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書き方には納得がいきません...
16日の日記(目からウロコ)について
いつも楽しく文章を読ませて頂いております。
私も未熟ながらも武術を学ぶ者なのですが、16日掲載の日記について思うところがあったのでメールを送らせていただきます。
伝統派空手のトップレベルの方の腕前を否定する気はありませんが、それ以外のものが稽古を含む方法論において劣っているかの如き書き方には納得がいきません。具体的には下記の部分についてなのですが、
>パンチの速さだけなら凄まじく速い門派は中国にいくつかありますが、大抵、パンチ
>を打っている最中に足が止まっているのです。
>それなら攻略法は至って単純。パンチが届く間合で立ち止まらなければ当たらない。
>本当に怖いのは、運足と共に打てる人です。ボクシングの強さの秘密はパンチだけ
>でなく同時にフットワークを使う点にある。長い長い歴史の中でパンチ技術に特化し
>て磨かれてきた結果、フットワークを併用するようになったのです。 そうでなくて
>は、マシンガンのようなパンチも無意味になってしまう。
待ちが基本戦略である事が劣っているという事ではないですし、方法論の違いに過ぎないわけですからこのような書き方は如何な物かと思います。勿論動きながら打てるに越した事は無いわけですが、動きつつ威力のある打撃が打てるか否かは個人の技量の問題だと思います。
>ですから、競技方式の上では剛柔流のように猫足立ちで待ちの組手スタイルをする
>のは困難であり、前屈立ちで前後>の重心移動を迅速に使って打って出るスタイル
>でないと適合しずらくなってしまうでしょう。
>極真空手の創始者である大山倍達先生は、剛柔流の組手スタイルの影響が強
>いので、どっしり構えた待ちの組手で突き蹴りを応酬するフルコンタクト式を創始した
>と思うのです。
>ですが、顔面突き無しをルールとしたので、どうも、間合の感覚が後々薄れてしまっ
>たようにも思えます。全空連の寸止めルールでは、間合の調節と読みの感覚が自然
>に養われるようですが、それは顔面突きがある点と無関係ではないでしょう。
>ボクシングやムエタイの選手は微妙な間合の感覚が発達しています。これは顔面を
>直接打ち合うからでしょう。顔は視覚・聴覚・嗅覚があるので距離感に敏感です。打
>たれれば避けようとします。だから自然に間合の感覚が高まる・・・。
> ところが、失礼ながら顔面に防具を装着している剣道では、顔の防御の意識が抜
>けている人が結構いるように見受けられるのです。防具無しの木刀での形稽古も、
>間合の感覚を養成するのに役立つのではないかと思いますし、探求心ある剣道修行
>者の方に僭越ながらアドバイスさせていただきます・・・。
> こうして考えていくと、競技の方式によって技能は限定的に発達するのかも知れませ
>んが、それを改善するには他流を馬鹿にしないで学ぶ精神で観ていった方が良いの
>ではないでしょうか?
フルコンタクト空手にはフルコンタクト空手の剣道には剣道の稽古における方法論があり、その方法論によって自らの理想を追求しているのです。稽古方法への問題意識の有無もまた個人の問題でしょう。
仰る事にはもっともな点もありますが、伝統派空手の稽古方法がフルコンタクト空手や剣道よりも優れているかの如き表現は、納得しがたいです。
以上の点について、御一考していただければ幸いです。
乱筆乱文失礼いたしました。
長野峻也の回答
御意見をありがとうございます。
確かに、読みようによっては、伝統派空手道を持ち上げるのに、フルコンタクト空手や剣道、中国武術を貶めているように受け止められるかも知れないな〜?とは思いますが、断言致しますが、私にそんな考えは一切ありません。
私の基本的な考えは、「流儀に優劣は無い。優劣は修行者のその時点での技量のみ」であり、今回の御指摘の御意見内容に関しましては、「受け取る側が誤解しかねないから表現を注意するべきではないか?」との御趣旨であると受け止めました。
けれども、表現を柔らかくしても内容が変わる訳ではありませんし、むしろ、今回の日記は“問題提起”を意識して書いたものですので、当たり障りの無い書き方では中途半端に受け止められかねないと思って、敢えて、あのような書き方をした次第なのです。
どんな流派団体にも独自の稽古法の方法論が有るのは当然だとしても、どんな流派団体も完璧な上達論・勝負論に到達したところはないでしょう。その上達論・勝負論に関しての技術的考察を提示して、真剣に技能向上を追究する意識の有る人達への考える切っ掛けにして戴きたいと思った訳なのです。貶すつもりだったら、私はもっとはっきりと理由を書いて貶しますよ。
例えば、私が今回、誉めて書いている伝統派空手道にしても、こと武術的な観点に立って検討すれば、「突き蹴りのみで投げ技や逆関節技、絞め技が無いのはおかしい。それに武器法もあってしかるべきではないか?」とか、ケチをつけようと思えばいくらでもつけられます。元々の空手の形の中には、そういう技法が沢山有るのですから・・・。
今回、最も評価している歩法に関しても、前後の進退のみで左右斜めに捌く運足はほとんど見られません。これも空手の形の中には横や斜めに動く運足が有る訳で、武術的観点に立てば競技スタイルに引きずられた技法構成として疑問が残る点ではあります。
しかし、それらは枝葉末節の技術論であって、競技の中で磨かれて発展している伝統派空手道の技術そのものを否定する要素とはならないのです。
同様に、フルコンタクト派空手、中国武術各門派、剣道、古流武術、沖縄空手もまた、貴方の御指摘の通り、それぞれの稽古法の方法論をもって理想を追求しているのですから、論難すべきこととはならないでしょうし、礼節の観点でも言うべきではないでしょう。
けれども、どうか誤解なさらないで戴きたいのは、私は研究家としての視点で、様々な流派団体の“(稽古法や戦闘理論等)技術上の優点や欠点”について比較論を提示することで問題提起をすることが、心有る人達への刺激となって、結果的に日本の武術・武道の世界へのトータルな貢献に繋がっていく筈だと思っているのであって、無論、どの流派が優れていてどの流派が劣っていると言いたい訳ではないのです。
そこは文章をよくよく読んでもらえば理解してもらえるものと思っています。
また、“稽古方法への問題意識の有無もまた個人の問題でしょう”と書かれている点に関しては、私はそこまで現状を肯定する気持ちにはなれません。そこまで達観して自己満足で取り組むには、私は年齢的に若過ぎるのです。どうも、30代はまだいいとしても、20代より若い人達と話していて、何かいい若いモンが爺臭いこと言って悟っちゃってる風潮を感じるのですが、何か無力感とか自信の無さから自得した自己憐憫の諦念のように聞こえて仕方がないんですよ。
ただ、何も、ハナっから問題意識の無い人達に「問題意識を持ていっ!」と熱く語りたい訳ではありません。恐らく、このホームページを読んで戴いている人達の数パーセントにも満たないでしょうが、現在の日本の武術・武道の業界の体質及び、技術的閉塞状況に憂いを持っている方も必ずいる筈だと思っていればこそ、敢えて過激なことも書いている訳なのです。
無論、私のようなやり方は敵を増やしますよ。でも、実際に賛同してくれる人もいるし、期待してくれている人達もいる。以前のホームページから移設した時、心配して私に直接電話してきてくれた方が随分いらっしゃいました。本を読んで激励の手紙をくれた方もいました。だから、可もなく不可もないミジンコを育てているようなやり方で自流を細々とやっていこうなんて思わないんですよ。私自身はタカが知れているけれども、私が教えている人達は本物の達人に育って欲しいと思ってます。無理強いはしませんが・・・。
過日、TVで某フルコンタクト派空手道の大会を放送しているのを観て、非常な危機感を感じました。それは、日本人選手が外国選手のフットワークについていけずにボディに一発食らっただけで敗れてしまったのを見た時でした。
率直に申します。
その試合を観る限り、日本人選手の戦い方は10年は遅れていると感じました。海外の選手は色々な戦い方を勉強してフットワークを駆使して間合を調節する戦術を習得しているのが自明でした。恐らく、テコンドーやボクシング、伝統派空手道等も学んで総合的な戦闘技能を体得しているのであろうと観て取れました。
日本人選手はこれまでの戦い方ではもう通用しなくなるだろうと思えたのです。その意味で運足(フットワーク)の重要性を強調した訳で、流派のスタイルを越えた研究を志す人の登場を期待して書いたのです。
それと、“待ち”の戦略が劣っているのでなく方法論の違いに過ぎないのは理屈では判りますが、試合競技のスタイルに適合するか否か?という点で私なりに過去に実験してみた結果、“待ち”のスタイルは向いていないと私は思っています。
私が競技の世界に入ろうとしないのも、逆説的にそれを裏付けている訳です。“待ち”のスタイルは護身術のシチュエイションに向いているものであって、能動的に攻防をおこなう試合には向かないでしょう。
足を止めてカウンターで相手選手の攻撃に合わせようと待っていても、そうそう相手も迂闊な攻撃をしてきません。
やはり、試合ではこちらから能動的に動くのが常套手段でしょう。
ただ、護身術に特化して“待ち”を駆使しようと思っていても、相手に心得があって能動的なシチュエイションで戦わざるを得ない場合も考え、私個人は游心流を立ちあげた当時からずっと一貫して歩法の研究には特に力を入れてきていますが、今回の伝統派空手道の取材を通じて、歩法の重要性をより強く感じた次第です。
無論、伝統派空手道がフルコンタクト派空手道や剣道、中国武術等に比べて全局面で優れていると言っているのではありませんが、「間合の読み合いの点では明らかに優れている部分が有る。それを改めて検討してみてはどうか?」という提案をしたいと思った訳なのです。流儀の垣根を越えて体験していけば、自身の欠点も分かってトータルな向上に役立つと私は思うのです(ついでに言えば、他流の悪口も減るでしょう。知らないから悪口になるケースが多いのです。私の場合は知り過ぎてるから悪口が出るんですけどね)。
何故なら、従来、伝統派空手道を「寸止め空手は駄目だ」と貶す不当なネガティブ・キャンペーンが20年以上も専門雑誌等を通じて無批判にたれ流されてきていると私自身が感じてきていたからですし(専門誌で仕事をしていて強く感じていました)、そのような偏見を知らず知らずに植え付けられていた我が身の不明を反省する気持ちもあったからなのです。
同様に、剣道では剣道形の稽古をほとんど省略する指導者が多く、日本刀に対する知識の全くない剣道家も少なくない現在、「韓国が剣道(コムド)の発祥地である」とする意図的な捏造説が出ていたり、安穏としていられない現状が有ると私見するのです。
勝敗に拘るのは良くないと説くのは容易ですが、その言葉は勝てる人が口にしなければ単なる負け惜しみに聞こえてしまいます。現状に甘んじていては剣道に明日の繁栄は無いのではないでしょうか?
中国武術に関しても、やれ「伝統派が凄い」のだとか「表演武術は駄目だ」とかゴタクを並べているばかりで、水準アップの具体的な試みがなされていないように思えてならないのです。ピュンピュン腕を振り回して悦に入るよりも、具体的に技をどのように使っていくのか?ということをもっと真剣に考えるべきではないか?と思えてならない。
中国武術の遣い手で私がいいな〜と思う老師は、全て歩法と共に打てる方です。具体的なお名前は割愛しますが、国内で数名はおられますし、中国にも少なからずおられるでしょう。が、それら老師方は中国武術業界で必ずしも正当な評価をされているとは言い難いのです。
それらの老師方は、実際に戦うのに打撃力や打拳の回転力だけでは勝てないことを知っていればこそ、歩法を磨いた筈です。そういう理に適った戦闘スタイルをできる人を見習わずに、目先の技の威力や激しさに憧れているような素人同然の人が多いのが我慢ならないのです。評価する眼の無い人達が多過ぎるのです。もう、「発勁で人がふっ飛ぶ」とかで喜んでいる時代じゃないでしょう。
私は、日本の武術・武道の現状には不備が多いと思っており、優れた部分を伸ばし、足りない部分を補い、より発展させていくべきだと考えています。
これは、欧米の武道の技術水準が予想を遥かに超えていると感じる、日本人としての焦りでもあります。
世の中には色んな素晴らしい先生がいて優れた技を伝えられています。が、人間がやる以上、完全なものはあり得ません。先生が優れていても弟子が育たないのでは論外だし、個人の問題意識と努力だけに任せていたら、失われてしまう技も少なくないでしょう。
どうにも、今の日本人は怠け者になってしまって、ガムシャラに物事を追究していこうというタイプの人が極端に少なくなってしまっているように思えてならないのです。
例えば、他流の欠点をあげつらって冷笑して済ましている人もいますが、自流の欠点を自覚して直していこうとする人は案外少ないようです。私には不思議でなりません。武術の修行というのは、自分に欠けているものを稽古して埋めていく作業がメインである筈だと思うからです。
私は、日本の武術・武道の世界が、技も修行者も稽古システムの水準も、何とか、現状より発展していって欲しいと思っており、そのためのお手伝いをするのが自分の生きている使命のように思っているのです。
現状を是としていれば、私は何も言わず研究家の看板も下ろします。
研究家の看板を掲げている以上、日本の武術・武道を学ぶ方々が向上していくのに有益な情報を提出していくのが自分の仕事だと考えています。
その意識から、今回の日記では、少し問題提起に踏み込んでみようと思った次第です。
御理解戴けたでしょうか。