長野峻也の日記(2007年10月〜12月)

2007/12/30 『ウルトラセブンX』『風魔の小次郎』も終わった・・・

深夜の特撮ドラマも『ウルトラセブンX』『風魔の小次郎』が終わりました・・・。

格別、熱心に観ていた訳でもなかったんですが、やっぱり最終回というのは感慨深いものがありますよね。

10年前に途中打ち切りになった『エコエコアザラク』は目茶目茶残念でしたし、最終回を観逃すと、何か、ムッチャ悔しいですよね。

セブンXの最終回は、何と、パラレルワールド(平行世界)というSF設定だったことが判って、驚かされましたけれど、最後の最後に湖のほとりに帰ってきたウルトラセブンことモロ星ダン!が、アンヌと笑顔で出会って“終わり”という最後の最後に出たサプライズは、流石に驚かされましたよ。

ウルトラマンレオ以来じゃないの? でも、あの時は「アンヌじゃないっ」って話だったんで、今回が初めて四十年後に落とし前がついたってことかな?

小次郎の方も、何か、結構、面白かったですね〜。アクションも中々だったし、私的に意外だったのは、ウルトラマンネクサスでは主役なのに最後までウルトラマンに変身できない情けない主人公だった川久保君が、何かえらいカッコイイんですよ。別人かと思ったよ。やっぱ、ロンゲの方がカッコイイね。

こういう若手俳優がジャカジャカ出てる番組って、その後、有名になった俳優の「あの人は昔・・・」ってところで出てくるからね〜。北川景子もセーラーマーズだったし。

 

ヨロキンは凄過ぎるっ!

はいっ、今回は、年末大サービスの二本だてでお贈りします。

『武士道残酷物語』って、何となく観逃していたんだけど、奇跡のDVD発売に至った超問題作『追悼のざわめき』と一緒に借りてきて観ました。

これって、ヨロキン(萬屋錦之介)が何役も演じているってのが有名なのと、SMチックな残酷時代小説で有名な南条範夫が原作(シグルイの原作者として最近、注目されてます)なんですが、何か、暗〜い気持ちになりそうで、避けてたんですけどね。

で、やっぱり、陰々滅々とした暗〜い話なんですけど、でも、私はヨロキンの真の凄さを思い知りましたよっ!

何しろ、ある一族の戦国末期から現代にまで到る悲惨な因縁話を各時代の主人公の先祖を全てヨロキンが演じているのですっ!

つまり、爺さんから中年、壮年、少年!まで演じているんですけど、特に少年を演じている時が本当に美少年に見えるんだからぶったまげます! それでホモの殿様に「愛いヤツじゃ・・・」とかセクハラされて「お許しくださいっ」ってやってるんですよ。

皆さん! ヨロキンと言えば、宮本武蔵に拝一刀、柳生但馬守を演じ、「てめぇら、人間じゃねえっ! 叩っ斬ってやるっ!」って、剛刀、同田貫をブン回したり(破れ傘刀舟)「俺のツラァ見ろ!」って忍者頭巾被って捕鯨用の銛をブン投げてたり(破れ奉行)してたお方ですよ〜。いや〜、たまげたな〜・・・。

私は、ヨロキンがいつ逆上してホモ様(あっ、殿様だった)を叩っ斬っちゃうんじゃないか?とワクワクしちゃいましたけど、去勢されちゃった後で側室を拝領妻に下されるという何とも南条範夫な展開・・・ヨロキン、よくこの役受けたな〜?

もう一つの『追悼のざわめき』って、メチャメチャ、アン・モラルな作品だという評判を聞いていたものの、何しろ、ソフト化されるなんか夢にも思っていなかったから封印作品の典型例。

それが、突如、DVD化されるというので、こりゃあ、取り敢えず一度は観ておかねばと思ってツタヤで借りてきたんですが・・・う〜むむむむ・・・噂にたがわぬ陰々滅々っぷりに参ったな〜・・・。

これって、ある種の電波体質の人に見せたら猟奇犯罪に走るんじゃないでしょうか?

良く言えば、前衛芸術的な雰囲気が感じられなくもないんですが、ビミョーですね〜。

あんまし、人にお薦めしたくはないですね〜。

でも、前衛舞踏系の世界で有名な白虎社(解散してる)の大須賀勇がルンペン・・・じゃなくって乞食・・・って、これもダメだから“ホームレス(ふうっ・・・これなら問題無し?)”で出てて、実に臭そうな汚そうな変態下着バラ撒きオヤジっぽい味を出してて、本筋に全然関係ないんだけど、妙に印象に残りました。

真剣にコメント書くと発狂しそうなんで、このくらいで・・・じゃあっ!

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2007/12/27 馬形拳が炸裂した日?

日曜日の稽古会は公園でやっているので、雨が降ったら本部(俺んチ)でDVD観て技の分析研究するんですが、今回は、地方会員さんが贈ってくれたカリ、システマのDVDと、会員さんが持ってきたヨガ発勁のビデオ、蘇東成老師のDVDを観ました。

カリはジークンドーのベースにもなっているフィリピノ・マーシャルアーツですが、試合の様子やスティック、ナイフのテクニックもあって、興味深いですね。アメリカでは軍隊や警察にも導入されてるって聞きますけど、確かに実用的に無駄を省いたところが勉強になります。

システマは、うちのやり方と似ているので以前から参考にしたいと思っていたんですが、こりゃあ、難し過ぎますよ〜。変幻自在と言う言葉が陳腐に聞こえますね。簡単な原理はあっても形式が無いから、普通に武道やってきた人達は面食らってしまうでしょう。ストリートダンサーがやった方がすぐに体得できるんじゃないでしょうかね。

これだけ全身を自在に使う武術って、他にちょっと思い当たらないですね。打拳や打たれたダメージを呼吸法で消したり握りっ屁みたいに抜くやり方・・・等々は、内家拳の原理(つまり気功)そのものですし、しかも極意の域にあります。

ちょっと、見ていて呆然としてしまいました。従来の武術・武道・格闘技の概念を超えてしまっていてテクニック云々では論じられない。前衛舞踊から武術を考えたみたいなものです。それでいて実にリアリティーのある手法で、取って付けた様な見せかけの技が全くない。総合格闘技の世界にも進出してきたら格闘技の概念が変わってしまうか、その前に締め出されるでしょうね。

それにしても、大抵の流儀だったら私はすぐに攻略法を考えつくんだけど、システマは定形が無いから大変だ。こんな技遣う人と戦ったら何されてるか全然判らないうちに、気づいたら川岸に立ってて橋の向こうのお花畑からオ〜イって呼ばれてたりして・・・。

ヨガ発勁は、予想していたよりずっとまともで、つまんない・・・。もっとシンイケンみたいにデラックスな内容を期待していたんで、小山氏の木訥でおだやかな話し方に「あれ〜、この人、いい人じゃ〜ん?」と思いましたね(何を期待してたんだ、オレ?)。

蘇東成老師の技は流石ですね〜。久しぶりに見たけど、やっぱりいいです。技のキレ味やスピードが、そんじょそこいらの中国武術の正統継承者を名乗っている人達とはダンチです。「流派の垣根を取り払うべき」と主張されているところも賛意を覚えました。でも、できたら八卦掌だけとか、形意拳だけとかのDVDも出して欲しいですね。

DVDを観ていたら動きたくなってきて、丁度、空も晴れていたので、遅くなりましたけど公園に繰り出しました。

何か、女子大生らしき集団が演劇の練習やってたり、子供が遊んでいたりしましたけど、オッサン軍団はいつもの場所で練習しましたよ・・・。

セミナーの日に丁度試合があった会員さんから、その時に試合結果を聞きました。

一勝一敗で三位だったそうですが、内容的には十分、満足のいく試合ができたそうで、負けた相手が優勝し、その人とは延長戦まで闘ったそうでした。

ここ最近、フルコンの試合にどう武術的戦法を活かすか?という研究を続けてきましたが、いくら頭の上で考えて形ばかりの練習をしてみても、それだけでは絵に描いた餅にしかなりません。

だから、実際に試合で使えるかどうか?という実践をしてもらうことで有効性が確認できます。

今回の試合では、相手の突きに合わせて側面に密着して連打するとか、肘打ちも有効だったみたいですが、まだ、それで技アリになるまでは活かせなかったそうです。

それでも手ごたえは感じられたそうで、特に無意識に出した諸手突きで相手がふっ飛んだのは、自分でも会心の技が出せて満足できたそうです。

この諸手突きは、もちろん、空手にもある技で、縦に上下に突くのと横に平行に突くものがあり、これを“合わせ突き”と呼びます。これは両肩を平行に相手に向ける向身で出す技です(ちなみに、半身になって上下に突くのが“山突き”です)。

両手で同時に突く技というのは、試合ではまず出ないでしょうし、出そうとも思わないでしょう。腰を捻って片手で突くのがパンチの王道ですし、ボクシングが両手で同時に突かないことでも異端的な技なのが解ります。

ところが、沖縄空手(那覇手系に多い)や中国武術には両手で同時に突く技が意外と多くあります。

例えば、那覇手の形“三戦”で、両肘を脇に締めて両前腕を逆ハの字形に差し出すものがありますが、あれは、あのまま前腕から拳背(源流の白鶴拳では背掌)を使って当てる諸手打ちの技を出す形なんですよ。何で、三戦が呼吸を練る形なのか?ということを考えれば答えは明白です(この答えは次回のセミナーで解説します)。

これらの諸手の打ち技は、腰を横に捻るのではなく、背骨を瞬間にぐっと曲げて肩甲骨を開いて押し出すように突きを出すことで威力が出ます。

この動作だと自然に腹圧をかけることになり、爆発的な威力の出し方をするのに適しています。

私が指導していたのは、形意十二形拳の一つの馬形拳でした。形意拳には基本の五行拳と十二種の動物になぞらえた拳がありますが、馬形拳は特に研究しました。これは、同じく十二形拳の一つで「半歩崩拳遍く天下を打つ」と恐れられた郭雲深の得意技、虎形拳(虎撲掌)が掌打で打つのとは違って拳で打つので、フルコンの試合にも使えると思ったのです。

ただ、両方の拳で同時に打つということは、受け即攻撃という武術的セオリーに反するのではないか?という疑問も感じますし、左手でジャブを打って右ストレートを打つという近代的打撃格闘技の基本から外れてしまうので、本当に使えるの?と思う人が多いでしょう。

もちろん、これは使えます。ただし、歩法と崩しをプラスしなければ実用性はありません。考えてみてください。試合で、いきなり、エイッと両方の手でグーを出しても当たるわきゃ〜ありませんよね。こんなの誰だって判る。

中国武術に疑問が持たれるのは、使い方が判らな過ぎるからですよ。形練習に終始して、実際にそれをどう使うのか?という戦闘理論が明確にされていない。だから、フルコンタクト空手式の組手スタイルをそのまま採り入れて試合し、「使えない。弱い」と決めつけられてしまっている。

つまり、この馬形拳を成功させるには、構え・歩法・崩しが不可欠な要素になる訳で、それが技を成功させるための招法(技をかけるための“作り”)となるのです。

具体的なことは申し訳ありませんがヒミツです。公開したら対策を練られてしまいますからね。

ヒントだけ書いておきますと、自分の構えではなくて、“相手の構えを利用する”のが秘訣です・・・。

それにしても、本当に、試合に応用できたという報告は嬉しいですね〜。フルコンの試合でああいう技を使うには、工夫が必要なので、成果を出すのは中々難しい筈です。それをやってくれたんだから、立派です。

形意拳だけでなく、八卦掌や八極拳の技も十分、使えると思いますから、1月6日の発勁セミナーでは、実用的な発勁の極め方について指導していきたいと思います。

大体、多少鍛えていたって、実際に拳で人を殴れば、手首くじいたり骨折したりしがちなんですよ。掌打や肘打ちの方がリアルファイトでは有効だと思いますよ。無論、これらは使い方と威力の出し方を知らないとダメですけどね。

何か、「これを使えばいい」と書くと、自分のやり方で解釈する人が多いから、困るんですよね。我流でやってても無駄に時間を浪費するだけなんですよ。大概は。

我流でやってて伸びる人もいますよ。でも、そういう人は観取り稽古が完璧にできる人なんですよ。観ただけですぐに技の原理や特徴、極め方のコツが解る人です。

しかし、観取り稽古ができる人って、実は色々な流儀を体験してきている人に限られるんですね。一種類しかやったことの無い人にはまず無理です。

どうしてか?と言うと、一つの流儀しか知らないと、それ以外の流儀のやり方を自分の視点でしか観れないからなんです。だから、最低限、ある程度の体験が無かったら、解っているつもりで実は全然勘違いしていたりするのです。

例えば、よく、「戸隠流忍法って強いの?」とか、「システマって訳分からないんですけど」とか、聞かれるんですよね。その流儀の戦闘理論の構造について知らないから判断できない訳ですよ。

でも、「解らない」ということは、対策が講じられないという意味です。だから、あれを見て訳が解らないと思った人はコテンコテンにやられてしまう可能性が高いです。

かつて、グレーシー柔術を見た人達が、「なんだこれは? 子供のケンカか?」と馬鹿にしていたものの、いざ闘ってみたら何もできずにやられてしまったのと同じです。

これは多分、甲野善紀氏が現代の達人とメディアに持て囃されてるのと同じです。

甲野氏のやって見せてる技の原理も仕組みも仕掛けも解らないから、「よく解らないけど凄いのかも知れない」と思い込まされてしまう・・・マインドコントロール型武術の典型例ですね。

で、実際に本気で叩いたり投げたりしてみて甲野氏がボロ雑巾みたいになるのに唖然となってしまった人達が、「何だよ、コイツ、目茶目茶弱いじゃん?」となる・・・。

あるいは、私みたいに彼の技の原理も仕組みも仕掛けも全て筒抜けで解ってしまう人間だと、「あ〜、ダメじゃん?」となる・・・。

もういい加減に、武術を神秘のベールで包んで権威付けして語る時代は終わらせなきゃダメですよね〜

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2007/12/26 『ロボ☆ロック』『スピードマスター』を観て

昔、自主映画撮っていた頃に武術指導と殺陣をつけた初めての作品で監督をしていたのが、当時、慶応大学の学生だった、この二作品を撮った須賀監督でした。

学生時代から卓越したアイデアマンで才能に溢れていた彼は、自主映画関係者の間でも必ずプロの監督として活躍するだろうと言われていましたが、社会人になって数年は企画も通らずCFの演出をして過ごしていたそうです。

だから、「須賀君でさえ(監督が)やれないのに、俺たちにできる訳がないよ」とぼやいていた人もいましたし、年々、夢を諦めて現実に迎合せざるを得なくなっていく人達を傍観しながら、世の中で夢を実現していくことの何と大変なことなんだろう・・・と私も思ったものでした。

もっとも、私は武術という活躍できるフィールドもあったので、映画の仕事ができなくとも他の人達ほどの挫折感は感じないで済みました。

けれども、須賀さんがついに映画監督としてデビューを果たした頃、忘年会で話をする機会がありました。彼は膨大に企画書を書いて持ち込み、何度も何度も諦めずに回っていたようでした。

その話を聞いて、「あ〜、やっぱり、成功する人って才能だけじゃなくて普通の人間にはできないような努力を当たり前にできる人なんだな〜」と、尊敬の念がわきました。

それまでは、正直言って、金持ちのボンボンだから苦労知らずなんだろうな〜という勝手なイメージがあった訳ですよ。実際、彼らの自宅は一等地の邸宅や高級マンションばっかりだし、乗ってる車もベンツとかだし、普通に別荘あるみたいだし・・・やっぱ、慶応大生は違うな〜と思いましたよね〜。

そういえば、倉敷にロケに行った時に、ビジネスホテルに泊まって、メンバーが何か深刻な顔して話してて、私に聞くんですね。映画に役者で出てくれてる早稲田の女子学生から苦労知らずのお坊っちゃんみたいに思われているんじゃないか?って、彼らはちょっと悩んでいたみたいで、「長野さんは、どう思いますか?」と聞かれた時、まあね〜、そんなことは無いよと言って欲しそ〜な顔で見てるから、「う〜ん。僕も最初はね〜、そう思ってたんだけどね〜。想像以上だったね〜」と答えたら、全員、ズッコケて困った顔で爆笑してました。

生まれ育った環境による認識の違いって、自分じゃ判らなくても有るからね。

だけど、私は、裕福な家庭に育った人間は尊大な性格になるんじゃないか?と思っていたんですけど、事実は全く逆みたいですね〜。彼らは性格が全然、ひねくれてないし、何より妬み根性が全然感じられないところが凄くいいです。妙な劣等感が無いからでしょうね。清貧って言いますけど、貧乏生活は心がひねくれますよ。ホントに・・・。

だから、須賀監督も、最初に会った時のまま。『B』『ブリスター』『恋文日和』『最終兵器彼女』と監督してきて、十分、名前も知られるようになっても少しも自惚れたところが無くて、学生時代に8mmカメラ回していた頃と全然変わらない。

でも、外柔内剛の性格なんでしょうね。釈由美子主演で海外で注目された『修羅雪姫』って、元々、須賀さんが監督する予定だったんだそうで、SF設定も彼のアイデアだったみたいです。道理で原作と全然違うと思ったんですよ。って言うか、彼は原作読んだことも旧作観たこともないんじゃないかな〜?

『最終兵器彼女』を観た時、まさか劇場で泣かされるとは思っていなかった。もちろん、アニメを観ても泣くことはなかったし、サイカノの実写版と言うだけで「オイオイ、それって、えらい貧乏クジ引いたんじゃ?」と思っていたのに、それをこれほどエモーショナルに映像化できるとは・・・と、正直、驚かされました。

特に、ラストの砂漠に突き刺さってる最終兵器の残骸を発見する窪塚(弟)のところは、『猿の惑星』のラストで自由の女神の残骸を発見したC・ヘストンが「ここは地球だったんだ〜!」って、オーマイガッ!てなる衝撃に匹敵してると思います。

最新作『ロボ・ロック』は、最終日の午前の回に渋谷に観に行ってきました(切符売り場のお姉さんがキュートだったので、『ネガチェン』も観に行こうっと)が、プログラムに書かれた監督のコメントが、かつての自主映画時代の自分や仲間たちに向けられたような暖かい内容で、何か、ちょっとジンと来ましたね〜。

作風は一貫して変わらない。だから、何となくデジャヴ感が漂う。それに、『ロボ・ロック』にも『スピードマスター』にも盟友と言うべき仲間が参加していて、私はちょっと羨ましかったですね。

さて、感想・・・。

『ロボ・ロック』・・・「トランスフォーマーの後に、これかよ?」と思っていたけれど、やってくれてますよ。グッジョブ! 病的なオタクの情熱に振り回されて忘れていた夢を思い出す便利屋に、ギャングがからむという構成は、下手するとVシネで一万回繰り返されたようなドラマになりかねないけど、最後の最後に「そんなのいる訳ないだろ?・・・えっ・・・マジ?」って感じで出てくる巨大ロボ“ランドツェッペリン”の武骨でキュートな巨体と、ちょっとだけ活躍して空の彼方に発進していくところが最高です。

何か、音声で動くってところがジャイアントロボ思い出したね(新作アニメの『GR』は小中さんが脚本書いてるから、やっぱりクトゥルー神話になっちゃってた。ダメだよ。ギロチン帝王出さなきゃ〜)。

日常の中に無理やり割り込んでくるようなSF感は、出世作『ブリスター』にも通じますが、エンケンの出演によって、ぐっと引き締まりましたね。

『スピードマスター』・・・劇場で見逃してしまっていたものの、早々にDVDが出たので早速借りてきてみました。走り屋物というより、これは西部劇ですね〜。シェーンとか、あの感覚。中村俊介の甘い童顔に髭というのはどうだろうか?と思っていたら、中々ワイルドな感じでカッコイイ。

ただ、個人的に四国に行っていると聞いていた須賀監督の旧友シマさんが凄い顔で出ていたのが感慨深かった。シマさん。役者に復帰するの? でも、こういう役やると、普通の役こないんじゃないの〜?

まあ、須賀監督には、今後もSFマインド溢れる佳作をどんどん量産して須賀ワールドを広げていって欲しいです。頑張れ〜!(俺にも仕事くれ〜!)

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2007/12/24 2008年、新生“游心流”は、こうする!

いや〜、寒いですね〜。私、九州出身で寒いのは苦手なんですよね〜。おまけに膝が悪いから雪が降るくらい冷えると膝痛が出てくるんで、冬は大っ嫌いなんですよ。季節的には秋が一番好きなんですけど、今年は夏から急に冬に突入したみたいですよね〜。

今年は夏が死にそうになるくらい暑かったから暖冬か?と期待したんですけど、考えが甘かったですね。皆さん、風邪やインフルエンザに注意して、ビタミンCをガバッととって暖かくして過ごしてくださいね。

さて、2007年ももうすぐ暮れますけれど、今年は安泰かな〜?と思っていたら、後半は激動でしたよ。まさか、分裂騒動になるとは思わなかったけど、極真空手しかり、芦原空手しかり、最近は養神館もあったみたいだし、武術・武道は、宿命的に少し方向性が違えば分裂していくのが自然な流れでしょうから、游心流が育った証拠と思えば腹も立ちません(ウソです)。

私は礼儀を弁えない人間って実は物凄く嫌いなんですよ。年長者にタメ口利いたり、無礼な態度をとったりする人間は、もうそれだけで軽蔑します。形式的な礼をしたくなかったのも、中身の無い礼法が嫌いだからなんですよ。たとえ無作法でも気持ちが入っていた方がいい。形じゃなくて気持ちなんです。気持ちは必ず外形に出てきますから。

武術を学ぶのに安易な道ばかり求める心が弱い人は、結局、自滅の道を知らないうちに歩むだけです。游心流が、そんな人間のマニア的な同好会に堕落してしまわないうちに、厳しさも伝えていかなくてはいけないな〜と、最近、他団体を見ていてつくづく思っています。

私自身は、組織を固めるよりも、武術の技をどんどん深めていって、その研究成果を発表すれば、世の中に最も貢献できる筈だと考えていますから、自己満足でやりたいだけのマニア気質の人達は邪魔なだけなんですよ。今後は、単なる武術マニアが近寄ってこないようにしたいと思います。本当に鍛えるべきなのは、技や身体より心、“想い”だということを伝えていきたいと思っています。

最近のブログを読んでもらえば理解してもらえると思いますが、游心流としては、もう、新しい入会希望者は募集するつもりは無かったんですけれど、不思議なもので、入会希望者が増えてきています。熱意のある人は受け入れない訳にはいきませんから、三人は既に受け入れました。

やっぱり実用性の有る武術を求める人が増えてきた証しなんじゃないかな?という気もしますね。だとしたら、嬉しいんですが、これもあまり期待しているとガッカリさせられるから、冷静に見ておこうと思っています。

武術のブームが続いているのに、枝葉末節に応用できることしか解説されない現状には、もう、ウンザリしてるんですよ。“身体操作法としての武術”なんて、武術としては全くの無意味です。肝心要の護身術に使えないんじゃ論外ですよ。

意識して見れば、日常生活の中に暴力が発生する機会はいくらでもありますよ。家庭内暴力、校内暴力、職場の暴力、町中でも電車の中でも、どこでもあります。

その当たり前の現実を、ようやく見つめ直す人達が出てきた?と考えたいですね。

しかし、だとすれば、これは逆の意味で残念な話で、それだけ社会の治安が悪くなってきていることへの不安と恐怖が有るんだと思います。

そんな訳で、来年からは、より護身術としての武術の在り方を考えて危機管理意識を高めることを前提に修練していこうと思っています。

2008年の訓練目標としては、第一に、“一瞬で敵を倒せる威力”を磨きたいと思っています。

護身術の理想は、危険を事前に察知して安全を確保すること。つまり、「速やかに逃げることを第一に考えるべきだ」と主張する人が大半でしょう。

これはこれで正論なんですが、銃や刃物で襲い掛かってくる殺人鬼みたいな人間に突然遭遇してしまった時に、無事に逃げるのは不可能に近いでしょうし、独り暮らしの女性が襲われて殺された例や、エレベーターの中で襲われる例なんかもありますね。満員電車の中での痴漢や集団スリなんかも怖いですよね。

まず一番目に考えるべきなのは、最悪の状況、つまり、「逃げられない状況で襲われた場合」を想定しておく必要があります。

ですから、襲われた瞬間に襲撃者の予想もつかない迎撃をできるようにしたい。

揉み合いになったりしたら一瞬で倒すのはもう無理です。相手が攻撃してくる瞬間に迎撃しなければダメなんですよ。武術は、もともと、こういう咄嗟の攻撃に対して迎撃する交叉法を理合としている訳ですから、実は護身術としては非常に使えるものです。

まず、こういうことを書けば、武道や格闘技をやってきた人は、「そんな簡単にいく訳がないだろう?」と批判するでしょう。

しかし、ここに発想の盲点があるのです。

武道や格闘技をある程度やってきている人は、相手とまともに闘おうとしてしまう。だから、不必要に相手と揉み合ってしまうのです。

面白いもので、何か習っている人間は、反射的に構えるんですね。構えてから攻撃しようとするんです。構えないと戦闘モードに入れない人、つまり、構えることで戦闘モードの意識にスイッチが入る人もざらにいますが、実はこの時点でもう遅れてしまっている訳なんです。

まして、構えて見せたら、相手に警戒心を与えてしまうでしょう? 無造作に攻撃してこなくなりますよね。もし相手が武道や格闘技の構えをとったら、こちらもカウンターをもらわないようにガードを固めて慎重に攻撃する筈ですね。つまり、構えて待ったら、素人が経験者に打ち勝つのは難しくなる訳です。

護身術で重要なのは、「抵抗する意志が無いように見せること」です。抵抗しないと思わせておいて、虚を突くから一瞬で倒すことが可能になる訳です。どんな遣い手でも虚の状態を突けばひとたまりもありません。

宮本武蔵も恐れて逃げた?と伝えられる瞬間催眠術“心の一方”の遣い手として知られた天才剣客、二階堂流の松山主水(まつやまもんど)も、病気で伏せっていた時に見舞いに訪れた荘林十兵衛に脇差でひと刺しにされて暗殺されてしまいます。現代でも名の有る空手家が割り込み乗車した若者を叱り飛ばした次の瞬間、若者からナイフで胸をひと突きされて殺された事件があるそうです。

力道山やブルーザー・ブロディもそうでしょう? 小学生のピストルで殺されたアメリカの空手チャンピオンもいたとか・・・?

現代の武道家、格闘家は、虚を突くことの重要性を忘れているのです。相手を侮って虚の状態を晒せば命取りになるのです。

虚を突くのと併せて、武道や格闘技で“危険だから攻撃してはいけない”と禁止されている箇所を狙うのも必須です。急所を狙わなければ一瞬で倒すことなんかできません。これは肝に銘じておいて欲しいと思います。

スポーツクラブで乱射した散弾銃男は、防弾チョッキやヘルメットで武装していたそうですが、それでも手足の関節をへし折るくらいはできますし、金的や肛門を蹴り込めば悶絶させることもできます。足払いをかけて倒して背後から首を絞めるか捻り折るかすれば仕留めることは可能です。

日頃鍛えているインストラクターが、逃げるばかりでなく連携して取り押さえることも、訓練していたら、あるいは制圧できたかも知れません。犯人は、相当運動神経が鈍かったようなので、恐れず冷静に対処したら被害を防げたかも知れないのです。

池袋の通り魔事件の時、包丁を振りかざす犯人に通行人がプラスチックのトレイを持って立ち向かい、数人で取り押さえたという事例もあります。独りでは無理でも咄嗟に連携すれば可能なのです。

「こんな状況では無理だ」と考えたら、もうどうしようもありません。

どんな状況であっても、それを切り抜ける可能性に賭けて知恵を絞るのが人間なんですよ。刃物や銃を持っている人間が一人だけの場合、まず正面に、立ち向かおうとする人間が一人立って、注意を誘う。刃先や銃口を一方向に向ければ、そこに隙が生じます。そこに背後から上半身と下半身を同時に攻めて倒す人間が二人いれば、かなりの確率で捕らえることが可能でしょう。

合気道の多人数捌きをよく観察すると、正面から順番にかかっていくか、あるいは周囲を囲んで複数が一斉に頭なら頭、胴体なら胴体を集中して攻撃しています。

何故、こうするか?というと、攻撃を集中してポイントを絞ることで、そこだけ避ければ躱すことが容易になるからです。つまり、演武用の演出なんですね。これを知らないで真似しようとすれば、たちまち袋叩きになってしまいます。

躱す動きをそのまま反撃に用いることで倒していく・・・これが基本的な合気道の戦法ですから、これを無効にするには同時に二点、三点以上、つまり、頭と足とか、正面、側面、背後(裏側)を一挙動で歩法で回り込みながら攻撃していけば(これはセミナーの様子を映した動画の中でやっています)、躱すのが困難になりますし、反撃対象が移動するので躱すと同時に反撃することがほとんどできなくなります。

スピードも重要ですが、ただ速いだけでは意味が無い。緩急を使い分け、相手が反応しづらいタイミングと角度を考えねば、足を止めて一方向から攻撃を繰り返すのは無駄が多過ぎて、いくら速くても慣れれば対処される。よって、歩法を用いながら自在に打てるように訓練しなければなりません。足を止めていくら腕を速く振り回しても、相手が動けばそうそう当たらないのです。

体捌きは運足が要になりますから、足の動きを止めてしまうことで強制的に居着かせることも効果的な戦法です。この意味から考えれば、ローキックは相手を居着かせて仕留めるのに極めて有効なテクニックなのですが、単なる痛め技としてしか用いられておらず、実にもったいない限りです。蹴って戻すのではなく、蹴った足をそのまま運足に用いて相手の間合を潰して居着かせる。攻撃に切れ目を作らず、流れを考えなければいけません。

ところで、私は、『武術のヒケツ』で合気道を理想的な武術として絶賛して書いていますが、だからといって完璧だとは思っていません。

そもそも、完璧な武術なんか有る訳がないのです。だから、研究しているうちに弱点も考えてきました。合気道の遣い手と立ち合う場合を想定して攻略法を考えている。前述したのはそのヒントです。

が、逆もまた真なり!です。弱点が解れば、それをどのように補えば、より完璧に近づけるか?という点も自ずと解ってくるものです。その観点に立てば、流派の優劣なんて馬鹿げた考えは消滅するでしょう。所詮、「どれだけ体得できるか? 発展させていけるか?」は、自分自身の問題であって、流派のシステムや権威とは何の関係もないのです。

愚か者は、自分の弱点を理解していない人のことです。自分の弱点を理解している人は、その弱点を補うために研鑽します。だから、修行には終わりが無いのです。

最低限、武術に必要なのは、「一撃で倒せる威力・的確に当てる技術・相手の攻撃を封じる技術・何でも武器にして使える能力」でしょう。

いや、勘違いしないでくださいね。これは、「最低限」ですから・・・。

でも、最低限であっても、一つの流派だけでこれらの要素を全て満たすことは、ほぼ不可能です。どんな優れた伝統的な武術の流儀でも、過去の戦闘スタイルをそのまま伝承しているだけでは通用しない。現代式に応用したり、新たに付け加えていかなければ充分とは言えません。

私が游心流と名乗ったのは、現代の戦闘を考えて、あと百年は通用する武術にしたかったからです。日常の護身術としても使えて、特殊部隊とも戦えるレベルのものにしたかったのです。だから、武器術にも拘っている訳ですよ。

刀(短刀・小太刀・定寸刀・大太刀・二刀)、棒(短棒・半棒・杖・六尺棒)、槍、薙刀、ヌンチャク、釵、トンファー、万力鎖、手裏剣、鎖鎌、弓・・・等から、ピストル、ライフル、ショットガン、マシンガン等の扱い方も訓練しておかなければ、実際にそれらを手にしても使えない。現代兵器の使い方くらい知っておかないと、現代で武術を学ぶ意義が無いと私は思っています。

2008年は、この武術の理想像に向かって研究していくつもりでおり、その研究発表として、月イチのセミナーを開催していきます。御自身の学ぶ流儀をより発展させたいと考えている方は、是非、来ていただきたいですね。乞、御期待です!

追伸;30日の稽古会(午前10:30〜12:00予定)後は本部で納会をやります。日頃、来られない会員さんも是非、どうぞ。地方在住の会員さんがビールを贈ってくれたので、ささやかながら飲み会にしたいと思っています。DVD等の鑑賞会もやりますよ。

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2007/12/23 『風雲ライオン丸』が終わって思った特撮アクションのこと

時代劇チャンネルで放送していた『風雲ライオン丸』も終了しました。

一年の放送を完了した『快傑ライオン丸』の続編として始まった『風雲ライオン丸』は更に挑戦的な様々な試み(ロケット変身・兜を被ったライオン丸・ウエスタン調)をしていましたが、あまり人気が出ずに放送は半年で終了しています。

確かに、前作ほど熱心には見ていなかった印象がありますが、三十数年たって改めて見てみると、これはよく出来てるな〜と感心させられますね。

当然、CGもないから、肉弾戦はスタントマンと俳優本人が演じている訳ですが、インタビューで潮哲也さんが言っていたように、「これは俺は死ぬんじゃないかな〜?」って思えるような決死のアクションですよ。

でも、プロのスタントマンがぎりぎりのアクションを演じ、俳優本人も限界まで頑張っているからこそ、傑作になる訳で、三十数年経過しても心に残る名作として再び日の目を見られる訳ですね。

頑張って努力したことは、その時は評価されなくても、決して無駄にはならないと思います。あまり熱心に見ていなかった『風雲ライオン丸』が、こんなに面白い作品だったというのは再放送されなければ知らないままだったでしょう。

そもそもそんなに昔の作品が再放送されることなんて無いでしょうし、CS放送サマサマですよね。私が本放送で見たことも無かった『アゴン』とか『忍者部隊月光』『恐怖のミイラ』『ナショナルキッド』も見られたし、田舎に住んでて放送されなかった『ミラーマン』『メガロマン』『アクマイザー3』『超人ビビューン』なんかも見れたし、本放送で見逃していた話が見れたのも有り難かった。

『帰ってきたウルトラマン』の最終回のゼットンのあまりの短足ぶり(着ぐるみが劣化したのかアトラク用の流用だったのか?)とか、アチャ〜ッ!と思うこともありますが、そこもそれ、味があると思えば許せます。

『風雲ライオン丸』に快傑ライオン丸が幻想シーン?で登場して金砂地の太刀を授けて去っていくとか、虎錠之助(クレジットタイトルでは錠之進となっていて、確か、弟という設定だったと記憶しているんですが、「昔は虎錠之助と呼ばれていたが名前は忘れた」なんて言ってて本人っぽい)が登場して、タイガージョーJrに変身したりといった前作との関連を匂わせる演出も良かった。

それと、地虫忍者のマスクが、何となくジョン・ブアマン監督の『未来惑星ザルドス』(ショーン・コネリーが確かウェブリー・スコットのオートマチック・リボルバーを撃ってた)を連想させるんですけど、何か関係あるんでしょうか?

私的に一番感動したのは、このライオン丸のシリーズは殺陣が非常に凝っていてカッコ良かったことですね。最近の時代劇(TVドラマ、映画)と比べると、ずっとダイナミックで激しく動き回りながらのアクションで、若山先生の『子連れ狼・親の心子の心』のラス立ちを思い出します。

ライオン丸とタイガージョーは刀をクルッと回して構えて、「ライオン丸、見参!」とか「タイガージョー、推参・・・」と名乗りをするところが決まってます。

必殺技も、ライオン飛行斬り・ライオン飛行返し・ライオン風返し・タイガー霞み斬りとか、割りとシンプルなのも1970年代風です。

CGも無いからトランポリンを使ってたんでしょうけど、昔の時代劇とか見てると結構、ワイヤーで吊ったりしてるんですよね〜。考えてみたら、“吊り”という舞台表現は香港映画が元祖なんじゃなくて、案外、日本から伝わったのかも知れませんよ。

歌舞伎の道成寺なんて清姫を吊るすし、ゴジラで有名な特撮の神様と呼ばれた円谷英二の戦争物とかラドン、キングギドラなんかは吊りの技術無しでは成立しなかった。

殺陣の愛好家間でダントツに評価の高い近衛十四郎(松方弘樹のパパ)の当たり役、柳生十兵衛が活躍する『柳生武芸帖』なんかでも、近衛が吊られてヒューンと空中に飛ぶシーンとかあったし、確か、活動写真と呼ばれていた頃の目玉の松っちゃんと呼ばれた尾上松之助主演の作品なんかでも吊りがあったようなのを見た記憶があります。

それだけ昔(戦前)からあった技術なんですね。香港映画界には日本の技術スタッフが招かれて40年以上前から行っていたそうなので、その時に日本の技術を教えて、それが発展したのかも知れません。(詳しい方がいらしたら、是非、教えてください)

台湾のクロサワと呼ばれたキン・フー監督が特にワイヤーアクションを多用したと言いますが、日本の時代劇の影響を受けていたのは疑いないところで、そこに京劇の立ち回りをミックスして武侠映画の礎を築いたのではないでしょうか?

そういう点からすると、日本のスタント、アクション、殺陣の潜在能力は低くない筈ですし、これから世界が注目するようなジャパニーズ・アクションが発展していく予感がしますね。

特に、特撮ドラマはアクションが決め手です。やっぱり特撮ドラマでアクションがダメだと、頭痛がしますからね〜。

そのアクションということでは、『風魔の小次郎』と『キューティハニー』のアクションはかなりいい出来ですよ。伝統的な剣殺陣に香港スタイルのカンフーが加わった小次郎と、マーシャルアーツ・アクションとワイヤー、CGが融合して斬新な実験的アクションを生み出しているキューティーハニー・・・深夜枠なのがもったいないですよ。

何か、この異様なレベルの高さって、『牙狼GARO』が出てから変わったような気がしますね〜。あれが基準線になったんじゃないかな〜?

ここまで来たら、香港アクションにも負けてないと思いますよ。と言うか、香港アクション自体が、ちょっと元気なくなってきてる感じがするし、むしろ、中国の武侠ドラマの方が元気ある(香港のアクションスタッフが出稼ぎしてるって話だけどね)。

そうそう。武侠ドラマと言えば、古龍原作の『大旗英雄傳』も佳境に入ってますが、武林でナンバー3の実力者だった雷鞭が、冷一風がそん毒大師によって“毒神”となったのに立ち向かって負けてしまったり、風九幽が秘伝書を入手してパワーアップしそうになったものの失敗して改心して自殺したり、超頑固親父の鉄血大旗門の雲掌門が真相を知って謝ったり・・・武林最強の両巨頭、夜帝(梅宮辰男?)と日后の教えを受けて達人と化していた主人公二人(鉄中棠、雲錚)でも、武林最強の毒神にはスンナリ勝利はできない模様・・・。(何か、この毒神って、かすり傷から毒が入っても助からないというゾンビかバイオハザードみたいなヤツで、ちょっとヘドラみたいな感じもするな〜)。

それにしても、内功の訓練をしていて幻覚を見たり性格が豹変したり、逆に心身を破壊してしまう・・・といった、気功訓練に付き物の危険性を描写するシーンを見ていると、そういう事例を身近に何度も繰り返し見てきた私としては、やっぱり普通に生活している一般人がのめり込むと危ないな〜と思わずにはいられませんでした。気功は知らないうちに人格障害(誇大妄想狂)になりそうで怖い。元々が宗教行法ですから、副作用の無い健康法だと考えるのは認識が甘過ぎる訳です。

あっ、武侠物としては『激獣戦隊ゲキレンジャー』もクライマックスに入ってきて、ジャンの父親ダン役で宇宙刑事ギャバン役が有名な大葉健二が出てて、感動しましたね〜。
 以前もハリケンジャーの時にちょこっと出てたけど、顔見せ程度だったし、今回はきちんと重要なキャラとして出演してるから感動的でした。アクションも少しだけどやってるし、こうなったら母親役で森永奈緒美が出てきたりしないかな〜? そして、アクションやらなくてもいいからマスター・シャーフーの人間だった頃の役か何かで千葉真一にも出て欲しい! 映画版には石橋雅史先生が出てたし、人気再燃しますよ、千葉ちゃん!

あっ、そうだ! 千葉二郎さんに出てもらうってのはどうかな? 仮面ライダーの滝とか、ロボット刑事K、アクマイザー3とか特撮物には多数出演してるし・・・。

う〜ん・・・こうなったら、いっそのこと、倉田保昭、藤岡弘、、宮内洋・・・と、アクション大好き系の人達をかき集めて出てもらったらどうかな? ウルトラマンメビウスなんて、過去のウルトラ主演陣を全部出してたじゃないですか? 星光子さんまで出てたんだよ〜。やればできるよ、東映も・・・(ミシェール・ペングの人間体は堀江ミッチーとかどう? 宇宙鉄人キョーダイン以来の実写特撮出演を希望!)。

どうですか? ゲキレンのプロデューサーさん! TV放送に間に合わなかったら映画版で・・・。

追伸;『姿三四郎』見ました。ライオン丸G(波岡一喜)とかG3(要潤)がライバルで出てきて結構楽しめましたけど・・・アクションがやり過ぎててお笑いを狙ったのか?と思いました。中越典子にあしたのジョーの白木葉子を見る思いだったです。で、三四郎が夭逝した嫁さんに義理だてて生涯独身を通したってナレーションに日本男児はこうでなくっちゃいか〜ん!と、最近、無闇に九州男児気質が再燃してきてる私は思った・・・。

追伸2;『拳精』を25年ぶりくらいに見た。日本公開時に入れた映像とか音楽とかが入ってなかったから、何か物足りなかった。ただし、改めて昔のカンフー・アクションを見ると、物凄く高度な中国武術の技を惜しげもなくテンコ盛りで出していて驚かされますね。“五獣拳”なんて本当にあるのか?と思っていたけど、中国南方の代表的門派、洪家拳の套路の中にちゃんと有ることをずっと後で知った。虎・蛇・竜・鶴・豹の五種類の動物(竜は霊獣だけど)になぞらえた拳法は、北派の形意拳の十二形拳よりもモロに動物っぽいですね。地方だと峨嵋派の武術に動物を模したものが多いそうですけど、鷹拳とか蟷螂拳、猿拳、狗拳(イヌ拳だね)、鴨拳(カモ拳だよ)とか色々あります。外国の武術雑誌とか見ると、“ファイブ・アニマル・カンフー”とか書いてあって、何それ?って思ったら、あ〜五獣拳か・・・と、ちょっと物寂しくなります。“ホワイト・クレーン(白鶴拳)”とか“ホワイト・モンキー(白猿拳? 多分、白猿通背拳のことだな)”とか、英語にすると何かバカ度が高まりますね・・・。“セブン・スター・マンティス”とか書いてあった時は、「何のこっちゃ? タバコ?」としばし考えて、ようやく「あっ、そうか? 七星蟷螂拳のことか?」と解りましたよ〜。まだ、ウィンチャン(詠春拳)、タイチー(太極拳)、シンイー(形意拳)、パークア(八卦掌)、イーチェン(意拳)と言った具合に中国語発音してくれた方がいいかも?

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2007/12/20 全日本空手道選手権を見て

伝統空手の全日本選手権をNHK教育で見ました。

極真空手とのスタイルの違いは、ルール設定から来るものですが、こうやって改めて見てみると、全く別の武道を見ているみたいですね。

まず、間合が遠い。突き蹴りが当たるには一歩踏み込まないといけないから、やや足幅を広くとってフットワークでリズムを刻み、隙を見て飛び込んで突き、引きながら回し蹴りを送る・・・。

一見、ボクシングに似て見えますが、間合の調節のやり方やリズムは剣道に酷似しています。

以前は、もっと泥臭い闘い方をしていたように記憶しているのですが、かなり洗練された印象を受けました。

女子の組手の優勝選手は、多分、香川先生の教えている帝京大学にDVD付き教則本の撮影でうかがった時に見たことがある人じゃなかったかな〜?と思いましたが、スピードもテクニックも一歩抜け出ていました。流石は、香川先生の弟子だな〜と思いました。指導法の確かさが現れていましたね。

男子の組手決勝は、以前、永木選手と決勝を争った松久選手が圧倒的に勝っていましたが、準決勝の学生とはいい勝負で、女子も含めて、やはり若い人のスピードとフットワークの速さに社会人は追いつかないみたいですね。

改めて、「歩法ができなければ勝てない」ということを痛感させられました。

形の決勝は、女子学生のコーソークンダイと沖縄空手の女性のパイクーの勝負でしたが、ここ何年かは沖縄空手の形の内功が評価されていたものの、今回は女子学生の切れ味鋭いスピード感が評価されたようでした。

男子の形は、両者、那覇手の代表形スーパーリンペイ対決で、DVD付き教則本の撮影の時にお会いした古川哲也さんを私は応援したんですが、残念ながら準優勝となっていました。これも、古川さんの重厚な内功の充実感よりも、優勝した方の突きの動作のスピード感などのアピール度が評価の分かれ目になったように思えます。

形を見ていて思ったのは、内功の充実といった内面を評価するより、見た目の手足のスピード感や腰のキレといった外形を評価しているんだな〜ということでした。

別にそれが悪いと言いたい訳じゃないんですが、評価の基準線をもっと多様に定めてもいいんじゃないですかね? 例えば、形を演武するのに、分解組手方式の演武も入れたりすると、形の稽古が護身術を学ぶことにもなって、もっと空手に興味を持つ人が増えるんじゃないでしょうか?

あっ、そうそう。久しぶりに見ていて、はたと気づいたのは、やっぱり最近はもうメンホーとか顔面の防具は付けないんですね〜? 評判悪かったからな〜。

最近、游心流でどういう具合に組手練習法を工夫していけばいいだろうか?と考えているんですが、ある程度、使う技を限定して防具を装着して安全性を保ってやれたらいいかな〜?と思っています。

防具の上からでも実際に打たれるのとそうでないのでは感覚が全く違いますからね。防具をつけてもらって練習してから、どうしても当たってしまうから寸止めにできなくて教えられなかった連続掌技や肘当てなんかも軽く当てて実演できるようになったし、これまでは、「怪我させちゃならん」と、メチャメチャ遠慮して壊れ物扱うみたいな教え方してきたからストレス溜まってたんですよ。

それを考えると、スポーツチャンバラって、画期的ですよね。

伝統空手は寸止めだから・・・と言っても、結構当たりますからね。軽い怪我は覚悟してないと打たれないと思い込んでると危険です。それに、打たれる痛みや怖さを知らないと話になりません。痛くないように、怖くないように・・・と考えていたら、それは武術でも何でもなくなってしまうんですよ。そういうのを避けて術や理論に頼っていたら、とどのつまりは甲野氏みたいに戦闘不能の惨めな武術屋になり果てて、ああでもないこうでもないと訳の解らない理屈を並べて偽装して生きていかなきゃならなくなる。そうなったらミジメ過ぎるでしょう? そんなんだったら、武術なんかやるよりボクシングジムに一年間通った方がずっといいですよ。

無論、私はもう改めて広めるつもりは無いから競技試合をやるつもりは全くありませんが、自由攻防に対応する練習はやらないと駄目だよな〜と、最近、痛感するんですね。これは、歩法の研究をやっていて、どうしてもリアリティーのある状況で検討していかないと勘違いして誇大妄想に浸ってしまったりしがちなので、必要だと思った訳ですよ。

以前から言っているように、実際に闘うと歩法の訓練をしている方が大体、勝つんですよね。だから、今回も試合が始まった時点で、「あ〜、こっちが勝つな〜」と思っていたら、思っていた通りになっていました。じっと待って、相手の出るのにカウンターを合わせるのを狙っているより、フットワークの上手い方が勝ってる。

やっぱり見て良かった。色々と勉強できました。

何だか、自惚れて他流に難癖つけてるだけの人も多いものですが、そりゃあ、自分が求めているのと違うことやってる流派だったら悪く見えるものです。だけど、他流の良い部分をきちんと見抜いていけば、自分に欠けている部分を埋めていくことができるじゃないですか? だから、自惚れは何も生み出さないんですよ。

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2007/12/20 またも散弾銃による殺人事件が・・・

飛行機事故が起これば似たような事故が、災害が起こればまた災害が・・・。

不思議なもので、何か突発的な事件や事故というものは、続けて類似した事件や事故を発生させるという得体の知れない法則みたいなものがあるものです。

散弾銃による事件、事故が続けて起こった時に、何とも嫌な予兆を感じたものですが、今度の事件は何かの暗示のようなものにも感じさせてなりません。

スポーツクラブに突如、乗り込んできて散弾銃を無差別発砲・・・という特報が流れた時は、何となく池袋の通り魔事件や、池田小学校の事件を思い出したものでしたが、「犯人が教会で自殺した」「射殺したのは顔見知り」という続報が出ると、「人間関係のもつれからの怨恨か?」という御定まりの動機が浮かんでくるのですが・・・。

ワイドショーとか見ていると、女性インストラクターと友人を射殺したのは、最初からの目的だったようですね。他の職員に目もくれなかったのは、ストーカー的心情があったと考えられるでしょう。仲良しの親友を殺したのも、無理心中的なものが感じられますし、犯行後に教会に向かって自殺したのも、運命的なものを自己演出して見せたものに思われます。

でも、今回の事件は、犯人の自宅の近所の人達が「いつかやると思っていた」と言うくらい、異常性を感じさせる犯人の人物像がはっきりしているのですから、あまり意味付けして犯人をダークヒーロー的に扱うべきではないでしょう。

サラ金の借金苦に悩んでいたとか無職だとか、要するにダメ男なんですよ。ダメ男だから、銃を持って自分が強くなったようにヒロイズムに酔いしれたかっただけの話です。

そういう弱い人間の心の闇が広がっていき、銃を持つことで絶望の渕に突進してしまった・・・とか考えて犯人に同情の眼差しを向ける人もいるでしょうが、甘いですよ。

疑わしきは先手を打っておかねばなりません。

まず、「キチガイに刃物」の譬えどうりに、精神面に異常性が感じられる人に武器を持たせてはいけません!

下手をすれば本人も自覚がないうちに人殺しの罪をおかしてしまうかも知れない。

特に今回の散弾銃男の場合、近隣住民から陳情があったというのに地元警察署が全く取り合わなかったというのですから、事件の責任の一端は、確実に地元警察にあったと考えざるを得ません。

確かに警察は忙しいでしょうから、一々、市民の陳情に付き合っていられないと言うのが現場警察官の本音だろうとは思います。

けれども、実際にこのように事件が起こってしまった時に責任を糾弾されることを考えれば、市民の相談に乗ってやるべきだったでしょう。

これは桶川のストーカー殺人事件の時にも論議されたことです。

犯人が銃を買った店の店主は、「マニアックな感じだった」と証言していますが、銃や刀剣といった武器はマニアックな趣味を持つ人間が集めるものであり、あまりその度が過ぎると、興味本位に法律に触れるような行為をしてみたり、他人の視線を全く気にしなくなってしまったりするものです。

私自身もマニア的な性格なのを自覚していますから、若い頃はかなり変人っぽく見えていただろうと思います(今も?)。が、やはり雑誌でライターをやったり、団体を主宰したりして名前が知られるようになり、対外的な付き合いが増えるに従って、非常識な人間に見えてはマズイのだと痛感させられるようになりました。

何より、私ばかりでなく、私の師匠に恥をかかせることになってしまうからです。

先日、師範代が会社の忘年会で演武を頼まれたそうでしたが、当日、忘年会が終わった後に電話してきて、これから部屋に行ってもいいでしょうか?と言うのですが、ちょっと思い詰めたみたいな感じだったので、ははぁ〜、失敗したな?と思いました。

で、彼は部屋に入るなり、身じまいを正して私の前に正座し、「すみませんでした」と謝るのです。

驚いて理由を尋ねると、会場で酒に酔った状態で前に出て演武したところ、百人以上の人達の前で緊張して頭が真っ白になってしまい、何を喋っているのかわからないくらいになって演武もうまくいかなかった。だから、自分がこんな体たらくで、教えてくれた先生に恥をかかせてしまって申し訳ない・・・と土下座するのです。

いや〜、ビックリしました。そこまで真剣に考えなくても・・・と思いましたし、正直いって、割りと軽く考えてるみたいだったので、多分、緊張して失敗するだろうな〜と思っていたので、慰める意味で、こういう意味のことを話しました。

どうも、最近、私が“武術を学ぶ者の心構え”について厳しいことを言っているので、破門されるんじゃないかと心配してしまったのだそうです。

無論、演武は見世物ですから、失敗して誰が傷つくものでもありません。金を貰って演武するのでない限り、余興で失敗してウケが良くなかったりするのは付き物ですから、そんなことを咎めるような狭量な人間じゃ武術の指導は勤まらないでしょう。

私自身も講座やセミナーでウケると思って言ったギャグが、ことごとく外れて参加者がドン引きしてしまって気まずくなったことなんか何度もありますし、武術に興味があってある程度理解できる人に対してですら、そうなることは有るんですから、普通に会社のパーティーとかでやってもうまくいくことの方が稀れなんじゃないでしょうか?

そういえば、十数年前に亡くなった叔父がやっていた外国語学校のXマス・パーティーで演武をやってみた時、ヌンチャクや手裏剣、日本刀を振り回してみせたりしたら日本人は全員すっげぇ〜ドン引きしちゃったんですけど、外国人講師の人達は瞳をキラキラさせて堅く握手を求めて何やら感動した顔で色々誉めてくれたんですが、あたしゃ〜、英語がからっきしダメなんで意味は全然判りませんでしたけどね〜。

だから、忘年会で失敗したからって、そんなささいなことでも自分のことより私の名誉を考えてくれた師範代の気持ちは、嬉しいですし、ささいな慢心でも自分の実力を発揮できなくするという心の働きについて、よく勉強になったのではないか?と思います。

人間は失敗した時こそ、自分の足らない点を自覚できるチャンスなんですよ。だから、どんどんチャレンジして失敗を経験してみることも大切なことです。

失敗したくないから・・・と、安全策ばかり講じる人間は成長しません。失敗を糧にして反省することからしか成長は望めないものだと思います。失敗しまくっても反省しない人も稀にはいますが・・・。

何か、人間の身体の動きを機械か何かのように考える風潮が蔓延していますけれど、やっぱり重要なのは心なんですよ。気持ちと意志。それが身体の力を何倍にもすれば、逆に半減させたりもする。

武術が武道と呼び名が変わっていった時に、技よりも精神を磨くことを優先させたのは、決して間違いだったとは思えない。

よく考えてください。

人を殺傷できるテクニックや武器を身につける時に、一番必要なのは何でしょうか?

それらを暴力に用いない克己心と自制心。つまり、人並み外れて自分を律する心の強さですよ。だから、武術・武道を学ぶ者が真剣を持ち歩いていてもお咎めを受けないで済んでいるのです。それは、第三者に不審に感じさせないよう良識ある言動を日頃から意識的に取るようにしておかなくてはならないでしょう。それが武術・武道を修行する人間に必要なことなのです。その社会的信用の重さを自覚していなきゃいけない。

ボクシングの井岡さんや総合格闘技の桜井さんなんて、暴力を受けても決して手を出さなかったそうですね。私の武道医学時代の知り合いのキックと極真をやっていた須田さんは、「武道をやっている人間の手は凶器になるんだから、素人に手を出しちゃいけない」と言っていましたが、確かにその通りですよ。

暇潰しの趣味として武術を学ぶことを否定しようとは思いませんが、そういう人はうちの会にはいて欲しくない。まともな挨拶もできなかったり、年長者とタメ口を利いたり、飲み屋で暴言を吐き散らして顰蹙を買うような、空気が読めない自己愛性パーソナリティ障害の人間には教えたくありません。人殺しのテクニックをヘラヘラ笑いながら練習してるマニア集団って、既にオツムが壊れているんですよ・・・(あんまり、人のこと言えないけどな〜)。

何か、心が弱過ぎて、ちょっとしたことでブッ壊れてしまう人が増えている気がして仕方ありませんし、他人のことを全く考えない自己チューな人間が多くて嫌になってしまうのです。叱っても反省しない独善に凝り固まっているヤツは、まともじゃない。

今回の散弾銃乱射男が精神を病んでいたことは確実であり、そんな人間に銃砲所持の許可を維持させてしまう法律は、やはり改善しなければマズイ。でなければ、類似事件を増やすことになるでしょう。

計画的犯行だったにしろ、普段から迷彩服を着て銃を抱えて徘徊するような人間は所持許可を取り消さなきゃダメですよね。許可申請の時点で調査して大丈夫であっても、その後は無職だったり奇行が目立っていたならば、銃の所持を継続させてはいけない。

驚いたのは車の中に2700発もの弾薬が有ったというのと、熊撃ちに用いる一発弾スラッグ弾も使っていた?ということですし、続けて2〜3発の銃声が鳴ったという証言から、ひょっとしてガスオートのショットガンを使ったのかな?と思っていたら、犯人を知っている射撃クラブのリーダーの話では、やはりガスオートのショットガンを最初に買っていたそうで、これだと銃身は一本ですが、自動装填されて3発撃てるので、これを使っていたんだと思われます。

護身術を教えている人間として、今回の事件は大いに認識を改めさせられるものでしたが、スラッグ弾まで使ったのでは護身用の手立てを講じるのは難しい。ツブの小さい散弾ならば、あるいはプールの底まで潜れば、水圧で弾の威力が衰えて致命傷を負わずに済んだかも?とかも考えたのですが・・・、重量のあるスラッグ弾ではどれだけ防げるか?

私も危機管理の研究をしている人間の一人として、更に研究を深めていかなければならないと思っていますが、こういう欧米で起こるような猟奇事件も日本で起こるようになってきたことを重く受け止めて、日本全体が危機管理意識を持たなければならない時代になったということを強調しなければいけないでしょう。

最後に、事件の犠牲になった方々の御冥福を祈ります・・・。

PS;その後のニュースを見ていて、やはり、犯人は思った通りに、女性インストラクターに一方的に好意を持ってストーカー的に付きまとっていたのが判明してきた様子ですが、ガスオートのショットガンにターミネーターで知られるようになったレーザーサイトを装着していたというのですから、マニアの度が過ぎて妄想の世界に浸っていたのでしょう。
親の退職金で釣り舟や新車を買ったりしていたとか、高校時代は魔術やタロットに凝っていたとか、何だか精神世界オタクだった可能性まで出てきましたね。まさか、クンダリニーヨガや気功をやっていたなんて話は出てこないでしょうね〜? 今回の事件で思うのは、「自分の世界に没入しているマニアは危ない」ということです。ジョー・スピネル監督のB級ホラー『マニアック』を地でいってるみたいで、何ともブキミな事件です。

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2007/12/16 新生游心流は“心を鍛える”!

12月16日の江古田ストアハウスの年末特別セミナーについてお知らせします。

今回は、発勁・合気といった武術の技を、どう実際の護身術としての攻防に活かすか?という観点での今年一年の研究成果の総まとめをしてみます。

これまで武術の技は状況設定の中や約束組手でしか使えないものとしてしか指導できませんでしたが、だからこそ、練習と実用の区別がつかない人が出てしまいやすかった。

今後は「実際に自由に攻撃してくる相手をどう制圧していくか?」という、よりリアルな状況へ対応するためのノウハウを研究していくつもりでおりまして、そのために必要な“技を極めるためのノウハウ(特に<運足>)”を、今年最後の研究発表としてみたいと思います。

最近、何故か?シダックス橋本駅前店の講座も人数が増えて、内容も充実してきていますから、ナイフ捕りに応用できる脱力体での護身術の原理と、打撃技の打ち方、変化の仕方、受け流す手法から逆技に変化させる指捕り・手首捕り・肘捕り・肩捕り・首捕りへと転移していく手法と<間の操作>、武術の秘伝的内容に区分される分筋錯骨法、閉気栽脈法、当身殺活法についても護身術に限定して指導してみたいと思っています。

そして、軸の操作による崩し・体転換・体変更・位置取り・先の取り方による安全圏の確保についても新たな研究成果を披露してみたいと思っています。

軸は自分と相手の身体上だけに想定されるのではなく、視線や間合の中にも想定されるものです。逆に相手の軸が観えれば、そこを斬り崩せば簡単に制圧できる。軸はもろ刃の剣でもあるのです。そんな数歩踏み込んだ内容について解説していく予定です。

一例を揚げれば、ひとくちに“突き”と言っても、正拳縦突きと横拳捻り突きでは使い方が全く変わります。裏拳と拳槌では使い方が異なります。一本拳は“突き”ではなく“当て”で有効性が高まります・・・。一つの技が千変万化していく応用・変化・発展の原理を理解することが大切で、本来、「これが正しい技だ」とか「あいつより俺が強い」などと言うことはできないのです。何しろ、武術は「戦って勝ち残った方が正しい」という結果主義の側面を持つからです。よって、技を覚えたら、それを忘れて消していくことを知らないといけません。一度、覚えたら忘れ果ててしまう。しかし、人間の凄いところは表面上は忘れてしまっていても身体は覚えているんです。だから、武術は無意識の心を鍛える稽古が大切なのです。

また、今回は体構えの意味についても研究して判明した点について解説してみようと思っています。キック(ムエタイ)に於けるアップライトの構え、伝統空手の組手構え、形意拳の三体式(三才式とも言う。すなわち、天・人・地)の構え、八卦掌の倚馬門路の構え、太気拳・意拳の構え、剣術の清眼の構え、車の構え、八相の構え、上段の構え、下段の構え、無構え・・・これらの構えの意味するものが何であるのか?という点について細かく考察していこうと思います。

特に、向身と半身の差異から洞察できる戦術の違いについて、足構えから歩法へと発展していく武道やスポーツにも応用性が期待できる<運足>の秘訣について、初めて解説してみたいと思っています。

この運足の秘訣に関しては、武術書でも触れられたことが極めて少なく(最近、出版されていた柳生新陰流の本で触れられていました)、私自身も、実はこれまで誰にも指導したことがありません。技法としていくつか指導したり、身体操作の要領を教えたことはあったのですが、ほとんど誰も、この<運足>に武術の運動構造の中心命題が隠されている点について顧みなかったので、私もそれ以上の説明はしなかったのです。

揚げ句の果てに、その最も重要な武術の進化の鍵である運足の稽古法を軽んじる者まで出てきてしまったのは、実に情けない限りでした。平然と私に対して「初心者には必要ない」と言ってのけられた時は呆れ果ててしまいました。何を馬鹿なタワ言を言っているのか? 「初心者だからこそ必要」なのです! 初心者から最も根本となる極意を稽古させるのが武術の本道であることを知らぬ者に武術を語る資格はありません。

目先の合理性しか求めない者に真の向上は望むべくもありません。武術の卓越性は、基礎基本の身体作りが極意に直結している点にこそ存在し得るのです。基礎基本に延々と取り組む時に、どれだけ誠心を込められるか? それが技の精錬度を決定していくのです。

もっとも、求める気持ちが薄く、ただ己の自己満足で武術を弄びたいだけの者にそれを期待するのは無駄というものでしょうから、そのような浅はかな者は游心流から去ってもらいたい。空しいけれども、それだけのことです。

唯一、筆頭師範代のKさんだけが体感覚的に私の運足法の要領を移し盗っていましたが、細かい説明をしていなかったので、最近、シダックスや有志稽古会(相模原市)での稽古中に、「あっ、もしかしてこういうことだったんですね?」と気づいてきつつあります。

だから、身体で体現できるようになった者にしか説明しても理解できない領域があるのです。疑問を口にする人に共通するのは、その人自身が“できていない”ということなのですが、武術の場合、自分の都合の良いように解釈したがる人が多いのは、残念ながら毎度のことのようです。謙虚に学ぶ心を失って魔境に迷い込んでいるのに、本人は無自覚で舞い上がってしまっている・・・。そんな哀しいヤツらを救い出せなかった自分の指導力不足を恥じ入るばかりです。

ですが、嘆いていても仕方がありません。人は人、私は私・・・。魔境に陥る者は最終的には自ら選択しているのです。それを救い出すという考え方もある意味で傲慢なのかも知れません。ただ、もしも、彼らがふと正気に目覚めて救いを求める刻が来たならば、思い出して欲しい・・・そう思って、私は厳しく叱責する言葉を書き残しておきたい。
「のぼせ上がるな! バカヤロー!」と・・・。

人生、楽しいことだけ求めてみても、残るのは空しい空虚感。人生、どう転んでみたって楽しいだけでは済まない苦悩がついて回るものです。だからこそ、精一杯頑張って、失敗し、挫折し、苦しい思いを乗り越えた者だけがつかみ取れる人生の本当の幸せがある。
 諦めた時こそ、人は呪縛から解放されて自由になれる。金儲けを諦めた私は、今、気持ちが平穏に復しつつあります。仕事に邪念は禁物ですね・・・。

これは、明かさないで欲しいと頼まれていたのですが、名前を伏せて紹介します。
 現在、私は刑務所に入っている人と師弟関係を結んでいます。その人は、手紙で質問をされてこられたのですが、文面から「これは、もしや?」とピンときたので、特に丁寧に答えて本も贈りました。
 すると、しばらく経過してから丁寧な礼状が送られてきて、実は若気の至りで罪をおかして刑務所にいるということを自分から告白してくれていたのです。

私は本当に読んでいて涙が溢れてどうしようもありませんでした。
 この人は、自分の素性を私に明かすためにどれくらい悩んだでしょうか? 軽蔑されて無視されることになるかもしれない恐怖と不安と戦い、それでも師事したいと思う私に真実を明かすのが礼儀だと勇気を振り絞って決心し、告白されたでしょう。現に、その葛藤についても率直に書かれています。

私は刑務所に入ったことはまだありませんから(何かの弾みで罪を犯してお世話にならないとも言い切れませんね。私は阿呆だから・・・)、彼の気持ちを本当に理解することなんかできません。
 けれども、少なくとも、彼が純粋に道を求める実直な青年であるという事実だけは確信できます。不幸にして罪を犯してしまった自身の過ちに向き合って、真摯に償おうとしている勇気のある人間に対して、信義をもって応じたい・・・と、柄にもなく私にそう思わせる程に、彼は真っ正直な人間なのが、文面から滲み出てきます。

私は、彼への返信に、“自惚れて陰口をたたくような弟子よりも、「私は罪を犯して罰を受けている人間です」と、勇気を持って告白した貴方のほうがずっと誇らしい”と書きました。

これは同時に、それだけの純粋な心を示してくれる相手に応えていくには、私自身も心を磨いて嘘の無い人間であらねばならないということでもあります。これは私自身に突き付けられた試練でもあるのかも知れません。

技を磨くのは容易いことです。しかし、技を駆使する肉体は心に支配されています。心を磨くのは並大抵のことではありません。弱い心は容易に邪念や慢心、欲望や作為にからめ捕られてしまいます。甘い考えの者は安易な生き方しか選べない。それが落とし穴だという点を安楽さが目隠ししてしまう。

武術修行は、本来、厳しさの中の楽しさを発見するものです。だから、心の修行にもなる。サークルのノリで技を弄ぶ態度は武術そのものを愚弄するに等しいのです。その場の享楽だけでは何の恩恵も得られません。ゲームを楽しむのとは全く別物なのです。技の修練の過程で考えるべきことが無数にあるのです。それを勘違いしている人が多過ぎるようです。

こんな卑小な団体なのに、毎度毎度、起こるトラブル・・・それは私を鍛えてくれる試練と納得するしかありませんが、魔境に陥っているのを自覚できずにガラスの目ン玉でヘラヘラと薄ら笑いを浮かべて勝ち誇ったツラを見せられる時、言いようのない虚無感に襲われる(何だか、マタンゴ食って笑ってる半キノコ人間みたい・・・ホラーだ!)。

作為は天意に及ばず・・・。佐原先生の言う通りだな〜。

人の心が崩壊する様子を、私は何度見たことか? コイツらは、何てぇ〜、心の弱々しい連中なんだろう。哀しいヤツらだな〜・・・。

あっ、そうか? 私が強過ぎるだけなのかも知れないな〜。さ〜て、今年の年末は久しぶりに郵便局で仕分けのバイトでもしようかな〜?

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2007/12/16 シダックスカルチャークラブ、日曜有志相模原本部稽古会始動!

10月から心気一転して相模原市を中心に本部活動をしていくことにした游心流ですが、まずはシダックス橋本駅前店カルチャークラブ『武術で護身術』の講座が土曜日に始まりました。

「僕は長野先生についていきます」と言ってくれたK師範代との最悪、二人だけの寂しい講座になるか?と思いきや、開けてビックリ! 会場が狭く感じるくらいの人数が集まって、まずは賑やかに開始することができました。

また、『武術のヒケツ』を読んで、体験してみたいと思って受講してくださった方達とは、新しい出会いで新鮮な感じがしました。その人でしか体験し得ない事柄について話を聞くのは楽しく興味深いものです。

所詮、武術なんてどれだけ腕前が上がっても実際に使う機会はほぼ無きに等しく、むしろ、使わないにこしたことはない訳なんですが、実力が上がるに従って、より慎重に謙虚に他人に気配りできる人の気持ちを察することのできる性格になっていくのが望ましい。

だから、善性の強い人が学ぶとより良くなるし、邪念を秘めた人が学ぶと人格が崩壊していく・・・というのが武術修行の特性としてどうもあるように思えるのです。

一般的に見受けられるのは、武術を学ぶ人は我が強くなる傾向があり、それが行き過ぎると、傲岸不遜に人を人とも思わない馬鹿者になり果ててしまう・・・という実例を腐るほど見てきました。私が一番、嫌いな人間は、自惚れ屋です。

さ〜て、そんな訳で、<新師範代>を金で雇ってまいりましたよ。こいつはメチャメチャ忠実で、私の悪口を陰で言ったりなんか絶対にしない! しかも毎晩、私の技の研究(体術・剣術・居合術・杖術等)に文句も言わずに遅くまで付き合ってくれます。重心がドッシリと落ちていて、静かに待ち構える姿の微塵も揺らがないところは流石です! しかも、人間離れした打たれ強さがあります。

私は、ここ一週間、彼と技の研究をしていて新しい技を次から次に考案してしまいましたよ。

シダックスでもその新研究成果を少し披露できましたし、日曜日の有志の稽古会では、組手に活用できるハンド・テクニックを中心に指導しました。これは、太気拳に形意拳、八卦掌、八極拳のエッセンスを加えて用法を抽出したものですが、特に間合の処理の仕方や角度攻撃と入身のやり方を手技に限定してやってみました。

これらは、初級対練の最初の三つの技を組手スタイルに応用させていくものでもありますが、応用変化のコツを知らないと難しいでしょう。差し手の手法には細かな秘訣が沢山あり、接触する箇所によって次の技の展開が全く変わってくるのです。その辺りの秘訣も今回は指導しました。

さて、次回の本部の日曜稽古会は、交叉法による蹴り技の使い方について指導していく予定ですが、これも初級対練の三つの蹴り技を活かして応用変化させるものです。今後は具体的な秘訣をどんどん教えていくつもりです。有志の参加を待っています!

PS;12月はシダックスがお休みになるので、久しぶりにセミナーを開催してみることにしました。一般向けの講習会が少なくなってしまったので、来年からは月イチで連続セミナーをやる予定でもいます。取り敢えず、12月16日(日)11:00〜14:00に、『武術の秘訣』で解説していた技法と理論に関して今年の総まとめとして、その後に研究が進んだ部分も併せて発表したいと思っています。場所はいつもの江古田ストアハウスの稽古場です。内容に関しては今煮詰めていますから近日発表します。御期待くださいませ! また、当日、セミナー後は忘年会を兼ねた懇親会をやりたいと思っております。久しぶりの方もいらしてください。

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2007/12/12 セミナー向け資料作成は疲れます・・・

いや〜、資料にイラストも付けようと思ったんですが、正確に描こうとするのは物凄い大変で、あまりにも疲れるので、途中でほうり出して、てきとーに線画で描きました。

これでも中学時代は美術は得意だったんですけどね〜。

絵は訓練していないと全然描けなくなりますね。細工して工作するのはずっとやってきてるからあんまり苦にならないんですけど、イラストがこんなに大変だとは思わなかったですよ。鉛筆無かったから下描き無しでいきなりボールペンで描こうとしたのも失敗。

やっぱり、私は二次元じゃなくて三次元が好きだからかな〜? アニメより実写特撮が好きだし・・・。

それにしても、あらためて思うのは本でイラストを描いてもらった漫画家の黒谷先生の技量ですね。写真より技の動きが判るのには驚きましたもん。

まあ、そんな訳で、一苦労して資料は作成しました。

受講しないと理解できない内容ではありますが、結構、秘伝的なことも書いてしまいましたから、受講される方は、くれぐれも横流ししないでくださいね。

今後は、見世物芸ではなくて戦闘理論に沿った実用技法を中心に指導していきたいと思っています。ハッタリだけでは空しいですからね。

とは言っても、セミナーとシダックスの講座は初心者にも優しい内容にするつもりですから、怖がらないでくださいね。いきなりスパーリングさせたりはしませんから。怪我されちゃ困るし・・・。

来年は毎月一回必ずやるつもりですが、テーマを絞って徹底解説指導を目指します。日本武道再生のために試合に応用できる技術も研究していますから、悩んでいる方にも来ていただきたいですね。

どうも、武術の技を実用的に研究しようとしている人って非常に少ないみたいなので、頑張らなきゃいけないという義務感を感じてきています。

受講申し込みされた方、16日は御期待ください。

PS;セミナー当日、発勁DVDも割引販売します。在庫切れの合気DVDも二つだけ発見しましたので、これも販売致します。もう入手不能ですから、この機会は逃さずに!

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2007/12/12 藤田和日郎は武術描写がリアルですよ〜

会員さんから貸してもらって、藤田和日郎(『うしおととら』が有名)の短編集『夜の歌』を読みました。

この中の一編『掌の歌』が、「半歩崩拳遍く天下を打つ」と称賛された形意拳の名手、郭雲深を描いた作品だというのを聞いていたからです。

で、ようやく読めたんですけれど、絵柄から、王樹金系統の形意拳の特徴がある三体式の構えだな〜?と思っていたら、参考文献で佐藤金兵衛師範の本の名前が書いてあり、なるほどな〜と思いました。

王樹金老師は、実戦的な中国武術を示すことのできる人物として選ばれて日本に招聘された台湾の内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌・大成拳)の達人でした。

中国武術の実戦性に疑問を持っていた日本の空手家、少林寺拳法家、古流柔術家、プロボクサー・・・等と立ち合って、内功の威力で一蹴してしまったことから、請われて中国武術の指導をしました。

だから、日本の中国武術団体の黎明期は、王樹金系統の内家拳が広まったのです。

佐藤金兵衛師範の全日本中国拳法連盟、地曳武峰師範の全日本柔拳連盟、笠尾恭二師範の楊柳会、桜公路一顱師範の大日本講武会、長江会、程聖龍練功国術舘、義誠国術館等、多くの団体が王樹金系の内家拳を修練しています。

他にも、王樹金系の内家拳を採り入れた易宗内家門の天才として知られた蘇東成老師の形意拳の三体式の構えも、確かに王樹金系統なのが判別できます。

どこが違うか?と言いますと、前手がボールを掴むように指の間が少し開かれ、後ろの腕は肘を外に張り出すようにして構えるからです。

他派の形意拳は後ろの腕の肘は腋下に軽く密着します。だから、この違いは明確な相違点として判別しやすいのです。

それにしても、藤田和日郎は伝統的な武術描写が上手いですね〜。『瞬撃の虚空』(というタイトルだったかな〜?)では、柳生心眼流を遣う老武術家が活躍し、『邪眼は月輪に飛ぶ』は、武術家じゃないけど盲目の老猟師が活躍する・・・。

何か、超人的な老人を主人公にしたりするところが渋いですね〜。実写映画化したりしないかな〜?

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2007/12/12 謝罪会見ブームですね〜

次から次に偽装が出てくる船場吉兆ですが、「謝罪会見する度に墓穴を掘るところが凄いな〜。デラックス過ぎるな〜」と、ここまで来ると感動してしまいますね。

ここまでヒドイ会見は初めて見ましたよ・・・。

答えに窮する息子に横から「頭が真っ白になったと言いなさい・・・」とかいちいち小声で指示するのが全部、筒抜けになっていたり、泣いて謝っているか?と思いきや、頭が上がると一瞬で普通の顔になる・・・この婆ちゃんは凄いっ! 天然でコントやってるみたい。

偽装の仕方も、徹底的にインチキやっていて迷いが無いんだから、パチモンのシャネルとか売ってるみたいな感覚でしょ? もう、笑っちゃうしかないですよ。

何か、ここまで恥知らずだと、亀田ファミリーや朝青龍が一本筋の通った立派な人達に思えてきちゃいますから、下を見たらキリがないですね。

はっきり言って、ここまで偽装する人達に改善を求めるのは無理。営業停止しかないでしょう? 直らないよ、コレ・・・。

ところで、年金問題で公約果たせずマスゾエさんが逆ギレで謝罪しないってのは、どうなんでしょうね〜? 理由はどうあれ、公約果たせなかったら、「申し訳ない」の一言はあってしかるべきじゃないんですかね〜?

「やり方は間違ってない」とか「ここまでひどいと思わなかった」と言ったって、期限までにできないなら、見込みを間違えたのは自分なんだから、どう考えても謝るのが筋だと思いますけどね〜?

マスゾエさんは、ちょっと傲慢過ぎるんじゃないでしょうか? 以前も、何か地方の市長に対して暴言を吐いていましたが、頭が良過ぎると他人が馬鹿に見えて仕方がないんでしょうね。

「俺が悪いんじゃない。俺の言う通りにやれない無能なやつらが悪いんだ」と、言いたげな態度は、何か問題が起こったら秘書の責任にして知らぬ存ぜぬを押し通す典型的なコスッからい政治家と何も変わりません。

そんな性格の上司に部下が信頼してついていくでしょうか?

本当に頭の良い人は自分の見せ方を心得ていると思うんですが・・・。

薬害の被害者の全員救済を決めあぐねて裏切り者呼ばわりされてしまった福田首相といい、見せかけだけの誠実さを駆使していたら、余計に不信感を助長すると思うんですよ。

それもこれも「選挙に勝つためには・・・」と、必ず出てくる言葉が大問題であって、そんな選挙のことばかり考えながらでは政治に身が入らないのは当たり前でしょう?

選挙に勝ちたいなら、まず第一に国民のことを考えないとダメでしょう? 野心を追求する姿勢を晒していちゃあダメですよね・・・。

・・・な〜んてことを書いていたら、橋下弁護士が前言撤回して大阪府知事選挙に立候補しましたね〜。これもビックリしたな〜?

あそこまで出ないときっぱり言っておきながら、一転して出馬を決めたという態度には危ういものを感じてしまいます。橋下弁護士は面白い人だとは思うけど、政治家としては一番、ダメなパターンをやっちゃったでしょ?

やはり、ここにも大阪府民のことよりも自身の野心を優先しているような計算を感じざるを得ない訳だし、そもそも、自民党にせよ民主党にせよ、「選挙に勝つには知名度の有る人をたてなきゃダメだ」という強迫観念に捕らわれ過ぎているんじゃないですか?

堂々と、「政治は素人の手におえるような甘いものじゃない。プロに任せてくれ」と主張して、具体的な政治戦略を提示すりゃあいいじゃないの?って思うんですけどね〜。

何で、大政党がズブの素人ばかり擁立するのか、さっぱり解りませんし、そもそも、国民も何で有名なだけで政治家としての力量が未知数の人に投票できるのか不思議です。

ちゃんと実力を見なきゃ〜ね〜・・・。

本当に、最近の日本人は物凄く目先のことしか見えなくなってきてる気がしますね。本質を観抜く力が急速に減退していっているような気がします。メディアに登場してれば第一人者なんだと単純に鵜呑みにしてしまう・・・。

私なんか、「有名人は名人にあらず」という考え方なんで、実力を確認するまで信用しませんけどね。

武道の世界を例にとると、「私は〜道〜段だ」と言われても、実際に技観て「あ〜、ダメだな」と思うことがざらにありますし、逆に段位なんか無いのに素晴らしい実力の人とか見たら憧れますよね。

本当に実力の有る人って、他人の評価を求めてなくて自分が納得したいだけだったりするんで、むしろ、メディアには出たがらないし、段位にも興味無いんですよ。

私の中国拳法の師匠は、私が初めて会った時は、それこそ全く無名な人で道場も構えていませんでしたから(今でも有名とは言えません。自分を売り込まない性格だから、周囲が神輿担ごうとしても乗らない)、実際に技を見るまでは習おうとか全然思ってなかったんですよ。

でも、実際に目の前で見たら、「えぇ〜? 何でこんな物凄い実力の持ち主が全くの無名なの?」って、不思議でしたし、もう是非とも教えてくださいって気持ちになっちゃいましたから・・・。あの時、弟子入りしなかったら、今の私はあり得ません・・・。

別に武道には限りません。ちょっとキャラがたった“いかにも・・・”って感じの人を第一人者だと単純に信じ込んでしまう。ちっとも中身を検討しない(できない?)。それが、今の日本に蔓延する近視眼的風潮なんじゃないかな〜?と思えてなりません。

日本にはプロフェッショナルがいなくなりつつあるのかな〜?

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2007/12/12 ダカーポ休刊は寂しいです・・・

武道や特撮、映画、銃、ナイフの専門雑誌くらいしか読まない私が、毎号、欠かさず購読している雑誌は、SPA!とダカーポの二つだけでした。

そのうち、ダカーポが休刊になると新聞の小さな記事で読んで、いささか寂しい思いをしていましたが、それがついに現実の最終号となりました。

620号だそうですが、26年も続いた雑誌が終わるというのは、本当に寂しく感じるものですね。連載執筆陣の皆さんもヒシヒシと感じているらしく、2,3号前から思いを吐露していた方もいらっしゃいました。

私も文章書きをメインの仕事にしている人間ではありますから、執筆者の皆さんの気持ちも少しは解ります。食いぶちが減るという現実的な問題もあるでしょうが、自分の考えを発表できる場が減るというのは物悲しいものですよ。

文章書くだけで生活できている人ってそんなに多くないでしょうし、私もまだ当面は無理でしょうね。武術以外のサブカル的な文章とか映画の批評とかも書きたいんですけど、今のところ、そういう文章の依頼が私に来る気配は無いし・・・(面白いの書く自信はあるんだけどな〜?)。

『サイボーグサラリーマン メカ・アフロくん』は、毎号楽しみに読んでいましたけれど、唐突な最終回は何だか幻魔大戦のベガが眠りについたみたいな感じで、花くまゆうさくさんの映画的センスを感じました。せめて、この漫画だけでも別の雑誌で蘇って欲しいですね〜。

最終号の特集は「今年最高の本」でした。残念ながら私の本は歯牙にもかけてもらえなかったけれど、武道ジャンル的には売れてるし、あっちこっちで「本読みましたよ〜」と言ってもらえるのが嬉しい。郷里のでかい本屋(ツタヤ)には、私の従姉妹(プロのフラメンコダンサー!)がプッシュしてくれたお陰で“地元出身の著者です”と紹介付きで置いていただいているそうで、ありがたや〜、ありがたや〜って感じです。

ダカーポの書評に採り上げてもらえるような本を書くのが目標だったのに、雑誌自体が無くなってしまうなんて・・・。

私の購読雑誌で残るのはSPA!だけですが、こちらは当分、安泰であることを祈るばかりです。

ダカーポ編集部及び執筆陣の皆様、長い間、御苦労様でした。一愛読者として御礼申し上げます。有り難うございました。

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2007/12/12 ブルブルマシーンは楽しいですよ〜

先日、師範代が買って私の部屋に置いている、乗っているだけで運動できるスポーツクラブで人気のあるブルブルマシーン“スリムシェイカー”が楽しいです。

師範代は仕事帰りにうちに寄ってブルブルして帰っています。

置き場所を提供している特権で私も使わせてもらっていますが、これは良いです。強さを上げなければ意外と静かだし、多少上げても洗濯機くらいかな?

私の部屋の下は倉庫に使われていて誰も住んでないから、下の階を気にする必要もありません。

ただ乗ってるだけで、姿勢を微調整することで振動の波が作用する箇所が違ってくるのも面白いし、特に骨盤が揺さぶられるのがうちの稽古理論にも適合しています。

スポーツクラブで人気が出るのも道理だと思いました。

もっとも、あまりやり過ぎたり、脳までシェイクされると危険なので、ほどほどが良いでしょう。ほどほどなら、ウォーキング同様に適度な脳への刺激で活性化に繋がる筈と思います。人類が脳機能を高めた理由が直立二足歩行であることは疑いないところですからね。

数年前に「高岡氏の“ゆる体操”や“軸タンブリング”をやり過ぎると脳に障害が出る恐れがあって危険だから、頭だけは絶対に激しくゆらしてはいけない」と当時のホームページで指摘しましたが、その後、怒涛の嫌がらせがあったり、「医者も問題ないと言っている」というシンパの人の意見があったりしたものの、当の高岡氏は『秘伝』の連載中で「頭部を激しくゆらさないでください」の注意書きを入れていました。

まあ、初期のビデオで実演している時は「脳みそもシェイク〜」なんて盛大に頭を揺すっていましたし、高岡氏の道場に通っていた人からは、「やっぱり危険性があったんですか? どうも、軸タンブリングをやった後に吐き気が起きたりしていたんですが・・・」と感想を言っていましたから、何を今更・・・という気もするんですが・・・。

本人が怪しかろうが金儲け主義だろうが、好んで行く人達を止めるつもりは私にはありませんし、ただ障害を起こす人が量産されなくて良かったですよ。私が会った高岡理論の実践者の中には障害が出かかっていると思われる人が多かったですから・・・。

無論、別に特別に高岡氏を批判したくて書いている訳ではありません。私のよくやっている震脚なんかも下手に真似すると脳震盪起こしたりする危険性があります。堅い地面を激しく蹴って走ったりすると、ショックが直接、脳に来てしまう。走るということは、その強いショックを無数に送り込むことになる訳ですから、言ってみれば脳みそ入りのパンチングボールを延々と殴りまくるようなものです。健康にいい訳ないっしょ?

だから、私がお勧めするのはウォーキング止まり。どうしても走って訓練したいなら、ショックを吸収する上等なスニーカーを履いて、なるべく土の上を選んで走ることです。

一番、マズイのは、夏の炎天下を車道横を革靴で走ることですね。廃ガスを吸って呼吸器には悪いし、アスファルトの堅さと日差しの照り返しで40度以上の熱を受けて走ればどうなるか? 突然死起こしても不思議じゃありません。

だから、このスリムシェイカーは安全に運動できるよう調節しながらできるのでスグレモノですね。治療院なんかに設置してもいいと思いますね。

さて、ボディプロテクターも、早速、稽古で使っていますが、打撃技を当てられないのがこれまでの游心流最大のジレンマでしたが、これでライトスパー程度の威力で打つ分には大丈夫になりました。特に肘打ちも練習できるようになったのは助かります。肘打ちは軽く当てても肋骨おれちゃいますからね〜。

ワンランク下の安いプロテクターにしようか?と迷ったんですが、厚味が倍くらい違っていたので、多少高くてもこっちにして良かったです。思い切り打つと勁力が浸透して危ないでしょうが、当てる感触を養成するにはこれで充分です。

これも具合が良いので、フェイスガードなんかも揃えてみようか?と思っています。

あっ、そうそう。実際に当てる練習をしてみたから判ったんですが、K師範代は私が予想していた以上の実力で、歩法と一体化したパンチを密着したままパパパパパパ・・・ッと連発でき、軽く打っても重い打撃が出せていて、ちょっと、私が想像していたより凄いことになってましたね。連発寸勁してもスピードと威力が少しも減らないし、むしろ加速しているのには唖然となりますよ。

彼は気持ちが優し過ぎて、いつも必要以上に遠慮してしまっていたので、他の会員は彼の実力を大したものではないと見誤っていた様子でしたが、ちょびっと本気を出しただけでこの高速発勁連打を出せるんですから、完全戦闘モードにしたら会員の誰も一発も出せないままぶっ潰されますね。確実に・・・。

最後に自由組手やらせてみたら良かったかな〜?と、あらためて思いましたが、それも自信満々になっている人間が、自分の方が絶対に上だと思って軽く見ていた相手に何もできずに一方的にぶっ潰されたら、もう武術なんかやめてしまうかも知れないし・・・。

武術修行の最大の敵は慢心、自惚れですよ。これは、洞察力を鈍らせてしまう。なまじっか才能が有ると、観念的に満足してしまって成長を邪魔してしまうから、愚直に努力する人間の方が絶対的に伸びるものです。

K師範代は元々、蹴りが好きだから、歩法と連動して蹴れるムエタイ式交叉蹴りを年内に特訓しておいて、色んな流派の戦闘法を教えて破り方をレクチャーすれば、最終兵器化完了ですね。

無論、稽古会に通っている人は急激に伸びてきています。防具付けて、多少、当てても大丈夫になったので、私も何か、ノリノリで技やってみせていたみたいです。ちょっと荒っぽくなりそうで自分が怖い〜・・・。

でも、ここまでなると、ちょっと武術でもやってみたいな・・・程度の気持ちの人は完全にOUTで、本気で腕を磨きたい人しか入会させられませんね。ある意味で他流派の破り方を稽古している訳だし、普通に武術をやりたい初心者は、セミナーとシダックスの講座までにしておいた方がいいでしょう。

最近、武侠小説読むようになって、中国武術の世界の内情なんかもちょっと理解できるようになってきましたけど、昔のカンフー映画なんかでも門派の対立と抗争とか、同じ一門でも裏切りと謀略とか、そんなのばっかりですもんね。

考えてみたら、日本の武術もそんな話が多い。技の秘伝が知りたいだけの人って、昔からいたんでしょう。

けれども、現代はインターネットの動画でもDVDでも世界中の武道・武術・格闘技の技が見られるでしょう? 本だって沢山出ていて、秘伝でも何でもほとんど公開されていますよ。

この環境は技の見取り稽古に関しては夢のようなものですよ。表に出てないだけで私程度に研究している人はいくらでもいるんじゃないですかね〜? そう考えると自惚れられる人達って、本当にうらやましいですよ。

とにかく、研究家と名乗っている以上、一日も無駄にできない。常に研鑽していかなければ、すぐに時代遅れになって取り残されてしまうでしょう。

古い会員さんが、システマとカリのDVDを送ってくれたり、私の研究をサポートしてくれる人達のお陰であることをしっかり認識し、頑張って期待を裏切らないように心してやっていきたいと思っています。

期待してもらえるというのは本当に感謝しなきゃいけないことですよね。期待してるから厳しい意見を言ってくれる人がいる。だから、そんな人は裏切らないようにしなきゃいけないと思っています。

ただ・・・「お前は人のことが言えるのか? 何様のつもりなの?」って言いたくなるような立場を弁えない人が増えているような気もしますけどね〜。

例えば、やたら聞くんですけど、彼女や嫁さんをグーで殴る男って、私には信じられませんけどね〜。自分より弱い人間に暴力ふるう男って、私が10代の頃は物凄く軽蔑されたものですが、今は普通にいるみたい・・・。

まあ、男じゃないけど、5〜6年前に静岡に教えに行く新幹線が混んでいたのでの連結部のドアのところで立っていたんですが、反対側にいた若いお母さんが小さい子供を無言で何度も何度も叩いていたので、「こらっ、いい加減にやめんかっ!」と、叱りつけたら文句言いたそうな顔で睨んだので、“ぶっ殺すぞモード”で睨み返したら、泡食って逃げて行きましたけど、圧倒的に弱い相手に暴力ふるう人間って、自制心が弱過ぎですよ。

そんな脆弱な精神の人間を「心が病んでいるからです」って甘やかしてみたって治る訳ないっちゅうんですよ。滝行させるとか離れ島でサバイバルさせるとか、そういうことやった方がいいんじゃないですかね〜?

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2007/12/12 猟銃暴発事件の真相に愕然!

猟銃暴発事件の詳細が判ってきて、私はあまりのことに愕然となりました。

子供が触って暴発したと言うのは本当らしく、つまり、引き金を引けば発射できる状態で放置していた訳です。

何と、ライフル銃の薬室に弾丸が装填されたまま忘れていたと言うのですから、この父親は銃を持つ資格なんか無いと言わざるを得ません。

いくらなんでも、ここまで馬鹿だったとは予想もつきませんでした・・・。

確かに、5歳の子供が数kgもある銃を構えて発射するというのは考えにくいことですから、おかしいな〜とは思っていましたが、まさか、薬室に装填した弾丸を抜き取るのを忘れてそのままにしていたなんて、銃砲所持のライセンスを持っている人間とは思えない素人以下のミスです。

仮に子供が触れなくとも、そんな状態で軽い気持ちで引き金に指を掛けてしまったら確実に暴発してしまう訳ですし、手入れしている最中に父親が暴発させた可能性も低くありません。

しかし、本当に不幸な事件でした。お悔やみ申します。

もし、海外に旅行して射撃を楽しみたいと思っている人がいたら、以下の点を、最低限、肝に銘じていてください。

1,弾が入っているいないにかかわらず、銃口は絶対に人に向けない。
(ハワイに新婚旅行したカップルが、回転式の44マグナム拳銃を「一発抜いてある」と係員から言われて渡された夫が、最初の一発が出ないものと勘違いして、フザケテ奥さんに向けて引き金を引いたら、回転弾倉が回って次弾が発射され、奥さんの頭はザクロのように弾け飛んでしまった・・・という事件があったそうです。回転式拳銃は、万が一の安全のために撃鉄が当たる位置の穴には弾丸を込めない習慣があり、係員はそのことを言った訳です。当然、引き金を引けば弾倉が回転して弾は発射できる。銃のメカニズムに無知な日本人にありがちなミスですが、殺傷能力のある武器をフザケテ人に向ける神経がおかしいのです。そう言えば、甲野氏も真剣をすぐに人に突き付けてみせる悪癖がありますが、直弟子との稽古以外でそれをやっちゃあ犯罪ですよ)

2,銃口を決して覗かない。
(粗悪な弾丸を使って引き金を引いても発射できず、不発と思ってうっかり銃口を覗いてみたら弾丸が遅れて発射されて死亡した事例があります)

3,射撃場では、どれだけ自分の知識に自信があっても、係員の指示に従う。
(海外で射撃をしたがる日本人の半数以上がGunマニアと考えられますが、マニアは自分の知識に自信があるので、知ったかぶりしたがるものです。そういう人が事故を起こす確率の方が統計的に高いそうです)

4,射撃時はイヤープロテクターとゴーグル(シューティンググラス)を必ず装着する。
(これも面倒臭がってしない人がいるそうですが、銃には故障する可能性もありますから、ゴーグルを付けていないと破片で失明する危険性もあります。そうでなくとも、発射ガスの吹き戻しや弾丸の削れた細かい鉛カスなんかが飛んでくるので普通に目が痛みます。それと、意外と耳にダメージがあるので、イヤープロテクターも装着しておいた方がいいですよ。「慣れた」と思っていると難聴になっているだけだったりするので・・・)

5,射撃を楽しんだ後は、必ず弾丸を抜き、薬室が空であるのを確認する。
(これを怠ったのが今回の暴発事件の最大の原因です! 回転式拳銃なら回転弾倉を横に開いて置く。半自動式なら弾倉を抜き取りスライドを開いて薬室が空なのを確認できるようにして置く。ボルトアクションライフルならボルトを引いて薬室を確認できるようにする・・・これが基本的なマナーです)

それから、日本の法律では実際に銃砲を所持している人の場合、ガンロッカーに銃を入れて保管し、弾丸は別々に保管するように義務付けられています。今回の事件は結果的にこれも怠っていたことになりますね。

何事も基本が大切ということです。

PS;そう言えば、「“書泉忘るべからず”って何ですか?」という質問を受けたんですが、これはですね〜。私が貧乏な頃に機関誌やビデオを作ってチマチマと売って稼いでいたんですが、その売り場所として神保町の書泉グランデに大変にお世話になってきた訳ですよ。今も発勁DVDを売っていただいていますから、時々、営業回りで行っているんですが、これは私が売れっ子になっても続けていくつもりです。だから、初心忘るべからずをもじって、“書泉忘るべからず”と言っている訳ですね。世の中は人と人が支え合って成り立っているんだな〜と、つくづく思いますよね。自分の才能や力だけでやってきているんだと考えるのは間違いなんですよ。

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2007/12/10 ニュース報道に正確さを期待するのは無理?

過日、日本刀の長さを表す“刃渡り”と、握りの部分の長さを含めた全長を取り違えた報道の問題点について書きましたが、またもや、報道の大間違いに耳を疑ってしまいました。

「酔って猟銃で隣家に押し入り射殺」という事件と、「ライフル銃の暴発で幼児が死亡」という事件が同日に起こった・・・というニュース報道がありました。

前者は、『八ツ墓村』の元ネタにもなった有名な津山事件を連想させる事件ですが、酔っ払った揚げ句の突発的な事件だったみたいです。

問題は、後者の“ライフル銃の暴発”の報道です。

これは、父親が銃の手入れをしていて少し部屋を出た時に、5歳と2歳の息子が銃で遊んで暴発させてしまって2歳の子供に当たってしまった・・・というものでした。

ところが、「クレー射撃に使うライフル銃で・・・」と言うので、私は「えぇ〜?」と、絶句してしまったのです。

クレー射撃というスポーツ競技に用いる銃は、原則として“散弾銃”、それも上下に二本の銃身が並んでいる上下二連式か、あるいは発射ガスの圧力を利用して次弾の自動排莢装填をする仕組みのガスオート式(競技用は大抵、三連発式)が用いられます。

この散弾銃というのは、小さな円球状のバラ弾が100〜300くらい薬莢に詰まっていて、このバラ弾が散開しながら発射される銃なのです。英語で言うと、“ショットガン”と言います。

ショットガンは、西部劇にもよく出てきますが、射撃の下手な老人や婦人が無法者に向けて威嚇すると、無法者が「ショットガンだぞ。やべぇ〜」と青くなって逃げ出したりする演出があったりして、一度に無数の弾丸が飛び出すショットガンが開発された当時にいかに恐れられていたかが判ります。

ちなみにショットガンはアメリカの暴徒鎮圧用銃(ライアットガン)として珍重されていて、パトカーの運転席横に装備されているのが色々な映画でよく見かけます。ライアットガンに用いられるショットガンは、大きめの円球弾が9〜11発入っているパンチ力を重視した弾薬を用いているそうです。このバラ弾のツブが大きい方が威力は高く、ツブが小さい物は鳥撃ち用だったりしていて、中には拳銃用のショットシェルなんてものも発売されていますが、何と、その用途は、アメリカ西部の砂漠地帯によく出るガラガラ蛇退治用なんだそうです・・・。

映画では、バイオレンスの巨匠として知られるサム・ペキンパー監督作でスチーブ・マックィーンが主演した『ゲッタウェイ』で、ショットガンの威力が印象的に表現されていました。

外見上はライフル銃と似ているので、機構を知らない人は区別がつかない場合も多いですけれど、ライフル銃の語源ともなっている銃身内部に弾丸に回転を与えるために数条刻まれている螺旋状の溝“ライフル(ライフリング)”が、ショットガンにはありません。

どうしてか?と言いますと、沢山のバラ弾が銃腔の中を超高速で滑っていく時に、ライフルの溝が邪魔になり、擦り削ってしまうからです。これでは、ライフルが疵だらけになってしまうし、そもそもショットガンは一発の弾丸を正確に遠くへ飛ばすのが狙いではなく、それほど離れていない目標に同時に無数の弾を浴びせるために考案された銃なので、銃腔はスムーズボアと呼ばれるツルツルの状態なのです。

ですから、ショットガンをライフル銃と間違うと、とんでもない話になってしまうのです。第一、ライフルの無いライフル銃なんて、おかしいでしょう?

“猟銃”というのは、狩猟に用いる銃という意味ですが、日本で認められている狩猟用の猟銃には、スプリング式エアライフル、ポンプ式エアライフル、炭酸ガス式ガスライフルという火薬を用いないもの。そして、上下二連式ショットガン、水平二連式ショットガン、ガスオート式ショットガンという散弾銃(ショットガン)が主に用いられています。それから、上級者(ショットガンの免許所得が10年以上経過してライフル銃免許を所得した者)は、狩猟用のボルトアクション式ハンティング・ライフルを用いますが、ライフル銃は威力が大きいので、日本では猪や鹿、熊撃ちに用いられます。

日本では上級者しか持てないライフル銃へ憧れる人に向けて、ライフル銃で散弾が撃てるように改造する会社もあるくらいで、ボルトアクションや西部劇風のレバーアクションのショットガンなんかも製造販売されています。

また、特に猟銃用に開発されたものですが、ショットガンで猪や鹿、熊を仕留められる威力を出せるように、ライフルド・スラッグ弾(一発弾)というものもあります。

ショットガンの銃身には溝が刻まれていないので、弾丸の方に螺旋状の刻み目を入れて回転するように工夫されたものです。ショットガンの薬莢は元々、かなり大き目のものですから、ライフルド・スラッグ弾は弾頭重量がかなり重く、ライフル銃のような遠くまで正確に狙い撃つのは無理ですが、そんなに遠くなければ充分に熊撃ちにも使えます。

ライフル銃の操作は弾丸を薬室(銃身の基部)に装填するためにボルトを操作しなければならないので、5歳の児童には扱うのは無理がありますし、手入れしている最中に実弾を薬室に装填して引き金を引けば発射できるようにして放置するなんて考えられません。

何しろ、ライフル銃の所持は日本では相当に難しく、免許所得も車の免許みたいにはいかない。射撃場や猟場以外に家の中で実弾を発射可能な状態にするなんて考えられない凡ミスということになります。

しかし、報道では「クレー射撃に使う」と言っているので、これは明らかにショットガンです。上下二連式ショットガンなら弾丸を込めて中折れしている銃身を戻せば撃てますから、手入れするために銃身が折れて薬室が開いた状態で放置されていたとすれば、そこに子供が自分で薬莢を差し込んで銃身を戻して引き金を引いた可能性はあり得る。

けれども、四丁も手入れしていたというからには、手入れの基本ができていない筈もありません。銃の手入れをするのに弾薬を近くに置く必要は無い。小さい子供がいる家庭で、こんな杜撰な管理をする者に銃を持つ資格は無いと言うしかありません。

5歳の子供に責任を問える筈もありません。殺傷能力のある道具を子供の手の届くところに放置する親の意識の甘さに、何ともやるせなさを感じます。

そういえば、昔、『西部警察』の特番か何かで、渡さんと舘さんが銃器の専門家と一緒にTVに出ていて、渡さんがテーブルに並べられたモデルガンを持った時に引き金に指を掛けたまま銃口を専門家の方向へ無意識に向けてしまった時、その専門家は僅かにしかめっ顔をしたまま無言でさりげなく銃口を指先で逸らしていましたけれど、渡さんは意味が判らなかったみたいでした。

やっぱり、モデルガンだから・・・という気安い気持ちでいるのと、銃の形をしている物に対する徹底して管理する意識が有る人との違いがそこに出ていたと思いましたね。

あ〜、それにしても、ライフルとショットガンを間違って報道する程、日本のニュース報道がいい加減だったとは、流石に“痛かった”ですよ・・・。

『蘇る金狼』の松田優作みたいに、「無知だねぇ〜・・・いいかい? 弾ってやつはね〜、一番抵抗の少ないところを抜ける性質があるんだ。この距離でその種類の銃をぶっ放せば、弾丸は俺の身体を貫通して、アンタに当たるんだよ。しかも、俺の身体を貫通する時は弾の潰れは酷くないから助かる可能性があるが、アンタに当たる時は弾の潰れが酷いからまず助からない。試してみるか?・・・」な〜んて、言いたくなっちゃいますよ・・・

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2007/12/10 <脱力技法>のカラクリ

毎度、甲野氏ネタで恐縮ですが、ムック本に付属していたDVDに収録されている平直行さんとの対談時の技の解説が素晴らしくデラックスだったので、今日は、<脱力技法>について書いてみます。

何が素晴らしくデラックスだったのか?と言いますと、甲野氏が技(浪之上とか言ってるヤツ)の解説をしている時に、「単なる脱力でもダメで・・・」と言いながら、その“単なる脱力”で技をかけていたから、「ハァァ〜?」と、思わず口アングリして失笑してしまったのです・・・。

まったく、このオィチャンは、どうしてこんなに説明と実技が一致しないのでしょうかね〜? 大袈裟にも程があるし、何を言いたいのかサッパリ解らないし・・・何で、あんなに持て囃されて達人扱いされるのか、私には皆目、理解できません。

ホントに誰も気づかないの? ツッコミ入れてるのひょっとしてオレだけ? 嘘でしょう? だって〜、あれって合気道の基礎的な技ですよ? しかもスンゴイ下手だし〜。同じ合気会の山口清吾先生の弟子でも、佐原先生はもっとスルッと軽くやっていらしたし、甲野氏が鹿島神流を習ったという野口先生の技も拝見しましたが、雲泥の差ですよ。

いや、比べるのがそもそも失礼なんじゃないか?とも思いますね。それほどまでに甲野氏の技は基礎基本の段階が水準に到達しないまま独自の理論に走って変質していったように私には見えます。

日本人って、雰囲気に騙されやすいのかも知れませんね。甲野氏のいかにも優しげで実直そうな雰囲気とか、『「我あるが故に敵あり。我なければ敵なし」“対抗心”という名の意識が消え、自らの中の“詰まり”がなくなったとき、掴まれているという感覚すら希薄なまま、相手は崩されてゆく。』とか、『拘りから解放されたとき、手がほころび、体がほころぶ。』とかいった哲学チックなポエム表現に弱い。

よく読解してみてください。意味不明ですよ。“ほころび”って、漢字で書くと“綻び”と書きますけど、物が少しずつ壊れていくという意味ですよ。「理論が破綻していることの比喩なのか? 決死の自虐ギャグ?」と、一瞬、思いました。

破顔して笑うという意味から連想したそうですが、普通に「リラックスして力を抜けばいいんですよ」と説明したら誰だって理解できるし、その一言が技の根本原理なのに。

でも、私が通っていた頃、彼はこんなことを言っていました・・・。

「一流の詐欺師は99パーセント、本当のことを言い、最後の1パーセントだけ嘘を言うものだ」・・・う〜ん、含蓄があるな〜。「俺は詐欺師としても一流だぞ」って、自慢したかったのかな〜?

平さんも何か「カッコイイですね〜」なんて感想を言われていましたが、もう、ダメなの気づいてて、面白がってたんだと思いますよ。言われた甲野氏はメッチャ嬉しそうにしていましたが、「おいおい、今の完全に皮肉じゃ〜ん。気付けよ〜」と、ツッコミを入れてしまいました。

いや〜、DVDで久々に動いているところを見ましたけど、フルスロットルでダメダメな方向に加速してカッ飛んでますね〜。一体、何がやりたいのか見当もつきませんけれど、「まっ、面白いから別にいいか? ここまで来たら、どんどん意味無し演芸路線を突っ走ってくれた方が楽しいかも知れない?」と、大人な気分で鑑賞できました。

その方が、私もブログのツッコミ・ネタにも困らないし・・・。

・・・ってな訳で、気分が乗ってきたので、タネ明かし解説しま〜すっ!

まず、脱力(筋肉を緊張させない)で、何故、力一杯抑えつけている人のパワーを撥ね除けて体勢まで崩すことができるのか?ということですけどね。

力が働く(作用する)というのは、力が加わる反対方向から反発があるから、作用反作用の法則が生じて力が働く・・・という仕組みです。

頑丈な壁を力一杯押す・・・これが力が働いている状態。

でも、頑丈な壁だと思って同じだけの力で押したところ、実は壁に見せかけた発泡スチロールの薄い板で、あっさり突き抜けてバッタリ倒れてしまった・・・これが、<脱力技法>の基本的な原理なんですね。

要は、同じだけ自分が力を出して押していても、対象が同程度に反発してこなければ、出した力が作用しないので無駄になってしまう。その無駄になった分の押そうとするエネルギーに引っ張られて、身体のバランスが崩れてしまった・・・という仕組み。

甲野氏の腕を掴んだ平さんは、「掴んでいる感じがしませんね」と感想を言っていますが、この“掴んでいるのに掴んでいる感じがしない”のは、筋肉が緊張して手の内で反発する感触が無いからであって、つまり、“単純に脱力しているから”なんですね。

つまり、力が反発しないようにして、掴んで抑えようとぐっと力を込めてくるのに対して掴まれている前腕の筋肉を緊張させないように脱力させる。脱力させているからこそ、細かく指を動かせたりもする。何一つ、不思議なことは無いのです。

私が最初に脱力技法のコツを教わった古流柔術を研究していたIさんは、「甲野先生の腕はヌイグルミを掴んでいるみたいな感触で・・・」と表現していましたが、今思えば、実に的確な表現だったと思います。

ですが、注意すべきなのは、脱力は誰だってできるということです。単にダラッと寝るように力を抜くだけなんだから、できない人はいない。武道を長年やっていたり力仕事をやっている人は、ついつい力む癖があるので苦手ではありますが、できないということはありません。現に、病気で寝込んだり、酔っ払っていたりすると、この種の技は効きが良くなりますが、爺さんになっても異常に強い武術家の秘密が、コレなのです。

うちのセミナーに参加したズブの素人でも即座に演芸技ができるようになる秘密がこれなんですけれど、納得いかれますか? 訓練して蓄積された技量とは別に、単なるコツを知るだけで劇的成果を得られるところが武術の面白いところです。

脱力技法の便利なところは、単に脱力して相手の力に抵抗しないまま、ほんの少しベクトルを外せばいい。相手が複数(5〜6人に抑えられても)でも、指だけ持ってもらっても、脱力して相手の加えてくる力のベクトルをほんの少しずらすだけで相手の重心バランスを崩せるという基本的な原理さえ感触で解れば、少しも難しくはないのです。

自分で体得しても半信半疑なくらい劇的なので、そりゃあ、勘違いする人も出ますよ。

技量の問題ではなく感覚の問題だから、素人がいきなり達人レベルの技を体得できてしまう訳です。無論、それだけできても攻防の技術を体得していないとやられてしまうでしょうし、だから、武術では上位の者にしか教えないんですが・・・。

ところで、ある程度以上に筋肉に力を込めるのは誰にでもできるものじゃない。ベンチプレスで自分の体重の重さを持ち上げられる人は中々いないでしょう? 筋肉の収縮力は個人差が大きいのです。しかも、疲れる。ただ立っているのだって何時間もできるものじゃないでしょう?

でも、リラックスして寝るのなら何時間でも大丈夫。それだけ脱力する方が生理的に自然な状態だという訳です。

さて、甲野氏がやって見せている“浪之上”ですが、これは、相手に自分の片手前腕を両手でしっかり掴んで抑えてもらう点がミソです。つまり、ガッチリと力を一点に集中してもらうことによって、脱力して力が働かないようにしておき、その状態のまま、抑えて集中している力のベクトル(抑えようとする力を働かせようとしている方向)をほんのちょっとずらしてしまえば、アレッ?と思うくらい簡単に返すことができます。

これは、油でヌルヌルのボーリングのボールを床に押し付けるようなもので、力一杯押し付ければ押し付ける程、ツルッと滑ってバランスを崩してしまうという仕組みです。

ムック本の記事読んでて頭痛がしてくるのは、「真っ向から斬り下ろしてくる刀を躱し、遠間から突きを出し、タックルを潰したこれらの技は、相手が百戦錬磨の格闘家である平氏であっても、まるで当たり前のようにかかっていく」なんて書いてあるところでした。

まるで、超人的な武術の達人に天才格闘家さえもが抗う術なく翻弄されているかのごとく印象付けられていますが・・・。

私が見る限り、写真を見てもDVDを見ても、平さんは少しも本気で攻撃していませんでした。ただ、素直に受けてるだけで反撃する気も本気で抵抗する気も感じられない。掛かるのが当たり前ですよ。掛かってあげてるんだから・・・。

私見する限り、平さんとしては、初めて体験する甲野氏の技の仕組みを確認するために、甲野氏の示す技に逆らわずに受けて観察している様子がうかがえるのです。既に中国武術も相応に学んでこられている平さんにとって、未知の術技への純粋な探究心を満たす良い機会だと考えられていたのではないでしょうか?

だから、私は憤りを感じたんですよ。このムック本の編集サイドに、最初から平さんをダシに使って甲野氏の達人っぷりを演出しようという意図がミエミエで、物凄く邪まな意図を感じて不愉快だったのです。

こういう採り上げ方というのは、平さんに対しても読者に対しても不誠実極まりないでしょう。宣伝戦略としての安直な煽り文句は止めて、事実を客観的に書くと共に、率直な感想を添える方が、ずっと読者に心意気が伝わると思うのです。是非、考えて欲しい。

さてさて、余談は止めてと・・・、ムック本の写真やDVDの映像で見ると、甲野氏は掴まれている前腕の位置は動かさないで、身体(胴体)の向きを変えて腰(重心)を充分落として、全身を協調させて下から脚力で伸び上がって回すように腕を振り上げていますが、こんなに大袈裟にしないとベクトルをずらせないのは不可解でした。

平さんは普通に抑えてくれてるんだから、もっと簡単にできる筈だし(あの抑え方ならば素人に教えても簡単にできるでしょう)、または、あの状態だったら、無理に上に崩すより斜め下に引き崩すようにした方がずっと簡単な筈なんですが、甲野氏は相手の状態(力の強弱、姿勢、重心位置等々)を全く無視していきなり技を掛けようとしている。

『「やらなければ」という拘りから心と体が解き放たれたとき、体中が一斉に働き出して、どこにも障りのない、合理的で生き生きとした動きが生まれるのだという。』って、甲野氏の意味不明の解説をそのまま紹介していますが、そんな大袈裟なものじゃなくて、掴まれていることを意識しないで、ただ脱力して円を描くように腕を振り上げれば簡単にできるんですけどね〜。

『人体というあまりにも複雑で理解不能な装置を、理解しないまま使いこなす方法』ってのも、何が言いたいのかさっぱり解りませんけど、私が見る限り、非常に単純なことしかやってませんね。

遠間からの突き(伝統空手よりずっと近いよ)とか防御不能の打ち(相手が反応しないように脱力したまま打ってるだけ)とか剣尖を躱す(足で踏ん張らないで胴体を捻って躱せば、自動的に足はついて来ます)とか、20年前と変わらないし、およそ実用性がない見世芸にしかなっていません。相手が本気で攻撃したら全部無効です。

何か、相手が反応する前にバッて動いて見せてるだけだし、私がコツ教えたら大抵の人がすぐできると思います。

甲野氏のやり方だと、人によって掛かる掛からないに大差が出てしまうでしょう。状況設定した中でのパターン化した技の掛け方しか稽古しないから、あんな具合になるのかも知れませんが、あれでは何十回も惨敗する筈です・・・。

極めて近い間合で、相手から視線を外したままで悠長に技を掛けている余裕はないのです。「今、スキだらけですから、頭突きしていいですよ〜」って言うようなものです。

まともな合気道の先生だったら、あんなおかしな技の掛け方はしないでしょうし、あれが達人の技だとすれば、システマなんかは超絶神技ですよ。比較するのも馬鹿らしい。

甲野氏の見世物演芸が武術だと思われるのは、恥ずかし過ぎます・・・。

脱力技法の特徴は、「相手の力がこちらに働かない状態にする」というのが根本的な点であって、これは、合気技法の中でも基本的なやり方の一つです。ただし、全体ではないので勘違いしないでくださいね。武術はそんなに安易じゃありません。一つの極意で万能に通じると考えるのは現実に戦ったことの無い人だけです。

脱力技法では、それと同時に、合気や化勁のように「相手の加えてくる力のベクトルをずらして逆転する」か、あるいは、発勁のように「重心を一点に集中して打ち込む」かするのが武術としての実用技法の基本パターンとなります。

もちろん、実際に遣うにはこれらを複合して闘っている最中に用いる訳ですから、単純なやり方では通用しないのが普通です。一発勝負で用いるには相手が攻撃しようとする寸前の先の先で入るしか成功は期待できないでしょう。乱戦の状態で技を綺麗に極めるのは絶望的に難しいと心得ておく必要があります。

甲野氏の演じている技に共通するのは、相手に“受けさせる”という点で、相手が自由に攻撃してくる場合に制圧するやり方の工夫が決定的に足りません。これでは武術として何の役にも立たない。ろくに攻撃しないで黙って受けてくれる人なんかいないんですから、状況設定に現実味が無い。だから、甲野氏がまともに手合わせすれば手もなく捻り倒されてしまったり、一方的にボコボコに打ちまくられてしまう訳です。

「いい加減に気づけよ!」の一言です。

つまり、一生懸命弱くなる稽古をしている訳です。少なくとも、立ち止まっている相手に一方的に技を掛けるような無意味な練習は逆効果にしかなりません。

老婆心で申し上げますが、介護やスポーツに役立てたいと思って甲野氏の技や理論を学ぶことは否定しません。介護の専門家から疑問の声も聞きますが、それはその人が介護の業界で「あれはおかしい。危ないやり方だ」と指摘しなければならないことでしょう。

ですが、甲野氏の技や理論を武道や格闘技の向上に役立てようと考えるのは止めた方がいいでしょう。彼の稽古理論には一貫性が欠けています。良い部分もあるけれども、思いつきでやっているだけなので稽古法に上達のための理論構造が無い。

そして、もっと致命的なのは、勝負理論が全く無いことです。戦闘理論は各武道、格闘技の試合ルールによって変わってくるものですが、勝負理論は一つしかありません。「相手の技を無効にして自分の技を確実に極める」というのが普遍の法則であり、その法則から導き出されたのが“先”“読み”“合わせ(外し)”等の理合です。

これらの理合の配合の割合によって、各流儀独自の戦闘理論が構築されていると考えてもらえば、大局的にスッキリ理解できるのではないでしょうか? 私が流儀の優劣はあり得ないというのも、こういう観点から導き出した結論なのであって、決して感性レベルで言っているのではないのです。

古武術の型稽古は、約束組手の形式で何年も稽古した後で口伝を受けて応用変化する稽古に入ります。更にそこから自由組手(乱取り)もやったりする訳です。が、それらは上達理論から勝負理論までを通底していなければ意味がありません。

だから、最初の約束組手形式の稽古だけしかやっていないと、実際に自由攻防をやると遣えないという訳なのですが、これは強い弱いの問題じゃなくて稽古法に当然にして内蔵されているべき勝負理論(うちの場合は交叉法と読み、歩法等を用いる)が欠けている訳ですね。だったら、欠けているものを埋めてやれば遣えるようになる筈です。

でも、甲野氏の理論には最初から最後まで勝負理論が無いのです。稽古のための稽古に終始している。だから、まともに闘えば“ほころび”を露呈する。当たり前ですね。

その真相をめくらましするために、限定された条件下で相手に抵抗させたり力一杯抑えさせたりするのも甲野氏の特徴です。が、それらがあくまでも“限定された条件下での約束組手である”という点を弁えていないと、まんまと術中にはまって「流石は達人だ!」と誤解させられてしまう訳ですね。

ただ、古武術のかなりの流派が、甲野氏と同じ誤りを犯している現状もあるかも知れません。型稽古の形式だけしか継承していない流派だと、実用化の方法論が欠落していたりする。だから、現代武道や格闘技に太刀打ちできる人が極端に少ないのもまた事実なのです。それはもう、物悲しい程に、勝てないでしょう。それが故に、逆に「真剣勝負ならば負けない」という頑迷な言い訳を固定させてしまう訳です。

問題は簡単には解決できません。武術の勝負理論を理解している人が極めて少ないのが問題なのであり、それを再構築する研究が何よりも必要です。

脱力技法だって、仕組みが解れば破る方法はある訳で、攻撃する側が力を一点集中させずにじわじわとゆっくり攻めていったり、脱力には脱力で対抗する戦法を用いれば、技術そのものは破れる訳です。私自身も、合気の遣い手にこの戦法を遣って技を封じたりしたこともある。完璧なやり方なんか無いんですよ。ジャンケンみたいなもので、強い弱いでしか考えられないのでは武術・武道・格闘技の世界は発展しませんよ。

中途半端な脱力技法ならば、脱力できないところを固定して打てば潰せる。筋肉は脱力できても骨はグニャグニャ曲がらないですよね。だから、普通に関節を破壊したり頭部をガンガン打てばいい・・・ということになります。時々、合気技が掛からない人もいますが、その場合、普通の関節技にチェンジしたりしています。

さてさて・・・甲野氏があんまりダメだダメだと言ってると、単に中傷したいだけだと誤解されてもシャクにさわるので、少し誉めておきましょうか?

まず、脚で床を蹴らずに膝カックンの要領で重心を浮かして胴体から動いて躱す体捌きなんかは、お見事です。体内の重心移動を早くすれば加速度的にスピードが出せるので、これは武術的応用性の高い身体操作です。私はこれを歩法と体捌き、発勁等に応用して使っています。

が、これは、ちょっと真似したくらいでは中々できないでしょう。と言うのも、下手なやり方では膝を故障する可能性があるからです。膝を壊さずに稽古するには、丹田歩法がお薦めです。

また、手裏剣も進展しているみたいですね。あの不安定な手の内で打つのは相当に稽古して沈身のエネルギーを剣に乗せる感覚を養成しないと無理でしょう。甲野氏も手裏剣だけでも並以上にできる武術があって、良かったですね・・・(って、皮肉じゃん?)。

さてさて、それでは、御参考までに、<脱力技法>を主体としている流儀について思いつくまま書いてみましょう。

『太極拳』
 太極拳は別名、綿拳と呼ばれるくらいで脱力が基本中の基本です。瞬間的な剛体化を用いる陳式以外は柔一色の化勁を旨とし、楊式・呉式・孫式・武式・鄭式等の多くの門派や套路(型)があります。日本では、王樹金が伝えた99式太極拳と、簡化24式太極拳をベースとした楊名時太極拳が多く愛好されています。

『八卦掌』
 八卦掌も、程派、尹派、宮派、馬貴派、梁派、劉派等があります。

『形意拳』
 形意拳の場合は、やや硬い動きをする人が多いのですが、内家柔拳の一つに数えられるくらいなので、柔軟な脱力技法を用いる派も少なくありません。

『通背拳』『翻子拳』『劈掛掌』
 この三つの派は鞭のように腕を脱力して打つのが特徴です。

『六合蟷螂拳』
 硬い動きをする蟷螂拳の中でも、この派だけは内家柔拳の理論が組合わさっています。

『酔八仙拳』
 一説に酔拳は門派名ではなく、脱力技法が特徴の套路名なのだとか。よって、酔羅漢拳、酔酒拳といった色々な酔拳があるといわれ、ジャッキー・チェンの映画で有名になった酔八仙拳は、八人の仙人に模した八つの套路があるそうです。

『合気道』
 合気道の中でも脱力技法の名手としては山口清吾先生が知られていましたが、脱力が合気の要であることから、名だたる師範は全て、体得していました。

『親英体道』
「コンニャクで鉄板を叩き割る」と称される脱力体からの技の威力が伝説となっている合気武道です。

『八光流柔術』
 脱力技法と言えば、以前は八光流の専売特許と言われていました。武道界の多くの名士が八光流を学んでいたことが知られます。

『松田敏美系大東流』
 八光流の母体になっていることが知られる大東流合気武術各派の中でも知る人ぞ知る派です。

『体術』
 フルコンタクト系空手の中から突然変異的に誕生した脱力体を旨とする拳法流派です。

『新体道』
 新体道の表技は伸筋技法ですが、養気系の動きは脱力技法を用います。親英体道の影響も感じられます。

『太気拳』
 拳聖と仰がれた澤井健一翁が、中国意拳から創始した実戦拳法。意拳は伸筋主導ですが、澤井翁の動きは脱力技法によるゴムマリが弾むような動きに特徴があります。

『練気柔身法』
 ヨガや仙道から始まり太極拳をヒントに独自に脱力技法を称えた団体です。

『システマ』
 ロシアの特殊部隊<スペツナズ>の野戦体術として近年注目されている流派ですが、脱力体による舞踊のような自在な動きで敵を翻弄する様子は芸術的な域にあります。

ちなみに、游心流も基本の身体操作は脱力体を原則としていますが、他にも、ムエタイの蹴りや、鹿島神流の体術、戸隠流忍法の動き・・・等々、武術的な流儀は全て脱力の重要性を自覚して活用しています。

ただし、注意していただきたいのは、伸筋を用いる技法と脱力技法は似て非なるものだということです。伸筋技法は、足・脚・背中・肩・腕と伸筋を繋いで連動協調させることで威力を伝達させようとする筋肉を伸ばす収縮力“張り”を用いるものですが、脱力技法は、脱力することで体内の重心を移動させて集中させて打ち込むもので、“張り”は用いません。

伸筋を用いているか脱力しているかは、手の指を伸ばしているか自然に曲がっているかで判別できます。合気道でも養神館は伸筋技法で、万生館は脱力技法、意拳は伸筋で太気拳は脱力・・・といった具合に手指の形で技の原理が判別できます。

筋肉の収縮は、筋肉を硬く緊張させる固体的身体操作によるものですが、重心移動は筋肉を柔らかく保ったまま液体的身体操作で急激に威力を集中するもので、人体の2/3程を占める水分を活用し、体に働いている重力を利用して威力を生み出すものです。

例として適切ではないのを承知で、敢えて理解してもらうために書きますが、火事でパニックになった母親が二歳の子供を4Fから投げ落としたところ、下で待ち構えた人が受け止められずにアスファルトに激突して重体になってしまった事件がありました。

二歳の子供の体重でも、4Fから落ちれば瞬間的に170kgを超えると言われ、これでは受け止められないのが当然でしょう。

つまり、瞬間に重心が落下することによって体重は何倍にも倍加するのです。

これを利用したのが中国武術の沈墜勁(ちんついけい)であり、日本古武術の沈身(しずみ)です。

攻防両面に於いて、伸筋技法より脱力技法の方がより応用範囲が広いものであることは、高度な理論を持つ武術流派が、いずれも脱力技法を主体としている事実でうかがい知れるでしょう。

包丁を真っ二つにするウォーターカッターの威力を思い出してもらえば理解してもらえるでしょうか。ブルース・リー言うところの「水になれ!」です。体格差や体力差を克服するには、そろそろ筋肉信仰を考え直す時期だと主張しておきたいと思います。

今回書いた脱力技法については16日のセミナーで徹底解説しますので、関心のある方は受講ください。自分でできてみれば、何の疑問もなくなるでしょう。

ただ、今回は敢えて脱力技法の破り方もお教えします。一つのやり方に固執してもらいたくないからです。長所と短所、両方知った上で、ケースバイケースで使い分ける知恵を大切にしていただきたいと思っています。

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2007/12/09 つばさ基地のXマス忘年会に行ってきました!

先日、つばさ基地に打ち合わせにうかがった時に、忘年会のお誘いを受けていたので、師範代と一緒に行ってまいりました。

会場は、池袋の東急ハンズ向かい側のビルのイタ飯屋さん。ここを通るのは実に十数年ぶりくらいじゃないかな〜? 最後に通ったのは、終電が無くなって、カプセルホテルに泊まる金も無いから、公園とかサンシャインビル下のベンチで朝まで野宿した夜だったんですけど、貧乏芸人並の生活水準だと、結構、色々と経験しますよ〜。実際、その時は「俺はホームレスになってもやっていけるかも?」なんて考えたもんね・・・。

何か、“認知症のお婆ちゃんにでかい犬が寄り添っていたので凍死しないで済んだ”って事件がありましたけど、私も冬に電気止められた時、捨てられてた子猫(二匹だったか三匹だったか忘れたけど、一匹じゃなかった)を連れてきて抱いて布団にくるまって夜を凌いだのを思い出しましたよ。猫は犬よりぬくいですよ。

おっと・・・また、昔の貧乏話に耽ってしまったぜ・・・。

何か、イベントから三カ月ぶりくらいですし、参加人数を限定したということだったんですが、イタ飯の店を借り切っての百数十人の立食パーティーというのは、忘年会としても壮観だな〜と思いつつ、スペースの関係でアクションは無理なので、ちょっとガッカリ・・・するかと思いきや、そこはそれ、野望に燃える明日のスターを目指す芸能人の底力を見よ!とばかりに、狭いスペースでコントにギャグにバク転!に剣の舞!というムチャ濃ゆい出し物(早回しピンクレディーが最高っス!)に、受付で配られた番号札の番号でプレゼント貰うタイムまであり・・・。

何と、それで私も師範代もプレゼント(私はTシャツ、師範代はお菓子)貰ってしまいましたよ。

秋本さんがマイク向けてくれたので、これはいい宣伝だ!とばかりにつばさ基地でのDVDシリーズの企画が進行中ということを、ちょこっと告知(まあ、ほぼ、決まってるんだからいいでしょう・・・)。「長野さんは武術家で・・・」と秋本さんが紹介される声を背に、こっ恥ずかしいのでそそくさと退場。いつもは「いえいえ、私は武術の研究家ですから・・・」と訂正するんですが、そこまで言うのも自意識強過ぎだよな〜と思って、今回は止めておきました。

でも、「武術家」って言われると何か嬉しいもんですね〜? 甲野氏の気持ちがちょこっと解った・・・。

会場に入る前は、某アクションチームのリーダーの方も見かけたり、やっぱり業界に於ける秋本さんの注目度が間接的にうかがえましたし、つばさ基地のそうそうたる講師陣や関係者も、何か見えない糸に引かれて集まっていると言うべきか? そんな不思議な引きの強さで来年も突っ走ってくれそうなつばさ基地です。

そうそう、メールで知り合った空手の先生とも会場で直接、お話しました。予想通り、非常に明るく気さくな方でした。お陰で、知らない人ばかりで人見知り体質の私も、より楽しくパーティーに参加することができました。有り難うございました。

ただ、お弟子さん方も「ブログ読んでます」と言われたので、内心、あっ、やべっと思いましたけどね〜。口は災いのモトだから、気をつけないと・・・。

うちも道場訓とか作ろうかな〜?

1,口は災いのモト!(私が言うとメッチャ説得力あるでしょ?)

2,三歩下がって師の影踏まず!(貴方のハートにグサッと来ましたか?)

3,実るほど、こうべを垂れる稲穂かな!(地下茎で隣家から出てくる竹じゃ〜ダメ)

4,人のフリ見て我がフリ直せ!(お前が言うか?ってヤツが他人の欠点言うよね)

5,礼儀は最高の護身術!(礼儀がしっかりしてると味方が増えるよね〜)

6,虚礼は最低の社交術!(口先だけの慇懃無礼さは逆にムカツクよね〜)

7,千里の道も一歩から!(私的には“書泉忘るべからず”ってのもあるよ)

8,理を論ずる前に情を知るべし!(人間は理屈より感情を優先する動物なんです)

9,善悪は己の都合で生じる!(幸も不幸も解釈次第。秋本さんに会って一番思った)

10,笑う門には福来る!(武術武道の世界はシャレの解らない人が多いよな〜)

・・・どうですか? 咄嗟に思いついたけど、結構、いいかも知れない。

よし、決めたっ! これを『游心十訓』と名付けますっ!

おっとっと・・・これでシメたらおかしいぞ〜?

私、今回、はっきり確信が持てました。つばさプロジェクトの面々は、今後、加速度的に躍進していくでしょう。単にアクションチームという枠組みにおさまらない活動をされるでしょう(現にやってるけど、その規模がどれだけ広がるか?)。

この夜に会った人達が、何年か先にどれだけ活躍しているだろうか?と考えると、私もまた誇らしい気持ちになれます。縁があったことを感謝しています。

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2007/12/07 『極真空手・実技入門』(盧山初雄著)を読んで・・・

極真空手道連盟極真館の盧山初雄先生の技術書が出ていると会員さんから聞いたので、近所の書店で見かけてパラパラッとめくって見てみましたが、これが素晴らしい内容なので、手持ちの持ち合わせが少ないのでちょっと迷ったものの、1300円(税抜き)という手頃な値段だったので購入しました。

正直、空手技術書は沢山読んでいるので、あらためて買おうと思うものは少ないのが正直なところでしたが、この本は、素晴らしいですよ。

今流行のDVD付きではありませんが、基本技の使い方を無駄なく解説していて、シンプルでいい。

それに、空手の投げ技の入り方も紹介されていますが、これが突き蹴りを受けて密着し投げにつないでいく一連の流れを写真解説してあるので、感心してしまいました。

つまり、相手の攻撃を捌いて技に繋げる“作り”の部分を紹介しているのです。これが有るのと無いのでは大変な違いです。

甲野氏などはこれが無いから武術的に使えなくなってしまうんですよ。本気で攻撃してこない相手に技かけても、かかるのが当たり前なんですよ。達人パフォーマンスの嘘を判別する一つの観方です。

そして、私がいつも言ってきたように武器術の重要性についても論じられていて、我が意を得たりの想いでした。

型の分解用法も首里手系の極意と言われるナイファンチンを採り上げてくれていて小躍りしてしまいました。

鍛練法も立禅・這いといった太気拳のものと、砂袋部位鍛練といった拳道会のやり方も採り入れられて解説され、初心者向けなのに専門家向きの内容だったりして驚かされますね。

無外流を継承された岡崎寛人先生も武器術や投げ技、型の演武写真で出ておられますが、ハンパじゃないっスね〜。

この本は大推薦です!

余談ですが、長らく絶版状態だった澤井健一先生の唯一の技術書『太気拳』も改定版が発売されていました。

今回は監修をつとめられた佐藤嘉道先生の技の示範も少し加わっていたりしてお得ですよ。それにしても佐藤先生は受けた力を体内で処理されている様で、ほとんど姿勢が変わらないまま相手を崩してしまわれていて、興味深く感じました。こちらも必見です!

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2007/12/07 『SP』のアクションは必見ですよ!

最近の新作ドラマは、あまり観る気が起きないものばかりでケーブルTVで昔の特撮ドラマや映画、アニメばっかり観ていたんですが、フジTVの『SP』は久しぶりに本格的な刑事アクションドラマで、面白いですね。

SPという要人警護官の活躍を描いた作品というと、往年の『ザ・ガードマン』を思い出しますが、これは私の年齢でもウロ覚えで、刑事物では、やはり『太陽にほえろ』くらいが一番古くから明確に覚えている作品ですね。

JAC出身の堤真一さんも出ているので、堤さんが活躍するか?と思いきや、活躍するのは岡田准一君でした。そして女性SPの真木よう子も頑張っていて、女刑事役でここまで格闘してのけてる例はちょっと珍しいですね。

ちなみに堤さんと岡田君は『フライ・ダディ・フライ』で共演済み。こちらは、娘を暴行された中年にさしかかった親父が、暴行した高校生とタイマンで勝負するために伝説の在日朝鮮人のケンカ達人高校生に弟子入りするという内容でした。

堤さんが主人公の親父で、岡田君はケンカ達人の高校生・・・そして、イッチャッテル仇役の高校生を須藤元気が演じていたことも話題になりましたが、監督が警察に捕まったことの方が有名だったりして、ちょっと不遇な作品です。

でも、この映画での岡田君はメチャ格好良かったんですよ。踊るシーンとかは特に良かったです。

それで、『SP』は、過去の事件のトラウマで特殊能力を得た主人公がSPの枠を超えて知謀と格闘術で犯人を捕まえていく・・・という内容なんですが、設定がかなりリアルである上に、岡田君の体技が素晴らしいのです。無駄なく、それでいて機能美を感じさせる見事な動きでスマートに犯人に立ち向かうところが斬新です。

土曜の夜は『SP』が必見ですぞ!

追伸;『椿三十郎』の劇場プログラムを読んでいたら、武道指導で日野晃さんが参加していたんですね〜。道理で殺陣がリアルだと思った。日野さん、やるじゃ〜ん。

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2007/12/07 「私は、精神世界には興味ありません」

“精神世界”という言葉を知っている方は少ないと思います。

この言葉は、アメリカのヒッピー・ムーブメントから波及したニューエイジ・ムーブメントの流れを汲み、東洋的な宗教哲学観を換骨奪胎して様々に実験的に展開されたもので、哲学・宗教・ヨーガ・ライフスタイル・カイロプラクティックやオステオパシーと結び付いた手技療法・芸術と結び付いたボディワーク・・・等々の全体的潮流の分野を総称しているものです。

特に、カリフォルニアのエサレン研究所で実験的に行われた様々なワークショップによって、直接的、あるいは間接的に多くのヒーリング、ボディワーク、サイコセラピーの流派が生まれたとされます。

これらに関心を持つ理論物理学者、デビッド・ボームやケン・ウィルバーといった、いわゆる科学者も、“精神”を物理的に解明しようとしました。

日本に紹介されているこれらヒーリング、ボディワーク、サイコセラピーの各流派は、概ね健康法、あるいは代替医療として普及されていますが、そのバックボーンにはニューエイジ・ムーブメントの思想的影響が色濃くあったという次第です。

日本でも比較的知られている流派としては、フェルデンクライス身体訓練法、アレクサンダー・テクニーク、ヘラーワーク、O−リングテスト、キネシオロジー、トランスパーソナル心理学、ロルフィング(筋膜手技療法)、NLP(神経言語プログラミング)、論理療法、イメージ療法、SOT(仙骨後頭骨療法)カイロプラクティック、TMヨガ・・・等々があります。

また、逆輸入の形で入ってきたものに、マクロビオティックやレイキ・ヒーリングがあります。

ですが、ニューエイジ・ムーブメントにはもう一つ、重大な影響を与えている分野があって、それは西洋魔術(キリスト教、イスラム教の神秘派も含む)に東洋の神秘思想(主にチベット密教)を組み合わせて独自に発展した神智学があったという点です。この分野はロシア出身のマダム・ブラバツキーによって開かれ、後継者のアニー・ベザントに受け継がれ、ヨーロッパ(特にイギリス)から広がって、アメリカのヒッピー層にも歓迎されて広がったとされます。

この神智学に関連した有名人には、人智学を提唱したルドルフ・シュタイナーや、黄金の夜明(ゴールデン・ドーン)団を興した黒魔術師アレイスター・クロウリー、アニー・ベザントから新世紀の世界教師として薫陶を受けながら反旗を翻して独自の道を歩み、ブルース・リーにも思想的影響を与えたJ・クリシュナムルティー等々、何人ものカリスマが出ています。

ちなみに、コズミックホラー(宇宙的恐怖)を提唱しクトゥルー神話の生みの親として絶大な人気を誇る恐怖小説家のハワード・フィリップス・ラブクラフトも神智学の影響を受けており、実はクロウリーに匹敵するような魔導師だった?という説も熱狂的シンパの間では根強くあります。

このような思想背景を知る人が少ない筈の日本でも、精神世界という言葉にはオカルト(黒魔術・左道密教・古神道・陰陽道等々)への興味が多分に組み合わさっており、その最も先鋭的な例が、オウム真理教の一連のテロ事件だったというのが識者の見解です。

オウム真理教は、元々はヨーガの研究会“オウム神仙の会”として始まって、スーパーミステリーマガジン『ムー』に登場したことが当時騒がれていましたが、むしろ、『ムー』の類似誌として出されていた『トワイライトゾーン』(テロ事件発生の頃は既に休刊していた)で連載していたことは忘れられている様子です。

この連載によってカリスマ的人気が高まり、「悟りを得た」と言い出して、教団化していった訳ですが、そこで『トワイライトゾーン』を見切り、自分達で独自の広報雑誌を出すようになっていったものです。

思うに、地下鉄サリン事件の当時、この辺りの教団発生の背景について論じる人がほとんどいなかったのが、私には不思議でしたが、だからこそ、精神世界の諸問題点が一向に改善されていないのでしょう。要は、この分野の当時者達に「自分達とは関係ない」という対岸の火事を見ているような認識しかなかったのだろうと思われます。

が、オウム真理教は精神世界の業界で、特別変わっていた訳ではないと私は思っています。現在も武道格闘技関係者が喜んで習っているクンダリーニ(クンダリニー)・ヨーガ(内修派。いわゆる瞑想と呼吸法によって霊的エネルギーを覚醒させるもの)は、オウムの行法のベースとなっているものであり、そこにタントラ・ヨーガ(房中派。いわゆるSEXで異性とのエネルギー交換を行うもの)を組み合わせたのがオウム真理教の技術体系だったのです。

私が著書の中でヨーガに取り組むのは注意が必要だと危険性を促したのは、こういう端的な事例があるからなのです。

更に、教祖松本の嗜好から、武術・武道・格闘技や軍事訓練も提唱していたとされますが、バグワン・シュリ・ラジニーシ(晩年はオショー・ラジニーシと名乗る)に思想的影響を受けていると言われています。ラジニーシ教団は別名、SEX教団と言われていて、私はよく知らないんですが、精神世界に関心のあるモテナイ男が好んで入る?という噂を聞きます。また、余談ですが、ラジニーシとクリシュナムルティーは犬猿の仲だったそうですが、甲野氏と私みたいな関係だったんでしょうか?

松本は、A宗に入っていたのが有名ですが、他にもいくつかの新興宗教も回っていたようです。要するに、オウムの松本は、“精神世界オタク”だったというのが私の見解で、ラジニーシの影響で独立国家的なコミューンを構築することで権力欲を肥大させていったのでしょう。

どうして、このような形になったか?というと、精神世界の源流であるニューエイジ・ムーブメントそのものが、LSDセラピーといった麻薬・覚醒剤による脳の活性化を目指す過激な反社会的要素のある流派を出していたり、社会通念を否定する特殊な世界観を信奉する素地が濃厚にあったからです。

つまり、思想的に危険性を孕んでいるという訳で、ラジニーシ教団がマシンガンで武装していたというのも有名な話です。本当かどうかは私は知りませんが・・・(っていうか? 俺も日本刀や薙刀で武装してるかも・・・?)。

特にヨーガのメディテーション(瞑想)系の各種セラピーは、禅に於ける“魔境(統合失調症のようになる。通称「禅病」)”に陥りやすく、安易に実践して廃人同様になってまともな社会生活が送れなくなる人を輩出してしまっています。

一説に麻薬や覚醒剤の中毒症状は、脳内麻薬の作用によるとも言われており、呼吸法や瞑想によって性的興奮に近いナチュラルハイの状態を生じさせる場合もあって、だからこそメディテーション系の実践者は現実感覚を失って舞い上がってしまうと考えられるのです。要するに気持ちいいことだけ求めるようになって現実の辛さを避けるようになる。

『ウルトラマンティガ』でも、そんな話がありましたね。かつて古代文明を滅ぼしたギジェラという超巨大な植物怪獣が出現するんですが、こいつは麻薬物質を含んだ花粉を撒き散らすだけ。しかし、人々は舞い上がって労働を止めて快感に浸ってしまい、社会機能がストップしてしまう。GUTSチームの面々もティガと同化しているダイゴ以外は仕事をほうり出してしまって、ダイゴ独りで立ち向かう・・・という、『帰ってきたウルトラマン』のヤメタランスのパターン・・・。

そういえば、一時期、癒しブームがあって、『脳内革命』ってのが持て囃されてましたね。私は、この当時に、「卑しい癒し」ってエッセイを自分で出してた機関誌に書いて、それを読んだ松田隆智先生が、福昌堂に推薦してくださって、『武術』で「真面目な愛好者が騙されないようにインチキ武術家の見分け方について書いてください」と依頼を受けて書きましたよね・・・。

これは、日本でも、あるメディテーション系のセラピーを熱心にやっていた女性数名が廃人となってしまったものの、指導者が頬被りして逃げていた・・・という話を精神世界関係の方から聞いたことがありました。こういう話は表に出ないだけで、どこの団体でも多少なりともあると考えて注意しておくべきでしょう。

また、1980年代末に社会問題ともなった自己啓発セミナーのウリ文句の一つが、「ベトナム戦争でトラウマを負った帰還兵を癒すために考案された」というものでしたが、事実は違っていて、単に人を洗脳して金を吸い上げる催眠ビジネスとして、ニューエイジ・ムーブメントの流れから考案された心理療法を悪用したものに過ぎず、「アメリカで社会問題となったので日本に出稼ぎに来た」というのが真相だったのです。

この流れは、ピークは過ぎたものの、最近のヨガ・ブームや、現在の占い、スピリチュアル・ブームへと形を変えて続いていると思われますが、武術の世界では初期のころから精神世界的なる興味と結び付けられて語られていました。

その顕著な例としては、自己啓発セミナーがブームになっている頃の気功ブームがありました。

気功もまた、ニューエイジ・ムーブメントの中で、太極拳や合気道といった武術、武道への興味の延長線上で受け止められていた様子ですが、ブルース・リーが老荘思想をタオイズムとして自身の武術コンセプトのバックボーンに置いていたので、海外ではブルース・リーもまた単なるアクションスターではなく、哲学的(その思想の大部分はクリシュナムルティーの『全否定の果ての自己認識』にあると考えられる)な武術家として相当に高く評価されていたものです。

日本に気功が紹介された頃は、「気で触れずに倒す(操る)」というパフォーマンスを演じる西野流呼吸法が登場し、以後、類似の武術団体が続々と出てきています。

そういうパフォーマンスで気の技にかかる人達の、“異様なまでの歓喜に満ちた表情”に、違和感を覚えた人は少なくないでしょう。これもナチュラルハイになっている訳で、自己啓発セミナーや、その洗脳テクニックを踏襲しているマルチ商法の現場でも頻繁に見られるものでした。要するに、イッちゃってるのです・・・。

気の武道の老舗として、ブームの興る以前から活動していた新体道も注目されていましたが、新体道の技術体系は想像以上に“死にそうにキツイ”ので、軟弱な文化系の人間にはとてもついていけず、あまり普及には繋がらなかったようです。が、結果的にはその方が良かったと思います。

気功の自称専門家も、オリジナリティーを持たせるためか? 武術と気功を結び付けたがっていました。が、ろくに修行したことの無い人間が武術を語る風潮も、この頃に広がってしまい、とても武術家とは言い難い素人レベルの実力の自称武術家が増えました。

ちなみに、ヨーガや気功の団体を率いる人には前世の話とか、今に言うスピリチュアルな話を好んでする人が多く、よく入会してきた好みの若い女性に「君と僕は前世で恋人同士だったんだよ」と口説いてその気にさせるスケベ親父がいるというのも、女性の方は注意しておいて欲しいものです(それが目的のサークル・クラッシャーさんは別)。

さて、武術好きの人には、「徹底的に現実に戦うことを考えるタイプ」と、「精神的な成長を求めて武術に取り組むタイプ」がいるように思えます。

私は、はっきり明言しますが、「徹底的に現実に戦うことを考えるタイプ」です。

率直に申しますが、武術をやっている人で精神的に練れた人というのは、ほとんど会ったことがありません。

会ったことがあるのは、口先だけで美辞麗句をちりばめて、いかにも「自分は精神を練っている修行者である」という雰囲気を自己演出し、他人に称賛して欲しくて堪らないナルシストが圧倒的に多かったのです。

そうでなければ、単に“生まれつき性格が良かった人”くらいです。

後は、戦いの話になると目の色が変わって「相手がこう攻撃してきたら、こうするんじゃ〜っ!」と、口から泡を飛ばしながら興奮して実演する(喫茶店や居酒屋で・・・)、“あぶないオヤジ”ばっかりです。

ですが、私は、結構、こういう“あぶないオヤジ”を「きゃ〜、この先生、ステキーッ!」と感じてしまう変態脳の持ち主だったりするので、お上品なことほざいている武術家の方がどうも胡散臭く感じてしまうのです。

だいたい、武術って、戦う技を稽古するもんですよ。その最高奥義なんて、効率良く人殺すやり方です。そんなものに興味持つ人間が「精神を磨いてどうのこうの・・・」「人間にとっての自然とは何か?」なんて、よく言いますよ。はっきり断言しますが、武術好きは一種の変態なんです。女の子とデートするより武術の稽古の方が好きというのは病んでるんですよ。だってね〜、ほんとに精神を磨くことを求めてるなら、普通に宗教団体行くでしょ〜? 

甲野氏を連続ビンタした時は、彼は普段は「私は人を傷つけるような打撃技は使いたくない」と言っていたのに、目を三角にして当て身・横蹴り・肘当てで反撃してきていました。赤ちゃんパンチで全然効きませんでしたが、やはり武術を修行する以上は、「いざとなったら綺麗言は言えませんから死に物狂いで戦うつもりです」と、きちんと言うべきなんですよ。

武術は武術! 宗教家みたいに聖人君子ぶったゴタクを口にしていてはダメです。

私の中国拳法の師匠なんて、第三者に対しては仏様のように見えると思いますけど、怒ると「両手両足叩き折ってやるっ!」とか言っちゃう人で、確かになめた態度とる人には容赦しなかったですよ。それでこそ、武術家なんです!

自分は所詮、暴力を暴力で粉砕しようと考えている臆病者なんだって事実をきちんと弁えて、綺麗言で自分を正当化しちゃダメなんですよ。大義名分を振りかざして自分の暴力行為を正当化してしまったら、それはファシストになってしまうのです。

昔の大東亜共栄圏思想なんて、いくら「アジアのためだ!」とほざいてたって、その思想の名の下に一人でも他国の人間を殺したら、それは偽善なんですよ。戦前の日本の軍国主義思想の問題点って、この偽善っぷりに有った訳ですよ。その思想原理は国家も個人も繋がっているんです。

宮崎県知事の東さんが「徴兵制は必要だと思う」と発言して顰蹙を買っていましたけれど、考え方が浅過ぎるんですよ。底の浅い右寄り思想に影響されてちゃダメですよ。戦うことの現実を知っている人間なら、それを安易に他人に強要しないでしょう。

私は、徴兵制には絶対反対です。戦うかどうかは個人で決めればいい。国を護りたいとお偉いさん達が本気で考えるのなら、外国の武器買うより日本のロボット技術駆使してモビルスーツ作った方がいいんじゃないか?と真面目に思いますけどね。この分野なら日本は世界のどの国にも負けないんだし・・・。使えば世界が滅ぶかも知れない核兵器や細菌兵器に戦々恐々とするより、Gガンダムみたいに各国がガンダム作ってガンダムファイトで紛争解決すればいいんじゃないですか?

阿呆らしいと思うでしょうが、私に言わせればテロリスト殺すためにガンガン爆撃したり、無関係な人達を射殺して回ったり、刑務所で拷問したりする方が遥かに阿呆らしい。

そんな阿呆らしい解決法を真顔で力説して実践する狂人を国のトップに選ぶ連中も阿呆過ぎて泣けてきますよ。外国の人間が殺されることは何とも感じないんだろうね。

でも、そんな虐殺を実行する原理には宗教観の対立がある。つまり、精神を尊重して生命を犠牲にしても構わないという本末転倒の思想原理がある。オウムの松本が言うところの「ポアしなさい」というやつですよ・・・。

だから、私は精神世界って偽善しか感じなくて嫌なんですよ。関係ないって感じ。

グルジェフ(神秘学の大家。ジョージ・イワノビッチ・グルジェフ)大好きの松田隆智先生と吉祥寺のルノアールで話していた頃も、精神世界の話はほとんどしませんでしたよね。武術とか鉄砲の話。「トカレフは当たらない」とか・・・。

日本のニューエイジ・ムーブメント発祥の聖地として知られる西荻窪ほびっと村学校で講座やっていた頃も、講師の懇親会に私が行くと、その場が一種の緊張感に包まれていましたが、何でか?というと、ほびっと村の機関紙『かわら板』に私が書く文章が、毎回、精神世界に対する“おちょくりネタ”ばっかりだったから、怖がられていたみたい(一部のシャレの解る人には好評でした)。

だいたい、精神世界に興味持つ人って、現実感覚が薄くて社会性が欠けてる人が多いんですよ。つまり、精神が脆弱なんですね。そして、身体も虚弱だから武術に憧れる人も多い。「強くなりたい」という願望は強いけれども気が弱いから極真空手ではなくて組手のない中国武術、合気道、古武術を選ぶ。

そして、独りで黙々と木刀振ったり型練習したりしているうちに勘違いして達人になったような誇大妄想に陥ったりする。角川春樹さんも妄想入ってると思いますよ。「K−1に出て闘いたい」って言ってるんだから出せばいいんじゃない?

人と競わないで独りでやってるとこうなりやすいのです。これは有名な武術家にもいますよ。武術やっても精神が強くなる訳じゃなく、むしろ魔境に陥ってしまったりする典型例です・・・。

全部が全部とは思いませんが、こういう精神の根っこに有るのは、「現実逃避」なんですよね。現実の生活レベルで自分の無力感を痛感させられるのに耐えられないから、精神世界という何やら高尚な言葉を振りかざして自分の引きこもり精神を正当化して周囲にアピールする。単なる虚栄心なんですよ。

無論、中には酷いイジメを受けたりして現実逃避してしまう人もいるでしょう。が、私はそんな人であっても、死ぬ気で戦うことをお薦めしますね。自殺したり、現実逃避して精神世界に逃げ込んで妄想に支配されてしまうよりも、死に物狂いで立ち向かった方が、少なくとも相手は「こいつはヤバイぞ」とびびって手を出さなくなるものです。

つまり、無抵抗でイジメを受け入れるからイジメが続く訳です。徹底抗戦の姿勢を貫けばイジメという一方的な暴力構造ではなくなって、暴力に立ち向かうケンカの領域になる訳です。その一線を越えることで精神は鍛えられていく訳で、そうなってからの武術修行ならば益することが沢山あります。逃げの精神で武術なんかいくらやっても何の得るものもありませんよ。

私も中学時代のイジメ体験していた頃は学校行くのが嫌で嫌でたまらんかったですけどね。時々、我慢できずに抵抗していたんで、「口で何言ったって、現実に戦う力が無かったらダメだ」と決意して独修で武術修行はじめましたから、それから30年以上経過しても、基本はやっぱり、「理不尽な暴力には徹底抗戦あるのみ!」と決めていますよ。

私は徹底個人主義だから、天下国家のためなんか考えない。でも、必要とあらば死ぬ気で権力と戦って刺し違えて死んでやる・・・と決めています。卑屈に権力に尻尾振って惨めな人生を送るより、どうせいつか死ぬんだから、死に花咲かせた方がカッコイイじゃないですか? そんな事態に遭遇する日のために、無意識に武術修行したり刀買ったりしてきているのかも知れない。多分、そんな日は無いと思うけどね・・・。

でも、現代の平和な日本で武術を修行する意味といったら、平和な日常でも乱を忘れずの精神を保つため・・・ぐらいのものじゃないでしょうか? どうも、その平和な筈の日常も綻びが出てきたりしていますし・・・。

時代錯誤で大袈裟だ・・・って思いますか? 思わないでしょう? 21世紀になっても世界のどこかで戦争は続いているし、頭のイカレた人間がサバイバルナイフ持って突然目の前に現れても不思議じゃない世の中なんですから、「絶対に自分は安全だ」なんて誰も言えないですよ。

武術の本質は『ヘルシング』で言うところの見敵必殺(サーチ・アンド・デストロイ)ですよ。その本質を踏まえて、「護身術としていかに我が身の安全を保つか?」という戦略をたてるべきで、それを無視して他分野への応用性を考えても意味がありません。

同様に、本当に精神を磨くことを追求している人って、「自分は精神世界の人間で・・・」なんてことは言わない。アピールしないし自己完結しているから他者と意見交換もしない。よって、周囲の人も気づかない。

武術だってそうです。黙々とこっそり稽古を積み重ねていくだけです。いかにもやってますみたいに見えたらダメなんです。

私も、修行者としては黙々と稽古を重ねていたいだけなんですが、恥ずかしながら武術指導ともの書きで生計たてている人間ですから、語らないといけない。宣伝しないと本も売れないし、次の仕事に繋がらない・・・。

食っていくために金を稼ぐという現実の前では、修行を純粋に求めることはできない。

結構、武術の世界では金持ちで働かなくても食うに困らない人が道楽で修行したという例があって、例えば、大東流の佐川先生もそうだったと聞きますし、甲野氏も普通に働いたことが無い人ですからね。

ふぅっ・・・で、今回、何で、精神世界のこととか書いたか?と申しますと、時々、武術と精神世界の関係性について言ってくる人がいて、私と意見交換したいらしいのですが、私は精神世界には興味がない。いや、はっきり言って嫌い。武術は戦ってナンボのものだし、「私に習いたいのならともかく、単に気楽に語りたいだけなら、他を当たってくださいね」と言いたかった訳です。

これは武術に関しても同じで、現在、私はほとんどどこの武術団体とも交流が無きに等しいのですが、武術の先生は自分のやり方が正しいという強烈な思い込みがある人が多いので、必ずといっていいくらい意見が衝突してしまうのです。

無論、どっちが正しいという話じゃありませんよ。私はそこまで自己崇拝的な性格でもない。でも、思い込みの激しい人は自分の正当性を相手に押し付けがちだし、自分の正当性をおびやかしそうな私を異常に敵視するみたい。だから、昨日の友が今日の敵になることが多いので、もう、嫌気がさしている訳ですよ。「皆さん、勝手におやりください」って気持ちです。他人のことなんぞ知ったこっちゃありません。

以前も、単に私と武術の話がしたいだけで電話してくる人が何人もいたんですが、そういう無駄話を楽しむ趣味は私には無いので、全てお断りさせてもらいました。

はっきり言って、私は自分の理想を追究するのが手一杯で、他人に構っておられないし、武術について目指す方向の違う人と交流しようとはもう思っていないのです。エネルギーの無駄使いだと思っています。

最近は、日曜日に公園で稽古している時が一番楽しい! 格闘技へ応用できる技の研究をやっているので、新鮮な感じもします。交叉法を使ったムエタイの技とか、推手の実戦用法とか、これまでほとんど教えてこなかったテクニックを蔵出しして新たに研究するのは本当に楽しいものです。トレーニング器具や防具なんかも買ってきたので、ミットトレーニングやライトスパくらいはやろうと思っています。約束組手一辺倒ではどうにも勘違いして自惚れてしまう人間が出るので、良くないな〜と思った訳です。

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2007/12/05 『椿三十郎』を観てきましたよ〜

奇才、森田芳光監督が巨匠、世界のクロサワに挑んだリメイク版『椿三十郎』を、早速、観てまいりました。

二十年前ぐらいに、時代劇映画ファンの間では「もう、時代劇に堪えられる顔の俳優はいない」と言われていたものです。

貴公子と呼ばれていた里見浩太朗が水戸黄門を演じているんですから、確かに、かつての時代劇のようにはいかないでしょう。

十年前だったら、役所広司が主演なら椿三十郎にピッタリだったかも知れませんが、それでも三船敏郎のイメージが強過ぎて、批判しかされなかったでしょう。

ですから、正直言って、現代的な感覚の鋭い森田監督が撮ると聞いた時は期待感よりは不安感が勝っていましたし、主演が織田裕二と知った時は、ビミョ〜にう〜ん・・・と唸ってしまったものでした。

いや、織田裕二はデビューしたての頃に30分のTVドラマや、映画『将軍家光の乱心・激突!』に出ていたりして、朧げに殺陣が上手かったな〜?という印象が記憶にうっすら残っていて、「意外といいかも?」という希望も有るには有ったのです。

それに、宿敵、室戸半兵衛がトヨエツで、加山雄三が演じていた若侍役を松山ケンイチが演じると聞いて、希望度がアップしていたのでした。

で、端的に感想を点数で表すと、ひいき目で80点といったところでしょうか。

まず、きちんと楽しめたという点で印象が悪くない。

そして、厳格に自分のイメージ通りに演じさせるクロサワとは違って、役者の演技力や感性を引き出していたと思われる点。

それから、殺陣がガッカリさせなかった点。

この三点でエンターティンメントとして及第点を越えていると思います。

で、20点の減点分は・・・

シナリオがそっくりそのまま過ぎてオリジナリティーが足りないところ。

最後の対決シーンは殺陣の工夫でエモーションを盛り上げていて良かったと思いますが、全体的に雰囲気が軽過ぎて、芝居がかり過ぎて見えたところは残念なような気もする。

とは言っても、山田洋次監督のようなリアルさを森田監督に求めるよりも、エンターティンメント性ある時代活劇を撮ったことに関しては、否定的に解釈すべきではないように思います。

傑作のリメイクに挑戦した点でも森田監督は偉いし、きちんと楽しめる作品に仕上げてくれた職人魂は評価したいものです。織田裕二の三十郎も、最初は違和感があるものの、観ているうちにヤンチャな兄貴的キャラに好感が持てるのです。殺陣もオリジナルの三船に決して負けていなかったと思いますよ。カット割りをあそこまで細かくしなくても、充分な技量を見せてくれていたのではないか?と思います。時代活劇の肝である殺陣が良ければ、作品全体が締まるし、これがダメだと、どんなにドラマが良くても台なしになりますからね。ネタバレになるから、最後の決闘シーンを解説できないのが残念ですが、これなら納得というところです。何しろ、オリジナルからして、あの間合での居合合戦というのは実は有り得な過ぎていましたからね。

それから、松山ケンイチ(本当に、この人は作品によって物凄く演技が違うから楽しみですよ〜。『カムイ外伝』では誰を演じるのか? まさかカムイ? 美女に化けたり“変移抜刀霞斬り”とか“飯綱落とし”とかやるの?)が『セクシーボイス・アンド・ロボ』の時の情けない系の表情で若大将(加山)とは違った若侍のリーダー格を演じていたり、佐々木蔵之介が鈴木桂樹が演じていた敵方の捕虜をコミカルに演じていたり、ちょこっとしか出ない腰元のこいそ役の村川絵梨がガンバルポーズを無意味に連発していたりするところもクスッとさせています。

あ〜、腰元というと、椿屋敷の腰元三人が妙にクネクネと三十郎に迫ってくるところなんかは森田監督ならではですね。『のようなもの』の伊藤克信の用人役も脇役なのに妙に目立つし・・・。

ベテラン俳優の演技も面白かったんですが、中でも小林棯侍がハイテンションで椿の花を落としているところなんかもおかしかったです。

確かにクロサワ映画のあのカッチリした完成度には、どうやっても及ばないだろうし、シナリオが同じならリメイクは圧倒的に不利です。

ですが、作品全体に充満している役者が生き生きと演じている空気が感じられるところが、私的には一番、好感が持てるところでした。初めて観る人には時代劇の堅苦しさを感じずに楽しめるのではないでしょうか?

『用心棒』も、充分に楽しい作品として仕上げてくれるのを期待したいものです。

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2007/12/05 この映画が面白かった!

久しぶりに、ツタヤでDVD借りてきて映画館で見逃してた映画を見まくりましたので、感想をば・・・。

『監督ばんざい!』北野武監督主演

天才監督として海外でも人気の高い北野武の最新問題作として有名なこの作品。『みんな〜やってるか〜?』とか『タケシズ』の路線に近いけれども、このパロディ精神は北野武ならではのもので、オムニバス形式みたいに色んなタイプの作品を披露しながらおとぼけギャグで無化していく手法がいい意味での投げやり感があって、私は好きですね。時代劇のところで披露している殺陣もバカバカしく纏めているものの、やっぱりこの人は上手いな〜と感心させられました。瞬間的に殺気が出せる人ですね。天才の狂気を感じます。

『大日本人』松本人志監督主演

雑誌で映画批評も連載している才人松本人志としては、北野武と比較されることを避けられぬが故に、情報をシャットアウトして公開した本作でしたが、まあ、概ね失敗作、駄作だと評価されているみたいですね。私の評価はどうか?と申しますと、まあ、奇をてらい過ぎたかな?という感じなんですが、「コントのノリを生真面目に作り過ぎてしまって観客をおいてけ堀りにしちゃってるかな〜?」という印象です。コントとしてはテンポが悪くて笑えない。かといってシュールなアート性を見いだすには下品でくだらな過ぎる・・・。そういう意味では失敗作と断定されるでしょう。ダメだな〜と思うのは、最後に巨大化した爺ちゃんが助けに来たりしてエモーションをかき立てる最大の見せ場だったのに、そのままギャグのネタとしてしまい、アメリカの正義のヒーローが出てきて・・・という展開でTVサイズのコントショーにして締めてしまった点でしょうね。映画でそういうオチはやっちゃダメでしょ? 特撮怪獣物のパロディにするのなら、その分野への愛情も必要でしょう。もっとバカバカしさに徹するか、それとも生真面目過ぎるくらい生真面目に作るかのどっちかに決めた方が良かったでしょうね。監督の迷いが出てしまった点が惜しい。ここは原点に帰って、観客を楽しませるという一点で考えて二作目を期待したいものです。

『ラブデス』北村龍平監督

北村龍平監督が「俺の最高傑作だ」と豪語してのけていた『ラブデス』。果たして? 大傑作です! やはり、北村龍平に外れ無し! 随所に様々な映画ネタがオマージュとして挿入されているのをパクリと受け取るか、フフッと微笑してしまうかによって評価は分かれるかも知れませんが、良い意味で肩の力が抜けた娯楽エンターティンメントとして、観客を楽しませるという一点に集中したような職人魂を感じて拝みたくなってきます。出演陣全員が「ここが俺の見せ場だ!」と気合入れて演じているようなところが北村映画の特徴ですが、これは見ていて楽しい。主人公の武田真治も、これが『おいら女番』や『七人のオタク』『ナイトヘッド』をやっていた人か?と思うワイルドな雰囲気と鍛え込まれたキックボクサーみたいな肉体に驚かされます。NHKのトップランナーで出会って北村監督と意気投合していたんでしょうか? 北村監督のハリウッド作品『ミッドナイト・ミートトレイン』も期待しておりますよっ。

『ユメ十夜』実相寺昭雄監督その他

夏目漱石原作の10編のオムニバスですが、これがまた悪夢のように怖い作品ばっかりですね〜。これじゃホラーですよ。本当に夏目漱石が原作なんでしょうか? 夢野久作とか江戸川乱歩の原作じゃないんでしょうか? 急逝した実相寺監督の『シルバー假面』、『ウルトラマンマックス』と並んでの遺作と思うと、感慨深いですが、何か『新耳袋』を見ているような錯覚に襲われる妙に怖いオムニバス作品でした・・・。

『エクステ』園子温監督

幼児虐待問題も含めた、都市伝説ネタみたいなエクステ(つけ毛)のホラー。もう、妖怪みたいな髪の毛のオドロオドロしい襲撃描写(リメイク版『ブロブ』を思い出した)は期待にたがわずなんですが、それにもまして怪優の本性をさらけ出した大杉漣の演技が炸裂しまくり、つぐみ(エコエコアザラクTVシリーズでのドッペルゲンガーの回は凄い熱演でした)や夏生ゆうな(『蛇女』の演技は凄かった・・・はっ? どっちも佐伯日菜子が主演だ?)といったホラーでお馴染みの女優がエジキになり、栗山千明が頑張ります。園監督はぴあ出身のインディーズ系監督で、『自殺サークル』で名をあげた個性的キャラが有名な人。この妖怪ホラーはシリーズ化して立派なモンスター・ムービーにして欲しいですね。

『かちこみドラゴンタイガーゲート(龍虎門)』

“香港カンフー最後の本格派”と、知野師父に命名されたドニー・イェンが鬼太郎ヘアーで主演し、必殺の“降龍十八掌”で最強の敵を撃破する! 『カンフーハッスル』で太極拳の遣い手のブタ小屋砦のヒゲの大家さん(『サイクロンZ』で、見かけと違って意外と強いボスも演じておりました)を演じていたユン・ワーも師匠役で出ておりました。いやはや、ドニーの必殺掌打を見ていると、真似したくなりますね〜。私も拳より掌で打つ方が好きなんで、鑑賞中、ついつい身体が動いてしまいました。撮影中には、40過ぎたドニーがティーンを演じるのってどうよ?って話がありましたが、竹内力のカオルちゃんの例もあるし、別にいいじゃん。『SPL狼よ静かに死ね』のリアルなアクションも良かったけど、CGも加味したムチャクチャなアクションも、これはこれで面白い。Wヌンチャクも素晴らしかった。これは必見です!

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2007/12/04 マクドナルドの偽装にショック! でも・・・

あ〜、本当にもう、偽装ばっかりですね〜。

マクドナルドも偽装していたってニュースは、ちょっと個人的に考え込んでしまいました。

丁度、私が甲野善紀氏の道場“武術稽古研究会・松聲館”に通っていた頃、南越谷駅近くのMACで夜間メンテナンスのアルバイトしていたんですね。

そのバイトする前にクロネコヤマトの仕分けのバイトしててギックリ腰になってしまって、もう少し軽い作業のバイトはないかな〜?と思って、求人情報誌見て行ったんですが、当時は埼玉県の外れの松伏町に住んでて、スクーターで30分かけて通いましたよ。

その辺りは夜はナンパスポットだったり暴走族が走り回っていたり、ちょい治安が悪かったんですけど、深夜は店に私独りだけになるんで、仕事をササッと済ませて仮眠したり、甲野氏に習った杖術とか縮地法とかの練習したりしていましたよ。

そういえば、治安が悪くて(一回、警察呼んだこともあります)停めてたスクーター壊されたことも二回あったんで、甲野氏から護身用に重目の杖を購入して、ロッカーに入れてたこともありましたね。

その頃は純朴だったから甲野氏を尊敬して「日本一の武術家としていずれ有名になる人だ」と信じてましたよ。ある意味では私の思った通りになったけど・・・有名人は必ずしも名人じゃないんだよな〜。悪い人じゃないけど、虚栄心を抑えられないのが欠点です。アレさえ無ければですね〜・・・。

で、このバイトは結構、続けましたね。深夜の3:00過ぎくらいに配送の車が来て、少し離れたところの倉庫に商品を納品に来るので軽トラックに数分間便乗するんですけど、私が「今日でバイト最後なんですよ。今までお世話になりました」って運転手さんと最後の最後に話したら、結構、色々話しちゃって、「小さい娘がいる」とか言われてまして、バイト先で友人作るのって何か気が進まなかったので、それまでほとんど話したことなかったんですが、もうちょっと普通に話していれば良かったと思いましたね。

頑張って働いている若いお父さんって感じの人でしたけど、多分、まだ50歳前後くらいで同じ仕事をされているんじゃないでしょうかね?

時々、春日部の店で夜間メンテナンスの人が休んで応援に行ってくれと言われて5回くらいスクーター飛ばして行ったこともありましたね〜。片道40分くらいかかったかな〜?(もっと、かかったかな〜?) 一回、事故りそうになったこともありました・・・。

まあ、そんな具合で、マクドナルドは結構、二十代の思い出があります。

それで、「日付の偽装をしていた」というのが、ちょっと驚かされたんですけど、何しろ、マクドナルドでは賞味時間が切れた売れ残りのハンバーガーは開封されないままバンバン、ゴミ袋に入れて捨ててましたからね。水気が多いから破れてぶちまけたりしないように、ゴミ袋も二重か三重にするんです。

私は、「こりゃあ、もったいないよ〜」と思っていて、一回捨てたゴミ袋から夜食用にみつくろって食べてましたからね。食費も浮くし、大分、助かりました。

けれども、夏場にコレをやったら、物凄い下痢になって、これが後にも先にも二度とないくらいの下痢で、マジで下痢で死ぬか?と思ったくらいでした。

つまり、食中毒ですね。その時は家に持ち帰ってトースターで暖めて食べたんですが、時間が経過し過ぎて腸炎ビブリオとかブドウ球箘とかが繁殖していたんでしょうね。

もう、布団とトイレを行ったり来たり・・・この時に比べれば、夏の白州のワークショップの時はまだまだ楽でしたよ。師範代に助けられたにせよ、一応、自分で教えられましたからね。最悪の経験しとくと、多少のことには動じなくなるもんです。

何しろ、マジで救急車呼ぼうと思ったものの、2〜3分毎にトイレに直行しなければならず、どうしようもなかったですから・・・。

しかし、「ゴミ袋から賞味切れのハンバーガー盗み食って食中毒で死んだってのは、笑い話としても最低の死に方だな〜。こんなカッコ悪過ぎる死に方してたまるかぁ〜っ!」と、『激突!殺人拳2』の千葉真一みたいに気力がわいてきて復活しましたよ。

え〜っと・・・まあ、そんな訳で、マクドナルドは賞味時間に関しては、相当厳密に守っていると思っていたのですが、今回の偽装事件は驚きましたね。

でも・・・これは不謹慎と思われるかも知れませんが、賞味期限切れで捨てられてしまう大量の食べ物を見ていると、何か、確かに「もったいないな〜」とは思いますよね。

北朝鮮とかアフリカの一部の地域とか、世界中に食う物が無くて飢餓で苦しみながら死を待つ人が多いというのに、日本は何て罰当たりなことやってるんだろう・・・とも思うんです。

流通のシステムがこうなっているんだから現状は仕方がないのでしょう。けれども、食材の多くを輸入に頼っていながら、何でこんなに無駄にするシステムを続けているんだろう?という疑問も感じるのです。

もし、本気で無駄を出さないシステムを作るように努力すれば、消費税上げる必要も無くなるかも知れない・・・。

例えば、手っ取り早く就職して金稼ぐよりも、田舎には土地が余ってるんだから、もっと農業に力入れる国にすれば、輸入に頼る必要もなくなるんじゃないですかね〜。

戦中派の私の親や伯父さん伯母さんとかは小さい頃の農作業経験があるから、家庭菜園で野菜や果物を結構作ってたし、婆ちゃんが生きていた頃は、米、竹ノ子、ジャガ芋、大根、ネギ、ニンジン、柿、ミカン、枇杷・・・等々は店で買うものじゃなかったです。

父親が勤めてた高校の舎宅に住んでいた中学の頃は、100m歩くと海だったので、小アジとか釣ってきてアジの開きのミリン干しとか盛大に作ってましたし、秋は干し柿作ってましたね。

うちの母親は野草に詳しくて田舎の道端でフキノトウとかタラの芽とかツクシとか採って料理してたし、椎の実を拾うと喜々として爪で皮をむいて食べてました。私も弟と田圃でザリガニやタニシとって煮付けにしてもらって食べたことありますよ。

潮干狩りに行った時は、母親が岩に張り付いている牡蛎を石でこそぎとって海水でちょちょいっと洗ってペロッて食べてみせたり、田舎育ちはワイルドになりますよね。

まあ、寄生虫とか雑菌とか考えないですよ。戦争体験者は・・・。塩なんて海水煮詰めて作ってたそうだし。

婆ちゃんの家は山の中腹にあって裏に竹林があったりしたので、竹で作ったコップとかしゃもじなんかを収める竹製の収納筒とか作ってました。これなんか今考えるとオシャレな道具ですよ。

私も木刀とかヌンチャクとか材木をナイフ(肥後の守)で削って自作してましたから、素振り用の振り棒なんかも太い枝を握りのところだけ削って作り、毎日一千本以上振ってました(地上最強の武道家!角川春樹には到底敵いませんが・・・)。お陰で今でも私は腕が太いです。

田舎暮らしは不便ですけれど、不便だからこそ自然と共生する知恵が出てくる。

3年前に白州に初めて行った時も、だから天草の田舎に帰省した時みたいな感じがしましたね。それもあって、年とったら田舎に戻るのもアリかも?と思った訳です。

都会は都会で好きですよ。刺激があるし、何よりも面白い人達が沢山いて最新の芸術や文化に触れられるのがいいです。才能に溢れた人達も多い。だから、楽しい。

けれども、人付き合いとかで疲れるのも確かです。
 万事、金が優先されるのも何だかな〜?と思います。田舎だったら大して金使わないですからね。ミカンとか枇杷、柿なんて金出して買うものって感覚が無かったし・・・。

何か、自然から離れてアスファルトで地面が覆われたところで暮らして、金に振り回されて生活していると、人間はおかしくなってくるんじゃないですか?

物があり過ぎると、工夫することを忘れて、手っ取り早く金で解決しようと考えてしまう。自然な倫理観が損得勘定にとって変わられてしまい、「バレなきゃいいじゃん」という偽装に繋がる・・・。

う〜ん・・・どうも、表面的で近視眼的な考え方に支配されてきた結果なのかも知れないな〜。

そういえば、金の貸し借りのトラブルで人を殺したり自殺したりする事件が多いですけど、「命と金を天秤にかけることがおかしい」とは思わないんでしょうか?

世の中、借金の無い人の方が少ないんじゃないですか? 家やマンションのローン、車のローン、自営業の人だったら借金が無いことの方が珍しい。

大金持ちであっても、一夜にして借金塗れになることだって有るでしょう。金は天下の回りものであって、やっぱり本人の努力だけではどうにもならないですよ。

生きるためには食わなきゃいけない。食うためには金が要る・・・。それは判るんですが、“金が無いから死ななきゃならぬ”ってのは短絡的なんじゃないか? そういう考えは“ホームレスは人間のクズだから生きていても仕方がない。だから殺しても問題ない”という考え方と根っこが一緒に思えてしまうんです。

かつて『巨人の星』で、星飛雄馬が、父、一徹を「父ちゃんは日本一の土方だっ!」と言ったのが、土方(ドカタ)は差別表現だからという理由で音声を消されて再放送されているように、今はインディアンも駄目なんですよね。ネイティブ・アメリカンと言わなきゃならない。

田中泯さんがドキュメンタリー映画のナレーションで、平然と「私は百姓です」と言っていたのを聞いた時、「泯さんは百姓という言葉が差別用語だと言われているのを知っていて、敢えて、誇りを持って“自分は百姓だよ”と言っているんだろうな〜」と、そう思いました。

差別用語って、言葉を問題視することによって本質を覆い隠してしまおうとする日本人に特徴的な臭い物に蓋をする対処法みたいなんだよな〜・・・と、思ってしまうのです。

そんな訳で、ここ最近の偽装問題には、偽装することの罪を糾弾しようとする心情と、本質を覆い隠す態度の問題点を考えようとする二点の問題点があるような気がしているんですが、皆さんはどう思われますか?

食品の賞味時間に関しては、近所のスーパーマーケットでは、生鮮食品や弁当、総菜は時間が経過すると割引のシールが貼られていき、最終的には“半額”のシールが貼られる時間帯があって、私は、この時間帯を狙って買い物に行ってますね。

お陰で和牛ステーキやエゾバフンウニ、本マグロ中トロなんかも安く買えて本当に有り難いですよ〜。貧乏人にとってスーパーの割引は拝みたくなりますよ。もう40過ぎたら、貧乏臭くてカッコ悪い・・・なんて感情も無くなってきますしね〜。趣味以外にはなるべく金かけたくないし・・・(ここ最近は完全に一日一食となっております)。

高級な食材を無駄にするよりは割引にしてでも売った方が赤字も減るし、客も喜ぶという訳だし、正直に、「日持ちしませんからお早めにおめしあがりください」と書かれていると、大切に料理して食べようって気持ちにもなる。これで腹壊しても文句言う気にはなりませんよね。自分で選んでるんだから・・・。

こういうのもアリなんじゃないですかね?

本当に、貧乏を経験しておくと人間、精神が強くなりますよ〜。ものは考えようです。売れない芸人の逸話みたいなの私も一通り経験してるから、虚栄心とか消滅するし、銭金見てて「俺も出れるじゃん?」って思ったりしてますから・・・。

明るいビンボー・ライフを提唱して生きていこうかな〜?なんてねっ。

(2、3ケ月前まで、「リッチになって俺をバカにしたヤツラにほえ面かかせてやるっぺ〜」と、成り上がり思想持っていた人間とは思えない達観ぶりだな〜、オレ・・・)

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2007/12/02 「武術について語る意味、考えたことありますか?」

以前、「ナンバは武術用語ではない」という論を書いてから、もう、甲野氏を特別批判する気持ちも薄れていたんですが、新しく出たムック本を読んで、「ここまでやったら読者の誤解が決定的になってしまうだろう。どうして、実態を知っている筈の人達が、ここまで誤解を広めるような書き方をしてしまうのか? これ以上、黙っていたら、真剣に武術を修行している人達が迷惑を受けるのみならず、真面目に武道や格闘技に取り組んでいる人達が惑わされて道を踏み外してしまうな。やっぱり、俺が書くしか仕方がないな〜」と考えて、久しぶりに甲野氏の批判論を書きました。

そもそも、武術ブームとは言っても、“甲野氏の称える武術”のブームなのであって、世間的に武術そのものが理解されていっているのとは違う訳です。スポーツに役立つとか介護に応用が効くとか、“古武術遊び”というものまで出てきましたけれど、それらは甲野氏の理論に乗っかって作られたものであって、本来の古武術の姿とは全く別物であるという点は明確にしておいてもらわないと、古武術の文化を破壊しかねないでしょう。

枝葉の概念が広まって本質が抜け落ちてしまうと、文化としては間違った形で伝承されることになってしまうからです。古武術を伝承している師範方はスポーツや介護、子供の体育に役立てることを目的に修練してきている訳ではないからです。そこは分けて考えておかなくてはならないのですが、問題は、古武術について何も知らない一般の人達に誤解を広めてしまうことです。

ある特定の人物の考え方がスタンダードとして広まって定着してしまうと、地道に活動してきている人達も、そのスタンダードから色眼鏡で見られることになってしまう訳なのです。ですから、好き勝手に自分の考えを喋っているだけの甲野氏に疑問を呈して「それはおかしい」と言い続けていく専門家もいなければ、論調が一色に染まってしまう。

特にTVの影響力は凄いもので、私の田舎の母親は、「TVに甲野先生が出てたよ〜」と、嬉しそうに電話してくるので参りましたよ。

どうも、自分が思い込むと他人の話を全く受け付けなくなるところがあるので、何度も説明しているんですが、未だに私が甲野氏の弟子なんだと信じ込んでいるのです。

私が甲野氏を尊敬して道場に通っていた二年足らずの頃のイメージを十数年経過しても信じ込んでしまっているのです。しかも、上京した時にある出版記念パーティーに同席させた時、一回会っているものだから、その時点でイメージが固着してしまっているんですね。甲野氏からは、「お母さんにわざわざあんな挨拶までさせて、私に対する皮肉のつもりですか?」とイチャモンつけられました。

それで、「甲野先生がTVに出とらすよ〜」と、何度も何度も電話してくるので、私もブチ切れて、ちょっと怒って、私がいかにして甲野氏の不倶戴天の敵となったか?について、しつっこく説明しました。

「そがんこと言うたっちゃ、アンタはあがん甲野先生ば尊敬しとったもね〜?(そんなこと言っても、貴方はあんなに甲野先生を尊敬していたじゃないの?)」と、初めて聞いたみたいな不思議そうな言い方をしていたので、多分、まだ解っていないと思います。が、「不愉快だから、二度と甲野さんの話をしないでくれ」と、それだけを強調し、ようやく電話はかからなくなりました。

もう〜、本当に、二重三重に腹立たしい限りです・・・。

さてさて、『フルコンタクトKARATE』に、平直行さんと太気拳の島田道男先生の対談記事が載っていたんですが、これは恐らく、先のムック本で平さんが甲野氏と会った後に話されたものなんじゃないか?と思われました。

対談中、「これは甲野氏に対する感想なんだろうな〜?」と推測させる微妙な言い回しが何度か出てきていましたが、恐らく、実際にはオフレコでもっと具体的に話していたのを、流石に名前出したら問題あると判断して割愛したんじゃないかな?と思われます。

例えば、平さんが『「こうやれば技がかかるでしょう」と言って、かかるわけないんです(笑)。』と言うと、島田先生が『見せるのは簡単なんだよね。凄いなって思わせることはできるわけですよ。憧れさせて、覚えさせるためにはたまにはいいけど。ちょっと動きを見せると感動するんですね。説明しながらババッと動いたりすると、生徒は「やっぱり違うんだ!」と安心する。「全然違う人なんだ、凄いなあ」で励みになるのはいいと思うけど・・・ねえ?(笑)』

・・・といった箇所に、「武術パフォーマンスと実際に闘うことは違う」というニュアンスを込めて話されているように思われました。言い回しが微妙過ぎて意味を解読できる人は皆無に近いと思いますが・・・。

ただ、島田先生が『2ちゃんねるやブログなんかでごちゃごちゃ書いてるヤツがいたりね。僕ら嫌いなんですよ、武術でしゃべるヤツは。武術は修行してなんぼのものだから。』というところは、私なんかは耳が痛いですよ。実際、こうしてブログで武術について書きまくってる代表選手ですからね。

2ちゃんねるには個人的に凄く嫌な印象しかないから読みもしませんし、書いてもいませんけど、利用している人達の全てが匿名を利用して無責任な流言飛語を書いている訳ではない筈ですし、真面目に情報交換として利用されている方々も少なくないでしょうから、私がとやかく言えません。要は、「ものは使いよう」ということでしょう。

研究家としてはブログでエッセイ書く中で研究発表している面もありますし、先の甲野氏の批判だって、武術武道の関係者の中では、言いたい人も少なからずいらっしゃるでしょうが、いろいろ立場があったりして書けない人がほとんどでしょう。迷惑を蒙ったものの、「有名人相手にケンカはできない」という諦めで泣き寝入りになってしまっている人も何人もいらっしゃるのです。

そんな「真相を知っているけれども立場上、文句が言えない」という人達の代弁者としても、研究家と名乗っている立場でなければ批判を書ける人はいないと思っています。

だから、今現在、「武術とは何々である」と論じる方は何人もいらっしゃいますが、その人達がどれだけ“武術”の本質論や勝負理論、稽古理論、戦闘理論、そして知識をものにしているか?となると、「貴方は武術について語るべきものは何も持っていないんじゃありませんか? どれだけ武術という文化について向き合って研鑽を積んできたんですか?」と言いたくなる訳です。

つまり、単に自分の『修行体験上の感想』を語っているに過ぎない。

これは甲野氏とて同じことです。彼の文章は単なる感想文なんですよ。部外者の知らない知識をちりばめているから、さもハイレベルなことを書いているように誤読させられてしまいますが、大したことは何も書いていません。周囲の、武術について無知な人達が勝手に崇め奉っているだけです。

けれども、問題なのは、彼の感想文の誤りを指摘できるだけの勉強している人が極めて少なく、“何か怪しいな〜”と思いつつも、批判できずにいる。だから、本人も図に乗って大嘘こいちゃってる訳ですよ。武術文化の破壊者として歴史的大罪人にも成りかねない危険人物です。私に言わせてもらえば・・・。

私が研究家と名乗っているのは、文化としての武術の全体像を明確にして紹介する人間が必要だと思っているからであって、私以外にその任を果たすことができる人がいるのなら、取り立てて私がでしゃばる必要は無いだろうし、単に游心流と名乗って一武術団体の代表としてだけ活動していても良かった訳です。

実際に、私なんか及びもつかない知識を持つ研究者はいくらでもいます。でも、残念ながら、私が安心して任せられるような方はいらっしゃらないんですよ。どうも、どこか野心的で事実をねじ曲げてしまいそうだったり、知識はあっても洞察力に欠けていたり、考え方が独善的だったり・・・という人が多いように思えて、任せられないな〜と思うのです。

もう随分、昔になりますが、高岡英夫氏が本を出し始めた頃、著書を読んで感心したので、高岡氏の道場に体験に伺いたいという連絡をしてみたことがありましたが、当時、高岡氏の右腕だったSさん(この方は既に高岡氏とは縁を切ったそうです。あっ、斎藤孝さんじゃありませんよ)という人から「長野さんは武術の専門家だからお断りします」と言われたことがありました。

要は、私が武術に詳しいから、高岡氏の技の裏を見抜かれてしまうのが怖かったんだろうと解釈していますが、その後、ビデオ映像などで高岡氏の合気の技を見ましたが、「この高度な合気は大東流の名人と言われた佐川先生無き今、私しかできない」と自慢しているものの、実際に映像で見てみると、単なる脱力技法で力のベクトルをずらして見せてるだけで、あまりの阿呆らしさに呆れ果ててしまいました。

そういえば、佐川先生のディレクト・システム図とかいうのを一億円とかいう法外の度が過ぎる値段で売りに出したりしていましたが、高岡英夫氏の精神構造がうかがいしれます。「一秒間に40発パンチが打てる」とか「テレポーティションが出来る」とか、昔、『秘伝』の連載で語っていましたが、あまりの暴走っぷりに編集部が青くなって赤入れされて普通に書くようになった?とかいう噂も聞きました。

福昌堂にいた頃、編集部で高岡氏の特集が出ている専門誌を皆が笑いながら読んでいて、「何やってんだよ、コレ?」と爆笑していたんですが、けれども、馬鹿にする割りには誰も技の原理は見抜けません。合気武道の経験者がいなかったので判らない訳です。

「長野さん、これはどうやってかけてるんですか?」と聞かれて、グラビアページで合気をかけてる高岡氏の写真を見せられたので、「・・・どれどれ・・・あ〜、コレはこうやってますね〜。ちょっと、僕の腕をガッチリ掴んでみてもらえますか?」と、その人に掴んでもらって、さっと崩してみせました。

すると、エッ?という驚いた顔をしているので、脱力のやり方と膝を抜いて重心を落とすやり方、そして、崩す方向を教えてやらせてみましたら、その人もあっさりと成功してしまい、「何だ〜、これだけか?」と、つまらなそうな顔をしていました。

“写真で見て原理を見抜かれて素人にもその場ですぐに体得できてしまう程度の演芸技”を、さも神秘の秘術であるかのごとく喧伝してみせる高岡氏のカリスマ的話術を称賛すべきなのでしょうか?

しかし、素人に教えてその場でできる程度の技を示して「どうです? 僕って達人でしょ?」みたいな顔をするのって幼稚過ぎますよね。ただ、“先”を読む能力は甲野氏より上だと思えましたから、そういう読みの構造を知らない武道家は騙されて少なからず高岡氏を達人だと思い込んでしまう人も出たようです。確認はしていませんが、ある著名な空手家も高岡氏に自身の突きを躱されて心酔してしまっていたとか? 恐らく、御本人もそれで御自分の実力を勘違いしているんじゃないでしょうか?

でも、甲野氏も高岡氏も、とても武術家と言えるレベルではないでしょう。部外者に判別不能の多少の知識を駆使して演芸をやって見せて、それらしく“現代の達人”を自己演出してるだけに過ぎないと私は思っております。宇城憲治氏のように実際に実力があるとは思えません。

事実、フルコンタクト空手の経験のある編集者と高岡氏がスパーリングやっているのを雑誌で読んだ時は、蹴った脚を抱え込まれてしまったり、凡庸な実力を晒してしまっていました。「私の実力はこの程度ですよ」って、はっきり言えばいいんですよ。著書のプロフィールで「20世紀最高の武道家」なんて自分で書くような人物を信じる人達もいけませんが・・・。

私が根拠もなく中傷していると思われるのなら、甲野氏や高岡氏に誰でも参加可能の武道の大会に出場してもらったら判りますよ。恐らく一方的にボコられて予選落ちするでしょう。それが“現実”です。武術のロマンに浸って現実を無視してはダメですよ。

無論、「そういう長野は武道の大会に出て優勝する自信があるのか?」って言いたくなる方もいらっしゃるでしょうから、はっきりお答えしておきます。

もちろん、私がやっても負けますよ。試合という規定の中で純粋に闘う実力は私にはありません。負けるのが判ってるから自分の腕前を試す気もありません。試合は基本的にルールによって平等に互角の勝負をしなきゃいけませんから、そうなったら使える技は限定されるし体力勝負にならざるを得ない。でも、それがスポーツなんだから、スポーツはスポーツで弁えて楽しむのが正しい取り組み方でしょう?

私はスポーツ的な実力を高めたいという欲求は全くありません。武術は根本的にスポーツじゃないんですよ。サバイバルを目的にした護身術なのです。

だから、武術の勝負は互角に戦うことは避けるのが常道です。極論すれば「いかに敵に何もさせずに倒すか?」というものであって、だからこそ、自分の戦闘法は相手には隠す訳です。私が会員にさえ容易に技を教えなかったのも、教える会員の人柄を観察していた訳です。これも武術の心得です。

先を取ることを重視するのも、一方的に自分が敵に勝つには、それしか道が無いからですよ。互いに技を出し合って競い合えば、どんなに実力差があっても勝敗は判らなくなるでしょう。よって、武術には本来、受け技はあり得ない。敵が攻撃を出す前に倒すことが戦闘理論なのですから・・・。

更に言うと、倒すためには手段は問わない。究極の武術家は現代で言うならスナイパー(狙撃手)になるでしょうね。武器は遠距離狙撃に適したスコープ付きの高性能ライフルという訳です。拳銃弾で最強の500S&Wマグナム弾(44マグナムの約3倍)は、一般的な軍用ライフルの弾丸の7.62mmNATO弾とほぼ同じくらいのエネルギーを持っていますが、南アフリカのツルベロ社の14.2mm口径の弾丸を使うアンチマテリアル・ライフルの威力は、その10倍もあるのです。つまり、44マグナムの30倍ですよ。

こんなので1km先から狙われたらラオウだってひとたまりも無いでしょう。

卑怯だって言いたい人も多いでしょうが、本来、最も古い時代の代表的武術というのは“弓馬術”ですよ。遠距離から一方的に殺す。戦国末期から江戸時代初期にかけては鉄砲も普及しているので、武術の流派にも砲術が含まれています。脇差に偽装した護身用の短筒なんかもありますよ。

銃というのは、弱者が自分より遥かに強い者を倒すという武術の理想を実現した武器です。だから、「飛び道具は卑怯だ」というマイナスのプレゼンテーションをされて規制された訳ですが、そんな戦略的マインドコントロールに何時までも支配されていては話にならないですよね。武術の実戦を考えるなら、銃について無知では通用しないでしょう。

私の中での『武術家』という定義は、世間一般に流通している基準よりずっと高いでしょう。実績も無いのに「俺は武術家だ」なんて恥ずかしいこと自分で言えますか? 言葉の重みについてあまり考えない人が多いですね。

私が、この人は間違いなく本物の武術家だ!と言える人って、かなり少ないですよ。それなのに自分を武術家と認識するとしたら“自己崇拝しているオツムがイッちゃってる人”としか思えないでしょう。

だから、私は恐らく一生かかっても自分が理想としている武術家の水準には到達できないだろうと思っていますし、到達できない高みを目指して研鑽することに武術修行の意義があると思っています。

ちなみに私の考えてる武術家の定義を書いてみましょうか?

1,突き蹴り、投げ、逆関節、絞め、点穴の体術に秀でていること。

2,剣術・棒術・手裏剣術等の武器術に秀でていること。

3,基本的な整体活法を心得ていること。

4,様々な流儀の技に通じていること。

5,権威主義に背を向けて生活と修行が不可分であること。

6,必要とあらば敵の息の根を止める度胸があること。

・・・とまあ、こんな感じですね。

ねっ? この条件を全て満たしている人って、ほとんど思いつかないでしょう? でも、私の考える武術家というと、この条件を満たしている人なんですよ。

若山富三郎先生は、かなりこの条件を満たしていましたね。体得した武術を殺陣に活かしはしても表芸にはしていなかったでしょう?

6番の条件をクリアできる人は意外といるかも知れません。が、これは倫理観が薄くて物事を深く考えない馬鹿者の方が簡単にクリアしてしまう。それじゃあ意味がありませんからね。殺人を何とも思わない発狂した人間が武術を覚えたら、それこそ気違いに刃物ですよ。

大抵は、4番で引っ掛かるんですよね。ほとんどの武術修行者が自分の学ぶ流派だけを上位に置いて、他流を低く見て研究しないんですね。

それが当たり前だと思っている人が多いですが、とんでもないですよ。昔の武術家は自分の学んだ流派以外に他流を幅広く見て回って研鑽したものです。

澤井先生だって居合や剣道、柔道の心得があるし、棒術もできたそうですね。

これは現代のように浮気心でいろいろな流派を見て回るのとは違って、それだけ実際に闘う場合のことを考えていたからなんですよ。

本来の武術の姿に一番近いのは、軍隊の特殊部隊の野戦体術でしょうね。武術というのは、その時代の最新の武器を採り入れていた訳で、そこを考えれば、現代は拳銃にアサルトライフルくらいは扱えないとダメだと私は思いますね。実戦実戦と口にするからには、そこまで考えないと論外でしょう?

以前、ある武道家と話した時、こういう話をしたら、「論理が飛躍し過ぎている」とか、「現実問題として他人の目に指を突っ込むとか良心があったらできないでしょう?」と、その方は極めて常識的な話をされていました。

でも、今の世の中の殺人事件を見てくださいよ。ナイフや日本刀で刺したりピストルで撃つなんて平然とやってくるんですよ? そういう狂った人間に対して、素手でどうにかできると本気で思っているんでしょうか? 私はそんなことはよう教えません・・・。

百歩譲って同じ条件で手合わせする場合を考えてみても、研究家の私ですら、いろいろな流儀の人と闘うかも知れない場合を考えている訳で、他流の長所と短所を研究しますからね。何故、武道を修行しながら、そんな闘いの基本中の基本をやらないのか不思議なんですよね。日本の武道家は世界一の平和惚けだと笑われてしまうでしょう。

余談ですが、私、手裏剣が苦手なので、下手でも実戦に応用できるやり方は無いか?と考えて、棒手裏剣を片手で三本同時に打って刺す練習してできるようになりましたよ。ごく近距離でないと刺さりませんが、三本同時に飛んできたら防ぐのは難しいでしょう。こういう技は、相手が完全に自分より強い場合に、どうやって倒すか?という発想に立てば必然的に工夫されてくる技です。

とにかく、武術は何が何でも勝たなきゃダメです。生き残るのが目的なんだから、圧倒的に弱い人間が学んで確実に自分の何倍も強い敵を仕留められる技術が体系化されていなかったらお話になりません。

負けたら死ぬ。そういう状況を想定しているんだから、卑怯もクソもありません。武道や格闘技をやっている人達は綺麗言を言い過ぎます。北朝鮮の特殊工作隊員や軍事訓練受けたテロリストグループに襲われたら何もできなくなりますよ。チュー坊の喧嘩レベルの実戦を考えていたってダメでしょう?

逆に言えば、そういう最も極端なシチュエイションを切り抜けることを想定していれば、大抵の相手は怖がらなくて済むでしょう? 武術を実際に使うというのは殺人を犯すことを意味するんですから、一生使わずに済めば、それに越したことはない。生命の危機に陥った時の最終手段として用いるのが武術なのですから・・・。

何で、多くの武道修行者は一種類の戦い方しか学ぼうとしないのか? 私にはさっぱり解りません。「貴方達は本当に命懸けの戦いのことを考えたことがあるんですか?」と聞いてみたくなります。

武芸十八般とか百般とか言うのは、単なる言葉の綾だと思っているのかも知れませんが、この言葉はちゃんとした武術用語なんです。失礼ながら、勉強したことないから知らないだけでしょう。とにかく、現代日本の武道修行者くらい平和惚けしてる人種は世界でも類を見ないんじゃないか?と私は本心から思います。実戦の概念が物凄く狭い範囲でしか認識できていない・・・。

勝海舟の父親の勝小吉の師匠だった、講武実用流の平山行蔵子竜が武芸十八般をきちんと定義していたんですよ。その中には、剣・居合・槍・薙刀・棒・柔・拳・弓・手裏剣・馬・泳・砲術等まであったのです。無論、それ以前からいくつかの定義がありました。

今現在、武芸十八般を修行しようとする人はほとんどいないでしょう。組織的にそれらを網羅しているのは戸隠流忍法くらいではないでしょうか?

流派としてそれ(他流に学ぶ精神)を一番実践してきたのは極真空手の人でしょう。実際に闘うことを考えて、他流の良い部分を採り入れることに対して謙虚且つ真摯な人が多いように個人的経験上は感じますね。

昔と違って、現代はビデオ・DVDやインターネットの動画などでも膨大な知識を仕入れることが可能なのに、何故、情報をシャットアウトしてしまうのか? 理解できませんね。名人と呼ばれた一時代前の武術家なら、当然、やっていたと私は思います。

外国の武術愛好家は、その点は探求心がハンパじゃない。日本人は見習うべきです。

そう言えば、極真のロシア選手の練習風景をTVで見た時、イスラム神秘派スーフィーの旋回演舞ワーリング(片手で天、片手で地を指さしたままひたすらグルグル回転する)を採り入れていたのには驚かされました。

多くの日本の武道、格闘技を学ぶ人は、実戦というのを固定したイメージで考え過ぎているんじゃないか?と思えますね。“素手のタイマン勝負”しか考えていない?

武術の王道は、「はじめに武器ありき」で考えて、「武器が無い時は素手で」と考えます。現代の武道や格闘技を学ぶ人間とは逆なんですよ。

私がしつっこく、武器術を薦めるのは、武器術を学ぶことで素手の体術の原理が理解できてくるからなんですよ。武芸十八般とか百般とか言うのは、多種類の武芸を体得しろという意味ではなくて、多種類の武芸を習練することによって武芸の共通原理を理解し体得しろという意味なんですよ。

特に、日本の武術は日本刀の操法を知らないと理解できない部分が大きい。素手の武道をやってきた人は、剣道や居合道を学んでみることをお薦めしたいですね。逆に、剣道を学んでいる人は、合気道や空手道を学んでみれば得るところが少なくない筈です。

私が恵まれていたのは、一通り、何でも体験していたことですね。盲信的に独善的な考えに陥らないで、長所と短所を冷静に分析することができます。こういう感覚は、普通の武術武道の先生には無いみたいですね。皆、自分の流儀が最高で、それ以外はダメだという固定観念で凝り固まってしまっています。うちの元会員にもいましたもん。そういう人が・・・。でも、そんな訳はありません。どんな流儀でも完全ということはありません。

最強の技は往々にして弱点を内蔵しているものです・・・。

そんな訳で、毛嫌いしないで武器術も学んでみたらいいのです。考えてみてください。自分の手足は考えなくとも勝手に思う通りに動かせる。それは日常生活の中で自然に体得されていっているからです。だから、素手の武道、格闘技というのは、思うほどそんなに大変ではありません。

しかし、道具というのは、特別に練習しない限り、自由自在に使うことはできませんから、それを敢えて訓練することによって、手指の神経は発達し脳への刺激が劇的に上がっていくのです。

これはかつて実験されたことがあるそうですが、いくつかの武道実践者の知能指数を調べたら、剣道が一番、高かったそうなのです。

私の死んだ父も、脳梗塞で三回倒れていましたが、お医者さんも不思議がるくらい後遺症は最小限で大して痴呆症状も出ませんでしたけれど、これもワープロで文章を書いたり指先を使うトレーニングが好きだったことが関係していたと思われます。

そんな訳で、「空手はエンプティハンドだから素手で闘うんだ!」と主張される人に対して、無理強いするつもりはありませんが、棒や釵、トンファーを持てば、空手の動きが武器術にそのまま転用できることに気づくでしょうし、理念は別として武術としての本質を見極めて追究していくことも必要だと言いたいのです。

例えば、空手の正拳突きを中国の剣持ってやってみたら、纏絲勁の効いた凄い剣法の突き技になります。当然ですよね。中国拳法の基本突きと同じなんだから・・・。

何か瑣末な違いばっかり主張して優劣を論じているから、構造的に観えてきていないんですよ。

もう一つ例を出しましょう。一口に合気道といっても、合気会・気の研・養神館・万生館・・・と、みんな違うし、同じ団体でも師範によって違うし・・・と、細かい違いを論じていたらキリが無いでしょう? どうしてこうなるか?と言ったら、人間がやっているから機械みたいに同じにはならない訳ですよ。

よく、「合気道は使えないから大東流に移った」みたいなこと書いてる人がいますけど、実は、その人が合気道を使いこなせなかっただけかも知れない。流派の優劣ではなくて、個人の向き不向きがあるんですよ。私みたいに既存のやり方のパターンに合わずに自分で構築してしまう人間もいる訳ですし・・・。

本当に完全に優れた流派があるんだったら、とっくの昔にその流派だけが繁栄して他は全部、無くなっていた筈でしょう? そうなっていないのは、「そんな流派は無い」ということですよ。

この前、出版されたS派大東流の本ではS先生の技だけが本物で、他所は全部駄目だみたいな論調で、唖然としてしまいましたが・・・。

でもね〜。武術なんて、闘って負けたら全部嘘ってことになっちゃうでしょう? そんな自信満々ででかいこと言っちゃって大丈夫なのかな〜?と思ってしまいますよ。

私、化け物みたいに強い人、沢山会ってるから、「あの〜、貴方の実力でそんなことほざいちゃって大丈夫なんでしょうか?」って耳打ちしたくなる本が腐るほどあります。

あ〜、またもやブログでごちゃごちゃ書いてしまって、島田先生に怒られてしまいそうだな。

ところで、この『フルコンタクトKARATE』(1月号)読んでいて、島田先生の論じられていることとシステマの考えに共通点が感じられて興味深かったです。

要は、「コンビネーションではない。形ではない」ということ。

これが、重要なことですね。実際に闘うのに形にはまってやろうとするのはダメだということです。

かといって、基本が必要無いとは私は言いません。が、基本の意味を理解してやることで、型の意味も解る。そうやって初めて、武術の型から変幻自在に応用変化できる“武術”を体得できるのだと私見します。

システマの、寝っ転がって体幹部を動かして這うように動くエクササイズなんかを見ると、システマの戦闘理論と稽古理論の狙いが判ってきて面白いですね。

私はこれを見てニヤァ〜ッとしてしまいました・・・(微笑)。

つくづく、我々は情報過多な時代の恩恵を受けてますよね。その分、自分にとって必要な情報かそうでないか?という見極めも大変ですが、何も無いよりは遥かに有り難いですよ。

今回のフルコンにはヒントを沢山、頂戴しました。ありがとうございます! これからも有意義な情報を提供していってください。フルコン・ライターOBの一人として陰ながら応援しております。

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2007/11/28 貴方は『エコエコアザラク』を観たことがありますか?

先日、つばさ基地で打ち合わせをしている時に、秋本つばささんが『エコエコアザラク』TVシリーズの最終三部作に出演されていたと聞いて、久しぶりにDVDで観直してみました。

知らない方のために解説しますと、『エコエコアザラク』とは、楳図かずおをゴジラとするとガメラ的存在だった怪奇漫画の巨匠、古賀新一が描いた黒魔術を遣う謎の美少女、黒井ミサが活躍する一種のダークヒーロー的な作品で、私が中学生の頃(1975年)に少年誌で始まった作品でした。

映像化されたのは90年代で、円谷映像制作で映画化。主演は吉野公佳、そして共演は、『富江』『催眠』での恐怖演技が語り草になっている菅野美穂で、白組のCG技術による魔王ルキフェルのイメージが低予算を感じさせないスペクタクル感を出してスマッシュヒット! 魔女黒井ミサの誕生編となる続編も制作されていました。

そして、映画版の好評を受けてTV東京の深夜に唐突にTVシリーズが開始されましたが、主演の佐伯日菜子の熱演で瞬く間にカルト的人気を博して放送予定のワンクール以降も、急遽延長が決まってツークール放送されることになりました。

映画版との違いは、TVシリーズの黒井ミサは鬼太郎みたいに妖怪退治の専門家っぽいところ。その後も、加藤夏希、上野なつひ、近野成美の主演版も制作されていますが、原作のイメージに近い人もいたけれども、このTVシリーズによって、黒井ミサのイメージは10年経過した今現在も、佐伯日菜子のイメージが定着しているのです。

私は知らなかったんですが、佐伯日菜子は『毎日が夏休み』『静かな生活』に出演していて当初は「ダークヒロインのイメージとは違う」と言われていたそうなんですが、『ねらわれた学園』のリメイク版映画で、未来からやってきたアンドロイド役を演じて、それでダークな役柄もできるんじゃないか?ということで決まったんだそうです。

けれども、黒井ミサ役以降は、『らせん』の貞子、『ガラスの仮面』の田代鈴子、『トリック』の双子、『蛇女』『ギプス』『うずまき』等々、ホラーな役柄オンリーとなり、何となくホラーアイドル、ホラークイーンという妙な称号がついて回ってしまい、御本人も悩んでいたそうです・・・。

けれども、佐伯日菜子主演の『エコエコアザラク』こそは、ホラードラマ史上に特筆されるべき傑作として、今後も語り継がれていくでしょう。

ところで、この傑作ホラードラマには、ある都市伝説もありまして・・・実は、TV放送が途中で何の告知も無いまま突如として打ち切られてしまったのです・・・。

当時は局の都合か何かで、次の週には放送されるだろうと思ったものの、次の週もその次の週も無い。代わりに『ねらわれた学園』のTVシリーズが始まり、『エコエコアザラク』は最初から放送していませんでしたよ〜と言わんばかり・・・。

後にビデオ化されて全部観ましたが、もう最終話に向かって怒涛の展開になっていて、何故、これをTV放送しなかったのか?と怒りオヤジ・モードになったものでしたが、う〜ん・・・確かにTVじゃ無理かも?とも、ちらっと思いました。

何故か?というと、血糊使い過ぎ! ハンパじゃないエログロ描写もあって、これだと無理かも知れないな〜と、ちょびっと納得・・・。

後に円谷映像関係者の方とお会いする機会があった時に聞いたのは、放送当時、日本中を震撼させた猟奇殺人事件“酒鬼薔薇聖斗”事件の煽りでTV局側が世間の非難を浴びるのを見越して放送中止を決定したのだとか? あ〜っ・・・。

TV未放送の最終話三部作なんて、『うばわれた心臓』に主演した今村理恵や、『七星闘神ガイファード』に主演していた川井博之(現在は俳優業はやっていないそうですが)も出ていて、邪悪な宗教を信仰する山村を舞台に黒井ミサが戦う!という展開で、それまで希薄だった恋の要素や姉妹愛等も描かれていて、魔女としてのミステリアスな人格だったミサが、人間として戦う点にドラマとしての緊迫感が出ていて、私は大好きです。

この後、大好評を受けて佐伯日菜子主演の映画版第三弾も制作されていますが、TVシリーズから脚本を担当していた特撮系脚本家としてJホラーの立役者の一人とも言われる小中千昭のクトゥルー神話(超太古の邪神が蘇るコズミックホラーの分野)の生みの親ハワード・フィリップス・ラブクラフト好きっぷりが全開しておりました。

TVシリーズ中でも、クラブの名前が海神ダゴンから採られていたり、妹アンリが唱える呪文の「エコエコヒプノス・エコエコノーデンス・エコエコアザトース・エコエコウボサスラ」といったところに邪神やそれに対立している旧神の名前が出ていたり、TV未放送分『面』の設定に出てくる“ピックマンの面”というのが『ピックマンのモデル』という作品から採っていたり、同じ回のミサの呪文「イア・イア・ハスター・・・」というのも、邪神ハスターを呼び出す呪文で、伝統的な黒魔術の呪文に、脚本の段階でクトゥルー神話の要素を潜ませていました。

もちろん、最終三部作に出てくる邪教シスター集団(このシスターの一員“樹梨”を、秋本つばささんが演じていたのだっ!)も、邪神を崇める集団であることがほのめかされています。

小中さんは、同時期に『ウルトラマンティガ』でもクトゥルー神話に出てくる邪神の大物ガタノソーアをティガを石像に戻してしまうラスボスとして出したり、ちょいちょいクトゥルー神話ネタを使っていますし、また、佐野史郎主演のドラマでラブクラフトの名作『インスマスの影』を日本の漁村に置き換えた作品としており、ウルトラQ以来の半漁人物として印象に残ります。

Jホラーを決定づけた作品といえば『リング』が有名ですが、それ以前に『女優霊』と並んで『邪願霊』という作品があり、これもまたクトゥルー神話というかラブクラフト愛が詰まった作品だったりします。

この『エコエコアザラク』TVシリーズは、あらためて見てみると、Jホラー・ブームを支えた才人が結集して作っていた印象もあるんですね。

佐伯日菜子もあっさり結婚して今は二児の母。今年の夏は日本映画専門チャンネルでホラー特集の対談にも出てて、『蛇娘と白髪魔』放送してました。けれども、押井守監督の『真・女立喰師列伝』のSFエピソード『ケンタッキーの日菜子』に主演し、女優として今後も活躍してくれそうです(でも、押井監督曰く、“日本一SFが似合う女優”というのは、本人的には喜ぶべきかどうか悩むのでは?)。

ちなみに、“佐伯”という姓は、確か神道系なんですけど、それも関係してるんでしょうかね? 先祖が本当に妖怪退治してたとか? 

“私の刀好きも先祖が殿様だから?”と、薙刀の補修していて思ったりするんですけどね〜。

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2007/11/28 12月の予定

今年もまた激動の年で、個人的にも色々とありましたけれども、何とか無事に乗り切れそうです。

さて、12月は、忘年会シーズンでカラオケ利用が多くなるのでシダックスの講座が丸々お休みになり(来年1月12日より再開されます)、24日が今年最後の講座でしたが、一カ月以上も空いてしまうので、皆さん、寂しがっていました。

日曜日の本部稽古会も、戸外の練習は寒くなってきましたが、今は熱意ある人が集まって練習しているので充実していますね。

最近は、特に打撃技を極めるためのポイントを絞って練習していますが、やっぱり、極真の大会を観戦したり、宇城師範のDVDを見たのが良い刺激になっています。

やっぱり、どんな武道にも欠点はありますから、技も組み合わせていかなくては通用しなくなるでしょう。

現実問題として、「これさえやれば万全だ」なんて形はあり得ないのであって、形に拘れば、負けを呼び込むだけです。

古武術や合気道、中国武術などが、何故、実戦に通用しないとされてしまうのか?というと、形に拘って応用することを考えない人達が多いからだろうと思います。

ブルース・リーは、「水のようになれ」と言いましたし、ロシア武術システマは変幻自在に相手の攻撃を受け流しながら逆転してしまいます。

私が目指す理想の武術も、形の無い反射反応の武術です。

ところで、今年最後のシダックスの講座で、DVD撮影に備えて居合術と体術の見切りの実験をしてみました。“どのくらいのスピードまで見切れるか?”というのを確認してみたんですが、以前よりかなり先まで読めるようになった感触がありました。

師範代に攻撃のスピードを徐々に速くしてもらって見切れる限界を確認しようとしたんですが、素手のパンチはまだしも、居合は結構怖いですよね。模擬刀で切りつけてもらうのを避ける訓練をしてみたんですが、膝を緩めて軸から移動するようにしないと、読めているのに身体の移動が遅れて大怪我する可能性があります。

DVD撮影の時には失敗できませんから、私も自分の水準を正確に知っておかなくてはなりません。私も結構、ハラを括ってやりましたが、私以上に剣を振って切りつける師範代の方が精神的に緊張したでしょう。こういうのは信頼関係がないと全く成立しない練習ですから・・・。

無論、“私が必ず避けると信じていなければ、思い切って剣を振り下ろせない”からです・・・。

かといっても、後先考えず振り回すような人間だと、これまた全く稽古には不向きなのです。

そんな訳で、この練習は他の受講生にはやらせられません。ソフト棒を使うとかならできるでしょうが、このような稽古は胆力を練るのも目的なので、慣れたら木刀、模擬刀、刃引きの真剣、真剣と段階的に変えていかなくてはなりません。木刀でも怖いですが、模擬刀になると真剣と同じ見た目ですから、結構、怖いんですよね・・・。

さてさて、12月の稽古予定ですが、日曜日の本部稽古会は予定通り実施します。時間は渕野辺駅に朝10:30集合。練習時間は約1時間半くらいです。雨天の場合は私の部屋でDVD鑑賞しながらの武術研究になります。

詳細は問い合わせください。

また、12月16日は今年最後の一般向けセミナーとなります。

内容は、基礎錬体と歩法のやり方と、その武術的応用法。最近、基礎錬体で付け加えているものもあるので、それも指導します。

それから、発勁と合気の基本原理から実践応用法について。これに関しては、今回は構えの崩し方から技に入る要領、更に相手の隙間を埋めていくように技を連環変化させるやり方を指導します。

また、棒・剣・居合と、素手で対ナイフ、対ピストル等に対応する方法も訓練します。

それから、今回は特別に『達人が見せる秘技のヒミツ』を解説指導してみようと思っております。

奮っての御参加をお待ちしております。

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2007/11/27 コレって、“偽装”でしょ?

このブログも、いろいろな方に幅広く読んでいただいているみたいで、迂闊なことは書けないな〜と思う反面、「いや、俺は武術の研究家として、思うことは、はっきりと書いていかなくちゃいけない。お茶を濁した馴れ合いの文章ばかり書いていたら、それこそ信用を失ってしまう・・・」とも思っています。

「武術って、本当はどうなんだ?」と思っている人達の誤解を解くには、「ここは本当だけど、ここは間違いです」と書く役割を私がつとめることで、武術に対する誤解が矯正される流れが出てくれば、本望というものです。

ここ最近、本を読んだ方からの感想を頂戴していて、干上がった湖にバケツで水流して潤すような作業でも、十数年続けてきて、少しずつ水が溜まってきている?みたいな手ごたえを感じ始めています。

世の中は、まさに偽装問題で揺れまくっていますね。建築・政治・食品・・・と、世の中のいたるところで偽装(嘘)が発覚して糾弾されています。

これって、ひょっとして世の中の価値認識が変化してきたからではないかな?という感じがしますね。嘘についての許容度が低くなってきている。

もっとも大きな変化は、何といってもインターネット。嘘も飛び交うけれども、隠されていた真相について情報が明かされるようになり、それまでは何となく“当たり前”とされて見過ごされてきていた“暗黙の了解”が、通用しなくなってきている。

良いか悪いかは別として、これは変化すべくして変化してきている時代の要請なんじゃないか?と思えてなりません。

武術の世界は、今のところ、偽装を問題視する声は出てきていないみたいです。が、これが私には不思議で仕方がありません。

何故なら、武術の世界くらい“偽装”が歴史的にも日常茶飯事の世界は珍しいと思うからです。

「うちの流派を開いたのは聖徳太子です」「我が一門の開祖は聖天大斉孫悟空である」・・・なんて、真顔で主張してる流儀がザラにありまして、武術にとっては、歴史が古くて歴史上の有名人が開祖だというのがステイタスなんですね。

武術って、何か不必要に神秘的に見せたりし過ぎるから、どうにも実態がリアルに把握されない傾向があって、それが開祖の捏造(専門用語では「仮託する」と言います)に繋がっていくんだと思います。

私個人は、「そんな権威主義に頼らんでも内容で勝負すりゃあいいじゃないのよ?」ってしか思わないんですけど、そういう風に考える人って案外少ないみたいですね。

余談ですが、私が最近見たDVDの中では宇城憲治師範の技に感心したものの、一つ、拭いきれない大きな疑問も感じました。

それは・・・“気の妙技”として演じられている派手なパフォーマンスです。

宇城師範の真価は、長年鍛えた<観の眼・運足・突き蹴り・自然体の遣いこなし>にこそ有ると思います。これはお世辞でも何でもなく見事なものでした。

だから、私はそこが大いに勉強させてもらったと思っている訳で、実際に日曜日の稽古会では自宅でDVDを見て技術分析した後に公園に繰り出して宇城師範の技を再現してみたりして、大いに勉強させてもらっています。

しかし、多人数を数珠繋ぎにして倒すとか、そういう見世芸をやってしまうところは武術家としての恥の認識を心得違いされていると思いますし、ガッカリしてしまうんですよ。せっかくの優れた技が霞んでしまう・・・もったいない・・・。

この手のパフォーマンスは、基本的な重心操作と催眠暗示の作用で誰でもできるものですし、やればやる程、どんどん派手な反応を示すようになっていきます。神秘的なことでも何でもないんですよ。いや、はっきり言えば、武術ですら有りません。

最近、密かなブームになっている野口整体の創始者、野口晴哉も、この手の人間の生理反射を利用して武術みたいなことをやって見せた例があったそうですが、人間の心身の仕組みについて理解が進めば、不思議なことでも何でもないんですね。

私自身も舞踊や整体療法などから武術に応用していることが結構多いですし、色々な武術家の技や動きを観察して、すぐに盗むことができたりする訳です。が、これは身体の動きのセオリーが解っていれば、別に特別なことでも何でもないんですよ。

身体の軸線で観る・重心点の移動で観る・筋肉の緊張度で観る・目線で観る・・・これらの一つだけでも結構解りますし、いくつか組み合わせて観察すれば、かなりの精度で技術構造が解析できてきます。

だから、さも不思議そうに喜々としてやって見せている宇城師範をDVDで見ていると、まあ、無邪気と言うか何と言うか・・・皆がビックリ仰天してくれると嬉しいんだろうな〜?と思うんですけど、それってどうだろう?って感じるんですね。

合気道の世界では、ああいった“気の技”に関しては、やっているうちに段々現象として現れてきますが、それは暗示作用による過剰反応と受け止められていて、実は結構、多くの師範が弟子相手にできるものなんですが、「下品だから」という理由で隠してやって見せない場合が多いんですよ。だって、別に武術として役立つ訳じゃないし(やりたがる人もいます)。

この手のパフォーマンスを演じている人達に合気武術出身の人が圧倒的に多いのは、稽古内容にその手の現象が起こるのを誘発する要素があるからなんですよ。

西野流、流道、合気功、神意拳(創始者は西野流にも居た)、メビウス気流法、牛丸さん、柳龍拳・・・等々、気とか気功の訓練をしていると、気功で言うところの“自発功”、野口整体で言うところの“活元運動”が出てきて、身体が勝手に反射運動を起こす(これを専門用語で「感応にかかる」と言います)ようになり易い。

これを神秘的な現象と考えるのがそもそもの間違いであって、クシャミ、アクビ、貧乏揺すり等のように無意識に反射運動として起こる生理現象の同類であって、自覚していないだけで自然な反応なのです。

この方面の老舗としては、新体道がありますが、空手道から派生した新体道の母体である江上茂の松濤會空手道は、合気道開祖植芝盛平の甥で、親英体道を興した井上方軒の影響があって、実質的に空手道プラス合気武道なんですよ。それを先鋭的に進めたのが新体道であり、創始者である青木宏之先生の芸術家気質と相俟って、武道よりもボディワーク色が強まっていて、芸術家には新体道を学んだ人が随分多いですね。ちなみにメビウス気流法を創始した坪井氏は新体道もやっていましたし、現代思想、芸術の分野でも活動されています。

でも、この手の感応技は、それだけで実戦に用いられる技ではなく、弟子との稽古で起こる親和性によって高まる被暗示性の作用によるものであり、武術家が自分で誤解していると墓穴を掘ることにもなりかねません。

今現在、多くの武術家が、武術ならぬ手品紛いのパフォーマンスをやって見せることによって武術を語ってしまう“誤解を広めるだけの非常にマズイ潮流”ができあがってしまっていることが、「武術の歴史上の一大問題」だと私は思うのです。

本当に優れた武術は、武術の技の動きそのものが背筋がゾクッとするような美しさや何とも言えない感動が湧き上がってくるものなんですよ。作為的なパフォーマンスは要らないんです。

この前もちょこっと書きましたけれど、JKDの中村頼永先生の技や動きは本当に感動物でしたし(アクション・イベントで拝見したお弟子さんが私の文に感想を書かれていて恐縮しました。ありがとうございます)、合気万生道の砂泊先生の多人数捌きや、合気会の西尾先生の居合、蘇東成先生や全日本中国拳法連盟の臼井先生の八卦掌、賢友流の友寄先生の形意拳、太気拳に各種中国武術の動きを融合された岩間先生の変幻自在さ、拳志会の岡林先生の釵術や二丁鎌、そして空手から合気道、太極拳へと流れるように変化して見せられた動きは機能美の極致でした。そうそう、CSで観たロシア武術システマの演武も感動的でしたし、カポエィラもいいですね〜。

気のパフォーマンスはともかく、宇城師範の空手技も実に惚れ惚れさせられました。だから、余計なことはやらなくていいんですよ。

パフォーマンスのレベルで言うなら、アクション俳優の技能は武術家の遥かに上だし、舞踊家の動きは武術家の真似できないものです。こと“見せる”ということに関しては、プロには敵いません! おまけに、アクション俳優や芸術家の中には本職の武術家以上の“武芸”を体得している人もいるんですよ(黒人ドラムスの神様と言われた故ミルフォード・グレイブスなんてヤラという独自の武術を興しています)。

現在、演芸的武術パフォーマンスをやればやる程、実際の武術から掛け離れていってしまい、実戦力0の武術芸人が“武術の達人”として世間的に高い評価を受けて定着してしまうという前代未聞の<偽装武術時代>に突入してしまっている訳ですよ・・・。

そういう時代だからこそ、武術家を自認するなら、克己心を持って「これをやれば世の中に武術というものがどう受け止められるだろうか?」という影響を考えて節度を見極めないといけないと思うのです。

 

さて、今回の“本題”です。

つい先日出たDVD付きの武術ムック本(全体的には面白く読めました)で格闘家の平直行さんが甲野善紀氏の技を体験するという記事が載っていました。

このムック・シリーズのいつものパターンで、甲野氏が平さんに技をかけて見せて達人っぷりをアピールするというものでした。

でも、今回の出し方は問題が有ると思います。内容に偽りが有る。演出上の虚構と文章表現の誤りのレベルが今回はやり過ぎて逸脱し過ぎていると思いました。

悪気は無いんだろうと思いますが、あまりに安易過ぎる。読者に何を伝えたいのか?という原点回帰して考えていって欲しいし、有名人を利用して結果的に嘘を広めるような表現は絶対に良くないですよ。

今現在、息子さんやスポーツトレーナーの方、長年師事されてきた方などが独立されて甲野理論の武術を指導されていますが、「介護やスポーツ、日常動作の改善に役立つ」というウリ文句を特に否定するつもりは私にはありません。

それぞれの専門家からは批判も出ている様子ですが、私は自分の解らない点についてものを言うつもりはありません。

ですが、武術の研究家であり、かつて甲野氏に深く関わった者の一人として率直に申しますが、甲野氏の技も理論も、護身術には役立たないものだと断言します。

手裏剣や刀を持ち歩ける筈もないし、使える可能性があるのは体術だけでしょうが、相手に一々、腕を掴んでもらったり、「こういう具合に殴ってきてください」って頼まなきゃ使えない技じゃシャレにも何にもならない。

根本的なことを言えば、和服に一本歯の下駄履いて真剣持って歩くという扮装は、いかにも「武術家でございます」と宣伝して歩いているようで、「襲ってください」と言って歩くようなもので、根本的に伝統的な武術家としての心得がなっていません。

誰もツッコミを入れないのが不思議でしょうがないんですが、甲野氏に習って闘えるようになった人って、いらっしゃるんですか?

恐らく、純粋培養じゃ無理でしょう? 私が習ってた頃より、むしろあさっての方向に走ってるみたいに見えるし、何でそんなコントみたいな技ばっかり考えつくのかな〜?と首を捻るばかりです。

でも、純粋培養で習ってる人達は「自分達の技は時代の最先端を進んでいて空手やボクシング、合気道、柔道、剣道なんか目じゃない」なんて発言をしてるのを何度か耳にしたことがありました。

失礼ですが、そんな方々を見ると、“勘違いしたチワワ”に見えてしまいます。

生まれてこの方、ただの一度も他人とまともに戦ったことのない人達を武術の遣い手になったように勘違いさせて、その人達が勘違いしたままヤンキーのお兄さんたちからボコボコにされちゃったりしたら、どう責任取るつもりですか?と、私は言いたいのです。

武術の本道は、天地が引っ繰り返っても、「暴力からいかにして身を護れるか?」という点にこそある訳です。それを無視した武術なんて、“ミカンを剥いたらリンゴが入ってました(しかもマズイです)”みたいなもの。これを“偽装”と呼ばずして何と呼びますか?

現在、日本も治安の悪さは海外並になりつつありますし、それも通り魔的な事件が増えています。中途半端な“武術のようなもの”を習って、護身術として通用すると思い込むのは自殺行為になりかねません。

武術や武道を学ぶことの意義には、自分の現実の弱さを自覚するという点があり、それによって無謀な言動を慎む謙虚さが芽生える訳です。現実から外れた武術ファンタジーに酔わせてしまうのは想像以上に危険なことです。

甲野氏の達人っぷりを誇大に脚色するよりも、むしろ、古武術の研究家としての彼の等身大の姿を嘘偽りなく正直に伝えていくようにした方が、甲野氏の持ち味が伝わるし、読者の支持ももっと広がるでしょう。

甲野氏を、これ以上、無理やり達人として紹介しようとするのは、無理を通せば道理が引っ込む式の無茶苦茶なやり方であることを、武術の専門誌を作ろうとする人達は自覚しなければいけないと思います。

少なくとも武術・武道の業界で実際に甲野氏の講習会に参加して、こっぴどく彼が負けてるシーン(それも全く何もできずに惨敗しているところ)を見てしまった人は相当数いる筈ですし、隠すより告白してしまった方がいいんですよ。次から次に強い人を連れてきて甲野氏の技が凌駕するストーリーを無理に脚色するより、よっぽど賢明です。

別に“実戦力0”だって、研究家としての能力が秀でていれば構わないじゃないですか? 剣豪小説を書いている作家に実際の剣豪っぷりを期待する人はどこにもいないでしょう? 何で、“偽装”してまで達人っぷりを印象付けようとするのでしょうか? 私には、さっぱり理解できません。

甲野氏の沖ヨガの先生だった亡くなった伊藤昇先生などは、武道家として充分な実力者でありながら、それを前面に出そうとはせず、身体操作の指導家として分を守っておられたじゃないですか? 伊藤先生とは比較にならない甲野氏が武術家のつもりになっても危険なだけです。従順に技を受けてくれる人に一方的に技をかけるのでなく、少しでもまともに立ち合えばただの一度も勝ったことがないのに、何故、そんなリスクの高いことをするのでしょうか?

私のところに来る人達も、別に私の強さなんて全然、期待してないです。トレーナー能力を期待しているんですね。

だから、「長野先生は研究家と名乗っているから失礼ですが、武術の腕前の方は期待していなかったんですが・・・」と、しょっちゅう、お世辞言われて恥ずかしい思いしてます。私程度の腕前で達人と呼ばれるんだったら、世の中、達人だらけですよ。

型だけやっていて現実に闘わないと、とことん勘違いしてしまう人が出る。

甲野氏本人も、自分が隠して嘘ついてきたことを、無理せず自然に告白していくことで楽になれるんだし、絶縁していた黒田鉄山師範や宇城憲治師範(知らない人が多いでしょうが、犬猿の仲です。原因は無論、甲野氏が見栄を張って失礼なことを言って怒らせたからです)とかとも仲直りする切っ掛けになるかも知れないし、武術業界全体にとって良いことずくめですよ。

本人の虚栄心は悪癖だから直らないとしても、それを周囲の人間が抑えて補ってやることで、斯界の風通しが良くなって、甲野氏を触媒にして武術界全体が発展する可能性だってあるでしょう。かつての甲野氏が、合気道、肥田式強健術、鹿島神流、新体道、黒田鉄山師範、宇城憲治師範等を世間的に紹介する役割を果たしてきたように・・・。

同じ雑誌で出すにしても、そういう方向づけを編集側がやってあげれば、本の売上だって確実に倍増しますよ。だって、読者にとっても親近感湧くじゃないですか? メチャメチャ弱いのに、でも諦めないで頑張ってる・・・という姿を隠さなければ、もっともっと魅力的なキャラクターとして親しまれると思うんですけれど・・・。

それに、甲野氏独りの偽装された達人伝説にすがってたって、ブームが過ぎたらムックも出せなくなって仕事無くなっちゃうでしょう? 甲野氏が実は“全く闘えない人”だってのは武道の世界では結構、広まってしまっている公然の秘密ですからね。

ですから、今回のムック本を読んで、流石に呆れてしまいました。よくまあ、ここまであざとく偽装できるものだ・・・と。

 

しかし、読者は成長していきますよね。10年も20年も前のやり方で通用する道理がありません。いつまでも「中国の伝統武術の歴史と秘伝は云々・・・」とか、「〜拳は実戦的だ」なんてこと書いていたって、誰が面白がって読むでしょうか?

一部のマニア向けの情報誌としてやっていても先細りするだけです。何故なら、情報だけなら、もうインターネットで充分だからです。

だから、世間一般に知名度のある甲野氏を前面に出さないと本が売れない・・・という結論になってしまう。結局、編集コンセプトが時代の進行に遅れているんですよ。

我田引水になって恐縮ではありますが、甲野氏が多忙で出られなかった古武術ムックを私が編集協力したことがありましたけど、あのムックは結構、売れたそうです。私が企画出してると勘違いしてる人もいましたけど、あくまでもアレは頼まれ仕事です。自分の企画だったら、あんなパクリ丸だしのタイトルつけないですよ。恥ずかしい。

要は、内容次第でしょう。読者を引き付ける内容を作れないのは編集側に問題があるんです。素材も料理人の腕前次第で変わる。売れるか売れないかは雑誌作りの職人としての腕前の問題なんですよ。簡単な話、読者が読みたいと思うものを書けばいいんです。別に少しも難しくはないでしょう?

武術に対しては、「武道や格闘技の技にどう伝統武術の技が対抗できるのか?」ってことを読者は知りたい筈ですよ。きちんとした技術論を読者が理解できるように解説していかなきゃダメなんですよ。編集者やライターが自分達だけで納得していたって読者に伝わらない。マニア間の共通言語で雑誌書いてちゃダメなんです。

今はインターネットで様々な情報が飛び交うから、雑誌で一方的な情報流していても読者はついて来ません。インターネットは怪情報も飛び交うけれど、中には本当に真実に迫った情報が出ることもあるし、それによって社会の自浄作用が働くケースが段々、増えてきているでしょう? やっぱり、時代は日々変わってきている・・・。

私の実感として、世の中の武術愛好家は、一方的な情報に疑いの眼差しを向けるようになってきているし、実際に体験して選ぶことができる時代に、「うちの技こそが本物だ」と、いくら言っていても、他所と比べられて選ぶのは他人なんです・・・。今は読者の中にも専門家顔負けの事情通がざらにいるのです。自分の流儀のことだけ知っていれば充分と考えている人は、恐らく、今後、メジャーにはなれないでしょう。

だから、いくら「これが達人の秘技だ!」なんて言っていたって、そんなのに騙され続けてるほど読者は素人ばっかりじゃないんですよ。

元々、甲野氏のブレイクは、武道とか全然やったことない文化人系の人から広まって、そこに純朴な武道家や格闘家が巻き込まれてできあがった共同幻想としての“武術”ですから、比較対象が無い中で「そうか〜、これが達人の技なのか?」って、思い込まされているに過ぎません。

武術に詳しくない人達は信じるかも知れないけど、色々体験してきてる人は騙されないですよ。と言うか、武術業界では甲野氏の存在は武術界の七不思議の筆頭にされていて笑い話になっていますから、編集者やライターがそれを知らない筈がない。解っていながらやっている・・・そこに問題が有ります。

具体的に指摘しておくと、今回のムック本で平さんに甲野氏が技をかけて見せているのは、全部、非実戦的な手品的パフォーマンスでしかありません。一見、難しそうに思えるでしょうが、実際は極めて簡単にできます。むしろ、武道とかやっていない素人の方がすぐにできるでしょう。

試しに今度のセミナーで教えてみようか?と思いますし、何なら、ビデオカメラで撮って動画で出しても構いません。嘘つき呼ばわりされたくありませんからね。

「こんなことができても武術の実力の証明にはならないんだ」という現実を理解させるには、こういうことをやるのも致し方がないでしょう。

ただ、私自身は、こういう手品紛いのパフォーマンスを実演するのは気が進まないんですよ。武術の研究をしていて、何で、こんな無意味な技?をやる必要があるのか?と空しくなるのです。見世物芸を武術と誤解させる風潮を作った甲野氏と、その偽装を手助けした人達の罪は軽くはありませんよ。

甲野氏が演じる技は、全般的にまず、「間合と条件設定がおかしい」んですね。

読みもクソも無い。何故、あれで平さんが甲野氏の技にかかってしまうのか?というと、「平さんが(紳士だから)攻撃しないで従順に受けてあげてるから」です。

解説されている写真を見ていて「おかしいな〜?」と思うのは、“何で、その間合で殴んないのか?ということ”です。

甲野氏が技をかけるのを「防いでみなさい」って指示する時点で大きな間違い。現実には有り得ないおかしな状況設定で技をかけようとするのが変なのです。

私に言わせていただくなら、有名な格闘家に暗黙のヤラセに協力させておいて、「反射神経を超えた速さだ!」と、大ブロシキ広げて煽ってるだけです。誇大表現ですね。

「居着かない身体と居着かない心が生み出す速さ」なんて書いてありますけど、パンチをすれば顔面に届いてしまう近い間合で“じっと立ち止まって”動き出しを観察させる意味がナンセンス過ぎて、下手なコントを見せられている気分になります。

それに、反射神経というのは、相手が動いてから反応する神経であって、動き出しが読めないようにするテクニックで論じる問題ではありませんし、それを更に速度の問題で優劣を論じるのは明確な偽装表現です。この場合は、「相手に、こちらの初動に反応させないようにする身体操作術」だと言えば問題ないでしょう。

要するに、テクニックの根本的な原理(脱力と力のベクトルを変えること)を全く説明せずにおいて、誇大表現でイメージだけ煽ろうとしている訳です。これでは技術論として全く成立しません。読者は意味が解らないでしょう。

しかも、武術的に考えれば、足を止めて居着いていながら「居着かない身体」って表現するのは、阿呆らしいほどの嘘で、「冗談なのか? それとも書いている人が馬鹿なのかな?」と首を捻ってしまいます。

平さんがパンチしたら当たる間合で、顔面ガラ空きで技をかけようと集中してる暇がありますか? こんなものをやって見せて“達人の技”だと論じるのは阿呆らし過ぎる。武術もクソも有りません。「フザケルな!」の一言! 「読者を馬鹿にするのも大概にしなさい」と言いたいです。

前提条件の設定が“甲野氏の達人っぷりを演出するためだけに考えられている詐術”に過ぎない。ここまで作為的な状況設定では、武術とは言えません。人を愚弄している。

これじゃあ、平さんに失礼というか、悪質ですし、最早、武術ですらありません。

賭けてもいいですが、平さんが甲野氏の指示を無視して攻撃したら、甲野氏の秘技は、全部、無効になるでしょう。

「グラップラー刃牙のモデルにもなった有名な人物である」と、平さんを紹介しつつも、甲野氏の技の卓越性を偽装するのに利用している意図がミエミエで、私は、本当に物凄く不愉快になりました・・・。この記事を書いた人は、平さんに恥をかかせている点について何も感じなかったのでしょうか? こんな無神経な嘘を書いてゲストを辱め読者を愚弄する。甲野氏はそんなに偉い人なんですか? 

 

本当に、甲野氏は、いつまでこんな素人騙しの詐術を続けるつもりなんでしょう。

私が習っていた頃(20年近く前)から全く進歩していません。
「同じ技を俺にかけて見せてくれよ」って、押しかけて行ってみようかな?とも思っています。こんなヤラセで武道家や格闘家を騙くらかそうとする態度は許せない!

宇城師範くらい本当の実力がある人がやるなら、「もう〜、宇城先生も好きね〜(笑)」って感じで、まだ微笑ましいんですが、甲野氏に関しては、「貴方に羞恥心は無いんですか?」と言ってやりたいです。

甲野氏の偽装っぷりは今に始まったことではありません。

私が昔(15年くらい前)、甲野氏の顔面に平手打ちをバシバシ入れたのは、この平さんと同じ状況設定の中で、“防御不能の打ち”というのを実演している時に、指示を無視して攻撃してみたんですが・・・ちょこっと本気で打つと何の防御もできないし“防御不能の打ち”も出せなくなってしまったのです。打った私がビックリしました・・・。

別に道場破りに行った訳じゃないですし、甲野氏も顔を真っ赤にして目を三角にして突き蹴り肘打ちで応戦してきましたが、これがまた威力が無いこと夥しいんですよ・・・。

あんまり可哀想だから受けてあげましたけど、赤ちゃんパンチで全然効きません。中学生のパンチの方がよっぽど強いです。率直に言って、私が手合わせした中でも間違いなく最も弱かったです。

そういえば、この時に連れていった女の子のローキックも避けられなくて当たってました。とにかく、相手が自由に攻撃してきたら全然対処できない人なんでしょうね。だから、やたらに細かい注文をつけて“状況設定”に拘る。まともに闘えない真相を目隠しするための詐術です。

甲野氏は平静を装っていましたが、ショックを隠せず、帰りに挨拶した時も俯いて黙っていましたし・・・。

10年前くらいに、新体道の30周年パーティーでばったり顔を合わせた時は、慌てふためいてナンバ走りで逃げたから、よっぽど、私が怖いのでしょうね。

数年前にも、「真剣で真剣稽古しましょう」という気持ちの悪い手紙を貰ったこともあり、とっちめてやろうと思ってネットで公開したら、そりゃあもう、嫌がらせが酷くて、当時勤めていた大学の非常勤講師も「辞めさせろ」という匿名の手紙が学長宛に送られたくらいでした・・・(読みたいですか?)。

この時は私が当時教えていた会員数名が甲野氏の稽古会に乗り込んでお仕置きしてくる・・・ということもありましたが、会員曰く、「長野先生は、本当にあんなに弱い人に習っていたんですか?」と失笑されて恥ずかしかったです。

つまり、うちの会員達が圧勝してしまったんですが、「あまりの弱さにビックリしました」と申しておりました。ちょっと本気で打ち込んだらバシンバシン当たってしまった・・・とか、私が体験したのと同様の驚きの弱さを露呈したそうです。

その中の一人は、「あれだったら剣道初段の人とまともにやっても勝てませんよ」と申しておりましたが・・・。

もっとも、私が甲野氏の顔面をバシバシ平手打ちしてしまった事件の頃は、私もまだ若かったですから、「俺はいつの間にこんなに達人になってしまったんだろう? もしかして俺は天才なのかも知れない?」と“思いっきり勘違い”して、空手道場に出稽古に行ったら、組手で肋骨にヒビ入れて脚を腫らして引きずって帰り、「あれ〜、おかしいな〜? 俺は全然強くなってないぞ?」と思って、そこではたと気づきましたよ。

「俺が強いんじゃないっ! 甲野氏がメッチャ弱かったんだ!」という結論に・・・。

その後、様々な場所で甲野氏の<惨敗伝説>を40話くらい耳にしました。

講習会で投げられた・講習会で叩かれた・道場で投げられた・道場で叩かれた・大学生17人に投げられた・前蹴り一触で悶絶した(一応、倒した本人に確認したところ、「いや〜、悶絶はしてませんよ(苦笑)」とのことでしたが、「あんまり大袈裟に痛がるから呆れました」との感想でした。甲野氏にも恵比寿の喫茶室ルノアールで確認しましたが、放心状態で「悶絶はしてない。悶絶はしてない。悶絶はしてない・・・」とブツブツ呟いてた)・地方講習会でボコられた・他流の道場で合気揚げでふっ飛んだ・・・etc.

何か、物凄く悲惨な話のように思われるでしょうが、詳しく書くと面白過ぎて笑い死にしそうになりますよ。けれども、それをやると本一冊分の分量になりそうなので、やめておきます。

そもそも、ここまで世間的評価と実態がかけ離れている事例は、多分、日本の武術の歴史上でも前代未聞だと私は思うのです。

私の知る限り、甲野氏は素人にすら負けたりしており、およそ武術の実戦からは最も遠い世界の住人であって、武術の技の研究も、実戦に用いるという基本から外れていくばかりで、「介護やスポーツに役立つ身体操作法を研究している」という他分野での評価とは切り離しておかなくては、彼を通したら武術文化が誤解され混乱するばかりです。

実際に、ムック本で甲野氏の技を体験した平さんの感想のコメントを読むと、恐らくは、甲野氏が“戦闘力0”なのは見抜いた上で、彼のメンツを潰さないよう大人のコメントをされているように感じられました。それなのに平さんのメンツを踏みにじるような真似をするのだから、けしからんです。

ただ、平さんが「格闘技とは違って武術は最初からコツのある世界のようだ」と感想を言われていたのは、誤解であると言っておかねばなりません。

多くの武術流派では、コツは何年もしなければ教えてもらえないのが普通です。手取り足取り教えるような道場はむしろ少ない。3年間は黙って基礎練習をしろ!というのが普通だし、修行の内容には違いはあっても、システム上は格闘技とそう変わるものではありません。

流派によっても違いがあるし、何よりも甲野氏の稽古方法は武術の世界のスタンダードとは掛け離れているものだからです。

私が甲野氏を批判し続けてきたのは、本でも書いたように、ナンバに関する間違いも含めて、このように武術に対する誤解を蔓延させてしまうと思ったからで、間違いを質すのが研究家としての勤めであると考えているからです。

それから、もう一つ。これも指摘しておきますが、甲野氏は、身近な人達に、『たそがれ清兵衛』や『隠し剣・鬼の爪』の殺陣をつけたという話をしているのを、話を聞いた人達から知りましたが、そのような事実はありません。

これは、その両方の作品に関わった方複数からも確認を取っています。ですから、甲野氏は明らかに嘘をついている訳です。このような虚栄心から捏造された嘘を吹聴する態度は武術家以前に人としての信用を損なう“偽装”でしょう。日頃から、安易に軽口を叩くのが習慣になっていて、自身の発した言葉の影響力に無自覚だから、こういう虚言を吐いてしまう・・・。

 

以上、厳しいことを書きましたが、敢えて割愛している事例もあります。それを明らかにすれば甲野氏は社会的信用を全て失ってしまうでしょうから、武士の情けで、ここでは触れません。しかし、今後の甲野氏の言動を観察して必要と判断したら詳しく書くことも辞さないつもりです。

そもそも、武術文化を広く世間に認知させてきた功績は、かつて誰もなし得なかった立派なものであり、今後の甲野善紀氏が自身の分を弁えて謙虚且つ正直に有名人を売名に利用したりしないで活動されていくことを心から祈って止みません。

私自身は、甲野氏に対しては軽蔑以外の感情は特に有りません。理由はもう書く必要ないでしょう? どこをどうやっても武術家として尊敬できる要素が一つもありませんからね。

が、彼と出会わなかったら、恐らく私は武術の研究家として活動していく人生は選ばなかったでしょう。

ですから、先の本(『武術のヒケツ』)でも後書きで書いているように、恩人であることは変わりありません。

ただ、恩人であれば尚更、世を欺くような言動は止めて欲しい。『笑傲江湖』で“君子剣”と呼ばれる岳不羣(主人公のかつての師)の欺瞞に悩む主人公の気分・・・と言えば自己愛的に過ぎますが、『武術のヒミツ』でやたらと出てくる“某氏”というのが、全て甲野氏であったことは、本を持っている方は読み返してもらいたいと思っています。

今後、甲野氏が間違った方向へ進んで、これ以上、世間に誤った武術観念を広めるのなら、私自身が彼の“偽装”を暴いて引導を渡してやるという覚悟で見守らせていただくつもりです。それほど、件のムック本に書かれている甲野氏の記事は欺瞞に満ち満ちていました。

今回のブログは、ショックを受ける方が多いと思いますが、研究家の立場としては私の知っている真相を書くことで、武術業界の“膿み”を出していくことでしか斯界の真の発展はあり得ないと考えており、批判や反論、嫌がらせの類いは覚悟の上で書きました。

ですが、事実は事実。私は少しも事実無根なことは書いていないと自負しておりますから、真意をくみ取って読んでいただければ幸甚です。

最近のブログから読んでくださっている方はご存じないでしょうが、私が甲野氏を批判してきたのは十数年に及びます。現実に、彼のついた嘘によって迷惑を被った人達が少なからずいて、相談を受けたりもしてきたのです。

最後に、これは提案ですが、甲野氏は武術からは引退すべきでしょう。武術を捨てて、単に<身体操作の研究家>でいいではありませんか? 10年くらい前に、道場で私と話した時には、そうすると言っていたのに、いつまで見苦しく役に立たない武術パフォーマンスを演じ続けて偽装達人を演じ続けるのか? そうやって偽装武術をやり続けるほど、「武術なんてこんなものか?」という低い評価を世間に広めていってしまうのです。

一度は「先生」と呼んでいた人物のそんな姿はもう見たくありません。

散り際だけは美しく、潔く武術の世界から退場されることを祈ります・・・。

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2007/11/26 室内戦用に薙刀改造中?

刀の拵え作りに夢中になって、コジリを装着して漆塗料を塗り終えると、何か、もっと作業がしたくなってしまって、以前に購入したものの長過ぎて刀身を外したままにして放っておいた薙刀(山城守国重。刃渡りは約一尺二寸五分くらい)をカスタマイズすることにしました。

何しろ、この薙刀は、刀身を柄に装着すると天井に突き刺さってしまうくらい長く、多分、2m30cmくらいはありそうなんですが、流石に買ってから一度も稽古に使ったことがありません。

いくらなんでも、本身の薙刀を外でブン回していたら確実に通報されてしまいますからね〜。

余談ながら、以前、うちの会員だった人に「通報されても法律に触れなきゃ問題無しでしょ」と主張している人がいましたが、考えが甘いですね。通報された時点で、もう警察のブラックリストに御町内の要注意人物として記録されてしまうということは自覚しておかねばなりません。そうなると、何かの事件が発生した時にあらぬ疑いを受けて下手をすれば冤罪で一生を棒に振ることだってあり得るのです。

実際に、私自身も、数年前にあらぬ疑いで警察から問い合わせの電話がかかってきたことがありました。私に嫌がらせ電話を受けているという人達が警察に訴えを起こしているというのです。が、その訴えを起こしている首謀者が、以前から私になり済まして周囲の人に嫌がらせをして、その罪を私になすりつけようとしていたことが判っていたので、既に、地元の警察署に被害届けを出しており、その事実を話して「私の方こそ迷惑を受けているので、是非、きちんと調べてください。電話局で調べれば判るでしょう。私は潔白ですからどこにでも行きます!」と言いましたら、「あ〜、解りました。それならいいですよ」と、警察の方からもそれっきりでした。

まあ、本人に電話してくるぐらいなので、先方でも訴えている人達の様子が変だと思われていたのでしょうが・・・。この場合も、事前にこちらが被害届けを出していたことで救われた訳です。それによって、その首謀者の身辺調査がされていて要注意人物と地元の警察で記録されていたらしい話も聞きました。

つまり、人を呪わば穴二つというヤツですね。

ま、余談が過ぎましたけれども、武器を人目に晒すのは威嚇行為と受け止められる場合がほとんどですから、充分過ぎるくらいに注意し慎重でなければなりません。

先日も、会社に“ニンジャソード”を持って行っていて捕まった会社員のニュースを見ましたが、こういう具合になりそうな人間は武術マニアにはゴロゴロいますからね。

さてさて・・・、とは言っても、六畳間で2mちょっとの槍を素突きできる(対角線上でやるんですよ!)私も、回転動作が基本操作法である薙刀で天井突き抜ける長さでは室内ではどうしようもござんせん・・・う〜ん・・・困ったニャ〜。

まあ、柄を切断してしまえば簡単な話なんですが、恐らく江戸時代から伝わっているであろう薙刀の柄をチョン切ってしまうのは気が引ける・・・それで、以前、譲り受けた稽古用の槍を半分に切っていた残り(もう一本はマタギ用の袋ナガサが装着できるように先端を削った。これは伝統的なマタギの熊槍に倣って作ったものです)を加工して短柄の薙刀にしようか?と思っていたんですが、こっちは製作法のアイデアが固まっておらず、それで放っておいた訳ですね。かなり時間かかりそうだったから・・・。

でも、実はこの薙刀の柄は時間の経過で曲がっていたり虫に食われて穴が開いていたり木目に沿っていくつもヒビ割れができていたりして、そのままでは使えない代物だったのですね。

「使えないものを大事に保存しているのも何だかな〜?」と思っているうちに、フツフツと意欲が湧いてきて、「そうだ! どうせなら、朽ち果てる前に、この柄自体を切り詰めて短くするのと同時に、補修して実際に使える薙刀にしちゃった方が早いんじゃないかい?(って、誰に聞いてんのよ、オレ?)」と思った訳。

そうと決めたら、早速、思い切って柄をノコギリでギコギコと切断。自分で言うのも何ですが、私は一度決めると行動は早くて徹底してやる性格です。普段は温厚なのに、勝負すると決めたら暴走族やヤンキーだった人達(会員に数人います。何で、そんな人達が入っているのか? それはヒ・ミ・ツ・・・)から「ケンカのやり方が汚い」とか「凶暴過ぎる」と言われてしまうくらいですよ〜。

まっ、これで刀身を装着した全長が私の身長と同じくらい。これなら室内でブン回すのも無問題です。

柄のヒビ割れや虫食い穴には液状瞬間接着剤を流して埋め、表面を削ればどうってことはありません。もし虫がいたとしてもそのまま瞬間固定してしまえばいい。薙刀用の石突き金具は元々のやつを外してまた装着すればOKです。今回は楽勝かな?

と思っていたら、いや・・・ちょっと甘かった。

どうも、この薙刀は刀身の茎(なかご)を挿入する柄の穴がかなりガポガポです。目釘穴の位置は合ってますが、どうやら、この刀身と柄は別の物だったのでは? これはスペースを埋める加工も必要ですね。これを怠ると、何か斬った時に目釘が折れたり茎が折れ曲がる可能性もある。

そして、これが一番の問題点でしたが、薙刀の石突き金具は鉄のピンで固定されていて、その上から漆塗りになっていて、外せないのです。

ここまできたら仕方がないので、石突き金具の真上からノコギリで切断し、金具の中に残っている柄木をほじくり出す作戦にしました。いや〜、これが大変・・・。

まず、錐でいくつも穴を穿ってスペースを作り、穴と穴にノミの刃を当てて金づちでガンガン叩いて小割りしてほじり出す作戦だったんですが、ミッチリ金具に詰まっているので上手くいきません。無理やりほじっているとノミの刃先も欠けてきます・・・。

電動ミニルーターに穴開け用ドリルを装着してギューンと削ってみたりしても、中々、思うようにははかどりません。いや〜、シンドイっスわ〜・・・。

それでも作業しては休み、休んでは作業しているうちに、何とか金具の底が見えてきたので、そのスペースをノミで広げて、それからはノミを当ててゴンゴンと金づちで打ったらパキッと素直に柄木も割れていき、後は順調に細かく残った柄木を小割りにして取り除くことができました・・・ふうっ・・・疲れた〜。

で、金具の内部は結構錆びていて、内側に突き出している柄木を固定していた鉄ピンも錆びていたんですが、ちょっと驚いたのは、鉄ピンの錆びずに残っていた芯の部分は、曲がりはしても容易に折れないのです! 明らかに鉄に飴細工みたいな粘りがあります。

それで、ヤスリで削り落とそうとしても中々上手くいかないので、ふと思いつきで、金具の外側から金づちでコンコンと軽く叩いてみました。すると、何とスルッと簡単に外れてしまったではありませんか? 錆と漆で固められていて金具と融合しているとばかり思っていたのに、「昔の鍛冶職人の鍛えた鉄って凄いな〜」と、妙なところに感心してしまいました。

でも、ようやく石突き金具そのものの形を取り戻したので、これを新たに柄木の先端に装着すれば薙刀としての機能を取り戻せます・・・。

しかし、まだ未完成ですが、薙刀の技を工夫するのは楽しいですね。長物を狭い場所で自在に扱えるように稽古するのは、良い訓練になります。これまでは杖で我慢していましたけど、完成した暁には、若山先生ばりに薙刀を遣いきってみせまする・・・。
(気分はもう、『子連れ狼・子を貸し腕貸しつかまつる』ですよ・・・)

ウンチク;(薙刀編)
 薙刀の上手い役者さんというと、深作監督が撮った劇場版『必殺』で、真田広之が見事に遣いこなしていましたね。この時の悪役っぷりは凄みがありました。男優で薙刀の上手い人って少ないのは、薙刀が女性用の武器だとされているからでしょうけれど、弁慶の武器として有名なので、歴代弁慶役の人は皆、上手かった。緒形拳や松平健、それに中村吉右衛門も上手でした。特に『武蔵坊弁慶』に主演した中村吉右衛門の薙刀捌きは、ちょっと驚かされます。鬼平の立ち回りより上手いです。吉右衛門さんは『斬り捨て御免!』の時から、豪快さを出そうとし過ぎて剣を振る時に刃筋が波打つ手癖があったのが気になってたんですが、薙刀はその豪快さがプラスに働いていますね。また、仕込み薙刀は、子連れ狼の主要武器でしたけれど、若山先生、ヨロキン、北大路欣也と、皆、上手でした。それと、いつぞや里見浩太朗が敵の薙刀を奪って遣うシーンをちょこっと見たんですが、これがまた上手でしたね〜。刀は遣えても、槍や薙刀は操作法が根本的に違っていて棒術ができないと無理なんですよね。合気道が剣と杖を稽古したのは、それができれば大抵の武器が遣いこなせるからだと思いますけど、武器術や殺陣の研究をしている人は、剣術と棒(杖)術は両方やった方がいいですよ〜。

ウンチク2;(長巻編)
 薙刀に似た武器に、“長巻”というのがあります。南北朝時代に流行した刀身が極端に長い大太刀(野太刀)を扱いやすくするために柄を長くして薙刀みたいにしたものです。戦場で馬の脚をなぎ払ったという、いわゆる<斬馬刀>というのは、この長巻のゴツイやつのことだと考えられています。高田馬場の決闘で有名な剣豪堀部安兵衛は、忠臣蔵の討ち入りの時は長巻を使用していたそうです。私の愛刀<ミカちゃん>も、当初は柄を60cmくらいにして長巻風の拵えにしていましたが、私にはむしろ使いづらかったので、現在は切り詰めて、ちょい長めの柄くらいにしました。が、長巻自体の操作法も研究したいので、そのうち、別に製作してみようと思っておりますけれど、この長巻が時代劇に出てくるのは滅多にありません。でも、滅多に出てこない武器だから、出てきた時のインパクトは中々で、『阿修羅城の瞳』で渡部篤郎が使っていたのはアニメチックな演出で良かったです。また、丹波先生が主演して二刀流まで披露してみせる『隠密侍危機一発』では、敵役の内田良平が長巻を持っていて凄みを出していました。内田良平は、工藤栄一監督の傑作『十三人の刺客』で馬鹿殿を護る凄腕の家臣を演じていましたが、渋いハードボイルドな顔立ちの俳優さんでした・・・。

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2007/11/26 石原志保『昭和の体重6』感想

前回はまだ夏の名残で暑かったのですが、今回はいつの間にか秋も深まり、明日は立冬という中、桃花村の石原志保さんの『昭和の体重』シリーズの第六弾公演が、いつものプランBで開催されました。

先日の田中泯さんの舞踊を遅れて到着して数分しか観れなかったので、今回は、余裕をもって出掛けたつもり・・・が、電車が遅れていて、結局、また数分遅れで到着してしまいました。

都内在住の会員さんから「相模原は遠いっスよ〜」と、いつも文句言われてましたけど、こういう時は痛感しますね。

まあ、始まったばかりで踊りはバッチリ最初から見れたんですが、スペースが無くて、完全にフロアに座ると見えないし、立てば立ったで邪魔になる・・・咄嗟に、半身半立ちの居合腰になってしまったのは職業病というべきか?

でも、うちの居合術は全て“立ち居合”なんで、半身半立ちの居合腰で練習しないんですよね〜。だから、しばらく堪えたものの、ギブギブ・・・へこたれて爪先立ちの正座にしました(これでも結構、足痺れたよ〜)。

さて、会場は、ヘビメタのコンサートか?という感じの爆音ノイズに包まれて耳の穴が痛い(マジです)。どういう楽器を使ってるのか?と思って、灰野さんの持っていらっしゃる楽器?を見たけれど、私にはさっぱり解りません。一体、何という楽器なんでしょう?
 ひょっとして、灰野さんが発明した楽器では?と思ったのは私だけでしょうか?

しかし、何だか、このノイズィーな音楽の刺激が脳内にドーパミンとかエンドルフィンとかノルアドレナリンとかの分泌を促しているのか? 最近の私は、脳髄が痺れるようなこの刺激が心地よくなってきているのです。

そして、志保さんの今回の踊り場の舞台装置は?

天井から釣鐘のように吊り下がっているでかい桶。そして、転がっているでかい桶。そしてそして、満々と水が張られた桶・・・と、その傍らにやっぱり鎮座ましますヤカン!

「さて、今日はヤカンの出番はあるのかな? でも、あの水が張られた桶は何のため?」

さっと一見したところ、私は鈴木清順監督の『陽炎座』のクライマックスの舞台を思い出しました。「あの時は松田優作が見てて、大楠道代が踊ってたな〜」なんて、優作の命日の翌日(11/7)だったからか、ふいにそんなことを思いましたよ。

天井から吊り下げられた桶の中に隠れてしまうところは、まさに道成寺(安珍清姫)を想起させる(決して、エスパー伊東ではない!)し、桶に頭だけ隠れたところは、民話の鉢かつぎ姫みたい。しかし、桶の中に掴まるものとかあったんでしょうか? 爪先を伸ばして伸びたり縮んだりする志保さんのあの不思議な体技が今回もまた見れました。

長い手足を折り畳んで桶の中に隠れてしまうところなんて、最近、大ブームになってる“猫鍋”みたいですが、桶に入ったままコロリコロリと転がってみせたりするところは、座頭市を思い出してしまうチャンバラ好きの私でした・・・。

それにしても、今回の踊りは特にキツイんじゃないですかね? 目立たないところで異様に大変な技を駆使していて(見てても誰も気づかないでしょう)、見ているうちに移ってしまって、無意識に筋肉に力が入ってしまいました。

ふと、斜め前のオジサンを見ると、やっぱり手先をグネグネと蠢かせている。(むっ、ただ者じゃないな、このオヤジ・・・俺の目はごまかせんぞっ)っと、ふとした弾みで出てくる時代劇体質・・・。

ふう〜っ、それにしても無理な体勢で見てたからなのか、それとも志保さんの踊る気に操られてしまったからなのか・・・今回は異様に疲れてしまいましたよ。稽古でいつの間にか肋骨にヒビ入れてたらしくて背中痛かったのも関係ありましたけど、今まで見てきた舞踊の中でも最もハードに感じました。この前の極真空手の世界大会見た時よりキツイ。見てるだけでキツイんだから、踊っている人はいかばかりか? 終わった後の観客の中からも「偉い苛酷な演出だな〜」という声が・・・。

それにしても、まさかと思ったけど、やはり、水桶に首まで浸かってみせた志保さん。明日は立冬ですよ? 見たところ、湯気も出てないし、あれって水でしょ? ヤカンで水汲んで飲むくらいにしといた方が無難なのに・・・なんて豪快な・・・(小沢さんに根性を分けてあげて欲しい)。

その後の唐突に踊りだすオケサ・・・桶さ? やっぱり、シャレ? それとも俺の考え過ぎですか? もう、考えるのよそう・・・。最近、人間関係トラブッてて疲れてるし。「考えるな、感じるんだっ」と、ブルース・リー先生も言っていることだし・・・。

帰り際、田中泯さんと少し話して、「テングになるやつが多くって・・・」と言うと、「日本中、そんなヤツばっかりですよ(笑)」って・・・う〜ん、納得。

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2007/11/25 「やっぱりプロは違うな〜」という話

クエストさんから出していただく第二弾DVDの撮影場所その他の打ち合わせで、六月に稽古でお借りした大塚駅近くの“つばさ基地”を、久しぶりに訪ねてきました。

そこで主宰者でありアクション女優の秋本つばささんと久々にお話しましたが、先日、BS2で放送していた『アップルシード』のアクション(ロッカールームでロッカーの扉を回し蹴りして閉めるシーン)のこととか、ついついファン(オタク?)心理で、無関係なことを聞いたりしてしまいましたけど・・・。

いや〜、秋本さんは本当にサービス精神旺盛と言うか、ここまで飾らない女優さんには会ったことがありませんね〜(そんなに会ってないけどね)。何しろ、話している時も実演して見せてくれるんですから・・・。

で、つくづく思ったのは、「やっぱりプロは違うな〜」ということです。

私も研究家ではあっても武術の指導でお金を頂戴しているんだから、プロと言えばプロな訳ですけど、でも、やっぱり実質はアマチュアですよね。単に生活のために趣味を仕事にせざるを得なかっただけで、志しが足りないんです。お恥ずかしいです・・・。

当然、それは技能水準にも反映する訳で、ちょちょいっとやって見せてくれる秋本さんの動きは、私にはとてもできない。柔軟性、バランス感覚、その上に動きの<芸術性>がプラスされているんです。

本当に惚れ惚れしますよ。

プロというのは、技はできて当たり前。その上に人を感動させる芸が無くてはいけないんだという自らに厳しい姿勢がある。これが我々アマチュアとプロの違いなんだな〜。単に「好き」というんじゃなくて、「好きを人生賭けた仕事にする」という強靭な諦めない心の大切さを教えられた気がします。

オフレコで撮影のいろんな話もお聞きしましたが、20年くらい前にまだ自主映画作ってた頃の気持ちが蘇ってきて、「あ〜、俺も諦めないで映画の世界に行けば良かったな〜」とも思いました。

幸か不幸か、私はコテコテの武術業界にドップリ浸かって抜けられなくなりましたし、これはこれで面白かったから後悔はしていませんけど、「アクション映画が作りたい」という心残りはありますよね。

でも、今回、またまた驚かされたのは、秋本さんは元々はアクション女優として芸能界に入ったんじゃなくて、最初はレポーターとかされていて、それから一念発起してアクション女優を目指したそうで・・・。脱帽っス!

こういうポジティブな考えの人のところには、やっぱり本当に才能のある人達が集まってくるものです。つばさ基地講師の人達のプロフィールを見ると、ひゃあ〜、こりゃあ凄いわ〜って感心するばかり。まさに、アクション版水滸伝みたいな感じがしました。

一緒に行ったクエストの制作担当の方と話していたのは、「今は男は元気が無くって、女が世の中を引っ張っているよね」ってこと。

うちの第二弾DVDもともかく、クエストさんの“新路線シリーズ”(書きたいけど、まだ書けな〜いっ!)に御期待くださいませ・・・。

追伸;打ち合わせの帰りに町田のあおい書店に寄って、『押井守作品 真・女立喰師列伝公式解説書』と、『ナイフ・メイキング読本』、吉田豪さんの『続・人間コク宝』を買いました。『女立喰師・・・』は、佐伯日菜子がSFに主演しているから、『ナイフ・・・』は、日本刀は無理でもナイフくらいは自分で作ってみたいから・・・。そして、『続・人間コク宝』を買った理由は、高木淳也が出てたから・・・です! 高木淳也と言っても、ほとんどの人が知らないでしょう。しかし、かつてJAC全盛期に真田広之、黒崎誠輝に続く、第三の男として売り出され、『魔拳!カンフーチェン』『激突!カンフーチェン』というドラマ(『大戦隊ゴーグルV』のゴーグルピンク役で人気が出て特撮SF専門誌『宇宙船』の表紙モデルを勤めていた大川めぐみと、マス大山の義弟にしてチェンジマンの伊吹長官?も父親役で出てた)に主演し、黒崎誠輝主演の『伊賀のカバ丸』ではライバル役を演じており、ところが、その後、ピタリと表に出なくなってしまい、風の噂にJACを退団したという・・・。その後、若山富三郎先生も出演している『バッドヒストリー』というアクション作品を自主製作していたのをレンタルビデオ屋で見てからは、とんと消息を聞かなかったのです。が、この本の対談を読んで、「な〜るほどな〜・・・」と、疑問が全て氷解したのでした。ここが読みたいばかりに買った本でしたが、世の中、表の顔と裏の顔は違うものですよね〜。でも、高木淳也氏の今後の活躍に期待しています。

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2007/11/24 日本刀斬殺事件続報

資産家の日本刀斬殺事件の詳細について、週刊新潮に記事が出ていました。

それによれば、やはり、日本刀の長さは“刃渡り”ではなくて“全長”だったことが判明し、納得がいきました。ニュース報道の杜撰さだった訳ですね。

けれども、どうやら勲章を受けた資産家本人がドラ息子と口論の果て、一度はおさまったものの、夜中に日本刀を持ち出して息子に斬りつけた?らしいということが判り、それから自決したもののようです。

それにしても、勲章を受けることが決まった後に、何故、こんな馬鹿げた真似をやってしまったのか?

ニュースでは人格者のように言われていた資産家も、仕事の上ではかなり横暴なやり方をしていたらしく、やはり二重人格的な要素も感じてしまいます。

それでも、自分の息子を日本刀でメッタ斬りにして殺すという行動の異常さは理解しがたく、前後の見境のつかなさ加減は同情の余地がありません。

別の見方では、実際に日本刀を持ち出したのは息子の方で、それに怒った資産家が日本刀を奪ってメッタ斬りにしてしまったのでは?というものもありますが、奪い取った刀でそこまでやるか?となると疑問です。

それから、使用された刀は、最低でも2000万円もする鎌倉時代の後鳥羽院(日本刀好きで自分で刀を打ったのでも有名。菊の御紋が付いたので菊の御作りとか言われる)のお抱え刀工“福岡一文字派助則”で、井上馨が所有していたものなのだそうです。

何とも、ガッカリさせられる話です。こんな名刀を使って、何という愚かな真似をしたのでしょうか? 以後、この刀にはくだらない伝説が付いて回ることになってしまった訳です。

過保護のガキを持て余した父親が始末した・・・という話なら、過去にも武家社会であったでしょうが、この事件に関しては、あまりに愚劣と言わざるを得ません。

こうなる前に、躾としての教育のやり方をもっと徹底して考えるべきだったでしょう。

苦労させずに大事に育てることが、結果的に人を未熟で尊大なクズにしてしまう場合があるということを、この日本刀斬殺事件から学べたなら、それがせめてもの救いになるのではないでしょうか?

私も、自分が死んだ後も残るだろう刀や武術の技が、心ない人達に使われることのないよう、自戒していかねばならないと思っています。

ですから、私は、本気で武術について考えて、技よりも何よりも、まず私の考える武術観を理解して賛同した上で学びたいという人しか、入会させるつもりはありません。

シダックスの講座やセミナーならば、特別に制限はありませんが、それは、私が考える武術の姿を研究家として一般向けに知らせることが主な目的であって、正直言えば、そこで教える内容は“お客さん向け”と割り切っています。

だから、キツイことも痛いことも怖いこともやらないし楽しんでもらえばいい。

けれども、武術がその範囲だけで体得できると思うでしょうか? 命がかかった戦闘に勝ち残るための技を、そんなヌルイ稽古で体得できると思うでしょうか?

私が自分で「失敗したな〜」と思っているのは、研究会の稽古もその延長でやってしまったことでした。その結果、一部の会員に「武術は楽して強くなれる」という邪まな観念を持つ誘因になってしまったことを反省しています。もっと痛い思いや恐ろしい思いも時にはさせなくちゃいけなかったのだと反省しています。

何故なら、ルールを決めた試合ですら、実際に見知らぬ人と真剣に闘うのは怖いものだからです。

恥ずかしながら、私も29歳の時に一度だけグローブ空手の試合(余談ですが主催はスーパーストロングマシーン1号こと、日本人初のミャンマーラウェイと闘った武道家、村上祐尊先生。娘さん大きくなったな〜)に出ましたが、神奈川県の相模原から栃木の桐生まで朝一番の電車ででかけた時の行きの電車の中で私の頭の中に有ったのは、初めて体験する試合への恐怖心と不安だけでした。

フルコン式の自由組手は事前に練習していましたが、グローブで顔面たたき合う経験はしたことが無かったですね。打撃格闘技の技術は中国散打の木本泰司先生に教わったことを元に毎日8時間も練習していた頃だったので、結構、自信はあったんです。が、武道医学の同期だった元キックボクサーの須田達史さんからは真顔で「素人がいきなりやったら病院送りになるだけだから止めておいた方がいい」と言われた言葉が繰り返し頭の中でリフレインしていました。

「おなか痛いって言って棄権しようかな〜?」とか考えながら会場に到着し、村上先生に挨拶すると、“あれっ? 本当に来たんだ”みたいな顔をされていたので、この瞬間、“よしっ、俺の強さを見せてやるぜぃっ!”みたいな気持ちになったんですけど、試合は判定負け。相手の方の右ミドルキックを受けて肋骨折れた以外はまあ互角だったとは思うんですけど、須田さんがフットワークとか基本が思ってたよりできてたから驚いたとか誉めてくれたのが嬉しかったですね。病院送りにならなかったのは、木本先生に感謝です。

命がかかる訳じゃない試合ですら、こうですよ。精神的なプレッシャーは相当なものがあります。やったことの無い人には判らないでしょう。

これが命のかかった戦闘になった時の恐怖心を克服できるかどうか?となれば、ヌルイ稽古しかしていなければ確実にOUTでしょう。固まって動けなくなるのが目に見えています。

現在の武術ブームは、一度も真剣に戦ったことの無い人にとってのファンタジーになっていると思うんですよ。ヒーローが悪を倒すロマンを味わいたいから、強くなった気分に酔いしれたい人達が武術に群がってるだけだと私は思いますね。

だから、武術に群がる人達は、誰も戦いの現実を知ろうとはしない。衒学的な武術理論を全く理解もできないのに鵜呑みにして理解したつもりになっているんだから、危ないな〜と思いますね。殴り合いのケンカ一つ体験したことのない人が実戦を語り、技さえできれば空手でもボクシングでも勝てるという妄想に浸っている・・・。

グーパンチで人の顔面殴ったら、相手も痛いけど、自分の手だって無事には済まないんですよ。私も手合わせしてる時は気づかなかったけれども、後で自分の手を見たら関節のところに怪我していて完治するのに何カ月もかかったとか、爪が割れて血塗れになってたこととかありましたよ。殴られて口の中、ザクザクに切れてたり、右手の親指が脱きゅうしていたこともありました。大してやり合った訳でもないのに(1分かそこら)、人間の身体って、このくらい簡単に傷つくものなんですよ。でも、やってる最中は気づかない。

ましてや、プロの格闘家や空手の有名選手なんて、どれだけ自分の身体を痛めて必死に試合に臨んでいることか・・・?

そういうのを全然知らずに武術がどうのこうのとほざいている小賢しい人達を見ていると、こっちが恥ずかしくなってくるんです。「ヌクヌクと苦労知らずで育って現実が見えなくなってる自惚れバカが調子こいてんじゃねぇ〜よ」と言いたい・・・。

合気道養神館の塩田剛三初代館長は、「武術としての実戦合気道は、自分の代で終わりだ」と生前、言っていたそうですが、この言葉は、如何に技を体得できても命がけの戦いを切り抜ける精神力を持つ人間はもう出てこないだろうという気持ちから言われていたのではないか?と私は思っています。

これは時代の趨勢と密接に関係しています。殴り合いのケンカ一つしたことの無い人が今の日本では過半数を越えているでしょう。暴力そのものに対する実感が持てないようです。だから、試合の有る武道は、その代替になっているでしょう。空手や柔道、剣道は人の精神力や謙虚さを学ぶのに役立つものだと思いますね。合気道の欠点は、やっている人間が自惚れ易い点でしょうね。

私は、改めて試合中心の現代武道の良さを痛感します。自惚れ屋は嫌いだから・・・。

私の両親は戦中派でしたから、戦争の話をよく聞かされましたし、私自身、中学時代のイジメ(校内暴力)体験から自己防衛の必要性を痛感して武術を始めました。私にとっての武術は、自己防衛の手段であって、護身術として役立たないものには興味が無いと言い切っても過言ではありません。

ですから、私は多くの武道家が興味を持たないばかりか忌み嫌いさえする銃器類にも多大な関心を持っていますが、戦車や戦闘機になるとほとんど興味が無くなるのです。

何しろ、ヤクザ映画も戦争映画も好きじゃない。どうも、自分なりに考えて、どうしてこの手の映画が好きになれないのか?と考えると、「暴力そのものが嫌いだから」だと思われるのです。戦うのは好きだけど、暴力は嫌いなんですよ。正義感という言葉は好きじゃありませんが、それに類する感情が強いのは確かですね。

かと言っても、私は平和主義者ではありません。「暴力はいけない。平和が大切だ」といくら口にしていても、「いざ暴力に直面して為す術が無い人間の口先の理屈が、いかに何の解決にもならないか?」ということを実感しているからです。

この日本刀斬殺事件を起こした資産家の場合もそうです。息子の暴力を制圧できる覚悟と力が無いから、真剣で殺すしかなかった訳でしょう。

はっきり言って、弱いからダメなんですよ。さっさと勘当して、「自分独りで生きろ!」と厳しく突き放す強さがあったら、こうはならなかったのではないでしょうか。

そう言えば、三田佳子の次男が、また覚醒剤で捕まったそうですが、やっぱり何だかんだ言っても過保護で覚醒剤買えるだけの金を与えていたのがいけなかったのでしょう。覚醒剤は一度中毒になったら自分の精神力で抑えるのは、ほとんど無理。更生施設に入れても治るかどうかは五分五分でしょう。

多分、家庭内暴力もあったんだろうと思います。不登校生や引きこもりの人がいる家庭にはよくそういう事態があります。結構、そういう家庭を見てきたんですけれど、親が優し過ぎて腫れ物に触るように接してしまってる。だから、子供が甘えてダダをこねる。

過保護よりは勘当の方がいいんです。優しさだけでは人は育たないですよ。これは自戒も込めての実感です・・・。

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2007/11/22 「極真日本、勝たせてあげたい・・・」

フジTVの18日深夜に、極真会館の世界大会の様子を放送していましたが、日本のAとして期待されていた田中健太郎選手も、再々延長の末、惜しくも試割りの枚数で敗退してしまい、優勝はブラジルの選手に持っていかれていました。

田中選手は本当に頑張って闘ったと思います。悔しいなんて言葉では言い表せないでしょう。見ている私が悔しくて仕方がありませんでしたから・・・。

が、少し気になったのは、ちょっと身体を大きくし過ぎていたのかな?と思えたところでした。動きのキレが悪いように見えたからです。

体格差を埋めるために身体を大きく重くすることは、確かに打たれ強さやパワーを上げることには役立つでしょう。「極真空手の試合ルールでは、やはり、打ち合って引かない体格でなければ勝つのは難しい」と、極真を長く修行していた会員さんは言います。

しかし、必要以上に不自然に身体を大きくしてしまうと、スピードが鈍り、フットワークも制限されますし、スタミナも続かなくなる可能性があります。心肺機能にも負担がかかります。

パワーを得る代わりに、そんな代償も払わねばならなくなるのです。

私の会に、以前、フルコンタクト派空手の有名団体に所属していた人がいますけれど、その人は試合に出るために無理に体重を絞って猛練習を積んだために脳梗塞を起こして倒れてしまい、武道を止めてしまうしかなくなったそうでした。

その後、身体は回復しましたが、人間にとって健康が一番大切だと痛感して治療の道を選んだそうですが、やはり武道が好きなので、健康を壊さないような流儀を探していて游心流にたどり着いたのだそうでした。

今回、田中選手を見ていて、ふいにその人のことを思い出してしまいました。

私の目には、田中選手が自身でも気づかない身体のバランスが崩れている状態で試合に臨んでいるように見えたのです。

一発一発のパワーで圧倒しようと、足を止めて相手の打撃を我慢して我慢して重い打撃を叩き込んで逆転を狙う・・・という、典型的な昔の極真スタイルで立ち向かっていましたが、あれではダメージが蓄積されて一試合やる度に肉体が消耗し、特に打撃を受けたダメージで内臓機能が落ちてしまい、スタミナが保たなくなって動きのキレが悪くなる。

昔は「それで勝つのが極真魂だ」という精神主義でも勝てたでしょうが、現在では研究され尽くした闘い方であって、通じる道理もありません。

ボクシングでは一撃必倒を狙える顎やテンプル(こめかみ)よりも、ボディブローを数多く打って、スタミナを消耗させておいてガードが下がったところを顎やテンプルに打ち込んで仕留める・・・という基本的戦法があります。

突き蹴りを胴体で受け続けるというのは、どんなに筋肉で防御されていても内臓へのダメージは溜まっていくのです。本戦、延長、再延長と続けば、それだけダメージは深く蓄積されてしまいます。思うように身体が動かなくなってくるのです・・・。

20年くらい昔にクロネコヤマトで仕分けのバイトをしていた時、監督さんがボクシング経験者で、「顎を打たれると気持ち良くて天国に行くように失神するけど、ボディブローは地獄の苦しみだ」と言っていましたが、確かに小・中学生の頃は、ケンカで鳩尾にパンチがモロに入った時は苦しくてうずくまってしまったりしたものです。

田中選手の闘う姿には、“自分が頑張って勝たなくてはいけない”というプレッシャーに縛られて、自分の戦闘スタイルを崩して試合に勝つためのリスクの高い身体作りをしてしまったんじゃないか?という印象が拭えなかったのです。

試割り判定負けを宣告された時の田中選手の呆然と宙を見つめる目を見るのが、本当に辛かったですよ。必死の決意と覚悟を携えて臨んだ大会で試割り判定の敗退というのは、さぞや悔しいに違いありません。

部外者が勝手なことをほざくのは失礼なのを承知の上で、それでも敢えて、書かせていただきたいことがあります。

体格で劣る以上、そこで勝負するのに利はありません。外国勢は貪欲に新しい技術を採り入れて常に技術革新を図っているのが判るのですが、日本勢はあまりにも体格で負けないように・・・と拘り過ぎて、肝心の技術や戦法を工夫していません。敗因の要素は体格差ではなく、技術レベルの差だと私は思います。この点をしっかり認識しなければ、空手母国日本の栄光は二度と取り戻せないでしょう。

体格で負けないように・・・という弱点を補う考えは危険です。身長や骨格が違うのに筋肉量を増やして体格を同等にしようとすれば、身体のバランスは崩れてしまいます。動きのキレは悪くなるしスピードは確実に殺されます。無理な体重増加は循環器系の疾患を招く危険性もありますし、心肺機能にも負担をかける。つまり、墓穴を掘ってしまう。

体格に拘るよりも、むしろ弱点だと思い込んでいる日本人の体格や身体能力に沿った戦闘理論を構築していくことで外国勢に勝てる希望が出てくることを知って欲しい。
 でなければ、最早、外国勢に勝つのは無理でしょう。このことは実際に闘った日本選手全員が痛感されていると思います。「もう、どうやったって勝てない」という絶望感に打ちのめされているのではないでしょうか?

だから、私も提案させていただきます。

どんな武術も、元々、体格や体力が圧倒的に差のある敵を打ち倒すために考案されてきたものです。その原点に立ち返れば、勝てない道理はない!ということを・・・。

能書きを垂れるより、具体的な戦略の提案を記します。是非、参考にしてください。

第一に、徹底して歩法(運足)を磨くことです。
 外国勢はフットワークを駆使して動きながら突き蹴りを出しているのに、体格が劣る日本人が足を止めていたら狙い撃ちにされてダメージが蓄積されるだけです。これでは、一日に何度も闘わねばならない勝ち抜きトーナメントで不利です。絶対に足を止めて間合を固定して打ち合ってはいけません。前後・横・斜めに自在に動きながら受け払い、突き蹴りを繰り出す運足を磨けば、体格の小ささが逆にプラスに作用して外国人選手の死角に位置取りしながら闘うことができるでしょう。“身体で受けて返す”という戦闘スタイルから脱却することです。練習法としては、太気拳の這いとスリ足をミックスして練習することです。スリ足で運足する利点は、通常のフットワークが重心が上下に振れるのに対して、スリ足だと重心が振れませんから、熟練すれば動きながら足を固定して出すのと同等かそれ以上(重心移動のエネルギーを利用した場合)の打撃力が出せることです。全盛期の数見選手がこの運足を使っていました。あの動きの滑らかさにプラスしてスピードの緩急を使い分け、死角に位置取りすることを工夫すれば、体格差は封じることが可能でしょう。

第二に、インファイトで肘打ちを活用することです。
 これは上手く極まれば一撃で倒せる威力を持っています。入身交叉突きで入ると同時に体当たり気味に肘打ちを中段に打ち込む八極拳(頂心肘)の用法ならば、体格差をプラスに転換できます。極真のルールでは肘打ちは禁止ではないそうですが、誰も使いません。しかし、今回の優勝したブラジルの選手のように膝蹴りを多用する選手はたまにいます。膝蹴りが使えて肘打ちが使えない道理はありません。そして、肘打ちは文字通りの一撃必倒の武器になり得るのです。ただ、単体で狙ってもほとんど当たらないから誰も使わないのでしょう。肘打ちを当てるには体当たりの間合まで入るのが肝心です。通常の打ち合いの間合から半歩踏み込めば当たります。その入り方としては、内脚へのローキックを放って相手の動きを一瞬止めつつ、そのローキックの足を戻さず、そのまま相手の脚(股)の間に深く踏み込んで、一気に体当たり気味に飛び込みながら肘打ちを中段に入れるのが基本的なパターンです。これは一刀流剣術の“切り落とし”のように全身を日本刀に見立てて相手の正中線にぶちかましていく戦法です。的確に当たれば一発で必ず倒せる威力がありますから、是非、体得していただきたいものです。

第三に、相手の突き腕に乗って交叉突きを出すことです。
 これは、一種のクロスカウンターですが、思うほど難しくはありません。受け技で突き腕を払い落とす要領で、そのまま受けた腕をひねり込むように突き出すだけです。これは訓練すれば的確にできるようになるでしょう。コツとしては、内腕部分を相手の前腕部にペタリと覆いかぶせていくようにしつつ、そのまま腕をひねり込んで相手の脇腹にドリルをねじ込むようなイメージで擦りつけながら突くことです。ただし、受け押さえた腕を離してしまうと意味がありませんから、腕を離さずに擦りつけるようにねじ込んで打つのがコツです。こうすることで相手は突きを出そうとした力が殺されてしまうので、瞬間的にバランスを崩して“死に体(防御不能の体勢)”にする効果も得られます。防御と攻撃を完全に一体化させた交叉突きは、相手の攻撃を殺しつつ自分の攻撃は当てられるので、効率よく相手を追い詰めていくことができます。ちなみに、この突きは、必然的に相手の乳下の筋肉の薄い脇腹に近い箇所に当たることになりますから、相手は嫌がって容易に突きを出せなくなる心理効果も狙えます。これは形意拳の基本技の一つ、崩拳の術理を応用したものですが、馬庭念流剣術の“続飯付(ソクイヅ)け”の原理も参考にしています。

第四に、軸脚カッティングキック。
 これは、相手が蹴ってくる瞬間に蹴りは無視して軸脚を刈るようにローキックを食らわす“肉を斬らせて骨を断つ”ものです。回し蹴りの威力は、軸脚の支えとスピンで生じますから、蹴りを出してきた瞬間に軸脚を刈れば威力は出ない上に、大きくバランスを崩し、倒れなくとも重心が浮き上がってしまいます。そこを一気に畳み掛けて連打を食らわせれば防御力が減っている瞬間なので少ない手数で効率よくダメージを与えられます。これは中国武術の足払い技“掃腿”とローキックをミックスしたものです。とにかく、蹴り技を攻略するには軸脚を狙うのが有効です。外から蹴るより内から軸脚を刈り倒すように蹴りつつ肘打ちを当てる複合技も使えるでしょう。よく、剣道家が女性の薙刀にやられてしまったりしますが、ローキックの有効性を高めるには、威力よりも狙うポイントとシチュエイションを工夫することです。

第五に、寸勁打法の連打。
 これができれば体格差は関係なくなります。拳を引いて打つ必要もなくなるので、受けに専念し、そのまま交叉突きが楽に出せます。極真関係者も多数学んでいる宇城憲治師範の突きをDVDで見ていると、原理的に寸勁なんですね。それができるから、自信をもって相手の懐にスルリと入っていくことができる。かなり小柄な宇城師範が自分より二廻り以上の体格の相手を簡単に突き転がしてしまうのも、寸勁ができるから「これが当たっても倒れなかったらどうしよう」という不安を感じないからでしょう。当たってから威力を出せるので力のロスが無く、一撃で充分に倒せる訳です。ちなみに寸勁の威力の原動力は“重心移動力”です。小柄な宇城師範の驚くべき重い打撃力は、いくら筋肉を鍛えても獲得できないでしょう。これは脱力体ができなければ上手くできません。筋力に頼らず、リラックスした中から突き蹴りに体重を乗せて、“背中側へ突き抜くようなつもり”で出せるように練習してください。この“狙う箇所を当たる箇所より後ろに想定すること”で、打撃に貫通性(威力が作用する持続時間が伸びて力積が大きく“重い打撃”になる)が出てくる訳です。これは蟷螂拳の連珠砲その他の門派の寸勁連続打法の応用ですが、熟練すれば、拳から肘へと片手で連続打法を使うこともできます。

以上、御無礼を重々、承知の上で、研究家としてフルコンタクト空手に応用できる武術テクニックをいくつか提案させていただきました。御参考になれば幸いです。

これらのテクニックは、シダックスの講座や日曜日の本部稽古会での練習に参加されている極真空手修行者の方と一緒に考案してきたものです。やはり、長年修行されてきた方から具体的な質問を受けることで私も知恵を絞ってアレコレと考えることができました。

その中で、「これなら使えるだろう」と思うものを、今回、御紹介してみました。もう、ちょっとだけ応用すると更に使えるテクニックもあるんですが、極悪過ぎるので割愛して“ちょいワル”程度にしました。御紹介した戦法も、試合で使うには危険かな?とも思いますが、日本人が外国勢に勝つにはこのくらいの工夫は必要でしょう。

12月以降の月一のセミナーでも指導していく予定ですので、学びたい方は是非、おいでください(私は、調子に乗り過ぎると極悪テクニックonlyになっちゃうので、誰か止めてくださいね)。
 そして、空手母国日本の面目を取り戻していただければ私は本当に嬉しいです。

それから、最近、どういう訳か『武術のヒケツ』を読んだ入会希望者の方が増えてきています。第一弾の『武術のヒミツ』の時は、研究家として自分は顔出ししていませんでしたから、「口先だけで自分ではできない人だと思ってました」と、よく言われました。

第二弾の『武術のヒケツ』を出した時は、恐らく武道を長くやっている人達が入会希望してくるだろうと思っていたものの、内容が専門的過ぎて理解しにくかったのか、ほとんど変わりありませんでした。それに、会の内部の人間関係もおかしくなってしまったので、もう、去る者追わずで、会を広げるつもりも無くなってしまったんですが、今になって入会希望者が増えてきたのは皮肉なものです・・・。

どうやら、本が出て数カ月が経過して、ある程度のレベルまで武道を修行してきた人達の間で噂になってきているらしくて、何だか面はゆい感じがしますけれど、思い切って、交叉法の原理まで書いた甲斐があったな〜と思っています。

ただ、この点は御理解いただきたいのですが、「長野先生の技こそ本物だ」と熱烈に支持してくれる方がいらっしゃいますが、私の技はいろんな先生から教えていただいたことを自分なりに研究してまとめていったに過ぎません。「これが本物で、それ以外は偽物」みたいな独善的な考え方はしないで欲しいのです。

どんな流派門派、会派団体であっても、そこで独自に考えて発展した技術と理論があるものです。それを他所と比べて本物偽物と論じるのは間違いです。

今回、極真空手の試合ルールに沿った武術的戦法を提案していますが、これも試合ルールが異なったら、当然、内容を修正していかねばなりませんし、私の通常の戦闘スタイルだと顔面を狙いますし、関節を挫く技や投げ技に繋ぎますから、それらを禁止して“手による顔面攻撃無しで突き蹴りのみ”という条件で戦略を練るのは、想像以上に難しいものがありました。長年、極真空手のスタイルで稽古されてきた人達と共同でなかったら、とても考えつかなかったでしょう。

ただただ、教えを受けた諸先生方と、支えてくれた会員に感謝! それだけです。

熱烈な期待や激励をしてくださる方もいらして、私自身は会を広げる意志は捨ててしまいましたけれど、御要望には応えていきたいと思いますので、今後は定期的にセミナーを開いたりして御期待を裏切らないようにしていこうと思っています(新刊本やクエストから来春発売予定のDVDも御期待ください)。

今年もあと一カ月。来年は再出発の年にしたいですね。私も頑張るつもりだし、游心流から独立していく人達も、自分達の力だけで頑張って欲しいと思っています。

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2007/11/16 刀を持つということ・・・(甲野善紀氏のケース)

日本刀を持つということは、現代では何らかの特別な意識が働いている訳で、それは思想的な信念、信条を重ねている場合もありますし、あるいは、そのような信念、信条の存在を他者にアピールしたいという自己顕示欲の発露であったりする訳です。

昔、甲野善紀氏と電話で話している時に、「先生は真剣を持って歩くのは止めたらどうですか?」と言ったことがありますが、その時の甲野氏の反応は受話器を通してもはっきり判るほど、ギクリとした雰囲気がありました。

何故、そんなことを言ったか?というと、不登校生の私塾を経営しているK藤さんという人と甲野氏が対談した時に、K藤さんが「アンタは日本刀持ち歩くのは自分にコンプレックスがあるからだろう?」と喝破しており、甲野氏自身も自身のステイタスをアピールする小道具として常に革袋に入れた真剣を持ち歩くのが習慣になっていて、必要もないのに公共の場所(路上・学校・喫茶店・結婚式場ロビー等々)で真剣を抜いて見せるという常識を疑う行動を取る悪癖があったからです。

私見を述べれば、結局、甲野氏が真剣を持ち歩いているのは宣伝戦略に過ぎないと思っています。

そもそも、伝統武術の世界では、自分が武術をやっていることをなるべく部外者に悟られないように隠すことが基本の心得として教えられるのが普通です。

あれは、「武術という特殊な文化を継承する者の誇りを忘れないため」などという高尚な理由ではなく、猿芝居めいた売名行為以外の何物でもないでしょう。

だから、「やめたらどうですか?」と、素人受けを狙ったアザとい自己演出を止めて大人になってくださいよという気持ちでアドバイスした訳です。

あんな恥ずかしい格好をして歩く変人を、<孤高の武術家>と無理やり紹介して権威付けしたがるメディア関係者の愚劣なスケベ根性には怒りを通り越して呆れると言うか、「そこまでしないとメシが食えないんじゃ可哀想だな〜」と、皮肉でも何でもなく気の毒になってくるのです。

介護に役立つ、スポーツのパフォーマンスが上がる、日常の動作が楽になる・・・まことに結構です。でも、そこに「武術」である必然性なんて微塵も無いでしょう?

武術の唯一絶対の普遍的価値は、命が危険に晒された時に護身術として役立つかどうか?という点であって、私の目からは、甲野氏の示範するテクニックのどこにも護身術としての実用性が認められないのです。

ですから、どれだけ他の領域に役立つと力説されても、「はぁ〜、それが何か? 戦って勝てない武術じゃ意味ないでしょう?」としか思わないのですよ。専門誌の企画で名だたる有名武道家や格闘家に秘技?を演じてみせるのはもう充分なんで、「普通に闘って制圧してみせてくださいよ」・・・と言いたくなるのです。

無論、甲野氏の実力の程度を熟知しているから、冗談でも皮肉でもなく、「素人騙しのごまかしはいい加減にやめておいた方がいいですよ。演出すればする程、実力の無さを晒すだけで見苦しくなりますよ」と言いたいのです。

「いや〜、まともに闘ったら自分なんか負けますからね〜。全然、勝てないですよ〜」って、平気のへいざで言って、御自分が剣道家に30分間、ずぅ〜っと、ブッ叩かれた話とか、A原空手の館長に技を教えてあげようとして逆にボコボコにされたとか、そういう実話を40話くらい正直に吐露した『甲野善紀懴悔録 古の達人への道は遥かに遠く・・・』なんて新刊でも出してくれるなら、世の中に勘違いした空想武術家(自分が強いと勘違いして自惚れる一度も闘ったことのない人)を増やさずに済むから、そっちの方がいいと思うんですよ。

先日、古書店で買った盧山初男先生の著書では、御自身の敗戦について実に正直に書かれていて、人間として“本気で闘って負けることの気高さ”が感じられました。

武術家は、この“自分の負けた体験”についてきちんと語っていくことでしか、本当の武術の価値を世間に還元していくことはできないと思うんですよ。それは決して大衆を驚かすような秘技のパフォーマンスではなく、“本気で闘う”という姿勢を晒すことです。

その意味では柳龍拳なんて、あの真剣に闘った瞬間だけは本物でしたよ(グチャグチャ言い訳してんのは見苦しいけど)。結果が勝ったとか負けたとかの問題より、真剣に嘘の無い姿を見せられるかどうか?が大切であり、それをやれない甲野氏は、私は断じて評価しないということです。

だから、私は、今こそ、甲野氏は自分の虚栄を求める欲望から自らを解放して、後進の人達が妄想の世界に陥らないためにも、率先して自身の恥を正直に語るべき時期が来ていると思っています。

理論と現実は違う。我々はいい加減に現実をしっかり見つめて当たり前の努力をやらなきゃならない。楽して勝ち取る成功なんか、実はどこにもありません。メディアに関わる人達も、そろそろ謙虚に自分の足元を見つめ直して本当のことを書くようにしていかなきゃ先が無いですよ。ゴテゴテのデコレーション文章で羊頭狗肉を続けていたら、人はついてこない。それは食品や建築の偽装問題を見れば判る筈。武術ライターは自分の本音をきちんと書くべきです。実力偽装に協力しててどうすんだ? 「読者に何を伝えたいのか?」というコンセプトを基本から考えて、安易に「こうすりゃ売れるだろ?」という考えはやめなきゃ読者の支持は得られないですよ。世の中、なめた仕事しちゃ〜ダメ。

どんなに表現を工夫しても、作為は事実には勝てないんですよ。いつまでも武術を神秘的なイメージでくるんで不思議チックに解説しようとする阿呆な態度はやめなきゃいけない。誤解されて持て囃されるのって、お先真っ暗なんだから・・・。
 これ読んで、心にギクッとして欲しいです。今のやり方続けていたって、世間に取り残されるだけだよ(って、誰に向けて書いてるんだろ、オレ?)。

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2007/11/16 日本刀で親を殺して自殺?

日本刀好きの人間としては、殺人事件の凶器に日本刀が使われたというのは、人一倍、哀しいものがあります。

資産家で人格者と評判の地方の政治家が息子と口論して、父親が収集していた日本刀を持ち出した息子に斬殺されて、息子も自決した・・・らしいですが、何とも痛々しい事件です。

ところで、「こういう報道はマズイよ」と思ったのは、ニュースで、「刃渡り1mくらい」と報道されていたことです。日本刀で刃渡り1mというのは、三尺三寸もあるということで、普通の定寸の日本刀より一尺(約30cm)も長く、南北朝時代の大太刀クラスであり、ちょっと並の人間には使える代物ではないからです。

別の報道では「刃渡り90cmくらい(約三尺)」とされていて、まあ、これくらいなら、何とか使えなくはないかな?という長さですが、やっぱり、それでも長過ぎます。

これは思うに、“刃渡り”ではなくて、“全長”だったのではなかったでしょうか? 

刃渡りが70cmくらいで柄長が25cmくらいならば、合点がいきます。

こういう点を門外漢はとるに足らないことだと考えがちですが、実際に凶器として使ったのなら、それが本当に使える代物なのかどうか?という点はきちんと調べておく必要があるでしょう。

私は、武術研究の一環で刃渡り97.5cm(三尺二寸五分)の大太刀を注文打ちしてもらって、研ぎや拵えは自分でやってみましたが、このサイズの刀は実用に使うにはかなり無理があるということを実感しています。

以前、刀剣店で三尺一寸の刀を持たせてもらったことがありましたが、あまりに重くて、とても実用として振り回せる代物ではなく、「重量もそうだが、恐らく、茎(中心。なかご)が短くて重心バランスが悪いのだろう」と思いました。

この時の経験があったので、大太刀を注文する時は、「刃渡りは三尺二寸で、茎は一尺、目釘穴は二つ、樋も入れてください」と、自分の体格で扱えるギリギリの線を考えて細かく指定していたのです。が、刀匠の方がヤル気満々でものごっつい剛刀(ベルセルク?)を打ってくれたので、やっぱり予想よりかなり重くなりました。

でも、稽古用にはあまりにも出来が良過ぎるので、なるべく原型を崩さない程度にカスタマイズして拵えも作り、研ぎもきちんと専門家に依頼することにして荒研ぎに中研ぎをしている程度で使っています。

このように、稽古用には工夫して使っていますが、もし、私が日本刀で実戦に臨もうと考えるなら、もっと短くて軽く使えるものを選ぶでしょう。

実際の大太刀は、重(かさね)が薄くて意外と軽いと言いますし、阿佐ケ谷の骨董店で見せてもらった直刀で三尺の大太刀を抜かせてもらった時は、確かにかなり軽くて驚かされました。

一説に古刀の鋼の成分にはチタンが混ざっていて、それで鋼自体が軽いのではないか?とも言われています。古刀の頑丈さの秘密はチタン合金だったから?という話はアリかも知れません。

もっとも、重さがそれほどでなくとも、三尺という長さは抜き納めも難しく、多少、修行した程度の人では全く扱えないでしょう。

実際、腕力の弱い女性だと私の大太刀を片手で持てなかったくらいです。
 持ち主の私でもこの三尺二寸五分の刀を両手ならともかく、片手で自在に振り回すまでには至りません。

そんな訳で、この事件の報道内容には非常に違和感を持ったのです。刃渡りなのか全長なのか? これは事件の全容を解明するためには厳密に検討すべきことです。

有り体に言えば、居合道の高段者でも刃渡り90cm以上もある刀を片手で抜き納めして斬るというのは型通りにはできないでしょう(若山先生は『唖侍・鬼一法眼』でやっていました)。古流のいくつかの流派(神夢想林崎流・圓心流・景流等)にしか、このサイズの刀を抜き納めして斬る技法は伝わっていないからです。そういう刀を屋内で使うのは困難でしょう。

もし、事実、そんなサイズの刀を敢えて使ったのであれば、それは、「その刀に特別の執着があったから」と考えるべきであり、理論的な話ではありませんが、一種の妖刀伝説みたいな観念に捕らわれて“精神的におかしくなっていた”可能性も考えられます。

そうなると、単なる口論の果てではなかったかも知れず、事件の根幹に関わってくる話になる筈だと私は思うのです・・・。

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2007/11/15 やっぱりヒーローの拳銃はマグナムでしょ!

マグナム拳銃を使ったヒーローというと、ひょっとするとダーティーハリーよりも次元大介の方が早かったかも知れない。

ルパンのファースト・シリーズのパイロット・フィルム(TV局へのプロモーション用に作る見本作品)では、次元の愛銃は、コルト・エグゼクティブ38口径と紹介されていましたが、38口径の五連発ではパンチ力不足ということになったのか、本編では357マグナム弾(38口径と同じ口径だけど火薬量が増えて約二倍の威力になった弾丸)を使えるS&Wのコンバット・マグナムに変わっておりました。

でも、このコンバット・マグナムは五連発で描かれており、作画監督が間違ったのか?とも思えるのですが、そもそもコンバット・マグナムという拳銃は、それまでS&W社の大型リボルバー用のNフレームを使って作られていた357マグナム弾丸が撃てるM27、M28等の拳銃が重くて携帯に不便という現場の苦情で軽量化された拳銃で、一回りシェイプされたKフレームで作られたので、初期に少数のモデルで五連発のものが試作されたという話もあるのです。

もしかして、その話を知っていて海外の銃雑誌などから選ばれたのかも知れませんが、そもそも9mm口径(9mmパラベラム、別名9mmルガー)拳銃の代表格とも言えるドイツのルガーPO8にも、試作品の45口径のものが有るというんですから・・・。

まあ、どっちが早かったのかは調べれば判ることですが、狩猟用のマグナム拳銃を刑事が持つようになった切っ掛けは、疑う余地なく『ダーティーハリー』が最初でしょう。

357マグナム弾を考案したエルマー・キースが、更に強力な拳銃弾丸を考えて44マグナム弾ができたそうなんですが、これが発売当初は評判が悪くてちっとも売れなかったそうなんですね〜。

何でか? 反動が強過ぎて手首や肘、肩が痛くなるから・・・。

ところが、ダーティーハリーでクリント・イーストウッドが使ったら、バカ売れに売れてしまったんだそうです。

ちょっと、私が思いつく限りで挙げてみますと、『ビッグマグナム77』(確かイタリア映画だったっけ? マグナムでヘリを撃ち落とすシーンが売り)『華麗なる刑事』の高山一平(ケータイ刑事で復活)、『ドーベルマン刑事』『燃える捜査網』の千葉ちゃん、『最も危険な遊戯』の鳴海昌平(優作の代表作だよな〜)、『西部警察』のリキ刑事、『太陽にほえろ』のブルース刑事(又野さん、もっと長生きして欲しかった)、『警視庁殺人課』では菅原文太まで使っております。

また、マグナム拳銃が出てくる作品では、『刑事スタスキー&ハッチ』のハッチがコルト・パイソン357マグナムの6インチ・モデル(ダーティハリー2でパイソン4インチを使って以来、個人的にパイソン好きになったらしい)、『シティハンター』の冴羽凌が同じくパイソンの4インチ・モデル(一度、千丁の一丁の精密な命中度を持つワン・オブ・サウザンドの41マグナムを使ったことがあった)、『ドーベルマン刑事』Vシネ版で竹内力が357マグナム・モデルのスタームルガー・ブラックホーク(44マグナムとの違いは、回転弾倉の溝とトリガーガードの形で区別できる)、『ダーティーハリー4』でイーストウッドが44オートマグの8インチ・ロングバレルモデル、『スーパーマグナム(デス・ウィッシュ4)』でチャールズ・ブロンソンがウィルディ475オートマグナム、『エイリアン・ネイション』で主人公が麻薬中毒エイリアン射殺用に入手したフリーダム・アームズ454カスール・マグナム、『化石の荒野』で渡瀬恒彦が44オートマグ・・・等々が登場しておりました。

そういえば、あの杉良太郎でさえ刑事ドラマに主演し、コルト・パイソン357マグナムを握っていたのです。主題歌が演歌調で、「そいつの名前〜わぁ〜、ポォリィ〜スゥマァ〜ン〜」なんて杉良が歌っていたのが断片的に記憶に残っておりまする・・・。

変わったところでは、『ベイシティコップ』では藤竜也が2.5インチの短銃身カスタム化された44マグナムM29を持っていましたが、これって反動軽減のために銃身の上に発射ガスが抜けてブレーキの役割をするマグナ・ポートが付いた実際にあるカスタム拳銃をモデルにしたものでした。

そういえば、この作品の最終回を親友の部屋で一緒に見ていて、藤竜也と世良公則が最後に爆死する?という展開で終わってしまい、二人で何とも残念な気持ちになったものでした。『あぶない刑事』の人気で類似企画で制作された番組だったのでしょうが、そこまでやらんでも・・・と思ったものです。

実銃の世界では、既に44マグナムの三倍も威力がある500マグナム弾まで登場してしまい、ダーティーハリーが宣っていた「この拳銃は世界一威力があって、お前の頭をスイカみたいに破裂させられるんだぞ。試してみるか?」との文句も遠い昔になってしまいました。

けれども、コルト・ウォーカーモデルなんて西部劇にしか出てこない拳銃も、実は44マグナム弾より強力だった?という説もあります。

ライフル射撃のチャンピオンが日本の火繩銃を試し撃ちしたら、反動で後ろに引っ繰り返ってしまったという事件もあります。昔の鉄砲って、大砲を携帯用に小型化していったものだから、弾丸がでかくて、その分、反動もハンパじゃなかったらしいですね。

そういえば、『賞金稼ぎ』のTVシリーズの後半では、若山先生はS&Wの44マグナムをそのまま使っていて、「この拳銃は引き金を引くだけで続けて弾が出るんだ」とか言っていました。その拳銃は20世紀半ばにできた拳銃なんですけど・・・って、TVにツッコミを入れてしまいましたけど、まあ、若山先生だから何でもアリだよな〜。ジュディ・オングがウィンチェスターM73ランダル・カスタム撃ってたり、若山先生がコルト45バントライン・スペシャル(ネッド・バントラインがデザインして、コルト社に特注した12インチの長銃身のコルト45)を撃っていても・・・。

あっ、そういえば・・・『快傑ライオン丸』でタイガージョーを射殺した最強怪人ガンドロロ(『ドロロンえん魔くん』に登場した妖怪イヨマントに似てる?)が使っていた銃も、ランダル・カスタムでしたね〜。この銃は、ウィンチェスター・ライフルの銃身と銃床を切り詰めて短くした銃なんですけど、『拳銃無宿』でスティーブ・マックィーン演じる主人公ジェフ・ランダルが使っていたからランダル・カスタムって言うんですよね。だから、これはステージ・ガンとして作られた物なんで、『ナポレオン・ソロ』のイリヤが使っていたワルサーP38を改造したアンクル・スペシャルみたいに実際には無いんですよね。

日本のモデルガンやガスガンでは、マグナム拳銃が人気が高くて、S&WM500、M29、M19、M66、スタームルガー・ニューモデルスーパーブラックホーク、スタームルガー・レッドホーク、デザートイーグル、コルトパイソン、スマイソン(コンバットマグナムにパイソンの銃身をくっつけたカスタムガン)、44オートマグ、44オートマグ・クリント1等々が揃っています。

ガスガンが出始める寸前には、エアー圧縮式のカートリッジ・タイプのウィルディ・オートマグナムもチヨダから出ていたんですが、これは出来が悪い上に機構的に問題があったみたいで、スライドがスプリングの圧力で壊れて後ろに飛び出したりしていました。

が、その当時、「44オートマグの回転不良を改良したロータリーボルト・ロッキングにガス・オペレーション機構を組み込み、作動も良好で反動も抑えられる。よって命中率も高く、弾丸は44レミントン・マグナム弾より強力な45ウィンチェスター・マグナム弾を使う」というGun雑誌のレポートで、最新式の超高性能の拳銃というイメージがあったんですよね〜。

だから、エアガンは使い物にならなかったけれども、外見の迫力は捨て難かったので、私は当時、MGCから満を持して発売されたガスガン“ベレッタ93R”と、このチヨダ・ウィルディ・オートマグナムの大きさが近かったことにピンときて、ベレッタ93Rのスライドをカットしてウィルディのスライドをエポキシパテで接着して被せてみました。

更に、銃身の位置を調整して10インチのロングバレルにしてみました。インナーバレルはガンショップでカットしてもらったものに、命中率向上に役立つと当時の専門誌で解説されていた銃腔の出口内部をスリ鉢状に削るリーマー加工も自分で施し、ウィルディとの外見上の違いは、「ウィルディをカスタムしました〜」みたいに見えるようにトリガーガードを角型にして、グリップの前後共に滑り止め加工したりして銀色のステンレス風にスプレーで仕上げました。

これは私がこれまでカスタム加工したガスガンの中でも一番手間がかかったもので、二十年以上経過した今も持っています。手荒く作ったので今見直すとブサイクですけど、結構、命中率も威力も良くて、ウィルディの特徴の銃身上のベンチレイテッドリブと二つのクーリングホールがカッコイイ! 完全版ブローバック・ガスガンが発売されていたら人にあげてしまったかも知れませんけど、二十年以上も出ないしね・・・。やっぱり、実銃が宣伝ほどの性能ではなかったというのと、後発のデザートイーグルの方が普及したからでしょうね。

でも、44オートマグの8インチカスタムが出たぐらいなんだから、マルシンさんの8mmBBシリーズで出して欲しいですね。

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2007/11/14 土曜の夕方はシダックスで練習の巻

土曜日にシダックス・カルチャー講座が移ってから、新しく受講されている方々と話をするのが楽しいです。

武道経験が有るとか無いとか関係なく、何か楽しいんですね〜。

受付のお姉さんは、「何で、こんなに遠くからばっかり受講されているの?」と不思議がられていたみたいですが、確かに地元の人を対象にしているカルチャー講座なのに、私の講座だけはほとんど地元がいなくて一時間以上かかる遠くから来ている人ばかり。

でも、ここは天井も高いので、結構、剣とか棒とかも練習できるんですよね。

最近は、護身術ということをメインにしているので、ゴムナイフを使った短刀捕りの練習や、ヌンチャクもやったりしていますが、居合術の応用法としての無刀捕り(バットや棒で殴りかかってきたのに対処する)なんかもやってみたりしています。

何か、私自身、もう技術的に新展開は無いかな〜?と思っていたんですけど、不思議なもので、ここ一カ月くらい次々にアイディアが湧いてくるんですよね〜。

それと同時に、基礎錬体と歩法がより深まってきたというか、交叉法と歩法、手法が連環して勝手に技が展開していく妙な感覚を味わっています。

武道経験の有る人だと、特定の動きのパターンがあるんですけど、初心者にはそれが無い。だから逆に、こっちが予想していない動きが出てくる。それを技として洗練させていくことを思いついた訳なんです。

ある程度、身体に染み込んでいた動きのパターンが、またも解体されてきたような感じがするんですね。それが自分でも面白い。「あ〜、俺はまだまだ新しい動きがドンドン出てくるな〜」と思えるのです。

それもこれも、受講されている人達の新鮮な反応にこっちも共鳴しているのかな?とも思うんですが、とにかく今後の技の展開が予測できない面白さを久々に味わっています。

ところで、大太刀の鍔とコジリ金具を取り替えてみたところ、グッと重厚な感じになって、goodです。

コジリ金具は雨龍(「雨龍って何ですか?」って質問があったんですが、ウロコのついてない龍のことです)の模様がついているもので、突兵コジリより豪華なんですよ。突兵コジリは先端が尖っていたんですが、大太刀用としては貧弱に見えていました。取り替えたコジリ金具は角形なんで、こっちの方がゴツク見えて合います。

突兵コジリの方は二尺二寸七分の刀身だけのヤツに着けた鞘を削って装着しましたが、真鍮の色がくすんでいたので、石目黒塗りの鞘とコントラストが強く出るように・・・と思って磨いて金色の地が出るようにしてみました。何か、こっちもカッコイイです。

私、何故か金色が昔から好きだったんですけど、カバラ数秘術の本によると運命数がマスター数22で、ラッキーカラーがゴールドだったそうなんですね〜。無意識に自分のラッキーカラーを選んでいたんだな〜?と、ちょっと感動しましたよ。

でも、ゴールド好きの割りにはお金に縁ができないな〜・・・。

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2007/11/14 とみ新蔵『柳生兵庫助』が面白いよ

時代劇劇画の巨匠、平田弘史を兄に持ち、自身も古流剣術を修行している?との噂を聞く、とみ新蔵さんをご存じですか?

とみさんを知ったのは、『柳生連也武芸帖』を読んでからでしたが、作中のマニアックな武芸考証解説に、駒川改心流の黒田鉄山師範の影響が濃厚に感じられ、「これは実際に修行していないと描けないだろう?」という描写が面白く、楽しんで読んだものでした。

それで、他に作品は無いのかな?と思っていたら、私の大好きな『魔界転生』も劇画化されていたり、津本陽さん原作の『薩南示現流』も劇画化されていたり、リアルな時代劇を描かせたら当代随一ではないか?と思わせます。

そんなとみ新蔵の現在進行形の『柳生兵庫助』は、やはり津本陽さん原作の劇画化ですが、津本さん自身も戸山流抜刀術の遣い手ですから、ウンチクが面白い。

柳生連也の時は、敵役が柳生宗矩だったり柳生義仙だったり尾張柳生VS江戸柳生という塩梅でした。

この兵庫助の方は、やはりクセ者の宗矩も出てきますが、疋田豊五郎(疋田陰流)や富田越後(名人越後と呼ばれた。富田流)、小野次郎右衛門忠明(小野派一刀流)といった剣術界の伝説的スターが共演しているところがいいですね。

とみさんの劇画は武器の描写や武術の解説が入るところが斬新です。古武術好きの方は一読をお薦めします。

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2007/11/14 西村晃の最高傑作『マタギ』に感涙

二代目黄門様を演じた西村晃さんは、実は殺陣が上手いことが知られていまして、多くの時代劇で剣の名人を演じていました。

有名なのは、工藤栄一監督の出世作『十三人の刺客』の居合の名手ながら、刀が折れたらドブネズミみたいに逃げ回った揚げ句、みじめに殺されてしまう役が印象的でしたが、同じく工藤監督の『十一人の侍』では、野獣的な強さを見せて最後まで生き残る侍を演じていました。

また、五社英雄監督の『牙狼之助・地獄斬り』では、牙狼之助(キバオオカミノスケ。演じるは夏八木勲先生。それにしても凄い名前だっ!)の死んだ父親と、その父親にそっくりな侍(これがまた悪党なんだけど強い)を演じ、同じく五社監督の『御用金』では、冒頭で仲代達矢先生にあっさり斬られる居合の遣い手を演じておりました。

その他、結構以前にたまたまTVのお昼に放送していた昔の時代劇で、西村晃さんが延々と人を斬りまくってるシーンを見た記憶があるんですが、途中から見たのでタイトルも不明なのです。心当たりのある方はお知らせください。できたらもう一度見たい。多分、ビデオにもDVDにもなっていないんじゃないか?と思うんですが・・・。

しかし、西村晃さんの真骨頂は、TV時代劇のゲストでこそ光っておりました。
 正和サマ主演の『眠狂四郎』にゲストで出た時も狂四郎に匹敵する実力の浪人役でしたし、結構、ラスボスを演じられているのです。

特に、何故だか、柳生と縁が深くて、ヨロキンの『子連れ狼』第二シーズンの柳生烈堂(柳生宗矩の息子で、十兵衛や宗冬の末弟。仏門に入って剣は継いでいないそうです)をはじめ、役所広司主演の『宮本武蔵』と、ヨロキン主演の『柳生新陰流』で、柳生石舟斎宗厳(新陰流開祖・上泉伊勢守から無刀取りを工夫するよう命じられて新陰流二世を継ぎ、剣の柳生を打ち立てた人物)を演じていますし、国広富之主演の『新吾十番勝負3』では柳生如雲斎(石舟斎から新陰流三世を継いだ柳生兵庫助の晩年)をも演じていました。

ですから、私は西村晃さんといえば、柳生一族を思い出してしまうんですよね。

悪役や陰険な小物役も演じられていたので、印象は両極端ですが、実相寺昭雄監督の『帝都物語』では東洋初の人造人間“学天則”を発明した西村真琴博士を演じられていました。

が、何と! 西村晃さんは西村真琴博士の実の息子だったのです! 道理で知的な風貌をされていた筈ですね。

そんな西村晃さんの晩年主演した作品『マタギ』が、日本映画専門チャンネルの『典子は今』が権利問題で放送中止になった差し替えで放送されていました。

久しぶりに見たんですが、これがまた本当に名作なんですよ〜。

監督は後藤俊夫さん。青銅プロという独立系プロダクションなのでしょうけれど、雪山で本物の熊を使った撮影は大変だったろうな〜と思います。
 西村晃さんは熊撃ちの名人のマタギ役なんですが、ヒグマみたいな化け物熊に襲われて顔に傷痕が残っており、執念でそいつを追っています。その上、「あんな油臭せぇモンで撃っちゃあ山の神サンが怒る」といって、最新式のライフルではなく単発式の村田銃を使う上に、弾丸を三発しか持っていかない頑固者。カッコイイ〜!

ところが視力が衰えて名人芸の射撃の腕も発揮できなくなり、落ちこぼれのマタギ犬を孫と一緒に特訓して熊との一戦に臨むんですがね〜。この孫と犬、祖父との関係が感動物なんですよね〜。

危ないところをダメ犬が飛び出して助けたりするところも見せ場ですが、せっかく仕留めた熊も、「山の神サンに返すんだ」っていって、雪中に埋葬してしまうところは、何だか、『ドラゴンへの道』で強敵チャック・ノリスを倒したリー先生が道着を被せてやるところを思い出しましたよ。

また、祖父の視力が衰えていることを知って心配した孫が、祖父の後をついてきて、仕方なく祖父は吹雪の雪山で孫と一緒にカマクラを作って過ごすんですが、孫が酸欠になったりすると、咄嗟にカマクラの穴を広げて助けたり、凍った地面を掘ってフキノトウを採って食べさせたり、ちょっと、若山先生の『子連れ狼・地獄へゆくぞ大五郎』の雪山シーンを思い出します。

途中、クレー射撃の大会のシーンがあるんですが、西村晃さんは単発の村田銃でクレーを狙い、外したと思った瞬間、凄い速さで再装填してみせるんですが、これが惚れ惚れするんですね。結局、ここで的を外して視力が衰えていることが判るんですが、クレー射撃って、普通、ショットガンで散弾を使いますからね〜。次元大介かよ?って思いましたよ。

やっぱり、西村晃さんは剣を鉄砲に持ち替えても名人役が似合いますね〜。

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2007/11/12 東映チャンネルで『シルバー假面』と若山先生の『御金蔵破り』シリーズが放送!

ミラーマンのリメイクに続いて、シルバー仮面のリメイクがされた時、特撮雑誌の記事で「主人公はドイツ人と日本人のハーフの女で時代は大正時代」という設定にのけぞったものでした。

大体、特撮ヒーロー物のリメイクというと、「今の時代にリメイクするならば・・・」という点にプロデューサーは知恵を絞るものでしょう。

『レッドシャドウ赤影』では、赤影が仮面もせずに人も斬らない忍者になり、当然、巨大ロボもUFOも怪忍獣も出てこなかったのに激怒した人達(オレ)もいたでしょうけれど、アニメ版(記憶に無い?)もセンス・オブ・ワンダーが足りなかったし、月曜ドラマランド版(更に記憶に無い?)は黒崎輝(『コータローまかりとおる』のコータロー、『伊賀のカバ丸』のカバ丸を演じ、売れない頃の高畑敦子がセクシー女幹部役で出てたのが有名な『巨獣特捜ジャスピオン』のジャスピオンで、第二の真田広之としてJACがプッシュしていたものの現在は引退して沖縄でサーフィンスクールを経営しているらしい。ちなみに嫁さんは『超電子バイオマン』でセクシー女幹部ファラを演じていた飛鳥裕子。姉さん女房ですね。『影の軍団』シリーズでよく女風呂に入ってたから、それが縁かな?)主演で完全に悪ノリ・ギャグ路線(鈴木則文風)だったんだから、亡くなった“元祖赤影”坂口祐三郎さんも“白影”牧冬吉さんも、さぞやガッカリしているでしょうね。お二人ともに数多くの時代劇に脇役で出演されていました。ちなみに忍者が逆手斬りを始めた元祖は牧冬吉さんだったという説(牧さんの奥さんがとなえる)もアリ!

『ライオン丸G』もそうでしたけど、今の時代に30年も40年も昔の特撮ドラマをリメイクするというのは、私みたいに40代の社会的に一番活躍している世代にとっての「思い出よもう一度」に挑戦するということなんだから、よっぽど工夫しないとダメ出しの嵐ですよね〜。

そんな次第で、『シルバー假面』も、奇しくも異能の映像才人、実相寺昭雄(ウルトラマンやウルトラセブンで問題作ばっかり撮ってた人で、『帝都物語』や『ウルトラQ星の伝説』といった批評家が頭抱えて唸ってしまうような映画の監督としても有名。珍しいところでは『子連れ狼』や『長崎犯科帳』のオープニング映像も担当。実相寺アングルと呼ばれる独自の画角や魚眼レンズで俳優の顔のドアップを撮るなど、鈴木清順にも通じるシュールな作風がカルト的人気だった御方で、カルト的崇拝をしている映像作家も多いです)の遺作になったということのみがクローズアップされていましたが、そもそも名脚本家、佐々木守(こちらも時を同じく急逝されました)とのタッグで臨んだ『シルバー仮面』が、勝新が監督した『警視K』みたいに視聴者おいてけぼりの作家の趣味性がスパークしまくった作品だったのと、裏番組が『ミラーマン』で、円谷系列で巨大化しない特撮ヒーローというのは視聴率で低迷するのが必定。そんでもって大人の事情で路線変更。いきなり巨大化して怪獣・宇宙人と戦う『シルバー仮面ジャイアント』になったのが、佐々木も実相寺も残念無念だったそうです(でも、ガキンチョだったオレはジャイアント編の方が好きだったな〜。だって、シルバー仮面が宇宙人と商店街でミカン箱蹴り飛ばしながら殴りあってるところを通行人が笑って見てるのって、子供心にも“もの哀しい”よ?)。

だから、二人がかつての怨念を晴らそうとするかのように選んだ題材が『シルバー仮面』のリメイクという訳。でも、二人共に、これが遺作になってしまったというのが因縁なんですかね〜。

で、その『シルバー假面』ですが、旧作との因果関係は、光子力ロケット(マジンガーZが有名だけど、シルバー仮面の設定の方が早かった)の研究をしているドイツの秘密結社の博士がちょびっと出てくるのと、ラストで主人公の軍人さんがシルバー假面に変身する美女にプロポーズすると「私はさすらうだけ」とかサラッと断るところのセリフ(テーマ曲の「シ〜ルバ〜仮面は〜、さすら〜う仮面〜」って柴俊夫が歌ってる歌詞にひっかけてる)くらいで、ほとんど無関係。

シルバー假面に変身するハーフの美女ザビーネ(ニーナ。内田仁菜と改名した模様)の変身原理も、何とサイボーグではなくて、ニーベリンゲンの指輪の魔力を使って、戦いの女神ワルキューレの変身魔法で・・・?っていうハリポタか指輪物語チックな設定。

いや、驚きましたよ。脚本担当してる中野貴雄って、美女が相撲とったりプロレスしたりするユルユルお色気アクション専門の人(別に間違っちゃいない)だと思ってたから、いきなりサイボーグ009の北欧神話編みたいになろうとは? ユグドラシル、ヴォータン、ワルキューレにミッドガルドと来ましたか?

いや、何か『帝都物語』っぽくて、私は好きですね〜。ザビーネの親父が森鴎外だったり、軍人(加藤?)が出てきたり、主人公の友人が後の江戸川乱歩だったり(『帝都物語』のラストで玉三郎の正体が泉鏡花だと判ったみたい)、敵役のカリガリ博士とチェザーレって、ドイツ表現主義の名作『カリガリ博士』から採っているのが明白だけど、『鋼鉄のマリア』って出てくるロボットは『メトロポリス』の人造人間マリアが元ネタだし、そういう大正ロマン趣味の見世物小屋っぽさの中でシルバー假面が活躍するというのが斬新。

チェザーレが変身する怪人も、蜘蛛男、蝙蝠男って仮面ライダーじゃん? で、ロボットになる時は「精神が肉体を捨てて解放されるのだ〜」って、カリガリ博士の怪しい理論にイマイチ納得できない顔のまま。で、シルバー假面と蜘蛛男の対決は、お約束の糸巻き攻撃にいきなりプロレスの吊り天上ロメロ・スペシャルかけたり、この辺りは中野貴雄の映画みたいです。でも、ロボット、マリアとの対決は、何かキングジョーに痛めつけられてるウルトラセブン(見た目はボーグ星人?)みたいですね。シルバー假面は強いんだか弱いんだか、よく判りません。石橋蓮司のカリガリ博士はエキセントリックで可愛げがあります。ライオン丸Gの豪山はひたすら凶悪だったけど、こっちの方が石橋蓮司っぽいかな? 悪役なのに、もしかしてこの人は善人かも?って思えてくるし・・・。

さてさて、お次は、若山富三郎先生がTVの時代劇スペシャルで大活躍した『御金蔵破り』四部作です。

一作目の『御金蔵破り』は千恵蔵御大やヨロキンも演じた時代劇の名作ですけれど、老怪盗が江戸城の御金蔵を破る話で、ラスト以外に殺陣はほぼありません。ですが、江戸城の屋根の上での捕り物で若山先生のハートに火がついたのか(お約束のトンボも切ります! しかも、捕り方の刀を奪うとやたらに強くなる。元は武士か?)、第二作目以降は殺陣がメインになってます。

『新御金蔵破り』と『御金蔵破り・家康の首』は、繋がりがあって、元黒鍬者(忍者)の若山先生が忍術と武術を駆使して空を飛び、地に潜り、水中に雪山に大活躍(誇張しておりません)しております。随所に子連れ狼ネタがあるのも御愛嬌ですが、若山先生は若い頃に甲賀流忍術の藤田西湖に習った可能性もありまして、実は忍者役が似合う。特に忍者頭巾被って雪山で戦うシーンを見ていると、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』を若山先生が主演していたらな〜なんて思ってしまいます。

最後の『御金蔵破り・佐渡の金山を狙え!』では、若山先生の鉄砲大好きっぷりが炸裂していて、『賞金稼ぎ』シリーズそっくりです。っていうか、別に御金蔵を破る話じゃないんだから、『賞金稼ぎスペシャル・帰ってきた錣市兵衛』でも良かったんでねえの?

海を泳いで渡る時に鮫(って言うか、単に背鰭だけ)が出てきて「鮫は自分よりでかいヤツは襲わないんだ。フンドシを外せ〜」と、岡田奈々にセクハラ発言するシーンは、ドリフのコントみたいです。もしかして、若山先生がこのギャグが言いたいばっかりに付け足したシーンの可能性も?

しかし、必殺居合斬りや手裏剣術もマジで見せてくれていますし、この撮影当時はかなり晩年に近いのではないかと思うのですが、シリーズを重ねる度にアクションが激しくなっていっているのはミラクルですね(『風雲・真田幸村』でも、家康なのにトンボ切ってたしな〜)。流石、達人は老年になっても変わらない。

東映チャンネルは、映画の『賞金稼ぎ』『五人の賞金稼ぎ』『賞金首・一瞬八人斬り』も放送してくださ〜いっ!

追伸;大トホホ映画と言われる『恐竜怪鳥の伝説』を見直しましたけど、これって結構、ホラー・テイストがあったりUMAブームの今こそ再評価されてしかるべき映画ですね。何しろ、富士の樹海にプレシオサウルスとランフォリンクスが出てくるという、モケーレ・ムベンベとコンガマトーが共演してるみたいな映画ですからね〜。UMAファンは絶対、見なきゃいけませんぜっ。

追伸2;『素浪人・月影兵庫』で、月形龍之助が兵庫も敵わない剣術道場の大先生役で出てる時に、近衛十四郎は敵の刀を奪って二刀流も披露してましたよ。やっぱり上手い!

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2007/11/12 バイオハザード3は面白かったぜいっ!

ミラ姉さん自ら率先して宣伝している『バイオハザード3』を、早速、劇場に観に行ってきましたよ。

TVで1と2をチャンネル違いで放送し、オマケに3の冒頭7分も流す・・・という予告編云々というより、そんなのアリですか?って感じの宣伝戦略にマンマと乗せられてしまったスーパーヒロイン・アクション大好き親父めでございます。

出産したばかりでプクプクした顔のミラ姉さんも、映画では精悍なアクション女優っぷりを披露してくれています。実際の性格はガハハ親父みたいなノリの良い女と評判のミラ姉さんですが、もうすっかりアクション女優が似合う人になりましたね(ミラ姉さんが「ガンカタやりた〜いっ!」ってだけで主演した『ウルトラバイオレット』のことは無かったことにして・・・)。

今回はステンレススチールのコルト・ガバメントのコンバットカスタムに、傭兵種族グルカ族の使う戦闘用山刀グルカナイフ(通称ククリ)の二刀流、そしてマーシャルアーツとサイコキネシスまで体得した最強進化形になったオリジナル・アリスと、無数のクローン・アリスを演じ分けております。何か、エイリアン・シリーズみたい?

もう、ここまでくるとゾンビ映画のカテゴリーで考えるより、SFヒロイック・アクションと思って観ていた方が納得いきますね。

監督のラッセル・マルケイは、『ハイランダー』とか『レイザーバック』といった、映像のカッコ良さを最優先してストーリーは支離滅裂というのがお約束の方ですが、今回は割りとストーリーは纏まっていてそんなに破綻はしていません(してるかな?)。

ここで少し、ゾンビ映画についておさらいを・・・。

そもそもゾンビとは、西インド諸島の小さな島国ハイチに伝わるヴードゥー教の魔術師がフグ毒(テトロドトキシン)等を用いた秘薬で仮死状態にして死んだと思われて葬られた人を催眠術で操って使役したという話が出どころ。

このゾンビが、ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に登場した人肉食いの動く死体(リビングデッド)の通称として広まったのが現在のゾンビ映画の原型と言われておりまする。

そして、これが一気に市民権を得たのが、『ドーン・オブ・ザ・デッド(邦題ゾンビ)』の世界公開によってでした。SWATチームとゾンビの群れが戦うシチュエイションなど、アクション映画風になって脳髄を撃たないとゾンビは死なないというお約束も、これ以降だったとされます。かくて、ゾンビは吸血鬼映画を凌ぐ勢いでモンスターの人気者となっていったのです。

以降、『ゾンゲリア』『バタリアン』シリーズ、『デモンズ』シリーズ、『エルゾンビ』シリーズなどや、香港の『キョンシー』シリーズといった亜流を続々と生み出していったのです。

中でも、悪趣味の極致を示したのが、イタリアの巨匠ルチオ・フルチ(実際に精神をちょっと病んでおりました)の『サンゲリア(原題はイケシャアシャアと、ゾンビ2となっておりました)』でした。これはゾンビ現象を風土病と位置付け、腐乱死体が蘇って襲い掛かってくる描写のグロさや、海中を歩くゾンビが鮫と戦ったり美女の目玉にトゲが刺さる意味無し描写が大評判となりました。ちなみに主演のティサ・ファローは、ホラーの名作『ローズマリーの赤ちゃん』に主演したミア・ファローの妹で、確かに風貌がよく似ています。

ロメロのリビングデッド・シリーズは、アメリカのベトナム戦争以降の宗教的社会不安を暗示したと言われていますが、フルチにそんな思想はありません。ひたすらグロさとデモーニッシュな絶望感を煽るマゾヒズムまっしぐらの展開が、一部の愛好家にカルト的人気を博したのです。

ルチオ・フルチは不幸な最期を迎えましたが、そりゃあ、あんだけグロい作品ばっかり撮ってたら運勢が歪むに決まってます。『墓地裏の家』『ビヨンド』『地獄の門』といったグロさも窮めればアートに感じる?というくらい倒錯的な作風は、余人には真似できないでしょう。『地獄の門』の設定なんて、H・P・ラブクラフトのクトゥルー神話にオマージュを捧げていたりするんですが、誰もその点に気づかないくらいグロいですよ。この感覚って、日野日出志の漫画にも共通するかも? 多分、フルチのファンは日野日出志も好きだと思う・・・。

大体、ゾンビ映画の魅力というのは、はっきり言ってマゾヒズム! さっきまで「君こそ全てだっ」と思っていたのに、ゾンビになったらブチ殺す・・・とか、そういう人間性喪失の世界観がテーマなのです。その点、大槻ケンヂ原作の『ステイシー』は、結構、ゾンビと愛について深めてたな〜と思いますね。監督も病んでたし・・・。

まあ、そういう特殊な例も有るには有りますが、大抵のゾンビ映画は、んなこたぁ関係ない! 逆説的にヒューマニズムを描きたいのかな?って、ちょびっと思った貴方は甘いですよ〜。ゾンビ映画にそんなセンチメンタリズムは無用です。群がるゾンビの「頭を狙って撃てぇ〜っ」ってのがテーマですね。そのハラハラドキドキっぷりを堪能するためだけに喜々としてラテックスを顔に張り付け、血糊をヌリヌリしてンガァーッとつかみ掛かるゾンビ大好きな映像作家がアマもプロも問わずに続出したものでした。現在、有名になっている映画監督なんかがアマチュアの時代に『死霊のはらわた』のパクリ映画撮ってたりしてるんですよ(大阪芸大出身の皆さん。出世頭は庵野監督ですね)。

日本人もゾンビ映画好きなんですよね〜。『ゾンビ極道』『極楽ゾンビ』・・・室賀厚監督や北村龍平監督もゾンビ映画撮ってますよね。

中でも、北村龍平監督の出世作『VERSUS』は、サムライ・ゾンビやヤクザ・ゾンビがバンバン出てきた揚げ句、主人公もゾンビになって蘇る! 

今後もゾンビ映画は色々なパターンで続いていくでしょうね。

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2007/11/11 駅員さん受難の時代?

新聞に、駅員が暴力を受けるケースが多いということが載っていました。

確かにそうでしょうね〜。う〜ん・・・私も夜遅くの電車の中で酔っ払いにからまれたり痴漢してる小父さんを止めたり、結構、遭遇してますからね〜。毎日、そうした現場で働いていたら、日常茶飯事でトラブルにも遭遇してしまうでしょう。

大体、夜というのは、どんな人でも精神的に抑圧している部分が解放されてくるものですからね。だから、夜に文章書いた方が面白いこと書けるんで、私はわざと夜に原稿書くようにしています。時々、支離滅裂になり過ぎたりしますが・・・。

しかし、電車内の暴力トラブルに普通のサラリーマンに過ぎない駅員が対応しなければならないというのは無茶な話ですよね。

警察官や警備員が車輛に一人ずつ乗り込む訳にもいきませんし、本当に大変です。

何だか、我田引水になってしまって恐縮なんですが、やっぱり、護身術を学ぶ重要性というのは年々高まってきているんでしょうね。

ですが、護身術という観点で合理的に研究されている武道って、日本にはむしろ少ないと言わざるを得ません。アメリカみたいにセルフ・ディフェンスの考えが民間に浸透している国だと、合理的な護身テクニックを常に考えて改良していきますが、日本の場合、むしろ武道やっている人間の方が護身テクニックのノウハウを知らなかったりしますから、危険だと思いますね。

ノウハウを知らないと言うのは、日本の武道家って、武器術を全く知らない人が多いので、安易に素手で立ち向かおうとしてしまうケースが多く、また、素手だと思っていて隠し持っていたナイフで刺されて命を落としたという事例もいくつもあるんですよ。

昔、能力開発研究会を主宰されている先生とお話している時に、「長野さんは長年武術をやってきて、具体的に護身術として役立つのはどんな技があると思いますか?」と聞かれて、即座に「エアーサロンパスですね」と答えたら、「へっ?」と、キョトンとされていました。

それで、「いや、武術の技なんて私くらい長く稽古しててもどれくらい通用するか判らない。でも、エアーサロンパスをバッグに入れておいて、危ない時に相手の目にシューッと吹き付けるだけで女性でも大の男をしばらく戦闘不能に陥らせることができます。護身術ならできるだけ合理的で確実な効果があるものでないと意味がありませんから、武術の技に拘る必要はないでしょう」と説明すると、笑いながら、「なるほど・・・そりゃあそうですね。私はてっきり長く武術をやっていらっしゃるから、何か特別な秘伝とか言われるんだとばっかり思ってましたよ」と言われていました。

そういえば、この時、初めて蛙の唐揚げを御馳走してもらいましたね〜。この方は関西にお住まいで、「戦争と震災で、人様の遺骸を運ぶのを二度も体験しました」と話されていました。転居した時に連絡先が判らなくなって、随分と御無沙汰していますが、お元気にされていらっしゃるでしょうか?

おっとっと・・・、話が飛んじゃいましたね〜。

駅員さんとか学校の先生とか、多数の乗客や生徒を護らなければいけなくなる仕事の人には、研修のカリキュラムの中で護身術も学んだ方がいいのではないでしょうか?
 それも、普通の武道ではなくて、護身術としてのテクニックと防衛意識、危機回避の知識を学んだ方がいいと思います。

その意味でも、武道や武術を学ぶ人は、特に護身術の研究をすべきだと思いますね。咄嗟の場合に被害を最小限に留められるかどうか・・・という観点での護身術は、それこそ万人に必要なものですよ。日本人の危機管理意識の低さは先進国ではダントツで一位ではないですか? その意識から変えないといけないと思いますね。

それに、日本人は、暴力をちらつかせられると途端に何もできなくなる人が多いでしょう? 多くの人がたった一人の暴力的言動に何もできずに支配されてしまう。刃物を振り回しているとか、そういうのなら、まだ解るんですが・・・。

そこにいくと、映画の舞台挨拶で、堀北ちゃんに突進してきたファンを、咄嗟に取り押さえた堤真一さんと吉岡秀隆さんは立派ですね。

堤真一さんはJAC出身だし柳生心眼流を修行していて、現在、SPのドラマ(これは面白いですよ。岡田准一はハマリ役)にも出てますけど、まさか、実際にSPになってしまうとは? 揉み合いになった時に、舞台から1m下に落下してしまったそうですが、怪我が無くて何よりでした。結局、そのファンも害意は無くて猛烈に反省していたのでモーマンタイで許してあげたそうですが・・・。

しかし、この事件だって、本来なら、警備する人間が目を光らせていなきゃいけないですよ。海外からやってくる大物スターなんて、プロレスラーみたいなボディガードが近くにくっついてるでしょう?

私も以前、某漫画原作者の講演会で頼まれて警護したことあります。右翼の脅迫が有ったからとのことでしたけど、ピストル持って乱入してくる可能性があるって話だったんで、こっちも武装して臨みましたよ。マジな話。結局、何も無かったですけどね。意味なく会場の参加者を写真撮ったり、確かビデオ撮影もしましたよ。怪しい人間が紛れ込んでるかも知れなかったから・・・。“やる”ってなったら、そりゃ〜私は徹底的にやるつもりですよ。

でもまあ、結局、何か人と違ったことやろうとすると知らないところで敵が増えるもんですよ。それが嫌だったら何もしない方がいい。キリストだって迫害されて殺されたんだし、万人に愛されるなんて無理な話です。

私は仲のいい武術関係者から、「長野さんもねえ、武道の世界で嫌われてたって、それは逆の意味で人気がある証拠なんだから、感謝した方がいいんですよ・・・。何しろ、普通はごまかして宣伝になるようにいいことしか書かない。でも、長野さんは本当のことをビシッて書いてしまう。読者が支持するのは本当のこと書く人に決まっている。そりゃあ、目のうえのタンコブでしょう。でもね〜、長野さんと一緒に飲んでる時に、『コラッ、長野〜っ』って、間違って私が刺されたらどうしようって心配ですけどね。ハッハッハ」って、それって笑い話ですか?

まあ、一日、百件程度のHメール程度で済んでるのはマシかな〜?

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2007/11/11 小沢さんも何がやりたいんでしょうね?

いやはや、自民と民主の連立話に驚いたのもつかの間、小沢さんが「責任を取って辞任する」と宣言したのも大ショックですが、民主党内で大混乱の上、「恥を忍んで続投します」って・・・そんな、アンタ・・・。

国民のためを思って・・・といくら言ってみてもね〜。イメージダウンも甚だしいですよね。先の選挙で民主党に期待した人達に不信感植え付けただけでしょう。

たまらんのは、民主党。せっかく自民党政権を切り崩そうというところまで国民の支持を得たのに、トップがこんな迷走しちゃってたら、もう支持されませんよ。小沢さんは何か勘違いして舞い上がってたんじゃないでしょうか。

「選挙に負けたら政治家を辞める」とタンカを切ったところに皆、期待したのに、何なんでしょうか、この体たらくは・・・。

勝手に独断で秘密の党主談合やって、批判を浴びたら「じゃ、辞めます」と言い、辞めないでと懇願されたら「じゃあ、続投する」って・・・、オイオイオ〜イッ! どこが国民のこと考えてるの?

ダメだな、こりゃ〜。いっそ、『ゾンビ極道』の小沢アニキに代わってもらった方がいいかも?

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2007/11/10 武術の技を格闘技にどう使う?

宇城師範のDVDを見て大いに刺激を受けたので、日曜日の公園での稽古会で、早速、組手形式で対戦しようとしている相手にいかにして技を極めていくか?ということを指導しました。

まず、自由攻防となると、フェイントも入るから後の先を取るのは難しくなります。そして、対の先を取るのも、フットワークの上手い相手だと難しい。

交叉法は剣の理合なので、「一撃入ったら終わり」という観念があるのに対して、素手の自由攻防では一発入ったくらいで終わることは少なく、当然、少々の攻撃は我慢して・・・という展開になりますから、先を取るやり方も使えるものと使えないものが出てしまう訳です。

私が歩法を重視していたのは、交叉法の弱点を埋めるために必要だったからです。研究していれば弱点も解る。そして、弱点を埋める工夫をする。それが歩法だったのです。

結局、交叉法の真の理合は、「先の先で一気に間合を潰して仕留める」ということ。これしかありません。敵に何もさせずに一瞬で仕留める。これを理想として追究しなければ百戦百勝とはいかないものです。この“一気に間合を潰す”ために歩法が必要になる。

薩摩の必殺剣と恐れられた示現流、薬丸自顕流の理合が先の先です。受けも外しも無視して決死の覚悟で先を取ってただ初太刀の一撃に全てをかける!

この先の先を素手で実現するには、相手が動く前に<密着する><崩す><打ち倒す>を完了しなければならない。ですが、そんなことが可能なのでしょうか?

一つのやり方として、「構えている腕に差し手してくっつく」という戦法があります。
 これなら、特に先が取れなくとも、難しくはありません。が、問題もあります。

せっかく差し手でくっついても、崩しを掛けられないと有効な攻撃が加えられないからですし、手だけくっついても間合が開いていたら迎撃される可能性もあります。

私が考えたのは、「差し手そのもので発勁しつつ間合を潰して寸勁を連打して一気に攻め倒す」というやり方です。

このやり方の要点は、実は細かい運足と手技の連動にあります。指導してきていつも思うのは、足の動きは足の動き、手の動きは手の動き・・・と、身体の使い方が連動しないまま、左足を出して右パンチ、左ミドル・・・といった具合に技が出るのが順番になっている人が大半だということです。これでは、最初の動きを牽制されたら順番が崩れて何もできなくなってしまう。1,2,3・・・と技を繋ぐのでなく、1の動きの中に2,3,4・・・の動きを全て詰め込むのです。

この前の日曜日の稽古会では、この基本的なやり方を練習しました。
 まず、互いに構える。
 仕掛ける側が差し手しつつ運足を使いながら、差し手そのものを鞭の先端がしなって弾かれるように(最初は弾勁を使い、熟練したら沈墜勁も加える)相手の構えている手を打ち落としつつ、そのまま滑り込むように開いた隙間に突き込んで、無防備な胴体に突き手を引かずに二発三発四発と寸勁の連打をお見舞いする・・・。

この時の要点は、差し手した腕を引かずに、スルッと滑り込むように相手の中心軸に打ち込んでいく・・・ということです。当然、腕の屈伸で力をタメることはできませんが、実はここに運足を用いる意味が出てくるのです。つまり、身体を寄せる時に生じる重心移動をそのまま打拳に乗せることができる。よって、打たれた側は貫通してくる打撃の威力を感じることになる・・・という訳です。

宇城師範のやっていた突きの原理と同じこと(余談ですが、宇城師範の動きは塩田剛三先生によく似ていますね)なのですが、手法としては蘇東成先生の形意拳の用法に近いでしょう。武術の動きを有効に使おうとすれば、どうしても似たものになってしまいますね。蘇先生の運足もまた、実に見事なものでした。

私の師匠は運足のスピードが尋常ではありませんでした。人間のできる動きとは思えませんでした。あまりのスピードに、横で見ていても動きがブレて視認できなくなったと思ったら、完全に消えて見えなくなってしまっていました。その運足と連動して北斗百烈拳みたいな掌打(これも見えない)を対空バルカン砲みたいに打っていました。

宇城師範がフリーザ様だったら、私の師匠はスーパーサイヤ人?といった感じです。
 今、チャンネルnecoで武侠小説の雄、古龍の原作をドラマ化した『大旗英雄傳』が放送中ですが、実録武侠物で『太氣英雄傳』って書いてみたいですよね〜。

それはさておき、運足は、自由攻防に於ける最も重要で必要不可欠な要素なのです。
 これが間合を潰すだけでなく、実は打撃の威力の原動力であるという点は、オシャカ様でも気がつかなかった?のではないでしょうか・・・。

稽古会に毎回、参加している人は、「先生、どうして、これを今まで教えなかったんですか?」と聞くので、「教えたくても歩法の訓練をしっかりやって動きの中で重心移動を体感できるようになった人でないと体得できないからね」と、答えています。

先日、古書店で盧山初雄先生の『真の強さを求めて・生涯の空手道』(スポーツライフ社)を見つけて購入しましたが、この中で、澤井健一先生に出会って立禅・這いを実践する中で得たものについて書かれている箇所は、私自身も改めて勉強させてもらう気持ちになります。やはり、実践する中から悟った人の言葉は虚飾が無いし、非常に率直に御自身の恥になる話も書かれているところが感銘を受けます。

どんな稽古法でも、その本質は長い期間の実践の中からしか理解できないものがあるのです。結局、目先の効果だけではなく、じっくりと練り込んでいく中から自得する様々な効果が互いに連環して出てくる訳なのです。一つの観点から実践しないで判断するのは大きな間違いなのです。

例えば、<居着き>ということを武術家は気にしますが、この<居着き>は、足が止まること・バランスが崩れて固まること・身体が力んで固まっていること・意識が飛んでしまっていること・軸が堅いこと・重心が固定していること・気持ちが捕らわれていること・・・といった具合に、様々なシチュエイションがあるという点を全く考慮していない人ばかりです。要するに、<居着き>という言葉に捕らわれてしまっているのですね。

技についても一つのやり方を説明すると、それが全てだと考えて言葉に捕らわれてしまう人がいます。多角的多面的に考える思考力が欠けていて、物事を単純に一面からしか見ることができない。簡単に言うと「頭が悪い」のですが、往々にして、こういう人は自分が頭が良くて物事の本質を掴む能力が秀でていると自惚れているケースが少なくないので、中々、改まらないものです。

ところが、「俺は頭が悪いから、先生の言う通りにとにかく実践してみよう」と考える人の場合、実践している中から自分の感覚で悟る場合があります。そこで、「あ〜、もしかして先生が言っていたのはこういう意味だったのかも?」と、自分の身体が理解したことを後から頭で分析する・・・という次第で、結果的に間違って誤解せずに済むのです。

結論から判断すれば、こういう謙虚で実直なタイプの人が最後は本質を悟ることになる訳ですね。だから、素質や才能より、師を信じる謙虚さ、実直さが武術修行では重要になるんですよ。私も一人を除いて縁あって教わった先生方に教わったことは微塵も疑わず、たとえ身体を壊しても頑張って練習したものです。教える立場になってからも、やっぱり信頼を寄せてくれる人と、そうでない人とでは、そりゃあ、教える内容に差をつけたくなるのは当たり前の話なんですよ。問題が自分にも有ることを考慮しないで、一方的に相手の責任だと考えて文句を言うような人は、武術修行云々の前に人として未熟でしょう。

いや、それだけじゃなくて、不思議なもので、疑ってかかってる人って、いくら教えても結局、できるようにならないんです。意識がストップをかけてしまうので身体が覚えない。素直に学ぶ姿勢の無い人は習い事はしない方がいい。自分の才能に自信があるなら、自分独りで研究した方が、他人に迷惑もかけないからいいのです。

私自身、直接、師事していなくとも多くの教えを受けたと感謝している先生は、新体道の青木宏之先生、不二流の田中光四郎先生、賢友流空手道の友寄隆一郎先生、拳志会空手道の岡林俊雄先生、中国文武学院の高小飛先生、全空連の香川政夫先生、清心館合気道の佐原文東先生・・・といった具合に数多くいらっしゃいます。

無論、本や映像でしか知らない先生でも勉強させてもらったと密かに感謝している先生はザラにいらっしゃいますよ。逆に軽蔑している人も多少はいますが・・・。

でも、何か、最近の武術愛好家って、オタク気質というかマニアックというか、技を習うことを自動販売機で買うような感覚でいる人がいますね。礼儀作法を全く知らない人もいれば、表面的に礼節を守っていても内心は全く逆で人を小馬鹿にしたような虚礼の人もいます。こういう心無い人が増えてきているみたいで気持ちが悪いです。うちの会にはそんな人はいないと思っていたんですけどね・・・。

さてさて、余談が過ぎたので軌道修正して、差し手の発勁と運足と寸勁の連打を一つの動きの中で一挙に処理するというのは、流石に難し過ぎたみたいで、一回では体得は無理でしたね。

シダックスの講座でも「難し過ぎる」と、以前から受講していた人から言われていますが、悲鳴をあげつつも、私が本気になって教えようとしている気持ちが判るそうで、顔はメチャ嬉しそうです。簡単にできることって詰まらないですよ。だから、こっちも益々、教えるのに熱が籠もるんですね。こういうのは相互作用ですから。

人間の自然な心情として、簡単に体得できるものは有り難みが無いですし、苦心して学んだものは大切にしますよね。急いで中途半端な技を身につけるより、じっくりと身体を練り込んで変幻自在に「動けば即ち技になる」という舞踊的な武術を目指したい。

この前までは、本当に情けなくて、教えるのも嫌になって、会も解散して個人でやっていこうか?と本気で思っていましたが、やっぱり、会を解散しなくて正解でしたよ。むしろ、信義に篤い人だけが残ってくれ、ふるい分けできたから良かったと思っています。

まあ、会員は減っても熱意の有る人だけ来てくれるから、今は充実していますよ。人間は不信感を腹に呑んだまま付き合うのは不快なだけだし、お互いに不幸ですからね。
 皆、自分の本心に忠実に生きていくのが本当の幸せな人生ですよ。

「老後の心配して目腐れ金欲しさに本心を裏切って生きようとする根性じゃ、いい作品は残せない。そうだった。俺が本当に目指しているのは後の世にまで残る世の中に役立つような武術文化の研究成果を発表することだったんだ」と悟ったから、金儲けの道は捨てましたよ。所詮、私の柄じゃない。天意が望まない道を選んでも上手くいかないのが道理だと思いますね。

邪念を綺麗さっぱり捨てたからでしょうか? 不思議なことに技が急に進展してきました。もう大体、先が観えていたと思っていた技や稽古法に関するアイデアも次々にわき出てきました。「人間の身体は心が支配しているんだな〜」と、再認識させられますね。

私はカバラ数秘術で言うところのマスター数で生まれついてるから、普通の人より波乱が大きい人生になるらしい。・・・ってことは、普通の人より面白い人生が歩けるんだから、感謝しなくっちゃいけないと思っておりますよ。だって、トラブルが起こる度に、死にかかって蘇ったサイヤ人が何倍も強くなるみたいな感じで、精神が鍛えられてる感じがするんですよね。苦労するということは、自分を鍛えて強くしているんだと考えたら有り難いもんですよ。プラスかマイナスかってのは自分の主観で決めているだけなんだから、だったら主観の基準を変えてしまえばプラスしかなくなる。
 良きにつけ悪きにつけ、全てが自分を鍛えて強くしてくれてる。
 こう考えると、全ての縁があった人達に感謝しなきゃいけませんね。人生は感謝と感動ですよぉぉっ!(ヤケクソ気味だな〜)

PS;『暮らしと健康』(保健同人社)に、佐原文東先生が短期集中連載をされています。3回目のテーマは「片脚立ち・歩く」。勉強になりますよ!

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2007/11/04 噂の宇城師範のDVD感想

現在、武術・武道と身体論が結び付けられて語られている中で、高岡英夫氏、日野晃氏、河野智聖氏といった人が活躍されていますが、世間的に最も名前が知られている武術家というと甲野善紀氏であることは誰も異論を挟まないでしょう。

が、甲野氏に続く知名度があって、しかも「本物の実力者である」と噂されているのは、心道流空手道の宇城憲治氏でしょう。

宇城氏の噂は随分といろんな人から聞かされました。良くも悪くも武道業界で注目されている人物であることは異論がありません。ただ、直に会って技を見たことのある誰もが、その実力を「大したことがない」とは言わないのですから、単に自己宣伝が上手いだけの人でないのは間違いないでしょう。

ですが、最初にお断りしておきたいのは、私は宇城憲治氏に対して、個人的にはあまり良い印象を持っていないという点です。

TVで拝見した時の印象が良くなかったからです。丸で甲野善紀氏のもの真似みたいな奇術みたいなものをやって見せており、幻滅したのが偽らざる本心です。そんなことをやるより、空手家ならば空手の技を見せて欲しかったと思いました。

私の好きな人は、才能に秀でて実力も高い・・・それにも拘わらず謙虚で気さくでお茶目な性格の人です。

けれども、私は自分でも不思議なんですが、感情に振り回されて観察眼が曇るということはほとんどありません。基本的には感情的な人間ですが、客観的に観察して考える研究家気質は生まれつきかも知れません。

だから、宇城師範のDVDを借りて見た感想としては、結構、感心させられたのが本音でした。

借りて見たDVDは、合気ニュースから出ている『宇城空手第三巻 武術の究極・気』でした。

率直に言って、私は「気」で説明する武術家は好きではありません。胡散臭いし、インチキ臭いし、下品に思えるからです。カルト宗教臭いからです。催眠商法の匂いがする。

実際に、このDVDで宇城師範が解説し実演させる“気の妙技”は、私に説明させてもらうなら、「暗示作用で力んだりリラックスさせたりして重心を固定させたり浮かせたりすることで技がかかったりかからなくなったりしているな〜。痛みを感じたり感じなかったりするのも暗示作用だし、催眠術のラポールがかかってるのと変わらない。寝転んで数人で棒を支えている棒の上に人が乗ってみせるのは催眠パフォーマンスでよくやる“人橋の原理”と変わらないし、感応にかかって錐体外路系の反射運動が出てたりもする。このままだと合気道系の触れずに倒す技みたいなパフォーマンスが出てきて本筋を外れてしまうんじゃないかな〜?」といった感じでした。

気の技と催眠術を比較検証する人が武道・武術の業界にほとんどいないのは、私には不思議でなりません。記憶する限り、柔氣拳法の今田柔全先生だけじゃないでしょうか?
 しかし、多くの武術家が「気と催眠術は違う。何故なら、気の場合は意識が覚醒しているからだ」と説くことなどは、実際は間違いであり、催眠状態の意識は脳波レベルが異なっているだけで意識は覚醒しているからです。

催眠を研究すれば、気の技と称して演じられているパフォーマンスのほとんどが説明がついてしまうのです。これは、大正から昭和にかけての霊術ブームが形を変えて21世紀の現在にまで続いている(最近、大注目の野口整体の創始者である野口晴哉の師匠は霊術界の大物、気合術の松本道別です)のと同根であり、神秘的な魔法のように考えられていた催眠が医療方面(心理療法)から研究されて科学的に検証されているのと同様、気の技ももっと科学的解明の姿勢がなくてはならないでしょう。

しかし、私がちょっと意外だったのは、宇城師範は、こういった現象を自分なりに合理的に懸命に説明しようと試みていた点です。その説明が必ずしも生徒に伝わっているとは私には思えませんが、少なくとも単に不思議な現象を見せて「どうだ、俺は凄いだろう」と威張りたいだけの人でないことは判ります。ちゃんと伝えようとしている点は立派。

結構、突き蹴りを当てている荒っぽいところも「なめたら怪我するぞ」と言わんばかりで素敵です。軽薄な気持ちで参加した人は面食らうでしょうが、武術なんだから当然のことです。私なんか、こういうところが足りないから、つけ上がる人間を何人も出してしまう。反省させられましたよ。

それから、実際に空手の技を実演している部分は、本を見て予想していた以上の水準で、「なるほど、この人は噂通り、強いな〜」と思いました。
 やっぱり、空手の動きをやると流石ですね〜。ちょっと、感動しました。

私が感心したのは、まず、運足。無造作にペタペタ歩いているところが凄い! この歩き見たら、ぞっとしますね〜。私の中国拳法の師匠もこうだったし、戸隠流忍法の初見先生もこうなんですよ。見た目はカッコ悪いけど、実はこれが・・・(以下、自粛)。もちろん、意味は有るんですが、これは新作の本に書いたから、ここでは触れません。

以前、宇城師範と親友だと言っていた甲野さんは、「突き蹴りじゃ勝てないけど柔術や剣術なら勝てるかも?」って言って・・(都合により自主規制)・・だったそうですが、この歩き見てたら気づくだろ?って言いたいですけどね。私は、正直、この歩き見たらびびりますよ〜。おっかないスよ、これは・・・。

何で、誰も宇城師範の歩きの凄さについて言及しないのか? 流石に本の写真だけでは運足のレベルは判らないから、私、「う〜ん。体幹部が結構堅いな〜。ここが弱点だな〜。フッフッフ・・・」とか、過小評価し過ぎてましたよ。

でも、この運足だと話は別。これは通常の武道・格闘技の動きでは追いつかないでしょう。運動構造的に追いつけない筈。ネイルさんと合体して自信持ったピッコロが、フリーザ様が更に二回変身してお手上げになっちゃった・・・みたいな気分です(わかる?)。

そして、目付けは相手の目を観てますね。つまり、身体の動きではなく、相手の意識の動きをダイレクトに観察して拍子を捉えています。意識の動きは無意識も含めて目に現れますからね。嘘ついたら動揺するし、自己暗示かかってたら目ン玉動かない。要は、心の状態が的確に目に現れる訳です。

なるほど〜。だから、気が重要だと言っている訳か? そうすると、別にウケを狙って言っているのではなくて、本当に実感として気の理論構造で術技を組み立てていたのかな〜? それなら・・・ああいう難解な説明になるのも無理はない。そこを批判するのは酷というものですね。

心法技術に関しては気という言葉で説明しないと余計に難しくなる可能性はある訳で、私は、てっきり、宇城師範は自分の権威をひけらかしたくて疑似科学的説明をしているんだとばっかり思ってましたよ・・・。違うんだ。天然だったんだ。

その他、感心したのは、中心軸をズラして(足で横に動いてる)、突きをスカして見せているところ。お弟子さんでかなりフルコンや伝統派の空手をやっている人がいるみたいですが、動きの質が全く違っていて、宇城師範は余分な力が抜けたまま下半身から軽く動いていますね。

そして、突き蹴りがえらい速い! これはちょっと驚きましたね〜。注意して見ないと判らないけど、骨盤がわずかにキュルッと動いたかと思ったら突き蹴りがギュワッと飛び出してる。動きのタメが極小だから初動がほとんど見えない。よって、力感が無いから迫力はそんなに感じない(だから、実際のスピードほど速くは感じない)けど、目の前で出されたら、いきなり火薬が炸裂したみたいな感じで突き蹴りが当たってから気づく・・・みたいになるでしょう。

普通は、瞬間でも足腰が固定されてないと突き蹴りは出ないものですが、宇城師範は歩きながら出しているのです。つまり、踏ん張らない。台車に乗って杖の崩しをかけて見せるのも、踏ん張らないで相手の力の働かない方向へ軽くベクトルをズラすだけだから自分は全然崩れない。踏ん張って力を拮抗させないから極めて楽にかけている筈です。

だから、突き蹴りも、歩く中の自然な重心移動をそのまま突き蹴りに流し込んでる感じでしょうね。恐らく、本人の感覚では・・・。

これだと筋肉を収縮させて打ち出すのでないから、力のタメが無くて、いきなり出てくるから、受けてる相手は見た目以上に速く感じる筈。肩甲骨と股関節が柔らかく、筋肉が脱力してないと、あそこまで速い突き蹴りは出せないですね。突き腕が瞬間的にピッコロ大魔王みたいにギュワッて、伸びて見えます。

ただし、足を止めて連続して打とうとするところでは、力を出そうとしてタメてますね。意識的に“打ち気”が入るから筋肉が自然に反応しちゃっている訳でしょう。強いて弱点というと、それくらいかな〜? 本の写真で確認する限り、宇城師範の師の座波先生には、それが無かったから、その戦闘意欲の有無が差になっていたようです。もちろん、戦闘意欲が無いまま反射運動で戦える方がいいという意味です。宇城師範はまだ意識の色が出てしまう瞬間があるから、そこに気配が出てしまっています。

けれども、それは一瞬です。組手では、相手の動き(と意識)の隙間にスルッと滑り込むように入ってしまって、相手は受けも躱しもできないでいる。普通の人間は、危険を察知すると瞬間に足腰を固定して踏ん張る癖があるから、容易に宇城師範に死角を提供してしまっている。DVD中、宇城師範が突きを出す瞬間、相手は全く予測していないから、ウッと唸って突きが当たる前に身体が止まって硬直してしまっている様子が頻繁に見られます。

これは数見師範との組手の様子を見ても同じようです。身長差があるから、むしろ、宇城師範にとってはやり易かったんじゃないでしょうか? 付け入る隙間の面積が大きくなる訳ですからね・・・。これは実力がどうこうというより、読みと交叉、運足の技術構造が違うので、宇城師範の技の理合を知らない数見師範にとっては対応できないでしょう。

もちろん、学んでいけば同じ理合になるから、そうしたら若い数見師範の方が単純に伸び代がある分、先が楽しみですね。

宇城師範は思っていたほど、出し惜しみする人じゃない(もっと、隠す人だと思ってた)し、あれだけ見せてもらって吸収できなかったら、その人は武術そのものを止めた方がいいでしょう。ある意味、物凄く親切な先生ですよ。言葉で説明しなくたって、あれだけやって見せてくれるんだから・・・(まあ、それを観盗れというのもちょっとキツイか?)。

それから、これは空手というより合気に共通するところですが、宇城師範は相手が固まった瞬間に重心が崩れる方向をとっさに探り出して崩したり投げたりしていますね。崩す瞬間、方向を探っているのが判別できます。これは多数の人間を繋げておいてかける場合でも、重心を崩していくのを連動させる方向を探っていたり、後ろまで威力を貫通させるように突きを出していたり、こういったパフォーマンスは合気武道を研究して工夫されたんじゃないでしょうか?

それを、「力と技の違い」とか、「0の力の作用」と説明していますが、要は、“重心の操作”をやっている訳で、技術の性格上、相手を固まらせた方がかかる(重心が固定されると力が逃げないから崩すのが容易になる。柔軟にフニャフニャしていると重心が動いているから捕らえどころがなくて崩しにくくなる)。だから、気を入れるとか抜くというキイワードで、心理的に暗示を与えて身体の弛緩と緊張の反射システムを無意識のうちに作らせてしまっている点については、今後は注意した方がいいと思います。

要するに、心法技術に流れてしまうと、身体技法と勝負論に関する武術としての理合が曖昧になっていってしまうからです。それは、一般性のある説明をしない点に、カルト化し易い権威主義が芽生えてしまい、後戻りが利かなくなる危険性があるからです。新体道みたいに「戦わない武道」と言い切ってしまうのもアリでしょうが。

術技の実験検証も、パフォーマンスの度が過ぎます。あれでは術技の原理を理解するよりも神秘性を煽ってしまうでしょう。かつての触れずに飛ばす気のパワーを標榜した様々な団体と変わらなくなってしまう危険性が多分にあります。

それに比べると、空手の演武は素晴らしい! 読みも充分だし、間合を潰す拍子の取り方が実に見事! 絶妙と言っていいでしょう。“身体脳”という意味がよく解らなかったけれども、自在に相手の隙間に付け入り、接触したところから崩しをかけられる身体性(崩れる方向を接触したところから感知している)は、確かに脳が全身に分散しているみたいな印象を受けます(そういえば、アンギラスがそうなっているという設定だった)。

ただ、オマケの小太刀の試し斬りとかはどうでしょう? 小太刀で斬るのが難しいのは事実ですが、小太刀の抜き打ち片手斬りでスパスパ斬れる人だっているんですから、やめといた方が良かったと思います。足を止めて上体を固めて斬っていますが、せっかくの運足を活用せず形通りの試斬をやるのはもったいない。斬れ味見せるのに弟子の帯を切って見せるのも、良い印象を受けません。ちょっと、危ない人に見えてしまいます。あの映像は、はっきり言って蛇足でしょう。千本早斬りのギネス記録に挑戦した人なんか、力みが抜けて袈裟で斬って逆袈裟で返し、横払いで斬る・・・というのを一挙動でやってのけていましたが、あれから比べると動きが硬過ぎてかなり見劣りしてしまいます。専門外のことはやらない方がいいと思いますが・・・。

やっぱり、空手家は空手を見せるのが一番、カッコイイよな・・・と、改めて思いました。不思議パフォーマンスは素人ウケを狙っているみたいで見ていて下品に感じます。

ともあれ、ケチもつけさせてもらいましたが、武術研究家として、久しぶりに勉強になる満足できるDVDでした。初心者には勧めません(見ても誤解させるだけ)が、本気で武術を求めている人にとっては、空手の技のところは非常に勉強になると思います。

いや、正直、「なんでぇ〜、大したことないじゃ〜ん」と言ってやりたかったんですけど、宇城師範の実力には脱帽させられましたよ。特に運足。格別に早く動いているのじゃないから、ピンとくる人は少ないでしょうけれど、実に的確に相手との間を潰してくっついていくところは尋常ではありません。
 やっぱり、(ピーッ!)野さんとは器が違うな〜。

追伸(お知らせ);
游心流ストアが、来年3月までで閉じることになり、現在、在庫DVD一掃の割引セール中です。在庫が無くなり次第、閉店となりますので、この機会を逃さず御購入ください。
特に合気DVDは在庫が僅少です。再発売の予定はございませんから、今後、プレミアがつくことが予想されます。迷っていた方も是非どうぞ。丹田開発・発勁体得・合気体得の最終兵器として御利用ください。(発勁DVDのみ神田神保町の書泉、高山本店、西荻窪のナワ・プラサードにて直販しております)

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2007/11/04 日本刀カスタム・メイカー宣言?

何か、時々、日本刀の拵え(外装)を作り変えたりしたくなって、夜中にチマチマと作業始めたりしてしまう習性があるんですが、書店で月刊秘伝の日本刀特集記事(久しぶりに吉峯祭り状態。頑張ってますね)を立ち読みしていて、銃剣や鉄板を斬ってしまう斬鉄剣(初代小林康宏刀匠作)をふるう斬心塾の東郷秀信師範が久しぶりに登場されていたので、数カ月ぶりに買いましたよ。

私は、試斬って、細い竹とか樹の枝とかしかやったことないんですけど、流石に銃剣や鉄板が斬れるというのは、腕前ももちろん、刀そのものの強度も関係しますよね。

ここ2〜3年で、稽古用に使う真剣も、定寸が二振り、脇差が二振り、短刀が一振り、薙刀が一振り、大太刀が一振りと揃いましたけれど、何か疵をつけるのが嫌で、あんまり試斬をやってみようという気がしなくなっちゃったんですね。

何しろ、日本刀を作るのがどれほど大変か?ということや、それをどれだけ時間をかけて研ぐのか? また、拵えを作るのも大変なんだということを多少なりとも自分でやってみて、「疵付けたり刃毀れさせたりしたくない」という気持ちが強くなってしまったのですよ。

それに、刀に付いていた刃疵(刀と刀が打ち合ってできた食い込み疵)なんかは、この刀が主人を守って戦った証しでもある訳で、何か痛々しい感じもするんですよ。人を斬ったかも知れないし、持ち主が斬られたかも知れない。

いわゆる古い刀には怨念が付いているという話もありますよね。刀屋さんは早死にするという都市伝説もある。特に、古い刀よりも軍刀の方が呪い率が高いのだとか? 実際、私も、以前、渋谷の刀屋さんで掘り出し物の備前長舩祐定の軍刀拵えが、「刃毀れが酷いから13万円でいい」というのを買おうかな〜?と思っていたものの、どうも、“軍刀拵えで刃毀れが酷い”というところが気になって、結局、買いませんでした。何故なら、刃毀れしたままの刀を軍刀拵えにする筈がないですから、当然、戦争中にボロボロになったと考えるしかない。そして、現代戦で刀で斬り合う訳がないから、残る可能性は、「捕虜を斬って刃毀れした」としか考えられません。

日本刀って、実用上は必要ないくらいに徹底して磨くのって、人を斬った不浄の汚れを清めるためなんですよね。吉川英治の『宮本武蔵』で、刀研ぎ屋が「御魂、研ぎます」って看板出していて、武蔵の刀を研げないと突っ返す場面がありますよね。日本刀を研ぐというのは、切れ味を良くするのが最終目的じゃないんですよ。単なる武器を、ここまで信仰する民族って、日本人くらいしかいないんじゃないでしょうかね〜?

でも、剣・鏡・匂玉の三種の神器って、どれも磨いて作るものなんですよね。日本人にとって、磨くという行為は古代から何か特別な意味合いがあったんだと思いますよ。

だから、武術の修行も芸道も、稽古するものは何が目的かって、「技芸を磨くこと」そのものが目的なんですよね。だって、強くなるとか敵に勝つということが目的だったら、もっと効率の良い方法はいくらでもある訳ですから・・・。

さて、それはともかく、私は武術の研究をしていて、日本刀の使い方は外装とも関連すると考えて、最近は実験的な外装を作ってみたりしています。

その第一段が、激安で刀身だけ購入した刀です。刃毀れしている分を削り落として刃引きにし、柄は桜材で作って針金を巻いて補強、これに青染めの鮫(エイ)革を巻いて、柄糸は焦茶の革で巻いてみました。鍔は刀の回転持ち替えがやり易いように脇差用の小さなものを装着し、鞘は模擬刀のものに沢胡桃材を削って栗形を作って接着し、鞘尻には大太刀に装着していた真鍮の突兵拵え用のコジリを外して接着しました(大太刀用には、もっとデザインの凝った雨龍のコジリを代わりに装着。ちょこっとゴージャスになった?)。

この作業をやっている最中に、ついでだからと思って、もう一振りの定寸刀に刀屋さんでオマケに頂戴したカマキリの透かし鍔を装着したら穴が大き過ぎてガタガタになってしまっていたのを思い出して、鮫革の余りを適当に切って挟み込んでガタツキを無くしてみました。

すると、5分程度の作業で、この刀の持ち味がガラリと変わって、何とも頼もしい感じになりました。最初の模擬刀の拵えをそのまま流用していた時も少しガタツキがあったんですが、こんな僅かな工夫で持ち味がここまで変わるなんて、予想もしていませんでしたから、何か、しばらく居合の練習してしまいましたよ。嬉しくって・・・。

もちろん、刀身だけの刀の拵えも、後は少し形を整えて、エポキシパテ盛ったところ削ってちょこっと色塗れば完成です。

こっちも、目釘穴の位置が悪くて少しガタツキが出てしまっていたので、切羽と鍔の間に鮫革を挟んでガタツキを除きましたから、やはり、持ち味がぐっと良くなりました。

鍔にガタツキがあると、どうも気になっていけませんね。柄は念入りに強化したからまず折れないと思うんですが、少し太いのが気になる程度で問題はありません。でも、ガタツキはみっともない。

そして、大太刀の鞘に上等なコジリを付けたので、鍔も先日購入してきていた古い鉄鍔(僅かに梅の花状の丸鍔)に交換してみようと柄をバラしてみました。

しばらくバラしてなかったんですが、えらいキツクなってて、中々外れなくて困りました。目釘穴は二つですが、目釘の竹が曲がっていて、さして振り回していないのに、こうなってしまうというのは、やはり刀身の尋常でない重さに負けてしまったか?と、目釘の一本はやはりクロームモリブデン鋼の釘か何かを削って嵌めておかないとヤバイかも?

鍔を交換すると言っても、大太刀の茎に付けるので、かなり穴を削らないといけない筈です。この鍔は重量のあるゴツイものなので、これをヤスリで削るのはシンドイだろうな〜?と、やる前からめげてきますが、元々の穴が結構広かったので、そんなに削らなくとも済みました。その上、軟鉄みたいで削り易かったですね。時代も古いそうなので、多分、砂鉄からタタラ製鉄で造った和鉄なんでしょう。

ところが、鍔がブ厚くなった分、目釘穴の位置がずれてしまいました。切羽を一つ外せば大丈夫ですが、そうすると少しガタツキも出るしみっともない。そこで、ちょっともったいないけど、銀のハバキを少し削ってみることにしました。

でも、金と違って、銀は結構堅いですね。合金だし、鉄より堅いみたいな感じがしますよ〜。削るのももったいないし・・・。

それで、しばらくほったらかして考えていたら、「あっ、そうだった。穴がズレてるだけなんだから、ズレてる分だけ穴を削って広げればいいじゃんか?」と、思いつきましたよ。これが美術刀剣だったら、とてもできないけれど、打ち降ろしの研いでない刀を自分で研いだ刀なんですから、少しくらい目釘穴を削って広げるのは何でもありません。

もうちょっと早く思いついていたら高価な銀ハバキを削らなくとも良かったのに〜。

まあ、試行錯誤して作っていくのも研究になりますからね。何しろ、ほとんど自己流で作ってる訳なんだから・・・。で、目釘穴を勘で鉄鋼用の丸ヤスリでゴシゴシ削って二度三度と茎に挿入しては外し、微調整して目釘竹を打ち込んで完成! 正眼に構えてみると、軽量の透かし鍔の時より若干、鍔が重くなった分、重心が少し後ろに寄ったので手持ちのバランスが向上したような感じ。ただ、刀の抜き納めは、鍔が大きくなった分、右手の合谷のツボ辺りに当たって、やはり、これだけギリギリの長さになると、僅かな大きさの違いが結構な差になるな〜と改めて実感。長時間、ヤスリがけしていて腕がダルくなってたのも関係あるかも(それにしても、慣れてきてるから作業が早いよな〜、オレ。以前だったら一晩中かかってたよ。本格的に職人目指そうかな〜? マジで・・・)。

そういえば、模擬刀の鞘って、機械加工で削り出しているみたいで、端っこをノコギリで切ったら、刃の当たる上のところがギリギリで、これを知らずに使ってたら鞘が割れて怪我したかも知れないし、危なかったですよ。

何事も、自分でやってみて初めて解ることって沢山ありますよね。今、私が持っている刀も、以前は誰か別の人が持っていたものだし、私が死んだ後も、持ち主を代えて何百年も形を留めているかも知れません。

武術もそう。私が学んだ古武術、現代武道、中国武術・・・って、ずっと昔に考えられて代々の伝承者の工夫が加わって伝わってきているものです。それを思えば、感慨深いですね。「ただ、自分が強くなりさえすればいい」と言い切ってしまう者も何人もいましたが、その度に、「お前みたいなバカは武術学ぶ資格はないよ」って、私は心の中で呟いていました。

日本刀も武術も、伝統文化なのです。それを単なる戦いの道具としか考えない人間には伝えてはいけないんだと私は思うようになりましたよ。だって、現代で腰に差した刀を抜いて斬る技って、どんなに実戦的であっても現実的な意味は全然ありませんよね。それでも学ぶ価値があるのは、それが伝統文化だからですよ。たとえ意味不明の型しか残っていない流派であっても、その流派には伝統文化としての価値が認められるのです。それを「非実戦的な型しか残ってないから、存在そのものが無駄だ」と考えるような人間は、武術という文化そのものを学ぶ資格がないのです。近視眼的な合理主義は、人間を破滅させるんですよ。

日本刀の中には、安綱とか三条宗近とか、千年以上前の形を留めているものも有る。この事実に対して、畏敬の念を持ってこそ、伝統文化を受け継ぐ資格があるのだと私は思います。

追伸;シダックス橋本駅前店の『武術で護身術』講座の11月(12月はお休みです)は、居合術とその応用の体術をやりますから、受講生で居合練習刀を持っている人は持ってきてください。無ければ木刀で構いません。それと、太極拳の用法と推手の護身術応用法もやります。日曜日の本部有志稽古会も、ほぼ毎週やっております。
12月16日の年末特別講習会も宜しく! 新刊が出来上がってたらいいんですけどね。

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2007/11/04 自民党が民主党に連立話を持ち出すとは?

福田首相は影が薄いけれど、やることが中々ですね。
 流石に、民主党に「連立しましょうよ」と持ちかけるとは思いませんでしたよ。

いや〜、正直言うと、「ちょっと、そういうこと言い出したら面白いよな〜」って思ったりはしていたんですが、まさか、そこまでプライド捨てちゃうなんて驚きました。

第一、それじゃあ、公明党の立場は?って話になるし、もし、それが実現したら社民党と共産党が野党で・・・でも、社民党も連立しちゃったりして?

「国際貢献しないと日本の立場が危うくなる」という危機感からなんでしょうけど、アメリカの顔色うかがってんのがバレバレなんだし、「まあ、国内事情がこういう訳なんで、今回はパスさせてくださいね」って言いやすくするための切り札?とも思ったんですが。

第一、テロと戦うって言っても、やってることは戦争でもっと沢山大々的に人殺してるだけっていうのを、一体、いつになったらアメリカは自省するのでしょうか?

そういうのは過剰防衛といって個人だったら絶対に許されない。それが国家になったら「非道なテロは許さない」と、軍隊送って爆弾落として平然と人を殺しまくってる。

テロリスト一人殺すために何十倍、何百倍の罪の無い人を殺したりしているのか?

日本も国際貢献しなさいって、人殺しに手を貸せって話なの?

第二次世界大戦の唯一の被爆国という日本の取るべき道は、徹底的に世界行脚して戦争の悲惨さ、愚かしさを布教して回ることしかない。それ以外に国際貢献なんかあり得ないんですよ。

第一に、日本人が思っている程、世界の人は被爆の悲惨さについて知らないでしょう?
「ゲンバク? Oh! アトミック・ボム 新型爆弾落として日本が敗戦認めたから日本人が全滅せずに済んだよね」って、マジで言ってんだぜ。

国内でツベコベ言うより、「外国で戦争は絶対にやっちゃいけないんだ」と、それだけをアジってアジってアジりまくってりゃ、それだけ「戦争は悲惨だ。破滅しかもたらさない。絶対にやってはいけない」と世界中の人達が洗脳されていって、やがて世界平和は実現するんですよ。

日本の政治家はすべからくゴアさんみたいに平和と環境保護の伝道師にな〜れっ!

だから、福田首相は、アメリカから文句を言われたら、堂々と、被爆国日本の国民の心情を訴えて、暴力を武力で力ずくで粉砕しようとする態度がいかに多くの人間を傷つけ不幸を広げていっているかという人類の愚行を切々と説くんですよ。それを世界中にメディアが流せば、もう勝ったも同然ですよ。

人の話を聞くだけじゃなくて主張しなきゃ国際舞台では相手にされませんって。

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2007/10/31 『バンブーブレード』が面白い!

TV東京の月曜深夜のアニメ『バンブーブレード』が何か面白いです。
 特にどうということもない女子剣道部員たちの話なんですけど、剣道というところが何か新鮮な感じがしますね。

剣道アニメって『六三四の剣』とか、それくらいしか記憶にないんですけど、このアニメって、妙に現実味もあったりして「籠手が臭い」とか、剣道をやったことのある人が見たら、フムフムと思ってしまうところがあります。

バンブーって、竹でしょ? で、ブレードって刀・・・そっか? 竹刀だっ!

一応、剣道場の娘タマちゃんが主人公だけど、二重人格っぽい美少女ミヤミヤがキャラ立ってますね〜。

何か、意味なく剣道やりたくなっちゃいますね〜。

それから、シダックスの方も順調にやっておりまして、ナイフ捕りとヌンチャクをやりました。よく考えたら、こんなのは定期稽古会では全然やらんかったよな〜。

でも、『武術で護身術』という講座名である以上、通り魔対策の練習は必要です。今後も棒術・トンファー・剣術・居合術・万力鎖・・・と、いろいろやってみるつもりです。

手裏剣だけは日曜日の本部の会員有志稽古会でやるしかないけど、こちらも何か、月二回の予定だったのに、ノリノリになってきたので、結局、用事がない限り、毎週やろうということになりました。

ついこの前まで本気で解散考えていたのに、何か、やたらに湧いてくるこの“ヤル気”は一体、どうしたことか?

ついに、中国武術の最高奥義だと言われる、身体中、どこからでも発勁を打てる“抖勁”の訓練も始めてしまいましたよ。

取り敢えず、意拳太気拳でやるやり方を練習しましたが、大体、6〜7割りくらいはできるようになってたかな〜? 初日でここまでできれば、一カ月で完成するでしょう。

それから、前回、途中までで終わっていた蹴り技の使い方と訓練法もやりましたけれど、これは「運足法の延長で蹴り技を用いる」という、中国武術の腿撃法を練習してみました。
 これは空手のやり方とは全く違うので、半分もできていなかったけど、コツを飲み込むと逆に簡単な筈だから、三カ月もあれば十分でしょう。

ところで、『トム・ヤム・クン』をCSで見たけど、やっぱり、ムエタイの蹴りはいいですね〜。トニー・ジャーの超人的な跳躍力もいいし、アクロバット的な技もいいけど、でも、無造作に蹴り出すミドルキックが素敵過ぎます。

実は私、昔、ムエタイも習ったんスよ。だから、回し蹴りはムエタイの蹴りの方が空手式より身体に合う。何しろ、午前四時から公園に行って、コンクリの柱にキックミット縛り付けて、一時間以上、ひたすら蹴ってたりしてたからな〜。研究家の割りには結構、頑張ってたんスよ。まだ40代半ばだし、久しぶりに頑張ってみよっかな〜?

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2007/10/28 富士山の写真がツキを呼んだ?

アスペクトさんの第三弾武術本の企画を練り直して書き直すという相談で、会社に打ち合わせに行ってきました。

一回決まっていたものを変更するのは中々難しいものなんですが、そこは割りとスムーズに行きましたね。『武術のヒケツ』では断片的になっていたものを、今回はもっと的を絞って書いてみるということになりました。

打ち合わせがスンナリ終わったので、その足で、今度はクエストさんに行って、DVDの第二弾の企画書を提出してきました。

これがまた、更にスンナリ決まってしまいまして、年内には撮影して来年春頃には出すという具合になりました。そこで、もう一つ、企画案を出したんですが、こちらも色よい反応でした。

いや、正直、一日のうちに三つの企画がことごとく通った・・・なんて経験は一度もありません。大体は三つ出して一つ通れば良い方ですし、それもいきなり通るなんてあり得ません。

何か、憑き物が落ちたみたいなツキっぷりです。

何日か前に近所の本屋さんで『ツキを呼ぶ富士山の写真』という本を何となく買ってきて、付録で付いていた富士山の写真をパネルに貼っていたんですが、その翌日なんですよね〜。信じる者は救われるのか?

ところで、最近、アスペクトさんに行って、玄関口で応対してもらう女子社員の方々が、私の顔を見た途端、プッと吹き出して笑うんですね〜。

何で?と思っていて、「あっ、そうか? アレだ!」と思い出しましたよ〜。アスペクトの社内広報誌でインタビュー記事で載せてもらったんですけど、担当編集のSさんが当時、メッチャ体調悪くて、私が勝手にインタビュー記事でっち上げて書いたんですけどね〜。悪ノリして阿呆なこと書きまくっちゃったんですよ〜。

本の宣伝そっちのけで、若山富三郎先生がいかに凄いか?ということについて、「あの巨体で空中殺法ができるのは初代タイガーマスクとサモハンと若山先生だけ・・・」とかね。

そんでもって、著者近影の写真が『シグルイ』の虎眼先生の流れ星の構えで三尺二寸五分の大太刀構えてるところ・・・。単なるオタクじゃ〜ん?

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2007/10/27 亀田バッシングやり過ぎなんじゃない?

亀田バッシング、いつまで続くんでしょうかね〜? 内藤選手も「もう終わった」と言っているんだし、もういい加減にしたらいいでしょう。

メディアは、持ち上げるだけ持ち上げて、何か問題起こると、今度はよってたかってバッシングしまくる。これってイジメですか?

亀田親子が特別酷い訳じゃなくて、有名人にはゴロゴロいるでしょ? そういう問題のある人達は・・・。少なくとも反省しているところをイジメる必要はないでしょう。

マスコミの日和見主義というのも、ここまで露骨だと不信感を覚えます。人気絶頂の時に苦言を呈していた具志堅さんのように勇気ある人を見習って欲しいですね。

何か、最近はマスコミ自体が意見を一色にしてしまって、単純な善悪二元論で世論を扇動しようとしているように思えて気持ちが悪いんですね。

人間には善の部分も悪の部分も有るんだから、表面に出ている部分だけ見て判断するのは軽薄過ぎます。

この前、刑務所に入っている人と手紙のやり取りしていると書きましたけど、その人は明らかに善人なんですよ。純粋過ぎて罪を犯してしまったんだと思います。

でも、罪を償って社会復帰した後は、必ず世の中に役立つ業績をあげる人間になると私は確信していますよ。そうでなかったら無視してますもん。

誰だって、間違ったことやったり失敗したり挫折したりすることって有るじゃないですか? 私なんか腐る程、ありますよ。隠そうって気持ちすら起きないくらい沢山ありますからね〜。

過ちは誰だってやるんですよ。問題はそれを反省するかどうかです。興毅の謝罪会見を見れば、泣かせるじゃないですか? 諸悪の根源であることがバレバレの親父でも「自分らにとっては世界一の親父」だと言った興毅の態度が全てを物語っていると思います。

いや、今どき、あそこまで親思いの息子っていないでしょう? 自分が悪いのに親の責任にすり替える腐ったヤツと比べて、あのドン底の状態で言ってのけた勇気は本当に立派だと思いました。だって、恩知らずなヤツばっかりだもんね〜(意味深だな〜)。

ところで、以前、ネット掲示板で私の誹謗中傷文を大量に書き込みしていた元会員のK君から手紙が来ました。

彼は精神疾患を患っていて、一時期失踪して行方不明になっていましたが、今は実家に帰って治療に専念しているとの連絡を数カ月前に受けて安心していました。

それで、引っ越ししたので新しい住所を知らせてくれたのです。彼は私に済まないことをしたと書いていますが、それ以上に、今回、両親への感謝する言葉を書いていてくれたのが本当に良かったと思います。

親は生きている間は小うるさいと思ったりしがち(私もそうです)ですが、損得抜きで心配してくれる有り難い存在です。K君がその事実をしっかり認識してくれていたのが嬉しかったですね。

私は、彼が感謝してくれる程のことはしていないし、正直、一時は本気でぶっ殺してやろうか?とすら思うくらい腹を立てていました。病気も嘘なんじゃないか?とも思えたからです。それくらい書き込みはヒドイものでしたし、私だけでなく、私の関係者を誹謗する文章を書いていた時は、本当に許せないと思ったものでした。

しかし、彼は今、自分の過ちを認めて反省し、やり直そうとしています。「告訴されるのも覚悟しています」と観念されて、それでも告訴してやるとは言えませんよ。実際、もう気にしてないし・・・。

彼は自分の心の弱さと対峙し続けて生きていかなきゃならないんです。「負けるな。頑張れ」と言う以外に何の言葉がありますか? それが、かつて縁あって武術を教えた相手に対する唯一の言葉だと思っています。頑張れ!

それにしても、亀田興毅の謝罪会見。本当に良かったです。謝る姿に人間の本質が出るもんですね。私も心掛けたいと思います。

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2007/10/20 <這い>に秘められた武術の歩法の神髄

うちの会員の中で、「這いは何のために練習するのか?」という疑問を言う人が結構いたんですが、太気拳の“這い”は、立禅が身体の基礎を練る訓練だとすると、実際に攻防する中でバランスを崩さないで動けるようにするための訓練法だと言えます。

この歩法訓練は、太気拳の源流である意拳では“摩擦歩”と呼ばれ、スリ足に近い感じでジグザグにゆっくりと運足する点に秘密があります。

剣道ではスリ足による前後の進退が基本になっていますが、これは剣道の母体になっているのが一刀流系の流れであることから、互いの正中線上を斬り割っていく攻防が核になっているからと考えられます。つまり、最短距離を真っすぐ詰めることで勝利を制する考えがあるからです。

多くの剣道家が剣道に活かすことを目的に新陰流を学んでみたが、うまくいかなかったという感想をよく耳にします。これは、新陰流のように左右の半身を切り返して後の先(打たせてスキが出来たところを打つ)を取る勢法の剣理の場合、現代剣道とは戦闘理論が異なるので、競技上、活かすのが難しくなったと考えられます。従って、剣道に比べて新陰流が劣っている訳でも何でもない訳です。

剣道は上体を正面に向けて構える向身(むこうみ)を取りますが、これは<斬り落とし>の原理を駆使するのに適した一刀流の考えに沿った構えと考えられます。新陰流にも<合し撃ち>という同質の剣理はありますが、基本は半身(はんみ)での切り返しによる後の先の技なのです。

半身の構えは、古流では橦木足(しゅもくあし)と呼ばれる足構えとセットで取られる場合がほとんどです。これは、前後に開いた後ろ足先が真横を向いている形が橦木に似ているから呼ばれています。ちなみに橦木というのはT字形定規のようになった形のことを指します。

現代剣道では、足構えは前後に開いて足先は両方とも前方に向けますが、橦木足の場合は、前後左右に敵がいる点を想定して身体の向きを変化させやすくするためにそうしていたと考えられます。あるいは、「重い鎧を着て戦う戦場刀法を念頭においていたから」とも言われます。が、私は前者の説に説得力を感じています。

さて、このように武術の歩法は、構えや戦闘理論に沿って多様な展開をしていくものである・・・という点を御理解ください。

太気拳、意拳の歩法は、さらに源流である形意拳、心意六合拳の歩法から発展していると考えられますが、実は、意拳を創始した王向斎が、修行中に梅花拳や白鶴拳の技法を採り入れた形跡も研究家間で指摘されています。

実際に、摩擦歩の動作には、白鶴拳の歩法“クーニャン歩”との共通性が感じられますが、これは白鶴拳を源流とすると言われる那覇手系空手で鍛練される三戦(さんちん)の運足法も同じく、ジグザグに歩を進めるものです。

太気拳の名前で日本に意拳を伝えた澤井健一先生は、元々、剣道や居合道、柔道の心得がありました。よって、太気拳には意拳から澤井先生がさらに工夫された独自の歩法も伝わっています。

私が太気拳の手ほどきを受けた先生は、特に歩法を重視されていました。事実、その超絶のスピードは弟子でも中々できる人がおらず、私も道場に通っている間は全くできるようにはなりませんでした。

そして、先生に練習のコツを聞きましたら、「ひたすら這いを繰り返し練習していて、ある日、突然、できるようになった」と言われていましたが、まさか、そんな具合にはなるまいと思っていたところ、私自身も、会員との寸止めで自由組手をやっている最中に、突如として足が勝手に動く感覚があり、それ以来、何とかそれなりにできるようにはなりました。

しかし、先生に習ってから約7〜8年くらいはかかっているでしょうか? 一時は、とてもできないと諦めたくらいでしたが、這いの練習だけは先生の言葉を信じて続けていました。

無論、できてみていくつかのコツがあることも判りましたが、かと言って、コツだけで動いても真価は得られないことも判りました。それは、何人かできるようになった会員が、いずれも実際の攻防に活かすまでに至らなかったからです。

どうしてか?と言えば、一人で動くのと、約束組手で動くのと、実際に攻撃してくる相手と自由に立ち合う中で動くのとは、それぞれ段階があるからです。

這いの訓練を私が今でも重視しているのは、これは動きの中で体内の重心移動を体感しつつ、実際に目の前に敵がいることをイメージしながら瞬間に身体が反応できるように心掛けて、じっくりと動いて内観する内功武術の神髄を秘めていると思うからです。

つまり、這いの訓練は太極拳にも匹敵する“動禅”の要素を持っているのです。ある意味で、私自身は、立禅以上に重要視しています。

無論、両手を肩より挙げて腰を落とし、ゆっくりとジグザグに歩む・・・という訓練法の外形にも意味はありますが、微速度で歩む点にこそ意味があります。

澤井先生の生前の映像を見ると、敏捷に動く中で身体のバランスが全く崩れない点に驚異を感じます。

武術でも武道、格闘技でも、より速いスピードによってパワーを上げることを求めがちですが、逆に、ゆっくりと微速度で動くことによって、初動の動きを消していき、「動中の静、静中の動」を得られるようにすることが、極意に達する道であると私は考えています。

が、どうも、目先の合理性ばかり求める人には、この極意は全然理解できないようですね。稽古していても全く芯の無いルーティンワークでこなしているだけの人が多いです。

魂を込めて打った日本刀と見間違えるくらいであっても、大量生産された模擬刀は、やはり実際に戦いに使えるものではない。技も決死の覚悟で磨いた人と、浮かれ気分で練習した人では比較にも何にもなりはしないのです。この道理の解らない人は、武術なんか学んでも、いざ実戦となっても何の役にも立たないでしょう。

私は真の技を遣えるように生涯賭けていきたいものです。それは、私が教えを受けた先生方の生き方だからです・・・。

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2007/10/20 格闘技も武道、武術も思いやりが必要

新弟子のリンチ死事件についての『朝まで生テレビ』を見ていて、のっけから田原総一朗さんが「マスコミはリンチ殺人と騒いでいるけれど、私は事故だと思う」と宣言し、私はTVを見たまま開いた口が塞がりませんでしたね。

田原さんはボケていると言う噂を最近、聞いていましたけど、マジかよ?と思いましたね。「リンチ殺人という風潮ばかり出ているマスコミにアンチテーゼを出す」という意志があったとしても、田原さんの主張は無茶過ぎると思いますね。

戸塚ヨットスクールの戸塚宏さんが「事故だと思いますよ。シゴキを受けるのは理由がある」と意見した時、思い余ったガッツ石松さんは「格闘技をやる者には一癖も二癖もある人間がいる。だからと言って、あれだけの傷をおわされて事故だと言ったら(死んだ)斎藤君が浮かばれないですよ」と横槍を入れていました。

私はガッツさんに賛成です。

確かに、私も武術の会を率いている者として、礼儀を弁えない人間には腹が立ちますし、鉄拳制裁したくなることも数え切れないくらい何度もありました。が、力でねじ伏せて教えるというのは自分の柄ではないので、いつもグッとこらえて我慢するようにしています。殴って叱責したことは今のところ一度もありません。これは自分のポリシーとしてそうすべきと思っていた側面も無きにしもあらずです。

ところが、実際には、大抵の武道の道場なら師範の指示を無視したり口答えしたりする人間は“痛い目に合って当たり前”という暗黙の了解があります。それで反省しなければ破門にされるのが当然なのです。

しかし、最近は同好会ノリの道場が増えて、昔気質の道場の方がむしろ珍しくなっているでしょう。だから、指導者と友達のつもりで“対等な立場”と勘違いしてしまう人も少なくありません。本人は、自分が無礼な対応をしていることを全く無自覚だったりするのですから、こういう場合はブン殴った方が本人のためかも?と思う時もままありますが、でも、やっぱり私はやりません。注意して直らなかったら、「では、貴方は破門です」と言う大人の対応をすることにしています。ある意味で、殴るより厳しいですが、子供じゃあるまいし、20歳30歳過ぎた大人で口で言って解らない者に改心を期待するのは時間の無駄だと思っています。

武道の良さには、「一日でも先に入った人は先輩」として敬う礼儀と節度を教える側面があり、これは今現在でも求められていることです。
 子供を空手・柔道・剣道・合気道・少林寺拳法の道場へ連れていく親は、特にその躾の部分を期待している筈です。

今回の相撲部屋のリンチ死事件の背景に、そんな躾を期待して相撲部屋に入れたのではないか?という論もありました。戸塚さんの主張もその辺りに根拠があるのでしょう。

けれども、体罰が単なる暴力になりかねない点は自戒しておかないと、教育のためと称す殺人者を生み出してしまいかねない。死んでしまったら死んだ本人も、死なせてしまった者も人生終わりなんです。

例えば、実際に死んだ者が人生終わりなのは理解されるでしょうが、死なせてしまった者も人生が終わるというのは納得いかない方もいるでしょう。が、こちらの方が実は問題の根が深いのです。殺人者として刑に服するか、殺人者の汚名を着て生きるか、最も酷いのは、殺人を犯した罪の自覚がないまま、自分の信念として殺人を自己肯定したまま生きていくことです。つまり、いずれの場合も、生きてはいてもその人生は健全なものではなくなってしまっているのです。

オウムの松本や反省しないまま服役している幹部といった宗教的理念によって常識を失ってしまっている者や、テロリスト、戦争で多くの人を死に追いやった権力者・・・生きながら人間としての人生を喪失してしまっている者は少なからず現実にいます。

人間としての真っ当な人生を喪失するというのはどういう意味か?

それは、「人の心を失う」ということです・・・。

これは、亀田親子の問題にも明らかでしょう。メディアは話題を呼ぶ亀田親子を宣伝経済効果があると持て囃し、プロスポーツ選手として品性を疑う言動を繰り返すのを指弾しなかった。“勝てば官軍”という浅はかな二元論で大衆を扇動する手法は、ここ数年来の勝ち組負け組の論とも通じるものでした。

しかし、人間は、結果が良ければ過程は問わないという誤った合理性を本心から望むものではないと私は思います。「勝てば何しようがかまわない」という理念は、スポーツにはそぐわない。それは、「ルールがある」からです。

亀田大毅の反則が問題視され、「ボクシングを冒涜するものだ」と非難されて初めて、謝罪に及んだのに対して、チャンピオンの内藤大助選手の大人の対応、優しさ、気配りといった人間性、器の大きさが俄然注目され称賛されたのは、本当に良かったと思います。

内藤選手の姿には、『はじめの一歩』を彷彿させるような素朴な謙虚さや優しさが滲み出ていますが、尖んがったキャラという亀田の“作為”に、純朴な苦労人の内藤の“天然さ”がより際立った形になって、大衆の好感を得たように思われます。

ここ数年来は、多少ねじ曲がっていても才能に秀でたヒーローを求める風潮が強かったように思えますが、これからは等身大の飾らない努力型の人が好まれ認められていく“心”を重視した世の中になっていくんじゃないか?と、そう思われます。

私の死んだ父は、「質実剛健」とか「努力」とかいう言葉が好きで、「男は外見を着飾るより中身を磨かなきゃいけない」と、よく言っていました。「ボロは着てても心は錦」という言葉も好きで、外見ばかり飾り立てたチャライ男が大嫌いでした。

高校の数学の教師で校長まで勤めて退職しましたが、剣道初段でボクシング部の顧問もしていたことがあったそうでした。子供から見ても物凄く温厚でほとんど怒ったりしませんでしたから、私が武術にのめり込んでいたのを反対しそうなものでしたが、晩年には、「お前には一番、期待している」と言ってくれ、認めてくれていたようでした。

そういえば、TV番組は『あぶない刑事』とか時代劇とかアクション物が好きだったので、表面上は私とは正反対に見えましたが、中身の部分では私が父に一番似ていたのかも知れません。あんまり自己主張する人ではなかったので本当のところは解りませんが、明らかに亀田より内藤のタイプを好む人だったのは間違いありません。

心を重視する世の中になるのは好ましいと思います。金や社会的名声に縛られ過ぎて、それらを得るために、殺人を犯しても構わないという心の壊れた人間が増殖していくような世の中では、いかに物質的に豊かであっても意味が無いでしょう。

力を頼りに、他人の迷惑を顧みない利己主義の人間が増えていくのは“不健康な世の中”であることは自明です。

長く武術を指導してきて、力量が上がるに応じて謙虚さを失っていく人が残念ながら何人もいました。私自身も勘違いして自惚れたことが何度かありました。が、ありがたいことに、そんな時に限って、手合わせでこっぴどい目に会って「お前さんは自分で思ってるような達人には程遠いんだよ」と教えてもらって冷静になる・・・という経験をさせてもらっています。人間が本当に成長するのは、失敗・挫折・敗北を噛み締めた時ですね。

舞い上がって自惚れるのは誰にでもあることですが、そんなのが長く続く道理はありません。

「俺は先生を超えている」と平然と言い出すようになったら、もう末期症状です。これは、年老いた親を邪険にする人間と同じです。こういう恩知らずな人は少なからずいるものですが、実に情けない根性です。「このヤロー、なめ腐りやがってぇ〜・・・」と思いつつ、大人な私は、「フゥ〜ン。そんな実力がある人に私みたいなのが教えるのはお門違いだから、さようならぁ〜」と、破門にするだけですが・・・。

大阪で講習会をやった時に、私が批判していた空手の先生のお弟子さんが来られたことがありましたが、その方は自分が学んだ先生を誤解して欲しくないのだと言われ、それでも「残念ながら長野さんの指摘していることを全面的に反論はできない」のだと悲しそうな顔をされていました。この方は、その空手の先生の門から離れて自身が弟子を育てることで恩師の間違いを質したいという長期的な展望で一派を興されたと聞きます。

また、最近、ある空手団体を主宰されている方とメールのやり取りをしましたが、この方は本当に今どき珍しい信義に篤い人柄が滲み出ておられて、メールを読む度に感動しています。やっぱり、武術・武道・格闘技を嗜む者は、純朴さが一番、重要なんだと思いますね。謙虚でなくちゃ、成長しないし、感謝する気持ちが無くては教えを受けることはできなくなりますから・・・。

朝まで生テレビを見ていて思ったのは、ガッツさんとか実際に厳しい練習をくぐり抜けて世界チャンピオンにまでなった苦労人は魅力的だな〜ということでした。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉は含蓄がありますね。苦労して人の痛みが解る人は、他人にも優しくなれるものです。

合理的にリスクを負わずに勝ちを得ようとする考え方をする人は、実はその考え方が落とし穴になることを知るべきですね。

格闘技でも、武道・武術でも、痛い思いをしたり、失敗したり挫折したりすることで心の痛みを味わうことで慢心を駆逐し、タフな精神を養い、他者への気配りができることになる。

前回も書きましたが、極真空手出身の人達は、私の知る限り、本当に他人に対して優しい人ばかりですが、それは具体的な稽古内容にもよるのでしょう。

だから、亀田大毅はテングの鼻をヘシ折られて幸いだったんですよ。周囲に守られ煽てられて育った自惚れ屋には、挫折を味わせてやるのが最大のプレゼントだと私は思っています。心の痛みが理解できない者は人間失格です。謙虚さが無いと本当の成長は望めないのです。

けれども、死なせてしまうようなシゴキは単なるリンチ殺人にしかならない。ここには相手を思いやる心が欠落していた・・・としか思えないんですね。

“心”を無視して目先の合理性で技を弄んでいれば、武術はいつしか“殺人ゲーム”になりかねない・・・そんなコワサを私は感じざるを得ません。

だから、私はもう游心流を広める気持ちが失せた。真摯に「武術とは何か?」と考えて学びたい人にしか教えるつもりはありません。「ただ強くなればいい」「ストレス解消に楽しみたい」「ヒマ潰しに武術でも」・・・という考えの方は他所に逝ってください。

私が本当に伝えたいのは、武術の技を通して、「武術の考え方、心の在り方、人としての生き方」を追究する姿勢なのです。そうでなければ、こんなものは学ぶ価値は無いと思っています。よって、再三書いてきているように、「私の考えを理解しようとしてくれない人しかいないんだったら、研究会は解散してしまおう」と思った訳で、幸いにも予想以上に私の考えに賛同してくれる会員がいたので、解散せずに済んだという次第です。

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2007/10/18 松田優作特集に感涙!

東映チャンネルで松田優作特集をやっているので、久しぶりに『最も危険な遊戯』『殺人遊戯』『処刑遊戯』『暴力教室』『俺たちに墓はない』『ヨコハマBJブルース』『それから』『華の乱』『ア・ホーマンス』を観ました。

私が映画の仕事をしたいと思うようになった切っ掛けは、『最も危険な遊戯』をTVで観た時で、あれは高校の卒業式の前の日の深夜だったと記憶しています。長銃身の44マグナムを持つ殺し屋、鳴海昌平を演じる松田優作がマージャン屋で石橋蓮司にボコられて登場するギャップにまずショック。そして、ターゲットを廃ビルの屋上から狙撃した後、待ち構えていた警官隊の一斉射撃を食らって、「あ〜、ここで優作は死ぬのか〜?」と思っていたら、何と! 逃げ切ってしまう。

さらに冷たくしていた女が誘拐されると、延々と車を走って追いかけてしまうシーンは感動的です。しかも、追いついて港でドンパチ、女を助け出した後は、また走って去っていく・・・カッコ良過ぎますぅ〜。

そして、裏切った雇い主の屋敷に乗り込み、空手で手下を激殺! 雇い主の足にマグナムを撃って、「今のは約束手形です。これからも宜しく。素敵なゲームをありがとう」とのたまって帰る・・・う〜む・・・カッコ良い〜。

でも、ラストはストリップ劇場で踊り子をナンパして「私は草刈正雄みたいなのが趣味なんだよ。帰ってよ」と蹴っ飛ばされて外に出る。と、例の女が乗った車が通り、優作はまた走って追いかける・・・あ〜、カッコ悪りい〜。

この映画は優作の当たり役としてシリーズ化され、膀胱癌に侵された最晩年にも「復活したいね」と本人も言っていたそうで、今観直しても松田優作のアクションの原点という感じがします。特に延々と車を走って追いかけるシーンは、ジーパン刑事以来でした。

ところで、今回の特集では優作本人が原案を出したという『ヨコハマBJブルース』と唯一の監督作『ア・ホーマンス』が、特に印象深い感じがします。

私立探偵という設定はTVの探偵物語の工藤ちゃんと同じですが、BJ(本名不祥)は一見、ねずみ男っぽくて不精を通り越した不潔っぽい感じなんですが、いざとなるとケンカは強いし、撃たれた親友(ロケンローラー内田)の部下(山西道広)に対して「死んだかどうだかわかんないんだから救急車呼べ!」と言い放つ“優作語”のテンコ盛りっぷりがいい感じです。監督は工藤栄一。ショーケンの『傷だらけの天使』を彷彿させる作品でした。

そして、『ア・ホーマンス』は、松田優作の唯一の監督作として多くの意見が失敗作だとされていますが、私は全然、そうは思わない。抑制された演技と挑戦的な映像表現で見せるSFとして実に魅力的でした。特に石橋凌の魅力全開です。ちなみに工藤栄一監督がヤクザの親分役で友情出演しています。自殺しちゃったポール牧も迫真の怪演でした。
 ラストに流れる石橋凌の『アフター1945』が凄く良い歌で泣けます。

松田優作という人は、非常に多くの男たちに影響を与えたと思います。衝撃的な死から18年も経過したのに人気は衰えない。

最近、松田龍平が『ヨコハマBJブルース』の時の優作にそっくりで何か感慨深い。

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2007/10/16 新極真會世界大会観戦記

シダックスに通われているYさんからチケットを戴いて、10月14日にK師範代と一緒に東京体育館に新極真會の世界大会を観戦に行ってきました。

風邪が中々治らずに体調が悪かったので、「キャンセルしようか? でもせっかく1万円のチケットを貰ったのに行かないのも失礼だし、取り敢えず顔を出して体調が悪化したら途中で帰らせてもらおうかな〜?」と、朝は考えていたんですが、会場に到着して観戦しているうちに燃えてきて、大分、元気が出てきましたね。

結局、Yさんの御友人の皆さんと一緒に打ち上げにも参加してしまいました。

さて、観戦の感想ですが、私は何と言っても女子部の頑張りとレベルの高さに感動させられました。顔面パンチの反則を食らって一時は失神してタンカで運ばれながら復活してきた選手の不屈の闘志には驚かされましたし、頭一つ大きな外国人勢を相手に一歩も引かずに立ち向かう大和ナデシコ勢の姿には、正直、男以上の気迫を感じました。

結局、優勝はできなかったものの、準優勝した選手の左のハンマーパンチは、丸で星一徹が土方でツルハシを打ち込んでるみたいな鬼気迫る迫力があり、まさに必殺技のイメージがありました。アレを最後まで出せれば優勝できたかも知れないのに、恐らく、準決勝で肘を痛めたのでしょう。決勝では反則攻撃を二度食らって突破口が見いだせないままリーチ差の前に猛攻を受け続けて敗れてしまいました。

また、負けはしましたが、体格差をものともしないで左右に体を入れ替えながら果敢に攻めていた選手もいて、印象に残りました。やはり、足を止めて打ち合えば、体格差はいかんともし難いものがあり、日本人はステップワークをもっと磨いて、左右半身を切り返しながら闘えるように身体を練り込まないといけないでしょう。この女子選手はそれをよく練習していたようです。

男子決勝は、塚越選手が日本人でただ独り残り、塚本、鈴木といった看板選手は敗退していましたが、逆に外国勢は強そうなのが残っていて不気味な印象がありました。

が、塚越選手は落ち着いて闘い強かったですね〜。決勝では、奥足を蹴るローキックで相手の動きを止めて本戦で文句無しの優勢勝ちを収めました。

塚越選手の強さは、相手の動きをよく見切っていた点ではないかと思いました。変則的な蹴り技が来ても慌てることなくほとんど見切っていました。相手選手も塚越選手のプレッシャーを感じて蛇に睨まれた蛙のようになっていたフシが感じられました。

優勝インタビューでも「丈夫な身体に生んでくれた両親に感謝してます」と、泣かせるコメントをしていた塚越選手の人柄の良さが印象的でした。

打ち上げの時に、「極真に学んだ人間は、たとえ分裂しても一般道場生同士は会えば仲良くできるし、大会の時はちょっとした同窓会気分になるんですよ」とYさんが話されていて、羨ましく思いました。

技術的なことばかり求めて人の気持ちを解らなくなる人達と比べて、極真に学んだ人達の心の繋がりは武道を越えた友情として生涯続いていくんでしょう。

私も、これからの自分の会を、そういう心の繋がりを大切にして続けていきたいと思いました。

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2007/10/16 特撮ドラマが何故か花盛り

何か、理由はよく判らないんですが、深夜の特撮ドラマが一気に増えてます。

以前は、テレ東かTVKでホラー系特撮ドラマがやってましたけど、最近は、MXテレビの深夜がマニアックですね。

ついこの前までは以前、テレ朝で深夜にやっていた時空警察ヴェッカーの新作『ヴェッカー・シグナ』をやってたし、さらに深夜にはオリジナルの特撮系ヒロイン・アクション物のインディーズ会社禅ピクチャーの作品がランダムに放送されてます。

新聞には“アクション”としか書いてないんで何だろ?と思って見てみたんですが、MXテレビって、かつてのテレ東的な位置付けでメジャー化を狙ってるみたいな感じがしますね。

テレ東と言えば、『エコエコアザラク』『ねらわれた学園』『デビルサマナー』『仮面天使ロゼッタ』で90年代深夜特撮ドラマのけん引役を担っていましたけど、最近も『牙狼』『ライオン丸G』という野心作を生み出しました。

そのテレ東が、『キューティーハニー』と『魔法先生ネギま!』を実写ドラマで放送中というのも何か凄いです。

ところが、MXテレビとTVKは、何と、あの『風魔の小次郎』を実写化して放送しているではないですか? これは流石にビックリしましたね〜。『牙狼』で人気者だった藤田玲や、ウルトラマンネクサスの主人公だった川久保拓司がワイルド系にイメチェンして出てる。

さらに、ウルトラセブン生誕40周年記念として『ULTRASEVEN X』がTBSで放送されている・・・。

何なんでしょうか? この特撮ドラマの百花繚乱っぷりは? アニメがどれも似たりよったりになっていることから、CG技術で表現の幅が広がった特撮系に可能性を求める人が増えたのか?

ちなみに今回ウルトラセブンXに変身する与座重理久(よざ・えりく)って、どっかで見たような〜?と思っていたら、竹内力のムラマサ・シリーズその他Vシネでリキ兄貴の弟分として活躍しているエリックじゃん? そうか〜、沖縄出身だったのか?

個別に作品批評したいところですが、こう多くては大変です。いずれも野心作であることは間違いない。夜更かし君はご覧あれ。

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2007/10/13 作為を捨てて天意に任せる・・・

私、昔っから不思議なことに、色々とトラブルが起こる度に、必ずと言っていい程、どこかから誰かに助けてもらう・・・というパターンがあるんですが、今回もまた、そういう不思議な縁の働きがあったな〜と思える出来事がありました。

最近、会の先行きに悩んでいて、1000円で観れるオヤジデーに橋本のMOVIXに気晴らしに映画を観に行きました(長瀬君が声優に挑戦したチャンバラ・アニメの『ストレンジア−無皇刃譚』面白かったよ!)。

やっぱ、ムシャクシャする時はアクション映画でスカッとしたいですからね〜。

それで、結構、気晴らしになったんで、「そう言えば、佐原先生(合気会清心館道場館長)が『暮らしと健康』に短期連載で載ってるんだったな〜?」と、ふと思い出して、帰りに駅前のミウイの本屋さんに寄ってみようとエスカレーターを上がっていたところ、ふとすれ違った紳士が、なっ、何と! その佐原先生その人ではないですか?

いや〜、偶然とは思えない驚きのタイミングに、我ながら唖然としてしまいましたが、佐原先生もちょっと驚いてらしたみたいでした。が、せっかくだと思って、「先生、もし、お時間があったら、少し喫茶店とかでお話できませんか?」とお誘いしてみたところ、快諾戴いて、ミウイ・ビルの上階の踊り場みたいなところでコーヒーを飲みながらおしゃべりしました。

無論、当然ながら武道の話になる訳ですが、これは絶対、何かの縁の働きに違いないと思っていたので、「いや〜、先生、実は僕はもう研究会を解散しちゃおうかと思ってるんですよ」と、単刀直入に悩み事相談をしてしまいました。

すると、佐原先生はいつもの飄々とした態度で、「作為は捨てて天意に任せていればいいんですよ」の一言。

そうか〜、考えの違う他人を自分の思うように動かそうなんていう目論み自体が無理なんだよな〜。悩むだけ無駄だよな〜・・・と、納得!

「いやね〜。人間は考えが違えば自然に離れていくんですよ。そして、会うべき時に出会って何かしら学ぶものがあって、学び終わると離れていく・・・そういうものですよ。だから、どうこうしてやろうとかする必要はないんです。縁というのはそういうものです」

はは〜・・・、何か、死ね死ね団との戦いでヘロヘロになっているレインボーマンの前にアストラル体だかコーザル体だかエーテル体だとかで「タァケシィ〜ッ・・・」って出てくるダイバダッタに教えを受けた気分です。

もうね〜、心の中で拝みました。「お師匠ぉ〜」って・・・。

一期一会と言いますけど、取材でお会いしただけなのに、私は佐原先生に学んだことは武道だけじゃなくて凄く大きなものがあったんだな〜と、本当に思いましたね〜。また、そういう生き方に関する示唆を与えてもらえる先生に出会えるというのは、本当に得難い幸運なことだと思うんですよ。

武術とか武道とかって、結局、「いかに生きるか?」ってところに繋がってくるから価値があると私は思っています。個々の技の優劣なんか問題じゃないし、そんな次元のことしか関心の無い人間が学んでも、その人にとって武術や武道が本当に役立つことは無いでしょう。単に自分を見失って他者を上から見下ろすようになるだけです。

武術の本質を求めていれば、人の生き死にを真剣に考えざるを得ない。精神的にキツイものがあります。そして、それを感じ取れないような人間は、やるべきじゃない。護身術は護心の術にもならなければ意味がありません。力が増大するに従って慢心していくような武術修行は根本が間違っているんです。

 

私は人に誇れるような素質も才能も無いし、デタラメな性格で自堕落な生き方しかできないダメ男ですけれど、たった一つだけ誇れるのは、武道・武術に関して出会う先生方には非常に恵まれているな〜ってことです。技もともかく、<男の生き方はこうあるべき>という模範を示してくださった先生方は、お一人お一人、タイプは違っていましたが、それぞれ迷いなく我が道を歩まれていました。

何か困った事態になった時、私は、そんな先生方だったらどうするかな?と考えて決めることにしています。心の支えになってくれる先生方にただ感謝するばかりです。

「自惚れたらダメですよ。進歩が止まっちゃいますから・・・」と、これは佐原先生説くところの武道の上達を阻害する意識について・・・。

う〜ん、納得です。やっぱり、行き着くところは<心>ですよね。心を失った人達にとって、武術はあまりに危ないオモチャでしかありません。

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2007/10/13 亀田大毅が負けたけど・・・

何かとパフォーマンス先行で話題を振り撒いてきた亀田親子ですが、ついに二男の大毅が完全に敗れましたね。

チャンピオン内藤大助は、苦労して世界チャンピオンに上り詰めた努力型の典型みたいに評されていますが、いやいや、どんなに苦労して努力してみても世界チャンピオンになれるのは元来の素質と才能に恵まれた人間なのであって、そこを勘違いしちゃいけないと思います。

試合を見る限り、内藤選手はイジメられ顔で、パンチの威力や鋭さはあまり感じられないし、テクニックも優れているようには思えません。つまり、冴えた才能を感じさせる選手ではない。あくまでも見た目は・・・。

ところが、戦績を新聞で読むと、32勝(20KO)2敗2分けと、これは立派な戦績なんですね。正直、やっぱり世界チャンピオンになるだけの実力者なんだな〜と改めて襟を正しました。

恐らく、ピーカブー・スタイルで前に出てくる亀田がディフェンスを固めたままなので、打ち合いにならないから真価が見せられなかったということなんでしょう。

パンチで打ち合う技術に於いて“格闘技の芸術”と呼ばれるボクシングが、ただ勝てばいいんだよ式のスタイルで特攻し、打ち合わずに一発狙いばかりやる亀田スタイルでは、面白くない。

思い出すのは亀田兄が世界チャンピオンになった時の微妙な判定・・・。再度の対戦ではスタイルをオーソドックスなボクシング・スタイルに改造して臨み、文句無しの判定勝ちをものにしました。KOが無かったから凡戦と評されてましたが、ああいう地味な攻防の中にこそスキルが光るものです。それが観えない人はボクシング観ちゃダメ!

この兄貴の姿に学べば良かろうに、何故、あんなヤンキーの特攻喧嘩スタイルを続けてしまうのか? ボクシングと喧嘩を勘違いしているような終盤の反則連発は、丸で漫画みたいで、流石に呆れてしまいましたよ。反則負けを喫して“勝負に勝って試合に負けた”という印象を残してごまかそうとする作戦なら、何と姑息な・・・。

格闘技というのはスポーツとして、きちんとルールに則って競わなきゃいけない。ただ、勝てばいいという発想は馬鹿過ぎです。相手にも失礼だし、ボクシングというスポーツ自体をなめた態度でしょう。話題性を煽るのが目的の「負けたら切腹」発言も、浅はか過ぎてゲンナリします。

内藤選手の謙虚で優しいキャラが一層際立つ形で終わった今回の試合は、亀田親子の見苦しさばかりが目立っていました。虎の穴から派遣された悪役プロレスラー並の頭突き・サミング・肘当て・投げを駆使する18歳の挑戦者にとって、これが転機になるのでしょうか。彼らは格闘技と喧嘩を混同しているようです。

切腹という行為は、昔の武士が自身の潔白を死を以て証明する厳粛な誇りの儀礼なのであって、軽々しいものではないのです。

実際に病人を治すと宣言して治せなかった健康法の指導者が切腹して詫びた事件や、右翼人が自身の思いの熱さを訴えるために切腹する事件などが何度も起こっています。切腹というものをパフォーマンスで宣言するのは本当に愚劣だと思います。

私も数年前にある人から「切腹して詫びろ」と言われたことがありました。その人の思い込みで一方的に私が悪いように決めつけられたのです。どうも、武道関係者には思い込みが激しくて、自分が信じ込むと他人をそれに当てはめようとする人が少なくない。おまけに聞く耳が無くなって自分の考えに没入する人が多いから、話し合いにならない。

結局、その人が間違っていたのが後に判明して誤解は解けましたが、当時、私の潔白を信じて庇ってくれた某出版社の社長さんや拳法の師匠には、一生、恩は忘れまいと誓ったものでした。

この時の経験もあるので、軽々しく「お前も負けたら切腹しろ」と記者会見で内藤選手に迫った亀田親子の態度には個人的に許し難いものを感じました。
 少なくとも、亀田親子は内藤選手のところにお詫びに行って、土下座して無礼を謝罪しなければならないでしょう。

エリカ様も謝罪したんだから、亀田親子も詫びなさい!

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2007/10/13 四万円の刀(ほぼ)完成!

雨にも負けず風にも負けず・・・と言ったのは宮沢賢治ですけど、風邪で具合悪くなって寝込んでいる時も、刀の拵え作りは続けておりまして、何か、今まで作った中でも最短記録で出来ちゃいましたよ〜。

刀屋さんで激安で購入した縁金具と脇差用の小さな鍔、そして水道橋の尚武堂さんで購入してきた金着塗装の切羽二枚と焦茶色の柄巻用革紐4m、そして、町田で新装開店したばかりの東急ハンズで濃い青に着色されたエイ革を買ってきました。

これで、材料は揃った。取り敢えず、以前、三尺二寸五分の大太刀に長巻仕様で着けていて半分にぶった切っていた余りの桜材が、茎(なかご)が入るところを削れば柄材になるので、これを流用しました。

まず、中にサンドイッチしていた重り用の真鍮板を外して、茎の寸法に合わせて彫刻刀でゲシゲシ削ります。彫刻刀だけだと疲れるので、時々、荒目のヤスリでガリガリとやって、また彫刻刀で削る・・・、この茎の入る部分を削るというのが拵え製作中で最も大変な作業なんですが、普通は軟らかい朴の木を使うのでそんなに大変じゃない。

でも、作業は簡単でも朴の木だと保存用ならともかく実用に使う場合は、折れそうで耐久性に不安があります。だから、以前は欅や樫材で作ったこともありましたが、今は桜が気に入って使ってます。

ところが、今回のこの刀は刀身もゴツイんですけど茎もかなりゴツイ。縁金の穴を削って通してみたら、ギリギリなんですね〜。だから、柄木もかなり削り込まないといけないんだけど、そうするとせっかく丈夫な材質を使っているのに薄くなってしまって意味がない。かと言ってあまり柄が太いとブサイクです。

それで、以前、S師範代に教えてもらって大太刀製作などに利用してみた柄木に針金を巻き付けて補強する作戦を今回もやってみました。もっとも、柄木そのものをギリギリまで削っているので、この辺はもう勘でやるしかないんですね。

一回、作ってみてエイ革を貼りつけて革紐を巻いてみましたが、えらいブットクなってしまって、こりゃあ、いくらなんでもブサイクだろ〜と思って、紐を解いて革を剥がし、針金も取ってしまって、あらためて慎重に柄木を削ってみました。

とは言っても、縦の部分は茎の幅ギリギリなので削るのは無理。となると、横っ腹を削るしかありません。ここをヤスリでガシガシ削って、ミニカンナで薄く削ってならす。と、何か柄木がめっきり痩せ細ってしまったようで、柄の芯になる部分がこれでは頼りないな〜と思って、ほどほどに削ってから、再び針金を巻き直し(針金の分が出っ張らないように三角刀で溝を掘った)、エイ革を貼りつけ、革紐を巻いて仕上げました。

やはり、柄木を削り込んでいないので、かなり図太く仕上げも荒っぽくなってしまったんですが、握った感じは狙い通りでいい感じです。エイ革の濃いブルーと刀屋さんにおまけで頂戴した金色の竜の目貫と縁頭の真鍮の金色が映え、焦茶色の革紐巻きにしたのも渋くいい感じになりました。金の切羽に挟まれた脇差用の小さな鍔が、薩摩示現流仕様みたいに見えます(トンボの構えの時に頭に鍔がぶつからないように薩摩拵えの鍔は小さい)。

目釘の竹はS師範代に貰っていた真剣用の古い竹片を削って装着しました。これも大太刀用のものの余りです。本当にS師範代は日本刀に関しては造詣も深く、大きな身体で実に柔らかく剣を遣い、人柄の優しさが剣風に現れていました。「剣は心」と言うのもあながち嘘ではありません。速さ・鋭さ・強さを表現するのは二流以下ですよ。

模擬刀の鞘には鯉口が無かったので、後は鯉口の金具を購入するか、あるいは木切れを削って作るかして接着すれば完成しますけれど、一応、実用上は問題なく使えます。

さっそく、游心流居合術秘伝<卍月>を抜いてみましたが、小さい鍔のお陰で指が引っ掛からず、容易にできました。実は、刀を回転させるバランス調整のために柄の余った部分に重り用に真鍮板二枚を挟み込んでいたんですが、この工夫も役立っているようです。作っている時に重さを確認しながら挟んでみたんですが、一枚だとあまり変わらなかったんですが、二枚だと違いが分かったのです。この僅かなバランスの違いが大きな差を生み出すんですよね。

刀身自体のバランスも良かったんですが、流石に重さ自体が結構あったので、回せるかどうかはやってみるまで少し不安があったんですね。それと、刃毀れを直すのに全面的に軽く刃引きにしていたので、ビビらずにやれました。この技は秘伝にしたのも理由があって、刀の刃が真下から跳ね上がってくるので、下手をすると自分の脚や指に斬りつけてしまいかねない難度の高い技だからです。

それと、この刀は通常とは逆の位置に目貫を入れてみました。いわゆる“逆目貫”というヤツで、柳生連也斎が好んでいたと伝わります。何故、逆目貫にしたか?と言いますと、単に間違ったからなんですが、試しに逆手で握ってみると、何と! これが実に握り具合が宜しいではないですか? これなら游心流で特に研究している逆抜きの居合術とかがやりやすい筈で、瓢箪から駒でしたね。

それにしても、この刀がたった四万円で入手したものだとは誰も思わないでしょう。

もう一度刃をつけて試し斬りにも使ってみるつもりですが、綺麗に磨けば、かなりいい刀になりそうで、風邪で熱っぽく、布団に横になったままヤスリでガリガリと鍔や切羽、縁金の穴を削っている最中はもっと時間がかかりそうだったのに、意外と簡単にササッとできてしまいましたね。やっぱり、数こなすと作業時間が短縮するもんですね〜。ただし、風邪は長引いてしまいました・・・。

ちなみに今回、電動ルーター等の機械の力は頼りませんでした。全て手作業。鞘の製作が省かれた分、かなり楽にできたのは間違いありませんね。大太刀の時は往生しましたからね〜。

もちろん、自分で作ると専門の職人さんのように綺麗にはできません。技術もそうですが、作業環境が整っていないんだから仕方がありません。私の場合は、設計図の類いも描かないし、メジャーとかで寸法を測ることもしません。ほぼ、勘で作業しています。各パーツを素材から削って作り、何度も合わせては削りして作っています。寸法は自分の握った感触や見た目でテキトーに決めてしまいます。実用を重視しているので見た目は二の次になってしまうのです。

家が近いK師範代は、私がこの手の作業をしている様子を何度も見ていますけど、私が全くの勘で作っているのに驚くというか呆れるというか、不思議そうにしていますけど、そこはそれ、私の武術の技も一緒で、その場その場で相手に応じてアドリブで勘で対応する・・・という点で共通しているんですね。

何か、技を正しい形として覚えようとする人を見ているとイライラするんですね。そんな形で覚えてしまったら、動いて攻撃してくる相手に通じる訳がないんです。何か一つの真理さえ体得すれば全てに通用する・・・みたいなおかしな幻想を抱えて夢見てる人が多いように思います。だって、私は交叉法を探究する一方で交叉法の破り方も研究してますからね。「自分の一番の得意なやり方がもし通じなかった場合にどうするか?」という考え方をしなければ武術とは言えないと思うんですよ。

武術はどんなことしてでも勝って生き残ることを考えないといけない。その目的のためには単純な肉体や技の強さは邪魔になる場合がある・・・という点を理解しておかなきゃいけないのです。万能の技さえ体得すれば全てOKみたいな考えはまともな戦いを体験したことのない人間の寝ぼけた夢物語に過ぎません。現実に戦っている人はそんな寝ぼけたことは言いませんよ。ピストル出されたら何もできなくなる武術ではしょうがないんですよ。圧倒的な戦力の差を挽回する工夫ができるかできないか?の問題なんです。

それがつまり、とっさの勘で動けるかどうか?ということです。マニュアルが無いと何もできないというのは思考力が無いのと同じです。

多分、昔の日本人って、こういう勘で生きる特徴があったんじゃないか?と思うんですよ。刀工なんて、勘が良くなかったら絶対、勤まらない仕事ですよね。日本刀って、全てがハンドメイドなので、何万振りあっても、一振りたりとて同じ刀は存在しないんです。

今の日本人って、勘の働きが衰えまくってますよね。人の気持ちが読めないし、理屈ばっかりで本質が観抜けない。肝心なことが観えていないのに理論上で理解したつもりになっている人が結構多いのに驚かされてしまいます。

武術は一種のサバイバル術ですが、「道具を作る」というのは人間が生きていくための基本中の基本なんです。狩猟具や農具から転用された武器というのも多いですが、それはつまり、もともと武術は日常生活に根差していたものだった・・・という証明でしょう。

刀の破損を直したり拵えを作ったりしてきて、技の研究も随分と進みました。峰打ちとか、敵の刀を峰で受け止める技とかが、日本刀の構造上、不合理なものだったということも解りました。また、居合術や剣術の身体運用が思いの外、体術と連動していることも解りました。やはり、「剣を知らなければ日本の武術は理解できない」という説は正しかったのだと私は思います。心ある武道家は、是非、安いもので構いませんから、真剣を手に入れて研究してみられることをお勧めします。
 やってみなければ判らないというのは現実に生きていて避けて通れないテーマです。

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2007/10/13 コンビニ強盗殺人に思う

映画でもしょっちゅう描かれるように、アメリカ都市部の商店では強盗に襲撃される率がかなり高く、ニュース映像でもよく見かけます。

しかし、日本でも増えていくんじゃないか?と思っていたんですが・・・。

万引き少年を追いかけて刺されて死んだコンビニ店員の事件を見るにつけ、終日営業のコンビニ店で深夜に勤務している人を見ると、死と隣り合わせの厳しい現場で働いているように見えたりします。

私も深夜のバイトを好んでやっていたんですが、一般的に人間は夜は理性のタガが外れやすく、何度か危ない状況になりそうになったことがありました。

けれども、長年、武術修行してきたお陰で慎重に考える癖がついていたので、実際に暴力沙汰になる前に回避することができました。

以前、働いていたラブホテルで車上荒らしが出没した時、追いかけていった店員がいましたが、「100mくらい走ったけれども追いつけなかった」と自慢げに言っていたので、「そういう犯罪をおかす者はナイフとか凶器を用意している場合が多いから下手に追いかけると自殺行為ですよ」と注意したところ、「長野さんは武道教えているのに気が小さいな〜」と笑われていました。

ところが、ある晩、客が満室で入れなかったことに腹を立てていて、怒鳴り散らして凄む客に対して、その人はビビッて隠れてしまい、フロントのおばさんが客をなだめて追い返してしまっていました。そして、「あの人はいざとなるとだらしがないわね〜」と苦笑していました。

何事も力で解決しようとしてもうまくいかないものです。犯罪に走る者に良心を期待するのは間違いですし、無謀な勇気で立ち向かってもドラマみたいな展開になることは滅多にありません。むしろ、犯罪をおかす者の方が護身を真剣に考えている場合が多いのは、彼らがナイフやスタンガン、催涙スプレーなどを隠し持ち、いざとなれば容赦なく使っている点でも明らかです。

刺されて亡くなられたコンビニ店員の方は本当にお気の毒だと思いますけれども、深夜に若い女の子が独りでレジに立っていたりするのを見ると、店の側で万引きなどの犯罪をおかす者への対策をもっと考慮すべきではないか?と私には思えて仕方がありません。

シダックスの『武術で護身術』講座中でも、最近は対刃物や対木刀(金属バット)などを考えた練習内容を工夫していますが、これらは伝統的な武術の技だけでは追いつかないものだと痛感しています。形で覚えるのでなく、臨機応変に対応する癖をつけておかなければなりません。技以前に日頃から危機管理する意識を磨いておく必要があるのです。

とは言え、通り魔的に突然、刃物で襲ってくる精神が壊れた者も増えていく傾向が感じられますから、効果的な対策を一つ、お教えしてみましょう。

それは、中に大きめの雑誌等を入れたバッグを常に持ち歩くことです。実は、週刊誌みたいな薄い本であっても、これをナイフや包丁で突いて貫くのは容易なことではないのです。週刊誌くらいならバッグに入れていても重いものではありませんし、革のバッグであれば尚更、刃物を通しません。私はほとんどいつもナップザックを背負って歩いていますが、実はこれが充分に防刃用に使えることを知っていて持ち歩いているのです。

無論、私の場合、このバッグの中にはバットで殴られてもクッションになるようにバスタオルとか本とか折り畳み傘とか入れているんですが、特に治安の悪そうな場所に出掛ける場合はフォームラバーのヌンチャクを入れていたりします。これなら当たっても大した怪我を与えませんが、見た目はヌンチャクなので威嚇効果は望めますし、ナイフで向かってこられた場合はバッグを盾にしてヌンチャクを振り回したり、色々と応用は考えられます。

手裏剣や金属性の得物を持ち歩けば犯罪に問われるでしょうが、こういう安全なものも使いようによっては護身に役立つのです。これから寒くなれば厚手のジャケットやコートも充分に刃物対策に利用できますし、蹴り技が得意な女の子なら乗馬用のブーツで武装?してみるのも宜しいのではないでしょうか? そして、蹴りで狙うのは、足の甲(ヒールで踏む)・膝(前から踏み付ける)・股間(下から蹴り上げる)ですぞ。腰より上を蹴りで狙うのは、蹴り脚をキャッチされてもつれる危険性があるので素人はやっちゃダメ! 特に回し蹴りのミドルキックはキャッチされる危険が高いから実戦ではやらない方が無難ですよ。

ミニスカでハイキックというプレイガール方式の攻撃も、男の反射本能として一瞬、スキができるから上級者にはお勧め・・・していいかも?(ただし、ホモには効かない恐れが・・・)

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2007/10/13 ペリー荻野『ちょんまげ八百八町』感想

フゥ〜・・・この天候不順っぷりは何なの? 夏かと思えば晩秋に・・・かと思えばまた夏に・・・こんなに天候の変化が激しい年は記憶にない。半袖か長袖か選ぶのも苦労する。陽が暮れるとかなり寒くなるし・・・私が一年のうちで最も好きな秋が短くなりそうで、金木犀の甘酸っぱい花の香りを楽しむ余裕もありゃしません。風情が無いのぅ〜。

お陰で久しぶりに喉が痛くなって風邪ひいちまいましたよ〜。あ〜っ、身体ダルぅ〜。

さて、本書は、女流時代劇研究家として活躍されているコラムニストのペリー荻野さんのTV時代劇評論本です。

ペリーさんの文章は、アスペクトのPR誌の連載対談「ちょんまげだもの」で楽しんで読んでいたんですが、失礼ながら御著書を買って読んだのはこれが初めてでした。

丁度、神田神保町の書泉グランデの地階の映画コーナーに立ち寄った時、そこで立ち読みして、「こりゃあ、面白いや」と思って買った訳です。

黄門サマや越前サマ、平次親分に金サン、暴れん坊将軍といった国民的ヒーローから、渋い系で鬼平、紋次郎、必殺、斬九郎、剣客商売といったラインナップは当然として、サスケ、赤影、それからの武蔵、盤嶽の一生、剣、天下御免といった作品も採り上げているところがニクイです。

2004年発行となっているからちょっと時間が経過しているけれど、十分に楽しめました。

私もこういうの書いてみたいな〜。

ちょっと、ラインナップを考えてみましょうかね〜。
 エ〜ット・・・「唖侍・鬼一法眼(弟勝新はメクラで、兄貴の若山先生はオシ・・・何故、この兄弟はハンディキャップ・ヒーローを演じたがるのか?)」「賞金稼ぎ(バントラインをクルクル回し、20世紀の拳銃44マグナムをブッ放す元祖スキヤキ・ウエスタン)」「翔べ!必殺うらごろし(伝説のオカルト必殺シリーズ。敦夫が翔び、アッコが殴り、悦子がブッ刺す怪作。でもテーマ曲はカッコイイんだよ〜)」「大江戸捜査網(隠密同心風を演じた志穂美悦子だけを評論する)」「高橋英樹主演の時代劇スペシャル子連れ狼(英樹には悪いが、柳生烈堂を演じた若山先生だけを評論する)」「柳生一族の陰謀(天知茂の宮本武蔵や石橋蓮司の柳生連也斎が千葉十兵衛と対決?)」「三匹の侍(若山先生がゲストで出た最終回だけを評論する)」「影の軍団3(若山先生が出た第一話だけを評論する)」「真田広之の時代劇スペシャル新吾十番勝負(敵役の若山先生・・・以下同文)」「風雲!真田幸村(強い家康を演じた若山先生だけを・・・しつこい?)」「逃亡者おりん(影の薄い主役と無駄に豪華な共演陣! あずみとキャッツアイにケンシローの肩パッドでコスプレしたおりんのキメ台詞「また一つ、闇の鎖、斬りました・・・」癖になりまするぅ〜)」

あ〜、そういえば、若林豪さんが主演していた「新十郎捕り物帖・快刀乱麻」という明治時代を舞台にした推理物時代劇があって、勝海舟も出てきて新十郎と推理合戦するけど、いつも今一歩のところで負ける。この作品、特にチャンバラは無いんだけど凄く印象に残ってまして、原作は確か坂口安吾で、クレジットタイトルのサイケでシュールな絵柄(横尾忠則かな?)をバックに「少女ひとり〜、白い馬に乗って、駆けてくる〜。霧の朝〜・・・」って、ちょっと幻想的な歌がテーマ曲で、時代劇にこういう歌って、他には「長崎犯科帳」とか「木枯らし紋次郎」とかしか思い出さないんですが、とにかくもう一度観たい作品ですね〜。なんでかっていうと、最終回観逃しちゃったんですよね〜。

ペリー姉さん、知ってたら教えて〜。

あっ、若林豪さんで思い出したけど、この人も殺陣は豪快で上手ですよ。Gメン75のダンディな警部補のイメージが強いですけど、竹脇無我主演の「江戸を斬る 梓右近捕り物帳」と、題名は忘れたけど松方弘樹主演の時代劇(松方パパの近衛十四郎も悪方で出演してた)で柳生十兵衛を演じてました。で、私の印象では柳生十兵衛って若林豪のイメージが強いんですよ。刀を肩に担ぐ千葉チャン十兵衛のおなじみのポーズも、実は若林豪が先にやっていたのです。これに近い構えは、柳生新陰流とは従兄弟の流儀にある駒川改心流の八相の構えがありますね。

若林豪さんは主役より脇役の方が多いですが、「無法街の素浪人」ではレミントン・ニューモデルアーミーを操る明治新政府の隠密捜査官で、世界のミフネと共演していましたが、萬屋錦之介や天知茂の主演作でいい味出してました。

確か緒形拳さんと同じく新国劇出身だったんじゃなかったかな? 新国劇出身の人は殺陣が上手いんですよね〜。

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2007/10/13 『ローグアサシン』の大ドンデンにビックリ?

武術映画は卒業と言っていたジェット・リーですが、「アクション映画は卒業しなかったのね?」な、今回のミステリアスなアクション映画『ローグアサシン』・・・。

ジェット・リーが残虐な殺し屋に扮して、ジェイスン・ステイサム(『トランスポーター』『アドレナリン』)が復讐に燃えるFBI捜査官を演じる・・・というありがちな設定だけれども、ところがどっこい! クライマックスで「おいおい・・・」って感じの大ドンデンがありまする・・・。

私、この大ドンデンが無茶過ぎて、すっかりストーリー忘れてしまいましたよ。

まあ、ジェイスン・ステイサムの日本語がヘンだったりするのは愛嬌で、『イントゥ・ザ・サン』のセガールよりマシだし、デボン青木が意外と日本語うまかったり、チャイニーズ・マフィアと日本ヤクザの対立で懐かしやジョン・ローンが出てたり、ケイン・コスギがちょびっとジェットと戦ったり・・・と、中々豪華な作品です。

でも、ヤクザの親分を演じた石橋凌が個人的には一番、良かったのではないか?と。

石橋凌と言えば、松田優作の唯一の監督主演作『ア・ホーマンス』で実質的な主役を演じ、以後、Vシネ系や異色作で存在感出しまくりの人ですが、『AIKI』の時に大東流合気柔術の師範(六方会の岡本正剛師範がモデル)を演じたり、伝説のホラー『オーディション』で足首ギコギコ切られたりする主役を演じて有名になっていました。

しかし、松田優作の急逝した時、「優作さんの魂は俺が継ぐ」と宣言して役者道に精進し続けてきた凌さんのロック・スピリットは、ジェット・リーにもひけを取らなかった。

織田信長を譬えに出す凶暴なヤクザっぷりと、上段に日本刀構えた時のキマリ具合は剣殺陣が初めてとは思えない気迫が出ていましたし、ケインと真剣で稽古するシーンで、うっかり本気になって着物の袖を斬ってしまったケインに対して、「油断したのは俺だから気にするな」と言いつつ、ほっとしたケインを後ろからビュッと刀を振って耳そぎする凶暴さは、流石は信長を敬愛する極道さんだな〜と、むしろ感心させられます。

そんな『ローグアサシン』、見所が多いですよ〜。

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2007/10/03 第一・第三日曜日の本部稽古会

会員有志(直接、私の指導を受けたいという人)向けに月二回、日曜日の午前10:30〜12:00(多少、前後します)に、本部最寄り駅(JR横浜線・渕野辺駅)近くの公園で青空稽古会を実施することになりましたので、やる気のある会員は御参加ください。
 ただし、仕事などの都合で変更される場合がありますので、参加希望者は前日までに私に電話申し込みされるようお願いします。

指導内容は、スワイショウ・立禅・歩法・対練・ミット練習・限定スパーリング(公園なのであまり過激なことはやりません。組手に使える技の研究と考えてください)等に、型は、太極拳・八卦掌・形意拳・八極拳・空手等からチョイスして指導します。

雨天の場合は、本部(つまり、私の部屋)にて手裏剣・居合・細かい技の理論解説などを行う予定です(独り練習用の秘密兵器を買ったのでサイコーですよ〜)。

ちなみに橋本駅前シダックスでは各種武器術(棒・槍・居合・剣・中国剣・ヌンチャク等々)や様々なテクニックを護身術として再編成して指導していますから、通える人はこちらをお勧めします。土曜日の昼3:30〜5:00にほぼ毎週やっているので、こちらがいいと思います。

尚、シダックスは申し込み管轄がお店ですから、基本的には誰でも参加可能ですが、日曜日の稽古会は有志の方の要望に応える意味で開催するものなので、私が認めない人は参加できません。いきなり押しかけて教えてくれと言われてもお断りしますから、念の為。

とにかく、武術というのは内容が内容ですから、「やりたい人にはどなたでも・・・」という訳にはいきません。私の師匠も態度のなっていない人は断っていましたし、基本ができるようにならなければ次の技は決して指導してくれませんでした。

このような指導法が当然なのですから、やたらに何でも教えてもらえると勘違いしないよう、くれぐれもお願いします。技が知りたいだけならDVDを見てもらった方がずっといいですよ。

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2007/10/03 “カタナづくり”随感

S師範代の紹介で大太刀製作の仲介をとって戴いて以来、時々、寄らせて戴いている横浜の刀屋さんに久しぶりに行ってきました。

大太刀の重量バランスを取るのに重い鍔を付けてみようと思ってお願いしていて江戸時代以前の古い鉄鍔を本の印税が入金されたので買いにうかがった訳です。

何故、重い鍔にするか?と言いますと、鍔が重くなると重心がそれだけ手元に寄ってくることになり、刀身の重量が変わらなくとも扱いやすくなる・・・と言われており、重い刀は重い鍔、軽い刀は軽い鍔をつけて刀全体のバランスを調整する・・・という訳なのです。

ただし、鍔の大きさは小ぶりでないと抜く時に手首の角度が深く取れないので、刀身の長い刀の居合術には向きません。大きな鍔は剣術の戦いには多少有利に働きますが、居合術の迅速な抜刀には邪魔になるのです。これは、二十代後半に毎日千本抜きをやっていて気づいたことでした。丁度、右手親指と人差し指の間の合谷(ゴウコク)のツボの辺りに鍔が当たってアザができ、おまけに指先が痺れるようになってしまったのです。

こういう試行錯誤は自分で繰り返して実感しなければ判らない面があります。私が自分で稽古用の刀の拵えをつくるようになったのも、既製品は実用向きに考えられていないので、自分に合うようにカスタマイズする必要性を感じたからです。

さて、刀屋さんで鍔を購入し、いつものように店内を見て回っていると、社長さんが白鞘も何も無い刀身(ハバキは付いていた)だけの刀を見せてくれました。もの打ちのところに多少刃毀れがあり茎が錆びて変形し、全体的に多少くたびれた感じがありますが、身幅も広く、重ねも厚い、非常に実戦向きな雰囲気のある刀でした。刃紋も私好みの小乱れで地肌もよくよく観ると品のある結構なものです。綺麗に研ぎ出せば100万とはいかずとも40〜50万くらいはするのではないでしょうか?

社長さんは、私が貧乏もの書きなのは知っていますから、まず数十万円のブツは勧められません。ですが、自分で刀の補修をして拵えも作れることはご存じですから、この抜き身の刀を見せられたのでしょう・・・。

まあ、印税が入ったからといっても、私の生活の心配をしてくれる師範代の手前、今回は十万円以上の買い物はグッとこらえて買わないつもりでしたから、(まあ、「十三万でいいよ」くらいのことは言われるだろうな〜。でも、ここはこらえておかないと申し訳ないからな〜)とか考えたのですが、「四万でいいよ」との声・・・。

「買います・・・(キッパリ!)」

いや〜、私、今まで最低価格五万円で脇差買ったのが最高記録でしたけど、四万円で定寸刀(二尺二寸七分くらい)が入手できるなんて夢にも思っていませんでした。で、その場で一万円手付け金を払い、翌日、残り三万円を支払いに行ってブツを持ち帰りました。

ところが、この刀、反りがちょっとばかり深くて余り鞘を貰ってきたんですが、かなり加工しないと合いそうにない。これは結構、作業が大変になるな〜と思って部屋の中で作業の進行をどう進めるか?と考えていた時、ふと安い模擬刀が視界に入り、何かピンと来たので、この模擬刀の鞘に試しに納めてみたところ、何と! 多少キツイものの何とか納まったのです! 刀屋さんでいくつかの鞘に納めてみようとしてどれも合わなかったのに、何という僥倖か?(新子連れ狼の東郷重位と大五郎の出会いみたい?)

そういう訳で、鞘を新しく作る作業は大幅に軽減され、紛失している栗形(下緒というヒモを通す鞘の横に飛び出している部分)を新たに作って装着すればOK!ということで、取り敢えず、肝心の刀身の補修から始めてみました。

刃毀れを直す方法は一つしかありません。

刃毀れの最も深いポイントまで刃を削り落とすしかないのです。ですが、幸いにこの刀は元々が身幅が広く、刃紋も広かったので、少々削れても外観はそれほど損なわれないで済みます。刃毀れそのものもあまり深くなかったので助かりました。

それで、思い切って稽古用に前から欲しかったので、一端、全面的に刃引きにしてみることに決めました。これが何十万円もする刀だったら、とてもとてもそんな気にはなれなかったでしょうが、四万円だと気が楽です。

今回の刀は游心流居合術で私が工夫してきた技を用いるのに適した拵えにしてみようと思って、鍔も脇差に装着するような八角の小判形の小さなものを刀屋さんで一緒に購入してきたのですが、何故、そんな小さな鍔にしたか?と言うと、一調子で抜き斬り納めができる<卍月>の技を使いやすくするためなのです。

おあつらえ向きに刃渡りもやや短いので、稽古で怪我をしないためにも刃引きにしておいた方がよかろうと判断した訳です。ただ、改めて観てみると、元重ねがえらく厚いので、これは重過ぎて刀の回転操作は無理か?と思ったのですが、茎を持って構える限り、あまり重く感じません。おかしいな〜と思って、よくよく全体を子細に観察してみると、元重ねが厚いのに比較して先の方はそれほどでもなく、重心が手元に寄っているから重量の割りに重さを感じなかったのでしょう。

重心が先にある方が試し斬りには向いているという説もありますが、刀で戦うことを考えたら、軽く使えるにこしたことはありません。何か、私が「こういう研究をしたいな〜」と考えていると、それができる条件が整う・・・みたいな不思議な感じもしますね。

それにしても、この刀は無銘で、茎の錆び具合から古刀かな?と私は思ったんですが、社長さんは「江戸時代前期くらいの新刀だろうね」と言われていました。なるほど、古刀にしては刃紋が華美過ぎるかな〜と思いましたけれど、これだけ重厚なつくりだと実戦を念頭において作られた刀なのは間違いないでしょう。

江戸時代も中期のものは細身できゃしゃな軽いものが多く、やっぱり見ると頼りなくて欲しいとは思いません。幕末の復古刀思想が出た頃の刀は戦国時代の刀みたいなゴツイのが流行るんですが、日本刀持ち歩いて戦う訳でもないのに、現代で実用を考えてしまうのは、一種の職業病なんでしょうね。

ただ、今回、刃毀れを直すために刃先を鉄鋼ヤスリでガリガリと擦り潰している最中、「あ〜、俺は今、この刀の息の根を止めているんだな〜」なんて、妙な切ない気分がしました。

日本人は九十九神(つくもがみ)の考えがあるように、道具に魂を宿らせるように気持ちを込めて作りますよね。中でも日本刀は、まず作り手の念が込められ、それが戦いを通ると不浄な怨念も受けてしまう。だから、刀を研ぐという行為は、単なるメンテナンスではなくて刀を浄化する祈りでもある。

日本の武術は日本刀の操作である剣術が母体にされていますが、これは技よりも心、魂を磨く修行として取り組もうとする側面がある。もし、その祈りの心を忘れて合理的な敵を粉砕するものとしか考えなくなったら、そんな技の修練は心を歪めて魂を汚す行為でしかないでしょう。

私は、ついこの間まで、自分が立ち上げた游心流をそれなりに広めたいと考えていましたが、今は、「武術というものは何なのか? 何のために修行するのか?」としっかり考える人にだけ伝えられればいいと思うようになりました。

際限無く我欲を満たすために武術に取り組めば、知らぬ間に心が壊れ、人を人とも思わぬ愚か者になり果ててしまう。それは戦場で無抵抗の人間を平然と射殺していく兵士の心と同質なのです。どうか、この恐ろしさを知って欲しい。

私の何倍も生きてきた一本の刀を前に無心で作業する時間が私にとっては至福です。

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2007/10/03 快傑ライオン丸はやはり名作です!

時代劇専門チャンネルで深夜に放送中の『快傑ライオン丸』も、終盤にさしかかっています。

巨大神変化の術でデカクなってる大魔王ゴースンを等身大のライオン丸がどう攻略するのか?という興味もありますが、やはり赤影みたいに空飛びながら黄金の仮面から光線ビカビカーッて出して怪忍獣倒すみたいにはいきませんわな〜。

物凄く久しぶりに見直してみたライオン丸は、スペクトルマンの呆然とするようなチャッチさとは雲泥の差がある冗談抜きに傑作ですね〜。

手裏剣を弾丸にする二丁拳銃の遣い手ネズガンダや、盲目の娘と交流する鳶ムサシなんかはドラマとしてもよくできているし、分身魔王デボノバが、こんなにしょうもないヤツだったのか?というのもビックリ。ゴースンの分身なんだから、もっと凄いヤツだったように誤解してたな〜。

さてさて、それにしてもライオン丸の傑作たる要素としては、殺陣が非常に工夫されているという点に尽きます。カメラの逆回し反転を使った一瞬八人斬り?な立ち回りとか、殺陣にはこだわり抜いていますね。

中でも、キルゴットとの対決では走っている馬の横腹にしがみついたり戻ったり・・・の高度なアクロバット乗馬の妙技も披露していて仰天させられました。中東を描いた映画のシーンで時々見かけたりしますが、ライオン丸の扮装のままやるのはムチャ過ぎますよね〜。

そう言えば、ライオン丸と言えばライバルのタイガージョーですが、虎錠之介を演じていた役者さんは途中で交替されているんですが、当時、「ロケで泊まった温泉で滑った拍子に風呂の縁に股間を打ち付けて亡くなった」という噂話を聞いたことがあります。本当かどうかは分かりませんが、亡くなられたのは事実らしいです。

股間を打って絶命というのは笑い話のネタみたいですが、武術で禁じ手の死穴とされている会陰(エイン)は、男では睾丸と肛門の間です。ここを強打すると脳天まで電気が走ったようになってショック死する場合が有ると言われています。

古い作品を見ていると亡くなられた俳優さんが活躍している姿が見られて、その作品の世界では永遠に生きているのだな〜と感慨に耽ることができますね。遅かれ早かれ人は死ぬけれど、作品は残って後世の人達を楽しませることができる。
 やっぱり、いいよな〜。

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2007/10/03 リンチ殺人とシゴキは紙一重

相撲部屋のシゴキで不審死した事件が騒がれていますが、本当にお気の毒なことだと思います。

シゴキと言えば、武道にも付き物で、特に一昔前の大学の武道クラブではシゴキが高じて殺人に発展したという事件がざらにあったと噂されていました。

これはスポーツでは全般的に起こり得る問題かも知れませんが、特に武道や格闘技のように直接、格闘するものは余程自覚的に避けていかなければ、容易に過失傷害、過失致死に至ってしまう可能性が否定できないでしょう。

私も中学時代と大学時代にシゴキ?を受けた経験がありますが、感情的に未熟な者同士ではまともな練習の範疇から逸脱して暴力の領域に入り込んでしまう可能性は十分にあると思っています。もっとも、今回の事件は親方が暴力体質だったみたいなのが救いが無い様子ですから、これは厳罰をもって当たらねばならないでしょう。状況的には業務上過失致死の疑いがあり、証拠隠滅を図ったり悪質ですから・・・。

本当に人を指導し教育するというのは難しいと思います。優しく扱っていればのぼせ上がって、注意しても態度を改めない者も出ます。そういう場合はビンタの二、三発も食らわしてやろうか?とも思うのが人情というものでしょう・・・。

だから、学校教育に武道を正課としようという計画も、十分に注意しなければいけないと思います。下手をすればシゴキやイジメの温床にならないとも限らないからですし、教師が指示に従わない反抗的な生徒に暴力をふるってしまうケースが増えるのではないかという心配もあります。

物事には一長一短があります。私は武術が好きで続けてきましたが、時々、技術を習得することしか眼中に無くなって周囲の視線に無頓着になってしまう人を見かけます。

これは、良く受け取れば修行者としての熱心さの現れと見なすこともできますが、悪く言えばマトモではなくなっている。芸術家や芸能人、職人などはそれでも問題ないかも知れませんが、武術の技に熟練すればする程、実際にそれを使って試してみたくなる欲求も強くなる。つまり、暴力衝動が強くなったり他人に尊大な態度を取りがちになるのです。

武道は礼節が大事だと言われるのは、この暴力衝動を戒めないと暴発してしまうからです。これは武術も同様です。修行者は心して考えるべき第一のことであり、それが解らない人には私は一切、指導したくありません。それは何よりも自分自身の精神を健康的に保つためなのです。

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2007/10/03 沢尻エリカは正直者?

私は沢尻エリカは好きでも嫌いでもなかったんですが、エリカ様と呼ばれてゴーマンかましているという噂はよく耳にしていました。

でも、まあ、芸能人なんだから、“芸風”ってもんがあるでしょ? それにまだ年が若いうちのゴーマンさというのは人生経験が足りない間に誰でも陥るものだし、どうせ、そんなの長く続けられる道理がない。芸能界という、ある意味、最も礼儀作法が必要とされる世界で生き残っていくには、人気者の自惚れが結局は自殺行為に繋がる最も危険な罠なのは、普通に社会生活している人間以上に痛感させられる筈でしょう・・・。

で、今回、沢尻エリカは自分で墓穴を掘ってしまった・・・。

しかし、私は彼女のブログの謝罪文を聞いて、何かちょっと唸ってしまいましたよ。
 正直、単なる勘違いした芸能人くらいにしか思っていなかったんですけど、文章は未熟さがのぞいているけれども、自分の不始末に責任を取ろうという意志の強さが感じられて、ちょっとこの娘はただ者じゃなさそうだって感じがしましたね。

と同時に少し心配なのは、彼女が変に思い詰めたりしないか?ってことです。必要以上に責任感を感じて自分で自分を罰するような振る舞いに及ぶんじゃないか?ということ。

誰でも自惚れたり失敗したりすることはあるし、反省するのは必要なことなんだけれども(しないヤツが多いからな〜。全面的に他人のせいにするヤツが本当に多い)、一度の失敗で全てをほうり出してしまう人が最近は増えている気がする。

妙に完全主義で、ただの一度も失敗せずに万事、順調にリスクを負わないでやっていこうと考える人が多過ぎる。そんなの現実にはあり得ないのに・・・。

だから、沢尻エリカは、これがいい勉強の機会だったと受け止めて、「ゴーマンなのは芸風で、ホントは優しいエリカちゃん」と言われるように素直になってくださいね。

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2007/10/03 『からだであそぼ』は凄いぞっ!

NHK教育TVの『からだであそぼ』は、幼児向けの教育番組ですが、ケイン・コスギが子供たちと一緒に様々なからだを使ったものに挑戦するところが中々マニアック且つ作り手の情熱がうかがえて、いいんですよね〜。

正直、ごく時々しか見ていなかったんですが、コンテンポラリーダンスや殺陣、礼法、能、歌舞伎なども登場していたけれど、たまたま観たら、なんと“沖縄空手”をやっているではないですかっ!

開掌の独特な手の形と足刀蹴りは、アメリカの空手トーナメントで優勝しまくりのケインにとっては楽勝か・・・とも思っていましたが、やはり身体操作が違えばケインほどの逸材でも難しいんだな〜と、改めて思いました(蹴る瞬間、軸がずれてる。沖縄空手の蹴り方だとずれなかった筈。まあ、優劣の問題ではないから誤解ありませんように)。

でも、一口に空手と言っても、本土に入って以降の伝統派に、防具組手を採り入れた派、直接打撃制で様々に発展したフルコンタクト派でも相当な違いがあるし、沖縄空手であっても首里手、泊手、那覇手で違いはあるでしょう。

これは一口に中国武術と言っても、長拳と太極拳と酔拳が全然違う・・・くらいに違う訳ですからね〜。
 だから、極真空手関係者が沖縄空手に注目して先祖帰りしていくのも悪いことだとは思いませんが、けれども、創始者である大山倍達先生がリアルファイトを通じて独自に作り上げていった極真のスタイルを捨てる必要があるのか?と思うと、私は個人的に釈然としないんですね。

だって、大山倍達先生は極真空手というスタイルで、例えば、澤井健一先生の太気拳から立禅・這い・練り・払い手・迎え手といった技術を採り入れていったり、カポエィラやムエンタイの蹴り技、ボクシングのパンチ、柔道の崩しや投げ、固め、受け身、大東流の体捌きや逆手技・・・等々を貪欲に吸収して発展させてきている訳で、その、他流にも学んで自己の成長を図るという精神は、非常に素晴らしい姿勢だと思うんですよ。

同様に考えたのがブルース・リーで、先日、アクション・イベントで拝見したJKDの演武は中村頼永先生のお弟子さん方だったそうですが、中村先生はシューティングの出身で、昔、F堂で『バート・リチャードソンのジークンドー』というビデオが出た時に編集長におねだりして見せてもらったんですが、その時に相手役を務められていた中村先生の方が私的にはスゴイな〜と思ったんですよね。

何でか?というと、中村先生は物凄い高速で打ちかかられるフィリピノ・カリのスティックの攻撃を平然と目を開いたまま観察されていたからです。物凄いハートの強い人だな〜って戦慄を覚えましたよね。だから、日本でJKDを教えている方は数名おられるようですが、恐らく、中村先生が実力は飛び抜けてらっしゃるんじゃないでしょうか?

だからこそ、イベントで拝見したお弟子さん方の演武も非常に迫力がありましたし、投げから固め技に展開していくところはシューティングの技術でもあったそうですね。これはダン・イノサント師父が中村先生のテクニックを見て逆に採り入れられたと雑誌で読んだ記憶があります。これまたブルース・リーの精神をイノサント師父が大切に継承されている証明として得心がいきます。

おっとっと・・・話があさっての方向へ脱線しまくっちゃったので、「からだであそぼ」は要チェックってことで、宜しくっ!

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2007/10/03 長野峻也作品 CM

『あなたの知らない武術のヒミツ』(アスペクト)

ナンバ、気、発勁、合気、縮地法といった武術に関係すると言われていながら、誤解と迷妄を広めている用語の真相を解説した初めての武術の裏側を暴露した本。

「達人しかできない」と従来、言われてきていた技が、実は素人にもコツを教えれば簡単にできるものだった・・・といった専門家でも勘違いしている真相について実証的に解説している。

突然、最後の章で武術映画バカっぷりを披露して暴走する筆者の芸風も読みごたえがあり、密かに人気があったりする・・・らしい?

 

『誰も知らない武術のヒケツ』(アスペクト)

出版元もまさか売れると思わなかった前作が健闘したので急遽決まった長野峻也の武術シリーズ第二弾。前作で解説だけに留めていた筆者が初めて実演解説して知られざる武術の戦闘理論<交叉法>を初公開。

コンセプトは真面目だけれども、相変わらず芸風は暴走超特急?な筆者のアンビバレントなバランス感覚に酔いしれたい方、必読!(意外に極真系空手修行者の間で評判になってるみたい・・・)

 

『長野峻也 游心流武術秘伝の原理』(クエスト)

武道・格闘技・ART系のビデオDVDの老舗であるクエストから出ている武術研究家、長野峻也の研究してきた技と理論を一通り紹介している映像作品。

発勁・合気・脱力技法・縮地法・体軸・重心移動・活法・太極拳等々について実演解説しており、後半は、体術・剣術・二刀剣術・小太刀術・棒術・居合術等をアドリブで見せている。

余談ながら、DVD撮影中、事前の打ち合わせ無しで全てアドリブで一発撮りした為に、記録的に短時間で撮影終了したという・・・。

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2007/10/03 游心流ストア商品CM

『丹田開発トレーニング』

このDVDシリーズのコンセプトは、「一人で日常的に練習できて効果が上がる」ということを目的にしています。

ですから、無駄なことは収録しておらず、必要なものに限定して収録しています。

第一弾は<丹田>を短期間で開発できるトレーニング法を紹介しています。第一弾製作のため、試行錯誤して作ったアラ(音声が不明瞭だとか・・・etc)はありますが、映像をよく見ながら真似してやってもらえば、早い人ならその場で丹田感覚が得られ、遅くとも毎日続けて一週間もすれば下腹に充実感を感じてくる筈です。

普通、毎日やっても何年もかかると言われる丹田養成が、これほどまでに短時間でできる錬功法は、私の知る限りは他に類を見ないと自負しています。

ただし、あまりに効果が出過ぎるので、収功をきちんとやらないと正直、危険性も否定できません。くれぐれもやり過ぎないように御注意くださると共に、心配な方は問い合わせくださいませ。

 

『発勁開発トレーニング』

中国武術の極意と言われて武術業界で長く神秘的な秘技扱いされ、多くの純真な人達を冥府魔道に迷わせてきた<発勁>を、誰もが簡単に習得できるようにシステム化して解説しているDVDシリーズ第二弾です。

とにかく、業界的に、これまで「これぞ発勁だ!」と実演し説明されている内容の発狂っぷりはまともに武道を修行している人達の眉間に天知茂ばりの縦皺を刻ませるばかり。
 とても、武道の技とは思えないヤラセ臭さ満点のものばかり。

でも、心配御無用です。発勁は重心移動によって生じるエネルギーを身体の当たる部位に集中するだけで、ほぼ誰にでもできるのです。しかも、拳だけでなく、掌・肘・肩・背中・腹・・・と、感覚が掴めれば身体中のどこでも打てるようになっていきます。

これに丹田開発で練った爆発呼吸を加えれば、武術の極意も難無く体得(でも、独修でここまでやって大丈夫なのか?)。

見た人達からは「蹴りの発勁に驚いた」という声が多かったです・・・。

 

『合気開発トレーニング』

DVDシリーズ第三弾は、これまた日本武道の最終奥義と喧伝かまびすしい合気です。

しかし、私、合気武芸はほぼ修行0に近いものですから、どちらかと言うと太極拳や八卦掌の動きを応用して合気の技術そのものを解析して考案してきました。

ですから、「あんなのインチキだ!」と言いたい人は御自由にどうぞ! 武術なんだから実用の役に立つのが真贋の評価基準じゃないかしら〜ん?と乙女チックに挑発してみたくなる今日この頃です・・・。

これぞ伝説の秘技!みたいな頭の悪いプロモーションは、もういい加減に止めましょうよ〜。伝説にしがみつくのは後ろ向きな証拠。武術やるなら前向きにねっ?

っちゅう訳で・・・業界の権威を破壊する疫病神と呼ばれても、あたしゃ〜武術の真実を明かしていきたいのさぁ〜。それが男の生きる道だよぉ〜んっ・・・。

(何か、最近、ストレスたまってんな〜、オレ)

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2007/10/01 江古田稽古会ファイナル

江古田のストアハウスを借りての土曜日の定期稽古会で私が指導する最後のクラスも終了しました(以後、私は土曜昼3:30〜5:00にJR・京王線の橋本駅前シダックスのカルチャークラブでの指導に専念し、日曜日はJR渕野辺駅近くの公園で月二回ほどの会員有志向けの指導をすることにしています)。

参加人数が少なかったのですが、最後ということで、これまで一度も指導したことの無かった這いの歩法訓練の意味と使い方、それから“探手”(太気拳で行われる一種のシャドウトレーニング法)のやり方について指導し、更に会員に見せたことはあっても練習法を説明したことは一度も無い“游心流舞の手”(舞踊の動きに武術的攻防動作や戦闘理論を織り込んだもの)を、初めて解説示範しました。

正直、これは教えようが無いかな〜?と思って一度も教えたことはありませんでしたし、武術の型とは違って“舞踊”になるので、恐らく普通に武術・武道を修練してきた人には教えてもできるようにはならないだろうと思っていた訳です。

昨年、クエストさんのDVD撮影の時にやってみたものの、武道とは無関係と思った監督さんから粗編集の段階で省かれてしまっていて、「これは一番大事な形なので残しておいてください」と頼んで入れてもらった(でも、エフェクトかけられて前衛舞踏っぽくなってた?)ものです。

この舞の手は、以前、うちの研究会に通っていた舞踊家の会員さんが原型を考案して基本パターンを作ってくれて、私がそれをヒントにアレンジして独りで練り上げてきたものです。だから、基本的に他人の前でやることは滅多にありません。

昨年、撮影中にアドリブでやった時は、八卦掌に太極拳、形意拳、八極拳の動きを織り交ぜて即興で演じました。それ以来、人前ではずっとやったことがなく、実に一年七ケ月ぶりにやったのですが、自分で言うのもなんですが、勝手に身体が動き出す感覚が比較にならないくらい上がっているように感じられて自分でも驚いてしまいました。

多分、これは田中泯さんや石原志保さんの舞踊を定期的に観てきて脳に焼き付けられた身体イメージのお陰なのではなかろうか?と、実はちょっと嬉しかったりしました。

でも、指導中ですから自分の動きにどっぷり浸って演じている訳にもいかず、無理やり意識を戻してしまったので、その特殊な身体深奥からわき出てくるような感覚は、わずかにのぞいた程度ですぐに消滅してしまいましたが・・・。

ふと、中国拳法の師匠の姿が脳裏に浮かびました。44歳の時の師匠と比べて、今の私の何と貧弱であることか? 比較するも愚かな、遠く遠く遥かに及ばない師匠の幻影を追いながら、この十年、懸命に頑張ったつもりでしたが、ただ、圧倒的に歴然たる差を知ったのみでした。“凄い”と言われる人の動きは数多く見てきましたが、師匠の動きはあまりにも隔絶していました。「あれは人間のできる技ではない。できないのは当然なのだ」と思って諦めようと思いましたが、それでも諦め切れないのです。

“アレ”を見てしまった以上、止める訳にはいきません。師匠が見せてくれた技をものにし、それを誰かに伝えるまでは、弱音を吐いて諦める訳にはいきません。あれほどまでの超絶の技を師匠一代限りの幻に終わらせるのはあまりに惜しいと思うからです。

かつて、失われていった武術の技はどれほどあったのでしょうか? 多くの修行者が私と同じように思って修行を続けてきたから、数多くの流派が続いてきている筈です。

しかし、武術は普通の芸能とは違う生命のやり取りを前提にしたものです。生死を賭して体得した絶技は、覚悟無き者には伝承される筈もありません。

絵に描いたような死んだ技を百覚えるよりも、たった一つの絶技をこそ私は求めていきたいのです。ただ、楽しいだけの稽古でそれは得られないと思います。私はやはり師匠の歩いた道を歩きたいと思うのです・・・。

かくて、最後の指導も終了しました。もう、二度と教えることもない人もいるでしょうが、一期一会の縁のあった人達の今後の人生になにがしかの益するものがあったなら、嬉しく思います。

今後、私は改めて自分の理想とする武術探究を自己のレーゾンゲートルと心得て、わき目もふらず邁進していこうと思っております。

この世に生を受けたからには、たった一つでいい。自分の生きた証しが遺せれば、他に何も望むものはありません。田中光四郎先生から頂戴した言葉、「思無邪(おもいよこしまなし)」、邪念の無い純粋な思いをこそ優先して生きていければ、それが最高の人生と言えると思っています。

人間だから邪念は湧くでしょう。でも、それに屈服するかどうかが問題なのです。

私が望む絶対のものは“自由”。金や名誉、評判に縛られて奴隷根性で生きる哀れな連中が勝ち組ならば、私はこれ以上、負けようのない絶対不敗のアンチェインでいたいのです。だから、私は游心流と名付けたのです。

ありがとうございました・・・。

PS;今日のオレって、何か、ポエマー?

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2007/10/01 ジャンゴは必見ですぞ!

『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』をレイトショーで観てきました。

いや〜、メッチャクチャ面白かった! これは三池監督の作品中でもトップレベルに面白いですよ。

ストーリー的には『荒野の用心棒』みたいなんだけど、源氏と平氏の末裔の戦いを描くというパラレルワールドな展開で、主人公のガンマンもいいけど、出てくるキャラクターが有名無名を問わず個性的で、良い意味での自主映画的なエンターティンメントをしているところが最高です。

木村佳乃も汚れ役に挑戦していて頑張っているけれど、伝説のガンマンを演じた桃井かおりが目立ってます。タランティーノもいい味出てます。

佐藤浩市も久々にキレた演技を見せるし、伊勢谷友介の抜刀術は予想もしていなかったけれど、非常にサマになっていてビックリしました。石橋貴明のオカマ演技は、かつてのホモオダホモオを思い出したし、本当に出ている俳優さん達が隅々まで個性を出していて見せ場が有るというのが驚きです。

先日、渋谷で見た“つばさ基地”主催のアクション・パーティーで、ジャンゴに参加しているということだったので、目を凝らして見ていたら、源氏の子分の中に関係者らしき人を発見! 「あっ、この人は見たことあるぞ」と、スクリーンを見ていてニンマリしてしまいました。

そういえば、ガン・アクションのコーディネーターのビル横山氏も出ていらっしゃいましたね。昔、TVで新体道の青木宏之先生と“対決”していらっしゃいましたね。

とにかく、ジャンゴは最高だから、見なさぁ〜いっ! 

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