朱子学と陽明学に学ぶ人生の知恵

朱子学
朱熹
陽明学
王陽明

朱子学と陽明学に学ぶ人生の知恵

 朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系である。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹が自らの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。当時は程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学と呼ばれていた。

 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)とも呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学とも呼ばれた。朱子学では理と気が結合することで万物が存在すると考える。理は宇宙全体を貫く原理、気は根本となるものである。人の心も理と気の結合、人の心の理は礼を守ること、気が持つ欲が礼を守ることを妨げる。そこで理を見つめ直し、礼を取り戻すべきと説いている。朱子学以前の儒教は孔子が整理した五経(易経、詩経、書経、礼記、春秋)が重視された。朱子学では五経よりも解釈が容易な四書(大学、中庸、論語、孟子)が重んじられた。

 陽明学(ようめいがく)とは、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降に広まったもの、それ以前は王学と呼ばれていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学とも呼ばれ、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学とも呼ばれる。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類されている。

 儒教の祖は孔子、論語や大学がその代表作、人の生きるべき道の教えとされる。乱世において、互いの思いやり「仁」と思いやりを形にした「礼」が人の心を救う。儒教は正しき人間関係を目指す教え、儒教の徳ある人とは人として正しき人間関係を守ることのできる人のこと、その基本には五倫の道「親、義、別、序、信」にあるとされる。「親」とは親子の親愛、「義」とは君臣の義、「別」とは男女の立場の区別、「序」とは長幼の序列、「信」とは朋友の信頼である。人は誰もが多くの人との関係を持って生きている。その関係は五倫の道のいずれか当てはまり、その道を守ることが人の道、人の道を知らずに守らぬものは人の皮を被った獣(ケダモノ)である。これは「孔孟の教え」とも呼ばれる。

 儒教の教えの根底には現実的な実践があり、生を知らずしてどうして死を知ることができようか、人間がどう生きるべきかを最優先する。そこには「怪・力・乱・神」を語らずとして、世にも奇怪な怪、力任せな力、世の乱れや人の道を乱す乱、神怪や怪異な世界など、現実的でなく、正しい道でないことは語るべきでないとする。つまり、聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず(北宋の謝良佐)とし、実生活に役立つ心身の修養にあるとされた。すべては一身の修養、修己治人、自分を修め、その徳性を養うことにある。修身・斉家・治国・平天下の学問が儒教である。我が身が修まれば、家族が和合し、家族が和合すれば、国が治まり、国が治まれば天下は安泰であるという。大学では修己治人、自己を修練してはじめてよく人を治め得るとする。

 孟子は孔子の後代に生き、人は誰もが四つの心を生まれつき備わっていると説いた。この四つの心、四端と呼ばれ、他人への思いやり「惻隠の心」、悪への憎しみ「羞悪の心」、他者への敬い「辞譲の心」、善悪を区別する力「是非の心」、これらは「仁、義、礼、智」の四つの徳に対応する。この四つの徳を心に芽生えさせることが大切と教えた。人間の本性は天が授けたもの、それは誠で表し「誠とは天の道なり、これを誠にするのは人の道なり」という。一方、荀子「仁」と「礼」を人の心に潜む欲望に対応付けた。欲望は法令と罰則によって押えることが「礼」、「仁」を身に付けるためには自らを厳しく律して学び続けなければならないと考えた。孟子は人の心はもともと善であるとする性善説、荀子は人の心はもともと悪であるとする性悪説と呼ばれる。

 朱子学では、人間の持って生まれた本性が「理」であるとする。天が理であり、仏教の論理や道教の考え方を取り込み、それを儒教独自の理論に基づき、壮大な学問体系に仕上げたのが朱子学である。その基本には、自己と社会、自己と宇宙、自己と自然が「理」という普遍的な原理を通して結ばれているとされ、自己の修養による「理」の把握から社会秩序の維持に到ることができるという個人と社会を統合する思想を提唱している。

 朱子学の「理」は形而上のもの、「気」は形而下のもの、この2つは全く別物とされるが、互いに単独では存在できずに、両者は不離不雑の関係にあるとされる。「気」は万物を構成する要素、変化や運動性を持つとされる。一方、「理」は根本的な実在として、「気」の運動や変化に対して秩序を与える。「理」を究明することを窮理と呼び、朱子学の主張する学説は性即理説、社会から個人を切り離して個人の自己修養のみを強調する心即理説(陸象山の学説)を批判する。また、個人の自己修養を無視して、社会関係のみを重視する功利学や事功学の学派(陳亮等の学説)を批判する。

 朱子学は明代に国家の教学となり、科挙合格の世俗的な利益や地方の共同体倫理を確立するために用いられ、道徳的な実践を重視した聖人の学としての本質を損なうようになった。つまり、理気や心性よりも社会的な秩序構築を重視する礼学が重視され、本来の朱子学である壮大な世界観を持つ学問体系から離れ、狭義の具体的・具象的な学問になり、君臣の倫理や国家体制の構築に利用されるようになった。このため、朱子学は官僚など指導者が秩序の担い手として民衆を治めることを主眼とする儒教的な道徳完成の学とされた。

 陽明学は中国の明代に王陽明が起こした儒教の一派、孟子の性善説を理論付けているが、荀子の性悪説も正しいとし、真理を明快に説明し得るのが陽明学である。陽明学の倫理学的側面は心即理、「性」と「情」を合わせた心そのものが「理」に他ならないという立場である。ここに朱子学との違いがある。つまり、物事の道理は物事に具わっているのではなく、判断主体である自分の心の中にあるとする。そして、心の中にある「性」(=「理」)を完成させるためには、外的な事物を参照する必要がないという考え方である。しかし、陽明学では、朱子学と同様に「天理を存し人欲を去る」という倫理的な実践原理を持っている。

 また、陽明学の方法論的側面は致良知、人の持つ「良知」を全面的に発揮し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。「良知」とは孟子の「良知良能」に由来し、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」は王陽明が独自に提唱した概念である。「良知」とは貴賎にかかわらずに万人が心の内に持つ先天的な道徳知であり、人間の生命力の根源とされる。また、「良知」とは人の心の霊そのもの、天地の根本精神、自己の道徳本性を日常生活の中で修練することを主張する儒教の民衆化を展開した。

 「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されずに「無善無悪」とされ、理そのものである心は善悪を超え、心が発動した意に善悪が生まれると考えられ、その善悪を知るものが「良知」に他ならない。この場合、「無」は存在としての有無ではなく、既成の善悪や価値から完全に自由であることを意味する。また、陽明学は良心の学問、行動の学問、実践の学問である。そして、事上練磨、自分の置かれたあらゆる場所・場面で修養する。人生いたるところすべてが修養の場、人との応対、仕事の交渉、友人や家族との会話、すべてが自分を磨く舞台となる。良心に生き、心身を修め、自ら依って立つ心に基づき、この世を生き抜くことにある。

 陽明学が日本に持ち込まれたのは江戸時代の初期、近江聖人と呼ばれる中江藤樹、人は誰もが「良知」を持ち、人は誰もが聖人になれると教えた。しかし、江戸幕府は朱子学の「理」を採用した。これを巧みに理論武装をしたのが林羅山、この世は天と地、君と臣、親と子、人間社会は絶対的な上下関係があり、それを崩してはならないという。「理」は全宇宙の絶対ルール、武士が土地を支配し、農民が土地を耕すということも「理」とした。江戸時代の士農工商は身分の差、本来は役割の差、これに上下関係を付与したのであった。

 朱子学は人の関係を上下の関係で捉え、陽明学はすべての人の「良知」を認め、武士にも民衆にも平等に「良知」が存在するとした。当時、中江藤樹は、身分の差は人の価値の差ではないと見抜いていた。このため、藤樹は学問の世界で異端視され、脱藩して商人になり、酒売りと金貸しを始めた。この時、酒を買いに来る客にその日の仕事の度合いを聞き、それに応じて売る量を加減したという。また、金貸しは低利、多くの民は他の高利貸しから借りずに済んだという。同時に、自宅で教室を開き、学問を教えていた。ある時、学問の道の過ちに気付いた。それまで、儒教の聖典に聖人の道を求め、聖典と自分の考えに食い違いがあると、ただ悩むだけであった。心底から納得できない内容は自分の心を裏切ることになり、それは聖人の道ではなく、先に自分の心を信じるべきだという。すなわち、陽明学の心即理に気付いたのであった。そして、それは教えや定めで拘束するのではなく、自然と善に向う心ががあり、学問は自らが「良知」を磨き、聖人になるための手助けをすることだと確信した。

 陽明学の心即理は、人の心は自然に正しき「理」を求め、自分の持つ「良知」(思いやりの心や向上心など)が自然に発揮できる努力をすることが聖人への道であると考えた。それは人の真の道であり、武士の道であり、日本人の心の道となったようだ。心即理は人のあるがままの心が善、心の善を邪魔する欲望を消し去る工夫が必要とする。この消し去るべき欲望は、自己中心的な利己的な欲望である意、自分のためなら何をしても良いという暴力的な行動としての必、他人の忠告に耳を傾けずに反省する機会を自ら捨てる態度の固、自分の殻に閉じこもり他人の気持ちを思いやり理解する努力を一切しない態度の我、この「意・必・固・我」を消し去るべき四つの念とし、これを消し去る工夫が必要であるとした。

 

「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声」
 少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず 未だ覚めず池塘春草の夢 階前の梧葉すでに秋声

 これは「少年だからとて油断しておれば、学問の成らないうちに、いつしか老いはてる。だから僅かな時間といえども軽んじててはならない」という意味、日本で明治・大正時代に青年に愛誦された朱熹(朱子)の作詩とされている。しかし、朱熹の詩文集にこの作品は見当たらない。元和9年(1623年)成立の『翰林五鳳集』(『大日本仏教全書』所収)に収録されている。『翰林五鳳集』は南北朝時代から近世初期にいたる五山詩を集成したもの、この詩は「惟肖」作とされている。「惟肖」は室町前期の五山僧惟肖得巌(1360年-1437年)と考えられ、転句「未覚池塘芳草夢」が異なる。これが朱熹作として登場するのは、明治時代の日本の漢文教科書から、明治時代の教科書編纂者によって朱熹作に改変されたとの報告もある。

 以下、代表的な王陽明の幾つかの詩を列記する。
 
四十余年睡夢の中 而今醒眼始めて朦朧 知らず日すでに停午を過ぐるを 起って高楼に向かい暁鐘を撞く
 起って高楼に向かい暁鐘を撞く なお多くは昏睡して正に茫々
 たとえ日暮るるも醒めることなお得ん 信ぜず人間耳ことごとく聾するを

 これは人間覚醒の詩「睡起偶成」、王陽明が49歳の作とされる。この詩の意味は、四十余年の人生は夢うつつ、いま目が覚めたとはいえ、まだ霧がかかったように朦朧とし、陽はすでに西に傾きはじめたではないか、こうしておられようか、起ってあの高楼にのぼり人間覚醒の暁鐘を撞こう、起ってあの高楼にのぼり人間覚醒の暁鐘を撞こう、なお多くの人たちは昏睡し前後不覚のさま、たとえ日暮れても、目覚めそうになく、しかしこの鐘の音が聞こえぬはずはなく、すべての人々の耳が悉く塞がってはいまい。この時期、王陽明は、反乱勃発で、鎮圧に向かう。何年かの戦闘は王陽明の華々しい功績となったが、その戦功があまりに大きく、人に妬まれ疎まれる。この呪われる我が身、死んでも厭わないが、自分には親がおり、親が迫害を受けると思うと死ぬに死ねないと苦悩していた。

   
餓え来れば飯を喰らい 倦み来れば眠る 只だこの修行玄更に玄
 世人に説与するもすべて信ぜず 却って身外より神仙を求む

 これは道を問われた王陽明の晩年の答えである。腹がすけば飯を食い疲れたら眠る。ただこれだけのこと、しかしこの修行は玄の玄、奥が深い。道とはそういうもの、世の人々に説いても、だれ一人信じない。逆に神秘なことは別の世界にあるとし、わが身外にそれを求める。この真意は、人生何もしないということではない。自然の働きに一刻の休みもない。自分の務めを果たし、為すべきことを為す。これは「無為無欲」「無為自然」の真の意味、この修行は難しく、その道は奥が深く深遠である。

 
「無善無悪是心之体 有善有悪是意之動 知善知悪是良知 為善去悪是格物」
 善無く悪無きは是れ心の体なり 善有り悪有るは是れ意の動なり
 善を知り悪を知るは是れ良知なり 善を為し悪を去るは是れ格物なり

 陽明学の「致良知」は「良知」を全面的に発揮すること、「良知」に従う限りその行動は善なるもの、「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されない。これは「無善無悪」、王陽明は「無善無悪」について、この「四句教」を残した。理そのものである心は善悪を超えたもの、心が発動した意に善悪が生まれ、その善悪を知るものが良知、良知によって正すこと、これを格物という。ここで「無」は存在としての有無でなく、既成の善悪の観念や価値からの自由を意味する。

 
少にして学べは壮にして試すこと有り 壮にして学べば老いて衰えず 老にして学べば死して朽ちず

 これは、江戸時代の古学者、佐藤一斎の「言志四録」にある。学問を身につけること、そのことが社会との関係を深めることを教えている。形式を重視する朱子学は江戸幕府の保護を受けたが、陽明学や古学は幕府に禁じられた儒学であった。しかし、陽明学では知行合一により、形式と心の感情の一体化を大切にした。なお、古学は論語の原典の直接的な解読に心掛けた。

(文責:yut)

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