セミナーに参加された皆様のご感想
練習は体を使うだけではないのだ...
いつもながら大変わかりやすい解説でした。(実行できるかどうかは、また別の話ですが。)
体で理解できるまでの時間を練習に費やす体力がなくなると、頭で理解できていない技術は、実行が非常に難しいのです。
それでも短時間のうちに、盛りだくさんの内容ですので、相変わらず、終了時刻間際には頭が飽和状態になります。
また、練習の途中、雑談の中で「ひとり稽古というのは難しいものでしょうか?」という受講生の質問に対しての、長野先生の回答は次のようなものでした。
いつでも練習はできると思います。例えば映像を見ながら、(自分方でなく)相手方の軸を追うことなども、練習になるのではないでしょうか。要は、工夫次第なのだと思います。」
なるほど、練習は体を使うだけではないのだ、と言われるまで気がつきませんでした。おたずねしたいこと
練習が更に進んだ場合、接触した相手の軸を感じることができるようになるためには、どのような練習が適当でしょうか。
長野峻也の回答
拝復、●●様。
御感想ありがとうございます。
甲野氏の登場以後、武術が身体操作法と結び付けて語られる風潮ができてしまったので、身体の動かし方にしか目を向けない人が増えていると思うのですが、それでは単なる体育やスポーツと変わらなくなってしまいますし、私は全く別の価値を見いだしています。
まず、一番目は「観察すること」。
そして、二番目は「洞察すること」。
それから、三番目は「対処法を考えること」。
更に、四番目は「それらを自分なりに理論化すること」です。
一番と二番は“読み”です。これは武術で最も大切な事柄で情報収集ですね。
三番目が厳密な意味で言うところの武術の戦術を練るということです。が、情報収集を怠れば適切な対処法は導くことができません。情報が間違っていれば、間違った対処法を選択してしまうでしょう。が、この点を考えている武術家は非常に稀です。
最後の四番目は、単純に戦って勝つためには特に必要ありません。しかし、個人芸として終わらずに他者に教えて自分と同等以上に育てるためには理論化できねばなりません。
これは個人の資質に負う点も少なくないので、優れた術者が必ずしも優れた明師になるとは限らないという事情を知る人は納得がいくでしょう。
私が、武術家と自負するに足る自信が全く持てないにも拘わらず、武術の研究指導を業務として選んでいるのも、この一〜四番までの武術の条件について多少なりとも自覚的に探究してきているという自負心は持っているからです。
現代で武術・武道・格闘技を学ぶ人達には、これらの条件が酷く欠けているように思えます。いない筈はありませんが、少なくともメディアに登場して名の有る人達の唱えている理論には致命的な事実誤認や錯覚、迷妄を感じる場合が少なくありません。
どうしてか?・・・と、随分、長い間、考えたのですが、結論として、「そういう能力が無いんだろうな」という点に落ち着かざるを得ませんでした。できない人に期待して要求しても無理なのです。
ならば、答えは一つです。「自分でやる」ということです。
自分で試行錯誤を繰り返して答えを導き出すしかない。それに二十年くらいは費やしました。甲野氏に学んだことは無駄でしたが、その後に学んだ観点から改良して無駄には終わらせませんでした。無駄な要素を削り落として、ちゃんと使える技に改良発展させています。
え〜、それから御質問の件ですが、一番目の他人を観察することを、自分に応用して考えます。日常生活の中で、自分の身体に軸を想定して動くことを心掛け、その軸がどう崩れればバランスが崩れて動きが滞るか? つまり“居着く”のか?ということを考えながら生活していれば、自然に軸の傾きに鋭敏になっていきます。
そうなったら、その感覚を他人と接触した時に相手の軸の傾きを探り出すように移し変えて考えるようにします。これは電車の中で触れ合っている人の体勢がこちらにもたれかかってきたり、離れたりする時には絶好の訓練になります。電車の中で座って居眠りすると、その人の軸の傾きやすい方に倒れかかってくるので解りやすいのです。
合気や化勁の訓練には混んだ電車の中は絶好の研究スペースです。吊り革に指先を引っかけて筋力トレーニングに費やす以外にも、訓練法は有るんです。
武術で最も重要なのは、感覚の養成なんです。まず、徹底して五感を鍛えることです。