中国問題−中国市場を考える−

人口問題
市場経済化
戸籍問題
軍民転換
中国のビジネスモデル

中国問題−中国市場を考える−

1.中国の概要
 中国の人口は12億7千万人、日本の約10倍、世界最大の人口を持つ大国である。国土面積は960万ku、日本の約25倍である。約4千年の歴史を持ち、1911年に封建時代の最後の王朝「清」が倒れた。その後、西洋の進出や日本の侵略に悩み、第二次世界大戦後には、国民党政府と中国共産党との内戦があり、1949年に毛沢東が率いる共産党により、中華人民共和国が成立した。共産党政権は、極端な共産化を推進し、文化大革命の混乱期を乗り越えた。現在、社会主義的な開放経済政策を推し進め、市場経済を取り入れた近代化を進めている。この結果、株式の上場など、資本主義的な側面が目立ってきたが、建前は社会主義国を堅持している。

 中国の人々はプライドが高く、自らの国を世界の中心たる国家と位置付け、中華と呼ぶ中華思想がある。その中心は漢民族であるが、56の民族から構成されている。歴史的には中国を中心に中華文明圏と呼ばれる近隣諸国と密接な関係が存在した。しかし、現在は中華王朝時代と異なり、多くの関係諸国が独立した国家主権を持ち、国土の大小や人口の多少にかかわらず政治的関係は対等を建前としている。思想文化的には、儒教、道教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教、仏教、ラマ教など、複雑に分布し、国境を越えた流動的な関係がある。経済的には、過去の封建的な中華中心の朝貢システムと異なり、複雑な関係を持つようになってきた。特に、中国の技術革新や工業化に多大な影響を与えた日本を雁行型経済発展の先進部分とする中華文明圏がある。それが今や中国大陸の内陸部を中心とする巨大なブラックホールに引き寄せられようとしている。つまり、中国は経済的に先進国であった台湾や韓国や日本の技術とマネジメントのノウハウを吸収し、広くアジア全域に手を広げ、米国や欧州にも積極的に新しい関係を構築しつつある。ここに中国問題の本質が含まれる。しかし、中国が脅威であるということではない。中国は排他的な国民国家でもなければ、国際秩序外の特殊国家でもない。問題は西洋中心的な歴史観に修正が必要ということであり、先進国と後進国という近代化過程の考え方を見直す必要があるということである。中国の近代化は17世紀頃から、地方分権化の動きが生まれ、中央集権的な王朝政府との軋轢が見られた。結果的に、1911年の辛亥革命により、中央集権的な王朝政府が崩壊し、地方の各省の独立運動となり、各省独立の地方分権体制の上に共和政府が樹立された。この点で日本は、徳川幕府が地方分権的な封建領主制であり、幕末までに商業の全国的な発展が見られ、中央集権体制を志向する勢力が明治維新に天皇制中央集権国家を樹立したといえる。中国の近代化は西欧の資本主義と帝国主義による中国への侵入が引き金になり、西欧文明の優位性が自己改革を余儀なくさせられたと捉えることができる。その背景には清朝の自壊が内在し、その歴史的・文明的な後進性があったと考えられる。例えば、16世紀以降、中国の自然科学が停滞した原因は、清朝の官僚制の硬直と腐敗にあったと指摘されている。

 中国での国家は朝廷や政府のこと、民は朝廷や政府すなわち国家の民でなく、天下の民であるという。つまり、王朝や政府がどう興亡しようが、天下の民は生存し続ける。例えば、海外に在住する中国人に華僑と華人がいる。華僑は中国に国籍を持つ人、華人は外国に帰化した人、その多くは海外で生活するために、社会の主流でなく、底辺を支えて生活していた。近年、それが大学で学び、成績優秀となると、大学教授等になり、社会の上層に入り込むようになった。昔、中国人はそれぞれの国の社会に入り難く、中華街のように中国人同士で生活し、その国の社会に溶け込めなかった。現在の中国人は、すぐにその国の社会で自分の存在価値を見出して、成功する人と成功しない人が生まれている。天下の民は、中国の国内だけでなく、世界の民として活動し始めた。国内においては、旧秩序の崩壊から新国家の建設へ、集権から分権へ、さらに反帝国主義や反植民地化し、日本や西欧の侵略に抵抗し、文化大革命を経て集権的な国家(中華人民共和国)を建設した。しかし、中国には「天下の民」天(相互扶助)の統治理念が残っており、その中国人民の相対的な生存と人民の力を無視することはできない。このことが「法治の国家」でなく、「人治の国家」と云われる所以と考えられる。

 一般に中国人は、短期的思考で目先のことに関心が強く、世界は自分を中心に回っているとする自己中心主義である。このため、その場しのぎのしたたかさがあり、周囲の迷惑を気にせずに公衆モラルが欠如し、自分の論理に基づき法やルールを守らないという。例えば、交通違反は日常茶飯事、道徳観念が希薄、矛盾する論理が表面化する。政府幹部や官僚は権力や出世を強く望み、私利私欲に走り、蔓延する幹部の職権濫用、制度の矛盾や許認可権を巧妙に利用した横領・贈収賄・公金流用・密輸とヤミ販売等、幹部や官僚の腐敗はその典型である。人治から法治へ、積極的な移行を進めているが、法の番人である司法と適正な法の運用は、裁判官や検察官の活動が賄賂や圧力によって妨げられることもあるという。

2.中国が抱えている課題(人口問題)
 現在、中国では「過剰人口」と「少子高齢化」が懸念されている。1953年に中国国内で本格的な人口調査を実施した時、4億人前後と予想された。結果は約6億人であり、一部の人口専門家から、経済規模に対して過剰と指摘された。しかし、毛沢東等の指導層は「社会主義社会には過剰人口は存在しない」というマルクス理論に基づき、人口増加は経済成長にプラスに働くとの立場をとった。当時の中国は、国土の建設のために、豊富な労働力を必要としたのである。その後、世界的な天候不順等により、農業生産が極度に低下し、餓死者が続出した。この事態を受け、1960年代に人口抑制政策がとられた。しかし、66年以降の文化大革命期には人口抑制が徹底されずに、持続的な人口増加が続いた。文革後の人口動態予測では、80年以降の平均出生率(出産適齢期女性の平均出産子女数)を3とすると、総人口が2000年で14億人、 2050年に29億人、2080年には43億人に達すると報告された。平均出生率を2にすれば、2000年には12億人強、2052年がピークで15億人強となり、2080年には15億人弱で安定する。1980年頃に予想された将来の中国農業の人口保持力は12億人程度とされ、中国政府は「計画生育」という理論を正当化し、いわゆる「一人っ子政策」を推進した。改革開放が推進された70年代の末から「一人っ子政策」は厳しく実行された。その後、若干の調整がなされ、少数民族は子供2人まで可能、農民は1人目が女の子なら2人目まで許可されるようになった。しかし、農民達は労働力としての男の子が欲しく、女の子が生まれると戸籍に入れずに隠すようになった。このため、内陸の農村では、戸籍がなく、義務教育を受けられずに、文字を知らない子供達が大量に発生し、社会問題になった。「一人っ子政策」は両親に加えて4人の祖父母がいると、1人の子供が6人の愛情を独り占めすることになる。過保護が懸念されるが、20〜30年後には、超高齢社会が到来し、中国の経済成長がある段階で急激に減速すると予想される。国内的には、沿海と内陸、都市と農村の格差が懸念される。短期間に経済を一定の水準に高め、格差を是正しつつ、ソフトランディングを図ることが求められる。経済力を飛躍的に高めると、世界の食糧やエネルギーを呑み込み、地球規模の問題になると考えられる。現在、中国の人口約13億人中、約9億人が農民、経済成長の踏み台にされ、その大半が貧困状態にある。年収8百元(約1万2千円)以下がおよそ9千万人とも言われている。

 中国は都市と農村の2つの世界を持ち、工業社会と同時に農業社会の2元構造国家である。しかし、農民所得が伸び悩み、都市住民との経済格差が拡大し、農村・農民・農業の三農問題が重要課題になっている。膨大な農業人口、狭隘な耕作地の存在、小農経済の限界、農民負担と余剰労働力の問題など、三農問題を解決できなければ、高度に発達した都市経済は砂漠のオアシスに過ぎない。農民は耕作で得た僅かな収入を重税によって搾り取られてきた。その多くは、行政経費や教育運営費等の名目による郷鎮政府幹部の扶養としての乱収費(無茶な徴収)とされている。農民の貧困の根本原因は、1人当りの産出高が低く、平均的な実質余剰が少なすぎる。約9億人の農民の多くは、僅かな耕地面積が与えられて生活し、農業の低い生産性が農村の貧困を加速化している。農村の余剰労働力の移転が問われ、それが中国社会の転換を成功させるキーポイントになる。重要なことは、人口の基盤があまりに膨大であり、その増加率が加速度的で、他の発展途上国と根本的に異なる点にある。また、中国の市場経済化は、資源が都市へ向かって傾斜し、農産物価格を抑え、都市住民の賃金を引き上げ、農村からの搾取によってなされた。農業の僅かな余剰収入は、栽培コストの上昇と都市の国有企業に奪われてきた。中国の抱えている膨大な農業人口、その人口と資源のアンバランスをいかにして解決するかが問われている。

3.中国の市場経済化と戸籍問題
中国は1978年末に「経済改革、対外開放」という歴史的転換を行った。政治重視の毛沢東型から経済重視のケ小平型になった。毛沢東は中国を独立させ米ソ両大国と対決し「独立自主」「自力更生」というスローガンの下で封鎖と孤立を招いた。その結果、産業と技術が遅れ、経済水準は著しく貧しいものとなった。ケ小平は「国を閉ざしていれば、世界の科学技術から遅れるばかりである」と述べ、「貧しい社会主義」から「豊かな社会主義」への転換を強調し、国民すべてに豊かになる権利とチャンスがあると宣言し、対外開放と市場経済化を大胆に進めた。その指導思想は「先富論」であり、すべての国民が手段を講じて富の追求を促進させ、条件のある人が先に豊になることを認め、国民の労働意欲を高め、パイを大きくして、後発地区がそれに続くように支援し、全体を豊かにするというものである。経済は甦ったが、経済に周期は付きものであり、市場経済型のサイクルを見せ始めた。中国の経済発展は、経済的に先進国であった日本や台湾や韓国等と異なる特徴がある。沿海と内陸および都市と農村の格差があり、「一人っ子政策」は労賃の上昇や著しい長寿社会の到来と福祉負担の巨大化が予想される。中国経済の課題は、格差の拡大、腐敗の蔓延、失業の増大と余剰労働力の存在、農業の停滞、社会保障制度の崩壊、財政赤字および不良債権の膨張、電力やエネルギーの不足、人材育成と技術開発の遅れ、モラルの喪失と犯罪の激増、環境破壊の進行等である。これらは中国政府が経済成長を重視した社会主義的な強制型成長の構造的欠陥ともいえる。しかし、共産党独裁が維持されつつ、市場活力を発揮できるならば、中国経済はやはり巨大になる。急成長する中国経済は「市場としての中国」「世界の工場」から「世界の企業」になる様相を示し始めた。日本が高度経済成長期の頃、東北等からの出稼ぎ労働者を含め、地方から都会への人口流入が約1億人、日本の総人口のおよそ1割が動いた。現在、中国では農村から都市へ「安くて豊富な労働力」約10億人が流入しているという。経済発展の規模は日本のほぼ10倍である。しかし、その内容に中国固有の事情が存在する。

 中国には農村戸籍と都市戸籍の制度がある。農村人と都市人の区別である。農村人は、全人口の約75%を占め、農村に住み、農作業で生活し、都市戸籍を持っていない。都市人は、都会の高層住宅に住み、給料で生活し、都市戸籍を持っている。中国では戸籍がすべての前提であり、基本的に移動の自由がなく、戸籍のある場所にしか住めない。この制度は食糧の自給を基本とする食糧管理のため1957年頃に完成した。農村戸籍と都市戸籍の人々の間には、住宅、医療、年金等に際立った格差がある。改善されつつあるが、農民には医療、年金等は提供されていない。近年、上海や北京などは際立った発展を示している。ところが、市内には途上国にありがちなスラム街がない。農村から人々は自由に大都市にやってくることができない。これは戸籍管理が徹底していることによる。戸籍は生まれた瞬間に決定する。両親が別々の戸籍の場合、一般には母親の戸籍を受け継ぐ。大都市の若者が農村の娘と結婚すると、子供は農民の戸籍となる。農村戸籍の人々が都市戸籍に変更するには幾つかの条件がある。大学に合格し、都市に移住する。大学は都市にしかなく、都市側が暫住(暫定)戸籍を発行する。無事に卒業すると、国有企業(単位)へ配分され、新たな都市戸籍が取得できる。また、文化大革命時代、都市の知識層は都市戸籍を剥奪され、農村で一生過ごすことを義務付けられた。改革開放後、都市戸籍を復活することができるようになった。しかし、都市側には受け入れる余力が小さく、独身を維持していた者が優先されている。中国の都市開発、高速道路の工事などは信じ難いほど速い。その背景に、この戸籍制度の問題がある。オリンピック村の建設や工業団地を形成するプロジェクトがあると、村の土地全体が収用され、農民達は若干の移転補償を貰って立ち退かされ、新たな住宅があてがわれ、新たに開発された場所で職業が補償される。この時、都市戸籍に変えられ、福利厚生の保証が付与され、子孫の代まで付いてくる。農村の都市化が都市の外側に向かって拡張され、農村人が少なくなり、次第に都市人が増えている。

4.中国型ビジネスモデル「広東型委託加工」
 近年、香港や台湾の企業が広東の珠江デルタに大量に進出した。土地、建物、労働者は受入側が持ち、進出側が設備を投入して工場の管理を行う。部材は保税され香港から投入され、加工、組立後に香港へ送り返す。進出側は現地で法人登記していないため、中国では法人税が発生しない。労働者は内陸からの出稼ぎの若い女性であり、進出側には雇用に伴う責任がない。戸籍を都市と農村居住者に分離し、農村居住者の都市への移住を事実上禁じた中央政府の政策が破られた。華南は発展しているが、中国沿海地域の中で最も賃金が低いという。そして、華南の珠江デルタ地域が世界最大のOA機器の産地になった。これは広東型委託加工(来料加工)と呼ばれる。さらに、上海から蘇州、無錫といった長江下流域が世界の半導体生産基地になりつつある。今後は中国のシリコンバレーがアメリカのシリコンバレーと一体化するとも伝えられている。本来、珠江デルタ地域は、中国では辺境の地、西側との軍事境界線でもあり、工業が不毛の地であった。それが約5万の工場が出現し、その大半は香港と台湾の企業、広東型委託加工が仕組みの主流になった。日本企業もリスクが少なくうまくいっているとのことで踏み込んだようだ。ここで中国側の事情を整理する必要がある。

1978年末の改革開放では、農業改革において、働いても働かなくても同じという仕組みが解体された。土地改革では使用権の占有や請負制の復活があり、自由作付けと自由販売が認められた。この結果、大都市に近い農民はホテルやレストラン向けに高級食材を生産し、大きな利益を手にしていった。しかし、大多数の地方の農民は貧困の中から抜け出せなかった。一方、大きな富を手にした農民は、タイル張りの3〜4階建に自宅を新築し、家電製品や高級家具を購入、自家用車を乗り回す農民も生まれた。ところが、多くの農民は、情報が閉ざされ、移動の自由もない。余剰資金の使い道がなく、運用の手だてもない。当時の中国では金利、利回りが年率30%であったが、農民にそれを得る手段がなかった。裕福になった農民は、地元政府を突き上げ、余剰資金の運用を要請した。地元政府は毎月定例日を決め、一定の資金を預かり、簡易な3〜4階建の工場を建設、人件費の高騰と人手不足に悩んでいた香港企業を呼び寄せた。香港の中国返還(1997年7月)前であり、香港側に中国情報は十分になく、地元政府の言い値が相当に安く感じられ、年率30%でも十分に対応できたようである。

 広東型委託加工のビジネスモデルは、リスク回避を考慮し、中国へ直接投資したくない香港企業との間で考案された。このビジネスモデルの基本形は、土地と建物を中国の地元政府が用意し、香港企業はそれを賃借する。そして、地元政府と香港企業が委託加工契約を交わし、香港企業は不要な設備を地元政府に無償供与し、工場長を派遣する。地元政府側にも工場長はいるが、地元対策及びやくざ対策等に従事し、経営にはタッチせずに、香港側の工場長が経営全体の指揮を執る。従業員は2千km先の内陸から出稼ぎ女性労働者を地元政府側が雇って工場へ派遣する。香港から保税された部材が工場に送り込まれ、加工・組立後に香港へ戻される。加工費は香港企業から地元政府の銀行口座に香港ドルで振り込まれる。地元政府はそこから25%程度の手数料を抜き、残りの75%程度で従業員に賃金等で支払う。このビジネスモデルは、香港側が事実上経営しながらも、雇用責任等が全くなく、中国での法人税が発生しない。リスクは工場長の身柄と部材のみということになる。最近では、保税された部材を投入して製品を香港に戻す委託加工ではなく、進出側が手数料だけを支払って、珠江デルタに集積している世界のメーカーへ加工品を直接持ち込むビジネスモデル(転廠制度:ドロップシップ)が運用可能になっている。このようなビジネスモデルのポイントは、内陸からの出稼ぎ女性労働者の存在であり、その地域住民の10倍以上の出稼ぎ女性が存在するという。しかも、賃金はこの10年ほとんど上昇せずに、生産性も品質も華南が世界一、次々に内陸から出稼ぎ女性労働者がやってきて、OA機器の世界最大の供給地を形成した。但し、広東型委託加工は法律的な根拠がなく、中央無視のビジネスモデルであり、中央の意向を聞かない広東省だけが行っている。本来ならば、農民は中国の厳しい戸籍管理のため、移動が自由でない。また、上海、天津、大連等、大都市では、国有企業が多く、そのリストラによる失業者に悩み、外資企業が内陸女性の雇用を望んでも、リストラ失業者を使えと言われ、地方政府から拒絶される。広東省は中国の辺境であり、歴史的に西側(香港)との軍事境界線があったので、国有企業がほとんど建設されずに、暫住戸籍を発行して、内陸の安くて豊富な労働力をかなり自由に受け入れてきた。内陸からの大量の出稼ぎ女性の調達は広東省以外では難しいのである。

 経済特区の広東省南部で誕生した広東型委託加工は、低賃金の労働力を必要としたことが背景にある。広東省の沿海地区や都市を中心に、農民の都市への出稼ぎ労働者が急増した。出稼ぎ労働者は農村よりも数倍の収入が得られ、働き盛りの労働力が農村から都市へ移っていった。この結果、農村の高齢化が進み、農村社会と農業生産を誰が担うのかという問題が発生した。中国の経済発展は、農村・農民・農業を犠牲にし、都市を優遇することで為し得たのである。最初は、農民を農村にくぎ付けにし、農産物を安く買い上げることで収奪した。改革開放後は、労働力を直接的に超低賃金で収奪することで、都市優遇の成長路線を進んできた。超低賃金の労働力の急増は、都市労働者の就業を脅かし、賃金上昇の抑止効果が働き、外国企業の進出を促進させた。中国経済を下支えしてきた農民の出稼ぎ労働者は「民工(農民工)」と呼ばれた。「民工」が都市へ大量に流入する現象は「民工潮」と呼ばれた。最近、南部沿海地区で急成長してきた加工貿易で民工不足が伝えられ始めた。その主因は過酷な労働条件にある。2百時間/月の超過勤務、月収6〜7百元(約9千円)の低賃金、重労働に加えて社会保障が無く、経営者から侮辱や暴行を受けることもあるという。民工の低賃金が続いた背景には、民工の増加に加え、新規雇用者を超低賃金の試用期間で雇って、試用期間満期前に解雇し、新規雇用を繰り返すという。この結果、民工はより条件の良い職場や他の地区へ移動し始めた。農民工工会(労働組合)が誕生し、未払い賃金の支払い、健康被害への保障、女子民工への不当な暴力行為への抗議など、民工の集団行動が頻繁に発生し始めた。民工に集団意識と権利意識が強まり、その組織化の動きが高まっている。民工の待遇改善が進むと、中国の労働力コストは次第に高まると予測される。

5.軍民転換の状況
 中国は沿海地域が豊かになり、内陸は依然として貧しく、格差が確実に拡大している。しかし、中国は軍事技術の多くを内陸に隠している。西安周辺では人工衛星を打ち上げる電子制御技術が研究開発されている。貴州省には戦闘機工場がある。長江上流の重慶には通常兵器、弾薬、潜水艦工場がある。四川省には重化学工業、ミサイル打ち上げ基地、核兵器研究所、核実験場もあるとされる。事実、四川省の桂林を観光した旅行者はその行動を厳しく監視され制限されたと聞いた。最近、中国の軍事系企業は、軍民転換の方向として、自動車関連産業を志向している。自動車は高い技術水準が必要であり、日本との差は大きい。中国は、部品加工技術の重要性に気付き、部品開発に力を入れて努力しており、生産のみでなく開発が可能になってきた。当初、トヨタとの合弁企業の話があつた時、トヨタは完成車を輸出した。そこで中国はドイツのワーゲン社と提携した。北京にワーゲン社の車が多いのはその結果であり、50%以上のシェアで利益は日本よりも多いという。日本のメーカーでは、スズキ(軽自動車)、いすゞ(軽トラック)、ホンダ(バイク)、ヤマハ(バイク)など、上海から 約2千kmも内陸の重慶に進出している。

 中国には全国に約1000の大学があるという。その内、首都北京に約70、上海に約50の大学がある。残りは地方の省都に設置され、それぞれの省が多様な産業を独立して展開でき、人材供給を省内で完結できる知的サポート体制が存在する。しかし、中国の内陸は広く、未だに電気が無く、交通の不便な農村が存在する。四川省を中心に、重慶、成都、徳陽、綿陽など、中国の内陸には多くの軍事系の工場や研究所がある。その理由は1937年の日中戦争に遡るという。当時、南京政府の国民党が内陸の重慶へ首都移転を計画していた。軍需工場は上海から南京や武漢周辺に存在していたが、それらをすべて一斉に重慶へ移転させた。この頃、日本軍の爆撃機の航続距離は、片道約千km弱とされていた。そこで上海から約2千kmにある山岳地帯の重慶が選ばれた。ホンダ、スズキ、ヤマハが合弁している企業は、この時代に移転してきた企業である。戦後、中華人民共和国が成立し、旧ソ連から社会主義の友邦として軍事面で支援を受けた。米ソ冷戦時には、核戦争の危機をはらみ、毛沢東の指導の下で、沿海地域にあった軍事系の工場や研究所を一斉に内陸に移動させた。特に、四川省成都から雲南省昆明まで、山岳地帯に鉄道を敷設させ、谷間に洞窟を掘り、機械設備を隠したとされている。

 冷戦が終わり、中国では軍事予算の配分が厳しくなり、自前で生活費と研究費を稼がねばならない時代になった。成都の軍事系の研究所には千人以上の学位取得者がいる。その電子制御系の技術力は高く、外資導入が意識され、米国企業との合弁を進めている。日本企業との合弁も打診しているとのことである。ここで重要な点は、軍事系の工場や研究所が民需へうまく転換できないとなると、再び軍事に戻り、武器輸出や有能な研究者や技術者が危険な国へ流れる可能性がある。中国の軍民転換には外国の協力が求められている。中国内陸に存在する軍事系の研究者やハイテク技術者を活用し、民生部門で独創的な事業展開や産業化が可能ともいえる。


6.中国企業の実力
中国の消費市場と中国企業の実力を甘く見てはならない。松下電器と東芝は広東省にあるTVメーカー・TCLと資本提携した。三洋電機は中国最大の家電メーカー・海爾(ハイアール)と包括的提携し、中小型の冷蔵庫を秋葉原で販売している。ホンダは中国海南島のローカル企業と合弁し、低価格のスクーターを日本市場に投入している。中国では、1978年末の経済改革・対外開放という歴史的転換があり、その後、三度の消費ブームを経験した。第一期は1980年代前半、ブームになった商品は「自転車、ラジオ、腕時計、ミシン」などであった。その直後に第二期が到来、三種の神器は「TV、冷蔵庫、洗濯機」であった。以前、中国は軍事部門に資源配分を傾斜させ、民生用の部門は手薄になっていた。中国では、民生用電子機器の遅れを取り戻す場合、製品を輸入するのではなく、外国からの技術導入を開始し、国産化を基本に考える。家電とバイクは日本企業からの技術導入になった。TVは松下電器、日立、日本ビクター(JVC)の3社が全面支援し、生産ラインと生産技術を提供した。当初は部品供給もしていたようだ。洗濯機は松下電器とシャープが協力した。バイクはホンダ、ヤマハ、スズキがそれを担った。最初はすべて技術提携であった。これらの生産が軌道に乗り始めたのは1980年代後半であった。この時期、天安門事件が起こり、景気が一気に冷え込み、生産と販売が停滞した。その後、ケ小平の南巡講話(1992年)から、社会主義体制を維持しつつ、資本主義の原理、手法、制度を導入し、中国経済は飛躍的に発展していった。日本企業は技術提携先との合弁事業を進め、日系合弁の家電、バイクが爆発的に売れた。しかし、1996年頃から、様相が一変、合弁製品がほとんど売れなくなった。中国のローカル企業が力を付けていたのである。日系の合弁製品の品質はやや良いが、合弁製品の価格が中国のローカル企業より三割以上も高かった。中国では、家電とバイクの市場が価格破壊に向かっていった。第三期の消費ブームが到来した。製品価格は劇的に下がり、日本製よりもローカル企業の製品がはるかに安く、苛烈な価格競争を演じた。その中から生き残れる企業が生まれ、ローカル企業がシェアを握るようになった。総合家電では海爾(ハイアール)、TVはTCLと康佳、エアコンは美的、電子レンジは格蘭仕などである。このような現象はパソコンにも波及し、一時期は外資系のコンパックなどが市場を占めていたが、ローカル企業の聯想や北大方正などがシェアを握るようになった。

大連は中国の東北地方開発の窓口になる。大連港は中国の東北地方を世界と結ぶ玄関であり、中国では最も重要な港の1つとされている。しかし、改革・開放政策の波に乗り遅れ、その存在感が徐々に低下し、2003年の貨物取扱量は1億2千万トン強、国内7位に落ち込んでいる。2002年の党大会で中国は東北地方を新たな重要戦略の工業基地とした。2004年3月の全国人民代表大会では国策となり、税制改革などの具体策が議論された。最近、大連の郊外に情報技術(IT)関連のハイテク企業が相次いで進出している。北方のシリコンバレーと呼ばれるような新しい産業の発展が期待されている。また、大連には民営の中小金属加工業があり、その加工技術が興味深い発展を見せ始めた。精密金属加工業は国の近代工業化の基礎を形成する。電子産業や自動車産業にとって精密金属加工技術が死活的な意味を持っている。半導体製造装置等の自動機、エレクトロニクス産業や自動車産業等を支える専用工作機械等は、精密金属加工技術がその底辺を支えて発展してきた。金型や鈑金などは機械技術の中軸を占める基盤技術であり、その国の技術レベル全体を左右する。日本には優れた工作機械や金属加工機械のメーカーが多く、日本企業は日本製の機械に執着する傾向がある。しかし、日本の技術力が次第に怪しくなり始めている。産学連携にも意欲的であり、従業員約百人規模の企業では博士が3人程度いるという。学位取得の機会も提供しており、科学研究センターや技術交易センターが設置され、学位取得研究をサポートし、実用化できるものは積極的に取り上げている。

日本企業が中国市場で生き残るには至難の苦労が必要である。日本企業の場合、製品開発において、開発技術者は製品構想の段階で必要な部品を調達する時に高レベルの品質を要求する。中国企業では、バラツキのある部品を使用して、いかにして性能を引き出すかに注目する。日本の開発技術者は、日本製の部品にこだわり、良い環境でないと製品開発ができない。このことが開発コストを引き上げ、価格競争やデリバリ競争に負ける要因になる。本来、使える部品ならば、国籍は問わないはずである。日本企業が中国へ進出する場合、日本人の駐在員が多すぎると指摘されている。日本人と中国人との賃金コストは十倍以上も異なる。日本人の管理者が数人減ると、中国人の直接作業者を百人以上も雇うことができるともいわれる。米国企業が中国に進出する場合、立上げ時の数ヶ月のみは駐在するが、その後はローカルスタッフに任せて一斉に引き上げるという。台湾企業の場合、駐在員は近くの農家へ下宿するという。日本人が駐在すると、高級ホテルで飽食待遇を求め、その経費はバカにならない。つまり、日系企業との合弁が最もコスト高になり、企業の現地化が遅れ、中国市場で生き残れないのではとされる。中国の消費市場は、百円ショップなどのような低価格の市場と超高価格のブランド品を楽しむという2極化が進み、その幅は日本市場よりも大きいとされる。今後、中国市場には、外国からの輸入品、ローカル企業の製品、日本企業との合弁製品が投入されると予想される。この場合、日本企業との合弁製品が生き残るために、低価格の市場で競争するのか、超高価格のブランド品で市場へ参入するのか問われることになる。中国のローカル企業との関係を再構築する必要がある。特に、中国市場は高度なハイテク製品を安価に生産して供給可能にする。外国から技術導入する場合、ローテク製品や中間的技術の製品を求めない。猛スピードで追いかけてくる中国は、一気に最先端の製品を生産しようとする。

7.中国人の企業家精神
最近、中国の上海や北京を訪ねると、若くてエネルギーに溢れた活気を強く感じる。中国の民営企業には、国有企業の民営化と郷鎮企業(集団所有制企業)や農民の個人企業の流れがある。郷鎮企業とは中国の郷(村)と鎮(町)における中小企業であり、人民公社時代には社隊企業と呼ばれた。公社解体後の1994年に現在の名称である郷鎮企業に改称された。農業・工業・商業・建設業・交通運輸・飲食業など多業種にわたっており、改革開放政策以降、市場経済化促進の中心として、急速な発展を遂げている。また、国営企業をリストラされた雇用を吸収するのに、大きな役割を担った。江蘇省南部に特徴的に成立した「蘇南モデル郷鎮企業」、浙江省温州市で大量発生した農民個人による「温州モデル郷鎮企業」が広く知られる。この他に珠河デルタ(深圳、東莞、広州)と長江デルタ(上海、蘇州、杭州)に外資系企業を中心とする外向型モデルが存在する。「蘇南モデル郷鎮企業」は、内版主体の労働集約型の中小企業であり、製造業を中心に、郷(村)・鎮(町)などの末端行政組織が企業を所有・経営している。「温州モデル郷鎮企業」は、地元農民や元国有企業技術者などが数人単位で資金を出し合って設立した民営企業である。従来、中国の民営企業は、貿易権や土地使用権、株式上場や銀行融資などの面で国有企業に比べて不利な立場に置かれていた。このため、必要な資金は家族や親戚や友人などが共同出資し、自己資金を蓄積して賄ってきた。

 1999年に憲法が改正され、国有企業が独占していた貿易権などが規制緩和され、民営企業の株式上場、赤字国営企業の合併や買収が認められた。この結果、中国の民営企業を取り巻く環境が劇的に変化し、国営商業銀行は業績が良好な民営企業へ積極的に融資するようになった。しかし、このような民営企業は、中小規模の企業が多く、企業規模が拡大すると、優秀な従業員がスピンアウトする傾向が見られる。この結果、細胞分裂のように企業が増加し、旺盛な企業家精神が民営企業成長の源泉になった。オーナー型企業が多く、迅速な意思決定を可能にする利点はあるが、家族的経営の色彩が強く、企業規模の拡大がネックになっている。また、人材育成や技術レベルの向上に難点があり、国有企業からの技術者の引き抜き、外国製設備の積極的な導入、海外視察や海外研修による海外からの技術吸収、海外技術者の招聘など、そのレベルアップを積極的に取り組んでいる。外向型モデルは、外資系企業の資金と技術力を原動力として、輸出を主体とした外向型の経済発展によって成長しており、比較的に大規模の資本集約型の企業である。さらに、外資系企業が香港の現地法人を通じて、中国の工場に機械設備や部材を持ち込み、安価な労働力を使用して加工した製品を引き取る広東型委託加工(来科加工)が普及している。これらの企業は労働集約型であり、中小規模の企業が主流である。

中国社会は独特のコネ社会があり、コネと人脈が絡み合うネットワーク社会である。それが中国人の処世術であり、多様な社会的資源を追求する基本になっている。特に、企業家達は党や政府官僚との太いパイプを広く利用してきた。同時に、それが幹部や官僚の汚職と腐敗を活性化させ、相互の秘密を分かち合ってきた。中国人企業家の行動様式は、経済的な実力を付け、合法的に自らの権益を保護してくれる幹部や官僚を積極的に求める。なお、人と人との結び付きの核になるのは、同姓同族の血縁、同一方言を持つ地縁、関連業種の業縁が代表的である。そして、市場に対し、自らの要望と要求を反映するコネと人脈を求め、自分自身の名声と地位を高める。そこに流れる人的ネットワークは典型的な自己中心主義が働いている。

1990年代に入ってから、中国は科学技術政策を積極的に推進した。そこで大学発ベンチャー企業も大量に登場し、民営企業に新たな要素が付け加えられた。従来、大学卒業生は自由に職業を選択することができずに、就職先は国有企業に配分された。中国の市場経済化に合わせ、国有企業に配分された技術者が短期間で退職し、一時的に資産家の出資で事業を開業し、次第に自らが事業を展開するようになった。中国内で市場経済が強まると、当初は「作れば売れる」時代が続いた。やがて、数十人の従業員を抱え、開発部門に博士や修士の人を雇って、営業・開発・設計・製造の部門を持つようになる。そして、中国の内陸市場を中心に原材料の調達と供給をするようになった。現在、中国では、華南の大都市広州の農村地帯などに建設された簡易な工業ビルを拠点にし、先進国並みのベンチャー企業の雰囲気を身に付けている。また、資産家が増え、知恵のある人に投資する個人資産家が生まれている。中国には、生きがよく、日本を超えるバイタリティーとダイナミズムを持つ、民営中小企業が大量に登場している。台湾から進出してくる企業も多く、蘇州近辺には、パソコンを受託生産し、携帯電話の生産に乗り出す企業が存在する。この背景には2000年に台湾政府がノート型パソコンの中国進出の解禁を決定ことによる。そして、上海から蘇州にかけて、台湾の半導体メーカーは、巨大な工場を建設し始めた。蘇州は観光都市でなく工業都市になりつつある。蘇州には大型の経済開発区があり、崑山経済技術開発区(77ku)、蘇州高新区(258ku)、蘇州シンガポール工業園区(260ku)、呉江経済開発区(80ku)がある。台湾系企業は、崑山と呉江の地価が安い場所に集中しているが、蘇州全域で約4千社あるといわれている。また、蘇州園区と蘇州新区には世界の有力企業および日本の有力企業がある。


8.中国の地域性について
 約13億人の人口と960万kuの広大な国土を持つ中国では、その地域性に違いがあり、言葉の違い、人の気質や習慣、ビジネスのスタイルも異なる。中国の代表的な方言には、北京語を中心とする北方方言、上海語を代表とする呉方言、広東語の粤方言、長沙語を代表とする湘方言、広東省の梅県語などの客家方言、主に福建省で使用される方言、河西語や南昌語を中心とする方言などがある。北京地域の人々は、プライドが高く、愛国心が旺盛、理想主義、義理人情に厚く、面子を重視する。一方、情に流され易く、人の好き嫌いも激しく、金銭感覚が大雑把であり、世間知らずの面がある。北京地域の経済拠点は北京と天津、しかしその経済交流は薄く、周辺に経済発展の都市が少ない。2008年の北京オリンピックとIT産業が経済成長の原動力、北京は中央政府や各省庁の所在地であり、国内外の優良企業が集積している。上海地域の人々は、国際的・都会的であり、合理主義で計画的、ルールとコストを重視する。しかし、小心者で繊細、見栄っ張り、政治よりも生活を大切にする。上海地域は中国最大の経済圏を持ち、上海人の年収は香港のある広東の経済特区を抜き、中国内でトップ、最近、バブル気味の不動産投資が懸念される。広東地域の人々は、独立心と冒険心が旺盛であり、即断即決主義、相手の利益をも考慮する。政治には無関心であり、享楽的で家族主義、ビジネスの話題を好み、食にこだわり、話し好きの人が多い。広東地域は香港からの工場移転と積極的な外資導入で経済発展してきた。台湾からの企業進出も多く、香港経済と広東経済の立場が逆転してきている。東北地域の人々は、大らかで豪快、表裏が無くストレート、気が強く爆発力はあるが、持続力や忍耐力に欠ける傾向がある。お酒に強く、相手が倒れるまで飲まされ、酒宴は交流と信用に不可欠である。東北地域は重工業の先進地域であったが、改革開放の波に乗り遅れ、豊富な資源を生かした新経済圏の再構築を模索している。山東省は春秋戦国時代の斉や魯の国、儒教の発祥地、泰山は道教の聖地である。孔子や孟子、晏子や孫子、管仲や諸葛孔明、書道家の王義之など、歴史的な思想家や兵法家など多くの聖人・英雄の出身地でもある。人々の気質は、正直で堅実、素朴で信義に厚く、豪快な面もあり、働き者で力持ち、誠実と信用を重視する。四川地方は三国志時代の蜀の国、人々は温和で保守的、農民気質がある。楊貴妃の出身地、気が強く感情的な面もあるが、しっかり者で良く働き、美人の郷でもある。西安は唐の都で長安のこと、秦の始皇帝陵や兵馬桶など名所旧跡の宝庫があり、現在は中国の最貧困地区の1つである。愛国主義教育で対日感情が悪化しているが、頑固で保守的、歴史的に優越感を持ち、内陸都市特有の開発の遅れがあり、閉鎖的な土地柄である。最近、若い世代にインターネットが普及し始めた。湖南省は中国最大の穀倉地帯、毛沢東などの多くの政治家や革命家を輩出しているが、改革開放で経済発展が遅れ、広東省などへ労働者の供給源になっている。反骨精神が旺盛で強固な意志を持ち、経済意識が薄く、地味で社交性はないが、政治への関心は高い。雲南省には25の少数民族が住み、過疎化が進む所と積極的な観光化によって民族意識を高揚させている所がある。

 中国経済を牽引してきたのは主に沿岸部に位置する6地域である。香港を持つ珠江デルタ地域、台湾の対岸にある福建省地域、上海を中心とする長江デルタ地域、青島のある山東半島地域、北京と天津の地域、遼東半島地域である。これらの地域はそれぞれ独自の動きをして経済を発展させてきた。特に、5つの経済特区と14の沿海開放都市を中心に、外資の誘致を積極的に進めた。珠江デルタ地域は、広東省にあり、広東型委託加工(来科加工)の発祥地である。世界の華僑の多くは広東省と福建省の出身である。福建省地域は山地が多く平地が少ない。農業に適さなかったので、漁業を中心に、東南アジアなど、海外との交流が多かった。鳥龍茶の産地で食品工業が盛んであった。台湾とは、小規模ながら、例外的に通商・通航・通信が開放されている。長江デルタ地域は、金融と商業の上海を中心とするハイテク工業地帯が存在する。特に、上海の浦東開発区には、金融貿易の企業が集まる陸家嘴金融貿易区、総合的な自由貿易地区の外高橋保税区、高付加価値品を生産する企業が集まる金橋輸出加工区、研究開発型企業が進出している張江高科技園区がある。山東半島地域は、日本向け加工食品や冷凍食品の生産拠点として成長してきた。北京と天津の地域には中国の競争社会を勝ちぬいてきたエリート集団が集まる。ハイテク技術者が豊富に存在し、ソフトウエアを中心としたIT分野の研究開発拠点になっている。天津は北京の外港であり、国際貿易港として繁栄してきた。大連のある遼東半島地域は、遼寧省、吉林省、黒竜江省につながり、日本や韓国と密接な関係がある。瀋陽はかって重工業が発達したが、大連にハイテクパークを設立し、海外のソフトウエア企業の誘致に成功した。最先端産業の間接業務機能を充実させつつある。中国へ進出する外資企業は、外資25%以上を出資する合弁企業、契約に基づく合作企業、全額出資して設立する独資企業がある。中国は、外資の優遇と誘致を積極的に進め、沿海地域は経済発展したが、その経済効果が内陸地域へ浸透せずに、地域間の経済格差が拡大している。


9.豊かな中国と貧しい中国
中国には、豊かな中国と貧しい中国「2つの顔」があるという。2008年に北京オリンピック、2010年には上海万博が開催される。果たして、宴の後に中国経済はどのようになるのか、現在をバブル経済と見る中国人も少なくない。北京も上海もこの数年で劇的に変化してきた。変化のスピードが異常に早く、想像をはるかに超えて、発展が早すぎる。株で儲けた人、不動産を転がして儲けた人、企業の経営者など、さまざまな金持ちが生まれた。一方、農村では赤ちゃんが売買されるという。少数の金持ちには金の使い道がなく、多数の貧乏人には使う金がないという。農家収入が減少し、その対応として、全国人民代表大会では7%の農民所得税を5年でゼロにする政策を決定した。貧富の差は、日本を遥かに凌ぎ、想像以上のものがある。中国の市場経済は、1980年に農村が解放され、多くの商品と資金が市場メカニズムを介して社会全体を潤した。1990年代は外資導入の時代であり、輸出企業を中心に外資が資本と技術を中国に持ち込み、農村部の大量の労働力が使われた。この労働力が国内での短期移民となり、経済特区で労働力を売り、国外から大量の富を流入可能にした。この間、中国政府は巨大な私権制限をし、都市化と工業化を推進した。この結果、都市部はインフラが整備され、国有企業の従業員を潤し、農村部から資源が都市部に投入された。その内容は一部が税金の形で徴収され、全国の銀行預金から都市部の国有企業へ貸付け、農村部から資金移転が行われた。中国の国有企業は赤字企業であり、本来ならば、不良債権となり、市場経済社会で許される行為ではない。中国では、都市部の国有企業で働く人が多く、都市部での社会不安を大きくしないために、国有企業の従業員の待遇改善が必要だったのである。つまり、外資系企業や独立系民営企業の高い賃金との差を少しでも解消する必要があった。

 中国経済は、このような背景の中で、社会への不満、供給過剰、資源制約など、さまざまな成長への制約が生まれつつある。豊かな中国と貧しい中国「2つの顔」が顕在化し、社会不安の源になっている。銀行が市場経済に即せずに、党・政府の指令や情実で融資して、国有商業銀行は過大な不良債権を抱えている。市場経済には流れがあり、マグマが動く如く、1ケ所に留まらずに常に変化し、政治的に管理が難しいという話もある。新しい需要の限界と供給過剰状態が起こりつつある。高度経済成長を持続しながら、物価が下がり続けるという奇妙な中国経済が存在する。同時に、中国経済の規模は、さらに大きくなり、世界の資源を中国が吸い込み、世界経済に与える影響は計り知れない。社会主義的な市場経済はさまざまな私権を制約して発展してきた。中国政府は、経済運営において、政府の機能を市場に干渉させ、政治権力と市場メカニズムを巧みな使い分け、社会主義市場経済を実行してきた。改革開放後の市場経済化は、多くの試行錯誤を積み重ねながら進めており、地方によって、その対応が異なる。1つの地域で成立したルールが他の地域で成立するとは限らない。中国の組織構造は、省、市、県、郷鎮、企業ごとに、それぞれが完結できる体制になっている。一方、各レベルでの組織間競争は激しい。中国は、新たな法律や制度を導入する場合、試験的な地域を設定して試行錯誤を重ねる。それに調整を加えながら、全国へ制度として展開する。突発的に法律や制度ができ、それが突然に引っ込められることもある。中央政府と地方政府の関係も微妙である。計画経済の時代は、中央が地方の人事権、行政指導権、投資や経済計画の決定権、財政管理権などを握っていた。改革開放により、財政請負制が導入され、地方の財政管理権が拡大した。企業管理権も地方に委譲され、人事権、投資や外資導入の認可権も地方に移った。この結果、中央の統率能力が低下し、中央の統制強化政策と市場経済化による地方の対応が衝突している。中国の最大の課題は貧しい内陸をどのように開発していくのかにある。

(参考資料)
1.溝口雄三著、中国の衝撃、東京大学出版会、2004.
2.関 満博著、「現場」学者 中国を行く、2003.
3.大前研一著、チャイナ・インパクト、講談社、2002.
4.程暁農編著(坂井臣之助、中川友訳)、中国経済・超えられない八つの難題、草思社、2003.
5.日中交流・中国地域性研究チーム編、中国の地域性がわかる本、産学社、2004.
6.http://www.president.co.jp/pre/、PRESIDENT Online(ビジネススクール流知的武装講座)、
  2002/6/3,2002/7/29,2002/9/30,2003/7/14,2003/9/29,2004/2/2, 2004/3/29,2004/5/3,2004/5/31,2004/10/4.。

(文責:yut)

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