーとか受けてみたいな〜」と思ってらっしゃる方にはお薦めですよ。特に、色々な国内外のダンス名手の動きを生で見られる機会は滅多にないですしね。関心のある方はダンス白州のホームページをご覧ください。

私も余裕があれば、最初から最後まで白州にいて全プログラムを見たいくらいなんですが、貧乏ヒマ無しで、今年の夏は仕事の正念場だもんですから特にスケジュールがきつくなってしまってですね〜。見たいプログラムが沢山あって、一人、ため息をつくばかり。

先週の土曜日曜は、奈良から現在唯一の女性会員が練習に来ていたので、土曜は通常稽古(初級)、日曜日はダイダラボッチが踏んだ足跡が池になったという伝説のある渕野辺駅近くの鹿沼公園で、個人指導をしました。

正直、うちの会は女性が続かないので、こっちも教える気がしなくなっていたんですが、やっぱり、熱意があれば男女の別はありませんよね。元々、少林寺拳法をやっているので、非常に飲み込みが良くて、本人は「中々できるようにならない」と言っていた発勁も基本的にはできるようになっていました。

ここまでできれば後は動きの中でどう使うか?という使い方の問題なので、歩法を使う間合の潰し方や、構えている相手の前手を制圧して一気に間を潰したり、死角に移動するやり方等々、即戦的な技法を色々と指導しました。

よく考えると、こういう技を女性に教えたのは初めてでしたね。一般向けには一度も公開したことないし、そこまで教えられる人がいなかったので・・・。ダンス白州ではどこまで教えられるかな〜?

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2007/08/16 ライオン丸もすごい!

ところで、スペクトルマンの後番組として始まった『快傑ライオン丸』も時代劇専門チャンネルで始まったから観てますけど、これがスペクトルマンの貧乏臭さとは段違いに予算をかけて丁寧に撮られていて、ちょっとビックリです。

特に、殺陣(タテ)のシーンが非常に凝っていて、逆回しで撮って、数人斬って岩や馬(天馬ヒカリ丸)に飛び乗るライオン丸のカット等は、飛び降りて逆側に斬っている筈なんですが、驚きのテクニックです。

獅子丸役の潮哲也は今も現役の役者さんで、以前、『仮面天使ロゼッタ』で親子変身ヒーローのお父さん、神仮面ファラオンを演じていましたが、ライオン丸を意識した演出があったり、仇役でタイガージョー(ライオン丸のライバル)を想起させる青虎魔人ガルゼットが出てきたりしていました。

ところで、潮哲也さんはライオン丸の主役が決まって5日間で殺陣や乗馬の特訓をしたのだそうですが、かなり立ち回りは上手いです。沙織役の九条亜希子さん(潮氏と結婚)も、小太刀を使ってかなり激しい殺陣をこなしていますし、何せ、忍者役ですから、結構傾斜のキッツイ崖をロープ頼りに登っていたりして、これが吹き替えは使っていないみたいなので、驚きました。今だったら役者の事務所が「うちの新人殺す気かぁ〜?」と怒るでしょうね〜。昔はムチャしよったな〜?

潮氏もインタビューで、「これは俺は死ぬんじゃないかな?」と思ったそうですが、作品を観ている限り、確かにそう思うだろうな〜?という激しさです。そんな命懸けの作品だからこそ、名作なんですよね〜。

そうそう・・・、そういえば、この作品、脇役で出てくる役者さん達がやたら上手いんですよ〜。何か、異様なまでのインパクトがありますね〜。

『ライオン丸G』は賛否両論凄まじかったですが、このライオン丸の熱気は到底、現代を舞台にしては作れないでしょうね。改めて『ライオン丸G』が、ああいう具合のトンガッタ物語になったのも頷けます。それほど『快傑ライオン丸』は変身ヒーロー番組として王道を直球勝負しています。

これって・・・ハリウッド映画化したら面白いんじゃないかな〜?と思いましたね。

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2007/08/15 スペクトルマンはやはり凄かった

スペクトルマンの集中放送も終わりました。子供の頃に見ていた作品を大人になって改めて見直すと、色々な発見がありますね〜。

まず、女性隊員の入れ替わりが激しい! シリーズ中、四人(小西まち子・親桜子・後藤留美・桜井妙子)出演しておりますが、この入れ替わり具合はちょっと驚きます。スタッフかキャストに凄いセクハラする人でもいたのでしょうか?

一番、最初に出演して最も印象の強い小西まち子さん(漫画家の谷岡ヤス治氏と結婚されています)は、ピープロ特集の特番にも出演されて思い出を語っておられますが、その小西さんも出演回数は実はそんなに多くは無かったのですから、驚いてしまいます。

特撮番組ではヒロインが途中交替することって結構あって、『バトルフィーバーJ』のミスアメリカ、『超電子バイオマン』のイエローフォー、『重甲ビーファイター』のレッドルとか、番組自体を打ち切って新番組になった中華魔女シリーズなんてのもありましたね〜。

でも、交替するって言っても、スペクトルマンだと、前フリ無しで突然変わってるからビックリですけどね。ウルトラマンタロウのあさかまゆみは確か病気降板だったそうですけど、スペクトルマンの女性隊員は何だったんでしょう? 特に、三番目に登場した怪獣Gメンの新隊員サワミドリ(後藤留美? メインキャストにすら入れられてない)は、登場したかと思ったら、あっという間に転勤してしまいました。赤いランプがついてるヘルメットのマヌケっぷりに嫌気がさしたのでしょうか?

でも、四番目に登場した桜井妙子さんは頑張って最終回まで続けておりました。立派です。私の好みのタイプだったので、「辞めるな〜。最後まで辞めるな〜」と、応援してしまいましたよ。

そういえば、今なおアニソン女王の称号を誇るミッチーこと堀江美都子が唯一女優で出演していたことばかりが作品の評価を圧倒的に超えて有名な『宇宙鉄人キョーダイン』の思い出についてインタビューされたミッチーは、その超体育会系の撮影についていけず、ただの一度で女優はやめてしまっていたらしいです。

特撮番組とかアクション物は、一番に“根性”が必要だということでしょうか?

普通に女優している水野美紀も、ファイブマンにゲスト出演した時は宇宙人の着グルミとか着せられて屈辱的な想いをして悔し涙を流したとか?(でも、口裂け女を自ら志願するほどの女優魂の持ち主に成長! そろそろ日本版チャーリーズ・エンジェルをやらせてあげましょうよ)

それから、スペクトルマンの名作として名高い怪獣ボビーとノーマンの話は、ダニエル・キースの名作『アルジャーノンに花束を』を翻案した作品ですが、これはお世辞抜きに名作でしたね〜。怪獣の造形はアチャ〜ッ!って感じなんですが、鶴田忍の巧みな演技と丁寧な撮り方で、ウルトラマンのジャミラ編、ウルトラセブンのノンマルト編、帰ってきたウルトラマンの怪獣使いと少年編に匹敵するスペクトルマンの最高傑作編と言えます。

でも、これって知能障害の有る人を脳機能アップさせる手術についての話で、原作のアルジャーノンでも皮肉な結末で物悲しく終わるのがミソ(Yoshiの小説みたい)でしたが、スペクトルマンでも怪獣化していく三吉の苦悩と達観を描き出して感動的ではあるものの、差別表現の放送するのはどうだろう?って感じではありました。

何せ、エンディングの歌の子供のコーラスが入る所の歌詞が「憎〜い怪獣、ぶっ殺せ〜」ですからね〜。ヤバイってそれ・・・。

スペクトルマンと怪獣の戦いもスプラッター感満載です。まるでブッチャー、ザ・シークと戦うテリー・ファンク、ドリー・ファンクJR.のプロレスを見ているようです。

うわ〜、これは怖いな〜と思ったのは、バラバラに切断された三つ首竜とかが死なないで向かってくるところですね。バタリアンみたい・・・。

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2007/08/14 自民大敗に思うこと

いや、今回の選挙は実に面白かったですね〜。
 といいつつ、私は投票に行きませんでしたけどね。昔っから、私、政治の世界って興味がないんですよ。これまで一回か二回しかいったことない。それくらい政治家に何の期待感もない。

バイオレンス・ジャックとかマッド・マックスとか北斗の拳みたいな世界になっちゃった方が自分の好きに生きられていいかも知れない?なんて考えちゃうくらい自分しか頼りにしない性格ですからね。

だから、年金問題も全然興味無し。どうしようもなかったらホームレスになるだけの話でしょう。武術は順調に上達してるから、酔拳マスターを地でいったりするのも人生の締めくくりとしては悪くない。

無論、こんな無政府主義者(そんな主義は無いけど)みたいな私にとって、首相が誰に変わろうが基本的に関係ないね〜って思うだけです。

それでも、今回の選挙戦は終わってからが抜群に面白くなりましたね〜。

自民党大敗で民主党が大躍進したっていう現実には、「おごれる者も久しからず」の感がありました。

大体、私はえばってるのがガツーンとやられるのが大好きなんですよ。

安倍首相って悪い意味で外柔内剛の人でしょう? あのなりふり構わず法案を通してしまう強引さや、松岡さんを自殺まで追い詰めておきながら責任を感じない無神経っぷりは、一見おとなしそうだけど実はワガママなボンボンのそのマンマです。

「国民の理解は得られている筈だ」とトンチキなことを言って続投宣言するピント外れっぷりは、空気が読めない自分の内部だけに生きている妄想体質をすら疑わせてしまう。

民主党に票が集まったのは、自民党安倍政権へのNOの現れだと言われていますが、「過半数が取れなかったら政治家を引退する」と、背水の陣を宣言して臨んだ小沢さんの覚悟が、上っ面だけ美しく飾ろうとする安倍首相の嘘っぽさを決定的に打ち砕いた印象を受けますよね。

パフォーマンス政治家の小泉さんが人気を得たのは、単にオモロイおっさんだったからですよ。あのパフォーマンスに国民が騙されてしまっただけです。

それを引き継ぐ安倍首相が自分のキャラでもないのに口先三寸の綺麗言ばっかり言っていたら、そりゃあ、国民に不信感持たれるのが当たり前です。

だって、政治家ってダーティーなものという伝統的な世間一般の強烈なイメージがある訳で、それをさも綺麗なものであるかのごとく語ってしまうから、次から次に問題を呼び込んでしまう。綺麗言なんか言わずに、「政治は綺麗言だけではできません。今の日本の危機的状況を切り抜けるためには金も必要なんです。どうか、御理解ください」とでも言えば、本音で話す信頼できる首相をアピールできて良かったんですよ。バカだな〜。

今までは口先三寸で国民の疑問をはぐらかすのも通用したでしょうが、今後は、いかに本音を語って正直に現状を国民に知らせていくか?という点が重要視されるでしょう。

東国原知事の人気だって、彼の実直そうな嘘を感じさせない態度にあるんですから、安倍首相もそこに学べば良かったのです。

でも、安倍首相がどこまで悪あがきするかによって、自民党は完全に解体される可能性も出てきましたね。空気が読めないのも、あそこまでいくと立派です。

いいことです。政党による政治から、個々の政治家の人間力がものを言うようになったら、私も政治に俄然、関心がわくのですが・・・。

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2007/08/10 甲野ナンバ批判論の“それから”

先日、TVでたまたま見た甲野氏の出演で、ナンバについて語られている点について批判論を書きましたが、恐らく、これを読まれていた方なのでしょうか、どなたかが講習会で甲野氏に直接、「ナンバは歌舞伎で、不自然な動きのことを南蛮と言ったことから来ているのではないか?」というのを質問されていたそうですね。

この逸話は、私の本を読まれた方がブログで感想文を書かれている中で紹介されていたそうで、会員から知らせてもらってプリントしてもらって読みました(どなたか存じませんが、御感想、ありがとうございます。御指摘の『護身・健身が一体化した活殺自在の武医同術を極意とするものであり・・・ということにはあまり触れられていません。これに関しては期待はずれです』との件、御不満点は次回作で改善させていただく予定です)。

この方のブログの感想文によれば、甲野氏自身、この講習会でのナンバに関する疑問に対して、「そうでしょうが、私は同側の動きを便宜上ナンバと呼んだだけで、歌舞伎とは関係ない。でも、間違って広まってしまったので訂正しなければいけないと思っている・・・」と答えられた様子です。

間接的にではありますが、私の提示した疑問に対して“間違っていた部分は訂正する”という意思表示を示されたという話には、正直、ほっとする想いがします。

後は、その場限りの発言ではなく、間違って解釈されているナンバ論を、当事者から正確な情報を発信して訂正していっていただくだけの話です。まずは、大いに期待して見守っていきたいと思います。

何事によらず、間違いはいつか必ず誰かに指摘されるものです。間違いだったと気づいた時に訂正して「済みませんでした」と謝るのが本当の勇気でしょう。

“ナンバ”という言葉が一般的に知られていないからこそ、誤解させるように用いてはならないと私は考えます。

別冊宝島の『超プロレス主義!』という本をたまたま読んでいて、河野亮仙氏(インド文化史研究家)が記事『エスニック格闘技のリズムとパワー』中、ナンバと武術の動きについて触れています。少し長くなりますが、引用してみます。

「さて、この右手右足を同時に出す身体の捌きを舞踊の世界ではなんばと呼ぶ。南蛮振りの略だ。インドのカタカリ舞踊劇、中国のパンズ劇や京劇にも特徴的にみられる動きだ。故武智鉄二氏は、なんばは狂言や能、歌舞伎など日本の舞踊の動きの基本であり、それは農耕民族たる日本人が鋤・鍬でヤッコラと働く身体の運用に由来するという」と、解説されています。

しかし、河野氏は、「偉い人が大きな声でいうと思わず納得してしまうが、案外そうではないかもしれない」と続けて、日本人の特有のものという説には異論を唱えています。

ただし、河野氏の仮説は甲野ナンバ論と重なって、「武術ではなんばの方が理にかなう。武器を含めて道具を手にするときの動きはなんばになる」と続けていますが、ここでいう“武術”は、“日本の古武術”には限定されず、ニュアンスとして外国の古い伝統武術一般を指している様子です。

この本が出たのは1989年9月25日発行となっています。実際はもう少し早いでしょう。つまり、18年前には武術とナンバの動きの関連について甲野氏以外に論述していた人がいた訳です。それも、<ナンバは舞踊の言葉で、語源は“南蛮振り”から来ている>と、端的に説明されていて、ナンバ(同側順体)の動きが日本人特有とは限らないという点についても既に書かれていた訳です。

河野亮仙氏はインド武術にも詳しく、東洋の武術と舞踊の関係性についても早くから論じられていた様子ですが、日本の古武術の身ごなしがナンバと共通性があると説いた初めての人は、恐らく故名和弓雄氏(正木流師範)と思われます。甲野ナンバ論は名和氏の解説を換骨奪胎してアレンジしたものです。恐らく、名和氏もナンバの語源が舞踊であることはいっておられただろうと私見します。

それから、蛇足ではありますが、「ナンバは歌舞伎で、不自然な動きのことを南蛮と言ったことから来てるのではないか?」と講習会で質問した方の意見ですが、この場合、歌舞伎ではなく“日本舞踊”の派閥による解釈であるという点を付け加えておきたいと思います。私が問題視しているのは<文化としての言葉の問題>だからです。ここを間違えていただいては困ります。

歌舞伎は、そもそも“傾く(かぶく)”という偏向した反骨精神に関する言葉が語源としてできた芸能であり、そもそも江戸庶民の日常動作をそのまま表すものではないでしょう。その意味では日本舞踊の方が日常動作に近かったであろうと思われるのです。

そして、日本舞踊の動きは胴体をよじる動作が頻繁に表れます。甲野氏が説くような“捻らない動き”一辺倒ではなかった証拠とも思われます。これは、“見返り美人図”を見ても解るでしょう。この図は明らかに写実的に描かれたもので、絵画表現のパターンではないと考えられるからです。

武士の芸能であると最近紹介されている能の場合は、甲野理論に沿う部分が少なくありませんが、能ではナンバという言葉は使われないようです。歌舞伎、日本舞踊で南蛮人(外国人)の動きをイメージした<南蛮振り>という言葉が語源であれば、確かに武士が外国人の真似をするとは思えませんから、それでナンバ(ナンバン)という言葉が無いのかも知れません。この点に関しては能の専門家の論を聞いてみたいところです。

また、武士と町民、百姓(おっと、これは差別表現なんだっけ?)の動作が同じであるとは思えず、また、人口比率から考えても武士階級の身体操作が江戸時代以前の日本人のスタンダードであったとは到底考えられません。能と歌舞伎を見比べてみれば、静と動の印象の相違がありますし、もっと多角的な検証の必要性があるでしょう。

ですから、「江戸時代以前の日本人」という括り方が、いかに全体主義的な大雑把過ぎる物言いであるか?という素朴な疑問も提示しておかねばなりません。

この点に関して、先日、絵画の観点から私の論を肯定する御意見を資料とともに送ってくださった美術館職員の方がおられました。ともかく、このような文化論に関する論議は、一面的にならないよう多角的に色々な専門研究家の討論によって検証されていくべきかと私は思います。一古武術研究家の論を無批判に引用する態度がそもそもの間違いです。

ナンバのブームに関しては、メディアの構造的体質論として、キャラクター先行の現代ヒーロー渇望願望を利用したものにも思えるのです。その意味では、私は甲野氏がメディアの生け贄に供された哀れさを感じて気の毒でもあります。

無論、実質的には相互依存によるもので、甲野氏が戦略的に自分の地位を確立していこうと努力した結果でしょう。
 が、流石に甲野氏自身も、ここまで世間に広まるとは予想していなかったでしょう。

元々、非常に感覚的な物言いをする夢見がちな“ポエマー”なので(「私の理論は科学では解らない」なんて安易に発言するところが微笑ましい。力学と生理学の初歩の初歩で十分に解説できますよ)、実際はあまり深く考えずに理論付けしていて、論理的に批判されると困惑するだけと思います。学究肌ではなく文芸肌、あるいは宗教家タイプの人なのです。少なくとも論理的に考える人ではありません。

これも指摘しておかねばならないのは、甲野氏が「同側の動きを便宜上ナンバと呼んだだけ」と主張することそのものに、疑問を感じざるを得ないという点です。

第一に、“同側の動き”を、何故に“ナンバ”と語る必要があったのか?

ナンバという言葉が甲野氏がオリジナルでネーミングした造語であれば、未だしも納得できるのですが、河野亮仙氏も明確に記している通り、ナンバは伝統的な舞踊の専門用語なのですから、これは悪くすれば完全な盗用になってしまうのです。甲野氏の最大の間違いは、出所を明らかにせず、あまりにも安易に持論に流用してしまったことです。

まったくもって浅慮というしかありません。いい大人が「便宜上ナンバと呼んだだけ」というセンスは責任逃れの度が過ぎており、厳しく非難される必要があります。ニセ物ブランド商品を売れば摘発されますよね? それと同じことですよ。

例えば、私も立禅・這い・試力といった言葉を自分の流派で用いていますが、これらが太気拳、意拳の用語である点は隠していません。「自分の解釈を加えてアレンジしているが、原点はどこそこから借りてきているもの」と明確にするのが先駆者に対する礼儀だと私は考えています。

ナンバという言葉を安易に使わず“同側順体運動”と呼んだのは振武舘の黒田鉄山氏ですが、このような客観的な運動構造の性質を表現する言葉を使用した方が、科学的な土俵での検証がしやすいのではないか?と私は思うのです。

黒田氏はナンバという言葉を知らないと正直に証言していますが、社会人としてまっとうな態度です。安易な言葉の流用が詐欺行為に繋がりかねない点を弁えておられるのでしょう。

日本舞踊では、更に“ナンバ”と“ナンバン”を分類していますが、前者は向身(上体を正面に向ける。剣道や柔道、沖縄空手の身法に多い。古流では小野派一刀流や二天一流等)であり、後者が半身(上体を斜め、もしくは完全に側面に向ける。ボクシングやフェンシング、中国拳法、ライフル射撃等の基本構えに多い。空手では和道流やフルコンタクト空手、古流では神道流、新陰流系等に多い)となります。

普通、ナンバと言えば“半身(順体)の動き”と解釈されますが、これも甲野氏は向身と半身をごちゃ混ぜにして論じている様子で、より一層の混乱を招いています。

言い出しっぺが混乱していれば、その論を流用した人達は更に混乱していきます。本来、武術とは何の関係もなかったナンバという言葉が、今やスッカリ、<古武術用語>として大いなる勘違いをされて定説化してしまったのです! 舞踊に伝わる言葉だという真相を知っている人達の方が最早圧倒的に少ないでしょう。

さて、身体操法としては、向身は中心軸をセンターとしますが、半身の場合は、中心軸と左右側軸の三つの軸を使い分けるのです。一つの軸と三つの軸では身体操法はかなり違ってきますから、これをごちゃ混ぜにして考えることがいかに混乱を招くものなのか? 誰にでも理解できるでしょう。

甲野氏が車の構え(脇構え)の利点について発表していた時、この三つの軸の操作に関しては全く触れておらず、単に打たせて抜いて打つという拍子の操作だけで処理していましたが、これは状況設定の条件付けが武術の理合から外れてしまっており、不思議に思っていました。

中心線をガラ空きにしておいて「小手を打ってきなさい」と指定しておいて体捌きで抜いて打つ・・・。私は最初、「これはコントなのか?」と本気で思いましたが、マジでやっていたので天を仰ぎました。普通、ガラ空きの頭や喉を狙う筈の姿勢でいて、何故、わざわざ小手を打たせるのか? 武術の理合を知っている人なら首を捻りたくなる筈です。あのような不合理極まりない状況設定を見抜けない人達が少なからずいるという現実がたまらなく悲しくなります。

しかし、甲野氏のナンバ論及び武術の技として示される諸々のパフォーマンスが、武術としての実用状況から極端に逸脱した限定条件を付加し過ぎている点(稽古法としての型の意味を曲解して理合が抜けたまま工夫していると考えられる)・・・等々から検討して、「甲野氏は現実的戦闘状況に対応する理論構造下で研究してはおらず、武術技法の中から身体操作法のみを抽出して研究している。従って、パフォーマンスとしての見世芸と実用技の区別ができず、その勘違いをしばしば敷延し続けてしまっている」という問題点が浮かび上がってきます。

これは、昔、西野流呼吸法が“触れずに気で倒す技”の実演をメディアでしきりにやっていた時に、空手の高段者を相手に実演して格闘技雑誌で物議をかもした現象にも通底するものがあるでしょう。

『月刊フルコンタクトKARATE』1989年12月号と1990年1月号では、当時の西野流呼吸法の気のパフォーマンスに関して真偽を糾弾する特集記事が組まれていますが、決定的だったのは当事者である空手家の高橋信壹氏の内部告発記事「私は、西野氏に手を触れずに飛ばされたことはない」という手記が掲載されていたことでした。

テーマが異なりますから、この点にこれ以上は触れませんが、その当時の西野流呼吸法のプロパガンダのやり方と、現在の甲野氏の技の見せ方は、非常に酷似しています。

空手家や剣道家、相撲取り、ボクサー、プロ格闘家、アスリートを相手に技をかけて見せて達人っぷりを印象付けようとするやり方は、悪意が無かったとしても、それらの種目を愚弄するものになりかねず、故意に甲野流の武術の優秀性をアピールするために他流をダシにしているように見えてしまうのです。はっきりいって不愉快千万!

百歩譲って、真実、甲野氏の工夫した武術が他流よりずっと進化した抜きん出た技術体系を実現しているのであれば、文句はいいません。

しかし、甲野氏は、「取りに厳しく受けに有利な状況設定でおこなっている」という理由で、やたらに条件をつけて技を実演して見せています。が、これは見ている人達に技の効果を実際以上にイメージさせる心理戦略でしかなく、現実には技の原理構造を明かさないまま、一方的に相手が指定された通りに攻めてくるのに対してかけて見せているに過ぎません。指定通りに攻めてこなかったり、私のように技術構造をすぐに見抜いてしまう相手には通用しないものです。

もっと簡単にいえば、甲野氏の技術は、「脱力して相手の力のベクトルをずらす」「沈身で重さをかけて潰す」の原理的にいえばこの二つしか使っていません。

何故、あのような見世芸パフォーマンスを繰り返すのか? 私には全く理解できません。無礼という以前の問題でしょう。技の原理を解説するにしても、何も他流をダシにする必要はない。メディアの演出要求なら、「そんな失礼な真似はできない」と断れば済むことです。

ただ、「あれは武術から戦闘理論を取り払って、純粋に身体操作の理論として新しい価値付けをしているのだ」と認定すれば、世間一般の評価を勝ち取る実績をあげた甲野氏の偉業に対しては素直に喝采を送るべきかも知れないと思います。

恐らく、その方が今後の甲野氏にとっても最善の道だと思います。純粋に身体操作法の研究家として、“武術から離れて(ここが肝心要です!)”研究を深めていった方が、あらゆる面から考えて一つのマイナスも起こりません。

現に、何年か前に私が松聲館で甲野氏と討論した時は、そのようにすると約束していたのですが、どうも、<武術の達人>と周囲から持ち上げられたくて仕方がないみたいで、どうしても未練を断ち切れない様子ですね。

別に甲野氏に限った話ではなく、武術の世界には「俺が最強だ!」という誇大妄想に陥っている人達は腐る程います。私だって、本音半分で、「70歳で最強達人になってやる!」なんて、考えたりしています。現実にできるかどうかは別として、これは武術や武道、格闘技を学ぶ者の本能的なロマンです。

だから、甲野氏の気持ちが心情的には解らないでもありません。

しかし、嘘ついちゃダメですよね〜。いつまでも他流修行者をダシに使って持論の正当性をアピールするやり方は絶対に良くありません。角を矯めて牛を殺すの愚を犯さないよう、厳重に反省していただきたいものです。

良くも悪くも武術界を代表する第一人者となっている甲野氏には公人としての責任が伴うことをお忘れないよう、願います。

礼節を外れたやり方のために、これまで多くの友人を失い信用を損なってきたという御自身の現実をしっかりと認識して欲しいものだと私は心底、思っています。

迷惑をかけた者は忘れても、迷惑をかけられた方は決して忘れないものです。誰のことをいっているかは判る筈です。U先生やK先生、M先生、A社等のことですよ。

よくよく考えていただきたいと思います。

最後に、武術界発展の礎を築いてくれた甲野善紀氏の今後を祈らせていただき、筆を置きます。

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2007/07/27 『誰も知らない武術のヒケツ』の反響について

アスペクト刊、拙著『誰も知らない武術のヒケツ』も、お陰様で売れ行き良好な様子です。正直、前著よりかなり専門的になり過ぎてしまったので、どうなるかな?と思っていたのですが、売れ行きは前著を超えている様子です。

ぼちぼちと反響の声も聞こえてきました。特に空手道修行者の方からは「面白い。受け技にあんな応用法が隠れていたなんて。空手は単純な武道で深味が無いと思っていたが目からウロコが落ちました」といわれる方もいて、有り難いことだと思っております。

交叉法の観点から分析すれば、流派問わず、かなり広範囲の武術型の用法が読解できますし、本で解説したのはほんのわずかでしかありません。

例えば、鍛練用の形だといわれる三戦のあの形も、実用技の応用法を考えれば、4〜5種類はすぐに考えつきます。細かく分析すれば10〜20くらいの技は工夫できるでしょう。単純な形ほど、逆に変化応用は自在なのです。

また、拙著を読んで、「合気道は実践的ではないと思っていたが見直した」という方の話もうかがいました。こちらは『合気開発トレーニングDVD』をご覧いただければ、もっと詳しい応用法が御理解いただけると思いますし、できれば、合気道をやっている方の参考にしていただきたいですね。

もっとも、内容が伝統的な武術の秘訣を明らかにするという掟破りをやっている訳ですから、中国や日本の伝統武術をやっていらっしゃる方には、恐らく批判を頂戴するだろうな〜?と思っておりましたし、実際、そのような批判論を書かれている方もいらしたそうです。

最近、ようやく携帯電話を持つようになったので、会員専門の掲示板を時々見ているのですが、そのような批判を書いている中国武術の指導者がいたのだそうで、会員の何人かは憤慨しているようでした。

けれども、読んだ方がどのような感想を持たれるかは自由なのです。

私自身は、今回の本で、今の自分の精一杯のところを率直に書いたという達成感はありますから、その価値を理解してくれた方だけが、御自身の修行なり考え方なりに採り入れて役立てていただければそれで満足ですし、建設的な批判論であれば、私も研究家の端くれとして勉強させていただこうと思っています。

「自流こそ正統である」と主張する風潮が伝統武術の世界では支配的であり、実際の技の有効性を現実性ある観点から追求することはタブー視する考え方の人も多いのです。
 無論、そういう正統意識が全て悪い訳ではありませんし、自分の学ぶ流儀や師範に敬愛の念を持たない者に武術を学ぶ資格はないと私は思っています。

ただ、視野を狭くして「こうであらねばならない。こうでなければ間違いである」という独善性は、実質としての武術の内容の衰退を招くだけの不毛な考えです。

例えば、私が本の中で毛嫌いしていた“筋肉をバンバン鍛えて筋力で粉砕する戦法”だって、実際に役立って勝てれば間違いとはいえませんからね。戦闘で勝つことが目的であれば、方法論の是非は問題ではない。そういうシビアな現実を見つめて考えるのも兵法なんです。

私が研究してきた中には、武術の世界で定説のように言われていた事柄が、権威的に捏造されたものに過ぎなかった・・・といったことが少なくありませんでした。

特に、「<功夫>を得るには長い年月が必要」といわれるのが、必ずしもそうとはいい切れなかったり、「達人にしかできない」といわれていた技が、原理を知ればズブの素人がその場で体得できたりとか、そういう業界の定説化されている事柄を訂正する必要がでてきました。

私が主宰している研究会は流派の枠組みに囚われずに純粋に技術と知識、戦闘理論を探究していこうとしているので、正統意識に凝り固まった伝統に固執する考えの方とは、到底、話が合う筈がありません。

伝統は大切にすべきと思いますが、私自身は発展させるのが目標ですから、他所と交流するより、今は自分達の内実を磨く時期だと思っています。やっぱり、研究発表する以上は責任が問われてきますからね。

さて、今回、私が中国武術を学んだ師匠に、贈呈本を贈らせていただきました。

何しろ、師匠が物凄く大切にしてこられていた<交叉法>を事細かく解説して公表してしまったので、お断りしなければならないと思ったからです。

早速、約二年ぶりに師匠から電話をいただきました。

正直、怒られるだろう?と思っていましたが、むしろ、非常に喜んで、「頑張れ」と激励してくださいました。

そして、「人を育てなきゃダメだぞ」とも言われました。「まあ、人は一人一人考えが違うんだから、そりゃあ、集まれば色々あるさ」ともいわれました。しょっちゅう、人間関係のトラブルに巻き込まれている私を慰めるおつもりだったのでしょう。あるいは、御自身も悩まされたのかも知れません。

こういう時、言わず語らずとも通じる日本的な以心伝心の心配りというのはいいものだな〜と思いますね。私も余計なことは敢えて言わず、師匠も触れませんでした。

言わないと解らないのは、相手を察する気配りの欠如も関係していると思うのです。

武術って、相手を読むのと同時に、自己認識も重要になりますよね。敵を知り己を知れば百戦危うからずというヤツです。

これは技なんかよりずっと重要なことですが、現代の武道、武術では最も軽んじられている分野かも知れません。

昨年、亡くなられた友人のMさんから、生前に一度だけ、「組織の主宰者として規律を守れない者を許してはいけない」と、厳しく意見されたことがありましたが、今更ながら、その言葉の重みを痛感する日々です・・・。

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2007/07/24 どうでもいい話・・・

あの〜、今日は、特に書くことないんで、テキトーに書きます。

どうでもいいんですけど、スペクトルマンって、何か、妙に礼儀正しいですね。防衛軍の戦闘機に敬礼してみたり、迷惑かけた一般人に「スマン」って謝ったり、変身する時だって、ネビィラ71に挙手して「変身願いますっ!」って・・・。

お願いして変身の許可をうかがってるんですからね〜。何て謙虚なんでしょう。

蒲生丈二を演じていた成川哲夫さんって、今は俳優は引退して空手道場(アクロバチックに跳んだりバク宙したりする躰道の母体になった玄制流)を経営しているらしいんですけど、立ち回りシーンなんかでもよく身体動くし(流石、玄制流です)、爽やかスポーツマン系俳優で嫌みが無いんですね。こういう俳優さんって、今は少ないでしょう。

そういえば、スポーツマン系俳優の元祖たる千葉ちゃんが、「体力の限界です」って引退宣言しちゃいましたけど、千代の富士の引退を思い出しましたよ。俳優っていうよりスポーツ選手の引退宣言みたいでしたね。

でも、「アクション俳優を育てて二代目千葉真一の名前を贈りたい」って・・・何か、ちょっと釈然としないんですけどね〜。

だって、そういう発想って、「ジャッキー君。君は今日から二代目ブルース・リーだよ」みたいなもんではないかな〜? 今更、ジャッキー・チェンがブルース・リーの二代目だって言われて喜ぶ訳はない。ソックリさんを演じていた韓国人俳優ホー・チョンドーも後にソックリさんは辞めてる。

一世風靡した初代タイガーマスクを演じた佐山聡だって、一回限りの約束でマスクかぶって人気出過ぎたもんだから、その後も続けて代が変わっても呪縛されてた。

もちろん、歌舞伎の世界みたいに伝統芸能の世界では名前を襲名していくって伝統が文化として定着してますけど、千葉ちゃんが個人的にそんなことしてもヘンでしょう?

それに、だったら、志穂美悦子や真田広之なんかも二代目千葉真一って名前になってた可能性がある訳だし、堤真一だって、JAC辞めずに千葉ちゃんの付き人ずぅっと続けていたら「おうっ、堤〜。お前は今日から二代目千葉真一だぁっ。ガッハッハ・・・」ってなったのかも?

でも、皆、辞めていっちゃった・・・。

俳優って、オンリーワンの世界でしょう? 親子の間だって、二代目って言われて喜ぶ人はいないと思うんですよ。見る方だって、初代のイメージを二代目に投影するのって複雑なものがありますよね〜?

事故死?したブランドン・リーや、松田優作のそっくりさんから出発した又野誠司や、優作イメージで見られた古尾谷雅人が自殺したのだって、初代のカリスマ性を投影されて個性を封じられた俳優の悲惨さを感じざるを得ないんですよ。

アクション俳優として期待され過ぎた真田広之が演技力を磨くために敢えてアクションから離れていたのも、<真田広之>というオンリーワンの役者への成長を求めたからなのは誰の目にも明らかでしょう?

剣戟王と呼ばれた坂東妻三郎の息子、田村高広は周囲の期待が凄くて、非常に悩んだそうですが、時代劇俳優ではなくて演技派の俳優として地位を築きました。弟の正和サマも時代劇よりも現代劇のイメージの方が世間一般では定着してるでしょう。

誰それの息子って呼ばれるのは大概、嫌なものだと思いますよ。

私の親父は高校の教員で教頭から校長へとなるべくしてなった人で、周囲からも期待されて評判が良かったようです。葬式の時も多くの人が駆けつけてくれました。息子のひいき目を割り引いても教員として優れた人だと思います。私とは似ても似つかない人格者で実力のある人でした。

だから、高校時代に「君が長野先生の息子さん?」と、よく先生達から聞かれたりしましたし、ある時、レストランで家族で食事していた時に、学校の恐持ての体育教師がたまたまいたんですが、別人のように礼儀正しくうちの親父に挨拶していって唖然としたことがありました。

もちろん、悪い気はしませんでしたよ。当時は。

でも、「お父さんは立派なのに息子はダメね〜」みたいなニュアンスを感じ始めると、クソ〜ッて思うじゃないですか? だから、私は学校の先生にだけは絶対になりたくないと思っていました。だって、比較されて「お父さんは立派だったのに息子はダメね〜」となるのが目に見えてましたからね。自分も嫌だし親父もガッカリするでしょう?

だから、どんなに生活苦しくて未来が見えないお先真っ暗闇の人生であっても、私は自分のオンリーワンの人生を構築したいとある時期から思うようになりましたよね。

お陰で、親父が生きている間は心配ばっかりかけまくってしまって、今でも心残りではあるんですけど、やっぱり、<継続は力也>って本当のことですよね。

死ぬ何年か前に、親父が「俺はお前のやっとることはいっちょん解らんけど、でもお前に一番、期待している」と言ってくれたのが心の支えになっています。内心は、あまりの私の頑固さに呆れて言ったのかも知れませんが・・・。

まあ、だから、二代目云々って発想は、千葉ちゃんも捨てた方がいいと思うんですよ。

だって、「俺はあの真田広之を育てたんだぜ」って言った方がカッコイイじゃん。千葉真一は一代限り。永遠のヒーローでいいじゃん。千葉ちゃんがこれからやるべきなのは、本格的アクションのできる俳優を育てること。それだけで充分ですよ。後は俳優本人が個性を伸ばして自分で成長していくんですよ。それを信じてやらなきゃダメです。

私も現在、44歳。

未だに先のことは解りませんが(つぅーか、年内に研究会の代表は譲って、文筆業で頑張るつもりです。既に、シダックス以外では初心者の指導は師範代に任せてる)、武術を教えた人は数だけ計算すれば千人は越えています。

一定期間教えて、いろいろ有って離れた人が、分野は違っていても活躍してくれていれば嬉しいもんですよ。写真家で頑張ってる人や、自営業で頑張ってる人。頑張ってる姿が人間、一番、輝いてますよね。

先日も、破門した元弟子が反省してやり直すとメールしてくれたのを見た時は、本当に嬉しかったです。今だから笑って書けますけど、当時は本気で「コイツは自殺でもしてくれないかな〜」とまで思ったくらい酷い真似を繰り返してましたからね。それでも反省して意志を固めてやり直そうとしてくれたんですから、嬉しさもその分、倍加しますよ。彼は囲碁だったか将棋だったかで才能があったので、将来、プロになったりしてくれたらいいな〜。反省して意志を強くもってやり直せば、人間、必ず変われるんですよ。

まあ、別に、私を恨んで離れたって、いいんですよ。私だって、何度も経験ありますから。尊敬してた人が「こんな人だと思わなかった」って幻滅したことも何度もあります。

でもね〜。私は、「くそったれ〜。絶対、見返してくれるわいっ」と、梶原一騎の漫画みたいに燃える気質だから、生来の呑気な性格なのに仕事やる時はムチャクチャ頑張れますからね〜。去年から本は二冊、手伝った本も二冊、PDF書籍やDVD、携帯小説もジャンジャン出して、次から次に仕事しまくってますからね。周囲も助けてくれてる。だから、頑張れる。

もし、嫌がらせに屈してめげていたら、そのまま腐ってダメになり、周囲からも見捨てられていたでしょうからね。自分が頑張れば周りも助けてくれる。だから、頑張って助けてくれた人達に恩返しできるようにならなきゃいけないと思ってます。

技もそうですよ。10年以上、とてもできないと諦めていた若山先生・勝新の必殺居合が、ふとした弾みでできるようになっちゃったし〜(ちなみに「マンゲツよりバンゲツの方がカッコイイから変えて〜」と師範代が言うので<卍月=バンゲツ>とします。これができるようになって游心流の居合術がまたガラッと体系が変化してきましたよ)。

抖勁(とうけい。身体中のどこからでも発勁できること)なんて、達人中の達人しかできないと30前は思っていたけど、今は簡単にできる。

私だけじゃなくて会員もどんどんレベル上がっていってます。もっとも、今の常連会員さんはほとんど他流では指導員クラスの実力者なので、本人が持っていた資質が活性化してきているのかも知れませんね。

まだまだこれからですよ。中国武術・合気・空手・剣術・棒術と、どれをとっても日本のトップレベルの実力者を育てていかなくちゃ〜面白くない。狭っ苦しい流派意識ではなくて、普遍性のある武術理論を構築していくのが私の使命かな〜?なんて思っておりますよ。だから、圧力かけたい方はどうぞ、おやりください。日本刀は叩かれて鍛えられるんです。きっと、世界一強靭な日本刀のような武術理論を創り出してみせますから。

追伸;中越沖地震の被害者の方、どうぞ、頑張ってください。生きてさえいれば人生はいつからでもやり直せますよ。(Hさん、連絡がつかなかったので、もし、これを読んでいたら事務局へメールください)

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2007/07/19 『スペクトルマン』その2

ネビィラ遊星もムチャな命令しますからね。「被害を拡大しないために公害人間にされた家族を殺せ」って、軍人さんの考え方ですよ、それ。本当に地球の防衛のためにスペクトルマン派遣してんのかな? 命令に逆らったら解体するぞって脅されながら仕事してるスペクトルマン・・・。

バクラーと戦ってるところなんてゴッドマンとかグリーンマンの使い回しみたいな造成地に画用紙切り抜いて作ったような家並べて撮ってて、巨大感が一切ありません!

それって中学生の自主映画じゃないんだからさ〜。この貧乏臭さはただ事じゃありませぬ。

ネズバードンと戦ってる時は、背中に火がついちゃってるネズバードンと格闘しながら平手で背中叩いて消火してあげるスペクトルマン・・・(撮り直せよ)。

スペクトルバックルはペラペラのアクリル板の手裏剣みたいなのをピロンピロンと投げるだけで威力のヘッタクレも無いし、必殺技のスペクトルフラッシュもアニメ合成で指先からピロピローンッて出るだけでメッチャ非力そうです。

おまけにスペクトルフラッシュ出した後のスペクトルマンは精も根も尽きました〜って感じでぶっ倒れてるし・・・過労死寸前のサラリーマンみたいです。単独でロボットや怪獣を倒せないアイアンキングといい勝負です。

出てくる怪獣も素敵ですよ〜。

ギラギンドなんてムエタイのワイクーを踊ってるし、ゴリに脳タリン呼ばわりされる。

モグネチュードンとの戦いも何か、一方向のカメラフレームの中だけで延々とやってて、ここまで貧乏臭いと名人芸の職人技を見せつけられているような錯覚に陥って神妙な気持ちになってきます・・・。

まあ、社会的な風刺の利いたドラマだったような記憶があったんですが、この圧倒的な安さを見せつけられると、レインボーマンに通じる1970年代の職人魂を感じますね。

ウルトラマンとかウルトラQ、怪奇大作戦なんて、今観ても完成度高いよな〜って思うんですけど、スペクトルマンのテキトーっぷりと言うか、アバンギャルドさって孤高の境地に達していると思いますよ。

同じピープロでもマグマ大使って、もっとちゃんとできてたよね〜?・・・でも、パイロット版は金粉塗ったオッサンの顔がそのまま出てて冗談にしか見えないんだけどね。

でも、そんなスペクトルマンを40過ぎて夢中になって見てる俺って・・・。

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2007/07/19 『スペクトルマン』はやっぱりスゲーッ!

何がスゲーッ!って、まず主人公の蒲生丈二のキャラですよ。

もう、客観的にこんなヤツがいたら、絶対、誰も近づかないでしょうね。単なるアブナイ男だもん。

第一話では、新宿駅西口で空に向かって片手挙げて指令を受けてる。はたで見たらイッちゃってる電波な人です。

そして、公害調査室にいきなり入ってきたと思ったら、勝手に居座る。仲間からも「キチガイだ」「こりゃホンモノだ」呼ばわりされてしまう・・・。

あ〜、子供の時は気づかなかった、このアブナサ・・・。

そして、スペクトルマンに変身して最初のお勤めのヘドロン退治ですが、いきなり円盤からの光線で撃墜されちゃいます。燃え上がりながら落ちていくスペクトルマン・・・。

第一回がこんなだから、後はおして知るべし!

ミドロンは人形アニメとパペットだし、ヘドロンもコマ撮りなんですよ。何かホノボノしてて可愛いです。『魔神ハンター・ミツルギ』がこんな感じでしたね〜。

スペクトルマンも、最初は等身大だったのに、白蟻怪獣バクラー(こいつに取りつかれた人はMr.スポックみたいな耳になって化け猫映画みたいに踊る。大林監督の『ハウス』を思い出した)と戦う時はダイダラボッチ並に巨大化して富士山の火口にあるバクラーの巣を滅ぼすためにガスタンクを投げ込む。

でも、富士山噴火させちゃうんですよ? そっちの方が被害デカイっしょ? 戦法がメチャクチャですよ〜。

空飛ぶ鯨サンダーゲイ(直訳すると“カミナリ・オカマ”?)なんて、スペクトルマンが巨大化したり、攻撃したりするとそれがそのまま返ってきて、墜落したスペクトルマンが被害を大きくしてしまって、迷惑がられてスマンと詫びてたり・・・。

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2007/07/16 夜回り先生その2

水谷先生も、助けられなかった子供達のことを「自分が殺した」と表現していますが、そういう具合に自分に十字架を刻むことで自分を奮起させているんでしょう。

でなきゃ、ガンを抱えた身体であそこまでやれませんよ。

身体操作理論流行ですが、重大な病気や故障を抱えたり、年とって肉体そのものが衰えている人にとって、どれだけ役に立ちますか?

新刊本の中で、有名な武術家が実際に闘うと連戦連敗しているという逸話を書きましたが、所詮、見世物芸の技はフェイクに過ぎず、実際に闘う時に必要なのは<闘う意志が生み出す気迫>なんですよ。

ちょっと脱線しますが、以前、ある武道の先生の指導されているところを見学していて、子供達に護身術の心得として、「まず、大声を出せ」と教えておられて感心したことがありました。

現実的に考えて子供が大人を素手で制圧するなんて無理でしょう。しかし、大声を出して気迫を奮い立たせれば、大人も子供も関係なくなったりするのです。体に頼ったテクニックなんか実際には糞の役にも立たないんですよ。それに、大声で助けを求めれば、周囲の大人の正義感も鼓舞され易いものです。

生きるというのは死狂いにならなきゃいけない場合が必ずあるんです!

だから、やっぱり、心なんですよ。情熱と意志が人間の生命力を燃やすんです。身体操作ブームに乗せられてフラフラあっちこっちさ迷い歩いている人は猛省した方がいいですよ〜。

さてさて、そんな夜回り先生の魅力は、真っ正面から自分をさらけ出して捨て身になれるところでしょうね。

昔はそういう人って結構いたような気がするんですけど、今はとんと見かけないですよね。

優しい人なら、やたら優しいだけで頼りないし、厳しい人だと、やたら叱りつけて威張るだけだったりする。

水谷先生は言葉や態度は優しいけど、“ここは譲らないぞ”という一線を明確に示して突き付けてくるでしょう? 相手の甘えは許さないし、自分もきっちり実践しようとする有言実行っぷりが、人の心を打つんだと思います。

捨て身で生きている人って、私は惹かれるんですね。ひたむきに自分の人生を懸命に生きている人って、それだけで魅力的ですよね。生きてるのか死んでるのか判らないような連中には、私は何の魅力も感じません・・・。

「7月16日、また、新潟を中心に大きな地震が起こりました。被害を受けた方々へお悔やみ申します」

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2007/07/16 夜回り先生は男だな〜。

夜回り先生こと水谷修先生が出演しているTBSの『R30』を見ていて、本当に今の世の中にこういう人がいてくれて良かったよな〜って感じました。

話の内容もいいと思うし考え方も素晴らしい。

でも、それよりも何よりも、水谷先生は優しさと厳しさを兼ね備えていて、嘘が無い。

そこがいいんですよね。

正直、上っ面だけ綺麗な言葉で飾りたてて、その実、エゴの固まりだったりする人の方が圧倒的に多いでしょう? 有名人って・・・(別に有名人に限らないか?)。

本当に私の体験上、綺麗なことばっかり言う人って百発百中で嘘つきですよ。

お金が欲しい。美人が大好き。チヤホヤされたい。・・・そう、堂々と口にして顰蹙を浴びるのも気にしない人間の方が安心できます。人格に問題あっても、嘘つきよりはマシですよ。誠実ぶって人を騙すHKみたいなのは嫌だもん・・・。

正直に言う人なら、こちらも安心して付き合える。考えが合わない人だったら、二度と合わなきゃいいんだし・・・。

でも、裏表が激しいと迂闊に付き合えません。利害関係だけで他人を利用しようとして近づいてくる人って、昨日まで親友の顔してたと思ったら、翌日には敵愾心燃やしてきたりするんですよ。

いますよね〜、こういうこっ恥ずかしいヤツ。無能なヤツに限って虎の威を借りた権威をひけらかしたがるものです。メダカはとかく群れたがるもんですよ。

武術業界は意外にこの手の人間がいるものです。大先生扱いされていないと落ち着かないみたいですよね。一応、最初は謙虚そうなフリするんだけど、段々、調子こいて誇大妄想に支配されていきますね〜、こういう人達って・・・。

私なんか、何回、この手の連中に煮え湯を飲まされたか判りません。短気な私は、その度に「このヤロー、ぶっ殺してやろうか?」って思うんですけど、こう見えても超〜我慢強いですから、「実績を積んで、必ず見返してやる」と思って仕事に打ち込みましたよ。

だから、結果的に、殺意すら覚えるくらいの相手の仕打ちも“逆縁”で、私にとっては奮起の材料になっている訳で、今は冷静に感謝できるようになりました。
(余談ですが、拙著『誰も知らない武術のヒケツ』発売二週目で早々に重版が決まりました。皆様、ありがとうございます!)

だって、どんなトラブルでも、一方的に相手にだけ原因がある訳じゃなくて、多少なりとも自分の至らない点がある訳ですからね。それを教えてもらったんだと思えば安いもんです。

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2007/07/08 ナンバは古武術とは無関係なんですよ

桑田投手の活躍で、またナンバのブームが再燃している様子です。

「ナンバの身体操法が効率的に身体を働かせる」という研究をしている人も増えている様子ですし、それが世の中に役立つ形で可能性を拓いているのは歓迎すべきことでしょう。

私は、この期に及んで「ナンバはダメだ」とか言うつもりもありません。

世間的に広まっているナンバ、つまり<同側順体運動>の長所も理解していますし、私が研究している歩法にも共通する面があるからです(『誰も知らない武術のヒケツ』を参照くださると有り難いです)。

ブームになるのも結構なことだろうと思いますし、古きに尋ねて新しきを知る精神で<伝統芸能の身体操法>に注目するのは良いことなんじゃないかと思っています。

しかし、きちんと語源や先人研究家の名前が出されなかったり、「ナンバは<古武術に伝わる身体操法>である」という主張に関しては、「全くの間違いである」と、声を大にして言っておかねばならないと思っています。

ナンバという言葉は、古武術用語ではありません。

嘘だと思われるなら、調べてみてください。

最早、完全に古武術用語として世間に間違って伝わり、定着してしまった観がありますが、ナンバとは、歌舞伎や日本舞踊に伝わる言葉なのであって、語源として有力なのは、異国の人間を差別的に称した「南蛮人」という言葉の南蛮から、ナンバン、ナンバへとなったと言われています。

元々、「南蛮人の歩き方が奇妙だ」という嘲笑的な響きとして言われた訳です。

だから、「江戸時代以前の日本人特有の歩き方だった」という説にも論拠は乏しく、かなり怪しい訳です。

私自身は、伝統芸能の専門的な動きとして作られたものだと考えていますし、右手と右足、左手と左足の同側が出る動きというものは、実は射撃でもフェンシングでもボクシングでも中国武術でも普通に基本姿勢なのです。

何か、民族的優越思想をナンバに託して主張するような論調はいかがなものか?と思いますが・・・。

一般的にナンバについて紹介したのは、演出家の故・武智鉄二氏ですが、武智氏は農耕民族としての日本人に特徴的な半身の動作の有用性について主張していた訳で、これが特に古武術の用語であるとは主張していません。

江戸時代でも武芸を習うのは武家に限られていた訳で、そうすると大半の日本人には無縁になってしまいます。
 それに、農耕民族ならばアジアには広く分布している訳で、逆に日本人でも漁業を中心に据えてきた地域はどうなるのでしょうか?

その点、舞踊の身体操作と考える場合なら、祭りと踊りの関係性を考えても、地域や身分を度外視して普通に誰もが当てはまる訳で、古武術とは比較になりません。

独自の専門用語としてなら、当然、歌舞伎と日本舞踊を出して、「ナンバとは日本の伝統舞踊用語である」と明確にするのが当然であり、用語そのものが伝承されていない古武術の専売特許のようなイメージを広めるのは伝統文化に傷をつける捏造行為であると言わざるを得ません。

無形の言葉だから問題にしない人が多いようですが、これは言ってみれば、キトラ古墳の壁画に勝手に描き足すような行為です。批判しなければならない不適切な行為です。

ナンバを古武術の身体操法と結び付けて論じたのは、甲野善紀氏ですが、実は、甲野氏以前に誰も言わなかった訳ではありません。

「ナンバの身体操法が古武術に共通性がある」ということを主張した最初の人物は、先年、亡くなられた正木流万力鎖術や江戸町方捕り手十手術等の師範だった武芸考証家の名和弓雄氏でした。

名和氏は、中村梅之助や杉良太郎が岡っ引きや同心を演じた時に万力鎖術や捕り手十手術の指導をしたことでも知られていますが、芸能関係との付き合いも長く、TV時代劇の武芸考証家として有名な方でした。

また、同時に名和氏はバレエや日本舞踊の専門家でもあったそうです。

恐らく、名和氏は舞踊家としての関心から武智ナンバ論に関心を持ち、その理論が「日本の伝統武術の身法“にも(ここが大事!)”共通する」として紹介していたものと考えられます。

実際に、甲野氏自身、名和氏のレクチャーを受けてナンバという言葉について知ったということを著書に書いています。

しかしながら、「ナンバは古武術に伝わる専門用語である」という誤説は、訂正されることなく、依然としてTVメディアを通じて繰り返し発信され続けてしまっています。

本来なら、甲野氏自身がメディアに呼ばれた時点で、きちんと自身の研究過程を明かして語源から何から誤って広まった自説の間違いを修正する義務があると思うのですが、甲野氏に改める気が無いのは明白で、それならば誰かが訂正していくしかありません。

世の舞踊専門家が、何故、この間違いを正そうとしないのか?が、私には解らないのですが、あるいは、「もしかしてナンバという言葉は、本当は古武術に伝わっている言葉だったのだろうか?」と思われて沈黙を招いているのかも知れません。

ですから、武術の側からはっきりと間違いであるということを明確に発信しておかなければならないと思った次第です。

この一例として、『秘伝』誌の連載記事中、読者からナンバについて質問された駒川改心流剣術・民弥流居合術・四心多久間四代見日流柔術・椿木小天狗流棒術・誠玉小栗流活殺術を伝える振武舘道場館長の黒田鉄山氏(大日本武徳會埼玉県支部長)は、「ナンバってなんのこっちゃ?」と、明確に「知らない」と答えています。

甲野氏とかつて交流があり、一緒に共著も出していて古武術界でもトップ水準の有名な黒田氏にして「ナンバを知らない」と言っているのです。

正直、ナンバのブームは、これが古武術と関係があるのだとしておいた方が、私も含めて武術関係者にとっては“金の成る木”になるでしょう。

甲野氏の説を安易に引用してナンバについて語ってしまう武道関係者も増えているようです。有名な先生が言うことだから間違いないだろうと単純に信用されているのでしょうから、非難するのも酷でしょう。

けれども、明らかな間違いを訂正しもせずに利己的な目的で看過したとしたら、天に唾を吐く行為になってしまいます。

ましてや、現状の間違いを看過すれば、実際にナンバという言葉と実技を伝承してきている歌舞伎や日本舞踊をないがしろにすることになってしまうでしょう。

私が武術を大切に思うように、舞踊を大切に思う人達も少なくない筈です。

無論、武智鉄二氏や名和弓雄氏といった先人の研究家に対しても失礼でしょう。

ですから、敢えて、武術研究家としてものを言わせていただきました。
 どうか、悪しからず、メディアに携わる方々が、意のあるところをくみ取って、間違いを訂正していってくださることを心から切望しています。

(参考文献;拙著『あなたの知らない武術のヒミツ』アスペクト刊)

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2007/07/02 新刊記念セミナー報告

7月1日の夕方から新刊発売と合気DVD発売記念のセミナーを江古田ストアハウスでおこないました。

今回は、DVDの内容に合わせて、座取り合気揚げから始めて、脱力技法と沈身の原理を利用した技を指導しました。

しかし、結構、うちの常連参加者は、技にかからないようにムキになって抑えようとするのが癖になってしまってて、そのせいか皆さん、脱力が難しかったみたいです。(試したいのは解るんですけど、そんなにムキにならんでも〜?)

脱力するのは、「相手の力がこちらに作用しなくするため」です。抵抗するから力が作用する。抵抗しないで相手の加えてくる力の方向を流すようにすれば、力の差は関係なくなります。素人が相撲取りと組み合っても、脱力していれば原理的には負けない訳です。

この脱力の原理に、重心を沈める沈身の原理を組み合わせれば、相当、いろいろな達人風パフォーマンスができるようになります。

また、原理が解れば返し方も解ります。脱力技法にはこちらも脱力して対する。こちらが頑張って力を入れれば入れる程、重心が固定されて技にかかる。だから、こちらも脱力して重心を固定させない。そのまま間合を保っていれば、嘘みたいな話ですが、大抵の合気技にはかからなくなります。まあ、精妙な崩し技というのはそういうものです。

当たり前の話ですが、万能の技なんてありません。どんな極意でもメカニズムが判明すれば返し技の工夫は可能です。今回の本でも出すかどうかためらった交叉法も実体が知られれば封じ技は工夫される。だから、出したくはなかったんですけど、その先の先まで実際には考えているので、まあ、ここまでは出しても大丈夫かな〜?と思った訳です。

丹田を開発すれば武術体が養成できる。発勁の打ち方を覚えれば襲撃に対する恐れが無くなる。そして、合気を覚えれば護身の余裕ができる。PDF書籍とDVDのシリーズは、このような観点で作っています(セットで買うとお買い得ですよ。申し込みは游心流ストアHPをご覧ください)。

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2007/07/02 『ドランクマスター酔仙拳』

J・チェンの出世作『ドランクモンキー酔拳』で、酔っ払いの師匠、乞食の蘇を演じたユエン・シャオティエンは、今をときめくハリウッドでも活躍するアクション監督として有名なユエン・ウーピンのお父さんですが、酔拳の大ヒットの後、ほどなくして亡くなられていたらしく、シリーズ三作目の『クレイジーモンキー笑拳』には出ていません。

しかし、酔拳がらみの作品に何本か出ていたという噂はあって、その中の一本が、この作品らしい。ただし、シャオティエンが登場するのは冒頭の海辺で演武しているシーンのみで、セリフすら有りません。本編は別の役者さんに変わってます。恐らく、撮影中に様態が悪くなられて降板されたのでしょう。

昔、香港カンフー映画のガイド本の中に『南北酔拳』という作品が紹介されていて、それが恐らく、この作品だと思われます。もっとも原題は『酔酒十八跌』となっていて、乞食の蘇が若い頃に兄弟弟子と一緒に酔拳の遣い手である師匠と共に、鷹爪拳、蛇拳を遣う悪党武術家一門と戦う話でした。

この時の師匠を演じているのが、『笑拳』でJ・チェンを鍛える“八本足麒麟”というあだ名の師匠を演じていた人ですが、この人が素晴らしく動きが良い。演じる酔拳の見事な動きには驚かされました。

もっとも、蘇化子はあんまり活躍せず、兄弟弟子の范の方がもっぱら戦っております。

昔は、カンフー映画の唐突な展開に驚かされたものでしたが、最近は武侠小説を読み慣れたせいか、あまり違和感を感じません。敵が物凄く唐突に現れたり、訳の判らない展開になるのも武侠文化のお国柄では不自然ではないのでしょう。

そういえば、最近出た武道の本に「中国武術は軽業みたいで・・・」と書かれて暗に使えないものだみたいなニュアンスで書かれていたんですけど、同時に「日本の少林寺拳法は嵩山少林寺の易筋行(正しくは易筋經です)をベースにしていて・・・」といった20年は昔の誤説をマンマ書いていて唖然となりました。“武術家”と名乗る人間がこんな間違いを平気で書くから世間に誤解が広まる。少林寺拳法の専門学校の講師の人だそうですが、これでは贔屓の引き倒しですよ。明らかな誤説をとなえれば禍根を招くだけです。

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2007/07/01 『鉄コン筋クリート』

田中泯さんが声の出演をしているというので劇場に観に行こうと思っていたものの、忙しくて観逃してしまっていたアニメ話題作『鉄コン筋クリート』をDVDで観ました。

私は原作は知らないんですが、非常にアーティスティックな絵柄と観念的なテーマ性で観ごたえがありました。

シロとクロという自由に生きている少年二人が夢の空間みたいな町で跳ね回り、ヤクザや殺し屋、警察からも支配されずに“自由”を求めていく姿を野良猫になぞらえて描いています。

突き抜けた浮遊感と、現実の冷酷さを隠喩的に描き出していて見ごたえがありました。

で、田中泯さん演じるヤクザ、ネズミなんですが、何か、本人のキャラクターと見事にマッチしていて私はちょっとニヤッとさせられました。

可愛がっていた弟分に殺されるんですが、自分が殺されるのを解っていて、淡々と冷静に弟分に指示してみたり、カッコ良過ぎです。何か、この絵柄から、こんなにハードボイルドな展開になるとは思っていませんでしたね〜。

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2007/07/01 新刊出版記念特別合気セミナー

7月1日(日)の夕方6:00〜9:00に、江古田ストアハウスにて新刊出版の記念と、合気開発トレーニングDVDの発売に併せた合気技法の特別セミナーを開催します。

今回のアスペクト刊『誰も知らない武術のヒケツ』は、かなり技術解説本に近い内容になっているので、前作より相当に突っ込んだ内容になっています。無論、初心者に解るように書いたんですが、水準的には、本当に武道の専門家でも知らないような内容を初めて解説した本になりました。

空手道・太極拳・形意拳・八極拳・意拳・八卦掌・居合術・剣術・合気道の秘訣と戦闘理論について書いたので、自分で読んでもスゲー?と思ってしまう内容になりました。

技はともかく、たいていの流儀の専門家でも、戦闘理論を理解している人って、実は凄く少ないんですよ。本なんかで説明している人もほとんどいないと思うんですよ。
“これが戦闘理論だ”って言う人はいますが、それって技の使い方、戦い方を解説しているだけで、“こうやって敵の技を封じて戦う”といった普遍的な理論構造で説明できる人って、ほとんどお目にかかった記憶がありません。明らかに知っている先生でも、説明はしないんですね。

だから、今回は誰も知らないってのは傲慢過ぎるかな〜?とも思ったんですが、実際に本当に誰も知らないだろうし、知っていても言わないからな〜?と思ってタイトルに敢えて入れた訳です。

例えば、合気道なんて、実際にどうやって戦うのかさっぱり解らないでしょう? 型の通りに攻撃してきてくれないと技が掛けられないんじゃ論外。だから、実戦では使えないなんて誤解する人が多い。訓練法から戦闘理論が想像できない。

現在、游心流ストアで製作販売しているDVD(丹田・発勁・合気)やPDF書籍は、すべて具体的に習得してもらうことを念頭において作っていますが、戦闘理論にかかわる内容を紹介解説したものはこれまで無かったと思います。

特にDVDは最新の研究成果を盛り込むようにしていますから、論より証拠をお見せしようと思って作っています。そして、DVDを見ながら練習してもらえば十分に体得も可能です。うちの会員さんは、“量産型達人開発DVD”と呼んでおります。

まあ、“達人”って言葉も最近は使い古されて冷笑的な響しか感じませんけどね〜。

そんな訳で、不定期セミナーは、具体的に“量産型達人開発セミナー”となっております。

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