江戸時代の経済思想

儒教的道徳思想
儒教的経済論
日本型重商主義思想

江戸時代の経済思想

 江戸時代の日本社会は、鎖国と身分制の社会であり、すべての人々がその職業によって士農工商という身分を定められていた。この頃の人々は、儒教的道徳思想に基づき、自然界のすべての現象が整然とした道徳的秩序の下にあり、身を修めて徳を積むことによって、人間としての存在価値が向上すると考えていた。この考え方は、当時の中国や朝鮮で最も権威があった朱子学によるものであり、政治や経済等の社会現象にも深く入り込んでいた。根本的な儒教思想は、人に上下の差別があることを認めていないが、社会の秩序を維持するため、すべての人々を指導する者が必要であり、君が臣の必要から生じ、君となる者は君たるべき資格の者でなければならないとしていた。

 熊沢蕃山(1619〜1691)は、代表的な儒教的経済論者であり、陽明学の祖としての中江藤樹(1608〜1682)に師事して儒教を学んだ。儒教的経済論は、武士の為政者としての自覚を説き、武士が道徳と政治と経済の主体となり、庶民(農工商)を指導するという統治方法として生まれた。そして、士が民を養う手段は、生産を増大させ、消費を節約することにあった。しかし、この頃の社会は、生産の増大より、生活向上による消費が急激に増加していた。同時に、世の道徳的な退廃が進み、身分の低い者が、富を蓄積して、華奢な生活をするようになった。このため、物価が上昇して、町人は次第に発展したが、土地から一定の収入を得る武士の生活が苦しくなった。蕃山考えでは、世の中の惣詰りという経済的な困窮の原因が、農民の商売への参入にあり、都市の武士や工商と共に商品経済を展開することにあるとした。すなわち、「人の始めは農なり」と論じ、衣食重視の農本主義と儒教における土地中心論を根源にした。蕃山の経世策は、農兵制の主張にあり、武士が城下町に居住せずに農村で暮らして、自ら生産に従事することにより、農民から年貢を取る必要が著しく小さくなり、武士の困窮の解消と幕府や諸藩の財政支出が大幅に削減できるとした。

 山鹿素行(1622〜1685)は、朱子学や兵学等を修めたが、朱子学に疑いを抱き、朱子学を捨て古学と呼ばれる学問を唱導した。兵学は、武士のための学問であり、戦争に関する理論のみでなく、平和を維持して戦争を防ぐことにあり、人々の生活を安定させて善良な社会秩序を保つための、武士の存在意義を探究する学問と考えた。素行の経済論は、君主の統治論であり、経済運営の責任が武士に帰せられ、道徳が政治となり武士が為政者として、政治と経済の主体と考えている。

 伊藤仁斎(1627〜1705)も朱子学を批判して、古義学と呼ばれる独創的な思想を構築した。仁斎の思想は、すべての人々を対象した道徳性を説き、武士や商人のみでなく、三民の経済行為を認めている。

 貝原益軒(1630〜1714)は、「国土に四民あり、士農工商あり、四民皆義理を行ふ事は一にして、利養を求むことわざ各かはれり」として、道徳的平等性の原理に立った職分論を展開した。つまり、罪悪視されていた利を肯定し、利を求める商人を抑圧の対象とせずに、民衆(三民)の職業実践における経済と道徳の調和を説いた。

 商人の職分論は、禅僧の鈴木正三(1579〜1655)が「世法、仏法二ならず、職業生活即信仰生活である。商人はその職分即ち社会的責任を自覚し、身を捨てて、業務に邁進し、利潤の獲得に努めよ。しかし、得た利潤を自己のために消費せずに、業務の達成に使用せよ。」として、時代を先行するプロテスタンティズムの考えに近い思想が存在していた。

 また、益軒と密接に交渉していた宮崎安貞(1623〜1697)によると、聖人の政は教(孝弟の道)と養(農業の術)にあり、経済を含む養の道が整えば、おのずと教の実現となり、致知と力行とを兼ねる修養(勤労態度や学習態度)が大切であるとした。特に、農業は、天地の生養を完結せしめる道徳的な営みであり、その職分が生産的(道徳的)であるとして、経験的で合理的な農事改良や技術改善をすることが人間的成長を実現させると説いた(農業全書)。

 社会階層の最下層の商人は、その活動が比較的自由であり、経済的に士農層を次第に支配するようになった。元禄時代になると、江戸町人文化が華を咲かせ、豪商が出現して経済のインフレがみられた。しかし、享保期に入ると、投機的な御用商人の行動が排除され、資本と経営努力に基づく本商人が商業界の主流を形成した。このような社会情勢において、井原西鶴(1642〜1693)は、職分の異なる士農工商の人間としての平等の思想を表明していた。

 石田梅巌(1685〜1744)は、商人の職分を「財貨を交易す」とし、当時の武士階級に対して「職分として社会的に不可欠、人として四民は平等、四民の道は一である」「商人の利潤は武士の俸禄と同じ、利潤を得るのが商人の道である」と主張した。

 近世商人の経営理念は、三井高房(1684〜1748)の町人考見録によれば、「道徳を無視してはならないが、少なくとも損はせぬように、時と処に応じて、適当に行動せよ」という内容の営利と道徳の考えが生まれている。

 荻生徂徠(1666〜1728)は、具体的な事物だけを問題にして、政治的手段としての道を追求した。そして、それぞれの時代にふさわしい政治的社会的な諸制度に基づき、「総じて国の治とは、たとえば碁盤の目を盛るが如し」として、碁盤の目に一人一人の人間及び経済や社会現象等を置き、それを制御しようと考えた。すなわち、政治至上主義的な原理により、道徳をも手段化して、制度という具体的な事物を用いて、独自の力で展開されている農工商の三民の経済行為や社会秩序を管理しようとしたといえる。また、武士は本来いるべき農村を離れ、城下町に居住し、生活に必要なすべての財やサービスを貨幣で購入する。これを徂徠は、「皆武家旅宿の境界」と表現して、武士には定まった居所が無く、いつも旅の宿にいるようなものと考えた。そして、幕府や諸藩は、「物を直に取用」という制度により、直接生産者から必要な物産を貢物として取り立て、実物収入を増加させ、貨幣支出を削減すべきとした。一般武士は、城下町の集住を止め、「知行所に居住」として、質素な農村生活に切り換えて消費支出の削減を提案した。

 太宰春台(1680〜1747)は、荻生徂徠に師事しており、徂徠学に基づく為政者的な経済論を展開した。しかし、徂徠が人間の本性を「相親しみ相愛し相生じ相成し相輔け相養ひ相匡し相救ふ」と捉えたのに対して、春台は「人も本は禽獣の如く信もなく、義もなく相争ひ、相奪ひ相殺し相害するのみなりし」として、人間が競争心に満たされた存在であるとしている。春台の経済論は、儒教的な欲望の制限に基く体制の再建を考えていたが、貨幣経済の発展に伴う時勢の変化に従って藩営商業論を主張した。

 田中丘隅(1662〜1729)は、晩年に徂徠の影響を受けているが、比較的富裕な農家出身であり、宿場の指導や治水事業に手腕を発揮した。丘隅は、貨幣経済の進展の意義を必然的に認め、商業的農業を否定できないと考えた。特に、幕府による田畑の永代売買禁止令に対し、「田地山林と言物、自由売買有、之を以こそ百姓の宝とは成事なり」と主張した。つまり、田畑の自由な売買があるから、農民に金策ができ、家を再興させる機会がつかめ、勤労目的が持てるとした。

 安藤昌益(1703〜1762)は、幕藩体制の矛盾に対して、勤労民衆の人間開放を宣言することにより、社会の根本的改革を主張した。昌益は、人間の本質を勤労にあると捉え、農民の生産活動が社会のすべてを支えており、勤労農民による万民平等の自由な社会があるべき理想社会であると説いた。そして、現実の社会は、支配者(聖人)が「自然真営道」を知らずに、「直耕を盗み衆人を迷わす私作」の階級社会であり、これが諸悪の根源であると批判した。つまり、昌益は、民衆の思想と行動を長期間抑圧している一切の権力や権威に対し、道徳も学問も芸術も、さらに貨幣も商業も、秩序のすべてが私作の所産であるとして否定した。この考えは、身分的階級別を否定しており、抑圧された農民の切実な願望、頻繁に起こった百姓一揆等、その体験と直感を思想化している。

 三浦梅園(1723〜1789)は、幕府の放漫政策が物価や賃金の高騰の原因として、貨幣経済の進展しつつあった流通社会を批判している。梅園の考え方は、穀を貴び倹約を尊重する点で一般の儒教家と変わりないが、一概に商業を排除せずに真の富が日用必需の財貨であり、金銀を富とする社会通念の誤りを正して、何故に誤った強固な社会通念が確立したのかを具体的に明らかにした。すなわち、金銀が貨幣として好適な性質を持つことを指摘し、それは「其用舟車に近きもの」として、流通の手段にすぎぬと結論付けている。そして、金銀が価値尺度として勝れており、金銀が財貨を集める力を持つため、商人の下に金銀(財貨)が集中して、経済の実権が完全に都市の商人に掌握され、生産者である農村から富が収奪されるという仕組みを解明した。

 山片蟠桃(1748〜1821)は、升屋小左衛門と呼ばれた大坂町人であり、両替商としての実際的経験から、経済問題に対しての合理主義的な観察力を持っていた。根本的な経済思想は、儒教的経済論に基づく農業尊重論者であるが、市場経済の法則性(合理性)を捉えようとしていることにある。例えば、米価等の物価が市場での需要と供給によって自然的に決定され、その方法が合理的で公正的であると考えている。

 その思想的な背景は、徂徠学の非合理主義を批判しつつ、人間の経験的思惟が事物のの法則性を捉えることができるとして、朱子学を発展させて経験的合理主義を広めた五井蘭洲(1697〜1762)の懐徳堂での学習の成果であるとされている。

 蟠桃と同じ懐徳堂で学んだ草間直方(1753〜1831)も、「元来相庭は商買の私より起り、公道の意によらず」として、商業自由論を唱えて流通合理主義を成立させた。

 日本型の重商主義思想は、海保青陵(1755〜1817)にみられるが、平準の法(物価調整策)や均輪の法(財政救治策)等、古代中国の「周礼」に学ぶものがある。青陵によれば、武士も商行為をしており、「物を売て物を買は世界の理なり」として、商行為は軽蔑すべきでなく、これに依存して一国を富ますべきとしている。つまり、天地間に存在するものは、すべてが「シロモノ(経済的財貨)」であり、領主は田畑というシロモノを領民に貸し与えて、その利息として年貢を徴収しており、利息はすべて「天地の理」にかなう正しいものであるとした。そして、君主が臣下に知行を与え使役し、臣下が君主に智力を売って米を得るのは、売り買いそのものであり、人夫が労働を売り生活することと本質的な差がないとした。また、富藩の秘策に「産物まわし(藩交易)」による「かせぎまし」があり、領主と領民が一体となって「他国の金を吸い取る」ことが肝要と述べて、商業藩営論を主張した。

 本田利明(1743〜1820)は、社会が平和になれば、人口が増加するので、それに応じて国内の生産物を増加させないと、日本の財政や食糧が不足すると考えた。しかし、天明飢饉の体験を契機に、本田利明は農業生産力の限界を察知して、日本の富と民の豊さを外国貿易に求めた。そして、国政の四大急務として、第一に焔硝、第二に諸金、第三に船舶、第四に属島を挙げた。焔硝とは火薬のことであり、地中の焔硝を採取して、河川の流れを妨げる岩石の破壊等、国家に有用な事業に使用する。諸金は金銀銅鉄及び岩石等であり、木造家屋から石造りの耐火建築の必要性を訴えた。船舶は日本中の産物を交易により、諸地方に運び万民の飢えを救う手段になる。特に、交易は、官の船舶で行って、利に走る商人の手に委ねてはならないとしている。また、西欧では万民養育の手段に国王自身が貿易を天職にしており、日本が海国であることから交易が重要な国家政策であるとした。属島は、幕府の鎖国政策に抵触するが、蝦夷地等の日本周辺の島々を開発して、国内生産力の不足を補うべきとした。

 佐藤信淵(1769〜1850)は、先人達の著作の焼直しが多く学問の範囲も広いが、日本を世界の中心に考え、中国を手始めに海外経略による世界支配論を展開している。このためには、江戸を王都、大坂を別都として、日本全国を手足のように自由にすべきとしている。そして、国内生産力の増強と軍事力の強化が重要であり、力の支配による万民救済を正当化している。信淵の経済観は、国土を経営し物産を開発し、領内を豊かにし万民を救済するため、財用の流通が富であるとして、生産力と結びつけている。

 大蔵永常(1768〜1860)は、農業技術の研究者であり、拡大する貨幣経済に積極的に対応して、徳用作物を工夫し生産販売することが、国と農民を豊かにする鍵があると考えた。

 長島尉信(1781〜1867)は、農民間の貢租負担の公平化と石高制の本質を明らかにして、村役人型の貢租論を展開した。幕末になると、商品経済の全国的な展開が進み、関東の一部では生産や流通が浸透しないまま農村の荒廃が起った。

 二宮尊徳(1787〜1856)の思想は、「我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす」として、農民としての実践的な経験に基づき形成された。天道を自然そのものとし、人道を人間の作為と捉え、積極的に自然に働きかけ、自然と一体となる労働を強調した。農村復興の仕法は、過去の実績に基づき分を守り、分度外の収入の収奪を押えれば、蓄積が可能になり富がもたらされるとした。つまり、「貧となり富となるは、偶然にあらず」として、計画的に分度を考え、欲望を押えて積極的に勤労に努めれば富の実現が可能とした。

 大原幽学(1797〜1858)は、性善説に基づき、私利私欲の人心を克服し、「身を慎み人を憐む」本心の正しき状態の道心を維持するため、同じ道を志す道友の協力が必要とした。そして、この道心の実践の場が労働であり、生産過程の農業経営にあるとし、経済と道徳の一致を求める農村復興の生産倫理を展開した。

 藤田幽谷(1774〜1826)と藤田東湖(1806〜1855)の親子は、農本主義を基本的な立場として、五弊の除去を提唱し、農政改革を主張した。五弊とは、農民の奢侈と怠惰、豪農の土地集積、田畑の石高を基準にした過重な夫役、正規の年貢以外の付加税、法令や行政の複雑さと煩雑さを意味している。この背景には、儒教による治者の民衆に対する責任意識と政治的効果を促す治術があり、道徳性と功利性を持つ主体形成がある。そして、幽谷は仁心に道徳性を求め、東湖は忠孝に求めた。その後、軍事的課題が導入され、幽谷の門人の会沢正志斎(1781〜1863)は、富国強兵の実践を国家統合の原理として提示した。このことは、日本の近代化と国体形成、重商主義の前提になった。

 横井小楠(1809〜1869)は、開港か鎖国かの議論に対し、開港と鎖国の弊害を明らかにして、産業と海軍の重要性を説き、具体的な富国強兵論を展開した。小楠によれば、日本の鎖国は、泰平の世で人々の生活が豊かになり、四民が身分を忘れ贅沢に走り、その結果、現在の窮乏状態があるとした。つまり、商品経済の社会が発達して、武士が農商民に過重な封建的収奪を加えれば、農商民は諸物価を引き上げるので再び武士の財政が苦しくなると指摘した。一方、国際社会は、日本が鎖国を続ければ、列強国の軍事的圧力が強くなり、このまま軍国化を進めて攘夷を果たすのは不可能との見解を示した。そして、産業と海軍を同時に重視した富国強兵策の必要性を説いた。



儒教的経済論
 経済論が統治論の一部である。本来の儒教は人に上下の差別がない。しかし、社会秩序を維持する上で人々を指導する者が必要となる。そこで、君が臣の必要から生じた。治者は知の優れた者であり、人間の欲望を制御して、人の道を行なう者であり、君子であり士であるとした。つまり、士は知であり賢である。また、民は無知であり愚である。したがって、民は私利を追及して、財貨を得ることのみ努める。財貨の不足は人間の道を失うので、国家治世の要諦は民の食を足らしめることである。民の指導には教化と養育があり、物質的な養をもって教により精神的に指導すべきとした。

 儒教は治者と被治者に区別したが、被治者のすべてが愚者と限らない。徳川幕府は、被治者から治者が生じて社会構成が危うくならないように、儒教の天命論を利用して宿命的な士農工商の身分的区別をした。士が支配層であり、農工商が被支配層の庶民である。士が民を養うには、財貨を十分にすることであり、生産の増大と消費の節約が原則になった。当時の武士は土地からの一定収入に基づく生活であり、生活が向上すると消費が増大して、物価が高くなり町人が発展した。このため、武士側は生産より消費が重視され、消費の倹約論が生まれた。儒教は、財貨の流通を否定せずに、粗衣粗食をよしとしていない。儒教的見地は、天がある個人を富ませるのは、その個人のみに幸福を与えるためでなく、富人を以って貧人を救うがためである。このことから、儒教では、蓄財が非難され、個人が財貨を退蔵すべきでない。しかし、町人は富を蓄積して華奢な生活を送っている。身分の高い者がよき品を使用すれば問題がないのに、身分の低い者が不相応の華奢な生活をすればよい品が不足する。そこで、百姓や町人の衣食住の分限を明確にして、分限相応の生活規定を法制化した。

農業論
 儒教では、「人の始めは農なり」として、農が衣食の本であり、人間が生養を遂げ得るものとして、重要な地位を占め尊重された。つまり、江戸時代は、重農主義に基づく自給自足の世界であり、鎖国制度に都合のよい土地生産力の無尽蔵の考えが受け入れられ、土地の生産力増大が収入増加の唯一の方法であった。そして、百姓は国の宝なり、農は田を作る民なり、これ人を養うものなれば四民の本なり、等の言葉が盛んに使用された。一方、現実には、農民の生活は最も悲惨なものであり、農民は憐れむべきであるという農民憐憫論が生まれたが、その根本において、農民は愚かな者であり、遠き思慮のない者であるという農民愚昧論が存在した。このため、農民は近き利に走り、困窮に陥る者も少なくなく、沢山の子供に分割相続して小百姓となって、貧乏するようなたわけ(田分け)者であり、無知なるがゆえに、農民を制御する制度が必要であるとした。さらに、農民は、愚昧なるがゆえに、少しでも余裕を与えると遊び堕落する生活でその日を暮らすようになるので、財の余らぬように、不足なきように治ること道なりという考えがあった。やがて、濡れ手拭や油粕に例え、百姓は絞れば絞るほど取れるという農民搾取論が生まれた。

財政論
 王道の理想は君侯の財政が貧しくとも民が富めばよい筈である。蕃山は、大富有と小富有を区別して、政は大富有になることにあり、国君が富有になれば国中が恨む如きは小富有であるとした。そして、米が評価の基準であり、大名や武士の取分も米、百姓の持分も米、貢租も米であった。このため、大富有になるためには、米の生産を妨げ米を喪失するような一切を排除すべきであると考えた。
 儒教の財政論の根拠は礼記に求められ、国9年の蓄なきを不足といひ、6年の蓄なきを急といひ、3年の蓄なきを国其の国に非ずといふなりとしている。この背景は、3年耕せば必ず1年の食あり、9年耕せば必ず3年の食ありの原則にある。つまり、農耕を正しく行なえば、3年にして1年の余裕が生ずる。しかし、現実は、財政難が甚だしく、大名がその格式を維持することが困難であった。

貨幣論
 江戸時代は、財政が窮迫して不足勝だったにも拘らずに、元禄の華美の風を受け、神社や仏閣の建設等、土木事業が盛んに行なわれ、加えて江戸市中に頻繁に火災が発生して、材木商等の請負業者に多大の利益を与えた。そして、一般社会に好景気の状況を生み、物価が高くなり、さらに幕府が悪質の金銀の貨幣を鋳造して、一層の物価の高騰を生んだ。そして、貨幣経済の発達は、人間生活に影響を与え、物持ちの時代から金持ちの時代へ変化して、人間万事が金の世の中となった。特に、貨幣の鋳造の改悪は、貨幣の品位の劣悪による物価上昇か、貨幣数量の増加による物価騰貴か、品位と数量の影響が物価高騰の原因になった。

 新井白石は、貨幣の品位尊重論者の立場であり、金銀が国家の骨のようなもので、一度喪失すると再び生ずることがないとして、金銀を海外に送出することは大害であるとして、長崎貿易に大制限を加えて改革を断行した。江戸時代は、金銀銭の3貨が通用しており、何れも無制限に一定の比率で通用することを定めたが、両替屋が大きな発展を遂げた。しかし、金銀銭に対する需要は、時と場所によって大きく異なり、自然に金銀銭の相場が生じた。つまり、両替屋が金銀銭の3貨の獲得交換を握っており、両替を天下の法で定めても十分に実行されることが困難であった。

 荻生徂徠は、金銀の品位等が両替屋の問題であるとして、金の銭に対する支配力が重要であるとした。すなわち、金と銭の交換比率が問題であり、銭の相場が金に対して有利になれば、銭の世の一般民衆の生活は困窮しないが、金の品位を良くしてその数量を減らすと、金と銭と関係に変化がなければ、金融が苦しくなるのだとした。したがって、銭を大量に鋳造すべきだとして、一般物価と最も密接な関係がある銭の相場を基準にして、最も安い物の価格が変わらないものとした立場から議論している。
 この考え方は、不況を救済するために銭を多くすれば確かな効果が期待できるが、銭を多く作れば、金の銭に対する支配力が増大するが、物価が上昇して実質的に何らの利益を生まないのである。つまり、貨幣経済が発展した江戸時代は、白石と徂徠の議論が代表的であり、貨幣の本質を科学的に検討して物価問題を論じていない。

復古的経済論
 復古的経済論は、遠く中国の尭舜の世の王道天下を理想とする経済を対象としているが、古代支那の理想社会に帰れというのでなく、理想的な封建社会を求めている。厳密には、王道と覇道の違いがあるが、両者を混同して論じており、兵農論を唱え、倹約を強制するとともに、庶民の生活にも制御を加える必要を説いた。

 熊澤蕃山や荻生徂徠が代表的論者であり、儒教の理想とする聖人の世を目標としている。しかし、奢侈を禁止して身分不相応の衣食住を厳禁にすることは、財用の権が商人の手にあり、商人が経済上優位にある限り、商人らに制されてしまって、現実には不可能である。徂徠は、財用の権を武士の手に収めるために、武士をその知行地に土著せしめよとして、武士土著論(復古的経済論)を展開した。つまり、元来一定の地にはその食料を供給し得る範囲内の人口を割り当てることを理想としており、江戸のような大都会は人口過剰であり、人返しによって各地方の者をその本籍地へ送還することによって、自給自足の生活が可能になり、財用の権が武士の手に帰すことができると考えた。

庶民学
 「庶民に遊芸は無用なり」としていた時代であったが、太平の代に富有の家に生まれた者に学問芸術に志す者が生まれた。中には家業を怠り家産を傾けた者もいたが、富家は家憲を作り、厳重に規定して、これらを警戒した。庶民層の日常生活の教訓や処世訓は、儒教的教義が盛り込まれ、中江藤樹の「翁問答」や貝原益軒の「家訓」や「養生訓」等の「益軒十訓」が使用された。
 当時、商人の利得は私欲であると考えられ、学説では私欲を禁じて人のため国のための公用が重視されていた。石田梅巌は、農家に生まれ、京都の商家に奉公し、学問を好み、自分の疑惑の解決に役立てば、神道や仏教や儒教等、あらゆるものを取り入れ、その悟るところを講席を設けて講釈を始めた。梅巌によれば、商人にも学問が必要であり、商人が売利を得るのは商人の道であり、商人の売利が武士の祿のようなものと考え、武士が君主に仕え、商人が世間万民に仕える者とした。問題は商人が不正をすることであり、その原因か商人自身に学問がないからとした。商品の善悪は明瞭なものであり、商人は正直に取引すればよいとして、商業道徳を確立した。

商業藩営論
 海保青陵は、「かせぎまし」「しろものむじん」「産物まわし」等、商業藩営論を主張した。「かせぎまし」は、1日の労働が終わった後、さらに余分に夜業仕事をさせ、生産物に1人幾らかの掛銀の講を作り、その一部を藩の収入にすることである。「しろものむじん」は、各地の産物そのものを掛けさせ、藩の手で販売して民へ利益を与える一種の藩営商業である。「産物まわし」は、単に自国の産物を販売するのでなく、他国の産物を他へ売ることをいう。そして、民の商品をまわして、その入用を納めさせ、藩の「まきあげ運上」を始めることは、上下ともに利益となる最上の手段であると主張した。つまり、藩の繁栄を期するためには、商業を保護発展させることが第一であると考えた。

貿易植民地論
 田沼時代は、積極的だが放漫な商業政策をとり、密貿易が盛んになった。この時、幕府自身も長崎貿易で海産物を輸出して銀を輸入した。本田利明は、当時の日本が生産力で行き詰まり、飢饉や間引きによる堕胎の悪習が生じていることを指摘した。つまり、土地の生産力が人口の増加に及ばないことを見抜いていたのである。そして、この状態を救済するために、国政の4大急務として、焔硝、諸金、船舶、属島を上げた。焔硝は火薬のことであり、焔硝を採取して、河川の流れを妨げる岩石の爆破等、国家に有用な事業に使用する。諸金は金銀銅鉄から石類を含み、火災の多い木造建築から耐火建築の不燃焼の家屋にすべきとしている。特に、船舶は、天下の産物を官が渡海運送交易して、万民の餓えや寒さを救うべきであるために、重要であるとした。すなわち、渡海運送が不便であるから、物価の上昇等が起こり、人々が苦しむのだと考えた。しかし、人口と土地の問題は、属島によって、多くの島々を開発して、植民地化しなければ解決できないとしたのである。この時、注目したのが蝦夷地であり、ロシアの南下を防ぎ、国防的見地から重要であるとした。

百姓一揆論
 江戸時代の経済変動と幕府の放漫政策は、農民を始め、貧富の差を拡大させ、各地で百姓一揆が頻発した。百姓一揆は、百姓の生活困窮に基づくが、百姓憐憫論と百姓愚昧論に関連する。つまり、貢租が重いことが百姓憐憫論となり、百姓の生活が贅沢になり、身分不相応の生活が将来を考えないとして、その結果、反抗することに多くの同情が得られずに百姓愚昧論となる。その背景には、生産力の行き詰まりが生産者の百姓に影響を与えたが、百姓一揆の原因を奢侈にあるとして、一般社会が奢侈になったこと、百姓の生活が向上して奢侈になったことを上げている。
 本居宣長によれば、百姓の奢侈は町人の奢りの影響による世間一般の奢りであり、貢租が重いので百姓の生活に余裕がなく、少しの奢りが生活に響くと考えた。百姓の年貢が重いのは、天下泰平の世で武士の数を減らすことができないためと考え、歴史的な背景を認め、これ以上に百姓の負担を増加すべきでないと主張した。しかし、百姓一揆を新しい社会改革の動因と認めたわけでなく、一揆が身分的秩序を乱すものであり、その真因を明らかにすべきで、張本人を厳重処罰すべきとし、その原因が貢租の重課にあれば役人の非であり、その除去をする必要を力説した。

農業改革論
 農村の荒廃は、武士階級の財政難と関係するので、その救済策が考えられた。しかし、その多くは、儒教の「農は国の本なり」とする農業尊重論であったが、農業と農民を切り離して、農民を道具とみなし絞れるだけ絞るという農業尊重と農民尊重を区別する必要がある。農民優遇の考えは、農民憐憫論からであり、農民が愚昧なるがゆえに憐憫を加えるものであった。
 藤田幽谷は、士農工商の区別を明確にして、百姓の地位を高めるため、商業を営む者は百姓にあらずと定めよと主張した。そして、農村には商人がいないのが望ましいが、どうしても必要ならば、商人が幾人と定めて、百姓の下座におくようにすべきであるとした。
 佐藤信淵は、「経済とは国土を経緯し、蒼生を済救するの義なり」として、開物の業(技術の改善)による農業の生産増強を主張した。技術の普及方法は、農業的知識を普及させる役所を設け、農業学を攻究して養成させ、百姓を教育する。しかし、この方法は、封建社会において、隷農を指揮する代官になりかねない。
 二宮尊徳は、倹約、勤勉、分度に基づき、何らの報酬を求めずに、人間の本分を守って働くことを実践して、農村の復興に多大の貢献をした。そして、その手段は、天地の恩に報いることと信じ、当時の政治機構に何らの批判を加えていないが、近世的で科学的であった。

経済統制論
 商業を町人に任せずに、支配者の武士が担当して、物価騰貴を抑制するため、消費統制、価格統制、生産統制等、封建社会の経済統制が強化されつつあった。しかし、経済統制は失敗を繰り返しており、山片蟠桃等の一部の人々に価格に干渉すべきでないという議論があった。当時は、私利的行為を悪と認めており、商人の私利追及を抑圧して、公利になるように経済界を指導する強力な支配力が求められたのである。
 佐藤信淵は、全体統治に神事、太政、教化の3つの役所を設け、その下に農事府、百工府、物産府、融通府、陸軍府、水軍府の6府を置き、民を産業別に8民に区別して、国家権力を官僚的組織ですべての経済統制を考えていた。

合理思想
 江戸時代後半、儒教的な合理思想と蘭学を通じた西洋思想の影響が見られた。本居宣長は、日本の神道が、儒教のように作為したものでなく、自然をあるがままに見ることにあり、真の道であるとして、客観を重視する近代的な合理思想を含めていた。山片蟠桃は、儒教を学び西洋思想の影響を受け、日本神国説を否定し、「夢の代」に儒教を基礎にした合理的思想を述べている。そして、海保青陵は、一切の不合理や非合理を排し、理によってすべてを解釈すべきであると表現した。青陵の思想は、儒教に基づくが、理は自然なりとしており、物の理を十分に知ることが大切で、自己の行為が天理に合致し、自己に利益あるものかどうかを冷静に判断すべきとしてる。

啓蒙的経済論
 幕末は、開国か鎖国かの議論や従来の商業論等から、貿易が有益か無用かの議論があった。つまり、合理的に事物を観察して貿易是認を可とする者、攘夷思想に強く影響されて貿易有害の考え方を固執する者があった。
 合理的な西洋経済書に接した西洋経済論者は、その合理性や交易が相互に利益がある等、欧米の経済学説の紹介をした。神田孝平は商工立国論を唱え、日本で最初に西洋経済書を翻訳した。その後、経済書の翻訳は、イギリスの自由主義経済学に関するものが多かった。特に、福澤諭吉は、慶応義塾にて、経済学のみならず社会人事全般についての啓蒙を進め、儒教の仁とか義とか心とかの無形の学を退け、西洋の有形の学を説いた。そして、「有形において数理学」「無形において独立心」が啓蒙運動の基礎となった。

自由貿易論
 開国の結果、自由貿易が現実の日本経済に及ぼす影響を問題にした。福澤諭吉は、経済学が自然科学と同様であるとして、経済学の法則が生理学の法則のように一定不変の法則があり、この法則を知って人間の経済生活を最も効果的に導くことが経済学者の任務であるとした。しかし、物理学の定則と経済学の定則が等しいものでなく、何らかの定則が人間の経済現象を規定付けているが、物理学のようにどこでも真理として適用できるわけでなく、経済学の法則が国によって異なると考えた。
 福澤諭吉は、当初、楽天的な自由貿易論者であったが、後進国の日本に予期したような好結果を生まない原因を日本の商人が貿易を熟知しないためと考えた。つまり、幕府時代の精神で商売しており、内外の人民の利を争う外国貿易に対して、その知識や見聞や経験に乏しいためと考え、その損乏に対してある程度の差を付けて補正すべきとした。しかし、保護貿易論に似ているが、根本的に自由貿易論を否定したわけでなく、人の問題が解決されれば、自由貿易への復帰を考えていたようである。

保護貿易論
 神田孝平は、金が外国に流出する原因として、貿易の輸入超過、海外への留学費、外国人雇入費、外国駐在費、国債の年賦返済と利子、銃器・鉄道・機械等の政府の購入費を上げ、国内に不換紙幣の流通がなければ、貿易の原則が作用して、国内物価が低落して、輸出が盛んになって、金が再び流入するとした。
 若山儀一は日本で最初に保護貿易を主張した。日本は、生産技術が拙劣であり、資本が乏しく、需給均衡を失って、国力が衰退している。したがって、この経済状態を救済するために、輸出入の制限を立て、進口の税則を定め、国内貢作を保護する必要があるして、保護関税の必要を力説した。

消費経済論
 佐田介石は、保守主義者であり、天道地静説を唱え、日本の富国強兵を主張した。社会組織の急激な変化、新しい経済機構に適応できない商家の没落等、日本経済の困窮と考えた。そして、その原因は、舶来品の使用によるものと観察して、西洋文明の採用が日本商品の消費を妨げているとして、消費を膨張させることが富国の法であると考え、消費中心の経済論を展開した。つまり、日本人の産物は国内市場にだけ役に立つものと断定して、日本人が西洋人の真似をして、外国の機械製品を作っても外国にかなわないと考えた。すなわち、日本が西洋の水準に達すると、西洋はより一層精巧なものに進み、結果的に輸入せざるを得なくなるとしたのである。


江戸時代の主な経済論者
 ・鈴木正三(1579〜1655):三河武士→禅僧
 ・中江藤樹(1608〜1682):陽明学系
 ・山崎闇斎(1618〜1682):朱子学系
 ・熊澤蕃山(1619〜1691):陽明学系、中江藤樹の弟子
 ・山鹿素行(1622〜1685):朱子学系→古学系
 ・宮崎安貞(1623〜1697):農業技術研究者
 ・伊藤仁斎(1627〜1705):古学系
 ・貝原益軒(1630〜1714):朱子学系

 ・西川如見      : 天文学者、長崎生れ
 ・新井白石(1657〜1725):朱子学系、木下順庵の弟子
 ・陶山鈍翁      :朱子学系、木下順庵の弟子
 ・室 鳩巣(1658〜1734):朱子学系、木下順庵の弟子
 ・田中丘隅(1662〜1729):徂徠学系
 ・荻生徂徠(1666〜1728):古学系→徂徠学系
 ・雨森芳洲(1668〜1755):朱子学系、木下順庵の弟子
 ・伊藤東涯(1670〜1736):古学系、伊藤仁斎の子
 ・太宰春台(1680〜1747):徂徠学系、荻生徂徠の弟子
 ・石田梅巌(1685〜1744):朱子学系→心学系(石門心学)
 ・青木昆陽(1698〜1769):儒学者、蘭学者、伊藤東涯に私淑

  五井蘭洲(1697〜1762):朱子学系
 ・安藤昌益(1703〜1762):ユートピア哲学を開拓
 ・富永仲基(1715〜1746):大坂の町人学者、合理主義・無鬼論の立場、儒教・仏教・神道を批判
 ・三浦梅園(1723〜1789):
 ・本居宣長(1730〜1801):国学系
 ・中井竹山(1730〜1804):朱子学系、五井蘭洲の弟子、懐徳堂中興の祖
 ・中井履軒(1732〜1817):朱子学系、五井蘭洲の弟子
 ・林 子平(1738〜1793):江戸後期の経世論家、仙台藩家臣
 ・本田利明(1744〜1820):
 ・山片蟠桃(1748〜1821):朱子学系、懐徳堂門下
 ・草間直方(1753〜1831):朱子学系、懐徳堂門下
 ・海保青陵(1755〜1817):徂徠学系、荻生徂徠の孫弟子

 ・大蔵永常(1768〜1860):農業技術研究者
 ・佐藤信淵(1769〜1850):
 ・武元君立(1770〜1820):保守的農本主義者
 ・平田篤胤(1776〜1843):国学系
 ・藤田幽谷(1774〜1826):後期水戸学系
 ・櫻田虎門(1774〜1839):仙台の人、服部栗齋に従学、闇斎学の道統
 ・馬場正通(1780〜1805):佐藤一斎の弟子、経世家
  長島尉信(1781〜1867):後期水戸学系
 ・新宮凉庭(1787〜1854):儒教的農本主義者
 ・二宮尊徳(1787〜1856):農政学者
 ・正司考祺(1793〜1857):有田の商人思想家、知識教育だけでなく倫理・道徳の教育を重視
  大原幽学(1797〜1858):農政学者
 ・藤田東湖(1806〜1855):後期水戸学系、藤田幽谷の子供

 ・横井小楠(1809〜1869):
 ・佐田介石(1818〜1882):僧侶、開国後の貿易開始に伴う経済の困難と西洋の学問の流入に関心を抱く
 ・神田孝平(1830〜1898):
 ・橋本左内(1834〜1859):緒方洪庵に師事
 ・福澤諭吉(1835〜1901):
 ・若山儀一      :
 ・大島貞益(1845〜1914):明治期の経済学者
 ・前田正名(1850〜1921):薩摩藩の出身、後に農商務省官僚、産業運動を展開
 ・田口卯吉(1855〜1905):

(参考資料)
(1) 杉原四郎、逆井孝仁、藤原昭夫、藤井隆至編著、「日本の経済思想史四百年」、日本経済評論社、1990.
(2) 山本七平著、「江戸時代の先覚者たち−近代への遺産・産業知識人の系譜−」、PHP研究所、1990.

(文責:yut)

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